1/橘ありす対策本部
カチコチと時計の針が進む音が部屋に響く。
ほうじ茶を茶碗に注ぎ直し、ぐびりと飲む。かれこれ三杯目だ。考え事の最中はどうも口寂しくなり、飲み物を多量に胃へ注ぎ込んでしまう。
……さて、どうしたものか。
目下の悩みは、やはりというべきか、橘さんについてである。
橘ありすの初回授業が終わって僕は、途方に暮れたまま家に帰った。
あの授業の後、僕は教室長――塾アルバイトの総括係のようなものだ――に取り敢えず指示を仰いでみた。報・連・相と普段から口やかましく言う教室長ならば、嬉々として橘ありすの授業計画を立ててくれるのではないかと仄かに期待したからだ。
だが、帰ってきた返事は、ひどく淡白なものだった。
『あー……彼女は特別だから、本人がそれで満足してるんなら好きに授業しちゃって良いよ?』
それだけだった。
特別。そこには、色々な意味が込められていた。
成績優秀である橘ありすは、私立小学に通う小学六年生である。正確に言うと、この4月から六年生だ。
そんな彼女が通う小学校は、エスカレーター式で進める小中高一貫校らしい。学内順位によっては進級試験が必要となる生徒もいるそうだが、橘さんの成績ではその心配は無いとの事だそうな。
『それ、ウチの塾に通う理由無いっすよね?』と、僕がその場で思わず教室長に尋ねてしまったのも無理は無いと思う。何せ、ウチの塾は中学・高校受験向けの塾なのだから。
ビジネスモデルに合ってない生徒を何迎え入れてるんすか? っていう疑問が出るのは当然である。
さて。
そんなこんなで僕は、橘さんの授業を考えないといけなくなったのである。
当然ながら、塾にある既存の授業マニュアルでは対応不可能な案件だ。
もしも全国のどこかの塾に、小学生向けの文学案内書があるなら拝見したいものだ。それも、少女向けの。
そう、少女である。少女なのである。
これが僕にとって、一番頭を悩ます問題だった。
小6の女の子が喜んで読む文学作品ってなんぞや?
自信を持って言えることだが、僕の周囲の人間に文学少女はいなかった。
遠い記憶、小学生の頃を思い出す。あの頃に本を嗜んでいた少年少女達なんていただろうか? いや、いない。
あの頃の……小学生の頃の僕たちは、感情を爆発させることで必死だった。
男の子達はドッジボールを、女の子達は……多分日記を交換することに全身全霊を捧げていたと思う。今のヤング達はIineの交換だろうか? まあいい。
走り、喋り、触れ合い、笑う。
そこに価値を見出していた僕らに、ブンガクというものを渡されても読むワケが無い。土台無理な話だ。
ともかく、僕の知る限り、あのお年頃で文学に興味を持つ知的少女はいなかったわけである。そして今僕が受け持っている生徒、橘ありすはそんな稀有な知的少女らしい。
芥川の話をしてワクワクするような子なのだから多分、知的な少女なのだろう。おそらく。
そんな少女の知的欲求を満たすためにどうするべきかという問いを考えに考えた挙句、最初に出した答えに舞い戻った。
読書子先生にご意見を頂戴しよう、という答えにだ。
無類の読書好きである読書子ならば、文学に興味持ってる少女への読書案内をさらりと行ってくれるような気がした。
……読書子が気乗りするかどうかによって今後の進退が大きく変わりそうだ。
僕は祈るように、ENTERキーを押した。
管理人 :しみずさんが入室しました。
:ONLINE 4人(ウサミン,水仙,読書子,しみず)OFFLINE 1人
水仙 :しみずー
:オフ会
:参加
:OK?
しみず :OK!
水仙 :よし
ウサミン:いやOKじゃないでしょうに
:もうちょっとこう、考えてから返事をですね
こうして、僕の短期記憶から橘さんの情報は、オフ会という派手でパーティーな単語によって上書きされたのであった。
2/オフ会へ行こう
水仙 :もー、ウサミンもしみずのようにOKしてよー
ウサミン:いやー急すぎますし
:人と会うには、こう……
:相応の準備というものがありましてですね?
しみず :主催者は水仙?
水仙 :そ
オフ会をする、というのは昔からの皆の夢だった。
そして、今日に至るまで達成されていない夢でもあった。
日程が合わない、メンツが揃ってない、お金が無い、急用が入った、やっぱりお金が無い。
色々な理由付けによって、先延ばし先延ばしとされ有耶無耶となっていたのである。
しみず :にしても、何でまた急にオフ会を?
読書子 :何やら水仙さんが
:ここで言うのも憚られるような話がしたいそうでして
水仙 :いや、うん、まあ
:間違っては無いんだけど表現がちょっとおかしくない?
読書子 :そうでしょうか?
しみず :……ログを残せないような話でもする気です?
水仙 :そーじゃない
:うーん
:まあここで言えないワケじゃないんだけどさ
:直で相談したほうが話が早いっていうか
:直で意見を聞いてみたいっていうか
ウサミン:実際に会ってみないと話せないようなことってありますからね
:わかりますわかります
しみず :まあ、実際に会ってみたいよね
:みんなと
ウサミン:はは
読書子 :意外と、どこかで知り合ってるかもしれませんよ
水仙 :無い無い
しみず :関東どんだけ広いんだっていうね
ウサミン:はは
IRCメンバーが全員関東住まいである、という情報は結構前から出ていた。
だいぶ前の話だが、ギルマスが話の弾みでポロっと口に出してしまったのである。今日もINしていないサーバー管理者の”ギルマス”が、だ。
ギルマス曰く、サーバーに接続している以上、IPからある程度の地域は分かるものらしい。管理者権限というやつである。ネットって怖い。
しみず :ちなみにいつやるの?
水仙 :えーと……明日
しみず :……えらく急っすね
ウサミン:だから私無理なんですって
読書子 :上に同じく、です
水仙 :急用だから、なるべく早い方が良いんだけど
:しみずも無理なら……
しみず :いけるいける
水仙 :やった
明日オフ会やりまーす、と言われて即時対応できるのは暇を持て余した大学生か、石油王くらいのものだろう。仕事がある社会人には無理な相談だ。自営業ならワンチャンあるのだろうか? その辺はよく分からないが、まあまず無理だろう。
水仙 :てーことで、今回の参加は二人ってことで
:ギルマスがいないのがちょーっと残念だけど
しみず :ああ、最近顔出さないね
読書子 :お仕事がお忙しいそうで
ウサミン:ああ、羨ましいですこと
しみず :……羨むとこ、それ?
当IRCの管理者がオフ会に顔を出さないのは残念な事だ。
IN率がここ最近極端に減ったギルマスだが、ログはしっかり読んでおり、たまに書き込みもあるから生存確認はできている。尚、書き込みの大半が、「睡眠時間やばい」「仕事いっぱいお休みなし」「食べる量が増えてるのに体重は増えない」という僕らを大変心配させる内容なので、生存確認と呼べるかは疑問だ。
その後適当に駄弁り、お開きモードとなった。
読書子 :あ、私落ちますね
ウサミン:なら私も雪崩で
管理人 :読書子さんが退室しました。
:ウサミンさんが退室しました。
しみず :じゃ、僕もそろそろ
:じゃあ明日の午後に、また
水仙 :はいはーい
管理人 :しみずさんが退室しました。
パソコンの電源を落とし、明日会う水仙の事を考える。
水仙は一体どんな人なんだろうか。
アニメの話でウサミンと盛り上がる花火はどんな人なのだろうか。
ぱっと思いつくのは、線の細い少年である。もしかしたら青年かもしれない。何となく線は細そうだ。色白で部屋から出ないタイプ。夜9時になると必ず落ちるから健康的かもしれない。
まあ、これ以上考えるのはやめておこう。せっかくの機会だ、会ってからのお楽しみにしようじゃないか。
そこまで考えて、ハッと思い出す。
「……読書子に相談するの忘れてた」
やらかした。
3/Narcissus
「さて……何を着たものか」
陽はすでに高く昇っており、日課であるランニングから歯磨きまで手早く済ませた僕は、今日着るものに悩んでいた。
オフ会に着ていくもの。
今更服装に悩むお年頃では無いのだが、オフ会に出るとなると話は別である。
初対面でありながら、親しい仲。アンビバレントフレンド(今命名した)と会うにあたって、どのような態度で臨めばいいのかイマイチ判断つかなかった。
そして悩んだ挙句、いつもの服装と相成った。Tシャツにジャケットという極めて無難な構成である。
待ち合わせの時間に間に合うよう家を出ると、アパートの門の前で安部さんと遭遇した。エンカウント率の高さが驚異的である。
安部さんは箒で庭を掃いている真っ最中だった。
ザッザッザと小気味よく箒で掃く。
確か、今週は彼女の当番ではなかったはずなのだが。
「掃除ですか?」
「はい! ちょーっと汚れていたので」
偉い人だなあ、とただただ感心。
自分の当番でも無いのに、「気がついた人がやれば綺麗になるじゃ無いですか」って言えるのは素敵だ。ちなみに僕は気がついても人目を気にして出来ないタイプ。
「これからお出掛けですか?」
「ええ、ちょっと街の方へ」
「そうですか。では気をつけて行ってらっしゃいませ〜♪」
「あはは。じゃ、行ってきます」
久しぶりに見送りを受けたな、と思いながら僕は駅の方へ歩いた。
駅へ向かう途中、古書店の前で足を止める。
「……ありゃ」
古書店のシャッターが閉まっていた。珍しいこともあるものだ。
『急用につき本日休業』
と、可愛らしい文字で書かれていた。あの店員さんが書いたのだろうか? 見た目からすると、達筆そうなイメージだったのだが、丸文字だった。ちょっとギャップを感じた。
にしても、閉まっているのは残念極まりない。
電車に乗っている間に読めるような本を見繕っておきたかったのだが。
まあ、閉まっているのだから仕方が無い。
その場を後にして僕は電車に乗り、待ち合わせ場所に向かった。
約束の20分前に、待ち合わせ場所に辿り着く。
平日の昼間ということもあってか、人通りは少なかった。
とりあえず、水仙っぽい人がいないかどうか探してみるが周囲には、金髪のガラが悪い兄ちゃん、銀髪のシュッとしたミステリアス系男子、赤毛の少女、目を合わせてはいけない系の緑髪メガネ、栗毛色の髪のギャルと種々様々な人々はいるのだが、どうも水仙っぽい人はいなかった。
人間観察にも飽きた頃合いに、ポケットに入れていた携帯がブルリと震える。
『ついた?』
『着いた着いた』
水仙からのメールだった。即座に返信。メールは既読という嫌な機能が無いから素晴らしいと思う。
『今日何着てるの?』
『黒Tに温い茶色のジャケット』
『ああ、居た』
どうやら水仙は僕のことがわかったらしい。
さて、どんな人が来るのだろうか。
鼓動が少し高まる。
7割の期待と、3割の不安。入り交じって不思議な気持ちになる。
「あ、あー。しみず?」
「水仙……さん?」
栗毛の髪のギャルが、僕の名を呼んだ。
女子だった。女子だったのだ。水仙は女子だったのだ。
マジっすかサンデー。
4/アイドルデビュー
「本名でネットをするって……。呆れた。ネットリテラシーって知ってる?」
「今痛感しています」
「はあ……」
ずずず、と彼女はジュースを飲む。
とりあえずどこか店にでも入ろうか、と提案したのが先の話である。
そしたらモックドナルドになった。
モックのような強い味がこの少女は好きらしい。僕も好きっちゃ好きなのだが。オフ会でハンバーガーチェーン店というのも珍しいものだ。
「改まって言うのも変な感じだけど、北条加蓮……です、ヨロシク」
「これはご丁寧に、僕は」
「ああ、うん。知ってるから」
「……ですよね」
ですよねーあはは、と笑いながら僕は目の前にいる北条加蓮を観察していた。
白のセーターに赤と黒のチェック柄スカートを着て、よくわかんないオシャンティーな首飾りをしている彼女は、なんというか、底抜けに明るいという印象を僕に与える。
……僕が抱いていた彼女のイメージがガラガラと崩れ落ちた。
水仙といえば、IRCにどっぷりと浸かり、古いアニメとアイドルにやたら詳しい不思議ちゃんだった。
そんな人がまさか時流に乗る少女とは思いもしないだろう。というか女性って時点でもうイメージガラガラである。
「なにジロジロ見ちゃってさ」
「いや、ちょっとイメージと違いすぎて」
「ふーん? ちなみにどの辺が?」
「性別?」
「あれ……もしかしてこれってケンカ売られてるの?」
「滅相もございません。にしてもあれだ、ネットでは気楽にしゃべれるけど、現実だとちょっと気恥ずかしいね」
「そう? アタシは平気かなー。まあ、清水が予想通りの人だった、って部分が大きいのかもしれないけど」
「予想通り、ねえ」
「その様子だと、アタシの印象、随分違ったんだ」
「ああ、うん。かなり」
「ふーん。そっかそっか」
北条加蓮は少しだけ嬉しそうに頷いた。
その後、僕らは互いの距離感を測るようにダベった。ウサミンのことや読書子の事から、学校はどうか、大学はどんなところかそんな感じの事をダラダラと。
ネットとリアルの架橋がまあまあ出来、場がそこそこ温まってきた頃合いに、北条加蓮は切り出した。
「あの……ちょっと聞きたいことあるんだけどさ」
「ああ、例の?」
「…………うん」
IRCで言っていたリアルじゃないと言えない話。
北条加蓮がオフ会を開かないといけないと思い立った話。それも急の急に。
僕は唾をごくりと飲み込み、北条さんの声に耳をかたむける。
「あのさ、私の顔をよーく見て」
「はい」
人差し指をピンと立てて、北条さんは顔に注意を向けるよう僕に合図する。
「聞きたいんだけどさ」
「はい」
「もっとよーく私を見て」
「……はい」
「もっとよーくもっとよーく」
「…………はい」
「私、アイドルに見える?」
「………………はい?」
僕は、目を瞬かせた。
北条さんの言った内容を反芻する。
アイドルに見える?
それは友人から「ユーって芸能人の○×に似てるよね〜」って言われたとかそういう話だろうか? いや、そんなはずは無いだろう。あってたまるか。
ということはもしかして、アレなのか?
IRCでダベっていた彼女は実は仮初めの姿で、本当は売れっ子アイドルとか、そういうオチなのか?
北条さんは僕の返事をじっと待っていた。けれど、何て返事をすればいいのかわからない。
「やっぱ見えないよねー」
僕の返事が遅かったためか、ため息をつきながら北条加蓮はそう言った。
「え、アイドルなの?」
「……あーいや、そうじゃ無い。そうじゃなくてさー、こないだ、スカウトされたんだ」
「アイドルに?」
「うん」
「すっげえ!」
僕の言語回路が驚きのあまり退化した。すっげえって、お前。すっげえって。
「……清水ってスグ信じるんだね」
「巡り巡って壺買わされたりするの? この話の流れで?」
「そうじゃないけど。まあいいや」
そう言って北条加蓮はポテトを摘んだ。
ポテトを指先で弄びながら言う。
「つい勢いで、アイドルなりますって言っちゃったんだよね、スカウトの人に」
「後悔してるの?」
「後悔しているわけじゃ無いんだけどさあ。場の勢いで返事すると後の自分が大変な目に遭うんだなあってしみじみと分かったわけ」
「わかる、それすっごくわかる」
「で、リアルな感想が欲しかったわけ。身内の」
「自分がアイドルっぽいかどうか?」
「”今の”自分がアイドルっぽいかどうか」
今の、という部分を強調した加蓮は、残っていたポテトをパクパクっと一気に平らげた。
「次会う時は、絶対にアイドルの北条加蓮だって言わせるから」
「……何でキレ気味なんすか」
「自分にキレてんの」
「器用なことで」
そんなこんなで、北条加蓮のお悩み相談は終了した。
お悩み相談というより、自分に対するアイドル宣言だった気がするが、細かいことは気にするまい。
その後、僕らは街中をあっちへフラフラこっちへフラフラ彷徨った。
そして――。
「あれって……」
「ん? どうかしたの?」
見覚えのあるシルエットを見つけ、僕は立ち止まった。北条加蓮が不思議そうな顔をする。
こんな街中で? とは思いつつ、相手に向かって手を振る。どうやら向こうも気づいたようだ。
その子は、こちらにやってきた。
「お兄さん? その……奇遇ですね」
例の少女、橘ありすが。
5/一方、安部菜々は……
「行ってらっしゃいませ〜♪」
清水が克美荘――清水が越したアパートである――の敷居から出て行って暫くして、菜々は箒の動きを止めた。
「……行きましたか」
そう呟いて、そそくさと菜々は部屋に戻る。
水仙のオフ会の話を聞いて、出たくないわけがなかった。仮にも長年チャットした仲である。昔のアニメの話で盛り上がれるのが、水仙しかいなかったので親近感を持っていたのだ。
そんな水仙の「是非ともリアルで話したい相談事」である。行きたくないわけがない。けど行けない。普通には行けない。
それもこれも、清水のせいである。
ああ、何でよりにもよって隣に越してきたのか。一瞬ストーカーか? と身構えたが彼奴め、マジで気づいてない。ありえねえ。どんな偶然だ。
しかもよりにもよって、曰く付きの隣部屋に越してきたのだから、もう訳がわからない。
清水が越してきたあの部屋はこのアパートの中でも一番安い部屋である。
その安さには理由があった。いわゆる、ワケアリ物件である。
菜々がこのアパートに住む前に、自殺者が出たらしい。以来、その部屋に住むと祟りが起きるそうな。業を煮やした大家さんが除霊師を呼んだが、除霊師は部屋に入った瞬間叫び声をあげて失神したとのこと。スゴヤバである。
「うーん、制服を着てたほうがカモフラできますかねえ」
全身鏡を見ながら呟く菜々。肌のハリは中高生に負けず劣らず。身長も低く、童顔。制服姿も結構イケている。女子高生で普通に通るだろう。
まあ、春休み中に制服を着て尚且つ髪を栗色に染めていたら嫌でも目立つのでカモフラージュも何も無いのだが、本人はその事に気づいていない。
正直に清水にゲロってしまえばこんな面倒なことをしなくても良いのだが、それは何だか菜々としては嫌だった。何となく嫌だった。でも水仙のリアル姿を見てみたかった。欲張りである。
駅までの道のりを歩いていると、ガラガラとシャッターが開く音がした。
古書店である。
出てきたのは、若い女性だった。かなり美人。
その女性はシャッターを閉めると、トコトコと菜々の前を歩いて行った。
菜々は特に興味を持つこともなく、そのまま歩いた。
(モックに入った!)
時は過ぎ、清水と水仙の待ち合わせ現場を目撃した菜々は、水仙の若さとギャルさに驚愕しながらも、極めて冷静に二人の追跡を行った。なんかもう趣旨が変わっているが、楽しくなってきたので仕方が無い。
(モックに入るのは愚行。ならば……)
丁度いいところに喫茶店があった。迷わず入る。
(アレ? あの人は確か……)
みると、古書店から出てきた女性がそこにいた。窓際の席に丁度座ったところだった。
その女性は窓の外を一瞥した後、文庫本を鞄から取り出して読み始めた。
(うーん?)
考えていると、店員がやってきた。
「ご注文は?」
「あっと、コーヒーでお願いします。ホットコーヒーで」
角砂糖を二個入れて、飲む。
(あっ美味しい。純喫茶って入るの久々だなー。……でもコーヒー1杯にしては高いなぁ)
値段分楽しむべく、ちびりちびりと飲んでいると、視線を感じた。
視線の主を探る。
視線の主は、大柄なスーツ姿の男性だった。顔は少し厳つい。
そんな背広姿の男が、コーヒーを飲みながら菜々を凝視していた。
もしもその男の視線がレーザーだったら、今頃菜々は七面鳥になっていただろう。
菜々は気づいていないふりをした。だって怖いし。
清水達の話は結構盛り上がっているらしく、なかなか出てこない。
菜々は少しためらった後、二杯目のコーヒーを頼んだ。
今度はミルクを入れる。
すると、二人が店から出てきた。
(嘘っ! タイミングが悪い!)
コーヒーと清水らの間で視線を往復させる。
500円硬貨をコーヒーに幻視した。純喫茶のコーヒーは高いのである。
菜々は躊躇した後、淹れたてのコーヒーをぐいと飲み干した。
(あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛)
喉が焼けた。涙目である。顔が面白い事になった。
菜々の事を見つめていた背広姿の男が、その様を見て「おぉ……」と感嘆の声を小さくあげた。
「ん゛ん゛っ! お会計お願いします!」
菜々は会計を済ますと、清水らの後を追跡した。
6/そして、鷺沢文香は。
ペラリペラリとページを捲り、最後のページを捲り終えたのちに、パタンと本を閉じる。
(この書もまた、良い旅でした)
ふぅと一息ついたのち、コーヒーカップの縁を指でなぞる。
考え事をするときの癖であった。
(はて、何か用事があったような……)
なぞなぞ。
なぞなぞ。
なぞなぞ。
(あっ……ああっ)
慌ててモックを見る。清水らの姿はもう、ない。
(またやってしまいました…………)
鷺沢文香。趣味は読書。特技はどこでも集中して本が読めること。欠点は本を読み出すと読み終わるまで動けなくなるとこ。
ガックリと肩を落とす。
(…………せっかく遠出をしたのに)
家から出ない本の虫こと鷺沢文香にとって、今日の外出は遠出だった。なんだか、1日を無駄にした気がした。
(…………久しぶりに、新刊でも見て回りましょうか。確かこの辺に、大きな書店があったはずです)
安部菜々がその店を出てからしばらくした後、鷺沢文香も店を後にした。