「君は……どうして、ここに」
突然の再会を前にして、ふと口をついて出たのはそんな言葉。
どうしてもなにも、彼にとってはここが職場なのだから、ここにいたところでなんら不思議ではないというのに。
それはむしろ、トレーナー君の台詞だろう。いくらOGとは言え、とうに学園の関係者ではなくなった筈の私が、こんな時間に敷地を彷徨いているのは明らかに不自然だった。
しかし、トレーナー君はそこに突っ込むようなこともせず、脇にあるベンチに近づいて放置されていたストップウォッチを取り上げて見せる。
ちゃりん、と幾つものストラップが擦れあって音を鳴らした。
「ここに忘れ物をしていたことを思い出してね。それなりに値が張るものだから、無事に回収出来て安心したよ」
「そう、か。君のものだったんだな」
「ああ、そしたらそこにルドルフがいたものだから。びっくりしたよ」
それは……大した偶然だな。
彼がうっかりここに忘れ物をして、それを取り戻しに来たところでたまたま私と鉢合わせた、と。
私があの姿見の前で気を取られていなければ、この広場でしばしの感傷に浸っていなければ、この再会はあり得なかった。運命的だと言えば聞こえは良いものの、果たして私にとって望ましいことなのかどうか。
「それはそうと、久し振りだねルドルフ。君が就職して、海外に行ってしまって以来だから……およそ四、五年振りか」
「あ……ああ。うん、そんなところかな。今日は少し、仕事の関係でね。理事長に招かれたんだ」
「そうか。思えば、その歳にして既にURAの副会長だったね。はは……いつの間にか、もうすっかり手の届かないところまで行ってしまったな。君は」
「そう大したことじゃない。確かに一路順風ではあったが……きっと、巡り合わせが良かっただけだよ」
謙遜のつもりだったが、しかし自嘲のようにしか聞こえなかった。
巡り合わせ……か。
職に就いてから五年。
はやくもこの地位にまで上り詰めたのは、間違いなく縁に恵まれたというところが大きい。だがそれは決して、ここ数年間で得られたものばかりではなかった。
同じくURAに就職し、今でも側近として私を補佐してくれているエアグルーヴやブライアンは言わずもがな。
生徒会長として深い関係にあった秋川理事長に、今はカサマツで振興に力を注いでいるオグリキャップやタマモクロス、技術部で頭角を表しつつあるタキオンにと、他にも数え切れないほどの人物に支えられている。全て、学生時代からの縁だった。
当たり前の話だが、私のバ生はどこまでも地続きなのだから。振り返れば、原点はこの学園にあったように思う。
「はは………」
そこで得られた良縁の、その最たるものが君だったのにな……トレーナー君。
その巡り合わせだけは、私はモノにすることが出来なかった。あろうことか、自ら切り捨ててしまったんだ。
日本を去ったあの日。
もし私がついてきて欲しいと言ったなら……君はそれに応えてくれただろうか。築き上げた名声も、ようやく軌道に乗り始めた中央トレーナーとしての立場も投げ捨ててまで。
断られて当然だろう。そう思う反面、君ならどこまでも私の隣にいてくれる筈だなんて、そんな思い上がりじみた確信を抱いていたことも確かだった。
それが正しければ、今頃私たちは、最も掛け替えのない縁で結ばれていたかもしれない。
けど、そうはならなかったんだ。
私は、私の理想に君の人生を巻き込むことが怖かった。それ以上に、君から拒絶されることが怖かった。
だから、黙ってトレーナー君に背を向けたんだ。あの日、あの時ここで覚悟を決めていれば、今の私は違ったのだろうか。
私は間違えたのだろう。どうしようもなく。
その一歩を踏み出せなかったが故に、ありもしないもしもを何時までも夢に見続け、後悔したからこそトレーナー君を拒絶した。
覆水不返。取り返しのつかない過去にいつまでも拘った結果、現実を突きつけられて気まずく笑っている。
ああ、だから会いたくなかったんだよ。
他でもないトレーナー君にだけは、こんな情けない私を見られたくなかったのに。
「ところでルドルフ。いきなりで不躾だが、一つお願いがあるんだ」
「ん……ああ、なにかなトレーナー君。遠慮なく言ってみて欲しい。私に出来ることならなんでもしよう」
たどたどしい受け答えを繰り返す私を見かねたのか、トレーナー君が助け船を寄越すようにそう切り出してきた。
ストップウォッチを取りにきただけというなら、挨拶も程々に立ち去ればいいものを。別にそのぐらいで、私が怒ったりするわけもないというのに。
相変わらず、面倒見がいいと言うかなんと言うか。
「折角だから、ウチのチームに顔を出していってくれないか。ほんの挨拶程度でいい」
「君のチームか。となると、私の後輩たちというわけだな」
「ああ。かの皇帝シンボリルドルフが来たとなれば、アイツらの士気も高まるだろう」
皇帝、か。誰かにそう呼ばれるのもまた懐かしい感覚だな。
しかしいくら七冠バとは言え、もう十年近く昔のウマ娘など記憶から薄れているのが当たり前だが……本当に、士気向上に繋がるのだろうか。
まぁ、仕事も既に終わっているわけだし、この後も完全にフリーなので請けるには問題ない。
「うん、了解した。是非とも見学させてもらおう。ふふ、鬱陶しがられないか少し不安だな」
「まさか。トレーナーとしてはなんだが、俺のチームはかつて皇帝が所属していたってのがウリの一つなんだ。大歓迎だよ」
「そうか、それは済まなかったね。ずっと、顔を出してやれなくて」
「謝らないでくれ。ルドルフの方がよっぽど忙しいんだから」
なんてことないように、こちらに肩を竦めて見せるトレーナー君。
「そう……だな。なら、案内してくれ」
それが、まるで私一人だけが空回りしているように思えて。
……またしても、ずっしりと重たいなにかが胸に沈んだ。
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トレーナー君の言っていたことは誇張でもなんでもなく、私はチームから熱烈な歓迎を受けた。
自己紹介を済ませた直後、あっという間に群がられてからの質問責め。それが一段落つけば、今度はレクチャーをせがまれる。
「君はスパートをかける時に、もう少し膝を絞る走法の方が合っているかもしれないな」
「ええっと……こ、こうですか?」
「そう。足を大きく振り上げる形だな。後でトレーナー君にも見てもらうといい」
私はトレーナーではないが、それでも元競技者としてアドバイス出来る部分はあった。
現役時代の感覚もさることながら、それ以上に各国のトレセンを巡った際の知識や経験が活きている。
当時は既にレースから引退した身であったものの、現地のウマ娘とはやはり何度も走らされた。そうして己の実力を示して、そこから交流が始まることになる。
その過程で、日本にはない独自の視点や技術について触れる機会が多かったし、恐らくはそれこそが私が指導者として唯一トレーナー君に勝っている部分だと思う。なので、そこを軸として幾つか助言をしてみる。
「凄いですね!副会長さん、トレーナーも出来るんじゃないんですか!?」
「ふふ……いや、私はあくまでも事務方だからね。流石に専門職には及ばないよ。今だって、おっかなびっくりやってるぐらいさ」
一応、レクチャーについては予めトレーナー君から許可を貰っている。
とは言え、あまり深く関わり過ぎないよう自制はしていた。
私にとっては修正点であっても、トレーナー君は別の意図からあえてそうさせているという可能性だって十分にあり得るからだ。そもそも指導方法なんて人によって様々だから、私との間で正攻法が食い違っていてもおかしくない。
一応、現役時代に受けた教えに沿ってアドバイスしているつもりだが、それも十年近くも昔のことで、今では彼の方針が大きく転換されているかもしれないのだから。トレーナー君の情報をあえて避け続けてきたことが、今になって悔やまれた。
故に、私が見るのはあくまでさわりだけ。
私なりの視点から改善点を呈示し、必ず後でトレーナー君にも報告させる。問題があるならそこで撤回が入るだろう。
「えぇ~でも、トレーナーさんと同じぐらい上手ですよ。教えるの」
「うーん……そう言われてしまうと、今度はトレーナー君に申し訳ないな」
「ですけど、副会長さんはトレーナーさんよりも偉いんでしょう?」
「まぁ、偉いといえばそうなのかもしれないが。そもそも組織からして異なるからね」
URAの副会長であるからには、トレセン学園に一定の影響力を行使できるのは確かである。
しかし、本部の中枢でレース競技全体の運営に携わる私と、トレセンでいちウマ娘の指導に励む彼とではまるで指揮系統が異なる。同業者という関係ですらない。
肩から提げた鞄のベルトをぎゅっと握り締める。
もし私が、学園長の打診を承ければそれも変わるのだろう。
レース関係者という大雑把な括りから、直属の上司と部下という関係へと。それでなにが進展するというわけでもないが、しかし堪らなく蠱惑的な選択肢に感じられた。
思えば、この異動を躊躇ったのは、再びトレーナー君に出会うのを忌避したことが理由である。
それなら、こうして偶然にも再会が果たされてしまった以上……辞退する理由はもう無いのだろうか。
いや、しかし、一時だけ旧交を温めるのと、毎日職場で顔を合わせるのとでは全く事情が異なる気もするな。
「そうなんですか。トレーナーさん、お家だと奥さんに尻に敷かれてるって言ってましたから、てっきり上下関係があるのかなって……」
「……………………………えっ………?」
奥さん?
「トレーナー君は、結婚……………している、のか?」
「え、ああ、はい。なんでも、奥さんはURAに勤めている方だって……だから、トレーナーさんは頭が上がらないんだって、いつも言ってます」
「そ、それはいつから!?」
「え、ええっと。少なくとも、私がこのチームに入った時には。ですから、休日とか遊びに誘っても、あまり付き合ってくれないんですよ。奥さんが怒るから、逆らえないからって。なら、しょうがないなって」
「その人の名前は知っているかな?」
「いえ。名前も顔も知りません……写真とか、そういうのも見せて貰ったことがないので。ただ、ウマ娘だとは言ってました。だから私たち、てっきりルドルフさんが奥さんだって、ずっとそう思ってたんですけど」
「ウマ娘………」
中央トレーナーと籍を入れている、URA職員のウマ娘。
…………駄目だ、候補が多すぎる!!
そもそもURA職員は、中央のウマ娘にとっては憧れと言っても良い人気の進路。なにせ、引退した後もずっとレース競技に、それもより深いところまで携われるのだから。
だから、他の職業と比べても突出して元中央ウマ娘の占める割合が大きい。
副会長として、これまで大勢の職員と関わってきた。しかし、流石にそのプライベートまでをも全て把握しているわけじゃない。
ああ……本当に、どうしてトレーナー君のことを知ろうとしなかったんだ私は!!
いや、たとえ結婚を知っていたところでどうにもならなかったんだ。なら、これから先もずっと知らないままでいるのが一番幸せだったのかな。
「指輪……そうだ。結婚しているなら指輪をつけている筈だ」
「?つけていますよ。ペリドットの埋め込まれた結婚指輪です。ちゃんと、左手の薬指に……」
嘘だ。だって、あの広場で話をした時には見当たらなかったじゃないか。
……いや、そもそも目に入っていなかったのだとしたら?
もし見つけていれば、絶対に記憶に残っていた筈だ。彼にもその事を問い掛けただろう。
ペリドットは光に照らされて美しく輝く。しかしとっくに日も落ちて、足元の誘導灯しか光源のない中で、左手の薬指を確実に捕捉出来るかというと……極めて怪しいと言わざるを得ない。ましてや私はあの時、酷く狼狽していた。
「あ、トレーナーさん戻ってきましたよ!」
目の前のウマ娘がぶんぶんと大きく手を振った。その視線は私の肩を飛び越えた先。
振り返れば、遠くから手を振り返すトレーナー君の姿。
宵闇の中、その左手の指に限界まで目を凝らす。
「………………………………ッ」
そこでは本当に………一粒の宝石に彩られた、エンゲージリングが光を放っていた。