どこまでも続いている灰色の分厚い曇り空。
一定の間隔で雨粒が屋根を叩く。
ウオッカは途方に暮れていた。
不幸中の幸いは、先日レースを終えたばかりなのでトレーニングも急ぎの用事もないことだ。
(傘忘れちまった……どうやって帰っかな……。)
湿気で重くなった髪をかき上げる。
昨日の夜、鞄に入れておいたはずなのにともう一度中身を漁ってみたが結果は変わらない。
ウオッカは鞄を肩にかけ直し、濡れてしまうかのギリギリまで立ち、屋根から手のひらを出した。
(これくらいなら走って帰れるか……)
およそ小雨とは言い難いが、学園から寮まで距離は遠くない。
帰ってすぐシャワーを浴びれば問題はないと屋根から出ようとした時だった。
「風邪引くぞ。」
背後からの声にウオッカは振り向いた。
「トレーナー……」
そこにはビニール傘を手に持ったウオッカのトレーナーが立っていた。
「俺のを使いな。」
彼はそう言うとその傘をウオッカに差し出した。
「いや!いいよ。これくらいの雨なら……」
ウオッカが両手を振りながら言いかけたのに被さるように雨足が強まり会話が止まる。
勢いの増した音が、地面と屋根を強く打ち付けている。
ウオッカは屋根の外に視線を移し呆然と大粒の雨を見つめた。
「ほら。」
彼はウオッカに歩み寄り、笑顔で傘を向けている。
「でも、今日は夜中まで降るって……」
ウオッカは彼に視線を戻し、傘を押し返そうとした。
「俺は止む方に賭ける。」
彼は得意げに言った。
うっすらと記憶している今夜の降水確率は70パーセント。
ウオッカはため息をつきながら首を横に振った。
「…やっぱいいよ。寮よりもアンタの家の方が遠いじゃねぇか。」
「でも……俺はウオッカに雨に濡れてほしくないんだ。」
彼は傘を胸元まで持ってきて、噛みしめるように呟いた。
両手の指が畳まれているビニールに食い込んだ。
彼の捨てられた子犬のような目で訴えかけられると、その厚意を無下にすることはウオッカにはできなかった。
「わかったよ……じゃあこうしようぜ。」
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「まだ仕事残ってるだろ?」
「いや、仕事自体は午前中に終わったから午後は特にやることないな。」
雨が街中を奏でる中、他愛の無い会話を交わし合いながら帰り道を歩く。
車道側を歩く彼はウオッカが守られる面積を少しでも増やそうと若干腕を伸ばしている。
そのおかげで外に出ている肩は雨に濡れ、シャツから肌色が顔を出している。
「なぁ、トレーナー。」
「ん?」
「もうちょっと寄ったほうがいいんじゃないか?」
「ん、そうか?」
彼が拳一つ分間隔を詰める。
肩と肩が触れ合う。
二人の間に暫くの間沈黙が走る。
水を蹴る音、傘がざわつく音がこの空間に響く。
至近距離。
雨で薄まっていても思わず鼻で追ってしまう彼の匂いに、心の奥をくすぐられているような感覚を覚えた。
この距離だからこそハッキリと感じられる身長差、捲られている袖から顔を出す鍛えられた腕が彼の頼もしさを改めて認識し、胸が高鳴る。
「こうしてると、なんだか昔を……っ!」
彼が沈黙を破ったのと同時に、ウオッカが微かに悲鳴を上げて身を竦めた。
憂鬱な空を一閃する激しい光が目に飛び込んできたからだ。
少し遅れて爆弾のような音がウオッカの敏感な耳をつんざいた。
ウマ娘の耳の良さが災いし、不意の爆音が頭をぐらつかせた。
「ウオッカ、大丈夫か?」
彼は顔を歪めるウオッカの耳を塞ぎ、慌てて近くの軒下に避難した。
雨足は更に強くなり、止む気配を全く見せない。
「うう……ごめん…トレーナー……。」
「耳はどうだ?」
「うん……。ちょっとゴワゴワするけど、平気だ。」
ウオッカは苦笑いをしながら自分の耳を握った。
胸の高鳴りが今までよりも激しくなっている。
突然の雷のせいかと言われたら、半分そうではない。
雷が空を裂いた瞬間、ウオッカは彼に思い切り抱きついて今もなおそのままだからだ。
濡れて少し冷えた彼の体に尻尾を巻き付け、磁石のようにくっつき、離れない。
そのことを彼は知ってか知らでか、ウオッカを安心させるように頭を撫でている。
心臓が落ち着いたり、また騒がしくなったりと一定しない中、動揺を押さえつける。
雨はまだ弱まらない。
跳ねた水滴が顔まで飛んできそうな勢いだ。
「これを使うといい。少しはマシになるかも。」
彼が取り出したのは黄色いメンコだった。
「ありがとう。アンタ、なんでも持ってるんだな……。」
ウオッカは礼を言いながらそれを受け取ると、両耳へはめた。
少し大きめだったが、雷の音を緩和するのには十分使えるだろう。
勢いの衰えない雨を見ながら、体を寄せ合う。
「寒くないか?」
「うん。大丈夫。」
もう凍えるような冬は過ぎたとはいえ、まだまだ油断できない季節。
ずっと水にさらされているのならなおさらだ。
それでもウオッカは寒さを感じていなかった。
密着しているうちに体温が面白いように上がっていくからだ。
こんなに堂々と彼に抱きついていられる状況は中々ない。
ウオッカにとって、これほど高揚する場面はレース以外ではバイク関連のことのみだろう。
けれど、ウオッカを大事そうに片腕で抱き返してくれる彼が向けている感情はウオッカのそれとは全くベクトルが違う。
今の自分では絶対に取り払うことのできない壁をを目の当たりにし、切ない痛みが胸を刺した。
それでも『そういう関係だから仕方ない』と、自分に言い聞かせ心の天秤を保たなければならない。
ならせめて、いっそこのまま降り続ければずっとこうしてくっついていられるのに。
そんな感情を心の中にしまい込んで、ウオッカは彼に身体を預けた。