「伊波さん大丈夫かな……?」
空いた席の食器を運びながら、遠くでテーブルを拭く伊波さんを見て思った。
俺も復帰してもう何日か経って、昨日初めて伊波さんと同じシフトになった。その様子はというと、やはり予想通り、何かがおかしい。何がおかしいのか良く分からないのだが、とにかくおかしい。いつもの伊波さんじゃない。それだけはハッキリ言える。なんというか……疲れているような、そんな風に見えた。もちろん、本人に無理してませんか? とか、それらしく心配してみたのだけど、当の本人は特に疲れていないと断言するし、男を殴っていないで普通に仕事をこなしているとあれば、それは、なにも問題は無いのかもしれないが……。
……とにかく、今日も伊波さんと同じシフトだから、昨日以上によく見ていないと心配で仕事が手に付かない。そう感じながらも俺は迷惑をかけないように一つ一つ仕事を片付けていった。
「あっ……小鳥遊くん、どうしたの? 怖い顔して?」
「えっ……そうですか?」
急に、伊波さんにそう言われる。そんなに俺の不安が表情に出ていたのか。
「っと、それより伊波さん、顔がなんか、赤いですよ? 大丈夫ですか?」
赤いというのは、いつものように照れてではなく、ボーっとした感じで、熱でもあるかのような感じだった。
「えーーホント? 大丈夫だよ~、わたし意外と丈夫なんだから~」
笑いながら軽く一蹴すると、呼び出しの音を聞き、
「あっ……じゃあ、わたし行ってくるね~」
と、スタスタとお客さんの元へ行ってしまった。
本当に大丈夫か? たしかに顔が赤かったように見えたのだが、自分の体調は自分が一番把握しているだろうけど……。あれ位、よくある事なのだろうか?
そんな風に、伊波さんの体調の悪さを断定できなかったのが悪かったのかもしれない。
俺が思考を巡らせている間に、オーダーを取ってきた伊波さんが、さっきよりもより、ボーっとした状態で、半ばフラフラになりながら戻ってくる。そして、オーダーをキッチンに告げると、バタッっと、全身が崩れ落ちるようにその場に倒れた。
「伊波さん!?」
俺は驚いて声を上げた。
「大丈夫ですか!? 伊波さんっ!??」
そう声をかけるが、どうやら気を失っているようで、黙って眼を閉じている。
「……ちょっと、失礼します」
言って、俺は伊波さんの前髪をそっと横にやり、おでこを露出させると自分の手をかざし熱をみた。
手をかざしていると俺の声を聞いてだろう。種島せんぱいやチーフが、様子を見に駆け付けてくる。
「ど、どうしたの? かたなしくん!? あっ! 伊波ちゃん!?」
「小鳥遊くん? 何があったの?」
「オーダーを告げた直後に急に倒れたんです。どうやら、気絶しているみたいで……顔が赤いので今、熱を測っています」
伊波さんの額に手をかざしている所を見られているので、早口で説明した。
「……で、熱はあるの? 小鳥遊くん?」
チーフに言われ、いつまでも手をおでこに添えている自分に気付く。
「あっ……もう良いですねっ」
説明するのに、神経がいって忘れてた……!
焦って手を離してしまったが、離した後でも分かる位に、その手には熱が帯びていた。
「やはり、熱がありますね……」
「どうしましょう……とりあえず、今は混んでないから焦らないで、まひるちゃんを病院に送る事を優先しましょう……!」
おろおろと、焦りながらも的確な指示をしてくれるチーフ。さすが、チーフとしての責任感がある。
「では、俺が連れていきますので、チーフはタクシーに電話をお願いします」
「……わ、わかったわ!」
俺はとりあえず、伊波さんを涼しい場所に移動させると、冷凍庫から、冷えピタを持ってきて貼ってあげた。それからしばらくした所で、タクシーが着いたので、俺は伊波さんを抱きかかえて裏口から出た。多少……いや、かなり恥ずかしかったが、おんぶをするためには本人に一度起きてもらわなくてはならないし、時間がかかる。抱きかかえる方法だと、人に見られなければ特に問題もなくスムーズに運ぶ事が出来る。幸い、キッチンの人間はいなかったし、ホールの人たちは事情を知っているので、冷やかしたりとかは無いだろうし……ちなみに、伊波さんは眼をつぶっているので、誰に何をされているのかもほとんど分かっていないだろう。それが幸いでもあった。
タクシーに乗ると、近くの病院まで行ってもらうよう、運転手に告げた。……と、程なくして、
「あっ……あの、わたしの自宅に行ってください……」
薄目で、弱々しい声で言う伊波さん。
「……伊波さん、起きてたんですか? いや、それは良いとして、病院に診てもらった方が良いでしょう? 熱もあるみたいですし……」
「……ううん、ダメ……病院だと、男の人いっぱいいるし……余計に具合悪くなっちゃう……私、小さいころから病院はほとんど行ったこと無いの……掛かり付けの、お医者さんが家に来るから大丈夫なの……」
なるほど……つくづく大変だな伊波さんも……まあ、そのお医者さんは伊波さんの事を昔から診ていてよく分かっている人なんだろう……ここは伊波さんの言う通りにしておいた方が良さそうだ。
「あーー、運転手さん……やっぱり、彼女の自宅へお願いします、住所は……」
「は~い、わかりました」
っと、今さら気がついたが、運転手さんは女の人か。さすがチーフ気が利いているな。
しばらく、無言の中タクシーは走る。聞き慣れないウインカーの音、特有の匂いに意味もなく緊張する。横を見ると、ぐったり深い息をしている伊波さんがいる。
……なんとも言えない時間。伊波さんの家に着くまでどんな心境で居ればいいんだよ俺は……。いくら、車でもこんな時に限って信号によく引っかかる。そのたびに訪れる何をすれば良いのか分からない時間。具合の悪い伊波さんに話しかけるのもアレだし、なんとも困った時間だ。
「たっ……小鳥遊くん……? そこに居るの?」
「……! い、居ますよ、横に……」
急に話しかけられて驚く。だが、俺が近くに居るという事を知らせるのも果たして良い事なのだろうか……。
「どこ……?」
そう言いながら伊波さんは、左手で座席の真ん中辺りをまさぐる。相変わらず深い息で、ほっぺを赤く染めながら。
俺は困ってしまいなんとなく前に視線をやると、バックミラー越しに運転手さんが笑顔で、イイヨ! イケルヨ! と言わんばかりのウインク、歳に似合わずおちゃめな運転手さんだ。……ていうか、それだったら俺が単に恥ずかしくて困ってるウブな男って事じゃないか。
……いや、伊波さんの体質を差し引いても概ねそうなのかもしれないが……。
まあ、どちらにせよ、ここでずっと俺が困っていたままでは少なくとも運転手さんにはヘタレだと思われてしまうだろう。いや、そんな事で意地を張るのも逆に負けた気もするが……ここは、しょうがない。ただし、どうなっても知らないからな!!
心で強く意気込んで、俺は右手で俺を探す伊波さんの左手をぎゅっと掴んでやったのだった。
「……っ!!」
控えめな、ビクッっとした緊張がその可憐な指先一本一本から伝わってくる。その感情を脳がとらえると、余りに恥ずかしくてパッっと手を放したくなる衝動に駆られるが、その気持ちをグッっと飲み込んだ。落ち着いてきた所で、より深く握りなおす。そうすると、伊波さんはまた少し反応した後、嬉しそうに俺の手を握り返した。
「…………っ」
声も出ない。額から汗が流れる。車内が暑いからかな? そろそろ暑くなってくる季節。最近の北海道は結構蒸し暑いからな。まあ、それでも冬よりかはよっぽど生きやすいけれども。……だから、そう、握った手が汗ばむのもそんな、季節への前触れだよ。なんて言い聞かせる。手を握るとさ、汗が相手の手と混ざったみたいになって、なんだか申し訳ない気持ちになるよね。ああ、そんな事を考えていたね、その時は。
程なく、伊波さんの家に着く。焦っていた俺はとにかく落ち着いて、運転手さんにお金を支払い、伊波さんの乗っている右側の扉を開き、伊波さんの体をまた抱きかかえる。前までの伊波さんであれば、体に触れるなんてありえなかった事だ。何度、体に触ってもおっかなびっくり不思議な気持ちになる。それと同時に、こんなにも華奢な体だったんだなと、直に触れることでより強く思った。
そのまま、抱きかかえて伊波さんの家まで小走りで駆ける。丁度、ベランダに出ていた伊波さんのお母さんが、
「あら? どうしたの?」
驚いて言ったので、
「あっ、丁度良かった! 実は伊波さんが仕事中に倒れてしまって……」
説明して、玄関を開けてもらう。良く考えると、娘さんを抱きかかえて現れるなんて、とんでもない状況に見えたかもしれないが、切迫した雰囲気を感じ取ってくれたのか、何も触れずに、伊波さんの部屋まで誘導してくれた。
「と、とりあえず、ベッドに寝かせますね……?」
「えっ? ああ、はい……」
切迫した状況と言え、やはり、伊波さんを抱きかかえている男とその母という図は当人達からしても、反応しにくい状況だ。伊波さんの部屋まで着いた時、それを感じ取れる位には冷静さを取り戻しつつあった。
次第にそんな空気に耐えられなくなったのか、お母さんはやや慌てて、
「……わ、私は一階に行ってますからっ」
言って、階段を下りた。
伊波さんをベッドに寝かしつけると、安心したような可愛らしい寝顔で、寝息を立て始めた。
しばらく様子を見ていたが、多少顔が赤い事を除けば、特に問題は無さそうだったので、俺は部屋を出て、お母さんに氷枕が無いかと尋ねた。
「いま、持っていくからちょっと待ってね!」
一階からそう声が聞こえたので、恐縮ながら待っている事にした。
なんとなく、伊波さんの部屋を見渡す。年頃の女の子らしい可愛い部屋だ。ピンクや緑、黄色などのカラフルな置物やクッション、本棚には多くの本が収められている、その多くが恋愛小説のようだ。
ふと、部屋の雰囲気を感じていると、前に伊波さんの部屋に入った時の事を思い出す。たしか、あの時は伊波さんが、段ボールに潰されそうになった時に伊波さんが倒れて、俺が様子を見に行った時の事だな……って、もう結構、前の事だな。あれ以来か……なつかしい。……ああ、たしかあの頃は当然、男の姿なんかで行った日なんか伊波さんに近づけないから、女装して(ことりの恰好で)行ったんだっけな……。はあ、そんな事もあったっんだなぁ。
…………ん? なにか引っかかるな……。
んんっ!? まて、という事は……!?
「伊波さんのお母さんには俺が誰か分かってないんじゃ……?」
まてよ……冷静に考えろ。今、俺がここに来る時、お母さんはどんな様子だっただろう?
冷静に思い出してみる。そうだ。俺はここに来る時、名乗っていない。ドアが閉まっていれば名乗っただろうけど、丁度、伊波さんのお母さんが外に居たから、そのまま事情を説明して伊波さんをベッドまで運んだんだ。……さも当然のように。……知らない男が。
となると、お母さんにとって今は、知らない男が娘の部屋に居る状況……!?
……もしかして、この状況……ヤバくないか!?
そんな今の状態を理解した途端、一気に俺の心臓はバクバクと鼓動を始めて目も見開いていたと思う。……いや、ヤバいだろこの状況は。だって、伊波さんはこの部屋はおろか家にだって、父親以外の男は入れた事は無いだろう。伊波さんの状態から見て、それは間違えない。そんな状況で知らない男が部屋に娘と二人っきり!? 不味い、もしかして今、まさにケーサツにでも電話しているんじゃ……!?
そんな推測に俺が至るのは割と当然の成り行きであったと思う。俺は急いで伊波さんの家から出ようと、部屋の扉を開け、逃げるように階段を下り始めた。
その直後だった。
「あ、はい、氷枕……」
伊波さんのお母さんがひょっこりと顔を出す。階段を下りている俺に氷枕を手渡すと、
「それ、まひるの部屋に置いたら……ちょっと、一階で一緒に話さない……?」
そう言って、軽い笑みを浮かべた。
「あ……は、はい!」
引きつった笑いで答えた。お母さんの笑顔が返って俺の背筋を凍らせた。一階にある居間に向かう途中、どう言い逃れしようかと頭をフル回転して思考を巡らせていた。