1/とある朝
3月、桜の花がそろそろ開こうとする時期である今日この頃は、すっかり気温も落ち着いてきた。けれども明け方はまだ寒い。庭に出るとぶるりと凍える寒さ。明け方特有の冷気である。
そんな寒さでみんな布団に縮こまっている夜明け、程なく陽が昇る時刻の五時に僕は目を覚ました。
どうやら僕という人間は随分と図太いらしい。越してきたばかりの家で、今まで通りの生活ができるのだから。
呆れながら運動着に着替える。ランニングシューズを履いて外に。
アスファルトで舗装された道路を走る。
肌寒い空気を肺に取り込み、吐き出す。幾度となく行われた規則的な呼吸が、寝起きの自分に染み込んでくる。
体がじんわりと熱を帯び、同時に頭が覚醒していく。寝ている時にバラバラになった自分が、走ることで再構築される。そんな気分だった。
足の赴くままに走る。
いつもの走り慣れた道では無い見知らぬ土地。自然と心が弾んだ。
6分で1キロという遅めの走りは、景色を見渡しながら走るのにはもってこいで。
折り返そうか、と思った頃合いによく行く古書店があった。当然ながら、こんな朝っぱらから開店してはいない。
僕は一息ついて少しだけペースを落とし、朝露の降りた街を心ゆくまま眺めた。
「はっ……はっ……」
アパートに着く頃には息が少し荒れていた。慣れない道を走ったからだろう。そのうち、この街で走ることにも慣れるだろうが。
アパートの庭にある樹に身を任せ、呼吸を整える。陽は昇り、生活音が聞こえて来る時間。柔らかい日差しに包まれながらぼうっとしていると、階段から誰かが降りてきた。
目をやるとそこには例の少女がいた。
赤いジャージを着た彼女は、ゴミ袋を片手に階段を下りる真っ最中だった。髪はこの間と同様ボサボサ。あまり頓着しないタチなのだろうか。まあその辺りは人よりけりか。知り合いにはゴミ捨てに行くだけのためにメイクをする人もいるのだから、その対極に位置する人がいても不思議は無い。
そんな事を考えていると、目があった。向こうもこちらに気づいたようだ。
「やっ、おはよう」
「あ。お、おはようございます」
そこで会話が終わるかと思ったら、何故だか彼女は僕の前で止まった。
「ええと……こんな朝早くからゴミ出しなんて偉いね?」
「へっ? い、いえ、これは当然というか仕方なくというか……」
言いつつ彼女はゴミ袋を背の方にすすっと隠した。ビール缶がちらりと目に入る。親の酒量に比例して増えるそのゴミを見ると、一人暮らしで良かったと思う。にしても彼女の家族はなかなかの酒豪らしい。
そんな家庭事情の詮索に気づいたかどうかは分からないが、彼女はその話題を打ち切るように僕に尋ねてきた。
「あの、その格好は……もしかして走り込みですか?」
「ああ、うん。ちょっとね、ランニングしてきたんだ」
「何かスポーツとかしているんですか?」
「いや、ただ単に健康のため……かな? 前、人に言われてね。若いうちに運動する癖を付けていた方が良いよってさ」
「へ、へぇ……」
彼女はさっと目を逸らした。今の会話の中に目を逸らすような要素があっただろうか。あれか、もう少し面白い返しを求めていたのか。確かに、年上の自分語りほどつまらないものは無い。
「あー……そんな事より安部さんも朝早いんだね」
「へ? いや、今日はたまた……まではなく、いつもこの時間です! 私もジョギングしてたりみたいな? だからジャージみたいな?!」
「な、なるほど」
ごみ捨て場近くで餌を待ちわびていたカラス達が大きな声に驚き飛び立った。
急に捲し立てられて少しばかり僕も驚く。失礼な話だが、スイッチの入り方が普通の人とはどこか違って、何だか面白い。
顔に笑いが張り付かないよう空を仰いでごまかしているとあることに気づいた。
「桜……」
「はい? ああ、この木ですか。そうですね、桜の木ですよ。まだ蕾んでますけど」
風情があると言えば良いのだろうか。四季を感じられる桜の木がアパートの庭先にあったのだ。つい先ほどまで体を預けていた樹のことである。
「毎年この時期になると満開になるんですよ」
「良いですねー」
「まあ掃除が大変なんですけどね。自主的な当番制ですから……」
「それ自主的って言わないんじゃ……」
「あはは。それもそうですね!」
けど、と彼女は言葉を濁した。そして、
「今年も満開の桜が観れると良いなって、そう思っているんです。いや、今年だけじゃなく、来年も、そのまた先も。そう、思っているんです」
万感の思いを込めて、彼女はそう言った。桜の満開を願う。それが意味することは
「そっか。大変だろうけど頑張ってね、応援してるよ」
「はい! ……はい? な、ナンノコトデスカ」
またもや目を逸らす。多分この人って致命的なまでに嘘とかをつくのが下手だろうなって思う。だって顔に全部出るのだから。でも不思議だ。殊更に隠す必要があるのだろうか。それともフリだったり?
「いや、受験のことかなって」
「あーはいはい。ん? ……んん?」
急に安堵したと思いきや、唇に手を当てながら彼女は数瞬黙り込んだ。コロコロと表情が変わる。そして、
「ハハハ、ソウデスヨー。ナナハジュケンヲヒカエテルンデスヨー」
なんか壊れた。
やはり、受験の事を口に出すのはデリカシーに欠けていただろうか。ちょっとばかし踏み込み過ぎていた。
どうも彼女と話していると、なぜだか距離感が狂う。少し反省。
「あ、あの。何かすみません。じゃ、自分はこれで失礼します」
「キヲツケテー」
僕は居心地の悪さから逃げるように、その場を後にした。
2/古書店にて
『清水クンさー、今日ちょーーーっと時間ある? あるよねぇ?』
『ありますけど、もしかしてまたですか?』
『悪ィねー、またなんだけどさぁ』
先輩からのコールの内容は、いたってシンプルである。
バイトの当番変わってくれというやつだ。月に2回はあるのでもう慣れてしまった。断ってもゴネてくるので最近はもう諦めていて素直に従っている。心の中では密かに先輩の事をゴネ得おじさんと呼んでいる。当番を代わったら後日、美味しいご飯を奢ってくれるので差し引き0といったところか。バイト代が入り美味い飯が食べられる分プラスだろうか?
『あ、そうそう言い忘れた事があったけど、今日の子、新規さんだからそこんとこヨロシクー』
『は?』
『ちなみに割と有名な私立小だから気ィーつけるように、いじょっ! 解散!』
そう言って一方的に電話を切られた。
明らかに面倒ごとの押し付けだった。
塾講師のアルバイトをしていて面倒な事トップ3に入るのが、新規さんの授業だ。
大学全入時代といわれる昨今では、どの塾も子供という獲物を狙っている。それはマンツーマン制であるウチの塾も例外では無い。
初回授業無料! 自習室を夜遅くまで開放! 教師の交換自由!
そんな消費者目線に立った学びの場が僕の働く場所である。多分ウチの塾で勉強をするくらいなら、図書館の自習室を使った方が有意義だろうが、それは口が裂けても言えない。
だって割の良いバイトだからだ。
塾へ向かうにはまだ時間があるので、僕は古書店に立ち寄った。
鷺沢書店。質の良い本を配給してくれる良い古書店だ。ネット通販と大型書店の台頭によって街にある小さな書店はどれもこれも潰れたが、古本屋は意外と生き残っている。むしろ、生き生きしている。顧客のターゲットが違うからだろうか。
「こんにちはー」
「…………こんにちは」
店内に入るといつもの少女が目に入った。
顔を隠すように前髪を下ろしながらも、その隙間から窺える澄んだ瞳。顔はいつも下を向いており、本から目を離す事は稀だ。白のヘアバンドが黒髪を惹き立てる。ゆったりとした服装の上にストールを纏う。在り来たりだが、深窓の令嬢という言葉以外に彼女を正しく表現する言葉は見当たらない。
少女はコクリと頷くと、本を静かに閉じた。彼女はいつもこうやって本を読みながら店番をしている。
この古書店に通う主な理由は彼女にある。単純に可愛らしい女の子が店番をしているお店で買い物をしたいという俗物的な理由は勿論ある。勿論あるが、それ以上に――
「今日は何かお探しですか?」
「はい、芥川の本をちょっと」
「……わかりました」
――彼女が凄い人だからである。
彼女は睨むように本棚を左から右へ見ていく。本を読んでいた姿とは打って変わって、話しかけづらい雰囲気を醸し出す。
そして、目当ての本を探し出すと、スッ、スッ、と片っ端から抜いて行く。彼女の前には、すでに五、六冊も積まれていた。
こちらがキーワードを言うと、それに適した本を何冊も選び抜く。
まるで、僕が求めているものが何なのか最初から分かっているかのようだ。
これがこの古書店に僕が足繁く通う一番の理由である。僕では読みたい本と読むべき本の区別がつかないから、本当にありがたい。
このお店のどこにどの本があるかを知らないと出来ない芸当で、僕とそんなに歳が変わらなそうな女性にそんな芸当ができるなんて只々驚嘆する。
選び終えたのか、彼女はふぅと息をついて席に戻った。
「いつもありがとうございます、お蔭で楽しく本が読めてます」
「いえ、仕事ですから。それにしても……芥川ですか」
「はい」
「芥川……良いですよね、芥川。明治が誇る知的エリートの一人。西洋文学の手法を学び日本文学の基礎を作り上げた巨匠。現代人が簡単に読める難しい古典。そして、悲しい作家」
「………………」
口を挟む暇すらなく、彼女は喋り通した。
彼女は自分のやっている事に気づいたのか、頬を赤く染めると本で顔を隠した。
「あ……すみません。つい、熱が入ってしまって……」
「いえ、面白い話が聞けてよかったです」
好きな事の話になると、大半の人は夢中になって話すが、彼女もまた同じだった。あんなに熱心に喋る姿は初めてみた。というより、彼女が僕に語りかけてくる事自体が初めての出来事である。
「そう言われると救われます……。それではまたいらして下さい、清水さん」
「はい、今日は本当に有難うございます」
懐事情と勘案して、選んでもらったうちの二冊を購入した。
バイト代が勢いよく飛んでいくのは大体これのせいである。だが、読書子と喋るためにはこのくらいの出費、どうって事無い。
店を出て、暫くして僕は心の中の靄を口に出した。
「僕はあの子に名を教えたことがあったっけ?」
3/ありすとの出会い
指紋の付いてない美しい窓ガラス。橘ありすから感じた印象は、まさにそれだった。触れたら汚れてしまうような、少し力を入れてしまえばすぐにヒビが入ってしまうような。そんな印象を抱かずにはいられない少女だった。
「あの、私すぐに辞めるので、お構いなく」
開口一番、彼女はピシャリと言い放った。
その言葉は明らかに拒絶を意味していた。
新規の塾生の授業と聞いて、少し浮き足立ちながらも授業に臨んだのが先の話である。そしたらこれだ。一体全体、彼女に何があったのだろうか。
橘ありす。小学六年生。名門私立に通ううら若き少女。僕が授業前に知っていた情報と言ったら、これくらいだった。
新規さんは何かしらの問題を抱えているものなのだが、どうやら彼女の場合は家庭環境での問題らしい。 大方、本人の意思を考慮せず塾に入れられたといったところか。私立の小学生がどのような問題を抱えているか、僕にはそれくらいしか想像がつかなかった。
ともあれ、ここでこの少女のいう事を「はいそうですか」と聞く事はできない。何せ、新規の契約はボーナスに繋がるのだから。かと言って彼女の問題を解決するには僕らは他人すぎていて。
まあそんな事はどうでも良かった。
正直なところ、僕は軽く傷ついていた。センチメンタルな僕の心は簡単に傷つくのだ。
だってそうだろう、年端も行かない少女から、「あなたから教わる事はなにもありませんですわ、すわっ(お嬢様風)」と言われたら誰だって傷つく。そのくらいの自尊心はある。
だから僕は持ち得る知識を総動員して鼻持ちならないこの少女を潰してやることにした。完璧に私怨である。大人げない。けど黙ってはいられなかったのである。そういうものなのだ。
「好きな科目は?」
「あの、お気持ちは嬉しいんですが、本当に今日しかこないので」
「いいから、ほら」
「……音楽です。あと国語が得意です」
「ふーん、そっか……ちょっと教科書貸して貰える?」
「……はい」
塾を続ける気はないと言っておきながらも、しっかりと学校の教科書は持ってきていたようだ。マンツーマン制のウチの塾は、塾生の学校の教科書を使って授業をするのが基本である。
まあ、彼女の場合は副本と言ったほうが正しいのだが。
「へー、私立となると小学校から扱う題材がしっかりしてるんだねー」
橘ありすの教科書をぱらぱらめくると、面白そうな題材が幾つかあった。これなら何とか持ってる知識でいけそうだ。
「あーこれとか良いじゃん。芥川龍之介の「羅生門」ってもう授業でやった?」
「それ、去年のですから……」
「ああ、全部やったってことね、なるほどなるほど。じゃあさ、この話の筋って覚えている?」
「……えっと、暇を出された下人が羅生門で雨宿りをしようとする。すると、死体漁りをする老婆と遭遇する。そして下人は老婆から衣服を剥ぎ取り、逃げ出す。こんな感じ……です」
「……すご、よく覚えているね」
「はい、得意なので」
褒められて気を良くしたのか、少し声のトーンが上がる。国語が得意、というのは嘘ではなかったようだ。
「じゃあ聞きたいんだけど、何で下人は老婆から衣服を奪ったの?」
「……えっ? それは、下人が盗人になる決心をしたからです」
「本当に?」
何当たり前の事を聞いているんだ? というような怪訝とした表情で彼女はこちらの顔を見つめた。
「いいかい? 実はね、この羅生門を書いた当時、芥川は酷い失恋をしたんだ――」
僕は語りながら、記憶の淵に手をかける。
読書子 :芥川は当時、酷い失恋をしました。親からの反対で恋仲を諦めたんです。
:だから、と言えばいいのでしょうか。芥川は作中で皮肉な行為を下人にさせたのです。
:この作品は皮肉なんです。もしかしたら親へのメッセージだったのかもしれません。
:親のエゴで子の恋仲を好きにして良いならば、親もまた他者のエゴで好きにされる。
:自分がエゴを行使して良いなら、他人のエゴも受け入れないといけなくなる。
:そんな皮肉が、下人の行動原理から読み取れるんです。
:……こう読むのも、面白く無いですか?
「――だから下人は老婆から衣服を剥ぎ取り京の街に姿を消したんだ」
「………………」
「とまあ、明治が誇る知的エリートの一人。西洋文学の手法を学び日本文学の基礎を作り上げた巨匠が書いた作品は一筋縄ではいかないわけだよ。こう、なんだろう、多角的に見るといえばいいのかな」
「………………」
「あの、橘さん?」
会話とはコミュニケーションであり、言葉のキャッチボールが出来ていないと成立しない。さっきまで僕は、読書子の語った内容を思い出しながら語るという無茶な事をしていたせいで、橘さんの様子を伺えないどころか、会話すらしていなかった。一方的に喋ってしまった。
やってしまった、と僕は内心頭を抱えた。
この少女をコテンパンにしてやろうと息巻いていたのが運の尽き、過ぎた気持ちは身を滅ぼすものである。本来の目的を忘れて、いつのまにやら僕は読書子から得た知識を垂れ流す存在に成り果てていた。これでは僕が彼女を打ちのめしたことにはならない。
そんな暗鬱となった僕の気持ちとは裏腹に、
「……お兄さん、また来ます」
「……ん?」
黙り込んでいた橘さんは、小さく声を出した。
「……さっきは失礼な態度、すみませんでした」
「き、気にしなくていいよ?」
急な態度の変化。嫌な予感がした。
僕の予感というのはよく当たる。主に、悪い方でだ。
僕はこの少女を打ちのめすどころか――
「だから、その……おもしろいこと、たくさん教えてください。また、来ますから」
「あ、ああ。もちろんだともさ」
「良かった」
――その気にさせてしまったようである。
授業はそれで終了し、彼女を見送った後、僕はトイレの個室に篭った。
今日、橘ありすに話した内容の大部分は読書子に拠るものである。そして、僕の話の種といったらこれくらいしかない。
なのに橘ありすは今後も授業を続けるという。あんな態度だった橘ありすを改心させた読書子の文学知識は友人として誇らしい。けれど、けれど……。
今後も、僕が橘ありすの授業を続けることになるのならば。それはかなりヤバイというやつで。
つまるところ、
「読書子ーーーーッ! 助けてくれーーーーッ!」
神頼みならぬ友頼みをするしかなかった。
貧弱な知識が橘ありすに露呈する日が来れば、破滅である。
僕は祈るように、読書子の知識に縋り付くしかなかった。