そうか……そうだろうな。
学園を去って以来、月日を重ね続けてきたのはなにも私だけではなかったんだ。
だいたい彼は私よりも歳上なのだから、結婚していたところでなにもおかしくないじゃないか。
ただでさえ、中央のトレーナーは引く手あまた。しかも彼はその中の筆頭格で、十年近くもウマ娘たちの一番隣で指導してきたとなれば……。
「……ルフ?なあ、ルドルフ。おい……」
現役のウマ娘ですら、トレーナーの気を引くためにあれやこれやと腐心しているというものを。
とうの昔に卒業して、一方的に距離をとって、ここ数年間は電話の一つも寄越さなかった女にチャンスなんてあるはずも無かったんだ。
きっと私は心の片隅で、かつての栄光……彼にとって最初の担当であり、三冠の名誉を捧げたウマ娘という唯一無二の肩書きに慢心しきって、そこに胡座をかいていたのだろう。
敗れるべくして敗れたのだ。
皇帝シンボリルドルフはとっくに過去のウマ娘だと、他ならぬ私自身が一番よく理解していた筈なのに……。
「ルドルフ?……ルドルフ!聞いてるか、おい」
慌てた様子のトレーナー君に両肩を捕まれて、前後にゆさゆさと揺さぶられる。
彼からしてみれば、自分がここに来た直後に私が放心してしまったという状況であり、成る程こうも狼狽えるわけだ。
とりあえず返事だけはしておこうと、努めて冷静に舌を動かしてみるものの、自分でもはっきりと分かるぐらいに抑揚の無い平淡な声しか出てこない。
「…………ああ、トレーナー君。私なら大丈夫だとも………おや、さっきの子はどこに行ったのかな……?」
「君の後ろに。他はとっくに帰らせたよ……もういい時間だから」
「そう、か」
ゆるゆると振り返ってみれば、直前までアドバイスしていたウマ娘が、大層心配げに私を見上げている。
いけないな……後輩にこんな顔をさせるなんて。取り繕う言葉はいくらでも浮かび上がるものの、なに一つ弁解として出力できないまま、あっという間に溶けて消えてしまった。
「ルドルフ、この後まだ時間はあるかな。久し振りに会えたんだ。このままさよならと言うのもなんだし、一杯ぐらい付き合ってくれないか」
「…………私は、構わないが。ただ、君にも家庭があるだろう」
そっと、トレーナー君の左手の薬指を示す。
明日は休日なので、時間自体には余裕がある。
だが、週末に夫が別のウマ娘と飲み歩いていたとなれば、彼の夫人も良い顔はしまい。その相手が自らの上司ともなれば尚更だ。
ただでさえ、ウマ娘はヒトと比べて闘争心や執着心が旺盛なのだから。いらぬ火種を振り撒くのは賢明ではない。
私の指摘に、トレーナー君は決まり悪そうに眉間に皺を寄せると、一瞬だけ私の後ろにいる担当の様子を盗み見る。
「あー……いや。問題ない。こっちもこっちで事情があって……だから、それも含めて話そう」
「そうか。それなら、分かった」
少々歯切れが悪いその誘いは、普段であれば慎重を期して辞する所だろうが……今の私には、もう先のことを考えるだけの気力もない。
なおも食い下がるトレーナー君に、どうにでもなれと半ば投げやりな気持ちで首を縦に振った。
ターフのかけ声も既に止んでおり、グラウンドからは人気が無くなっている。
私の後ろにいた最後の一人も、トレーナー君が寮に帰るよう促したことで、何度も振り返りながら走り去っていった。
やはり、邪魔になってしまったかな。
いくらOGだとか、レース関係者だとか言ったところで、育成方面では私は素人も同然である。むしろ下手に知名度があるぶん、かえって間違った影響を与えて足を引っ張ってしまうかもしれない。
次からは自制することとしよう。もっとも、その次があればの話だが。
「………っ」
呆けたまま闇に溶けていく背中を見守っていたところ、するりと彼に手を取られた。
異性とこうして手を繋ぐのもどれ程振りだろう。掌の紋が重なりあい、指先から伝わってくるやや低めの体温に、びくりと肩を震わせる。
本当に、我ながら初心と言うかなんと言うか。これが中等部時代のことなら、さぞかし微笑ましい光景だろうが。
「行こうか」
「あ、ああ」
こくりと頷くものの、鉛を流し込まれて冷え固まったような両足は、最早自分の意思で満足に動かすことすら叶わない体たらく。
結局、リードを引かれる犬のように、トレーナー君のされるがままに連れていかれることとなった。
互いに無言の夜道、響き渡るのはしゃりんしゃりんと鞄のストラップが擦れ合う音。
そうだ、ここには仕事で来たのだった。URA副会長、並びに初代学園長候補として。
なのにこの様はなんだと、唇を噛み締めながら強く肩に掛けた紐を握り締めた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
トレーナー君に連れてこられた先は、街の片隅にある小さくも小洒落たバーだった。
顔馴染みらしきマスターに会釈をやって、彼はカウンターの奥に腰かける。手招きされて、私もまたその隣に腰を下ろした。
学生時代、彼と都心のホテルで会食をしたことなんかもあったのだが、今回はそうならずに済んでほっと胸を撫で下ろす。高級レストランが悪いわけではないが、今の私にとっては余りにも負担が大きすぎた。
思えば、あの時は私の方から誘ったのにな。当時のハングリー精神は、今となっては見る影もない。
肩を並べて、ぽつりぽつりとしばらくの雑談。
気を遣ってくれているのか、マスターはこちらに話し掛けてこない。二人だけの空間に没頭する。
十年間の振り返り、大学時代の思い出、チームの代替わり、海外留学で得た知識とトレーナーとしての知識の比較検討、お互い所属する組織での役割、部下への適切なケアについて…………
あっちへ来たりこっちへ来たり、寄り道と逆行を繰り返して継ぎはぎだらけの会話を交える。
筋道だとかまとまりだとか、そんなものを気にしてはいられないぐらい、相手について知らないことが積もり過ぎていた。
現役の頃なんて、話のネタが枯渇して困っていたぐらいだというのに。どれだけの時間袂を分かっていたのか、その重さを今さらながらに自覚する。
そうしている内に、話題は近況報告へと。
「そう言えば昨年末、君のチームの子がホープフルSを獲っていたね。実はあの時、私もレース場で観戦していたんだ。おめでとう」
「ありがとう。ああ、知っているとも。展望席に何度か姿も見えていたからな。それも仕事だったのかい」
「そうだ。……ふふ、やはり君ぐらいになれば、育成ももうお手のものかな?」
私が指導を受けていた頃は、トレーナー君もまだ経験に乏しく、二人三脚でこなしていたように思う。時にはダービーのように、やむを得ず彼の指示を無視することもあった。
とは言え素質自体は確かなものがあったから、十分に経験を積んだ今ならまた違うのだろう。
しかし予想に反して、トレーナー君はどこか疲れた顔で首を横に振る。
「全然。一人一人特性が違う。トレーニングの勝手も違う。昔はルドルフが特別なんだと思っていたけど、その実全員が特別なんだ。それに気づくまで、あまりにも長い時間がかかってしまった」
幸先が良すぎるのも考えものだな、と彼はそう独りごちる。
「それでももう、君のことを『私を運良く担当に出来ただけ』なんて貶すものもいまい。私の後にも、全員にG1を獲らせてきたのだから」
「まぁ、そうだな。若輩の身ながら、ようやく中堅からは抜けたと評価されているらしい」
「さぞ引く手あまただろう。チームの子たちと話をして分かった……皆がトレーナー君のことを慕っている。彼女も、その内の一人だったのかな」
「彼女?」
「そうだ。君とその契りを交わしたウマ娘」
程ほどにアルコールが入って、心なしか気が大きくなってきた。
酒精の力を借りながら、私はついにその核心へと指をかける。
「ああ…………これ?」
しかし、トレーナー君の反応は存外に薄く。
シルバーの台座の上、ランプの照明に照らされながら美しく輝くペリドットを、言われて初めてその存在に気がついたかのように眺める。
その瞳は無機質で、情愛や恋慕の類いは微塵も窺えない。まるで、宝石店や美術館のショーケースでも覗き込んでいるかのような。
とてもじゃないが、男女の契りの証を見る目には思えない……夫婦仲が上手くいってないのだろうか。
だとすれば、確かに独り身の私を飲みに連れ出すことにも抵抗感はないだろう。
そう成り行きを窺う私を前にして、彼は唐突にエンゲージリングを外して見せる。
苦笑しながら二、三度手のひらで転がしたあと、無造作にジャケットの内ポケットへと突っ込んだ。
「綺麗でしょ。ただのダミーだけどね」
そうして明かされたのは、衝撃の事実。
「………………………偽、物……?」
「そう。主に担当ウマ娘との拗れを防ぐための小道具。男性トレーナーの間で昔流行ったんだよ。今やってんのは俺ぐらいだろうが」
「………………」
開いた口が塞がらない。
「なら、どうしてもっと早くに教えてくれなかったんだ!?」
「………その、気持ち悪がられそうで。ほら、あの、意識してたからさ……ルドルフを」
「……………私を?」
意識していた。
それは恐らく、あの仮初めの設定について。
『URA本部で勤務しているウマ娘』……私があの子から聞かされていた情報はそれだけだが、しかし何年も彼女たちを欺いてきたのだから、より詳細な人物設定があったと考えるべきだろう。
……そう言えば彼女は、いやチームのウマ娘は皆、件の婚約者を私のことだと推定していた。
「あの宝石、なにか分かるか」
「ペリドットだろう。そう聞いている」
「ああ、その通りだ。君がつけている耳飾りに嵌め込まれたそれとよく似ている」
「あっ…………」
思わず、自分の右耳から提げたそれに手を伸ばす。
かつてこれが壊れてしまい、彼が直してくれた事があった。故に、その石の正体について把握しているのもおかしくない。
虫除けのエンゲージリングにあしらう宝石など、本当になんでも良かっただろう。
その上で、彼はあえて私の耳飾りと似たペリドットを選択した。それを婚姻の証として、肌身離さず持ち歩いていた。
それはつまり。
「うぅ…………う、ぐすっ………」
「だから言っただろう。執着し過ぎててドン引きされそうで怖かったって…………って、ルドルフ。泣いてるのか?」
「うぇ…………だって、トレーナー君が………」
いなくなっちゃったかと思ったんだ。
はは………本当に、どうしようもない女だな私は。
勝手な話だ。先にいなくなったのは私の方だというのに。
その身勝手を自覚してまた、安堵と自己嫌悪で目頭がつんと沁みてくる。
ずるずるといつまでも引き摺った挙げ句、順当に切り捨てられて一人で絶望して、かと思えばそれは嘘だと分かって、お互い気持ちが通じていたと知って。
気持ちが追いつかない。
ウマ娘としてこの世に生まれて、二十七年生きてきた。人並み以上に経験を積んできたけれど、ここまで心の中がぐちゃぐちゃに荒れ狂ったことはただの一度もない。あの因縁のジャパンカップにて初めて敗れた時も、こうはならなかった。
ああ、きっと私は今この瞬間、初めて土俵に立てたのだ。
あまりにも遅すぎた。それにここまでの揺さぶりをかけられなければ、この先もずっと胸の奥底に秘めたままだったろう。
「そうだな、騙して悪かったよ。ごめんなルドルフ。一応、今日中には話すつもりだったんだけど……」
必死に弁明するトレーナー君に、気にしていないと手を振って返事をする。
何度か深呼吸を繰り返し、荒れ狂った胸中を無理やり押さえ込もうと奮闘する。
競技ウマ娘として培ったメンタル・コントロールがまさかこんなところで役に立つとは思わなかった。
そうして息を整えて、数分経ったところで。
ようやく落ち着いてきたところを見計らって、トレーナー君が新しく話を切り出してきた。
「それはそうと、ルドルフにはこれまでそういう関係はなかったのか。君の方こそ、さぞ引く手あまただろうと思うんだけど………」