逃げ水   作:ピト

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狡猾で獰猛な後輩

 陽乃が椅子に座って本を読んでいる。そのページをめくる速度は早かった。傍のテーブルに置いてある湯飲みに手を伸ばしながら読み進めていく。しばらく紙をめくっていると、陽乃の背面にある扉が開いた。

 

「終わった?」

 

 陽乃は扉に振り向くことをせずに喋る。扉から出て来たのは双子の兄である陽人だった。

 

「ああ。もう少し横になるそうだ」

「そ。なら早くシャワー浴びて来て」

「分かった」

 

 陽乃からのややぞんざいな扱いを受けながらも、陽人は嫌な顔一つせず了承を返した。無駄な脂肪を削ぎ落とした筋肉隆々な肉体。男が動く度に斜腹筋がセクシーに曲がる。陽人は髪をかき上げながら浴室のある部屋へと消えた。陽人の姿がバスルームに消えた後、陽乃は読んでいた文庫本からやっと顔を上げ、寝室から出てきた影を呆れと軽蔑を孕みながら睨んだ。

 

「これのどこがいいんだか。情欲を満たされて悦に浸るなんて愛じゃない。理性の欠片も無い雌に愛なんて育める訳がない。ほんっとに穢らわしい」

「ふふっ、本が逆さまですよー?」

「………雌猫がッ」

 

 

 

 

 

──────

 

 季節は秋。残暑もすっかりと鳴りを潜め、肌寒い日が一層増してきた頃。学生生活の最大のイベントの一つである修学旅行を終えた総武高校では、生徒会選挙の時期になっていた。と言っても、例年であれば今の時期に生徒会選挙は終わっているはずなのだが、様々な問題が重なった結果、延びに延びている状態なのだ。

 映画館のはす向かいにあるドーナツショップ。八幡はここにいた。観覧予定の映画の時間までの暇つぶしに寄っていたのだ。腕には本屋のビニール袋を引き下げ、彼の顔は少しばかり緩んでいる。

 

「おや、珍しい顔だ」

 

 席を探している八幡に女性の声が掛かった。振り向いてみると、そこには立ち襟の白いブラウスに目の粗いニットのカーディガン、深緑のロングスカートを纏った知り合いの姉の姿があった。首にヘッドホンをかけ、机の上には数冊の本が並んでいる。思わぬ人物との邂逅に、八幡の体が固まった。

 

「あ、ども………」

 

 八幡が軽く会釈をして、その場から足早に立ち去ろうとする。陽乃から距離を置いた席に腰を下ろし、焦ったようにコーヒーに口をつけ始めた。

 

「別に逃げることないじゃない。失礼だなー、もう」

 

 陽乃はトレーを携えて、離れた八幡の隣に移動した。

 

「あ、いや、お邪魔するのも悪いかと思いまして」

「こんなところで何してるの?」

「…映画までの時間つぶしを」

「ほー、じゃあ、私と似たようなものだね」

「…映画見るんですか?」

 

 八幡が露骨に嫌そうな顔をする。その反応を受けた陽乃は朗らかに笑った。

 

「んー、違う違う。ご飯行くまでの暇つぶしだよ。……うーん、後輩でいいのかな」

「???」

 

 八幡が首を傾げた。

 

「はあ、なら俺は邪魔にならないようにこの辺で」

「まだ先の話だよ?いいじゃん、お姉さんと一緒に時間潰ししようぜ~」

 

 再度離れようとした八幡の腕を陽乃が掴み、その距離を詰める。その後も離れた分だけ、陽乃は八幡に体を寄せていく。

 

「比企谷くんみたいなタイプって一番いいよね」

 

 耳元でささやかれた八幡の背筋に悪寒が走った。蠱惑的な声に艶やかな唇。一度落ちてしまえばどこまでも堕ちてしまいそうな黒い穴を覗く快感を一瞬覚えた。八幡は思わず大きく仰け反ってしまう。

 

「黙ってても話しかけてこない。けど、こっちが話しかけると答えてくれるじゃない?うんうん、暇つぶしにはもってこいの相手だね」

「ははは…」

「大抵の男子って会話しよう会話しようって頑張っちゃうからさ。そういうのって時折見苦しかったりしちゃうんだよね」

 

 陽乃は手元にあった本を再度開いて読み始めた。八幡もそれに倣いページをめくっていく。

 しばらくは紙のめくれる音が流れる。二人は時折コーヒーに入ったカップに口をつけ、八幡はドーナツを頬張っていた。

 

「比企谷くん」

「…なんすか?」

 

 時計の長針が訳半周回ったころ、陽乃が本を閉じて八幡に話しかけた。

 

「面白い話してー」

「………」

「その超嫌そうなリアクション。いやー、期待通り期待通り」

 

 陽乃は楽し気に爆笑し、腕を上に上げて大きく伸びをした。

 

「雪乃ちゃんは元気?」

「…まあ、普段と変わらずって感じですかね」

「そっか。ならよかった」

 

 陽乃がコーヒーカップに手を伸ばし、カップの縁をなぞるように指先を滑らせる。

 

「それで?………その後はどうかね、調子は?」

「はい?」

「少しは進展した?」

 

 陽乃の発言の意図が分からず、八幡が首を傾げた。

 

「修学旅行、あったんじゃないの?」

「よくご存じで」

「陽人が、ね」

「陽人さんが…?」

「電話で雪乃ちゃんと話してたから横で聞いてたの」

 

 陽乃は拗ねるように口を窄めた。両手の人差し指を幾度となく突き合わせている。

 

「わざわざ忙しい陽人に電話するんじゃなくて、私にかけてくればいいのに。比企谷くんもそう思わない?」

「っすね…」

「まあ、昔のあの子じゃ考えられないような楽しそうな写真がいっぱいだったのはうれしかったかな。比企谷くんも嫌そうだけどちゃんと映ってたし。こういうところはガハマちゃんのおかげかな」

「ははは…」

 

 愛想笑いする八幡。それを他所に陽乃はカップを傾けて黒いさざ波に視線を落とした。

 

「あの子はどこで踏み出せたのかなぁ…」

 

 静かなトーンで陽乃はコーヒーに向かって喋っている。彼女の纏う空気は空虚で、八幡はただ静かに見守ることしかできなかった。自身に話しかけられているとは思わなかったから。

 

「…つまんないなぁ、私って」

 

 陽乃はため息を吐いた後、カップに一口付け、曇天とした空模様に視線を移した。

 

「比企谷くんさ」

「…」

「今の私と似たにおいがする」

「………は?」

 

 八幡の思考がショートする。突然の展開に彼の頭はついていけなかった。そんな八幡の様子を感じ取った陽乃は、おかしそうにクスクスと小さく笑った。

 

「修学旅行で何をやらかしたの?」

「………」

 

 お互いの視線が合わさる。動揺が収まらない八幡に対して、陽乃は机に両肘をついて上唇の前で手を組んだ。

 

「…どういうことですか?」

「どうにも何も、それしか考えられないでしょ?だって今の君、私と一緒で一人ぼっちなんだもの」

「俺はいつでもぼっちですが…」

「それもそうだね」

 

 カラカラと乾いた笑い声が響く。

 

「それで?なにがあったの?」

 

 暗闇で光の反射した捕食者の瞳。それに睨まれている状態に八幡は陥っていた。誤魔化しはいらないと釘を刺されて。

 

「…修学旅行前にクラスの中心的グループの二人からそれぞれ依頼がありました。一人は告白を成功させたいというもので、もう一人は告白を阻止してほしいというものでした」

「修学旅行にはつきものの問題だね。告白したいのは男の子?女の子?」

「男です。そいつは一般的な恋愛感情の下で告白を決意したそうです。しかし、女子生徒の方はこの告白によってグループの関係性が壊れることを嫌い、俺たちに依頼してきました。今のグループの関係性が好きだと。だから、その状態を保ちたい」

「ふぅん」

「俺たちは当初、その女子生徒にその男子と付き合ってもいいと思えるくらいの好感度を持たせようとしていました。意図的に彼らをお膳立てする、よくある手法です。けれども、女子生徒は終始居心地が悪そうにして、とても効果があるようには思えません。誰もがこのままでは上手くいかないと分かっていました。その中でも彼は当たって砕けようとする。このままでは彼らのどちらの依頼を達成しえない」

「…」

「告白の現場。そこで俺は、彼らの間に割って入り、件の女子生徒に告白をしました」

「…問題の先延ばし?」

 

コテンと首をかしげた陽乃に、八幡は頷きをもって返事をした。

 

「俺にはそれしか選択肢がありませんから」

「うーん」

 

 腕を胸の前で組んだ陽乃は口元をムニュムニュさせながらうなり始めた。しばらくすると彼女は眉間に皺を寄せて顔を上げた。

 

「それって雪乃ちゃんとガハマちゃんに怒られたよね、たぶん。静ちゃんにも何か言われた?自分のことを犠牲にするなとかそんなこと」

「………」

「でも、君にとって君自身を切り捨てることなんて当たり前で、必死に目の前の問題を解決をしようとした結果の産物。善く生きた君の選択を『犠牲』なんて呼ばれるのは、哀れみとか同情とかいう君の格を下げる行為。君に対する冒涜。だからこそ、君は今みたいな負の感情に支配されている」

「………」

「そもそも理解されようなんて思ってない。いつだって君は敗者。でも、善く生きた敗者は、君からしたら勝者そのもの。君を君たらしめる重要なファクター。負け方に関しては最強は自分。こんなところかな?」

「…気持ち悪いです」

 

 苦虫を嚙み潰したような表情になった八幡は、陽乃から物理的に距離を置く。しかし、今度はその距離を詰められることはなかった。

 

「比企谷君たちの文化祭が終わってから、君だったらこんな風に考えるんじゃないかなって。私自身、今の自分に突破口が欲しくてね。参考にさせてもらってるんだ」

 

 陽乃の言っている意味が何が何やら分からない八幡。いつにも増して目の前の人物の像が掴めない。

 

「負け方をね」

「………?」

「たぶん、私もいつかは程よい負けを経験しなくちゃいけないからさ」

 

 陽乃は左手の腕時計をチラッと見た後、左手で右腕の肘を抑えて体を震えさせながら伸びをした。

 

「そういえば、修学旅行が終わっちゃうともう大きな行事もなくなるし、あとは受験に集中って感じになるのかな?退屈じゃない?」

「別にそうでもないですよ。生徒会長選挙とかまだなんやかんやありますし」

「選挙?あれ?もうこの時期って選挙は終わってない?」

「なんか決まんなくて延びてるみたいです」

「へぇー、じゃあめぐりもようやく引退だね。でも、今決まってないってことは、めぐり、雪乃ちゃんには頼まなかったみたいだね」

「そういうのはなかったですね」

「めぐりのことだからてっきり雪乃ちゃんに生徒会長になってくれってお願いすると思ってたんだけどな」

「教師陣からしても大歓迎でしょうね、そうなれば」

「だろうねぇ。めぐり、あの子はホントに…」

「どうかされました?」

「うんん。私と陽人はやってたからさ。あの子もそうなるって勝手に決めつけちゃってただけ」

「はあ、そういう理由で」

「…つまんないの」

 

 最後にゾッと底冷えする声音で言った陽乃。その心の奥底では何が蠢いているのか。

 

「あれ、比企谷?」

「………折本」

 

 暗い瘴気は新たな人物の登場により霧散した。

 

 

 

──────

 

「はるさ〜ん」

「しばらくぶりね、めぐり」

 

 八幡と別れた陽乃は、約束の人物である城廻めぐりと合流した。

 

「わあ、はるさん今日もかわいいですね」

「はいはい、ありがとう。めぐりもかわいいわよ」

「うふふ。はるさんに言われるととても嬉しいです」

 

 めぐりは両手を合わせて右頬付近で傾けた。ほんわかとした笑顔に満面の喜色を浮立たせていた。

 

「陽人さんは今日もお忙しいんですか?」

「分かりきってる話をするんじゃないの。いつも2、3言目には陽人のことを聞くのやめなさい」

「ぶぅ〜。はーい」

「ほら、行くわよ」

 

 口を窄めるめぐりを陽乃が軽くあしらう。

 

「受験の方はどんな感じ?」

「んー、受験ですかぁ?」

「なにその腑抜けた反応は。貴女にとっては目下の課題でしょ?」

「それはそうですけどー。この頃教室の空気がピリピリしてきちゃって居心地が悪いです」

「我慢なさい。否が応でもそうなる時期よ。誰も悪くないし、責められることではないわ」

「はるさんの時もそうだったんですか?先輩たち、そんな風には見えなかったのになぁ」

「私たちは特殊な事例よ。学校という私たちを一致団結させてくれる敵がいて、自由の責任を果たすために成し得なくちゃならない正義があったんだから。それを遂行した結果が、私たちの代の進学実績」

「でもそれって、先輩方はますます厳しい状態に追い込まれてたはずじゃ…?」

「だから宗教って無くならないのよ」

「きゃー怖い」

 

 口元をわざとらしく押さえて驚くめぐり。やがて2人が到着したのは、コンクリートの中にある自然豊かなイタリアンレストランだった。LEDの眩い光が店内を照らし、本物と見間違うような偽造葉が光を反射させている。店員によって彼女らが通されたのはテラス席で、机の中心には落ち着いた色のランタンがあった。

 

「わあ!動画で見たまんまだぁ!」

 

 キャピキャピと喜んだめぐりの姿を、陽乃は頬を緩めて見ながら席に着いた。2人はメニューを何周も目を通してあーでもないこーでもないと議論を交わしながら決めていく。運ばれてきた料理の写真を撮り、話に花を咲かせながら、最後には満面の笑みでツーショットも収めた。会計をし終えると、夜の街を駅に向かいながら並んで歩いた。

 

「この時期にこんなに楽しんじゃった」

「まあ余裕があるんだからいいんじゃない?万が一落ちても私は知ったこっちゃないし」

「はるさんひどーい」

「めぐりがリフレッシュしたいから付き合って欲しいって言ったんでしょ。自己責任よ」

「それはそうですけどぉ」

「まあ、今のめぐりの結果に過程があることは知ってるから、引き続き頑張りなさい」

「はるさぁん」

「大丈夫よ。だって、貴女は私のお気に入りの後輩なのだから」

「はるさーん!だから大好き!」

 

 めぐりは感極まってガバッと陽乃の腕に抱きつき、頬をすりすり押し当てた。

 

「私たち、周りの人たちから仲の良い姉妹って見られてますよ、きっと」

「見られてないわよ。寝言は寝て言いなさい」

「あう…」

 

 陽乃がめぐりのおでこにデコピンをお見舞いした。

 

「そういえば、候補って私以外に何人いるんですか?」

「その話はめぐりが初めて陽人と関係を持つ前にも話したし、先々月にも話してあげたでしょ?」

「でもぉ、あの時ははるさん怒ってたから要領を得てなかったんですもん。私も一旦整理しときたくて」

 

 陽乃は長い溜め息を吐いた。

 

「どこから話せばいいの?」

「最初からがいいです。簡潔な説明で大丈夫ですよ」

「陽人と静ちゃんは高ニの時から卒業前まで付き合ってた。最初は自分の気持ちをうまく誤魔化していたのだけれど、やっぱり私には陽人が必要だった。耐えられなかった。だから、2人を別れさせようとした。親友だった静ちゃんには申し訳ないと思ったけれどね。でも、案外あっさりと私のお願いを聞き入れた静ちゃんは、条件を出してきたの。2年間。2年間は静ちゃんから意図的に会わないし、静ちゃんから関係を持とうとしない。その間に陽人の静ちゃんに対する恋心を消滅させ、納得のできる関係を築くことができれば完全に諦めるって。私はね、まず陽人の情欲の中にある静ちゃんを消す為にめぐりを使った。陽人の秘書ちゃんを使った。幼馴染の信頼できる友人を使ったの。合計8人。私は汚れた行為は大っ嫌いだけれど、我慢させちゃうのは良くないから。でも、最終的にはその中の一人に絞るつもり。陽人の一番は私って弁えている子にね」

「8人かぁ〜多いなぁー」

「相変わらず呑気ね」

「それが取り柄ですからねぇ」

「呆れた…。普通は虎視眈々と独り占めを狙うものよ。他の7人も例外なく」

 

 陽乃は眉毛を一瞬上げて小さく息を吐いた。

 

「無害そうに見える人が一番狂ってるって話はよくあるけど、本当にその通りね」

「えー、狂ってるってどういうことですか。私は全くもって普通ですぅ」

「はいはい」

「むーっ!」

 

 ほっぺたを幼児の如く膨らませるめぐり。陽乃がペチャっと潰すと、2人してクスクスと笑い合った。

 

「雪乃ちゃんに生徒会長頼まなかったって聞いたけど偶然?」

「へっ?あ、いや、別に。やりたかったらやるかなって。別に何も考えてませんでしたけど?」

「そうなの?てっきり雪乃ちゃんの成長の為かと思ったのよ」

「え、もしそうだったら…」

「加点にはなってたわね」

「いやー、実はですね──」

「──もう遅いわよ」

「うわーん!最悪だよぉ!」

 

 駅に着くと2人は立ち止まる。

 

「じゃあ、また連絡するわね」

「はい!はるさん今日はありがとうございました!」

 

 お互いに挨拶を済ますと、陽乃は近くに待機していたベンツに近付き、運転手が開けてから乗り込んだ。窓が開いて中からヒラヒラと手が振られる。

 

「体調には気を付けなさい。またね」

「はるさんも。お疲れ様です」

 

 ベンツが走り出す。すぐの交差点を曲がり車の姿は見えなくなった。めぐりは気分良さげにスキップで改札へと向かった。改札を通り、ホームでゆらゆら揺れながら鼻歌を歌う。列車に乗り込んで明るい街の中を走っていく。

 

「タイムリミットまであと少し。私と一緒に永遠に苦しみましょうね、はるさん」

 

 ガラスに写る少女の顔がジョーカーのように嗤う。

 

「その綺麗なお顔で私に媚びる日が待ち遠しくて仕方がないです」

 

 ぺろりと舌舐めずりをした。

 

「私は普通ですよー。だって独り占めを狙ってるんですから」




感想は全部読ませていただいております。いつも励みになっております。ありがとうございます。

ps. 秘書の柊以外の女性オリキャラは多分もう出ないからご安心を
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