「学園長……ですか?」
目の前に差し出された契約書、その一面に記載された役職。
耳慣れないそれを反復してみると、対面に腰かける秋川理事長は威厳たっぷりに頷いた。
「肯定ッ!来年度から正式に設けられる運びとなった!詳細については君自身も把握していることだろう」
「ええ、それは勿論」
彼女が理事長の座についてから既に十年以上も経つ。
その間、レースの本場であるイギリスからフランス、アメリカ、ドバイ、香港等々業務の合間を縫って世界中のレース開催国へと盛んに足を運んでいた。その甲斐あってか、現在のトレセン学園と海外との交流は昔の比ではないほど盛んになっている。
もっとも、かのアイルランドから王族が留学してきていた時点で、十年前とて大概だった気もするが。
要するに、秋川理事長は今とても忙しいのだ。
人並外れたキャパシティを誇り、昔から仕事一筋で生きていた彼女であるが、事ここに至っていよいよ限界が訪れたらしい。
故に、理事長はURAや国内の外部団体、それから海外機関との渉外に専念するとして、代わって学園の管理監督を担う学園長という席を新しく設置することにしたそうだ。
かくいう私も、URAの中枢においてその過程に大いに携わってきたものだから、こうして声がかかるのも頷けるが……
「より適任の者が他にいるのでは?私はまだ若輩の身ですから」
「なにを言う。本件について、最も尽力してくれたのは他ならぬ君ではないか」
「それはそうですが……」
大学を卒業し、URAに就職した私は数年間海外を渡り歩いていた時期があった。
勿論、業務の一環としてだ。幹部候補生として、知識や見聞を深めたり新たに人脈を構築したりすることが目的であり、所謂出世街道というものである。
その時の経験が、まるっとここ数年間の理事長の仕事に活かされたのは確かだった。お陰で私は、二十七というこの歳にしてURAの副会長にまで抜擢されている。
もっともそれは、私が運営部門において挙げた功績のほか、学生時代に取得した資格、さらには現役時代に築き上げた記録や名声もまた大いに絡んでいるものであるが。
……現役時代、か。
一瞬、あの日々が脳裏で揺らめき、思わずため息を溢しかけた寸前で我に返った。
いけない。よりにもよって理事長の目の前で、そんな態度を見せるわけには。
しかし、ひとたび沸々と込み上げてきた後ろ向きな感情は、鉛のような重さを孕んで私の胸にずっしりと沈み込んでくる。
「君にとっても悪い話ではないと思うが?」
理事長のその言葉に返事をしようにも、喉の辺りに突っかかって出てこない。仕方なく、首肯だけで理解の意を示す。
トレセン学園はURAから見れば下位団体。とは言え、そこの学園長ともなれば、今の副会長という立場とは比較にならない程の裁量権と発言力が手に入るだろう。栄転と呼ぶに差し支えない。
私の理想を成し遂げるにあたっては、そういった権力が必要不可欠であるし、故にここまで一心不乱に猛進してきたのだ。そういう意味でも、この度の誘いは一も二もなく引き受けるべきだ。理屈で考えるなら。
「一晩だけ、持ち帰らせて頂いても宜しいでしょうか」
……それよりも、感情が私を縛りつける。
理事長に代わって、学園の運営を統括するのが学園長の役割。その業務の管轄は組織の全般に及び、そこには当然ここ中央に所属するトレーナーも含まれる。
必然的に、出会ってしまうのだ。
私のトレーナーと。否、私のトレーナーだった・・・人と。
私がこの学園を卒業してから既に十年余り。
初めて担当したウマ娘が無敗三冠かつ七冠バということもあってか、あの頃から既にそれなり以上の名声を得ていたトレーナー君。
私が彼の元から去った後、数えきれないほど大勢のウマ娘たちを育て上げた結果……今ではもう、中央の顔と言っても過言ではない程の名トレーナーとして名を馳せている。風の噂によれば、全国でも五指に入るレベルのチームを率いているらしい。
らしい。などと曖昧な表現になってしまったのは、私はもうずっと彼のことなど調べもしていなかったからだ。それどころか、意図的にその近況について知ることを避けていた。
それでも仕事柄、どうしても耳に入ってくることはある。特にここ数年はそれが顕著だった。URAの最高幹部たる私にまでその情報が上がってきているのだから、八面六臂に大活躍しているという噂は事実なのだろう。
……ほら、まただろうなどと曖昧なことを。
つまらない未練だ。
あれだけ手放す気の無い、大事な杖だと豪語しておきながら、いざ別れた途端に目もくれないとは。もう少しで三十になる、いい歳した大人のやることだろうか。
それを自覚していながら、なおも私は彼の現在を知ることが怖かった。それ以上に、こんな無様な私の現在を彼に知られてしまうことが怖かった。
私が拝命を躊躇している理由もそこに尽きる。
同じ職場、上司と部下の関係。トレーナー君の地位が高ければ高い程、彼と顔を合わせる機会は多くなる。
これまでのような、知らんぷりを決め込むことはもう出来ない。ともすれば毎日のように相対することとなるだろう。
「はぁ………」
ああ、しまった。
許容量を越えて溢れた憂鬱が、ついに外側へと流れ出る。溜めに溜め込んだ末に解き放たれたそれは、私が想像していたよりもずっと重々しかった。
「シンボリルドルフ……だ、大丈夫か……!?」
「ええ、ご心配には及びません。ありがとうございます」
不安そうに瞳を揺らしながら、こちらを労ってくださる秋川理事長。
私が現役時代、胸の辺りまでしかなかった背丈は、今ではもうぴったりと目線があってしまう。
帽子のぶん向こうがやや大きいだろうか。あれだけ幼さを心配されていた彼女も、いつの間にかすっかり貫禄が身についていた。
翻って私と言えば、学生時代の恋心をいつまでもいつまでも引き摺り続けて。
大学生ならそれも可愛らしいの範疇なのだろうが、この歳になるとただ痛々しいだけだろう。エアグルーヴなど、とうの昔に結婚して今では片手に収まらない数の子宝に恵まれているというのに。ブライアンだって、まだ子供はいないにしても、すっかり身を落ち着けておしどり夫婦をこなしている。
マルゼンスキーの娘は可愛かったな。日本に帰って来る度に何度も抱かせて貰ったが、いつも小さな手で私の襟元をぎゅっと握り締めてきた。
他の面々……オグリキャップの娘は面倒見が良くて、タマモクロスの娘は親に似て元気が良かった。アグネスタキオンの娘は、親譲りの利発さが印象的だな。
ああ……私だけ。私だけなんだ。
これも覚悟して歩んできた道。悔いはないが……それにしても寂しいな。
「……うむ、だいぶ疲れているようだな。本日はここまでとしよう。仕事終わりに呼びつけて済まなかった!」
謝意ッ!と二文字の表れた扇子がバッとかざされる。
「いえ、こちらこそお手数おかけして申し訳ございませんでした。ひとまず、こちらは持ち帰って検討の程を」
「うむ!よい返事を期待しているぞ!」
目の前に置かれていた契約書は、とりあえずファイルに綴じて肩にかけたバッグの中に丁寧にしまっておく。
そのまま高笑いと共に自身を扇ぐ彼女に深々と一礼して、私は理事長室を出る。
廊下の窓から見える外界の景色は、もうすっかり日が落ちて暗くなっていた。
帰り際、当代の生徒会長に挨拶しておこうと思っていたのだが、この時間に訪れたところで迷惑なだけだろう。また明日、ここに来た時に寄っていこう。
かつん、かつんとハイヒールの音を響かせながら、蛍光灯で照らされた階段を下っていく。
踊り場に出ると、ふと目についたのは壁に嵌め込まれた姿見。なんとはなしに、自分の姿をそこで確かめた。
すっかり板についたノーネクタイのスーツ姿。首からは来校者のネームプレートをぶら下げていて、既に自分はこの学園の関係者では無いことを改めて自覚する。
そうだ、皇帝シンボリルドルフは過去のウマ娘なのだ。会長会長と呼び慕ってくれた後輩たちだって、とうの昔に巣立っているわけだから。
彼女らは今どうしているのだろう。元気にしてくれていると良いのだが……なんて、他人のことを気にしている場合ではないか。
「ふふっ」
それにしても、見た目はあの頃からほとんど変わっていないな。と言ってもあくまで主観だから、外から見ればだいぶ様変わりしているのかもしれないけども。
三十路も視野に入ってきたところだが、まだまだプロポーションは全盛期のそれを保っている。
レースを引退したとはいえ、それでも忙しい合間を縫ってトレーニングは欠かしていない。皆の模範として見られているという意識もさることながら、それ以上に競技ウマ娘としての矜持があった。
誰に見せるわけでもないとは言え、それでもだらしない体に甘んじるつもりは毛頭ない。
ただ、そんな中でも二箇所だけ変化を見せている部位があった。
そっと、自らの胸に手をやり、やんわりと揉みしだく。次いで臀部に手を下ろして同じように。
「…………………はぁ」
使いもしないのに、やたら機能が拡張しているのはなんの嫌がらせだろう。外国の紙幣を大量にポケットに突っ込まれたような気分。
せめて、学生時代にこれだけのものがあったら、きっとトレーナー君だって………無理か。
彼がそれであっさりと陥落するような男なら、私はこんなことになっていないはず。
「………帰ろう」
放課後の本校舎。それも階段の踊り場で何をやっているんだか、私は。
姿見の前でひたすら自分の体をまさぐっているなんて、どこからどう見ても不審者そのものだ。天下のURA幹部がこんな様でなんになる。気合いだ、気合いを入れ直さないと。
頬を叩きながら、本校舎の玄関を後にした。
街頭がぼうっと辺りに投げ掛けられる中、そよそよと涼しげな風に目を細めつつ学園の敷地を横断していく。
途中に立て掛けられた看板には、校舎から学生寮、そしてターフまでの方向と距離が示されている。長らく風雨に晒され続けてきたためか、赤いペンキは所々剥げて色褪せていた。
さらに進んでいくと、飛び出したのはちょっとした広場。足元にある誘導灯の光が植え込みの花を下から照らしている。すぐ側にあるのは自販機とベンチ。誰かが忘れていったらしき、緑のストップウォッチが台座に転がっている。
ああ、なにもかもが懐かしい。
押し寄せる郷愁の念に心が砕かれそうだ。
海外を巡っていた時。イギリスにフランス、そしてアメリカにと各国のトレセン学園に所属したが、やはりどれも独自色が豊かで、日本のそれとはあまりにもかけ離れていた。
最低でも月に一度は日本に戻ってきていたため、特にホームシックのようなものにかかることも無かったが。ただどうしても、ふとした瞬間にここの景色を思い起こすことは止められなかった。
そうしている内に学びの旅も終わり、本部に帰還してからはひたすらレース競技の運営に邁進して。
あまりにも多忙だった故か、この学舎に思いを馳せることも無くなって久しいものの……まだ心はここに囚われていたということか。
しかしそれも、今の私には未熟のように感じられる。トレセン学園に未練を覚えるのは、あの頃から成長できていない証ではなかろうか。
生徒会長として、皇帝としてここの頂に立った日々が人生の絶頂だったなどと、そんなこと決してあってはならないと言うのに。前に進み続けてきたというのは自惚れだったのかな。
興奮が鳴りを潜め、代わりにまたあの鉛のような重さが蘇ってくる。
こういう時、トレーナー君ならどうしてくれただろうか。
そんなことないよと、優しく頭を撫でてくれるのか。それとも、なにを腑抜けたことをと叱咤激励してくれるのか。昔なら簡単に予測がつけられた彼の言動も、ふと気がついたら想像すら出来なくなっていた。
そうだ、彼と別れて十年近くも経つのだから。
どれ程かけがえのない思い出であっても、いずれ擦りきれる時がくる。今ではもう、彼の声すら朧気だった。
それが無性に寂しくて。
俯いて顎に指をやり、必死に記憶の底にあるレコードを掘り起こして再生させる。
記憶力には自信があるんだ。たしか、トレーナー君の声は―――
「ル、ルドルフ?久しぶりだ……な?」
ああ、そうそう。まさにこれだった。
ちょっと低いような気もするが、まぁ許容範囲だろう。
満足して、俯けていた顔を上げる。
そこには、先程まで見当たらなかった人影が一つ。
髪型も、纏う雰囲気も全く違う。だけど私は、一度見た顔は絶対に忘れないんだ。この男性はまさしく。
「トレーナー………君……?」
ああ、うん。久しぶり………だね。