インターホンを押す間際、僕は少しだけ緊張した。普通とは違うことをしているという自覚があったからだ。
引越し。自分の住処を他へ移すこの作業は別に苦でも何でも無かった。元いた住居が不便だと感じていたし、そもそも周りに知り合いがいなかったから後ろ髪を引かれる思いも何もなかった。中学や高校と違い、大学生になると家のそばに知り合いがいるという確率はとても低くなるものなのだ。
ともあれ、その引越し作業が淡々と行われたのがつい昨日の話だ。
少し古ぼけたアパート。都心からは随分離れた場所にあり、遊ぶことに関して言えば多少の不便はあるが、贔屓にしている古書店があったり家賃が安かったり、その他いろいろな理由でこのアパートに引っ越す事は僕にとって嬉しいものだった。
だが、引越し挨拶をするとなると話は別だ。
21世紀、横の繋がりが希薄になった今日このごろに、引越しをした挨拶を近隣住民に行う学生がどれほどいるだろうか。それも賃貸だ。平気な顔をして引越し挨拶をする奴がいるのなら、そいつはちょっと変わったやつか、相当変わったやつかのどちらかだ。
そして僕はそのどちらでもない筈なのだが、今回ばかりは少し変わった奴にならざるを得なかった。まあ理由は置いておこう。
兎も角、このインターホンを押せばいい話なのだ。それで事は済む。
僕は意を決して押した。
「…………ふぁい」
押して十数秒ほど経っただろうか。出てきたのは、背の低い"少女"だった。栗色の髪の毛が箒のように逆だっており、寝起きだということが伺える。ちなみに今の時刻は午後1時、日曜日だということを考えればギリギリアウトな時間帯だ。服装はジャージと、色々と杜撰な部分が見えてしまう。
見なかったことにした。僕が少し変わったことをやった結果、普段見ない光景を目にした、それだけだ。
そう、僕は気にしなかった。気にしたのは彼女の方だった。
頭をポリポリと掻きながら僕の顔を見ること、数秒。半開きだった目がゆっくりと大きく開かれ、焦点が合う。そしてその少女は自身の真っ赤なジャージ姿をみやり、
「あっあっちょっとお待ちを!」
ドアをバタンと閉め、家の中に逃げ込んだ。
多分、寝ぼけてたんだろうなあという感想以外、何も出なかった。
「すみません、ご用件は何でしたっけ……?」
暫くすると、ギイという立て付けの悪いドアの開閉音と共に少女が上気した顔を覗かせた。
「ああ、隣に越してきました清水と言います。引越しの挨拶にと思い……どうぞよろしく」
いわゆる仕切り直しである。淡々と自分の目的を告げるのは相手を思ってのことだ。お互い何もなかった。寝ぼけていたのとかはノーカン。今後僕らの関係はお隣さんというありふれた物であり、危機を感じる必要も険悪なムードも何も必要ありませんよという意思表明だ。
自己紹介、というのはそもそも自分のスタンスを決めるものである。自分のことをどう見て欲しいか、相手に伝える術だ。だから、
「ご丁寧にありがとうございます。私、安部菜々17才でっ……はうあ゛っ!」
最近の女子高生はすげえなって素直に感心すると同時に、ジェネレーションギャップというものを感じたのだった。