逃げ水   作:ピト

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回想 中編

 

 風が少しずつ冷たさを帯び始めた頃、山の稜線は金と紅のかけらをまとうようになった。朝の光はどこか柔らかく、地面を照らす角度が低くなっている。桜の葉は黄に、欅は赤に染まり、舗道には音もなく落ち葉が降り積もっていた。人々の足取りも、いつしか静かになっていた。夏の名残は、どこか遠くへ退いて、代わりに空気の澄んだ輪郭だけが、町を包みはじめていた。

 総武高校の放課後の教室には、夕日が斜めに差し込んで生徒の影を床にうつす。

 陽乃は机に頬杖をつきながら、ゆっくりと教室の扉を開けた陽人の姿を目で追った。彼はいつも通りの無駄のない足取りで自分の席へ向かうと、鞄も机も放ったままにして唐突に言った。

 

「静ちゃんと交際することになった」

 

 陽人の声に余計な感情はなかった。言い淀みもためらいもなく、まるで今日の天気でも告げるかのように、淡々とした調子だった。

 陽乃は一瞬だけ瞬きをし、それから教室に軽やかな笑い声が弾けた。

 

「えっ、うそ! ほんと? ほんとに? いや、うそじゃないよね、陽人が冗談言うわけないし……ちょっと待って、それすごいんだけど!」

 

 立ち上がった陽乃は、勢いよく机の縁に手をついて身を乗り出した。瞳は輝き、頬はぱっと花が咲いたように赤らんでいる。小柄な体を精一杯使って、喜びを全身で表現していた。

 

「やだ、静ちゃんってあの静ちゃんでしょ? もう絶対最高じゃん! お似合いにもほどがあるって!」

 

 陽人は相変わらず静かな表情のまま、陽乃のはしゃぎぶりを眺めていた。彼にとっては告白でも報告でもなく、ただ事実を伝えただけという風だった。

 

「ねぇ、どっちから言ったの? 陽人? それとも静ちゃんのほう? まさか静ちゃん!? いやいや、それは陽人がリードしたってことでしょ? ……ああもう、なんで私がこんなにテンション上がってるんだろう!」

 

 陽乃は自分で笑いながら、自らの熱に頬を染めていた。まるで親友の恋が実ったかのように、あるいは自分のことのように──そう、それこそ、自分の半身ことのように。

 

 けれど。

 

 高揚した心がゆっくりと落ち着いていくにつれて、陽乃の胸の奥にひどく小さな針がチクリと残っていた。痛いわけではない。ただ、妙にくすぐったい。言葉にするにはあまりに曖昧なかすかな違和感。笑っているのに、心のどこかが締め付けられるような感覚。

 陽乃はそれに気づきながらも、自分でそれをどう表現すればいいのか分からなかった。羨ましい? 違う。寂しい? それとも不安? どれも当てはまらない。

 ただ、何かが引っかかっていた。

 

「……ふふ。陽人、ちゃんと大事にしなよ? 静ちゃん、見るからに面倒くさそうなタイプだし」

 

 そう冗談めかして言うと、陽人は「分かってる」とだけ答えた。

 

 それを聞いた瞬間、再び陽乃は微笑んだ。いつもの、誰にでも向ける八方美人的な笑みではない。兄であり、双子であり、特別な誰かにだけ向ける笑顔だった。

 それでも、胸のあたりに残った小さな棘は、陽乃の中で静かに息を潜め続けていた。陽乃はその正体を知らない。ただ、いつかこれが何かの形になる気がしてならなかった。

 陽乃は少しだけ思案げな顔で天井を仰いだ。手の中に残る温度。それはさっき机を叩いた手の感触か、それとも胸の奥に生まれた棘の感触か。分からないまま、そのまま職員室へと足を運んだ。

 

 目的はひとつ。

 

 ノックもせず、軽い足音で職員室の一角へ近づく。教員用のデスクの脇、整理整頓の行き届いたその机の主が目に入ると、陽乃の顔がぱっと明るくなった。

 

「静ちゃーん!」

 

 そのまま、背後から音もなく近づき、椅子に座っていた静の首に両腕を回して抱きついた。静は驚いたふうもなく、わずかに肩をすくめるだけだった。

 

「また突然……ここは職員室だ。いい加減にしなさい」

「いいじゃんいいじゃん。嬉しいことがあったときくらい、静ちゃんの背中をぎゅーってしたってバチは当たらないよ?」

「どうせ陽人のことだろう」

 

 陽乃はくすくすと笑いながら、静の頬に自分の頬を寄せるようにして身を寄せた。まるで子猫のような甘え方だった。

 

「やっぱり静ちゃんだったんだねえ。もう、陽人ったら淡々と事実だけ言うんだもん。サプライズ感ゼロ。でもでも、すっごく嬉しかったよ」

「……そうか」

「ねぇ、静ちゃん」

 

 今度は椅子の横から覗き込むようにして顔を見せ、陽乃はまっすぐに静の瞳を見つめた。柔らかく、それでいてどこか真剣な光を帯びた視線だった。

 

「陽人のこと、よろしくね」

 

 静は少しだけ目を細めて、その言葉を反芻するように沈黙した。

 

「任せてって言ってほしいな」

 

 陽乃は、少し冗談めかして言いながらも、その言葉の奥には何かを託すような、温度のある信頼が滲んでいた。

 静はやがて、小さく息を吐いた。

 

「……そう言われると、逆に緊張するな。こういう言葉が合っているかは分からないが、善処しよう」

「ふふ、大丈夫。静ちゃんならきっと陽人を幸せにできる。私、そう思ってるから」

 

 そう言いながら、陽乃はまた静の肩に触れ、何気ないふうを装って腕をさすった。どこか落ち着かない仕草だった。自分でも気づいていない微細な感情が、その指先に溶け込んでいた。

 

「本当に……嬉しいんだよ? でも、なんでかな。ちょっとだけ、胸の奥が変な感じ」

「……嫉妬か?」

「うーん、違う違う。だって、陽人は私のお兄ちゃんだし、そとそも私は妹だし」

 

 陽乃は自分の言葉に首をかしげる。どこまでも自然体で、心の底からそう思っているかのようだった。けれど、静は何も言わなかった。ただ、目を伏せ、ほんの少し口角を上げただけだった。

 その反応に気づいたのか、陽乃はいたずらっぽく微笑むと、また腕を絡めて甘えるように体を寄せた。

 

「静ちゃんが変なこと言うから、余計に変な気分になったじゃん。責任取ってよね?」

「どうやって」

「んー……そばにいてよ、私にも。陽人と付き合ってるからって、急に冷たくなったら泣いちゃうから」

 

 その声に冗談の色はあっても、言葉の裏にある願いは本物だった。

 

 ──私から陽人を奪った静ちゃん。

 ──でも、それでも、私が信じていられる静ちゃん。

 

 陽乃は、その複雑な構図をまだ理解していなかった。自分の中に芽生えつつある不明瞭な感情の名を、まだ持っていなかった。

 ただ、信頼と笑顔のベールで確かに何かを包み隠していた。

 

 

 

 ──────

 

 それからの時間は、まるで何事もなかったかのように静かに流れていった。

 陽人と静は、公私のけじめを徹底していた。交際の事実を外部に明かすことはなく、互いを呼ぶときも、話すときも、表情すらも、周囲には完璧な「教師と生徒」を演じ続けた。

 校内では、誰もふたりの関係を疑わなかった。むしろ、必要以上に接点を持たないようにしていたほどで、静の口から陽人の名前が出るのは、業務連絡か、進路指導のときだけだった。

 陽人も同様に、他の教師と変わらぬ距離感で静に接した。時折視線を交わしても、それが意味を帯びることはなかった。まるで一切の感情をそぎ落とした機械のように、彼は彼女との関係を「内側」に封じ込めた。

 一方で、陽乃はいつも通りだった。いや、むしろ、いつも以上に陽人と静に構うようになった。

 

「ねぇ陽人、また静ちゃんに変なところで真面目すぎるって言われたでしょ? その顔、すぐバレるからね?」

「静ちゃんってね、見た目のわりに結構おちゃめなところあるんだから。陽人、もっと甘えてもいいと思うんだけどなぁ」

 

 屈託なく笑い、陽人の隣を歩き、職員室では静に抱きついたり、髪に指を通してみたりと、遠慮のないスキンシップを繰り返す。それは昔から変わらない陽乃だった。ただ、本人も気づかぬほどに、無意識のバランス感覚に支えられていた。

 だが、時間が経つにつれ、その「無意識」は次第に綻びを見せ始める。

 ある日の放課後、陽乃は静の机の横に腰をかけ、恋バナめいた話を始めた。女子生徒として自然な流れの雑談。けれど、そのときの静の反応は、陽乃にとって初めて「わずかに鈍い」と感じられた。

 いつもならすぐに話に乗ってくれる静ちゃんが、なぜか一拍置いて、言葉を選ぶようになっている。そんな風に陽乃は感じた。

 また別の日、陽人と何気ない雑談をしていたとき、彼の返事がどこか「保っている」ように思えた。内容ではない。言葉の隙間、目の動き、微細な呼吸の間。

 それが何なのか、陽乃にはわからなかった。

 わからないのに、なぜかざわつく。

 何も変わっていないはずなのに、確実に「何か」が変わっているのを、彼女の直感は感じ取っていた。

 ある日、陽乃は静に尋ねてみた。

 

「ねぇ、静ちゃん。……陽人のことさ、ちゃんと好き?」

 

 その質問は唐突だったが、陽乃の表情はいつもの柔らかいものだった。少しの笑みと、首を傾げる仕草。何気ない友人同士の言葉に見える。

 静は一瞬、目を細めた。そしてすぐに、いつもの調子で頷いた。

 

「もちろんだよ。……大切にしてる」

 

 陽乃はその言葉を聞いて微笑んだ。嘘をついているようには見えなかった。見えなかったけれど、胸のあたりに、またあの「チクリ」がよぎった。

 それがなぜなのか、やっぱり陽乃にはわからなかった。

 

 そして、ある夜──

 

 静と陽人が交際して以来、気を遣って双子は部屋を分けていた。それは生まれてからの快挙であり、両親や雪乃も驚いたことだ。自室のベッドに寝転がりながら、陽乃はふと天井を見上げて、ぽつりと呟いた。

 

「ねえ陽人……。静ちゃんと、キスとか……してるのかな」

 

 誰もいない部屋で、答えは返ってこない。陽乃はそのまま枕に顔を押し付け、目を閉じた。胸の奥で疼くものが、だんだんと形を取り始めていた。まだそれが何かの感情として名づけられるには、少しだけ時間が足りなかった。

 

 ──────

 

 冬の寒さが一段と増しても、静と陽人の関係は変わらなかった。

 陽人は淡々と、まるで日々の中に個人的な感情を紛れ込ませる余地などないかのように生きていた。静も同じだった。職員室では必要最低限の言葉、廊下ですれ違えば軽く頷くのみ。

 その冷静さを、陽乃はずっと「誠実」として受け止めていた。

 最初のうちは。

 

「陽人、最近……静ちゃんとちゃんと話してる?」

 

 ある日の放課後、陽人が教室でプリント整理をしているとき、陽乃がぽつりと尋ねた。

 何でもないような声色だった。視線も窓の外を向いていた。

 

「ああ、進路のことも含めて。特に問題ないよ」

 

 陽人の返事は相変わらずの平板なものだった。それ以上を求めるような語調ではないし、それ以上を差し出すこともない。

 陽乃はそれを聞いて、にこりと笑った。

 

「そう。なら良かった」

 

 言葉に嘘はなかった。だが、胸の奥がまた一度、きゅっと音を立てる。

 最近、この感覚が少しずつ変質していることに、陽乃自身も気づき始めていた。

 最初は、ほんの針の先で突かれるような違和感だった。

 今は、それがゆっくりと、皮膚の下に入り込んでくるような痛みに変わっていた。

 それは静にも、気づかれていないわけではなかった。

 ある日、放課後の準備室で、陽乃が珍しくひとりで静を訪ねてきた。いつもは他愛もない話でじゃれついてくる陽乃が、その日に限って、正面から静を見つめていた。

 

「ねぇ、静ちゃん」

「どうした? 珍しい顔をしてるな」

「陽人のこと……ちゃんと大事にしてくれてる?」

 

 その声には感情の波がなかった。ただ、確認するだけの口調。まるで医者が問診を行うかのように。

 静は、一瞬だけまばたきし、それからゆっくりと頷いた。

 

「ああ。もちろん、大事にしてるよ」

 

 その言葉に偽りはなかったし、陽乃もそれを疑ってなどいなかった。

 

「……うん。知ってるよ。知ってるのに、こうやって聞くのって、なんか変だよね」

 

 陽乃はふわりと笑って、いつものように静に抱きついた。静はその体温をただ受け止める。

 

「ごめんね、変なこと聞いて。……でも、たまには、聞いておかないと落ち着かないの」

「それもお前の優しさだろう。変ではないさ」

「優しさ、かなぁ……わたし、自分でもよくわからなくなってきてるのかも」

 

 それは、ほんの呟きだった。静はその言葉の真意を問わなかった。ただ、陽乃の背を軽く撫でた。

 

 ──陽人が、自分に何も話さなくなったわけではない。

 ──静が、自分を遠ざけているわけでもない。

 

 けれど、陽乃は感じるようになっていた。自分だけが止まっているような感覚を。

 陽人の瞳に映る世界には、もう自分の影が薄れ始めているような気がした。

 静の微笑みに宿るものが、自分の知らない色に変わりつつあるように見えた。

 胸の奥の痛みは、やがて形を持ち始める。それが「孤独」なのか、「嫉妬」なのか。それとももっと別の何かか。陽乃にはまだ言葉が与えられていなかった。

 

 だが一つ、確かなのは。

 

 陽人と静の理性ある沈黙が、陽乃を少しずつ「置いていっている」ように感じさせているということだった。

 

 その夜、陽乃は珍しく一人で机に向かっていた。

 特に目的のある時間ではなかった。勉強道具は広げられているが、文字を追う目はどこか遠くを見ている。

 ペンを握る手が止まったまま、すでに十五分は経っていた。

 

 ——静ちゃんは、悪くない。

 ——陽人も、何も隠してない。

 ——むしろ、ちゃんと話してくれている。

 

 そう何度も自分に言い聞かせる。それでも、この胸の奥に巣食うざわつきは、なぜこんなにも消えないのだろう。

 陽乃はベッドに寝転がり、天井を見つめた。目を閉じる。考えるまいとしても、意識は自然とあの二人のことへと向かっていく。

 静ちゃんは、尊敬できる人だった。優しくて、誠実で、ずるいことなんて何一つしない。

 誰よりも教師で、誰よりも陽人を大事にしてくれている。それは、間違いのない事実。

 

 ——なのに、どうして。

 

「……わたし、陽人の何でいたかったんだろう」

 

 ぽつりと、独り言がこぼれた。それは本当に、ただの問いかけだった。答えを望んだわけではない。けれど、言葉にしてしまったその瞬間から、

 陽乃の中で何かが形を取り始めていた。

 昔から、自分は陽人の双子の妹だった。それだけでよかった。兄妹であり、パートナーであり、誰よりも近しい存在。

 陽人が誰かに好かれるのは当然だと思っていた。誇らしく思うくらいだった。

 けれど、なぜか今回は違う。

 それは、相手が静だったからか。それとも、陽人の心がもう自分に向いていないように見えるからか。

 兄妹だからでは埋まらない、何かがある。それに気づいたとき、陽乃の中に小さな火が灯る。それはまだ、炎とも呼べないほどの微かな熱だった。けれど確かに、心のどこかをじんわりと焼いていた。

 

 次の日、登校中の道すがら、陽乃は陽人に何気なく声をかけた。

 

「陽人。もし、さ、わたしが静ちゃんのこと嫌いになったらどうする?」

 

 唐突な問いだったが、陽人はまったく動じる様子を見せなかった。

 目を前に向けたまま、やや歩幅を緩める。

 

「そうならないように努力する」

「……努力って、何?」

「俺が静ちゃんを選んだ責任を取るってことだ」

 

 淡々とした声だった。優しさも、温度も、過不足なくある。

 けれどその冷静さが、陽乃にはどこか遠く感じられた。

 

「……そっか。なら大丈夫。わたし、静ちゃんのこと嫌いになんて、なれないもん」

 

 言い終えると同時に、陽乃は無理に笑った。その笑みが自分でもぎこちないと感じた。けれど、それ以上のことは言えなかった。

 陽乃の問いかけが、どこまで陽人に届いていたのかは分からない。

 ただ、彼の言葉は真っすぐで、そこに嘘はなかった。

 けれど、陽乃は知っている。

 その真っすぐさが、時に人を置き去りにすることを。

 陽人と静。

 その二人の間に、踏み込むべきでない線があることを、陽乃は感じ取っていた。そして自分は、兄妹という名の安全地帯から、その線をただ眺めるしかできない。それが少しずつ、痛みに変わっていく。

 自分が陽人の何でありたかったのか。

 陽乃は、まだ答えを知らなかった。けれどその問いは、日ごとに確かな輪郭を持ち始めていた。

 

 

 

 ──────

 

 空気はまだ冷たく、指先に触れる風は肌を刺すようだった。木々は葉を持たぬまま、骨のような枝を天に向けて静かに揺れている。地面は乾ききったままで、踏みしめるたびに土が細かく鳴った。

 陽乃の中に芽吹いた「ざわつき」は次第に形を変えていった。

 最初のうちは戸惑いだった。

 自分は何に傷ついているのか、何を羨んでいるのか。そう問い続ければ答えが見つかると思っていた。

 けれど、ある日ふと気づいた。

 

 ——名前をつけようとした瞬間に、何かが壊れる。

 

 陽乃は、心の奥底にしまわれていたあの夜の記憶を思い出す。

 静が陽人を見つめていた目。陽人が静を庇うように立ったその背中。

 どちらも、嘘のない眼差しだった。だからこそ、どこにも居場所がなかった。

 自室の窓を開け、外の冷たい風に身を晒す。

 夜の静けさに包まれながら、陽乃はぽつりと呟いた。

 

「……これって、なんなんだろう」

 

 誰にも届かない声。自分にすら届いていない気がする声。

 だが、陽乃はすぐにその言葉をかき消すように首を横に振った。

 

 ──違う。考えちゃダメだ。

 

 感情に言葉を当てはめた瞬間、それは空気のように薄まってしまう。

 怒りも、悲しみも、喜びも、名前をつければそれは「整理」される。

 でも、これは整理されてはいけない。

 言葉にすることで、理解してしまう。

 理解してしまえば、納得してしまう。

 納得してしまえば、もう陽人を求められなくなる気がした。

 それが、怖かった。

 陽乃は意図的に、自分の中にあるそれを「そのまま」にしておくことにした。うまく付き合う方法なんて分からない。ただ、見て見ぬふりをしながら、日常を繰り返す。陽人の隣にいる時も、静と目を合わせる時も、心の奥で何かが軋むのを感じながら、陽乃はいつも通りの笑顔を浮かべた。

 そして次第に、陽乃の振る舞いは「快活で誰とでも親しく、陽人に依存しない妹」へと変わっていく。誰も疑わない。陽乃自身でさえ、自分がうまくやれているように思えていた。

 

 けれど。

 

 陽人がふと、別の女子生徒と話しているのを見た時。

 静が職員室で疲れたように額を押さえ、誰かに支えられているのを見た時。

 ほんの一瞬だけ、陽乃の胸がギリ、と締め付けられる。

 その痛みは、決して悲しみではない。嫉妬とも違う。

 けれどそれを言葉にすれば、それはすぐに陳腐になってしまう。

 だから陽乃は、感じることだけを選んだ。

 感じて、黙って、消化しないままそれを抱え続けた。

 彼女の心は、次第に複雑な「無題の感情」で満たされていく。

 名もなきまま、強く、濃く、深く。

 

 ──────

 

 陽乃は相変わらず明るかった。教室では中心にいて、誰とでも楽しげに会話し、成績も、振る舞いも、完璧だった。

 変わったことがあるとすれば、時折、陽乃が窓の外を見つめる時間が増えたこと。なにかを探すように。なにかを待つように。けれど、その視線は決して誰にも見せないまま、笑顔の内側に隠されていた。

 

「陽乃、今度の模試はちゃんと準備してるか?」

 

 静がそう訊いたのは昼休みのことだった。周囲の目を気にしなくていい進路指導室。

 

「もっちろん、静ちゃんの授業は完璧だもん。……あ、ていうかね、昨日陽人が『徹夜業務から限界状態で模試受けるのも訓練だ』とか言ってさ~」

 

 冗談まじりに語りながら、陽乃は隣に腰掛けた静の肩にそっと寄り添った。その仕草は自然だった。以前から変わらない、陽乃が陽乃である証のような距離感。ただ、触れている時間が、少し長かった。

 静は一瞬だけ息を止めたが、何も言わなかった。

 

「静ちゃん、陽人と最近どう? うまくやってる?」

 

 その問いは、冗談のように軽い調子で発せられた。声のトーンも、表情も、冗談そのものだった。

 だが、静には分かった。

 そこに「知りたい」という意志はない。

 ただ、「自分が知っている限りの良い未来を肯定しておきたい」という陽乃の痛々しいほど健気な自己防衛だった。

 

「……陽人は相変わらず真面目だよ」

「だよねー。陽人ってば緩めるってこと知らないもん」

 

 陽乃はふわりと笑った。

 その笑顔は完璧だった。兄を誇らしげに自慢する妹。心から嬉しそうに見える。そう“見える”ように磨き上げられていた。

 心の奥で疼くものを、陽乃は決して見ようとしなかった。

 

 ──静ちゃんが陽人と一緒にいてくれてよかった。

 ──そう思うことが正解だ。間違いであるはずがない。

 

 親友と最愛の兄が結ばれる。そんな幸福が他にあるだろうか。

 だから、この胸にある痛みのような、重さのようなものは、きっと疲労か何かでしかない。たまたま昨日、寝不足だっただけ。

 そういうことにしておけば、世界は今日も完璧に回る。

 陽乃は感情に名をつけない。

 それがどれほど強く、自分を蝕んでいたとしても。

 

 放課後、廊下を歩いていた陽乃は、階段の踊り場で立ち止まった。下の階から、静と陽人の話し声が聞こえる。内容は他愛ない。提出物の話、授業の進度、そんなもの。

 だが陽乃の鼓動は、何故か速まっていた。

 聞こえるはずのない距離なのに、声が明瞭に届く。それは、陽乃の耳が勝手に拾い上げていたからだ。無意識に。

 その事実に気づきかけて、陽乃はまた笑った。自分の中で何かが起こりかけているのを笑顔で潰した。

 感情に名前を与えてしまえば、それは形を持ってしまう。

 陽乃はそれを望まない。

 その代わりに、すべてを祝福で包むことにした。

 

 ──だから、静ちゃん、どうか安心して。

 ──私はちゃんと喜んでるよ。

 ──誰よりも君たちの幸福を祝ってる。

 

 けれど、心臓の奥で名のない何かが微かに蠢いた。

 

 ──────

 

 雨が降った。教室の湿気はただ空気が重いというだけではない。

 陽乃はそれを、誰よりも敏感に察知する。空調の切り替えのタイミング、窓際の風の流れ、足元に感じる僅かな冷気。そして、誰と誰が、今どんな関係性にあるのか。

 けれど彼女は、そういったものを「観察」しているのではない。呼吸するのと同じように、「知ってしまう」のだ。

 陽人と静が廊下で並んで歩いているところを何度か見かけた。

 特別な会話はない。目も合わない。距離も遠い。

 だが、それは陽乃にとって何より明白な近さだった。それを「近い」と言うことは、彼女にとって敗北だった。

 だから、陽乃は頭の中で都合よく変換する。静ちゃんは生徒を皆平等に見てる。兄さんは冷静で、誰にでも必要以上の関心を寄せない。

 そう、彼らはただ大人なだけ。自分が少し子どもなだけ。

 

 ——それで、いいじゃないか。

 

 陽乃は、無理にでもそう思おうとする。

 その日の放課後、静が個別課題を出した生徒にだけ声をかけていた。なぜか陽人の名前もそこにあった。静は淡々と教師としての義務をこなしているように見えた。だが、陽乃の目にはそれがどこかしら“安心”しているように映った。

 

「陽人に課題出てるの?」

 

 陽乃が何気なく声をかけると、陽人は「そうみたいだな」と苦笑いを交えつつ答えた。

 その声音も、顔も、何一つ変わらない。

 陽人は陽人だ。いつも通り、冷静で、感情の起伏に豊かで乏しい。

 けれど、それが変わらなさすぎるのだと、陽乃は思った。

 静ちゃんの前でもそう。

 まるで、最初から何もなかったように振る舞っている。

 まるで、何も始まっていないようにすら見える。

 

 ──……おかしい。

 ──何が? どうして? 

 

 そんな疑問は、すぐに胸の奥に沈んでいった。

 陽乃はその感情に、名前をつけない。

 

 ある日の昼休み。

 陽乃は静の教卓に、無邪気に近づいていった。

 

「静ちゃん、ねぇ、私にも課題ちょうだい」

「……陽乃は全部終わらせてるだろう?」

「えー、でも陽人には課題あげてるじゃんかー」

「アイツは個人的に漢文を素で読めるようになりたいとかなんとか、頭がおかしい成長を求めてるんだ」

 

 静はやや呆れたように微笑む。陽乃はその笑みが嫌いではない。むしろ、安心する。けれど、それは陽人に向けられていたはずの表情だ。

 そう思った瞬間、陽乃はふと静の髪に手を伸ばした。整えられた髪の一部を指先でくるりと巻く。出会って仲良くなってからの癖だ。静も、それに何も言わない。

 ただ、今回だけは一瞬、動きが止まったように見えた。

 

「……静ちゃん、冷たい」

「そんなつもりはないよ」

 

 陽乃は笑った。

 体の奥の方で妙な音がした気がした。

 陽乃は相変わらず、笑顔を欠かさない。

 だがその笑顔が、正解をなぞるための笑顔に変わっていることを、本人だけが知らない。

 感情の名を拒絶したまま、陽乃は日々を積み重ねる。その積み重ねはいつしか、陽乃の心の奥に名もなき重石として沈殿し続けていた。

 それが爆発するか、崩壊するか、誰にも分からない。

 ただ、陽乃だけは確かにそれを見ないようにしている。

 

 ──────

 

 陽人と陽乃は3年生に進級した。引き続き担任は静で変わることもなかった。

 授業中、陽乃は手元のシャープペンを無意識に回していた。目は黒板を向いているのに文字は視界に入っていない。ただ、教室の後ろの方に向けられた静の笑みが、陽人の横顔に向けられたものだと知っていた。

 いつも通りの会話。

 いつも通りの距離感。

 誰が見ても「それだけのこと」だとしか思わない。

 なのに、陽乃の内側だけが微かに揺れていた。

 

 ──どうして、そんなに楽しそうなの。

 ──どうして、私はこんなにも……。

 

 陽乃は、その続きを考える前に自分の頬をつねった。

 痛みは小さい。けれど確かに、現実に引き戻してくれる。

 

 ──考えるな。

 

 小さく、自分にそう命じるように呟いた。

 ノートの余白に描いた落書きに、無意味な線を何本も重ねていく。

 その線がぐちゃぐちゃに絡まって、まるで脳の中みたいだ、と陽乃は思った。

 

 

 放課後、静が陽人に何かプリントを渡していた。ただそれだけの動作。だが、陽乃の背筋が一瞬冷たくなった。

 

「ねぇ、静ちゃん。それ、私にも見せてよ」

 

 声のトーンは普段通り。笑顔も普段通り。ただ、我ながら不自然なくらいの間合いで、陽乃は静の隣に割り込んでいた。

 

「ん? ああ、これか? ただの来週の実力テストの要項だが」

「ふーん。陽人にだけ渡すなんてズルいなあ。私は?」

「……あとで配っておいてもらおうと思って陽人に渡しただけだ」

「ううん、別に。静ちゃんが陽人に甘いのは今に始まったことじゃないし」

 

 その言葉に自分で驚いた。

 

 ──今、何て言った? 

 ──まるで嫉妬しているみたいじゃないか。

 

 陽乃は笑った。笑うしかなかった。自分の声が他人のように聞こえた。

 

 

 その夜、ベッドの上で天井を見つめながら陽乃は唇を噛んだ。陽人の声、静の仕草、二人の間に流れる何気ない空気。それら一つ一つが、心の奥に微かなざらつきを残していく。

 気づきたくない。気づいてしまえば、もう元には戻れない。

 でも、その感情はすでに陽乃の中で輪郭を持ち始めていた。

 名前を与えたくない感情。

 けれど、確かにそこにあるということだけは否定できなかった。

 

 ——どうして、私はこんなにも胸が苦しいの? 

 

 思ってはいけないことを、思ってしまった気がして、陽乃は目を閉じた。その先に待っているのが破滅だと分かっている。だから、感情を言葉にしてはならない。言葉にすれば、それは形を持ってしまう。そして、形を持てばきっと壊れてしまう。

 陽乃は、深く息を吐いて、目を開けた。

 瞳の奥には、静けさが戻っていた。

 

「平気。私は、大丈夫」

 

 誰にも聞こえない声でそう呟いたとき、

 心の奥で小さく、何かがきしむ音がした。

 

 ──────

 

 静の笑い声が廊下の向こうから聞こえてくる。柔らかく響くその音は、教室という無機質な空間にさざ波のような色を落とす。

 それはいつも通り、陽乃が好きだった「静ちゃんの声」だった。

 けれども、その声を耳にした瞬間、陽乃の指先にかすかな力が入る。思わず教科書の角を強く握りしめた。何に対してなのか、どうしてなのか、自分でも分からない。しかし、無意識のうちに身体は反応していた。

 視線の端で確認する。静が誰かと談笑している。

 相手は同僚の教師。陽人の姿はない。

 それだけで、なぜかホッとしてしまった自分が少し嫌だった。

 別に、ふたりが並んで話していたっておかしくないのに。親しいのは分かっているのに。何もやましいことがあるわけじゃないのに。

 陽乃は笑顔を崩さず、その場を通り過ぎる。あくまで自然体で。何も感じていないふうに。すれ違いざま、静と目が合った。

 

「陽乃、今日のお昼一緒に食べるか?」

「いいの!? もっちろん! 静ちゃんと食べると、午後の授業も頑張れるからね!」

 

 陽乃は、両手を軽く広げて喜びを示す。まるで子どものように無邪気な反応。足取りも跳ねるように軽い。その姿に、静はほんの少し目を細めて優しく笑った。

 会話の中身に、曇りは一切ない。

 陽乃は静に全幅の信頼を寄せている。今も、そう思っている。そう信じている。

 

 ──だって、静ちゃんは優しいから。

 ──誰よりも私の味方でいてくれるから。

 

 けれど。

 ほんの一瞬、静のその誘いが義務のように聞こえた気がした。反射的に出たような声。計算されたような優しさ。だが、それはきっと勘違い。思い過ごし。陽乃の過剰な想像。

 

 ──そう思いたかった。

 

 陽乃の胸にチクリとした感覚が走る。

 それが何なのかは分からない。理解しようとすれば、とたんに崩れてしまう気がした。だから、笑顔を絶やさず陽乃は言葉を重ねた。

 

「静ちゃんってば、今日も美人でかっこいいし、ほんとずるいんだからっ」

 

 軽く腕を組むようにして、陽乃は静に身体を寄せた。明るく、親しげに。ふたりの間には壁など何もないと、そういう風に演出するように。

 そして、自分の中にあるほんの小さな痛みをそっと胸の奥へ押し込んだ。

 

 

 昼食を終え、教室に戻る途中。

 廊下を歩く静の隣を、陽乃は軽やかな足取りで並ぶ。

 だが、心のどこかが重たく沈んでいた。楽しいはずだった。静と食べる昼休みは、いつだって心の拠り所だった。

 けれど、今日の会話はどこか噛み合わなかった。話題を振っても、静の返事は優しいけれど短い。

 思い過ごし、そう何度も自分に言い聞かせる。けれど、心の奥底に沈んだ何かが少しずつ膨らんでいく。

 

「静ちゃん、なんか最近忙しいよね? 陽人と会う時間とか取れてる?」

 

 陽乃は明るい口調で問いかけた。だが、その質問に込めた意図を静は読み取った。

 

「うん。まあ、無理はしてないよ」

 

 それ以上の言葉はなかった。

 陽乃もそれ以上を望んでいるわけではなかった。はずだった。

 

「そっか。なら、よかった」

 

 心の中で何かが少し軋んだ。

 もう何度目であろうか。

 そんな自分が面倒くさくて嫌いだった。

 

 

 それから数日、陽乃は自分でも奇妙な感覚にとらわれるようになる。

 ふとしたとき、静が誰かと話しているだけで意識がそちらに向いてしまう。陽人の声が近くから聞こえれば、意味もなく動悸が早まる。廊下ですれ違っても、挨拶すらせずに過ぎていく。それが普通なのだと、頭では分かっているのに。

 

「……陽乃、最近何かあったか?」

 

 放課後、静が教員室に呼び止めたときも、陽乃はすぐに返答できなかった。視線がすぐに逸れる。何かを隠しているのは、自分の方だった。

 

「ううん? ないよ。ぜんっぜん元気! ね、今日一緒に帰ろ?」

 

 陽乃は静の腕を取って軽く揺らす。

 何度も断られた誘い。今回もまた同じ返答だろう。

 しなやかな笑顔。けれどそれは、ほんの少し強張っていた。

 

「……そうだな。いいよ」

「……えっ?」

 

 静の目は優しいままだった。けれど、何かを探るような奥行きがあった。その視線に、陽乃は無性に焦りを感じた。

 そして、それを隠すように、より明るく、より親しげに振る舞った。

 感情は、名前をつけてしまうと輪郭を持つ。

 輪郭ができると、存在が確かになる。

 存在が確かになると、それはもう否応なく「感情」になってしまう。

 だから、陽乃はそれに名前をつけまいとした。

 静ちゃんのことも、陽人のことも、今の関係も。

 どんな言葉にも置き換えない。ただ、今までどおりであればいい。

 

 なのに。

 

 誰かが陽人に話しかけて笑いかけるだけで、心がさざ波立つ。

 静がふと陽人を目で追った瞬間を見つけてしまっただけで、指先に冷たい汗が滲む。

 

 そしてある日の放課後、

 静と陽人が校舎裏の物陰で立ち話をしているのを、偶然見つけてしまった。

 会話の内容は聞こえない。ふたりとも落ち着いた様子だった。

 ただ、その間合いが、空気が、特別だった。

 陽乃は笑顔を作りながら、歩く足を止め、鞄の中で手を握りしめた。

 何を思えばいいのか分からなかった。

 何を考えてはいけないのか、だけが分かっていた。

 抑えなければ。

 この感情に、形を与えてはいけない。

 けれどその夜、鏡の前で、自分の顔を見つめたとき。

 陽乃はふと、思ってしまったのだ。

 

 ——どうして静ちゃんなんだろう。

 

 思ってはいけない、と知っていた。

 だけど、もうその問いは胸の奥に、静かに、確かに芽吹いてしまっていた。

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