「ちょっと、座って待っててね、今、お茶入れるから」
「あっ、おかまいなく……」
一階に着くと伊波さんのお母さんは、テーブルを指差しそのまま台所に向かった。俺は言われた通り、テーブルに設置されたイスに腰掛けると、慌ててお茶の用意をするお母さんを眺めた。その様子は、珍しく来た客に教養のある人として振る舞おうとする普通の大人に見えた。
……う~む、普通だな。俺も、そこまで緊張しなくても大丈夫だろうか? 前に一度あった時に特別変わった人ではない(良い意味で)という事は分かっていたのだが、何せあったのは一度きりだし、それほど会話をした訳ではない。伊波さんのお父さんのイメージが強いだけに、もしかしたらこの人も変わった人なのか……? なんて考えるとあながち油断は出来ないのだけど。まあ、とにかく、俺の事はおそらく誰だか分かっていないはずだ。仕事中に倒れたと言ったし、ワグナリアの制服姿の今の恰好からも俺が伊波さんのバイト仲間だと言う事も分かっているだろう。幸い……というべきか何なのか、ネームプレートは伊波さんを抱きかかえる時に邪魔になるので、外してズボンのポケットに入れてあるし……。
「はい……あの、紅茶で良かったかしら?」
そんな風に考えていると、お茶を入れ終えたお母さんが、2つの紅茶を置くと同時に向かいのイスに腰をかけた。
「あっ……わざわざ、すいません」
言いながら、俺は砂糖をティースプーン一杯入れ混ぜると、ひと口頂いた。
「香りも良いですし、美味しいです」
「あら? そう? 良かった! 専門店で私の好みのブレンドで作ってもらっているの」
急に目の色を変えて嬉しそうに言う。
「そうなんですか? なんか、市販の物とは違う気がしましたが……」
「そうなのよ~、これのために、わざわざ地下鉄に乗って、そのお店まで行って買ってきてるのよ? でもね、主人もまひるもあんまり、紅茶好きじゃないの……」
「あーー、そうなんですか?」
紅茶が……というか、自分好みのブレンドにしている事も原因な気もしないでも無いが……。
「そうなの……きっと、まひるはまだ子供だから、この美味しさが分からないのよね~飲む時はミルクティーばっかりにしちゃって、これ、ミルクティー用の茶葉じゃないのに……」
ちょっと、拗ねたように自分の好きな事を語る伊波さんのお母さんは、歳に似合わず、可愛らしい表情をいくつも見せていた。伊波さんがあんなに感情をストレートに出す所は母親譲りなのかなと、見て感じていたのだった。
「なんだか、あなたって話しやすいわ……初めて話すんじゃないみたい!」
目を細めて、俺の心の奥を覗くかのような瞳で見ている。
「えっ!? あはは……俺もです。とても話しやすいですよ」
なんて、本当に初めてじゃあないんだけど。
「でも、まひるに男の子の友達が居るなんて驚いたわ~、あの子、バイトに入ったばっかりの頃は、色々大変だったみたいなんだけど、しばらくしてからはバイトに行くのが大好きになってたの……なんだかバイト先の女の子と仲良くなったらしくて……」
バイト先の女の子……? ああ、種島せんぱいかな……?
「……いっつも、小鳥遊くん、小鳥遊くーん! ってね?」
どぇえぇーー!! お茶飲んでたらふいてるとこだったわー!!
手で顔を隠して、表情を隠す俺。
「……小鳥遊くん……ですか?」
俺が聞くと、
「……えっ? ああ、間違えたわ! 小鳥遊さんよね!? あの子ったら、よく言い間違えて、小鳥遊くんって呼ぶのよ? 女の子なのにねぇ……失礼よね?」
と、慌てて答える。
「あーー、そう言う事ですか……」
なんだ、ばれていた訳じゃなかったのか。
「うちの夫を怒鳴りつけた日の事を、何回も嬉しそうに話すのよ? カッコよかったーって……」
「ああ、そうなんですか」
それはもう、なんだか、すいません……って感じなんだが! だけどそうか……この分だと、やっぱり、小鳥遊さん(くん?)は、女って信じ込んで疑っていないみたいだな……お父さんも女だと思っている訳だからその話も聞いているのかもしれないし。なにより、お母さん本人に女装した姿で会っているしな……!
「ところで、丁度その辺りの事を相談したかったの……でも、誰も相談できる人が居なくて、あなたに相談してもいいかしら?」
気を遣うように下手に出て言う。
俺は、今さらバイトに出る時間は、店に戻る時間を考えると残っていなかったので、
「良いですよ……ただ、その前に、一度伊波さんの様子を見てきても良いですか?」
そう言ってお母さんを見ると、
「あなた、本当にまひるの事を心配してくれているのね……」
なんて凄く感情を込めて言われたのだった。
まあ、俺としてはそれほど大げさな事ではなく、単にこれから長話になりそうだったからその前にもう一度確認したかったというだけの事だったのだが……。
そして、もう一度、伊波さんの部屋に入り、伊波さんがスヤスヤと寝息を立ててグッスリ寝ているのを確認した俺は、氷枕の位置を少し調整した後、部屋を後にした。
「どうだった? まひるは……」
居間に入るとお母さんが立ち上がって聞いてくる。そこまで心配なら自分も見に来ればいいじゃないかと思ったのだが、伊波さんに「お母さんはあんまり部屋に入らないで!」と言われているらしい。実の母にも、いや、実の母だからこそのプライベートを侵食されたくないような思春期の機微なのだろうか……? って、俺はいくつだよ……!?
「気持ち良さそうに眠っていましたよ、多分、起きたら良くなってそうですよ」
なんの根拠もなかったが、伊波さんの寝顔を見ていると問題無いと心から思ったのだ。
「そう……よかったわ! 本当に有難うございます」
「そんなにかしこまらなくても良いですよ……! えっと、それで話ってなんでしたっけ?」
イスに座りながら、一緒に座るように促し、落ち着いた所でお母さんが話す。
「あ、そうね、実はね……まひるって、男の人が、その、苦手じゃない?」
「そうですね」
苦手で済まないレベルだが……それはお母さんも分かっているだろう。
「だからね? 基本的にはお友達の話をするときって、いつも女の子の話なの……でもね、ある時を境に一人の子の事ばかり話すようになったの……それが」
……小鳥遊、俺か。
「小鳥遊さん、なの」
「そうですか……」
「まひるったら、それから小鳥遊さんの事ばかり話すようになったわ、バイトの次の日とかはね……でも、なんだか、その時のまひるの様子がね……普通じゃないの、まるで、恋する乙女なの……!」
「えーっと、それで?」
なんだが、いたたまれなくなった俺は、話を進めようとそう言う。
「それでって……だって、人を好きになる事は良いことかもしれないけど、相手は女の子なのよ? 女同士じゃないの……それが、絶対に悪い訳じゃないけど、まひるは男の子が苦手だから、男の子の良さがまだ分かっていないってだけだと思うの……そんなの勿体ないじゃない!?」
力説するお母さん。
う~む、困ったぞ。これは、俺は何を言ったら良いのやら。
「それは……困りましたね」
「でしょう? もう、小鳥遊さんが本当は男の人だったら良かったのに……」
――なっ!? ……ていうか、本当に男だが。参ったな、実際に起きていない事で、悩んでいる人に対して俺は何て言えば良いんだ……!?
「あっそうだ! あなたなんてどうかしら? まひると仲良いんでしょう? バイト先でも随分お世話になってるみたいだし……あなたもまひるの事、嫌いじゃないみたいだし」
バイト先で、お世話になっている? 俺が伊波さんの事を嫌いじゃない? まだ、会って、一時間かそこらでそこまで言い当てるなんてさすが女性は勘が鋭いってやつだろうか。
「……いや、俺なんてって、何がですか?」
「だから~、あなたが、まひると付き合っちゃえばいいのよ~!」
名案でも浮かんだかの如く、両手をパンと合わせて上機嫌で言うお母さん。
なるほど……そう来たか。
「……でも、良いんですか? 俺で」
「うん、だって、あなた優しいし、絶対良い人よ、私が言うんだもの間違えないわ」
伊波さんのお母さんに気に入られてしまった!
だが、お母さんの話によると、やはり伊波さんは俺の事が好き……なのか? いや、直接本人に聞くまではそれは確定ではない。仮に俺の事を凄く気に入っていてくれているとしても、それはイコール好きではないだろう……?
「お母さん……実は、俺は伊波さんの男性恐怖症を本気で治したいと思っているんです」
「えっ? ああ、そうなの……?」
急に俺がそんな事を言い出したからだろう。きょとん、とした顔で見るお母さん。
「はい……それで、これからも家に来て、伊波さんと話をしたいと思っているんですが」
「あら? でも、まひるの容体は良いんでしょう?」
「おそらく、今回のも男性恐怖症の一種ですからね、バイト中、男の接客中に耐えきれなくなってしまったんでしょう。今、伊波さんは何らかの原因で男を殴れずにいます。それによるストレスか何かが溜まって今回のようになってしまったんだと俺は考えています。なので、しばらくは家で安静にしていた方が良いように思えます」
「そうなの……? ずっとまひるを見てきたあなたが言うのだったらそうなんでしょうね、だったら、まひるの掛かり付けのお医者さんに診てもらった方が良いかしら?」
「それが良いと思います」
困惑した顔で聞いていたお母さんだったが、何かに気がついたように、
「……じゃあ、これから毎日、まひるの様子を見に来てくれるって事ね?」
パッっと、笑顔を咲かせて言う。
「そうなります……それで解決って事で良いですか? さっきの事」
「えっ? ……ああ、そうね。あなたが毎日まひるの男の子嫌いが治るまで傍に居てくれるって事でしょう?」
「はい……それで、もし、治ったらその時にでも、男の人と付き合えば良いんじゃないでしょうか?」
もし、そうなったら伊波さんも俺以外の人を好きになるかもしれないな……。
そう思った瞬間、胸の奥が締め付けられるような感覚……やっぱり、俺は伊波さんの事が……。
「そうねぇ……でも、私としてはあなたと……」
「あ、あの! 顔洗いたいんですが、良いですか?」
そんな気持ちを振り払いたかった。
「えっ? ああ、洗面台なら、そこよ?」
「すいません!」
案内されるがまま、俺は冷たい水で顔を洗った。ひんやりした水が気持ちよく、胸のつかえが取れた気がした。
ふう、えっと、ハンカチハンカチ……ズボンのポケットに手を入れる。それで少し拭いた所で、
「はい、これ……ごめんなさいね、タオル用意していなくて」
「いえ、俺が使わせてもらったんですから、気にしないでください」
顔を拭きながら答えた。
居間に戻り、駆け時計を見ると、もう、バイトも終わる時間を過ぎていた。割と長居してしまったようだ。
「あ……じゃあ、俺、そろそろ家に帰らないと……」
「あっ、そうね、私も晩御飯の準備しなくちゃ……また、明日……かしら?」
「そうですね……バイトが終わったら来ますね」
そう最後に言って、俺は伊波さんの家を出た。
玄関を出て何歩か進んだ時、ふと歩きづらさを感じ足元に目をやると、靴ひもが解けかかっていた。バタバタしていたからかな。そんな風に思い、結びなおし家の横を曲がった時だった。
「ちょっと、待ってーー!」
後ろから大きな声が聞こえた。甲高い聞き慣れない声だったがおそらく伊波さんのお母さんの声だろう。後ろに目をやると、慌てて走ってきた伊波さんのお母さんがそこにいた。
「……えっと、どうしたんですか?」
言うと、俺の方に近づき、
「はいこれ!」
何か、安全ピンの付いた物を渡してくる。……ああ、これはネームプレートか。
「わざわざ、すいません、明日でも良かったのに……」
「そうだけど、一言ね、どうしても言いたくなっちゃったから……」
お母さんはそう言って、ほほ笑む。
何を言ってるんだ? 俺が不思議そうに見ていると、
「じゃあまたね? 小鳥遊くん!」
元気よく、あいさつをされた。
「……? え? あ、はいじゃあ」
なんだか、良く分からなかったが、それで満足そうだったので俺は帰路に就いた。
……なんだったんだろうな? さっきの。ネームプレート位で大げさな……ん? ネームプレート? ……あっ――。
その時、全てに気が付いたのだった。顔を洗った時、ポケットのネームプレートを落としてしまった事。そして、それを見た瞬間、俺が小鳥遊だと分かってしまった事。
「せっかく、上手く誤魔化したのに……」
いや、まだ、苗字がたまたま同じという線が……無いな。明らかに確信した顔だったよ最後に見たのは。
明日も来ると、ついさっき約束したばかりだというのに俺は、早くも自分の発言を撤回したい気持ちでいっぱいだった。
――ま、なるようになるか……。