1/ブリーフィング
「両親説得……」
「はい、父と母から了解を得ること。これが、私がアイドルを目指す上での第一歩です」
そう言って橘さんは、『両親説得のお手伝いをお願いします』とディスプレイに表示されたタブレットを頭上に掲げた。
まるでヒッチハイクをするかのようにタブレットを掲げるその姿はとても微笑ましく見えた。ただ、そのメッセージを受け取っているのは、現状僕一人である。どっちかと言うとヒッチハイクというよりも、プラカードを持って空港で待ち構えるガイドさんだ。
「もう親御さんには、アイドルになるって夢を伝えてる?」
乗りかかった船だと思い、そう聞いてみると、橘さんは静かに首を横に振った。
「まだです。両親は、私がアイドルになりたいだなんて露程も思っていないでしょう」
「あー、じゃあ理解を得るの大変……かな?」
「……どうでしょう。多分、平気だとは思います。両親は、私がアイドルをやりたいと言えば、恐らく応援してくれるはずです」
「あ、そうなんだ。なんか意外」
「意外ですか?」
「うん、なんとなくだけど」
僕の中のイメージだと、橘さんの家では『アイドルになりたい』だなんて言った日には一悶着起こるものだと思っていた。けれども、橘さん的には多分大丈夫だと言う。なら問題ないんじゃない? そう思って言ってみると、橘さんは再び首を横に振った。
「あくまで、多分なんです。多分、両親は応援してくれます。けれども絶対ではありません」
「あれ、それならそれでいいんじゃない?」
「良くないです!」
橘さんはドン!と机を叩いた。
「な、なぜに?」
「アイドルをやりたいと言って、それでOKが出ればそれでめでたしです」
「うん」
「けど、そうじゃない場合は話が別です。もしもNGが出た場合、それを覆すのは一苦労です。人は一度下した決定を翻すことは中々しないものだそうです。だからこそ、一度でケリをつける必要があります」
「ああ……それはなんとなく分かる」
俗に言う、『いやもう僕の舌、らぁめんを食べる準備出来てるんだけど』状態だ。
一度らぁめんを食べると決意したら、男はそれを中々翻さないものである。例えその結果、炎天下の中で一時間もの間、長蛇の列で待つことになろうとも、だ。
そう言うわけで橘さんの言い分には納得した。
「というか良く知ってるね、そういうの」
「はい。この間、文香さんがそう言ってました」
「鷺沢さんが?」
思いがけぬ名前が出てきて驚いた。こないだのライブの帰りにでも話したのだろうか?
まあ確かに博覧強記の彼女であれば、その手の知識は腐る程持っている事だろう。名前の通り読書子なのだから。
「なので、私が両親を説得するための手助けをして欲しいんです」
「なるほど」
「その、なんと言いますか、両親の射幸心を煽るような、そんな感じの手助けを……」
「嫌な言葉を知ってるね……。あと、その言葉の使い方絶対間違ってる……」
「とにかく! 両親が安心して私のアイドル道を応援できるような、そう両親が決断できるような、そんな判断材料を集める手助けをして欲しいんです!」
そう言って拳をギュッと握る橘さんの目には、闘志が宿っていた。そこには本気の想いが詰まっている。
ならば、手伝わない訳にはいかないだろう。
「わかった。……ええと、橘さんは、こないだの二宮飛鳥って子みたいなアイドルになりたいんだよね?」
「はい。ああでも、飛鳥さんになりたいわけではありません。飛鳥さんのように、歌で人を感動させられるようなアイドルになりたいんです」
「歌で人を感動……ってのがとりあえず目標ね。じゃあ、その方針で何か考えよう」
「考えるっていうと?」
「そういうアイドルにどうやったらなれるか、って事。そこから考えないと、ご両親を説得できないと思うからさ」
「あの、それが……」
僕がそう言うと、橘さんは口ごもり、暫くした後、恥ずかしそうに呟いた、
「そもそも、アイドルってどうやったらなれるんですか……?」
「………………」
そう言われ、僕も思わず首を傾げてしまった。
確かに、アイドルってどうやったらなれるものなんだろう?
2/メイド喫茶にようこそ
「どうやったらアイドルになれるの?」
「それ、私に聞く? フツー」
心底呆れたと言う風にハァとため息をついて、北条加蓮はそう言った。
ネットに強い知己はいないが、幸いなことにアイドルに強い知己はいた。それも、なりたてホヤホヤの現役アイドルが。
そういうわけで橘さんから相談を受けた翌日、僕は加蓮に連絡を取ったのだった。
「アイドルのことはアイドルに聞かないとって思ったんだけど……あの、そもそもなんだけどさ」
「何?」
「何この店」
「なにって、メイド喫茶だけど」
何を当たり前のことを、とでも言いたげに加蓮はふんと鼻を鳴らした。
アイドルについてご教授くださいとお願いしたところ、呼び出されたのはあろうことかメイド喫茶だった。メイドさんが先ほどから視界に入ってしまい、何だか目のやり場に困る。なんでまたこんな場所を加蓮は選んだのだろうか。
メイド喫茶、そこにアイドルの何たるかが隠されているのか……? いや、加蓮のことだ、恐らく冗談か何かなのだろうメイビー。
「アイドルにどうやってなれるか、ねえ。こないだのありすちゃんだっけ?」
「そうそう、アイドルになりたいんだって」
「うーん……。正直言って、私の話はあんまり参考にならないと思うよ?」
「なんで?」
「だって私、スカウト組だし」
「え、エリート感が凄い……」
「ふっふっふ、エリート加蓮とお呼びなさい」
「……ダサくない?」
「ま、私から出来るアドバイスって言ったら、街中ぷらぷら歩いて声をかけられるのを待ちなさい、くらいしかないかなー」
「……街中ぷらぷら歩いてたら声かかったの?」
「そ、街中ぷらぷら歩いてたら声かかったの」
そう言って加蓮は頷いた。
なるほど、確かにあんまり参考にならないアドバイスだ。橘さんに同じアドバイスをしたら、おそらく最終的に迷子センター行きになってしまうこと請け合いだろう。街中を歩いている小学生を呼び止めてアイドル事務所にスカウトする人物なんて、そうそういないはずだ。
などと考えていたら、
「さてと、注文しよっか?」
「あ、そうだね。店員さん呼ぶよ」
「待って、ストップ」
ステイステイと言いながら加蓮は僕に待ったをかけると、「私が呼ぶから」と言って加蓮はメイドさんの方を睨むように見つめた。そして、タイミングを見計らって、
「すみませーん」
と加蓮が声を上げると、「はーい」と遠くから声が聞こえた。
その声の主は、栗色のポニーテールを揺らしながら、こちらにパタパタと駆けて来て、
「はーい、お呼びですかお嬢さま、ご主人さマ゛ッ゛゛゛」
声にならない声をあげたのだった。
安部さんが。そう、安部さんが。そう、声の主は驚くべきことに、絶賛お隣さんの安部さんだったのだった。
僕は理解を放棄した。
3/ブラックジャック
「はぁ、お友達なんだ」
「そ」
世界は狭いとはよく言ったもので、加蓮と安部さんは友人だそうな。
聞くところによると、高校は違うらしいのだが、ひょんなことから仲良くなったとのこと。
数奇な縁もあるものだ。
「安部さん、メイドさんやってるんですね……」
「え、ええ。ま、まあ。嗜む程度に」
メイドに嗜むも何もあるのだろうか。安部さんはさっきの『ご主人さマ゛ッ゛゛゛』の時に余程驚いたのか、さっきからずっと目が泳いでいた。まあ、そりゃお隣さんが自分の働いている職場に突撃してきたら、誰だって驚くだろうが。
「カレンチャン、ドウイウコトデスカ」
ギギギ、と首をぎこちなく動かして、安部さんは加蓮にそう問いかけた。まるで壊れたロボットのようだ。
「いやね、清水がアイドルについて知りたいらしくて」
「……はあ、アイドルですか?」
「あ、うん。僕の生徒がアイドルになりたいって言ってて」
「生徒って……あっ! こないだのライブの時にいたありすちゃんですか!?」
「そうそう」
そうして事の顛末を話すと、安部さんは、
「はぁ〜そういうことですか、でしたらお任せください! この安部菜々、アイドルに関しては一家言、いや二家言三家言ございます! 何でも聞いちゃってください!」
と心強いことを言ってくれた。ライブの時に感じてはいたのだが、やはりこの子はアイドルのことが本当に好きなようだ。
そう思いながら、早速質問をしようとすると、安部さんが少し言い辛そうにモジモジとしながら言った。
「あの、ただその前にご注文をお願いします」
ああ、この質問は高くつくな。と、他人事のようにそう思った。
「……アイドルになる方法は、大きく分けて三つです。事務所直下のスクールに通って事務所入りを狙う王道スタイル。表参道あたりを練り歩いてスカウトを待つ俗に言う釣り堀スタイル。そして……事務所に属さずにセルフプロデュースをする独立独歩スタイル」
そう言いながら、安部さんは手慣れた手つきでトランプをシャッフルした。
注文内容、『メイドさんとゲーム対決!(700YEN)』。メイドさんと楽しくゲームができる素敵メニューだ。ゲーム内容はお店にあるものであれば僕が好きに選んでいいとのことだったので、なんとなくトランプをすることにした。そんな訳で、今僕は安部さんと対面してトランプ遊びに興じている。ちなみに加蓮はスマホ遊びに興じていた、何でも知り合いからメッセが飛んできたとのこと。
「そのセルフプロデュースってやつ、凄く気になる」
「……荊の道です」
そう言って、安部さんは遠い目をした。
「ステージの予約……作曲家さんへの依頼料……減る貯金残高……自分のチケットは売れ残る癖に、ご用意出来ない推しのチケット……売れ残った自作グッズの数々……部屋に積み上がる在庫のダンボール……先の見えない不安、ただ年月だけが過ぎて行くも進展の見えない日々……ゥッ!」
語れば語るほど安部さんの目はどんよりと曇って行った。
「菜々、怖い」
加蓮がスマホから顔を上げて、若干引き気味にそう言うと、安部さんは、
「ま、まあ! ありすちゃんならまだまだ若いですから! 色んな選択肢があると思いますよ!」
高校生の安部さんが小学生の橘さんの事を若いと称すのは少しヘンテコで思わず笑ってしまった。
「エッ゛、今どこか笑うところありましたっ!?」
「いや、ないですけども。あっ、ステイで」
手札の点数が17になったので、ステイをかけた。
ブラックジャックの基本戦術は、大雑把に言うとこんな風に17以上になったらカードを引くのをやめて、ステイすることだ。17以上でヒットすると21を軽く超えてバーストしてしまう確率が非常に高くなるからだ。カウンティングという技術を使えばもっと戦術の幅は広がるのだが、基本的に17以上は危険という事に変わりはない。17以上でヒットはバースト、これ基本にて奥義なり。
「ステイでいいんですか? 本当にいいんですか?」
「良いです」
「よーし、じゃあハイ! ってあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
バーストである。トランプを空に撒き散らせて安部さんは机に突っ伏した。
突っ伏したまま、安部さんは口を開いた。
「アイドルになるってことだけを目指すなら、誰でもアイドルにはなれたりします。事務所はピンからキリまであるので、事務所を選ばないのなら、誰でも入れちゃうようなところもあるにはあるので」
「あの子にはちゃんとしたところに入って欲しいかな」
「アンタはあの子の父親か」
加蓮からツッコミが入った。安部さんは難しい顔をして、
「ちゃんとしたところ、いわゆる大手となると難しいですね。みんなそこを狙いますから、当然競争も熾烈です。養成所通いは当たり前、劇団での経験者や雅楽とか、色々やってる子と競い合わないといけないです」
「橘さん、お稽古事はそういえばやった経験がないって言ってたな……」
音楽教室に将来通う予定はあったらしいが、今の所それらしい事をやったことはないのだという。空白の石版の如く、アイドルを目指す子達の中では橘さんは本当にまっさらな白紙状態だろう。
「となると、他の子と比較されちゃいますから、ちょっと大変かもですね」
「競争率の高い王道スタイルと、運よく声がかかるのを待つ釣り堀スタイル……。そう聞くと、セルフプロデュースってやつの方が現実味がありそう」
「いや、ほんっとうに荊の道ですから、それ! 難しいです!」
「難しい難しいって言ってるけど、菜々だってアイドウボァッ」
加蓮が何か言いかけたその瞬間、安部さんが音を置き去りにして加蓮の口を塞いだ。
「お嬢様? どうされました?」
「手、手。手どけてってもー。どうしたもこうしたも……って、あっ」
あっと声をあげて、加蓮はスマホをみやった。
「ごめん、呼び出しかかっちゃった。ちょっと別件の話もしたかったんだけど、また今度ね」
「あ、はいはい。今日はありがとう」
そう言うや否や、加蓮は風のようにぴゅうっと店から出て行った。
残されたのは僕と安部さん二人だ。
「じゃあまあ、とりあえずは王道で考えてみる事にしますね」
「はい、その方がいいと思います! もしあれだったら、また相談してください!」
その後少し喋った後、僕はお会計を済ませる事にして、
「……たっか」
メイド喫茶のお値段の高さに度肝を抜かれたのだった。
4/くまですよぉ
翌日、大手事務所なるものの情報を調べるために、インターネットを泳いでいるとピンポンとインターホンが鳴った。
ドアを開けると、
「やほ」
「……なんで?」
加蓮がいた。
話を聞くと、あの後メッセで安部さんと話をした際に、安部さんの家に遊びに行く約束を取り付けたのだと言う。
安部さんの家イコール僕の隣の家であり、安部さん家に行くがてら、こっちの家もついでに見にきたのだと言う。何と言うフットワークの軽さ。
「昨日お金払い忘れてたから、そのお返しも兼ねて。入ってOK?」
「ダメです、男の一人暮らしです。片付けてないです、入っちゃダメです」
「却下します」
却下されてしまった。
加蓮は家に上がると、
「……女の匂いがする」
「部屋入ってきて早々、変な発言するのやめてもらえます?」
「はー、結構片付いてるじゃん」
「そりゃまあ、最低限くらいはね……」
そんなことを話していると、
ティロリン♪
スマホの着信音だ。どうやら加蓮のスマホが鳴ったようだ。
加蓮はスマホを覗き込んだ後、すたすたと壁際に歩み寄った。
そして、
ドン!
壁をぶっ叩いた。
「ちょ、なにしてんの」
「耐震強度の確認」
言いつつ、ドンドンドンドン! とさらに叩く。
「ストップ迷惑行為」
「大丈夫、こっちは菜々の家だから」
「だから問題でしょ」
「というか、ほんっとに壁薄……」
「安いからね、ここ……」
「というか、このクマなに?」
「え? ああ……これ?」
そう言って、加蓮が指差したのは部屋の隅に堂々と鎮座するテディベアだった。
いつぞやのテディベアである。鷺沢さんがこの部屋に来た時は、彼女はそこまでテディベアに対して反応しなかったのだが、加蓮は、
「なに、こんな趣味あったの?」
「断じてないって。前言わなかったっけ、部屋の前に置かれてたんだよそれ」
「あー、なんか言っていた気がする……」
楽しげにテディベアに駆け寄ると、加蓮はひょいとテディベアを持ち上げた。
「あっ、ちょっと重いね」
「…………ん?」
さらっとスルーしそうになったが、なんか凄く重要なことを言った気がする。
というか、それ、
「何で持ち上げれてるんです……?」
「え、なにが?」
「いや、そのテディベア、持てなくない……?」
「え、そんなに? 重いっちゃ重いけどさ」
「いやいや、これ運び込む時重くて引き摺った覚えがあるんだけど」
「嘘だあ、ほら持ってみてよ」
言われて持ってみると、確かに軽かった。
記憶違いか……?
自分の記憶に不安を覚え始めた頃、加蓮がある事に気がついた。
「左手首リボンついてる、このリボンちょっと可愛いじゃん。……ってあれ、頭とれるんだ。もしかしてこれ、着ぐるみ?」
「へ?」
加蓮がテディベアの頭をスポッと外した。
中を覗き込む。確かに、人一人入れそうな感じはした。
加蓮が冗談半分に口にする、
「運び込む時、実は中に誰かいたとか」
「ははは、まさか。そんな」
「だよね。……ねえ、どこからが冗談?」
「全部ガチです」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
僕らは顔を見合わせ、HAHAHAと笑い合った。
「えっ……急にホラーテイストでてくるの?」
「怖っ……えっ怖っ……嘘っ、怖……」
「清水、ちょっとそれ怖いんだけど……」
部屋の温度が体感10度くらい下がったような気がした。
そしてその数秒後、もの凄く鈍い音と何かが壊れるような音が僕らを貫いた。
音は壁の方から聞こえ、僕らは共にそちらを見て絶句した。
安部さんだった。
安部さんが、壁から生えていた。
僕の家の壁に大穴を開けて、バタンキューといった感じで、いやむしろデローンといった感じだろうか。ともかく、安部さんが壁から上半身をこちらに覗かせていた。
安部さんはしばらくの間、身動き一つしなかった。
ためらいがちに、呟くように加蓮が言う、
「……菜々、なにやってんの?」
5/最後の壁をぶち破れ
それは、加蓮と清水がテディベアの秘密を発見して戦々恐々する数分前のことだった。
法に準拠していないのではないかというほど壁の薄いこのアパートでは、筒抜けとは言わないまでも、隣の生活音が嫌でも耳に入る。
そのため、加蓮らしき声が清水の家から聞こえてきた菜々は、
『ぜーったい、清水くんには私のこと言わないでくださいよ!』
と加蓮にメッセージを送った。すると、応酬として壁ドンを食らった。
薄い壁であるため、凄い衝撃が伝わり菜々は思わずわっと声をあげてしまった。
ぐぬぬとしながら菜々は壁に耳をぺとっと押し当てた。盗み聞きである。
だが、なにやら喋っているようなのだが、不明瞭で聞き取りづらい。
より集中して聞くと、断片的だがようやくいくつかの言葉を拾うことができた。
『怖い……清水』
あの二人なんばしよっとね。
そういえば昔、聴診器のようにコップを壁に当てると音を聞き取りやすくなるとテレビで昔やっていた。
台所に走り引き戸からコップを取り出すと、すぐさま戻ろうとした。
さてここで一つ、菜々の名誉のために補足をしなければならないことがある。
菜々は綺麗好きであるということだ。
部屋の整理整頓は行き届いており、洗い物はすぐに片付けるようにしているし、洗濯物にも必要なものはきちんとアイロンをかけて収納するようにしている。水回りはいつもピカピカだ。
あえて苦言を呈するべき場所を挙げるとするならば、物が多すぎるという点だが、どちらかといえば物が多いのではなく、むしろ部屋が狭すぎるのが問題だ。
それはそれとして、一人暮らしというのは得てしてそうなのだが、手の届く所に日用使いするものを置く習性がある。
例えば本を読むことが趣味な人は、卓上に常に本が置かれているものだし、ゲームが好きな人なら手近にゲームを置く。とにかく手の届くところにものを置く、これが一人暮らしの大原則だ。
であるからして、日常的に使っている小顔ローラーがたまたま床上に放置されているのは、整理整頓を怠っていたからではなく、菜々が日頃からそれを愛用しているからであり。
そのため、それを踏みつけてすってんコロンで勢いあまって壁に頭から激突したとしても、それはそれは仕方がないことなのである。そして、その壁がやはりというべきか法に準拠しておらず薄い壁だったとしても、それはそれは仕方がないことなのである。
たったったったと走るほど広くもない部屋をプラスチックコップ片手に走った菜々は、ローラーに足を取られ、
「あ゛っ!」
つるん、と滑った。
そして轟音が、部屋に響き渡った。
不思議と、菜々に痛みはなかった。幸いな事に、怪我もない。
ただ、おびただしい量の冷や汗が、菜々の体を滝のように流れていた。
自分が何をやったのか即座に理解した菜々は、動くこともできず、ただそこで固まっていることしかできなかった。
しばらくして、加蓮からかけられる声。その声は、ある種の哀れみを帯びていた。
「……菜々、なにやってんの?」
その声に対し、菜々は絞り出すようにこう答えた、
「……めっ、メルヘンリフォーム」