牧原は上司の娘から、「パパ」と呼ばれている。ただ、牧原と上司は夫婦ではない。

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上司の娘にパパと呼ばれているんだが

 定時5分前、近くのデスクで主任が何やら唸り声を上げていた。

 

 腕を組み、眉間にシワを寄せながら、主任が首を傾げる。唸り声は、次第に「どうしよう……」という呟きに変わっていった。

 ……いや、隣でこんな言動されていたら、無視出来ないでしょ、普通。

 

「どうしたんですか、主任? 胸が重くて肩が凝ったなら、揉んであげましょうか?」

 

 俺は主任に尋ねた。

 

「松田くん、それ普通にセクハラだから。罰として、仕事押し付けるわよ」

「それを言うなら、主任の方はパワハラですよ。……冗談はさておき、何か困り事ですか?」

「まぁね。……仕事が終わりそうにないのよ」

「気付くの遅すぎません? 定時まで、5分を切ってますよ?」

 

 それにいつもの牧原主任なら、残業することにあまり抵抗がなかった筈だ。もしかすると、今夜は何か予定があるのかもしれない。

 

「残業確定なのは、一週間以上前からわかっていたわ。間に合わないのは定時じゃなくて、子供の迎えの方」

「そういえば、主任のお子さん保育園児でしたっけ?」

「先月5歳になったばかりよ。保育園が7時までなんだけど、それまでに仕事が終わるかどうか……」

 

 事情を聞けば、手伝ってあげたいという気持ちは湧いてくるが、今主任の抱えている仕事は主任にしか出来ない。

 主任には申し訳ないけど、俺に手伝えることはないな。そう思っていると、

 

「……ねぇ。松田くん、この後予定ある?」

「ないですけど……その仕事、俺みたいな下っ端には出来ませんよ」

「わかってるわよ。お願いしたいのは、仕事じゃなくて、娘のお迎えの方」

 

 成る程。主任は7時までに保育園に行けないから、俺に頼もうということか。

 それならば、俺が代行することも出来る。

 

「お礼に今度何かご馳走するから。ね?」

「……安酒じゃ納得しませんからね」

 

 俺が了承すると、主任は「助かったわ〜」と胸を撫で下ろした。

 

「心配事があると仕事も手につかなくなって、余計に時間がかかっちゃうからね。これで集中出来るってものよ。……あっ、これウチの鍵ね」

 

 さも当然のように、主任は自宅の鍵を俺に手渡す。

 

「良いんですか、主任の部屋にお邪魔しても?」

「部屋じゃなくて家ね。寝室に入ったら、許さないわよ」

 

 入るつもりは毛頭ない。あらぬ疑いがかけられないよう、リビングで大人しくするとしよう。

 

「金曜日の夜に本当に申し訳ないけど……お願いするわね」

「はい、任せて下さい」

 

 終業を知らせるチャイムが鳴るなり、俺は保育園に向かうのだった。

 

 

 仕事が出来て、美人でグラマーで。そんな牧原主任には、男性社員から絶大な人気を誇っている。

 その証拠として、主任の参加する飲み会だけ出席率が異様に高い。特に男性社員の。

 しかしそんな主任には、実は5歳になる愛娘がいる。その事実を知ると、主任狙いの男性社員は揃って肩を落とす。

 ところがどっこい、諦めるのはまだ早い。牧原主任は、確かに子持ちだ。しかし、結婚はしていない。彼女はシングルマザーなのだ。

 

 保育園に着いた。保育士に「お迎えですか?」と聞かれたので、俺は頷く。主任が事前に保育園に電話してくれていたみたいで、俺は特段怪しまれずに済んだ。

 

「美波ちゃーん! お迎えだよー!」

 

 保育士が名前を呼ぶと、主任の娘・美波が駆け寄ってくる。俺を見た美波ちゃんは、こう言った。

 

「だれだよ、おまえ?」

 

 気持ちはわからなくもないが、もう少し言い方があるだろう?

 しかし所詮子供の言うことだ。いちいち腹を立てていては、大人げない。俺は平静を装う。

 

「ゆうかいってやつか? もくてきは、かねか?」

 

 おい、5歳児。どこでそんな言葉を覚えてきたんだよ? 保育士は、美波ちゃんの「誘拐犯」扱いを訂正する。

 

「この人はね、お母さんの会社の人だよ。美波ちゃんのお母さん、お仕事が遅くなりそうだから、代わりに迎えに来てくれたんだって」

「ママ、よるのおしごとたいへんなんだ」

 

「夜のお仕事」じゃなくて、「夜もお仕事」な。美波ちゃんはなんとか保育園から出てくれたものの、帰りの道中俺と一定の距離を保ったまま、決して近づこうとしなかった。

 

「ねぇ、美波ちゃん。もう少し近づいてくれるとありがたいんだけど……」

「しらないひとと、おはなししちゃダメって、ママがいってた」

「君にとっては知らない人でも、ママにとっては知らない人じゃないんだよ。だからその防犯ブザーから手を離そうね?」

 

 数十メートル先には、交番がある。こんなところで押されては、もれなく俺は職務質問だ。

 お迎えは、家に辿り着くまでがお迎えである。主任から頼まれた以上、俺は美波ちゃんを一切の怪我もなく無事自宅へ送り届ける義務がある。

 俺は美波ちゃんの手を掴むと、その小さな体を自分のそばまでグイッと引っ張った。いきなり手を掴まれてびっくりしたかもしれないけれど、怪我させない為だ。美波ちゃんもわかってくれるだろう。

 

「いやーーー! おかされるーーー!」

 

 ……微塵もわかって貰えてなかった。美波ちゃんの叫び声で、交番のお巡りさんが緊急出動。俺はお巡りさんの誤解を解くのに、約10分費やした。

 

 

「ただいまー」

 

 美波ちゃんを自宅に送り届けて小一時間が経過した頃、主任が帰ってきた。

 俺と美波ちゃんは、残業で疲労困憊の主任を出迎える。

 

「ママ、おかえりー!」

「ただいま、美波。良い子にしてた?」

「うん!」

 

 美波ちゃんは、元気よく頷く。

 自己評価の通り、美波ちゃんは確かに良い子でしたよ。初めて言う人には簡単に話しかけないし、いきなり腕を掴まれたらきちんと防犯ブザーを鳴らすし。

 

 美波ちゃんを抱っこしながら、主任は俺にお礼言う。

 

「無理を言って、ごめんなさいね。美波の面倒を見てくれて、ありがとう」

「予定があったわけじゃありませんし、気にしないで下さい」

 

 俺たちが話していると、美波ちゃんが主任の服を引っ張る。

 

「このおじさんだれなの? ママのあいじん?」

 

 おい、どこでそんな単語を覚えてきたんだ? そして俺はおじさんじゃねぇ。まだ25だ。

 

「この人はね、あなたのパパよ」

「はい!?」

 

 主任のカミングアウトに、美波ちゃん以上に俺が驚く。

 

「主任、何とんでもねぇ嘘ついてくれちゃったんですか。俺がこの子のパパなわけないでしょう?」

 

 俺は小声で囁く。5年前といえば、俺は大学生。主任とはまだ出会っていない。

 

「もしかして……あの夜のこと、覚えていないの?」

「そんなひどい!」と言いだけな顔をする牧原主任。しかし俺が彼女と一夜の過ちを犯すことなんて、絶対にあり得なかった。なぜなら――

 

「俺、地方の大学出身ですよ?」

 

 俺が上京してきたのは、社会人になってから。この子が生まれた後だ。舌打ちが聞こえた気がするが空耳だろう。

 

「……で、どうしてそんな嘘をついたんです?」

 

 美波ちゃんは、自分の父親のことを知らない。そんな彼女に対する嘘としては、あまり誉められた内容ではなかった。主任は面白半分で人を傷つけるような嘘をつかない。だとすると、何か理由があると考えるのが自然だ。

 

「……そうね。おふざけはこのくらいにしましょう。ここからは、真面目な話」

 

 その言葉通り、主任の顔付きは真剣なものへと一変する。

 

「松田くんには、この子の父親代わりになって欲しいの」

 

 理由を聞いても、主任の意図が全く掴めなかった。

 

「美波はね、父親のことを知らないわ。だけどこの子がこれから成長していくにつれて、父親の存在は必要になってくると思う。私一人じゃ、どうしてもこの子に心配や迷惑をかけちゃうもの。今日みたいに、ね」

 

 美波ちゃんはまだ5歳。本当は親にいっぱい甘えたい年頃だろう。しかし主任は仕事が忙しく、あまり美波ちゃんとの時間が取れない。

 美波ちゃん自身も子供ながらそれを感じ取っていて。母親に気を遣っていて。多分だけど、美波ちゃんの子供らしくないところは、そこから来ているんだと思う。

 

「引き受けてくれないかしら?」

「そう言われましても……」

 

 お迎えとは違い、父親の代わりなんて重要なことをその場のノリで二つ返事出来るわけがない。

 

「人見知りのこの子が、初対面の男の人に懐いた。こんなこと、今までなかったのよ? だからこれからも、気が向いた時で良いから、美波と遊んで欲しいの。ダメかしら?」

 

 誘拐犯扱いされるしロリコン扱いもされるし、正直懐かれた自覚はない。

 しかし美波ちゃんのことを誰よりも理解している主任が言うのだから、間違いないのだろう。

 

 美波ちゃんのことは……まぁ、生意気だけど嫌いじゃないし。

 

 ……仕方ない。

 時間がある時の、あくまでピンチヒッターとして。俺は美波ちゃんの父親代わりになることにした。

 

 

 それから俺は、休みの度に主任の家に遊びに行くようになった。

 通い始めた当初は俺のことを「おじさん」と呼んでいた美波ちゃんも、数回会うと「おにいちゃん」になり、いつの間にか「パパ」に変わっていた。

 

 美波ちゃんに「パパ」と呼んでもらって、俺は感慨深い思いになった。

 父親代わりなんて、なろうと思ってなれるものじゃない。美波ちゃんに認められて、初めてなれるものだ。

 俺はその瞬間、ようやく美波ちゃんの「パパ」になることが出来たのだ。

 

 その日も俺はいつものように主任の自宅を訪れていた。

 いつもなら9時近くまで美波ちゃんと遊んでいるんだけど……今夜に限っては、6時を回ったところで帰ることにしていた。

 

「松田くん、もう帰るの? ご飯の準備しようと思っていたんだけど……要らない?」

「主任のご飯は美味しいですからね。食べていきたい気持ちは山々なんですが……この後、ちょっとやることがありまして」

「もしかして……デートとか?」

 

 主任が言うと、揶揄うように美波ちゃんが「うわきだー。ふりんだー」と俺を責める。

 だからどこでそんな言葉覚えてきたんだよ。

 

「美波、変なこと言わないの。松田くんは確かにあなたのパパかもしれないけど、ママの旦那さんじゃない。だから彼が他の女性とデートしても、浮気にはならないのよ」

 

 そう。俺は美波ちゃんの父親代わりであるだけで、主任と夫婦なわけじゃない。付き合ってさえもいない。

 当然主任もそのことをわかっているから、先の発言をしたというのに……どうして、そんなに悲しそうな顔をしているんだよ。

 疑問はあるけれど、まずは二人の勘違いを正しておくこととしよう。

 

「あのー……そもそも、デートじゃないんですけど」

「……違うの?」

「はい。付き合っている女の子がいたら、毎週のように主任の家に遊びに来れませんって」

「それもそうね」

 

 淡々と呟きながらも、どこか嬉しそうにしているのを隠せていない。

 そんな主任に、同じくらい嬉しそうな顔をした美波ちゃんは言った。

 

「ママ、よかったね!」

「松田くんに彼女がいなくて、どうして良かったになるの?」

「だってママ、パパがすきなんでしょ?」

 

 娘に恋心を指摘されて、主任の顔が真っ赤になる。 

 俺も主任も、自分の気持ちが分かっていた。互いの気持ちについても、なんとなく察しがついていた。だけど相手の気持ちを、敢えて確認しようとしなかった。踏み込もうとしなかった。

 だって俺たちは、大人だから。

 子供の美波ちゃんは、そんな事情お構いなしに思ったことを口にする。

 

「パパはどう? ママのこと、好き?」

 

 俺は主任を見る。主任は、何かを期待しているような顔をしていた。

 俺にとって、何が一番大切なのかを考えてみる。

 美波ちゃんが一番大切なんだろって? いいや、違う。俺にとっての一番は、美波ちゃんと主任だ。

 

「好きだよ。だから俺を、美波ちゃんの本当のパパにしてくれないかな?」

 

 数週間後から、俺は平日でも主任の家に行くようになった。それまでは「こんにちは」と挨拶をして家の中に入っていたけど、今は違う。

 

「ただいま」

 

 そう言いながら、俺は家族の待つ我が家に帰るのだった。




いかがだったでしょうか。

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