教室の窓際に立つ陽人の背中を、陽乃は遠巻きに見つめていた。
午後の陽射しは淡く、光に縁取られたその輪郭が少しだけぼやけて見える。
陽人は何かを考えていた。手元の教科書に目を落としながら、眉間にほんの小さな皺を寄せている。
その仕草が、なぜか胸を締めつけた。ただ立っているだけ。何も言っていない。ただ存在しているだけのはずなのに。陽乃の心は、少しずつ熱を持ち始めていた。
「陽人」
呼びかけた声に、自分でも違和感を覚えた。乾いた空気の中で、どこか湿度を帯びた響き。陽人は振り向き、変わらぬ表情で彼女を見た。
「ん?」
その何でもない返事が、陽乃にはやけに優しく聞こえた。思わず視線を逸らしてしまう。何を話したかったのか、もう分からない。
「……なんでもないよ。ちょっと、呼びたくなっただけ」
陽乃は笑ってそう言った。けれど、陽人の視線が一瞬、彼女を深く見つめたのを感じた。まるで、陽乃の何かが透けて見えたかのように。そう思った瞬間、陽乃は怖くなった。
「帰ろっか。もういい時間だし」
取り繕うように言って、陽人の横をすり抜ける。そのすれ違いざま、わずかに肩が触れた。ほんの一瞬だったのに、指先にざらついた感覚が残った。それは触れたというより、触れてはいけないものに近づいたという感覚に近かった。
教室を出ると、廊下の向こうから誰かの声が聞こえてきた。
静の声だった。誰かと談笑している。
陽乃は足を止めそうになったが、陽人が横にいたことで踏みとどまった。
そして次の瞬間、自分でも理由の分からない衝動が、胸の奥からせり上がってきた。
「ねえ、陽人。今日、家帰ったら一緒にご飯作ろ?」
それは、あまりに唐突な提案だった。陽乃の声には、どこか甘えのような、あるいは懇願のような色が混じっていた。陽人はほんのわずかだけ目を細め、陽乃の表情を読むように見つめた。
「いいよ。久しぶりだな、一緒にやるの」
そう返されたことに、陽乃は安堵した。けれどその直後、今の自分の言葉がどこかずるい響きを持っていたことに気づく。
この感情には、名前をつけてはいけない。
つけた瞬間、すべてが壊れてしまう。
陽乃は笑ったまま、自分の心をもう一度、静かに封じ込めた。
──────
日曜の午後、春の陽が窓越しに差し込む居間で、静はいつもの穏やかな微笑みをたたえていた。
家庭訪問という名目で雪ノ下家を訪れた静は、母親との形式的な会話を終えると、気心の知れた顔をして居間に居座った。教師というよりも、もう家族ぐるみの知人のように振る舞うその様子に、陽乃は最初からどこか落ち着かないものを覚えていた。母も静を気に入っているようだった。
会話もしばらくして、母親は父親の仕事を手伝いに席を外した。静にゆっくりしていくようにと伝えて。
それから残された3人で談笑した。時間が経ち、陽人は台所に立ってお茶の準備をし始めた。陽乃はその傍らにいたが、妙に静が陽人の動きを目で追っていることに気づいていた。
ふと、陽乃は台所を出るふりをして、自室のある廊下へと足を運んだ。けれど、自室の前まで来たところで、気配を感じて再びそっと引き返す。誰にも気づかれぬよう、廊下の角に身を寄せて、居間の扉越しに目を向けた。
そして──
その瞬間を、陽乃は見てしまった。
陽人が、静の腰に手を添える。静は微笑を浮かべたまま、そっと陽人の肩に手を置き、体を寄せた。互いの呼吸が交わる距離で、何も言わず、自然な動作で唇を重ねた。
音はなかった。気配もなかった。ただ視界の中で、二人が重なった。
陽乃の心臓が、ぐっと掴まれたように痛んだ。逃げるように部屋へ戻り、扉を閉めた。唇を噛む。手が小さく震えていた。胸の奥からせり上がってくる何かを、陽乃は必死に飲み込む。涙ではなかった。怒りでもない。悲しみでもない。そのどれでもなく、全部だった。この感情には、名前をつけてはいけない。名を与えた瞬間に、壊れてしまう。
そう信じていた。
なのに──
──どうしてあの場面で、私は息ができなくなったんだろう?
それでも陽乃は、あの日の夜、何も言わなかった。
けれど、数日後。
その感情は、自分でも抑えきれないほどに膨れ上がっていた。
──────
放課後。誰もいない準備室に静を呼び出した陽乃は、笑顔もなく、ドアを閉めるなり、真っすぐ静を見つめた。
「……なんで、家であんなことしたの?」
静の表情がわずかに動いた。
「見たのか?」
「見たよ」
陽乃の声は落ち着いていた。けれど、その奥に潜むものが静には伝わったはずだった。
「うちでキスする必要なんて、どこにもなかったよね?」
静は黙っていた。何も否定しない。ただ静かに受け止める姿勢だった。
「もし、見たのが私じゃなかったらどうするつもりだったの? お母さんだったら? 雪乃ちゃんだったら?」
問いの言葉は正論だった。しかし、それ以上に、陽乃の声音には感情が滲んでいた。その正体を、陽乃自身はあえて知ろうとしない。
静は少しの沈黙の後、ぽつりと答えた。
「……すまない、陽乃。配慮が足りなかった」
それだけだった。
陽乃は何も言わず、ふっと目を伏せた。
「ううん、私が……気にしすぎてるだけ」
そう言って笑おうとしたが、唇は引きつり、笑みにはならなかった。
──壊れたのは、どちらなのだろう?
そんな問いが、喉の奥に刺さったまま、言葉にはならなかった。
──────
窓の外では、まだ夕日が沈みきらない。橙の光がカーテンの隙間から差し込んで、陽人の部屋の一角をあたたかく照らしていた。
その部屋に双子の姿があった。陽人はいつも通りだった。報告書を机に広げて、無言で何かをまとめている。ボールペンの走る音だけが静かに響いていた。
陽乃はベッドの端に腰掛けていた。何気ないふうを装っていたが、指先は落ち着きなく、スカートの裾を何度もなぞっていた。内心、何度も言葉を選び直している。深呼吸をしようとしたが、それすら胸の奥でつかえて出てこない。
けれど、今日はどうしても、来なければならなかった。
あの日のこと。静と陽人のあの瞬間を、たまたま見てしまった。それは偶然だった。偶然でなければ、耐えられなかった。そう思おうとした。
——なぜ、家で。なぜ、私がいる空間で。
目の前にいる陽人は、あのときと変わらない。何もなかったかのように、静かに筆を動かしている。けれど、その姿すら陽乃の視界の奥で揺れているように感じられた。
「陽人」
抑えた声で呼びかけた。静寂を破るように、唐突に。
「ん?」
陽人は手を止めずに返事をした。陽乃の方を見ようとはしない。
「ねえ……あのさ」
陽乃は立ち上がり、机に近づいた。陽人のすぐ隣に立つ。彼の手元に視線を落とすと、報告書には整然と文字が並んでいる。その整いすぎた文字列が、どこか白々しく感じた。
「この前、静ちゃんが来た時……あのとき」
陽人が、ぴたりと手を止めた。
陽乃は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「……見たんだ。二人が……キスしてるのを」
数秒、何も反応がなかった。空気が固まり、時間だけがゆっくりと流れていく。
「そうか」
陽人は、それだけを言った。そして、また報告書に目を落とそうとした。陽乃の手が、その腕を押さえた。
「見られても平気だったの? 私じゃなかったら……他の誰かだったら?」
「そんなことはない。陽乃だったから、ってわけでもないけど……不用意だったのは認める」
「不用意で済む話?」
陽乃の声が少しだけかすれた。けれど怒っているわけではない。その証拠に、彼女の表情は壊れそうなほどに穏やかだった。
「私は……静ちゃんのことを信頼してる。今だってそう思ってる。あの人なら、陽人を任せられるって」
そこで一度、言葉が詰まる。息を整えるように視線を落とした。
「でも……」
──でも、何?
陽乃自身、その先の言葉が見つからない。ただ、胸の奥に巣くっていた何かが、ゆっくりと浮上してくるのを感じていた。名前を与えたくないそれは、けれど確実に陽乃の声に、目に、指先に、滲み出していた。
「私……」
言おうとして、唇が震えた。陽人がようやく、彼女の方を見た。いつもと変わらない淡々としたその目が、今日ばかりは刺すように感じられた。
「……やっぱり、なんでもない」
「陽乃」
呼ばれて、陽乃は顔を上げる。目と目が合った。
「……何が言いたい?」
問いかけは、優しくもなく、冷たくもなく、ただ事実を求めるような声だった。陽乃は笑った。いつものように、柔らかく、明るく。けれどその笑みは、輪郭を保てずに震えていた。
「陽人って、ほんと、変わらないよね」
陽人は何も言わない。
「私さ、ずっと我慢してきたつもりだった。何を我慢してるのかは、自分でも分かってなかったけど。でも、この前見て、やっと分かったんだ。あの瞬間、心臓が……すごく痛くて、苦しくて、泣きたくて」
言葉にしてはいけなかったのに、もう止められなかった。
「ねえ、陽人。私、何が悲しかったのかな。何に苦しくなったのかな。……嬉しいはずなのに。静ちゃんと陽人が、幸せそうで、すごく嬉しかったはずなのに……」
陽人は何も言わず、ただ目を逸らさずに彼女を見つめていた。
「この気持ちに……名前をつけたくないの。名前をつけたら、それはもうそういうものになっちゃうから。違うの、違う。そんな単純じゃない。私の中にあるこれは、そんな言葉ひとつで表せるものじゃない」
陽乃は陽人の前に膝をつき、彼の胸に額を押し当てた。
「陽人……お願い。少しだけ、こうしててもいい?」
陽人は答えなかった。ただ、彼女の頭にそっと手を置いた。その手は優しくて、昔から何も変わらなくて。だからこそ、陽乃はもう何も言えなかった。
陽乃の目から、音もなく涙が落ちた。
気付かれたくなかった。知られたくなかった。けれど、どうしても隠しきれなかった。
この感情に名前なんてつけたくなかった。つけてしまえば、それは終わってしまう。
陽人の掌に包まれた頭から伝わる温もりが、陽乃の心をじわじわと満たしていく。
そのぬくもりが、どれほど望んでいたものだったのか、今さら思い知らされるようで、陽乃はただ、静かに目を閉じた。
──ほんとは、ずっと
言葉にしたら、壊れてしまうから。
陽乃はその夜、自室に戻ってからもずっと、陽人のあの手の感触を思い出していた。泣き腫らした目を隠すように、布団の中で顔を埋めたまま、何もかもを忘れようとするように眠りに落ちていった。
──────
春の陽光が講堂の天窓から差し込み、壇上の双子をやわらかく包んでいた。拍手が鳴りやまぬ中、生徒も保護者も教員も、その視線を離さなかった。
容姿、成績、人望——すべてにおいて群を抜いた雪ノ下陽人と陽乃。
誰もがこの兄妹を賞賛し、羨望のまなざしを注いでいた。壇上に立つ二人は、まるで作り物のような完璧さを纏いながらも、堂々としていた。陽乃は晴れやかな笑顔で、陽人は静かな誇りを滲ませて。
壇上の隅、少し離れた席に静がいた。教員席に控えめに立ち、微笑みながら彼らを見守る静。その目には、教え子への誇らしさとどこか遠くを見つめるような哀しみが同居していた。
式が終わり、校舎内が騒がしくなる中、特別棟の一室。
もはやほとんど使われることのない古びた応接室のソファに、陽乃が座っていた。白くやわらかいセーラーの襟元を軽く正し、窓の外を眺めている。春風がカーテンをゆらし、遠くから卒業生たちの歓声が聞こえてくる。
静がノックもなく入ってきた。
「もう来てたんだ、陽乃」
陽乃は振り返り、弾けるような笑顔で立ち上がった。
「静ちゃん! 今日も綺麗だね、袴姿似合いすぎ〜。一緒に撮ろうよー! はいチーズ!」
スマホを取り出し、陽乃は陽人が来る前からテンションを高めていた。静も微笑んで応じるが、その目には揺れるものがある。
しばらくして、陽人が入ってきた。
「お前ら、また勝手に先に盛り上がってる」
「だって陽人、遅いんだもん」
「二人きりにしてほしかったんじゃないのか?」
「それはそれ、これはこれ〜」
陽乃が陽人の腕を軽く引いて隣に座らせる。静は向かいに腰かけた。窓の外の光が三人の影を床に落とす。
最初は他愛もない会話が続いた。卒業式の話、来春の進路、先生方の裏話。静も交えて笑い合う。陽乃は静にやたらと絡み、膝に手を置いたり、袖を引いたりする。まるで無邪気な子供のように。
だが、陽乃の中で、何かがきしむような音を立てていた。
卒業。
終わりと始まり。
この先、静はもう先生ではなくなる。
この先、陽人と静の関係が、誰にも咎められないものになる。
「静ちゃんはさ」
陽乃がふと呟いた。何気ないような声のトーンだったが、その言葉には微かな揺れがあった。
「陽人の、こと……ちゃんと好きだったんだよね」
沈黙が落ちた。
陽人は表情を変えず、静は軽く目を伏せた。
「……ああ」
陽人が答える。いつも通りの、ぶれない口調。
陽乃はにっこりと笑った。太陽のようなその笑顔に、影はなかった——ように見えた。
「よかった。すごく、お似合いだよ。ずっと応援してたし、静ちゃんと陽人が一緒なら、なんていうか……安心する、っていうのかな。うん」
言葉に嘘はなかった。けれど、どこか壊れかけた回路のように、陽乃の心の奥で何かがうまく接続できていなかった。
「ありがとう。陽乃」
静が微笑んだ。優しさと後ろめたさを一滴ずつ混ぜたような、年長者の顔で。
「でもね、陽乃。お前は、本当は」
静が立ち上がり、そっと陽乃の頬に触れる。陽乃は一瞬、身じろぎすらしなかった。
「“恋”してたのよ」
その言葉は、雷のように落ちた。
陽乃の身体が、わずかに震えた。陽人が少し身を乗り出そうとしたが、静が手で制した。
「……え?」
声にならない声が唇から漏れる。陽乃は笑顔のまま、瞳だけが揺れていた。
「気付かないようにしてただけ。ね、陽乃。あなたは陽人に“恋”をしていたの。子供の頃からずっと」
静の声は、淡々としていた。慰めも非難もない。ただ、事実を伝えるような温度で。陽乃はふらりと立ち上がり、部屋の壁に背を預けた。唇がかすかに震えている。
“恋”
その言葉は、彼女の中で封印されていた何かを暴き出す。
陽人のことが好き。そういう単純な言葉で自分の気持ちを表すことが、どうしてもできなかった。それは愛とも、執着とも、羨望とも違うもの。ただ、彼を失いたくなかった。彼が誰かに渡るのを見たくなかった。
それだけだった。
「……なんで」
ようやく、かすれた声が出た。
「なんで、そんなこと……言うの?」
静は答えなかった。
陽乃の目が、ようやく陽人を捉える。陽人は動かなかった。ただ、陽乃の視線を真っ直ぐに受け止めていた。
感情が、名前を持った瞬間崩れる。それが陽乃の恐れていたことだった。名をつけられた感情は、形を持ち、そして、彼女を蝕む。
「やめてよ……静ちゃん。そんな、名前つけないで。そういうの……嫌いなの、私……」
陽乃は笑った。笑おうとした。だが、口角は震え、瞳から一筋、涙がこぼれ落ちた。
「私は……ただ、静ちゃんのことが、大好きで……陽人のことも、大好きで……それだけで……」
その声が涙にかき消された瞬間、陽人が立ち上がり、陽乃を抱きしめた。
陽乃は一瞬だけ抵抗した。だが、すぐにその腕の中に崩れ落ちる。嗚咽がこぼれた。小さな、しかし確かな、悲鳴のような泣き声だった。その背を、陽人は静かに撫で続ける。
「お前の気持ち、俺は、本当はわかってた。ずっと昔から」
「じゃあ、なんで……なんで、言ってくれなかったの……」
「言ったら、お前は壊れるからだよ。……俺も、壊れるから」
静はその光景を見ていた。
何も言わず、ただ立っていた。
「……ごめん。静ちゃん。別れよう」
陽人が、陽乃を抱いたまま呟いた。
「……もう、俺は静ちゃんとはいられない」
言葉は冷たくも、痛々しいほど真っ直ぐだった。静は目を伏せた。小さく、誰にも聞こえないほどの声で笑う。
「……やっぱり似てるな、君たちは。とても」
それきり、静は一歩も陽人に近寄らず、その場を後にした。
──────
部屋の灯りはやわらかだった。天井の照明ではなく、壁際に置かれたスタンドがぼんやりと金色の光を放ち、まるで部屋全体が毛布にくるまれているかのような、温かな空気が漂っていた。
その中に、陽乃はいた。
陽人の部屋。そこはかつてから変わらぬ、彼の匂いと整然とした秩序に満ちた空間だった。だが今、その一隅に身をうずめる陽乃の姿は、どこかそこから浮いて見えた。整いすぎたもののなかに、不確かな情動を持ち込んでしまった者のように。
彼女は陽人の膝の上にいた。
抱えられるようにして、背を包まれている。陽人は何も言わず、ただ陽乃をあやすように、背に手を回し、ゆるやかに、やさしく、包み込んでいた。
陽乃の頬は濡れていた。ひどく静かな涙だった。嗚咽も、震えもない。ただ、瞳の奥から湧き出たものが、重力に導かれるまま流れて、顎の先で丸くなり、ぽとりと落ちていった。
その一滴一滴が、陽乃の裡に生まれてから落ちるまでの時間。それは、彼女の中で崩れ続けているものの、ひとつの証のようにも思えた。
「……大丈夫だよ、陽乃」
陽人が、まるで夢の中の囁きのように声をかける。低く、深く、鼓膜を撫でるような声音だった。その声に、陽乃の体が微かに揺れた。震えではなかった。ただ、なにかが触れたことに反射的に応じたのだ。
泣いている理由を、陽人は訊ねなかった。
訊ねるべきでないことを知っていた。陽乃自身が、まだ言葉にしていない感情の名前を、口にされることを恐れていることを、陽人は直感していた。
そして、それでも彼女を離さないことだけが、今の陽人にできる誠実さだった。
陽乃は、陽人の胸に顔を埋めた。服越しに感じる鼓動は、静かな太鼓のようだった。遠くで響いているはずのものが、肌のすぐ下にあることに、陽乃は不思議な安心を覚えた。
そのまま、彼女は小さな声で言った。
「……ねぇ、陽人。私のこと、置いて行ったりしない?」
陽人は答えない。代わりに、陽乃の肩をもう一度しっかりと抱き寄せた。
それが答えだった。
言葉ではない、沈黙のなかに織り込まれた意志。陽乃は、陽人の無言を、深く深く受け取った。
それでも。
「……ほんとに、どこにも行かない?」
再び陽乃が問う。その声には、先ほどよりわずかに切実な色が混じっていた。陽人は今度、ゆっくりと頷く。そして、頬に流れる彼女の涙を指先で拭った。
「どこにも行かないよ。俺はずっと、ここにいる」
陽乃はその言葉を、何度も頭の中で繰り返す。反芻するように、噛みしめるように。だが、満ち足りることはなかった。まるで、感情という器が、すでに何かでいっぱいなのに、それでもなお新しい熱を注ぎ込まれているようだった。
そしてその熱は、陽乃の中にあるものを、変質させようとしていた。
陽人の胸に抱かれていながら、陽乃は気づく。そこにあるのは安心感だけではない。懐かしさでもない。もっと……別の何か。名付けるにはあまりに苦しく、語るにはあまりに重い何か。
陽人の匂いを吸い込みながら、陽乃はようやく気付く。
──ああ、私は。
言葉にしたら壊れてしまうと知っている感情。それを、ようやく心の奥で名づけてしまう瞬間。
それは兄を「陽人」と呼ぶ、陽乃だけの静かなる悲劇の始まりだった。
陽乃の指が、そっと動いた。
陽人の胸に添えられていた両手のうちの片方が、ゆっくりとその輪郭をなぞるように動き、そしてもう一方の手とともに、彼の頬に触れた。
やわらかかった。思っていたよりも、ずっと。
その感触に、陽乃は息を呑んだ。何度も見つめてきた顔。けれど、こうして触れることは、ほんの幼い頃を最後に、あまりなかった。成長と共に自然とできなくなった接触を、いま再び許されている。その事実が、陽乃の中の境界を揺さぶる。
「……陽人」
名前を呼ぶ声には、涙の痕跡がかすかに残っていた。けれどそれはもう、弱さではなかった。
陽乃の目は、陽人の目をまっすぐに見ていた。
言葉にならない感情が、彼女の中で波を打っていた。何も語らなくても、陽人はすべてを受け止めてくれるだろう。そう確信しているからこそ、逆に言葉が必要だった。
「陽人……私ね、たぶん……ずっと」
そこまで言って、陽乃は言葉を呑み込んだ。だめだ、この先はだめだ。
この先にある言葉は、自分を越えてしまう。言葉にしたら、もう元には戻れない。だからこそ、陽乃は言葉のかわりに行動を選んだ。
彼の頬に触れたまま、陽乃は身を寄せる。
そして。
唇が、そっと、重なった。
静かな接吻だった。熱も、力も、衝動もない。ただ、そこにあったのは、込み上げる愛情をどうしても制御しきれなくなった、ひとつの「かたち」だった。
陽人は動かない。拒まない。だが、応えることもない。
それは兄としての、ぎりぎりの線だったのかもしれなかった。
数秒、あるいはもっと短い時間だったかもしれない。陽乃はゆっくりと唇を離し、そして、自分が何をしてしまったのかをようやく理解する。
──ああ、私はこんなにも。
目の前の陽人は、変わらぬ表情で陽乃を見ていた。咎めるでもなく、優しく微笑むわけでもない。ただ、静かに受け入れていた。その無言のやさしさが、陽乃を深く刺した。
「……ごめん、ね」
小さな声で陽乃が謝った。けれどその言葉の裏には、謝ることでしか耐えられないほどの愛情が隠れていた。
彼を好きになってはいけない。
彼は兄であって、私の手の届かない場所にいる。そう、何度も言い聞かせてきた。けれど、その理性の網目をすり抜けてしまうほどに、この数年は、陽人という存在の全てが、陽乃にとって絶対だった。その絶対に抱かれている今、陽乃はこの上なく幸福で、この上なく罪深かった。
陽人は何も言わず、再び陽乃を抱きしめた。もう言葉はいらなかった。陽乃も、もう何も言わなかった。言葉にすれば、すべてが壊れてしまう。
ふたたび、陽人の胸に顔を埋め、陽乃は泣いた。
その涙は、悲しみでも、喜びでも、絶望でもなかった。ただ、愛しさが行き場をなくし、こぼれ落ちたものだった。
スタンドはまだやわらかに灯しており、少しの隙間から扉の向こうにも光を届けていた。温かい光で壁に映る双子の影は、まるでひとつの輪郭に溶け合っているように見えた。
──────
気づけばソファの上、膝を抱えるように横たわっていた。薄手のカーディガンを羽織っていたが、春の光が次第に傾いていくにつれ、部屋の空気は徐々に冷えていた。
陽乃は眠っていた。けれどその眠りは浅く、夢の中ではまだあの冬の夜を彷徨っていた。
静の笑み。
陽人の胸で流した涙。
何度も「置いていかないで」と囁いた声。
それらが、まるで遠い記憶の底から、ゆるやかに水面へ浮かび上がってきては、また沈んでいく。
夢の中で、彼女は泣いていた。
そしてその頬に、現実のぬくもりが触れたとき、陽乃はゆっくりと目を覚ました。
「……陽人?」
見上げた先にいたのは、確かに彼だった。薄暗くなったリビングに、彼の帰宅を告げる足音も、開閉の音も聞こえていなかった。ただ、気づけば彼はそこにいて、陽乃の頬に触れていた。
「ただいま。寝てたんだな」
低く、優しい声。その響きに、陽乃の胸の奥に、何かがふっとほぐれる。陽乃は、眠気の残るまま、ゆっくりと身体を起こし、そして腕を広げた。
「おかえり……」
その声は、眠りの残滓をひきずりながらも、どこか切実だった。
「……ぎゅってしてもいい?」
陽人は答えなかった。ただ、微かに頷いて、陽乃の細い肩を抱き寄せた。その瞬間、陽乃の腕が彼の背中にぎゅっと回される。
「ねえ、陽人……わたしのこと、置いていったりしない?」
呟くような、囁くようなその声には、まぎれもない震えが含まれていた。成熟した大人の顔をしていても、彼女の心の奥には、かつて夜ごと泣き濡れていた少女がまだ棲んでいた。
「そんなこと、あるわけないだろ」
陽人の返答は、以前と同じだった。けれど、その声は少し低く、深くなっていた。
陽乃はその言葉を、胸の奥で何度も反芻するように、目を閉じた。そして、ふと陽人の胸に顔を埋めたまま、かすかに笑った。
「夢の中で、またあの時に戻ってた。静ちゃんが、わたしの気持ちに名前をつけてくれた日……」
陽人の腕の力が、わずかに強くなった。
「わたしね、まだ、あの日のこと、全部乗り越えられてないんだと思う」
それが愛情なのか執着なのか、陽乃はわからないままだった。ただ、陽人の腕の中にいると、胸の奥が温かくなって、そして少しだけ怖くなった。
陽乃は陽人を見上げた。その目は、まだ泣き腫らした少女のそれではなかった。成熟した、けれどいまだに揺らぎを抱えたひとりの女性の静かな瞳だった。
「お願い……陽人。どこにも行かないで。強くなるから」
「……安心しろ。歩き出せるまでずっとそばにいる」
その応答に、ようやく陽乃は微かに笑みを浮かべ、陽人の胸元に頬を預けた。
その夜、ふたりはソファで肩を並べ、何も言わずに春の街の灯を見下ろしていた。その距離は近く、けれど決して重なりすぎることはなく、互いの体温を確かめ合うような、静かな共有のひとときだった。
あの夜の涙は、もう言葉にはならない。
けれど、あのとき重ねられた想いだけが、今もこうして、ふたりの間に灯り続けていた。