かくして、本部から追い出されてしまった私は、重たい足取りで帰りの路についていた。
予定にない出勤だったので送迎車は利用しない。それどころかウマ娘専用レーンすら使わず、歩道の上をのそのそと歩く。
ともすればヒトよりも遅い速度で、喧しく行き交う通行人に紛れていた。
休日の昼下がりにはあまりにも似つかわしくない私の雰囲気が目立つのか、時折こちらに視線を向ける者もいるが……いずれもスーツを着込み鞄を携えた格好を認めた瞬間、同情の目と共に目をそらしていく。
おおかた、土曜日も容赦なく出勤させられてバ車ウマのように酷使されている、哀れな労働者にでも見えているのだろう。
「はぁ……」
重い。本当に足が重たい。
鉛を靴に流し込まれて固められたような、あるいはどろどろに荒れた泥濘に足首まで沈んでいるかのような。
十三階段を上らされているかのごとき感覚。逃げ出すことも許されず、それどころか自らの足で戦場へと向かわされるのはこんなにも辛いことだったのか。
そう言えば昔、子供時代に母からお叱りの呼び出しを受けた時の心境を、トレーナー君がしみじみと語ってくれたこともあった。
生憎、私はそういった経験が無かったのでいまいち共感出来なかったのだが、今ならその気持ちがよく分かる。
なにも、トレーナー君と顔を合わせるのが嫌だというわけじゃない。むしろ、ここであっさりといなくなられると、この先二度と立ち直れるかも分からない程だ。
二人揃って余暇を満喫するというのは願ってもない幸せだが、しかし気持ちを伝えるとなれば話も変わってくる。
ゴールはそこだとしても、今夜いきなりというのは心の準備が……それに普通、愛の告白というのは然るべき交際を踏んだ後に実行するものでは………
「……いや、駄目だ。時間切れなんだ、もう」
分かっている。そんなことを言っているようでは、次のステップに踏み出すまでさらに十年はかかるだろう。その前科が私にはあるのだから。
言うなれば、エアグルーヴやブライアンが既にレースをゴールし、ライブも終えて記者会見を開いている中、私は未だにゲートの中で作戦の再確認をしている状態。必要なのは準備ではなく行動なのだ。
彼とて、なんの気もない相手を仕事終わりに飲みに誘ったりはしない。エアグルーヴの口振りからして、私の一方的な勘違いというわけでもなさそうだった。
まぁ、何故エアグルーヴがそこまで彼の事情に詳しいのかというと、学園に直接関係する業務を彼女に任せており、その中で頻繁に顔を覗かせていたからであって……ようするにこれもまた、私の尻込みの産物である。
故に、今度こそ尻尾を巻くわけにはいかず、なにより優秀な右腕二人がそれを許してくれない。
十年漬けの重たい尻に蹴りを入れて、どうにか歩く速度を通常一歩手前まで復活させる。
「おっと」
と、不意に腰の辺りになにかがぶつかってきた。
軽い衝撃だったものの、完全なる不意打ちであったために思わず驚嘆が口から飛び出す。
目を落とすと、小さな男の子が不思議そうに目をぱちくりとさせていた。どうやら真横にある、ちょっとした空き地を改修した公園から飛び出してきたらしい。
尻もちをついてしまった幼子へと、落ち着いて手を差し伸べる。
「すまない。周りをちゃんと見ていなかった……大丈夫かい?怪我はないかな?」
「う、うん」
突然のアクシデントで頭がよく回らないのか、たどたどしく頷く男の子を立たせて砂を払っているうちに、慌てて後を追ってくる彼の両親。
何度もこちらに頭を下げつつ、肩を怒らせながら子供の手を引いていく。いきなり道路に飛び出しかけたものだから、さぞキツい説教が待ち構えていることだろうな。
母親の腕にはもう一人、まだ自力で立てない歳の幼児が抱えられていて、肩越しに無邪気に手を振ってくれた。私もまた静かに手を振り返してやる。
場所が場所なだけあって、この近辺は子供を自由に遊ばせられる空間が限られている。
そのため、なんの変哲もない公園といえども、休日になれば家族連れの姿もよく見られた。彼らもまたその内の一組だろう。
「……………」
家族……か。
あまり、考えたことがなかったな。
実家で暮らしていた頃は、親兄弟に使用人にと絶えず人に囲まれていたものだった。
トレセンに入学した後も、寮では大勢のウマ娘達と共に生活していたから、あれも見方によっては一つの大家族と言えるかもしれない。
転機が訪れたのは卒業後のこと。
URAに幹部候補生として採用され、数年間海外を巡った時のことだ。
外国との繋がりが深いシンボリ家の出身であり、加えて学生時代から海外における人脈はある程度築いていたものの、それでも私にとって異邦であることにはなんら変わりない。
周囲に懐かしき友人の姿は一つもなく、向こうでいくら交流を深めたところで孤独感は常について回った。
そう、トレーナー君と疎遠になったのもあの時期だったな。
最初の担当でありチームの看板でもあった私が抜けた直後。彼にとっては、デビュー以来ずっとついて回った『シンボリルドルフの』トレーナーという肩書きから脱却する大事な節目でもあった。
そんな時期に、既に担当でもない私が彼の時間を奪うのはどうにも違う気がして、それでこちらから接触を断ったのだ。お互い落ち着いたらまた連絡を取ろうと、そう一人で自己完結して。
そして数年後、ようやく私が留学を終えて日本に戻ってきた時、彼は既にひとかどのトレーナーとして身を立てていた。
G1ウマ娘を何人か輩出し、ウマ娘の才能頼りという評価を下す者はもういない。それはすなわち、トレーナー君が皇帝の呪縛から解放されたという証左であり、同時に彼にとってのシンボリルドルフが『かつての担当ウマ娘の一人』に成り下がったことを意味する。
結局、私はその事実が怖かったのだ。
世間からの評価はどうでも良い。だがトレーナー君の中においても、皇帝シンボリルドルフという存在が、数多く面倒を見たウマ娘の一人という程度にまで零落していることが怖かった。
久々に顔を合わせて、自分はとっくに過去のウマ娘だと思い知らされることを恐れていたのだ。時間が経てば経つほど、その可能性が色濃くなるのだと理解していながら。
「……ん」
ブルッと、ポケットの中でウマホが震動した。
開くと、トレーナー君からのメッセージが届いている。なんでも用事でしばらく家を開けるそうで、帰って来たらまた入れて欲しいとのこと。
赤信号が変わるのを待っている間、ぽちぽちと返信を打ち込んで、消して、また打ち込んで……何回もそれを繰り返した後、最終的には当たり障りのない了承に帰結する。
そう言えば、何故トレーナー君は私のアカウントを知っているのだろうか。
以前ウマホを買い換えた際の諸々で繋がりは切れていた筈だったのだが……たぶん、エアグルーヴあたりが教えたのだろう。
お互い連絡先さえ知らない状態のまま、一世一代の告白を決心していたのかと考えると、少しだけおかしい気持ちになった。
信号が青に変わる。
白線の連続に沿って、一斉に道路へと飛び出す歩行者。その人いきれの中にいる筈のない彼の残り香を探しながら、私も対岸に向かって一歩踏み出した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「ただいま……」
すっかり習慣となった帰宅の挨拶。当然、返事はない。
それでも、微かに家の中に残ったヒトの男性の匂いが、もはや私一人の空間ではないことを声高に主張している。それに少しばかりほっとしながら、ジャケットを脱ぎつつ土間に上がった。
そう言えば今日はまだ水をあげていなかったと、ふと思い出してリビングのサボテンの元へと向かう。
鉢を覗き込んで土の色が変わっていることに気がつき、そっと指で触れると僅かに湿っていた。どうやらトレーナー君が代わりに水をやってくれていたらしい。
さて、まずはドレスコードを見繕おうか。
場所については問題ない。あまりにも急な話であるが、ツテを辿ればどうとでもなる話だ。
それより問題なのは服装だ。流石に仕事の会食で身につけるようなスーツで望むわけにもいくまい。私と彼の立場からして、男女の逢瀬というより職場会議の雰囲気になってしまいかねないからな。
「ううむ……」
クローゼットを開けて中を漁ってみるものの、どうにもしっくり来るものがない。
仕事や冠婚葬祭で用いるようなものばかりだ。後は部屋の中で着込み、そのまま買い出しに向かっても恥ずかしくない程度のもので、とてもじゃないが夜に訪れる先の品格には釣り合わない。
いや、それでも無いことは無い筈だ。
プライベートはプライベートで、やはり実家の関係から格式高い場所に赴くことだってあるのだから。
最近は気を遣われているのか、呼び出しを受ける機会こそ減ってきてはいるものの、その時のドレスがまだある。
「おや、これは……懐かしいな。五年ぶりか」
確か奥の方にあった筈だと、記憶を手繰りながら探していたところ、より思い出深いものに辿り着いた。
学生時代に愛用していた、深い紫の下地に星を散りばめたようなロングドレス。ゆったりと丈が長く、それでいて上半身はタイトで体の輪郭を強調するデザイン。
かなり昔のものになるが、保管には気を遣っていたため今でも十分通用するだろう。あの時点で既に本格化は終えていたし、今でも体型は維持しているから背丈やウエストの変化で着られない心配もあるまい。
折角だから、かつてトレーナー君にも披露したことのあるこちらの方が、決戦の衣装としては相応しいのではないだろうか。
「ふふ。私はまだまだ現役の頃と変わらないぞトレーナー君。ひょっとしたら、君はもう覚えていないかもしれないが」
いそいそとシャツと肌着を脱ぎ、ズボンを下ろして下着だけになる。
ロングドレスに腕を通して、そのままゆっくりとファスナーを上げようとして…………
「………………………」
上がら、ない。
駄目だ。
どうしても、肩甲骨の下あたりで突っかかってしまう。それに、腰のあたりも盛大に食い込んで痛い。
ああ……そうだった。
確かにウエストは維持し続けていた。ウエストだけは。
残り二つのサイズは成長し続けていたんだったな。学生時代は……まぁあの頃だって別に慎ましくも無かった気がするが、最近は特に自己主張が激しすぎるように思う。おまけにウエストと違って、自分の意思ではどうすることも出来ない。
一応、私の膂力を最大限に発揮すれば上げ切ることも出来るだろうが、その後にホックが閉まるかどうか。
仮にしまったところで、こんな胸と腰に食い込んで締め付けられた状態では食事など楽しめるわけがない。なんなら呼吸出来るかすら疑わしいところである。
仕方ないので、渋々このドレスは諦めることにした。
「はぁ………」
そうか、これとももうお別れか。
五年間も放置しておいて何を今さら嘆いているんだという話かも知れないが、それでも悲しいものは悲しい。
勝負服程ではないにしろ、これだってかなり思い入れのある衣装だったから……そうか、これが無理だということはもうあの勝負服も金輪際着こなせないということなのか。
とっくに割り切ったつもりでいたのだが、どうやら私はまだあの学園に未練が残っているらしい。
やむなくドレスをクローゼットに戻したところで、床に置いていたウマホが震動した。
取り上げると、発信者はまたしてもトレーナー君。どうやら戻ってきたらしいので、勝手に入ってくるように促す。家主の私に気を遣っているのだろうが、今さら断るわけがないだろうに。
クローゼットの探索が終わり、目当てのドレスを見つけて一番手前まで移動させる。
扉を閉めたと同時に、トレーナー君が部屋の中に入ってきた。両手は空で、特に買い出しに出かけていたわけでもなかったのだな。
「どこに行っていたんだいトレーナー君。いや、別に勝手に出歩くななどと言うつもりはないが、なにか目的があるなら私が案内しよう」
「いや、それは結構だ。俺もこの辺りにはそこそこ詳しい。それはそうと、一緒に来て欲しいところがあるんだが……その前に、ルドルフ」
「なにかな」
「……………服を、着ろ」