【完結】二十七歳シンボリルドルフ   作:くまも

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仕事人エアグルーヴ

副会長の様子が今朝からおかしい。

どうにも上の空というか、これまでになく集中力を欠いている。

 

ここで言う"これまで"とは、大学卒業後にURAから就を得て運営部門へと配属された直近三年間に限らず、かつてこの方を会長と呼び慕っていた生徒会時代も含めてのことだ。

すなわち私の知る限りにおいて、シンボリルドルフはここ十年間……あるいはそのバ生全体を通じて最大の苦境の只中にあるということ。

たかが気を散らしている程度でなにを大袈裟な、と思う者もいるかもしれないが。しかし、ことこの方に限っては目に余る異常事態だと言えた。

事実、私のみならず同じぐらい付き合いの深いブライアンもまた、酷く奇怪なモノを眺める目で副会長をちらちらと窺っている。

 

そんな私たちの困惑を知ってか知らでか、彼女は用紙の体裁を整えつつ私を手招きした。

その視線は書類に落とされたままだが、しかし文字を追っているわけではない。明らかにこの執務室ではなく、どこか遠い世界に思いを馳せている。

昔から仕事に対しては真摯や真面目を通り越し、ワーカホリックに両足を突っ込みかけているこの人が、だ。本当に、異常事態と言うほかない。

 

「副会長。どうかなさいましたか」

 

「………………………」

 

「副会長?」

 

「………………ん、ああ。エアグルーヴ、どうかしたのかい?」

 

「いえ……その、お呼びいただいたので……」

 

「そうか……そうだったね、うん。一通り稟議書は仕上がったよ」

 

「お疲れ様です。良い頃合いですから、一旦休憩なされては?」

 

「いや、残りはこの決算報告書だけだ。折角だからこのまま一気に終わらせてしまおう」

 

「了解しました」

 

私が稟議書を受け取って、念のため最終チェックを入れている間、デスクの片隅に置いてあった決算報告書のファイルに取り掛かり始める副会長。

表紙を開き、しばらくページを捲ったところでふと手が止まってしまった。

 

開かれているのは注釈をまとめた項目だけであり、どこからどう見ても時間をかけて読み込むべきところではない。おまけに線を引いたり補足を付け足したりするわけでもなく、ただくるくるといたずらにペンを遊ばせている。

 

「…………………」

 

数字どころか、目の前の私の存在すら頭に入っていないのだろう。不備はないかと一言かけることすらせず、その紫の瞳はぼんやりと虚ろなまま、いつまでも数十センチ先を行ったり来たり。

どこまでも覇気がなく、心ここにあらずといった様子で、あたかも退屈な授業にいやいや出席させられた学生のようだった。

昨日までの踊るような、いっそ芸術的と言っても差し支えのない程の見事な筆捌きは見る影もない。

 

一枚一枚たっぷりと時間をかけて、手渡された書類の点検をいつも以上に慎重に行う。

 

……幸い、修正すべき点は一つも見当たらなかった。ここまで気を散らしていてもなお、この完璧な仕上がりは流石といったところだろう。

惜しむらくは、この方にしてはあまりにも時間がかかり過ぎていること。本部にいらして既に三時間。本来ならこの程度の事務作業、ものの三十分かそこらで済ませていた筈だ。

 

お陰で補佐する私たちはじっくりと仕事に取り組めているが、しかしそれを喜んでばかりもいられない。

自分のデスクに戻り、正面のブライアンを見れば彼女もどこか居心地悪そうにしている。お互い考えていることは同じなのだろう。

 

「ふむ………」

 

さて、副会長の異変の原因とはなにか。

 

普通であれば、貴重な休日をいきなり潰されてやる気を損なっているだとか、機嫌が悪いだとかいう理由が妥当な線となるだろうが、この方に限ってそれはない。

URA史上最年少の副会長という肩書きを戴き、さらにその中の筆頭格として次期URA会長の座に指をかけていた。仮にそれが実現すれば、三十代前半か……下手をすれば二十代で天下のURAの頂点に立つという前代未聞の快挙となる。

当然、かの七冠ウマ娘にして元トレセン学園生徒会長、生ける伝説である皇帝シンボリルドルフといえども、そこに至るまで決して楽な道のりではなかったことは想像に難くない。

文字通り全てを捧げてきたのだ。本来あるべきことではないが、今さら休日を駄目にされた程度で調子を崩すなどあり得ない。なにより公私の分別をしっかりと弁えている人なわけだし。

 

ならば疲労か。彼女は放っておけば自分一人で抱え込みがちな性質で、とりわけ学生時代はそれが顕著だった。

だがそれについても、社会人としてこれまで以上に重い責任と数多くの部下を抱える中で、多少なりとも改善されていたように思う。なにより私自身の理念と、彼女の元トレーナーからの頼みもあって、育休で抜けている間以外はずっと側で無理をしていないか見張ってきたのだから。

加えて近頃は実績がついて業務量もある程度落ち着き、体力的な面では以前よりも楽が出来ているように思う。

 

「ううむ………」

 

だとしたら本当になんだろう。

昨日の、秋川理事長に呼ばれてトレセン学園に向かう直前の姿とはえらい変わりよう。だとすると、やはり向こうでなにかがあったのだろう。

 

あくまで風の噂だが、なんでも学園に新たに設けられる『学園長』なるポストへの就任を打診されていると聞く。その関係で、ご自身の今後のキャリアについて頭を悩ませているのかもしれない。

URAはトレセン学園の上部団体ではあるが、かといってそれぞれの長同士が完全な上下関係にあるわけではない。学園長が理事長に伍する役職であるなら、副会長にとっても魅力的な進路の一つと言えるだろう。

いくら優秀といえども、このままURA会長に駒を進めるのは流石に時期尚早すぎるという声だって内外から上がっているものだから、学園長への就任を間に挟むというのもありかもしれない。

 

しかし一方で、それは遠回りにもなる。

副会長であれば、年齢で苦労こそすれど会長の務め自体は満足に果たせられるだろう。側近としての贔屓目を抜きにしても、既にそれだけの実力と実績をシンボリルドルフは身に付けていた。

ここまで来て、これまで最短を突き進んできた彼女が様子を伺うだろうか。ましてやその苦悩を仕事にまで影響させるとは考え難い。

 

なら他にはなにがある。あの学園は副会長にとっても特別思い入れの深い場所であり、なによりあそこには彼女の元トレーナーがいて…………………

 

 

………トレーナー………まさか、ようやく(・・・・)か……?

 

 

「………ん?」

 

不意にばさりと、伏せられた私の顔とデスクとの間に、一部の雑誌が差し込まれた。

 

とっさに顔を上げると、いつの間にやら目の前まで来ていたブライアンが、形容しがたい表情で重々しく私を見下ろしている。

 

「ブライアン……?」

 

「いいから、見てみろ。これを」

 

両開きにした記事を指でとんとんとアピールするブライアン。

再び視線を落としてみれば、まず目に入るのは中央上にでかでかと載せられた副会長の写真。

別にそれ自体は珍しい話ではない。現役時代はスターウマ娘として日本レース競技を牽引し、今はURA随一の革新派として辣腕を振るうシンボリルドルフは、この手のマスメディアにとってもいい題材である。特集を組まれた回数なんて、既に数えることすらバカらしい程。

 

 

問題はその中身である。

 

 

「……………は?」

 

何故、どうして、かつてのトレーナーをお姫様抱っこしながら夜道を駆けているんだ?

 

別に、ヒトを抱えて走ってはならないという法律はない……ないが、どうしてこうなった?

もう何年間も、徹底して彼の事を避け続けていた彼女が……トレセン学園理事の誘いすら蹴ったシンボリルドルフに、一体なにが。

記事の本文を何度も見返したところで、一から十まで全てが憶測で全くお話にならない。

 

「おい……これは、なんだ。ブライアン、なにがどうなっている」

 

「知らん。そういうことは本人に直接聞け」

 

「ああ……そうか。そうだな」

 

折角この場にいるのだから、張本人から直接いきさつを説明して貰えばいい。九分九厘、今朝からの副会長の放心はこれに絡むものだろう。

 

雑誌を携え、真っ直ぐ最奥のデスクへと向かう。ブライアンもまた後からついてくる。

二人も正面から近づいて来ているというのに、副会長は一向に顔を上げようとしない。恐らく気づいてすらいない。相変わらず、決算報告書のページとにらめっこをしている真っ最中……一応、少しは作業も進んでいるようにも見えるが。

 

「副会長」

 

「………ん、ああ、ブライアンまで揃って一体どうした?もしや承認に不備でも……」

 

「いえ、稟議書に不足はありませんでした。そうではなく、一つご説明を願えればと。この記事について」

 

私が雑誌を開いて差し出した瞬間、副会長は一気に顔を青ざめさせる。

その動揺からして、やはり記者のフェイクというわけではないらしい。昨晩、現実に起きた出来事だということ。

 

「いや、その、違うんだ二人とも。これは、私の私生活におけるちょっとした事件で」

 

「あくまでプライベートだと言うなら深くは問いませんが。しかし、それが業務態度にまで影響を及ぼしているとなれば、我々にとっても決して無関係な事柄とは言えないでしょう」

 

「………………………」

 

ああ、両耳がばらばらに動いてしまっている。ウマ娘が緊張や動揺を覚えたサインだ。

表情だけはなんともないように取り繕っているが、これで騙し通せるのは良くて中学生まで。海千山千のこの方にしては珍しい感情の発露。

 

きっと、本人も集中出来ていない事そのものは自覚していたのだろうが、同時にそれを隠し通せているつもりでもいたのだろう。

だとすれば我々を甘く見すぎだ……いや、そこまで判断力が衰えていたということか。

 

「副会長。いきさつについて教えて頂いても?」

 

口調はあくまで丁寧に。しかし有無を言わせない圧力もまた同時に籠める。

普段なら、敬愛する副会長相手にこのような不躾な真似はしない。しかし今回ばかりは絶対に退いてはならないと、私の中にある女の勘がそう告げていた。

ブライアンも同じなのか、こちらを窘める様子はない。

 

こちらの強硬な姿勢が揺らがないと見たのか、副会長は目頭を押さえると重々しく頭を振る。

そのまま数秒だけ沈黙した後、ようやく観念したかのように口を開いた。

 

「……ああ、分かった。そうだな、君達ならそういうことにも詳しそうだ」

 

この言い様からして、やはりそういうことなのだろう。察しつつもこちらからは口を挟まず、ただ相手からの切り出しを待つ。

 

一度折れたことで、気持ちも吹っ切れたのだろう。

ぽつりぽつりと、まるで大昔の思い出を語るように少しづつ、副会長は事情を説明し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「……と、言うわけで今朝家を出たのだが。どうだろう、やはり私はトレーナー君を、その、怒らせてしまったのだろうか………?」

 

朝からずっと頭にこびりついていた不安を、目の前の腹心二人に吐露してみる。

何度も何度も繰り返し朝食の記憶を反芻していたが、考えれば考える程にトレーナー君を不快な気持ちにさせてしまった気がしてならない。

彼とて暇な身分ではなく、忙しい合間を縫って私を誘ってくれたというのに。それを一度は承けておきながら、こちらの都合で一方的に反故にしてしまったのだから。

今さら帰ったところで、既に家には誰もいなくなっているのではと考えた途端、怖くて怖くて堪らなくなってしまう。

 

しかしそんなこと、私の浅い経験値で脳みそを働かせても仕方がないのかもしれない。

伴侶を得てから長く経ち、子供まで儲けているエアグルーヴやブライアンの方が、そういった心の機微には明るいだろう。

 

 

そう期待して顔を上げると、正面には形容しがたい……愕然を通り越した顔で私を見下ろすウマ娘が二人。

 

 

「………エ、エアグルーヴ……?………ブライアン……?」

 

「………………………………」

 

「………………………………」

 

「せ、せめてなんとか言って欲しいかな……」

 

私の必死の懇願にも関わらず、まるで反応を返さず固まる腹心達。

ややあってはっとしたように二人同時に目を瞬かせると、お互い目配せし合い、もう一度だけ私の顔を見つめた後、深々と地の底まで穴の空きそうなため息を吐き出す。

 

なんだろう……そんなに私の行動は不味かったのだろうか。

 

「……副会長。無礼を承知でこれだけは言わせていただきます」

 

「な、なんだろう……エアグルーヴ……?」

 

 

 

 

「いったい何歳なんですか貴女は!!!」

 

 

 

 

ぐ………み、耳が痛い。

 

かつて女帝としてターフに君臨したエアグルーヴ。その強靭な肺活量から練り上げられた音量は、極限まで空気を震わせて窓ガラスと私の鼓膜を振動させる。

 

「に、二十七歳だが………?」

 

「だったらこの……こんな、中学生の初恋みたいな悩みで頭を抱えている場合ですか!?いえ、学生時代の貴女の方がずっと行動力はありましたね」

 

「だが、あの頃とは違って今はお互い立場というものが……」

 

「なぁ皇帝サマ。この先、アンタが出世していく限り、それ言い出したらキリが無いだろう」

 

腕を組み、耳を垂らしながら力なく首を横に振るブライアン。彼女との付き合いの中で、噛みつかれたことは多々あれど憐れみを向けられたのはこれが初めてのことだった。

 

そんな彼女を押し退ける勢いで、机越しに身を乗り出してくるエアグルーヴ。

 

「いいですか、副会長。確かに今のご時世、結婚して子供を産み育てることではなく、仕事による社会的地位の確立を目標とする生き方も広くあります。ですが、貴女達はそうではありませんよね?」

 

「あ、ああ。私はその通りだが、トレーナー君がどうかは……」

 

「彼もそうなんですよ!!それで、貴女はこれからどうなりたいのですか?」

 

猪突猛進に核心へと切り込まれる。

想定の遥か上を行く事態に本能的に逃げ出したくなるが、目と鼻の先にあるアクアマリンの双眸がそれを絶対に許さないと光っている。

 

なにより、私の奥底からドロドロと煮えたぎるものが吹き上がっている。

 

もう、腹を括るしかない。

 

 

 

「彼が……トレーナー君が欲しい。私の一番隣で、これからは永遠に」

 

 

 

死が二人を別つまでなどとは言うまい。

 

たとえどちらかが死んだところで、もう二度と手離すつもりはなかった。それが私の正直な、偽らざる欲望。

 

 

「なら、それを伝えて下さい。今夜にでも。貴女ならいくらでもアテはあるでしょう」

 

「そう、だな。これを片付けたら、ひとまずは家に帰って……」

 

「今すぐ帰るんですよ。タイムカードはこちらで切っておきますから……そもそもの話、どうして今日ここにいらしたんですか。『予定がなければ』来て欲しいと書いた筈なのに」

 

「それは……」

 

仕事関係での呼び出しというだけで、一も二もなく応じてしまうのが習慣となっていたからだ。

決済だけなら直ぐに片付く業務量でもあった。結局、そちらは気持ちを切り換えられなかったせいで叶わなかったが。

 

エアグルーヴの激と、ブライアンの無言の圧力に背中を押されながら、私は鞄を提げつつ足早に出口へと向かう。

今日は部下の殆どが休みで、来ているのは彼女達だけだが……まぁ、残りは問題なく消化されるだろう。

 

「それと、副会長……月曜に貴女の元トレーナーにも連絡つけますからね。誤魔化しはなしですよ。どうかご武運を」

 

「あぁ、うん……ありがとう」

 

 

背中から容赦のない発破をかけられながら、私はふわふわとした足取りで執務室の外へと出た。

 

 

 

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