「――ただいま」
シンと静まった部屋に僕の声が響く。
返事はない。
一人暮らしを初めてこの方、家で誰かが僕を迎えてくれたことは一度もない。
それは引越しをしても変わらなかった。まあ変わったら変わったで怖いのだが。
誰もいない家に帰りたくない……なんて思っていたのも昔の話で、今となっては慣れっこになってしまった。慣れとは恐ろしいものである。この間の正月に実家に帰った時なんて、出迎える人がいる事が逆に違和感になっていて驚いた。
さて。
引越し後の用事はあらかた済ませたため、手持ち無沙汰だ。
こんな時、授業があれば遊びにいけるのだが、生憎と今は春休みである。
春休みであれ大学へ遊びに行くことは可能なのだが、理由もなしにわざわざ休みの大学へ顔を出すほど酔狂な人間ではない。
どの道あと数週間で嫌でも授業に出ることになるのだから、今しかできないことをやりたいものだ。
そう思ったのは良いものの、今しかできないことが何なのかが分からない。
結局、部屋の片隅で縦積みされている段ボール箱を片すくらいしかすることがなかった僕は、貴重な昼の時間を費やして巣作りに勤しんだわけである。
部屋とは家主の性格が一番出やすい場所だ。使っている道具や家具、本棚の中身から家主がどのような人物かを想像できる。
そういう意味では僕の部屋はなんというか、普通っぽかった。平均。そんな言葉が頭をよぎる。
折角の機会だし、ド派手な部屋にしようか。ピンクの絨毯とか買ってきたりして。
……やめよう、不毛だ。
窓の外を見ると、いつのまにやら太陽が沈みつつあった。夕暮れ時である。
いつもなら夕食の用意を始める時間だが、今は冷蔵庫も調味料も空っぽのためそれが出来ない。なにより、近場にどんな上手い飯屋があるかを知りたいため、用意する必要すらない。
けれども夕食を食べるにはまだ時間的に余裕があり、つまるところ――
僕はPCを立ち上げた。暇になったらこれしかないのである。
管理人 :しみずさんが入室しました。
:ONLINE 3人(読書子,ウサミン,しみず) OFFLINE 2人
しみず :こんちわー
読書子 :こんにちは〉しみず
ウサミン:おっ噂をすれば
:こんにちわ☆〉しみず
IRC。今となっては懐かしいチャットツールの一つだ。多分、ゲームをする人くらいしか使ってないんじゃないだろうか。PC環境がなければまず利用できないため、最近はお目にかかる機会が滅多に無い。
お互いの顔も詳しい素性も知らない僕らが集まるのは、そんな辺鄙なチャット場だ。
今となってはただのお喋り処にしかなっていないが、これでも昔は高貴な目的を持って皆集まっていたのである。
本当に、今ではただのシャベリ場でしかないのだが。
そもそもトゥーイッターとかスカイポーとかあるのだから、喋るだけならそういう便利ツールを使えばいいのだが、それはそれである。
しみず :噂?
読書子 :……お引越し、したんですよね?
しみず :ああ、うん。さっき挨拶とか済ませたトコ
ウサミン:ちゃんと言いつけは守ったんですね。偉い偉い
しみず :でしょ
:ウサミンの言うとおり、普段と違うことやるって良いね
ウサミン:そうでしょうともそうでしょうとも
しみず :なんかさ、本当にいつもと違う景色が見れるもんだね
読書子 :といいますと……?
しみず :隣が女の子だったんだけどさ
ウサミン:ついに春が来ましたか!
しみず :いや確かに春もちっとしたら来るけど。そろそろ春分だし
:違くて、リアルJKがいた
読書子 :わりとありふれていると思うんですけど……。
:女子高生ってそんなに珍しいものですか?
ウサミン:とびきり可愛かったとか?
しみず :いや、なんか自己紹介が尖ってた
ウサミン:はぁ
読書子 :……刺しに来たんですか?
しみず :うん
ウサミン:刺されたんですか!
しみず :「○○です☆17才です☆ミ」って感じで言われたの
:ジェネレーションギャップを感じたね、うん
読書子 :本当に「17歳です☆ミ」って言われたんですか?
:創作はやめてくださいね?
しみず :ホントホント。まあ口調はちょっと作ったけど
:最近の若い子って皆あんな感じなのかな
:個性獲得しすぎでしょ
ウサミン:あの、見た目は?
しみず :見た目? えーと、可愛かったよ
ウサミン:や、背丈とか、髪とか格好とか
しみず :んー、そんな喋ってないし詳しく覚えてないなー
:あ、背は低かったね。髪はオレンジ掛かったって言うのかな?
:あとあれだ。真っ赤なジャージ姿だった
直後、ドン! という大きな音がお隣さんから聞こえてきた。
大きなものを落としたのだろうか。
ウサミン:ンン~~゛
:あ、ちょっと離席します
読書子 :はい
:そうだ、読んで欲しい本見つけたんですけど。
:また読んでもらって良いですか?>しみず
しみず :オッケー
:近所に馴染みの古書店があってさ、今度から楽になるよ
読書子 :へえ、古書店ですか
その時、ピンポーンとインターホンが鳴った。
しみず :ごめん、こっちも離席
僕はそうタイプして、立ち上がった。
越してきたばかりなのに来客とは珍しい。新聞か宗教勧誘だろうか。
そう思いながらドアを開けると、
「突然すみません、隣の安部です」
先ほど挨拶を済ませた"少女"がそこにいた。
「あ、どうも」
「あの、急にごめんなさい。えーと」
訪ねてきたというのに、少女は口ごもる。
何か問題でもあったのだろうか。騒音は出してないと思うので、近所迷惑を咎める類の話ではないと思うのだが。
「あの! 醤油!」
「へ?」
「お醤油ありませんか? すみません、今切らしちゃってて。お借りできないかなーって」
ははは、と少女は笑う。
「あーごめんなさい、今調味料とか全部切らしてるんですよね」
「いえいえいえ、突然お尋ねしたこちらが悪かったので。はい。それじゃあ」
そう言うやいなや、少女は自身の家に戻っていった。
何だったのだろうか。あれか、ファーストコンタクトで優しいお兄さんを僕は演じれたのだろうか。正直よくわからん。謎い。
そう思いながら、僕はチャットに戻った。
しみず : ただいま やっぱ不思議な子だわ
読書子 : はあ。
: ああ、先ほど言われていたお隣の?
しみず : うん なんか醤油ありませんか? って言われた
読書子 : 今時、古風な方……なんですね。
しみず : 古風って言うのかな、それ
ウサミン:くぇ
管理人 :ウサミンさんが退室しました。
:ONLINE 2人(読書子,しみず) OFFLINE 3人
読書子 :……何かあったんでしょうか?
しみず :わっかんない
:まあウサミンなら大丈夫でしょ
読書子 :それもそうですね
その後、僕らは飽きるまで本について語り合った。
まあ語り合ったと言っても、僕は殆ど聞きに徹していたのだけれど。