逃げ水   作:ピト

11 / 16
 久しぶりなのでこれまでの話と矛盾してたりしたらすみません。


回想 前編

 ──────京都

 

 夜の帳が静かに落ちていた。通りの灯りは間引かれ、商店街の喧騒はすでに遠く、店先の暖簾だけが風に揺れている。

 ラーメン屋の暖簾をくぐってから二人が食べ終えるまで、静は意外にもあまり喋らなかった。ただ煙草をくゆらせるわけでもなく、水を口に含むだけで、静かに二人のやり取りを聞いていた。八幡の皮肉と、雪乃の端正な言葉選び。それはどこか懐かしく、心の奥で微かに疼く感触を連れてきた。

 もう何年も前に、似たような夜を、自分は過ごしていたのではなかったかと。

 雪乃はテーブルの上を几帳面にまとめ、八幡はどこか不機嫌そうにそれに従っていた。

 静が会計を済ませると、ふたりは店の外へと歩み出ていく。店の外の空気は思ったより冷たかった。昼間の残り香のように、アスファルトに染みついた陽射しの名残が微かに鼻を刺す。タクシーの中でもふたりはお互いの距離を心地良さそうにしながら、話したり沈黙したりを繰り返していた。

 しばらくしてタクシーから降りる。

 ホテルの方角を指差しながら、静はふたりに言った。

 

「ここからまっすぐ戻りたまえ。コンビニの角を左。私はもう少し散歩してから、酒盛り用の酒を買って戻る」

 

 八幡は納得したように頷き、雪乃は一瞬だけ何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わなかった。

 

 それでいい。言葉は要らない。あのふたりは、ちゃんと育っていく。

 

 やがて、制服の背中が街灯に照らされ、ふたりの後ろ姿が通りの奥に小さくなっていく。肩の位置も、歩幅も、かつての双子よりもずっと整っていて、静かで確かな歩みだった。

 静はその後ろ姿が角を曲がるまで見届けてから、ようやくため息をひとつ、夜の街へと吐いた。

 

 風が吹いた。

 

 夏の終わりの、湿り気を含んだ夜風だった。どこかに残る熱をなでるように通り抜け、街灯の下のアスファルトに、あの日と同じような輪郭を落としていく。近くの居酒屋の灯りが背後で切れる。暖簾がふわりと揺れ、閉店を知らせるカラン、とした音が響いた。

 

 静はひとり、店の前に取り残された。

 

 煙草を取り出すべきか迷い、結局右ポケットの中で指を止めたまま、取り出さずに手を戻す。火を灯せば、今夜の自分を誤魔化してしまいそうだった。

 空を仰ぐ。ビルの間から覗く空は狭く、星は見えなかった。見えないのではない。見ようとしていないのだ。あのときも、きっとそうだった。

 少しだけ、足を止めたまま考える。

 言葉にはならなかった。ただ思考の輪郭が、静かに、記憶の奥へと沈んでいく。

 今回と同じホテルでの夜。生徒たちが寝静まった後の、許されざる時間。喧噪の中に時折訪れる静けさが、今の夜風と酷似していることに気づいた瞬間、静の記憶の扉がひとつ軋んだ音を立てて開き始めた。何かが始まる予感ではなかった。むしろ、終わってしまったものを、ようやく認める準備が整っただけのことだった。

 足元のアスファルトを見つめながら、静はふと笑った。誰にも見られていない場所でしか見せない、深い疲れた笑みだった。

 手すりのように思い出をなぞる指先が、ひとつの情景へと触れようとしていた。

 静の視線の先、街灯に照らされた路面がぼやけた。

 記憶の底に沈んでいた一夜が、音もなく浮かび上がってくる。

 もう逃げられないと分かっているのに、それでもなお、胸の奥で誰かが言い訳を探していた。

 

 それでも──。

 

 風がまた吹いた。今度は冷たかった。街の色が褪せてゆく。その風が記憶の引き金だった。

 

 静は目を閉じる。

 

 視界に映るのは、過去のホテルの天井、触れた肌の熱、夜に沈むあの少年の瞳。

 

 それは、もう生徒ではなかった。

 そして、自分もまた「教師」であることを捨てた夜だった。

 

 静は虚な瞳で散歩し始めた。

 

 

 

 ──────いつぞやの修学旅行

 

 観光地に降り立った一行は、朝から快活な笑い声を上げていた。

 京都の古寺巡り。四月の終わりにしてはやや暑さを感じさせる陽射しの下で、学生たちは各班に分かれて自由行動に入っていた。

 

「ほら、そっちの道じゃないよー! 地図、ちゃんと見てる?」

 

 陽乃の声が風に乗って届いた。

 明るくよく通る声。どこか浮世離れした微笑をたたえながら、班のメンバーたちを導いていく姿は、まさに“女帝”の風格そのものだった。

 その隣には兄──陽人の姿があった。

 日差しに照らされたその横顔は整っていて、背筋はまっすぐに伸び、時折後輩たちに冗談を飛ばしながら歩く様子は、周囲を自然と惹きつけていた。

 静は、少し後ろの歩道からその様子を観察していた。

 教師の役目として、生徒の安全確認をしながら、彼らの姿を見守る。

 

 ──理想的な兄妹、だな。

 

 誰が見てもそう思うだろう。

 完璧な容姿。優秀な頭脳。礼儀正しく、どこまでも魅力的。

 周囲の大人たちですら一歩引いて見てしまう、天上の存在のような二人。

 

 けれど。

 

 静は気付いていた。

 陽人の歩き方が、ほんのわずかに重たいことに。

 笑顔の奥に、影を滲ませていることに。

 彼が今、壊れかけていることに。

 

 班の男子が笑いながら話しかけてくる。陽人は軽く相づちを打ち、柔らかく返す。

 だが、どこか視線が宙を彷徨っていた。

 まるで、そこにいない“誰か”を探すかのように。

 静は心の奥で舌打ちした。

 

 ──あの子、自分で自分を縛りすぎている。

 

 教師という立場に甘えるつもりはなかった。

 けれど、1年前から気づいていた。

 この兄妹の「異常性」に。

 外から見れば、どこまでも理想的な関係。

 だがその内実は、あまりにも密接で、あまりにも閉ざされていた。

 陽乃が陽人を好いているのは見ればわかる。

 単なる兄への尊敬ではない。

 “独占”に近い感情だ。

 そして陽人もまた、それに気づいている。

 逃げられない。抗えない。

 でも、壊してしまうこともできない。

 だから彼は、外ではよく笑う。完璧であろうとする。

 誰よりも優しく、誰よりも聡明な兄でいようとする。

 

 ──でも、それじゃダメなんだよ、陽人。

 

 静は立ち止まり、自販機の脇でタバコに火をつけた。

 煙を肺に吸い込むと、ほんの少し胸の奥が落ち着いた気がした。

 陽人の目を見てしまったからだ。

 休憩中にすれ違った一瞬。

 静の方へ向けられた、その目。

 それは、助けを求める目だった。

 無意識かもしれない。

 それでも確かに静は見た。

 

「……あの子、限界だな」

 

 独り言のように呟いて、煙を吐いた。

 教師として、生徒を守るのは義務だ。

 だがこれは義務ではなく選択だ。

 静は決めていた。

 この修学旅行中に陽人を「壊す」つもりだった。

 彼が自分自身の檻を壊すために、まず「人としての感情」に触れさせなければならない。

 

 それが、たとえ倫理を踏み越えることになろうとも。

 

 陽乃のために、生きている陽人に「他の女」を与えること。

 その役を、自分が引き受けること。

 

 それが、静の覚悟だった。

 

 

 

 

 ──────

 

 廊下は誰も通らず、外から微かに風の音だけが聞こえていた。昼の喧騒も、夕のざわめきも過ぎ去り、宿はまるで息をひそめているようだった。

 静は障子の向こうから差す柔らかな灯りの中で、じっと陽人を見ていた。

 

「君は、今日一日どこか壊れそうに見えた」

 

 穏やかに、それでいて逃がさない声音だった。

 

「それは静ちゃんの目が優しすぎるからだよ。思い込みってやつ」

 

 陽人の返しはいつものように軽い。けれど、その笑みに熱はなかった。視線は逸らさずにいるのに、どこかで自分を第三者のように扱っているような、そんな距離感があった。

 

「そうかもしれないな」

 

 静はそれ以上言葉を重ねなかった。問いも断定もない。ただ見ていた。見続けていた。

 沈黙の中で、灯りの中の埃がゆっくりと漂っていた。誰もそれを払おうとはしない。息をするだけで、何かが壊れそうなほどに、場は静まっていた。

 やがて、静が唐突に言葉を落とした。

 

「部屋に来い」

 

 その言葉が発された瞬間、風が一度止んだかのように思えた。

 陽人は顔を上げた。視線が静の目に絡み、外れなかった。

 

「いいの、静ちゃん? そういうこと言って。後から困るのは静ちゃんだよ?」

 

 冗談めかしていたが、内側にある緊張がその声の揺れに表れていた。

 

「保護責任者の権限でな」

 

 静の返しはぶれなかった。感情を排して、ただ必要なことだけを伝えるような声。

 

 陽人は肩をすくめ、小さく笑った。

 

「君子危うきに近寄らず、って言葉があるけど」

 

「陽人、来なさい」

 

 それはもはや誘いでも、命令でもなかった。ただ、選択を奪うような、抗えない響きを持っていた。

 陽人は一度だけ瞼を伏せた。そして、音も立てずに歩き出した。言葉はもう交わさなかった。彼の歩みはまっすぐで、途中で立ち止まることも、振り返ることもなかった。

 教員部屋とは別の部屋。その扉が閉まった瞬間でも、何かが変わる音はしなかった。もともとすべてが変化の途中にあったからだった。

 灯りの落ちた廊下には、誰の声も残っていなかった。

 扉が閉まってから、二人はしばらく動かなかった。灯りを落とした室内に、時計の音さえ存在しなかった。

 静は、ゆっくりとした動作で髪をかき上げた。タバコはもう吸わない。何も誤魔化さない。ここに煙は不要だった。

 陽人は立ったまま、静を見ていた。表情は読めない。笑ってもおらず、険しんでもいない。ただ、その瞳だけが深く、遠くを見ていた。

 

 静が、ゆっくりと手を伸ばした。

 

 指先が陽人の頬に触れる。肌と肌が触れるその一瞬に、微かに陽人の睫毛が震えた。

 彼は拒まなかった。けれど、身を寄せることもなかった。

 その距離のまま、静は言った。

 

「なあ、陽人」

 

 声はひどく淡く、冷たく、それでいて奇妙に優しかった。

 

「君が壊れる前に、私が君を壊してあげる。そうすれば、君は陽乃を守れる。“兄”としてだけではなく、“人”として」

 

 陽人の瞳が、音を立てるように揺れた。苦笑が口元に滲む。

 

「教師ってのは……そんなことまでしてくれるもんなのか?」

 

 静は答えを急がず、ただ視線を逸らさずにいた。

 

「君は、私の生徒だった。だからこそ、私の責任だよ」

 

 沈黙が落ちた。

 陽人は、ほんのわずかに視線を下ろし、肩を落とした。

 その姿は降伏ではなく、受容だった。もしくは、もとより抗うつもりなどなかったのかもしれない。

 彼はベッドの脇へと歩み、立ち止まる。そして、まるで誰かに許可を求めるように、ひとつだけ問いかけた。

 

「……後悔するか?」

 

 静は答えなかった。

 否定も肯定もせず、ただ足元にあった畳の感触を確かめるように、一歩を踏み出した。

 陽人の前に立つと、彼の手を取った。温度も、脈も、すべてを確かめながら。

 そのまま彼の手を自分の腰に導き、囁くように、ほとんど唇が触れる距離で言葉を落とした。

 

「今夜は私だけを見ろ」

 

 陽人は何も言わなかった。

 

 ただ、触れた手に力を込めた。

 

 照明を落とした室内。

 誰にも知られず、誰にも許されず、ただ静かに、二人は一線を越えた。交わしたキスは、互いの不安と罪悪感を押し潰すための道具でしかなかった。重ねた体温は、愛情のようなものであって、決して愛情ではなかった。

 

 陽人は、何も言わなかった。

 

 静もまた、言葉を紡ごうとはしなかった。

 

 ただその夜、ひとつだけ確かなことがあった。

 

 ──「兄」としての陽人は、確実に一度“死んだ”。

 

 

 

 ──────

 

 耳に街の喧騒が戻ってきた。

 街灯の灯りが背後にじんわりと広がり、空は春の夜にしては濃すぎるほど青い。吐く息は白くならないが、それでもどこか身体の芯が冷えていくようだった。夜の冷えは、空気よりも記憶の方から忍び寄ってくる。

 静はしばらくその場に立ち尽くしていた。街灯の光が、足元のアスファルトに自分の影を薄く描いている。

 二人の生徒は、まだ間に合う。その背中が、確かにそう告げていた。

 このまま彼らを何も知らないままに帰すこと、それが唯一の「正しさ」だと静は思った。導くことも、支えることも、見守ることも、いずれも教師の責務だ。しかし、誰かの痛みに自ら触れ、引き受けることは、果たして教師の役割なのか。あの夜、彼女はその問いに明確な答えを出せなかった。「兄」としての陽人を一度壊すことが、彼を「人」として立たせる唯一の方法だと、確かにあの夜はそう信じていた。

 思い出すのは、湿った畳の匂い、障子越しの微かな灯り、そして黙して語らなかった言葉たち。

 あの夜に恋はなかった──そう自分に言い聞かせるのに、時間は要らなかった。

 若かったで済まされることでは決してない。教員としての倫理など、とうに地に落ちていた。けれど、恋ではなかったと、静は確かに信じていた。あれはただ、生徒を守るための選択だった。陽人の内にある歪みと、崩壊の予兆。その脆さに、自分が手を差し伸べなければ、きっと彼は誰にも救われなかった。

 恋愛ではなかった。

 だが、誰にも言えないことだった。

 そう信じて、そう割り切って、そうやって今日まで来た。思い出すたびに、息苦しさはあった。けれど、それは恋の名残ではない。ただの「責任の疼き」だ。あのとき、あの場所で、自分が誰よりも先に大人であることを選んだという、ただそれだけの事実。

 静は、左手のポケットからライターを取り出す。右手で胸ポケットの内側をまさぐり、少し折れたタバコを取り出す。ジッポを開く音が、夜の空気を割るように乾いて響いた。

 

 火をつける。

 

 煙がゆっくりと夜空に溶けていく。

 陽人には、あの夜のことを「恋」だったと思っていてほしくない。たとえ彼の中にほんのわずかでも淡い感情があったとしても、それは間違いでなければならない。教師が生徒を「好きになる」なんて、そんな話にすり替えてはいけない。自分のしたことは、その程度の情動の延長線にあるべきではない。

 救ったのだ──あの夜、自分は確かに、ひとりの生徒を“救った”。

 静はもう一度、煙を吸い込んだ。喉が軽く焼けるような感覚。久しぶりだった。いつぶりだろう、こんなふうに“ただ吸うためだけに”タバコを吸ったのは。

 見上げた空に、星はなかった。夜の街は明るすぎる。誰もが自分の足元しか照らさずに生きている。

 静かに吐き出した煙が、頬をかすめて流れていく。

 

 ──私の責任だよ。

 

 あのときそう言った。何度でも同じことを言うだろう。

 その責任を背負った結果が今であり、その夜が誰かに咎められることがあっても、彼女はきっと逃げない。

 

 ただ、それでも。

 

 それでも、あのとき、陽人が自分を優しく呼び捨てにした。

 その瞬間を思い出しそうになって、静はそっと目を閉じた。

 タバコの先が、朱く灯っている。

 さっきは吸わないと決めたはずの煙草。

 それでも今夜は一本だけ。

 浸らねばやってられない。

 ズルい逃げ方を覚えたものだ。

 記憶に火をつけたのは自分自身だった。

 そして、燃やすべきものもまた、自分自身なのだろう。

 火を吸い込んで、静かに夜へ吐き出す。見えない何かが、煙と一緒に揺れて消えた。

 

 

 

 ──────

 

 カーテンの隙間から射し込む西日が、木目の床を橙色に染めていた。秋の夕暮れは、時に人の心を静かにする。陽乃が座るソファの脇では、湯気の立つマグカップが淡く香る紅茶の匂いを立てている。

 リビングには小さなBGMが流れていた。ピアノの音が遠くに滲むように響く中、陽乃はノートパソコンを膝に載せたまま、しきりにスクロールを繰り返している。どうやら翌週のプレゼン資料の確認らしい。

 ダイニングの方では、陽人が自分のノートを開いたまま、静かにコーヒーを啜っていた。授業のレポートか、あるいは会社の資料か——理系の学生として大学に通いながらも、彼はすでに企業の経営に関わっている。その忙しさは時折彼の顔に疲れをにじませるが、不思議と家の中では柔らかな気配がただよっていた。

 夕陽の中、二人の時間はゆっくりと流れていた。

 

「陽人、さっき送ってくれたスライド、ここもう少し簡略化した方がいいと思う」

 

 陽乃が画面を指しながら言うと、陽人は椅子をくるりと回して彼女の方を向いた。

 

「ここか。うん……たしかに、ちょっと情報詰めすぎたかもな」

「悪くはないけど、聞き手の集中力を考えると、あのタイミングでグラフは重たいと思う」

「了解。じゃあ数字だけ残して、あとは口頭で補足するように構成を変えるよ」

「うん。それなら伝わりやすいと思う」

 

 二人はまるで長年のパートナーのように、息を合わせて作業を進めていた。実際、大学でも彼らの姿はよく知られていた。講義では並んで座り、発表の準備も一緒に行う。休み時間には一緒にランチをとり、キャンパスの隅で議論を交わしている姿を目にする学生も少なくない。

 だからこそ、彼らの関係に親密に入り込める者はほとんどいない。陽人も陽乃も、その知性と佇まいで周囲を圧倒するものがあったが、何よりも互いに向ける信頼と親密さが、第三者の入り込む隙を与えなかった。

 

「……ん、ちょっと疲れた」

 

 陽乃がノートパソコンを閉じ、ソファに深く沈み込む。両手を頭の後ろで組み、背伸びをするように伸びをすると、肩までの髪がふわりと揺れた。

 陽人はそんな彼女を見ながら、ふっと笑みをこぼす。

 

「頑張りすぎ。夕飯前だし、少し休むか」

「陽人こそ。ずっとレポート見てたでしょ」

「まあな。でも、おかげで一区切りはついた。晩飯は何か作ろうか?」

「うーん……それより、外に食べに行かない? 駅前のあのイタリアン、久しぶりに」

 

 陽人が時計を見る。時刻は午後五時過ぎ、まだ外は薄明るい。

 

「いいな、それ。たしか今日は空いてるはずだし」

 

 その瞬間だった。陽人のスマートフォンが小さく震え、テーブルの上でブルブルと音を立てた。ディスプレイに表示された名前を見て、陽人は少しだけ眉を動かす。

 

「……柊だ」

 

 陽乃の動きが止まる。まるでその名前が、ふたりの空気に影を差したかのようだった。

 

「……出なよ」

 

 陽乃がそう言った声は、どこか冷えていた。陽人は軽く頷いて電話を取り、立ち上がってリビングの端へ移動する。

 

「はい、もしもし。……うん。ああ、今自宅にいる。……急ぎか? ……わかった、今から向かう」

 

 短い会話の後、陽人は電話を切ってため息をひとつ。

 

「……ごめん。トラブルで、少し会社に顔を出さなきゃならない」

 

 その言葉に、陽乃は返事をしなかった。ただ、組んだ腕を緩め、ソファの背にもたれかかる。その目は陽人を見ているのに、何かを拒むような気配があった。

 

「また……?」

「うん。今夜中には戻る。遅くなっても、寝る前には」

「駅前のイタリアン、行くって言ったのに」

「本当にごめん」

 

 陽人の声は穏やかだった。だが、陽乃は頬をふくれてそっぽを向いた。

 

「……最近、わたしより柊さんの方が優先されてる気がするんだけど」

「仕事だから仕方ないだろ」

「仕事って言えば、わたしが何言っても納得すると思ってる?」

 

 陽人はしばらく黙って陽乃の表情を見つめていた。夕暮れの光が彼女の横顔に淡く差し、長い睫毛の影が頬に落ちる。

 

「でも……」

 

 陽乃が言葉を切り、唇を噛む。

 

「別にいいよ。どうせわたしが何言ったって、行くんでしょ。仕事優先って、いつも通り」

 

 その声には拗ねた響きがあった。しかし同時に、どこかで彼女自身もそれを理解していることが伝わってくる。

 陽人は少しだけ息を吐いて、陽乃のそばに腰を下ろした。

 

「ごめん。できれば、お前とご飯に行きたかった」

「口だけ」

「そうかもな。でも、本当にそう思ってる」

 

 陽人は手を伸ばし、陽乃の髪をそっと撫でる。指先がふれるたび、彼女の表情がわずかに揺れる。

 

「……わたしはさ、ただ、陽人と一緒に過ごしたいだけなのに」

「わかってる」

「わかってるんなら、行かないでよ」

 

 陽人は、黙ってその手を握った。

 

「……でも、行かなきゃならないんだ」

 

 陽乃は目を伏せたまま、数秒だけ黙っていた。

 

「わかってるってば。ほんとにもう」

 

 そう言って、彼女は陽人の肩を軽く小突く。拗ねているのは確かだったが、そこに怒りはなかった。むしろ、自分の中の甘えを認めるように、不器用に感情をぶつけ、自分が受け入れられている安心感も同時に満たしていた。

 

「早く帰ってきてよね。……寝る前に、ちゃんと話すことあるから」

「わかった。なるべく急ぐ」

 

 陽人は立ち上がり、コートを手に取る。

 玄関の方へ向かいながら、ふと振り返る。

 陽乃はソファに座ったまま、腕を組んでこっちを見ていた。その視線には、呆れと寂しさと、ほんの少しの期待が滲んでいた。

 

「……いってらっしゃい」

 

 右手を胸の前でヒラヒラとさせ、送り出す一言が全てだった。

 陽人は頷いて、ドアを開ける。秋の空気が、ほんの少し冷たく肩を撫でた。

 そして、ドアが閉まる音が夕暮れの家の中に静かに響いた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。