トレーナー。櫻庭春馬の現在に至る物語です。
鈍銀の欠片
メイクデビューが終わり初の休日。昼食前のトレーナー室には随分と懐かしい来客があり、俺はその接待をしていた。
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天皇賞(春)から一月。中央に帰還した過去の担当「ミスリルリボン」鏑木からその迎えを依頼され、先刻府中の最寄り駅まで向かった俺を待っていたのは、何故か大量の荷物を抱えた鏑木とその担当するチームのメンバーであった。
タクシー代の節約と重荷にひきつった笑顔を浮かべる鏑木に恨みを籠めた満面の笑みで返し、「止り木」のウマ娘を車で学園まで送る。
伏見での出会いが気に入ったのか、車中ではサクラチヨノオーについての質問が戦場を飛び交う弾丸の如く投げ掛けられる。それに答える度に黄色い歓声がわっと上がり、お陰で暫く殴るような耳鳴りが鼓膜を打ち付けて落ち着かなかった。
唯一有り難かったのは助手席で静かにしているミスリルが数を埋めてくれていた事だろうか。
四人乗りの狭い乗用車の中でウマ娘三人と同乗する。端から見れば嫉妬で殺されそうなモノだが、羨ましいと思うなら譲ってやりたいくらいだ。
学園の駐車場で鏑木の荷物をまとめ、彼女のトレーナー室に運ぶ。止り木のウマ娘の助けもあり一度の往復で片は付いたが、殆ど使用される事もなく学園の備品だけが整って配置されている鏑木のトレーナー室には大量の菓子やら土産物が散乱することとなった。
すっかりバテてソファにだらしなく座り込んだ鏑木に文句を付けているところをミスリルに呼ばれ、二人で俺のトレーナー室に移動して現在に至る。
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「何か用が?」
「久々にハルマと話したかっただけ」
「電話で話してるだろ」
「最近は連絡もなかったから」
「メイクデビューが近かったんだよ察してくれ」
木皿から菓子を取って口に放り込み、不満そうに眉をひそめてそれを噛むミスリル。未だ完璧とは言えなくとも、以前より更に達者になった日本語でそれをアピールする彼女は随分感情が豊かになったものだ。
「充実してるみたいだね」
「止り木は良いところだよ。皆同じように辛い現実に直面したウマ娘ばかりだけど、だからこそ支え合って進んでいける。ミチルも私達をよく見てくれているから遠慮なくトレーニングに励める」
「ふむ」
「チームの応援は力になるし、何より同じウマ娘同士でないと得られない経験もある。ミチルに手を借りて良かったと思う」
「なるほどね....先輩は常に君に振り回されてるようだけど」
「疑ってるわけじゃない。ただ私は私の選んだ走りをしたいだけ」
「.....変わったね。先輩に任せて正解だった」
養成所を卒業し、府中のトレセン学園に所属することとなったのは良いのだが、養成所時代の成績もあり初めのうちはウマ娘のスカウトに難儀していた。
今でこそ多くのウマ娘から声を掛けられるようになったが、それも彼女と出会い、共に走った時間があったからだ。
「君が居なければ、今の俺も居なかったと思うよ」
「それは私も同じ。この走りを認めて、応援してくれたのはハルマだけだったから」
ミスリルリボン
カナダから海を越えて日本を訪れた彼女は、転入から間もなく良悪の二面で注目を浴びることとなった。
転入当初は海外のウマ娘と言う稀有な存在への期待の眼差しを向けられていたが、それも彼女の走りを目にした者からは次第に薄れていく。
ステイヤーとしての確かな才能に対し、彼女が扱う追込の戦術はトレーナーにとってクセのある走りであり、その稀な走りを指導すると言うのは経験の薄いトレーナーからすれば利益は低く、失敗すれば自身の名声と信頼にも傷が付きかねない。レベルの高いトレーナーの集う中央に、それだけのリスクを背負ってまで声を掛ける酔狂な者がいるはずもなく、スカウトの状況も芳しくはなかった。
その彼女と出会ったのは二度目の選抜レースの日だった。
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四半期の半ば、一度目の選抜レースで担当のスカウトが叶わなかった俺と対照的に、同期のトレーナー陣は次々と担当ウマ娘との契約を結んでいた。
小雨の降るターフを駆けていくウマ娘達のレースを眺め、マークするべき相手をメモに記録していく。手帳に並んだウマ娘を尋ねてはスカウトを試みるが、彼女達の反応はお世辞にも良いものとは言えず、同じく学園所属のトレーナーに席を奪われていった。
全てのレースが終了し、結果は惨敗。トレーニングの相手もなく仕事を終えて一人、コンビニ前の屋根の下でコーヒーを飲み喉を潤す。
薄い雨雲は白んだ灰の色で空を隠し、涙のような雨を降らす。
店内に戻る事すら億劫になり、買ったばかりのビニール傘の包みを破いたところである人物が目に入った。
ウマ娘だ。背の中ごろまで伸ばした銀の髪を持つ彼女は、乱れの無い整った歩幅と速度で歩き、俺の隣で海月が泳ぐようにふわりと小さく会釈をしてコンビニへと入っていく。
「......ミスリルリボンだったか」
手帳を取り出し、付箋紙の付いたページを開く。
カナダから転入。レース結果 二着
ステイヤー 追込 芝
他のウマ娘に比べて情報が少ない。
店を振り返ると薬品コーナーで探し物をしてしゃがむ彼女の耳が動いているのが見えた。
半分程までかさが減り、湯気も消えかけたコーヒーに口を付け、僅かに啜る。
「.....」
渋みの増した味に口元が歪むのが自分でも分かる。
その味が上手く運ばない物事に踊らされる自身の現状を溶かしたモノのように感じられ、無性にその黒い水面を眺めているのが嫌になり一息に飲み干して深く息を吐く。
「.....食べる?」
濡れた地に落とした視界に、白い手と小さなビニール包みのチョコレート菓子が差し出される。
手の主を振り向くと、そこには俺を覗き見るように身を屈めた先刻のウマ娘が居た。
艶のある透き通る様な白い肌。紫水晶を思わせる深く輝く瞳。高い鼻と頬骨。
それまで見てきた日本人の顔とは異なる整った顔立ちに、海外生まれの女性とはこれ程に綺麗なモノかと驚かされる。
どことなく耳に引っ掛かる訛りを含んだ言葉は鈴のように静かで、けれど鼓膜を揺らす凛とした声は吹き抜ける風のようにひんやりと澄んでいる。
「苦手じゃないの?コーヒー」
「いや.....違うけど」
「そう」
「君が食べれば良いんじゃ」
「私の為に買った物じゃない」
「むぅ」
否定しても手を引っ込めない彼女に促すが、淡白な返答にこちらが困惑する。
「トレーナーだよね。選抜レース、結果はどうだった」
「惨敗。落ちこぼれトレーナーに席は無いってことかな」
「落ちこぼれなんだ?」
「生憎と才能無しでね。そう言う君は?トレーナーがいるならこんなところで油を売っていても仕方ないよ」
「貴方と同じ。レースで結果を出せれば少しは変わるかと思ったけど、勝負は今回も二着だったし、トレーナーからの誘いも無し。この走りは曲げたくないけど、かといってこのままじゃトレーナーも付かない」
「それはご苦労な事だね」
「.....貴方はどうするの?また担当探し?」
「どうだろうね。府中に所属したのも推薦で決まった事だし、このままトレーナーとして結果が出せないなら上に掛け合って異動させてもらえればと」
「随分簡単に言うんだね」
「元々地方志望」
なるほどと呟いてウマ娘がわざとらしく考えるような所作をする。
「なら私に手を貸して欲しい」
「......適当に頼んでるなら考え直した方が良いよ」
「どうして」
「落ちこぼれトレーナーだから。わざわざ親御さんの下を離れてまで日本に来たのに、それをふいにするのは君のためにならないよ」
「このままトレーナーが見つからないままなよ
りはずっといい」
「そうかもしれないけど、他にも君を選んでくれるトレーナーはいる筈だ」
「私は貴方の才能が本当に無いのかも知らないし、貴方だって中央のトレーナーで居た方が利益は大きいはず」
「利益でモノを見てる訳じゃない。それに才能の有無だって、養成所での試験結果が全て物語ってる」
「その結果が合う相手が居るかもしれない」
「....頑固だね」
「まともに話を聞いてくれるトレーナーなんて久々だから」
「.....分かった。取り敢えず話だけ聞くよ。契約はそれから」
「学園に戻る?」
「それ以外どこがあるの」
「貴方の家」
「冗談。女の子を上げるには酷いゴミ屋敷だよ」
ビニール傘を開くと、隣の彼女も赤い傘を開いて歩き出す。
「食べる?」
「君が食べなって」
「話してくれたお礼」
「.....どうも」
しぶしぶ彼女の手からチョコレートの包みを受け取り、中身を口に含む。
カカオの苦味が冷めたコーヒーの渋味を上書きし、つられて鬱々とした気分も顔を潜める。
隣を歩く彼女は、先刻と変わらず乱れの無い歩調のまま話を続ける。
「その歩き方。疲れない?」
「ずっとこうだったし今更。皆みたいに歩けと言われる方が大変かも」
「......レースで使えると思うけど」
「初めて言われたかも」
「そんなわけ無いでしょう」
軽い口調で言うが、一定のペースを維持して走り続ける事はレースに於ける壁の一つだ。
環境や周囲の状況一つでパニックに陥るウマ娘や、緊張感に押し潰されて自身の走りを見失うウマ娘が居る中、それを走りでは無くとも自然に成せる彼女の力は一つの才能と言える。
「ペース配分には自信がある方?」
「教官からは好評」
「なるほどね」
選抜レースでも乱れのない序盤の走りは多くのトレーナーの目を釘付けにしていた。それでもスカウトに至らないと言うのはどうにも引っ掛かる。
「それだけの実力があるなら戦術なんていくらでも考えられると思う。最序盤から飛ばす逃げは無理があるとしても、先行や差しの戦術なら採用しても良いと思うけど」
「他のトレーナーにも言われたけど、それが嫌だから断ってきた」
「嫌だからって.....」
「私には私の目的があって、トレーナーには各々のやり方がある。お互いに納得のいく相手と組めば良いと思っていた」
「でもそれが難しいと実感したわけだ」
口では落ち込んでいるように呟くが、頷く彼女の表情はとてもその事実を悲観しているようでも、自身の選択を悔いているようにも見えない。
「ついでに言えばそれを後悔するつもりもないと」
「私はこの走り以外で勝つつもりはない」
「強情だね。で、その理由ってのはあるんだよね?」
トレセンの門を潜り、校内の廊下からトレーナー室へ案内する。
割り当てられてから模様替えをするわけでもなく使っている部屋。棚の上で縮こまるように置かれた飾り同然のコーヒードリッパー。ホワイトボードの足下には実家から持ち出した教本を詰め込んだ段ボールが積まれている。寂しげに隙間が広がる本棚には最低限の資料を並べるばかりで、いざ段ボールの中を開けば所狭しと納まった教本の海に辟易し、それを棚に納める事すら億劫になる。果たす役目もなく、目立つ汚れも少ない新品同然のソファに彼女を座らせる。
ソファも府中への配属が決まった際に奮発して購入したそこそこの値段がするインテリアだった。今では安物ばかりが並ぶ部屋で異彩を放つそれに、配属当初の俺の期待が伺える。
担当が付かない理由も、そうして冷めていった意識の有り様が問題なのだろうと考えると、熱意を失った自身が情けなくて仕方がない。
「面接?」
「そんなところ。飲み物は」
「何があるの?」
「コーヒー」
「他には」
「......無い」
「ならコーヒーで良い」
テーブルにコーヒーを置いて対面に座り、質問をする。
「もう一度説明と質問をする。君の実力があれば、追込の戦術を使わなくても好走が出来る。今回の選抜レースの結果も変わったと思う。それでも追込の戦術を使ったのはどうして?」
「私の目的を達成する為にはあの走りがベストだから」
「なるほど.......ならその目的ってのを聞いても?」
「カナダの両親との約束」
「ご両親と」
「父さんはストリートパフォーマー。母さんはマジシャン。二人とも人気のエンターテイナー。家に居ることは少なかったけど、私が小さい頃にはマジックと芸を見せてくれたの。近所の子供たちの前でも、大勢の集まる舞台でも、いつも皆に笑顔を贈っていた。私も二人のようになるのが夢だった」
「なら同じようなパフォーマーになることも出来たはずだけど、それを考えなかったのはどうして」
「......」
「意地の悪い質問なのは分かってる。答えられるなら教えて欲しい」
「分かった」
想定外の反応に俺が面食らっているうちに、彼女は淡々と胸中を語り始める。
「私は走る事が好きで、カナダに居た頃はクラブでもよく誉められた。走る事で私の活躍を喜んでくれた両親にお礼がしたかったし、何より二人を喜ばせられたそれが、私に出来る最高パフォーマンスだと思った。だから私は、ウマ娘として走る道を決めた」
「....ふむ」
「それと、どうして私が皆と変わった走りをするのかだったよね。それも話すね」
「ああ......嫌じゃないの?」
躊躇いもせずに話を続けようとする彼女にそう問いかけるが、彼女は不思議そうに首を傾げる。
「どうして。隠すような事でもないでしょう」
「そうだけど、それで幻滅されるとは考えないの?」
「仮にそうなったならそれだけの事。私から頼んでおいておかしな話かもしれないけど、私の我が儘に付き合って、後になって後悔されてもお互い苦労することになる」
「随分と思い切ってるんだね」
「当然。トレーナーにとっても大切な選択だから、それを強制するつもりはない」
何一つ隠すつもりはないと、彼女の目は痛い程真っ直ぐに俺を見つめている。
一度聞いた手前、それを阻んでしまうのも彼女の覚悟を無下にするようで気が引けた。
「続けていい?」
「ああ。お願いしていいかな」
「分かった」
彼女は静かにコーヒーを口にして、再び話し始める。
「性格が悪いと言うか、あまり褒められるようなことじゃない。私の走りは、真剣に走っているウマ娘からすればふざけているように思われる」
「ふざけるって....でもその走りに拘るほど、君は向き合っていたんじゃ」
「見る人に笑顔を届ける走り。その為に私は追込の作戦を使うことにした」
「.....笑顔をを届ける?なら追込に拘る必要はないと思うけど」
「初めは色々な走りを試した。でも皆に笑顔を届ける走りは難しかった。常に勝ち続けられる訳じゃないし、実際にトレセン学園に転入してからもそれを改めて実感させられた」
「それと君の走りに関係が」
「人の心を動かす走りをしようと思った。仮にこの脚で勝てなかったとしても。届けられる思いが喜びだけじゃなくても、誰かの心に残って、その心を動かせる力のある走りを」
「......」
「でも、それが良くなかったんだと思う」
レースで見た彼女の走り。最後尾から離された距離を走り、第三コーナーの直前に猛然と加速し、集団を抜き去ってゴールラインを突っ切った姿。
それがスタートで出遅れたウマ娘の走りとは到底思えず、気付かないうちにメモ帳に記録し、記憶にも刻まれていた。
「記憶に残る走り。確かにトレーナーの注目の的ではあったんだろうね」
「活躍の場を独占されるのは本意じゃないと思うし、それを良く思わないウマ娘もいる」
「.....トレーナーからすれば、チームを持つうえでデメリットが多い。スカウトを躊躇うのも頷ける.....ごめん。君を悪く言いたい訳じゃないんだけど」
彼女にしてみれば酷い話だろう。多くの夢や決意を束ねて生み出した走りを利益やら効率やらと真正面から向き合う事もなく頭ごなしに否定されるのだ。納得しろと言う方が無理な話だろう。
「気にしない。他のトレーナーからも同じような事を言われたから」
彼女は眉一つ動かさず、燃え尽きた灰のように無機質な表情で淡々と言葉を紡ぐ。
「.....何だろう。悪い気がしてきた。初めは何がなんでも貴方をトレーナーにするつもりでいたけど、ここまで真面目に相手をしてくれるトレーナーもそういない.....そんなトレーナーの人生を振り回すのも何だか違う。ごめんなさい。やっぱり忘れてくれていい。もっと素敵なウマ娘と出会ーーー」
「もう一度聞かせてもらっていいかな。君の夢を」
ソファを立ち上がり、隣を通り過ぎようとした彼女を呼び止める。
「俺が聞いたのは皆を喜ばせる走りをしたいって夢。でも今はそうじゃないよね」
「うん。もっと意地の悪い夢」
「ならそれを教えて欲しい」
「.....誰かの心に残る。誰かの心を動かせる走りをしたい。周りのトレーナーから、ウマ娘から何と言われても。レースで勝利して浴びせられるのが歓声じゃなくても。父さんと母さんみたいに笑顔だけを届けられないとしても」
覚悟の籠った呼吸の後、彼女は俺を見下ろして口を開く。
「それでも私は、二人のように誰かの心に響く走りをするウマ娘になりたい」
その一言に覚悟を決める。求めていた答え。それを上回る答えを彼女は与えてくれた。
「分かった」
それを断る理由は無い。
彼女の正面に立ち、雪のように白く端正な顔に向き合う。
「叶えよう。その夢、俺に手伝わせて欲しい」
「....いいの?」
「構わない。君の夢を。そのゴール地点を見せて欲しい。どんな走りでも、きっと俺が支えて見せる」
呆然と言った様子で首を傾げる彼女に手を差し出す。
「よろしく。ミスリルリボン」
その声で我に返った彼女は俺の手をゆっくりと取ってから一つ息を吐く。
「名前、聞いてなかった。教えて?」
「春馬。櫻庭春馬だ」
「ハルマ....分かった。よろしく。ハルマ」
刻み込む様に、飲み込む様に彼女は俺の名を口にして微笑む。
「一安心....ってやつ?」
「お互い」
●
「今思えば随分無責任だったな」
「信じた私も私」
「焦っていたからかな」
「それはハルマだけ。私は次の選抜レースがあったから」
「.....ミスリル。聞いていいか?」
「何?」
それまでの軽口を封じ、ソファに預けていた背を伸ばす。
久々に彼女と二人で話せる機会に、一度確認しておきたい事があった。
「何度も聞いたけどさ、後悔してないのか?」
「....何を?」
「俺をトレーナーにしたことだよ」
「私も何度も言ったと思う。これっぽっちも後悔なんてしてない。ハルマで良かったといつも思う」
「変わってるな。普通はトレーナーを恨むモノだと思うが」
「恨む理由がない」
俺の態度が可笑しいのか、彼女は静かに笑っていた。
「監督責任だって言ったけど、ハルマは何度も私を止めていた。それでもトレーニングを続けて、その結果があの怪我だった。私がハルマに従っていれば良かったのに、それをしなかった私の責任。ダービーを取れなかったことも、ハルマと離れてトレーニングをすることになったことも。違う?」
「......」
「他のトレーナーと担当の事も見ていたし、あの時に見捨てられることも覚悟した。でもハルマはそうしなかった。ハルマに出来る事を中央を駆け回って探して、頭を下げてミチルにトレーナーの変更を頼み込んで、その後も一人で私の為になることを探し続けてくれた。目のクマもその時の物だってミチルから聞いた」
「夢を捨てる事だけはして欲しくなかった。だからだよ」
「私は、ハルマの担当になれて良かったと思う。何があっても私を支える。それを最後まで守ってくれたハルマで良かった」
「優しいと言うか。甘いと言うか.....」
「ハルマが居たから、私は天皇賞で勝利できたし、トレセン学園にも戻ってこられた。担当の肩書きが無いだけで、まだハルマは私のトレーナー」
「そうだとしても、今の担当は先輩だからな」
「分かってる」
「分かってないだろ」
「......」
「黙るなよ」
苦笑すると、ミスリルは俯き加減だった顔を上げて不満そうに歪んだ表情で目だけで俺を睨む。
「チヨノオーはどう?」
「それはどういう?」
「スカウト。ハルマからじゃないでしょう?」
「化けると思う」
「女の子を怪物みたいに言うのは良くない」
「憧れの人が「怪物」だからな」
「.....マルゼンスキー?」
「ああ、同じ舞台で走るのが夢だって」
「ふぅん?」
「君から見てどう?」
「見た目だけでは分からない」
思えば「止り木」に移籍してからは鏑木のレース観戦の付き添いや通院に忙しく、ここ数ヶ月はずっとリハビリ続きで学園で見ることもない。久しく画面を通さず姿を見たのはつい先月の伏見のレース会場でだ。
「メイクデビューの日は取材で動けなかったけど、ミチルは良い走りだって言っていたよ」
「そうか。なら良かったよ」
「いかにもハルマの教えた走りだって」
「何かの嫌味かねあの女」
「誇らしいんだよ。自分のやり方を信じてくれるトレーナーが居るのが。それが自分の後輩なんだから尚ね」
「上手い事言うよな」
「ミチルは素直じゃないだけ。本当はハルマの活躍を喜んでいる」
「そうかい」
「ハルマ。私も聞いていい?」
それまでの笑みを含んだ声から一変し、再び静かな声で彼女が口を開く。
何度も聞いて来た言葉の続きを促す。
「私、またハルマと走れる?」
「....いつかはな」
「そう。ならまだ走り続けないとね」
「無理して脚を壊さないでくれれば俺はそれで良い」
「楽しみにしてる。ハルマも期待してて。天皇賞よりも成長した走りを見せてあげる」
ミスリルがソファから立ち上がり、柔らかに一礼をしてトレーナー室を出ていく。
「秋の天皇賞もチヨノオーと観戦に来ると良い。今より何倍も面白いレースを見せてあげる」
「最高のエンターテイメントを期待しているよ」
「任せて。歓声で会場を占領させる」
不敵に笑う横顔は、鏑木のそれによく似て頼もしくも腹立たしく感じる。
「ハルマ。チヨノオーの事。何かあったら私も手を貸すから。頼ってくれて良いからね」
「それはどうも」
トレーナー室の扉が閉まり、しんと寂しげな空気が訪れる。
「頼る....ね。ますます遠い所に行ったみたいだ」
テーブルに置かれたままのマグカップからコーヒーを飲み干す。
長話の中ですっかり冷めた渋い味は、思い出の中の景色を想起させる。
ミスリルリボン。新たな舞台に立ち、華々しく道を進む過去の担当ウマ娘。
その成長を誇らしく思い、同時にその隣で歩いていた自身が置いていかれているようで情けなくも感じた。
「....あいつ」
テーブルの上に置かれた四角形の小さなビニールの包み。待っていたとでも言わんばかりに鎮座するそれは、あの日ミスリルから受け取ったチョコレートだった。
包みを開け、口に放り込んで噛み砕く。
ゴリゴリと音を鳴らしていたチョコレートは舌の温度に溶かされ、次第に口内に広がる。
ウマ娘としても、パフォーマーとしても成長した彼女が更に遠退いた気がした。
正直に言うと本編の遅れはこっちを書いてたのが原因です。
まさか本編より先に番外編が構想完成するとは思わなかったです。長々お待たせいたしました。