逃げ水   作:ピト

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 楽しんでくれたら幸いです。


Prologue

 軽く息を吸った。一家揃っての夕食の席に着いている私は、目の前の母を見つめた。左隣には姉さん、右隣の家長席には父、そして左斜め前には兄さんが座っている。いつもとは違う席順に少々違和感が拭えない。いつもなら兄さんと姉さんが隣り合う形で座り、私の横には母が座っていたからだ。母を正面に向かいながら食事をするのは何年振りだろうか…。兄さんの隣を姉さんと取り合ったあの頃以来だろうか…。不思議な感じだと思った。

 

「雪乃?」

 

 食事の手を止めていた私に、母が首を傾げて呼び掛けてきた。その母の声よって、私はハッと意識を戻した。今日は私が一歩を踏み出す日なんだと、母に私の意思を伝えるために実家に帰って来たのだということを思い出した。

 

「母さん、今日は大事な話があるの」

 

 私は内心の緊張を隠すように、努めて気丈を装い、話を切り出した。母は私の真剣な雰囲気を感じ取って居住まいを正した。途端に、母の威圧が私を襲った。私は昔からこの母の姿が苦手だった。

 

「お話?いったいどういうお話かしら?」

 

 母の遺伝子は受け継いでいるはずなのだけれど、鋭利な刃物の如き母の瞳は実の親とは思えない程私の身を削っていく。習性とはなかなか変わらないもので、昔のように目線を逸らしてしまう。すると左隣の姉さんが視界に入った。

 

「ダメだよ、雪乃ちゃん」

 

 無意識に縋るような視線を向けてしまっていたのだろうか。姉さんは私を強く嗜めた。しかしそれでも、心の弱い私は分かっていてもつい遠くの兄さんにまで顔を向けてしまう。いつも私を助けてくれる兄さんに期待してしまう。

 

「…助けが必要?」

 

 兄さんから言われた言葉は、私が心の隅で欲してしまっていたものだった。けれども、兄さんの表情はいつもの凛々しく格好良いものとは全く異なっていた。まるで私に失望しそうな、そんな怖い雰囲気があった。ここで兄さんの助力を借りてしまえばどうなってしまうのか。それは想像に難くない。このままでは、私は前に踏み出せない。それは嫌だ。

 姉さんと兄さんのらしい後押しをもらった私は、一度深呼吸をして、再度母に向き直った。幸いにも、母は私のことを待っていてくれた。目つきの鋭さは変わっていないのだけれど、ちゃんと私の心の準備ができるのを待っていてくれた。瞬間的に過去の思い出を遡った。そして、私は母のことを誤解していたのかもしれないと僅かながらに思うことができた。私の悟りが正しいのであるなら、なんて不器用な親子だったのだろうか。

 

「母さん」

 

 私はもう怖くない。母は、私のお母さんなのだから。私は、この母の娘なのだから。

 

「私の進路のことで話しておきたいことがあるのだけれど…」

「…言ってごらんなさい」

 

 私は雪ノ下雪乃。自分の意思でこの道を選び取って進んでいく。

 

「私、お父さんの仕事に興味があるの」

 

 口に出してしまえば、思いの外呆気ないものだった。何故今まで言うことが出来なかったのだろうかと感じるほどだった。だけれども、それは言葉に出した今だからこそ思えることなのだ。

 

「将来はお父さんと同じ仕事に携わりたいと思っているの。大学もソッチ方面の学部に進学するつもり。真剣に考えた私のやりたいことだから、母さんにも知っておいて欲しいの」

 

 母は小さく口を開き、目も見開いて私の話を聞いていた。

 

「………本気なのね?」

 

 母の問いに私は頷く。緊張が私を蝕む。しかし、母は予想外に柔和な笑みを浮かべた。

 

「………そう」

 

 短い確認も、どこか噛み締めるようにして呟かれた。母の雰囲気からしても悪くはなさそうな反応なのだけれど、まだちょっと不安な私がいる。母は本当に認めてくれるだろうか。

 

「陽人と陽乃は知ってたのよね?」

「うん、知ってたよー」

「知ってた」

 

 母が矛先を私から兄さんと姉さんに変えた。二人は何事でもない様子でいつも通りの口調で答えていた。

 

「……いいの?」

 

 兄さんと姉さんの態度から、母は色々と察しているだろうが、改めて確認を取っていた。

 

「雪乃ちゃんがやりたいならやらせてあげればいいんじゃない?ね、陽人?」

「ああ。俺も賛同するよ。雪乃がやるというなら不満は特にないからさ」

 

 姉さんは前々から言っていたように賛成してくれて、兄さんは姉さんに次いで同意して私に微笑んでくれた。兄さんのこの微笑みが私は好きだ。実の兄でなければ惚れてしまうところだった。同時に何かが背筋にゾクゾクと走る感覚には今や慣れっこ。これはいったい何なのかしらね。

 

「あなた。あなたはどう思いますか?」

 

 今度は半分空気になっていた父に母の矛先が向いた。

 

「えっ?あっ、ぼ、僕?えー、あー、うん、まあ雪乃がやりたいと言うのなら応援することもやぶさかではないというか……」

 

 我が父ながら煮え切らない。ほんっっと、彼とそっくりね。嗜好ってやっぱり親に似るのかしらね?

 

「あなた、はっきりなさい」

 

 母が普段から強めの眼力を更に増大させ、氷の女王の如く冷気をその身に纏わせた。家では最底辺に位置する父は、そんな母の雰囲気に慌て始める。

 

「お、応援する!僕も賛成だよ!やりたいことをやってくれるのが1番だから!」

 

 家の外では幾分シャキッとしているのに、家の中では母のお尻に敷かれ、姉さんの掌の上で踊り、兄さんに慰められる父。その姿はもう見慣れたものだ。それこそ私の物心付いた頃からこの上下関係は変わらないから。今思えば幼児であった兄さんに慰められる父親ってどうなの?昔はそれが当たり前で何とも思ってなかったのだけれど…。しかし、そんな父でも賛成してくれるのは素直に嬉しい。あの時、一人暮らしの手配をしてくれたのは父だし、父のことは嫌いではないし、嫌いにはなれない。

 

「雪乃」

 

 母が私を呼んだ。その声音には、いつもの厳しさに混じる暖かさが感じられた。

 

「はい」

 

 以前は厳しい母の声にビクビクと怯えていたのだけれど、今では何ともない。…ちょっぴり怖いけれど。

 

「ここにいる私たち家族は雪乃が選んだ道を応援するわ。私も出来る限り力になりましょう」

 

 『私も』と母はそう言った。その瞬間、私は心が奥深くから熱くなった。あの母が、私の進路を正式に認めてくれたんだと実感できたから。

 

「ありが──」

「──ですが」

 

 お礼を述べようとすると、母が遮って言葉をかぶせた。

 

「貴女がやると口にした以上途中で投げ出すことは許しません。どんなに辛くても、弱音を吐いても、逃げ出すことはさせません。いいわね?」

 

 これも、母なりの最後の忠告であるのだろう。厳しくスパルタな母に似合った私を心配する言葉だ。

 

「もちろんよ。私は必ず成し遂げてみせるわ」

 

 私は心の余裕を持てていた。母の忠告という名の心配する言葉が、私への挑発に聞こえるほど落ち着いていた。私はこう見えて負けず嫌いなのだ。売られた喧嘩は相場の2倍で買うのがデフォルト。あまりみくびらないでほしいわ。それに私が逃げ出すことは、私の背中を押してくれた兄さんと姉さんの顔に泥を塗るのと同じ。そんなことできようはずがない。二人の妹として私は改めて誓った。

 

「良かったね、雪乃ちゃん」

「姉さん…」

 

 隣に座っている姉さんが私に祝いの言葉をかけてくれた。姉さんには幼い頃から嫌というほどトラウマを植え付けられて来たのだけれど、今この瞬間だけは私は姉さんのことが大好きだ。この人の妹で良かったと思う。

 

「姉さん、ありがとう」

 

 だから、自然と言葉が紡げた。

 

「ん?なにが??」

 

 姉さんは私が突然お礼を言ったことにキョトンと呆けた表情をしていた。

 

「えっと…、その…、兄さんもなのだれど、口添えをしてくれたこととか…」

 

 あの悪魔の様に見えていた姉さんに対して素直にお礼を言ったことが徐々に恥ずかしくなって来た私は、段々と言葉が尻すぼみになっていく。頬もちょっと熱い。

 

「………プッ!アハハハハハ!雪乃ちゃん可愛い〜!」

 

 突如として笑い出した姉さん。やっぱり素直にお礼なんて言うものじゃなかったかしら?ツンツンと私の少々赤みを帯びたほっぺたをつつく姉さんに、私は軽く後悔の念を覚えた。

 

「ねっ、姉さんっ、やめてちょうだ──」

 

 姉さんを払い除けようとした時、突然柔らかい感触に包み込まれた。同時にふわりと甘く良い香りが鼻腔をくすぐった。

 

「私も陽人も雪乃ちゃんのお兄ちゃんお姉ちゃんなんだよ?可愛い妹のやりたいことはやらせてあげたいし、頼りにされたら応えてあげるのは当然のことなんだよ?」

「姉さん………」

 

 姉さんに抱き締められた私は、彼女の言葉に思わず涙が出そうになった。姉さんの性格を考えると少し意訳をしなければならないのだろうが、今だけはそれを抜きにして言葉の表面だけを汲み取りたい。私とは格別した差のある体の部位も、いつもなら悲しく苛立たしくなるのだけれど、この時ばかりは身を委ねてしまいたくなるくらい安心感があった。

 

「まっ、私たちは別に家を継ぎたいとかっていう気持ちもないしね。むしろ雪乃ちゃんがやってくれるならどうぞって感じだし」

 

 私から体を離して、せっかくの良い雰囲気をぶち壊してしまうのもある意味姉さんらしい、か……。しかし、そんないつもの姉さんの態度が私の気持ちの昂りを落ち着かさせる。姉さんが狙ってやったとは思わないのだけれど、うるっと来ていた私の涙腺を止めるだけの効果はあった。

 

「雪乃、方針が定まったとして、大学はどこに行く?俺たちと同じか?」

 

 聞き心地の良い低音ボイスで兄さんが次の話題へと誘う。我が家で唯一母に真っ向から立ち向かって喧嘩をし、勝利を納めたことのある超人。私の誇り。

 

「そうね。兄さん姉さんと同じ学び舎に通うのも良いし、地元の国立、もしくは〇〇田の政経も候補に入っているわ。正確にはまだ決めていないのだけれど」

「ふ〜ん。早〇〇の政経、ねぇ……」

 

 私の述べた志望校の一つを姉さんが意味深に繰り返した。ニッタリとした下衆い姉さんの笑みは、私に対してトラウマを植え付けようとする時のものにそっくりだった。嫌な予感しかしない。

 

「そうだよねぇ〜。彼の数学を今から鍛えようとすれば大変だものねぇ〜」

 

 くっ!この悪魔!鬼!陽乃!

 

「…彼?…ああ、彼のことね」

 

 母が何かに納得した様に頷いた。兄さんはただただ苦笑いだ。1番変化があったのは父で、持っていた箸をポトリと落として茫然としていた。…汚い。

 

「なっ、何を言っているのかしら私は別に今の状況と学力とを鑑みて将来の方針を合わせたにすぎないのだけれど邪な催促をしないでもらえるかしらそもそも進路について絶対にそうしなければならないということはないのだしまだ候補の段階にしかすぎないのだから多角的に検討することは当然のことじゃないかしら今の時期から早々に決めてしまっては視野が狭まるだけだと思うしこういう類いのものは様々な可能性を考慮してそれに対する対策見直し修正を繰り返してやっと見つけていくものよ」

 

 …ふう。これだけ完璧な論破ができれば誤魔化せたでしょう。体力が無いってやっぱりキツいわね。あれ?姉さんはどうしてまだ道化師のような笑顔を浮かべているのかしら?あら?母が今まで見たことがないくらいとってもイイ笑顔だわ。ん?兄さんはどうして私に背を向けてプルプルと震えているの?そっちはキッチンしかないのだけれど?父が白目を剥いている。息をしてるのかしら?…まあ、どうでもいいことね。

 

「そう言えば、一度彼とはちゃんとお話ししたいわね」

 

 ………え?

 

「雪乃ちゃんが家を継ぐなら彼にはお婿さんとして来てくれないといけないからその許可も取らないとだね〜」

 

 えっ?えっ?

 

「あなたはいったいいつまで呆けているんですか。雪乃、貴女もいつまで動揺してるの」

「お父さ〜ん!雪乃ちゃんね、お父さんに紹介したい子がいるんだってさ」

 

 ちょっと姉さん!?

 

「………雪乃」

「ひゃい!」

 

 うう…。父に呼ばれたら変に意識して噛んでしまった。

 

「今の陽乃の話は本当かい?」

 

 戸惑いながらも事の真偽を真剣に問うてくる父。既に逃げ場は無くなっていた。

 

「いや、…その、…彼もまだ気持ちが落ち着いていないし、私もまだ紹介する勇気がないのだけれど、…その、…いつか彼と会ってくれると嬉しい、…です」

 

 恥ずかしい…。今日一番顔が赤いのがわかる。まともに父の方へ目を合わせられない。

 

「そうか…、いや、……そうか」

 

 父は力の無い呟きを発した。

 

「うん…、まあ、雪乃たちの準備が出来たら会おう」

 

 悲しげでいて寂しさも混じる父の声音。その姿には哀愁が漂っていた。

 

「………ありがとう。でも、彼、とっても臆病だからちょっと時間はかかるかも……」

 

 彼のことだ。あの手この手を使って逃げようとするだろうし。

 

「あ〜、絶対彼なら逃げようとするわね。雪乃ちゃん、ちゃんとリード付けとかないとどっか行っちゃうよ?いや、ホントに」

「いや、でも、あまり束縛するのは………」

「そんな心配いらないって。あの子ならそのうち受験があるからお互いに少し距離を置こうとか気持ち悪いことを言い出すタイプよ、アレは」

「あら、どこかの誰かさんとそっくりね」

「でしょ〜。だから雪乃ちゃんがしっかりしないと」

 

 う〜………、一理あるわ。彼が私のものになったとは言え、あの子たちもまだ油断ならないもの。

 

「それならなるべく早い時期にあちらのご家族とも顔合わせをしましょうか。ね、あなた?」

「えっ!?いっ、いやっ!さっ、最近はちょっと忙しい時期だからそういうのはちょっと…」

「はぁ…。そんなの何とかしてどうにかしなさいな。とは言えあなたが忙しいのは事実ではあるから、………そうねぇ、彼のご家族と連絡を密に取り合って5月中には顔合わせをしましょう。あなた、いいですね?」

「いや、でも──」

「──いいですね?」

「………ハイ」

 

 母の圧に頷いてしまう父。どう足掻こうが父は母に勝てないようだ。

 

「雪乃ちゃん、ああやるんだよ」

「勉強になるわ」

 

 私は心のメモ帳に今日の母のやり方を記録した。

 

「………陽人。ちょっと外に付き合ってくれ」

 

 父は項垂れたまま立ち上がってトボトボと歩き出し、外へと向かって行った。

 

「…陽人。あの人をお願いしていいかしら?あの人、多分ベロベロになるまで酔うつもりだわ」

 

 母が苦笑いしながら兄さんに父を頼む。

 

「…分かったよ。でも帰って来たらちゃんと……、いや、それは藪蛇か」

 

 兄さんが父の要請と母の頼み事を渋々承諾し、父の背中を追って行った。昔からのいつもの構図だ。女三人になったリビング。私たちは食器を片付けて食後のデザートにアイスと紅茶を準備する。

 

「母さん、父さんは大丈夫なの?」

 

父が兄さんに慰められるのはいつものことなのだけれど、今回の落ち込み具合は今までの比じゃない気がする。流石の私も少々心配になるほどに。なにせヤケ酒をしようとするくらいなのだから。

 

「娘が家から本当に出ていくかもしれない喪失感が凄かったのよ」

「でも私、最近まで一人暮らしだったのだけれど?」

「次元が違うわ。今までの貴女の暮らしは単なる一人暮らし、でも今度の話は貴女がすぐにではないとはいえ将来的に家庭を持つことを明確に示した。父親にとってはものすごく寂しいことなのよ、きっと」

 

 私は首を傾げた。

 

「将来的に家庭を持つことは普通ではないかしら?」

「親というのは不思議な生き物よ。あの人は貴女が彼に取られたと思っているのでしょうね」

「取られたも何も、もともと私は父さんのでもないもだけれど………」

「大切なものは自分の懐にしまい込んでおきたい。そう考えるの。雪乃が傷つかない為に、雪乃が不自由な暮らしをしない為に、あの人はそれを使命として捉えてる。不器用な生き方よね」

 

 母は微笑んで父さんと兄さんが消えて行った扉を見つめた。父親というモノは分からない。男性の心理は想像してもあまりピンとこない。

 

「貴女は気にしなくても構わないわ。でも将来、貴女は今の私と同じことを思うのでしょうね」

「何を思っているの?」

「それは………、時が来ればわかるわ。とにかくあの人が帰って来たら私もフォローするから大丈夫よ」

「兄さんが言いかけていたこと?」

「そうね………。私はあの人の妻だもの。いつもはほんのちょっと厳しくしてるけど、寄り添わなくてはならない時にはちゃんとあの人の隣にいるわ」

 

 『ほんのちょっと』ではない気がするのだけれど、これは口にしない方が身のためね。それにしても父が娘を想うのなら、母が息子を想う気持ちも同じなのかしら?兄さんが結婚………するかどうかは分からないのだけれど、もしそうなればこの厳格な母も先程の父みたいになるのだろうか?母は兄さんに対してどこか甘い気がするし、母が言い争いで負けたのも兄さんだけと考えれば可能性はある。

 

「なら母さん。兄さんがもし結婚するとなったらどうかしら?」

 

 私は興味本位で聞いた。そう、聞いてしまった。瞬間、部屋の温度が氷点下にまで下がる。目の前の母の冷笑から私は開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったと気付いた。

──さらに、これが同時に、我が家の眠っていた狂人を起こしてしまうキッカケとなることを、この時の私はまだ気が付いていなかった。隠れていた、いや、意図的に隠されていた鬼が我慢の限界を迎え、仮面を打ち破ったことに気が付かなかった。浅はかだった。二年前に偶然見てしまった光景。どうにもできなかった。今まで一度も踏み込んでこなかったことが、ついに表舞台に顔を出してしまう。

 

「………そうねぇ。………とりあえず陽人のお相手の方と密室でみっちり二人っきりでお話しするところから始めようかしら」

 

 とびっきりの笑顔に底冷えする声で母はこう言った。私は母の背後に般若を見た。それはまだ見ぬ仮想の人を射殺さんばかりのプレッシャーを放っていた。

 

「そ、そう」

「まあ、陽人が連れて来るのだから心配はすることはないでしょうけれど、もし私が納得できなかった時にはあの子を渡してあげるつもりはないわね」

 

 ………この人、本当に認めるつもりがあるのかが微妙だわ。言ってることが若干矛盾しているし………。

 私は兄さんが誰かと結婚するとなったらどう思うのだろうか?………何とはなしに心がポッカリ空いたような感じがする。ちょっと、………いや、大分悲しいわ。よし!その時になれば母に加勢しましょう。そうしましょう。ブラコン?非常に遺憾ながら認めざるを得ないようね。そんなことを気にするより兄さんの方が大事よ。………これじゃあ、彼のことを言えた立場じゃないわね。

 そう言えば、今まで兄さんのちゃんとしたそういう話は聞いたことがない。妹の私から見ても贔屓目なしに格好良くて優しくて、それに加えて学業でもスポーツでも隙が無い兄さんは、さぞかし周囲の女子たちを虜にしているはずなのだけれど。いつも姉さんが隣にいるからかしら?まあ、外でも二人でいる時の兄さん姉さんは恋人みたいに見えるし、お互いがお互いの壁になってたりするのだろうか?そうなるとやはり、あの日見た光景の辻褄が合ってしまう。

 

「陽人の浮いた話は聞いたことがないのだけど実際はどうなのかしらね、陽乃?」

 

 母も同じことを考えていたようだ。家族の中で、いや、この世の誰よりも長きに渡って兄さんの隣にいた姉さんにそのところを聞こうとするのは当然の帰結だった。

 

「………陽乃?」

 

 しかし、姉さんは母に問いかけられているにもかかわらず正面を無表情に見つめていた。その瞳はどこにも焦点が合っておらず、顔は精気が抜けたように不気味だった。

 

「………陽乃?どうしたの?」

 

 反応がない姉さんに母が再度呼びかけた。瞬き一つしない姉さんは、まるで人形が座っているのかと思う程動かなった。私は姉さんのあまりの豹変具合に目をしばたたかせ、彼女の肩を軽く揺すった。

 

「姉さん?どうしたの?」

 

 それでも反応しない姉さん。どうしたものかと、私はふと姉さんの膝上に置かれていた彼女の手を見て唐突に顔が真っ青になった。

 

「姉さんっ!血がっ!」

 

 姉さんの手に爪が食い込み、赤い血が滴り落ちていたのだ。私の切羽詰まった声を聞いた母もだいぶ慌てた。強く姉さんを揺するとやっと反応が返って来た。

 

「…どうしたの雪乃ちゃん?そんなに慌てて」

 

 まるで何事も無いように、私や母が動揺しているのがおかしなことのように姉さんは軽く言葉を紡いだ。姉さんの声は無機質な声だった。その声はあの日に聞いた声と酷似していた。ゾクッと言われようのない寒気が私を襲った。嫌な予感が止まらない。

 

「手を動かさないでっ!救急箱を持ってくるわっ!」

 

 そんな嫌な予感から目を背けるように、私は席を立って救急箱を取りに行く。

 

「………手?………ああ、なんだ血か………」

 

 私に言われてやっと、自分の手を見てやっと、姉さんは自分の手から出血していることに気が付いた。心底どうでも良さそうに自分の手を見つめる姉さん。

 

「陽乃、動かしてはダメ。おとなしくしていましょう、ね?」

 

 母も姉さんの隣に移動し、ただならぬ雰囲気で出血している手を弄ぶ姉さんを落ち着けようとしていた。私は急いで救急箱を携えて姉さんの許に駆け寄り、すぐさま処置を始めた。

 

「いったいどうしたというの陽乃?」

 

 いつもの厳しい母からは考えられない、どこか怯えを見せる母が姉さんに聞く。私は手当てを続けながら耳を傾けていた。

 

「………ねえ、お母さん」

 

 底冷えする単調とした姉さんの声音。母親譲りの鋭利さを内在し、それにさらに拍車をかけたすさまじいものだった。母と私は息を飲んだ。

 

「な、なにかしら?言ってごらんなさい?」

 

 母が恐る恐る、姉さんを決して刺激しないように優しく続きを促す。

 

「………私さ、一生結婚することはないと思う」

 

 私も母も姉さんの真意を計りかねた。沈黙ができる。リビングに備え付けられた少し大きな振り子時計の音だけが規則正しく鳴り響いている。

 

「そっ、それは別に構わないのだけれど………、今から結婚に悲観的になるのは早すぎるのではないかしら?ほっ、ほら、いつかは良い人が見つかるかもしれないし、結婚して良い事だってたくさんあるわ──」

 

 母が少々面を食らいながら矢継ぎ早に言葉を並べる。

 

「──んー、やっ、違う違う。別に結婚っていうのに悲観している訳じゃないよ。むしろできることならしたいしさ」

 

 姉さんは即座に母の予想を否定した。

 

「いい機会だし私が将来結婚することは絶対にないってちゃんと言っておこうかなって思ってね。変に将来に期待させとくのも悪いし、事前に言っておけば先の私を心配する必要もないでしょ?」 

 

 私は姉さんの傷の処置を終えた。

 

「ありがとう、雪乃ちゃん」

 

 姉さんは包帯が巻かれた手で私の頭を撫でた。その行為に、私は恐怖を感じた。

 

「………陽乃………貴女………様子が変よ?」

 

 姉さんが纏う空気は見たことがないモノだった。正確に言えば、姉さんが兄さんや一部の人たち以外には見せないモノだった。私があの日、そして極々偶に、偶然見てしまったモノ。姉さんはあの日、私が見ていたことを知らない。

 

「ああ、そう言えば雪乃ちゃんとお母さんの前じゃ初めてこの感情に支配されてるのね」

 

 母の疑問に姉さんは自己完結で終わる。姉さんが立ち上がってリビングの南にある窓のカーテンを開けた。瞬間、リビングの明かりが消えた。急な出来事に私も母も驚くが、それよりも何も動揺が見えない姉さんが徐々に月明かりに照らされる姿に釘付けで動けなかった。背中に冷や汗が伝う。

 

「お母さん、雪乃ちゃん、私ね、ずっと隠してたことがあるの」

 

 姉さんはそう前置きをした。ああ………、もう、駄目だ。

 

「私は結婚しない。ううん、違う。私は結婚できないの。陽人も結婚しないよ。ううん、これも違うかな。陽人は絶対に結婚させないよ。どこの誰にも渡さない」

 

 姉さんは能面を貼りつけたかの様な笑っているのに笑っていない表情をしていた。彼女の瞳からは光彩が消え失せ、口角だけが吊り上がっており、ひどく歪んでいる。

 

「ここまで言えばなんとくなく分かるでしょ?」

 

 姉さんは息を一度吸った。

 

「私ね、陽人のことを愛してるの」

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