私が家を借りているのは東京のさらに中心部だ。
なので、少し足を伸ばせば大抵の物は手に入る。一人暮らしなら日用品の買い出しもたかが知れており、私が車をもて余しているのにはそういう事情もあった。
「ある程度覚悟はしていたが、想像以上に種類があるもんだな。しかもそれぞれに意味まで」
「直営店だからね。スタッフの造詣や知識も深い……と言っても、私もここに来るのは初めてだが」
そんなわけで、トレーナー君と私は近場の路面店に足を運んでいる。
今日は車は使わない。大事な買い物なのだから、行きも帰りもさっさと終わらせてしまうのは勿体なかったから。
トレーナー君と足並み揃えて、少しでも長くこの時間を共有していたかった。
天井に吊るされたシャンデリアの華やかな光が、案内された個室を満遍なく照らしている。煌びやかでありながら、同時に上品さも醸し出す絶妙なデザイン。
その真下のソファで肩をくっつけながら、スタッフに渡されたカタログをパラパラと捲っていく。
てっきりショーケースを眺めて選ぶものかと想像していたものの、聞くところによれば今はこのスタイルが主流なのだとか。
外観のみならず、個々の指輪にあしらわれた宝石の名前や産地、石言葉まで一度に知ることが出来るので、成る程確かに合理的だと思う。
「どうだルドルフ。なにか気に入った物でも」
「う、ん………そうだね。いざこれと決めるとなると、やはり難しいな……」
「焦ることはない。納得いくまで時間をかけるべきだ。なにしろ一生ものなわけだし」
「ああ。大丈夫。分かっているとも」
スーパーで食品を見比べるのとではわけが違う。まさしく二人の縁を象徴するものである以上、半端な気持ちで選択するのは私自身が許せない。
彼の言葉の通り、一生ものの買い物だ。
最後にこんな買い物をしたのは……たしか、あの車を購入した時のことだったな。その前はマンションの賃貸契約か。ただ、あの時はどちらも大して迷いはしなかったな。
正直に言って、思い入れがなかったのだ。あのマンションは設備に優れ、職場に近いというただそれだけの理由だったし、車に関してはもう完全に見栄でしかない。副会長の私物として相応しいものかどうかという、その程度の基準しか持ち合わせていなかった。
マルゼンのように特別な愛着を注いでいるわけでもなく、値段相応に高機能で便利な足という認識に留まっている。大きいことには違いないが、一生ものの買い物とは言えまい。
ぱらり、ぱらりとカタログのページを捲る。
最後まで目を通し終わったら、また先頭まで。既に三回も、同じ事を繰り返していた。
そんな私に、トレーナー君はなにも言わない。私の選択を優先するつもりらしい。
彼にとってもまた一生ものの買い物だろうに……こういう時、必ず私に譲る癖は学生の頃から変わっていないな。
「なぁ、その……トレーナー君は、今までもこの店に来たことはあるのかい。ほら、あの指輪を買った時とか」
「指輪……ああ、あのダミーか。いや、あれは全く別の百貨店で買ったものだ。いつぞやの不況の煽りで、今はもう店を畳んでたかな」
「そうか。その割には、案内もスムーズだった気がするのだが……」
「昨日、君が仕事に出ている間に下見を済ませておいただけだ。勝手に一人で決めるわけにもいかないだろ。こういうのは特に」
「そう、だね……」
歯切れの悪い返事を続けつつ、再びカタログに一から目を通してみるものの、まるで頭に入ってこない。
先程までは律儀に一枚一枚捲っていたページも、今度はまとめて一気に飛ばしていき……真ん中あたりで手が止まった。
一面に紹介されているのは、緑の宝石を頂に乗せたエンゲージリング。
エメラルド、グリーントルマリン、スフェーン、アレキサンドライト、グリーンサファイア、プレナイト、翡翠………
………ペリドット。
光沢を放つリングの先端で、目映い光を湛えている姿はあのダミーの指輪そっくりで。その石言葉は幸福、和合、夫婦愛、そして……運命の絆。
「う"ぅ………」
他にも魅力的な石言葉はたくさんあるが、私はどうしてもこれに心惹かれている。
ペリドットの指輪が欲しい。
いや、違う。
そうだ。私は迷っているわけではないんだ。
最初から心に決まっていた。こうして専門店を訪れ、全ての商品を何度も繰り返し眺めたところで、ちっとも目移りはしなかった。
一向に結論が出ないのも、情報が頭に入ってこないのも当たり前の話。私が本当に求めているものはここにはないのだから。
「なんだ、さっきからうんうんと……ああ、ルドルフもその系統の石が気に入ったのか。あのダミーと似たような」
「違う……違うんだ。トレーナー君」
「??」
「そうじゃなくて……あれが欲しかったんだ、私は。君がここ十年近く、肌身離さず身に付けていたという、ペリドットの指輪が」
君とここに来て、カタログを見ている中でようやくそれを自覚した。
ああ、驚いた顔をしているなトレーナー君。それもそうか。彼にとっては所詮ダミーであり、エンゲージリングとは名ばかりの小道具に過ぎなかったのだから。
でも、私にとってはそうじゃない。彼はあの指輪を選ぶとき、私を意識していたと言っていた。とっくに道を別ったと思い込んでいた彼の中には、しかし今でも私の姿があって……あの指輪こそその紛れもない証だろう。
事ここに至って買い求める新品とは、積み上げてきた時間も籠められた想いもまるで違うのだ。
たぶん、彼にとってはそんな思い入れなど毛頭ないのだろうが。
「あれは一本だけ購入したのかな?それとも片割れはどこかで保管してあるのかい?」
「ああ……まぁ、一応。家のタンスの奥に眠っているが。いいのか?そんなお下がりでも」
「あの指輪だからこそ価値があるんだ。それに、トレーナー君こそいいのかい?君の気が乗らないなら、別に新品でも」
「いや、その必要はない。ルドルフにとってあれが良いというならそうしよう」
「ありがとう」
どこか腑に落ちない様子ながらも、トレーナー君は私の我が儘を聞き入れてくれた。
さて、せっかく案内してもらったところを申し訳ないが、この店での買い物は無しということで。代わりに彼の家まで、私のものを取りに行かなければな。
そう言えば、私は彼が今どこに住んでいるのかも知らないのだった。
まだ昔のように、学園のトレーナー寮に入居しているのだろうか?
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そして、その日の夜。
トレーナー君の家にて、左手を掲げて布団に仰向けになる私。
今朝まではなかった指輪が一つ、左手の薬指に填まっている。
照明の光をあびて、
「ふふ………」
左手を絶えずひっくり返し、様々な角度からそれを観察する。
ペリドットは持ち主の色欲を宥め、心を落ち着けて浮気防止と夫婦円満をもたらすという。痴情のもつれから何年間も彼を守り続けてきたのだから、その効果は折り紙つきだ。
言葉の約束だけで十分だと思っていた。だがしかし、こうして形として見せられると、彼と一緒になれたという奇跡が現実のものとして理解出来る。
思えば長い道のりだった。随分と回り道したものだったが、それも想いの熟成のために必要な過程だったと、そう笑える日がいつか来ると良いな。
「ルドルフ。そろそろいいか。明日はお互い仕事なんだ。もう電気を消すよ」
「ああ……分かった」
どこか呆れた様子のトレーナー君にそう促され、渋々私は腕を引っ込める。まぁ、これからいくらでも眺める時間はあるからな。
寝室の電気を消して、彼は私のすぐ横に敷いた布団へと潜り込む。
なんでも三年前、学園の寮を出て近場にあるこのマンションに引っ越してきたらしいが、生憎二人で広々と使う程の余裕はない。彼とて高給取りなのだから、いくらでも良い部屋なんて借りれるだろうが……いや、私の家がおかしいだけか。
基本寝に帰るだけということなので、これで十分なのだろう。もっともそれは私も同じで、明日もここから出勤出来る程度には家に私物がない。
とはいえ、その生活スタイルもこれから変わるだろうな。
こうして誰かと布団を並べて一緒に眠るのは美浦寮以来のことで、酷く懐かしく安心する。あの頃の思い出に耽っていると、一つ足りない物に思い至った。
暗闇の中でも確かにそこにある、隣の気配にゆっくりと頭を向けて、一言。
「なぁ、トレーナー君。私と二人きりの時、なんと呼んで欲しいとせがんだか覚えているかい」
「ルナ。ああ……なら俺も一つ言わせてもらうが、その呼び方はどうにかならないか。夫婦にはあまりにも相応しくない」
「ふふっ、そうだな。分かったよ。旦那君」
咄嗟に思い浮かんだ新しい呼称。
しかし彼にとっては想像以上の効果があったようで、不自然に固まってしまっていた。
君の方から言い出したことなのだから、早いところ慣れて欲しいものだな。
ああ、こんな初々しいやり取りも一体いつまで続くことやら。
叶うことなら一日中、ずっと彼の隣に居たいものだが、残念ながら私と彼は職場が違う。昼の間は顔を合わせる方法など………
………あるじゃないか。
そうだ。思い出した。
この奇跡の発端、私とトレーナー君が再会するに至った原因。秋川理事長から提示された、トレセン学園に新設される学園長のポスト。
直属の上司部下となることで、否が応でも顔を合わせてしまうからと忌避していたが……今となっては、これ以上ない申し出である。紙は手元にあるから、あとはサインして渡すだけ。
キャリア的にはやや寄り道する形になるだろうが、これからの私生活を考えればゆとりが生まれてありがたい。一石二鳥だ。
「ふふ……ははっ」
明日、理事長に提出するとしよう。
皇帝たるもの、一役こうてみようじゃないか。
ルドルフがひょんなことから現役時代の杖と再会を果たしたお話。