冬の冷たい風がマンションの外壁を撫でていた。年が明けて数日、街はすでに日常のペースを取り戻しつつある。人々は新しいスケジュールに追われ、正月特有の浮ついた空気はすでにどこかへ消え失せていた。そんな中で、陽人は時間を数年逆行するように静の部屋を訪れていた。
別に理由があったわけではない。陽乃と喧嘩をしたわけでもないし、特別に何かを話したかったわけでもなかった。むしろ、話すことなど毎回ほとんどなかった。ただ、あの静かな部屋に身を置くと、思考の重みが少しだけ緩む気がしたのだ。
去年の年末、会食帰りで少し酒を飲みすぎた夜も、結局ここで一度夜明けを迎えたことがある。
昨年の夏に再開して以来、何度目かの訪問だった。年が明けてからは初めてである。会えばそれなりに話すし、黙っていても不自然ではなかった。どこか少しずつ元に戻りつつあるという空気さえあった。けれど、元とは何か。それを明確に定義できる者は、二人のどちらにもいなかった。
そして、今日もまた、陽人は例によってマンションの前で立ち止まり、エントランスで部屋番号を入力し、オートロックの入り口を通過した。エレベーターで目的の階へと上がり、少し歩いて扉の側についてるインターホンを鳴らした。タイミングを見計らったように、内側から足音がして鍵が外れる音がした。
扉が開くと、いつもの静がそこにいた。
「……また来たのか」
開口一番にそれだけを呟いて、彼女は玄関に背を向ける。あいかわらず無駄のない動作。彼女が教師としての時間の流れをそのまま生活に持ち込んでいることを、陽人は何度目かのように意識した。
そして、その背中を追うように陽人は今日もまた足を踏み入れる。
整然とした部屋だった。数多の書籍が並び、アニメのフィギュアが一角を占める。溢れんばかりの物があるにも関わらず、一定の秩序で整頓されており、静の性格がよく現れていた。夕方の光がカーテン越しに差し込み、木製のテーブルに柔らかい陰を落としていた。
「座りたまえ。おせちの残りだけど、まだ少し残ってるから食べるだろう?」
静はエプロンの紐を軽く結び直し、キッチンへと向かった。足音も立てず、滑るように動くその背中を陽人はぼんやりと見つめる。やがて、テーブルに湯気の立つ味噌汁と黒豆、なます、栗きんとん、伊達巻き、それから炊き立ての白米が運ばれてきた。
「実家以外のお正月料理は久しぶりかも」
「正月くらいは形だけでもな。……ほら、冷める前に」
言われるまま箸を手に取り、まずは味噌汁を啜る。出汁の香りが鼻に抜け、温かさが喉から胃へとしみ込んでいく。陽人の肩がわずかに緩んだ。
「これ、静ちゃんが作ったの?」
「実家で手伝ったものを少しだけ持ち帰って冷凍していたんだ。それを朝から解凍しただけだが」
「……わざわざ?」
「年始に誰かが来るかもしれないと思ってな」
静は視線を落としたまま、箸を動かしている。そうして、二人はしばらく黙って食べ続けた。外の風の音と箸の触れる小さな音だけが空間を満たしている。話さなくても心がどこか解れていく。食事の時間とは、どうしてこうも人の心を柔らかくするのだろうと陽人は思う。
完食したあと、静がグラスを取りに立ち、ワインをテーブルに置いた。いつの間にか陽人のグラスも、隣に並べられていた。赤ワインの瓶がコルクの音を立てて開かれ、深いルビー色の液体が注がれていく。
「明けましておめでとう」
「明けましておめでとう。今年もよろしく」
教師という職業のせいか、静のまなざしは常に見透かす力を帯びていた。見ようとしなくても、生徒の嘘や曖昧な態度を掬い取ってしまうような、そういう目を彼女は今、陽人にも向けている。切り出しは互いに二口ほどワインを含んだ頃だった。
「……どうして、陽乃を裏切り始めた?」
唐突だったが、直球だった。まるで過去の再来。生徒に問いを投げかけるときのように、的を射ていた。
「年始早々にぶっこむね」
陽人は微動だにせず、ただ小さく笑った。逃げないまま、ほんの少し口角を上げてみせる。
「陽乃が……つまんなくなったからかも」
その一言に、静のまつげがわずかに揺れた。けれど顔には出さない。表情を崩すことなく、彼女は続けた。
「つまらない、って?」
「俺の好きだった陽乃ってさ、いつも躍動的で、刺激的だった。ルールなんて気にしなくて、何かを変えることを恐れなかった。……お互いの人生に踏み込んできて、全部を塗り替えるような関係だった」
陽人は息を吐いて、前髪を掻き上げる。
「でも、今の陽乃は慎重すぎる。まるで何かを守ろうとしてる。俺たちの関係も、もう何か変える気はないんだと思う。……そういうふうに見える」
「それはお前がそうさせたんだろう?」
静の言葉には、教師としての問いかけにも似た冷静さがあった。誰かの行動を批判する前に、まず自分の影響を考えなさい。そんな教えを含んでいるようでもあった。
陽人は小さく笑った。だがその笑みには熱がなかった。皮肉も誇りもない、ただ乾いた笑いだった。
「……かもね。でも、俺だってただの人間だよ。誰かの隣にいて自由にしたいって思うのは、そんなに悪いことか?」
静は黙って聞いていた。その沈黙の中に何か言いたげな含みがあった。
「それで、私に会いに来た?」
「──違う」
陽人の返答は即答だった。静の眉が、わずかに動く。
「陽乃が俺に自由をくれないからって、誰か他の人に逃げるようなことはしたくないと思ってた。でも気づいたら、こうしてた」
その言葉の後、陽人は目を逸らし、テーブルに置かれたワイングラスに視線を落とした。飲みかけの赤い液体が、夕陽の色と重なって見えた。
「静ちゃんと別れてから、なんか……醜く成長したと自分でも思うよ」
陽人は自嘲するように笑った。けれどその顔は、どこか泣き出しそうにも見えた。
静はグラスに指を添えたまま、しばらく沈黙していた。
「なあ、陽人」
「ん?」
「お前は……私のことをまだ好きか?」
その問いは、教師ではなく、かつての恋人としての声だった。立場や論理ではなく、感情のままに投げかけられた。
陽人は少しだけ視線を上げた。その目には、明確な答えはなかった。ただ、どこか遠くを見つめるような表情で微笑みを浮かべた。
「……たぶん、好きだった。けど今は、静ちゃんの中にいる“俺”が好きなんだと思う」
「私の中にいる陽人を?」
「静ちゃんはさ、昔も今も、俺のことをちゃんと見てくれてる。あの頃の俺。陽乃の理想の兄である俺。無力で未完成なままの俺も、ちゃんと目に入れてくれた」
陽人は静かに息をつく。
「でも、陽乃は今もなお“理解してくれる陽人”を期待してる気がしてる。あの頃のまま、答えをくれない存在を俺に求めてるんだ」
静の眼差しが少しだけ優しくなった。だが、甘やかすそれではなかった。彼女は生徒に対しても、こうして現実の重さを突きつけるのだろう。
「……それで、私のもとに戻ってきた?」
静かに問う。
陽人は首を横に振った。
「戻るつもりなんてなかった。ただ、逃げたかった。誰にも見つからず、誰にも干渉されず、自分でいられる場所に。それが、静ちゃんのところだったんだ」
静は目を伏せた。教師として、年上として、そしてかつて愛した人間として、どう返すべきか一瞬だけ迷ったように。
だが、彼女は結局、何も言わなかった。言いかけた言葉を飲み込んで、ただ、手元のグラスを持ち上げた。飲み残しのワインを一口含み、静かにそれを置いた。
彼女の目が、もう一度陽人を見つめる。
その目には、問いも答えもなかった。あるのはただ、この瞬間を見届けようとする大人のまなざしだった。
沈黙は、息をするようにそこにあった。
陽人は椅子の背にもたれかかり、目を閉じた。疲れているというより、ただ何も考えたくないというような顔をしている。
静は、その姿を見つめていた。
教師として、これまで何十人もの生徒を見てきた。言い訳に終始する子、自分を卑下することで他者からの攻撃をかわす子、何も言わずに心を閉ざす子。陽人もそのどれかに似ていた。けれど、彼はもう子どもではない。彼はもう、大人として傷つくことを選んでいる。
それが、厄介だった。
「……逃げた先に私が?」
静の声は低く、でも責めてはいなかった。そこにあったのは、ただ事実を確かめるための問いだった。
陽人は目を開けて、しばらく天井を見上げたまま黙っていた。やがてゆっくりと、彼の視線が静の方へ戻る。
「静ちゃんの前では、わかってるふりをしなくて済むから」
「陽乃の前では、そうしなきゃいけないと?」
「……うん。たぶん。俺は答えを明確にしない人間として、陽乃の中に生きてるんだと思う。いまさら、自立しろなんて言えない」
静は、小さく目を伏せる。
理解している、という顔ではなかった。ただ、聞く姿勢を崩さなかった。その沈黙の中にどこか授業のような感覚さえあった。言葉では教えない。ただ相手が言葉を探せるまで、じっとその場にい続ける。
「……俺、なんかね、ここに来ると過去に戻れる気がするんだよ」
「過去だと?」
「うん。静ちゃんといた頃の俺。未完成で、先のことなんて何も考えてなくて……それでも、心の手をつないでればよかった時代」
陽人の言葉に、静の指がわずかに動いた。けれど、その手はグラスにも陽人にも伸びなかった。
「お前は、あの頃から変わったな」
陽人は少し首を傾げた。答えを探すように、また目を伏せる。
「……変わったと思ってた。でも、たぶん変われなかった。陽乃に寄り添って、自分はちゃんとした理想の兄になれたと思ってた。でも、ただ背伸びしてただけだったんだなって、最近わかってきた」
「大人になれたと思ってたと?」
「うん。……でも静ちゃんと再会して、気づいちゃった。俺、親愛の情から抜け出せないままだ」
静はその言葉を飲み込み、しばらくの沈黙の後、小さく笑った。
「教師という不相応な仕事は、生徒に変われるよって言い続ける仕事なんだよ。でもね、本当は変われないまま苦しむ子なんてたくさんいる。そういう子供たちをたくさん見てきた。変わらなきゃいけないってわかってても、どうしても無理な子も」
「俺も、その中のひとり?」
「たぶんね。でも、私が今こうして陽人の話を聞いてるのも、きっと変われなかった証なんだと思う」
その言葉に、陽人の顔がわずかに強張った。
「……静ちゃんは、もう俺を許さないと思ってた」
「許さないとはどういう意味?」
「俺があのとき、手出しは無用って言われた2人の関係に手を加えたこと。あれを──」
「……あれは正直に言えば、教師としての私でなかったのなら、きっとすごく取り乱してただろう」
静は声を落とした。
「でもね、あのときの私はあくまで君を救わなければならないと考えていた。生徒であるお前が、1番近くの存在に潰されていくことを回避させなくちゃいけないと。……自分勝手にそう思おうとしてた」
「思おうとしてた、ってことは──」
「実際はそうではなかった」
静は初めて、少しだけ感情を露わにした。悲しみとも怒りともつかない表情で、彼女は陽人の目を見つめた。
「お前がいなくなってから、私は一度も、陽人を過去にできたことはない」
その言葉に、陽人の胸の奥に何かが刺さるような痛みが走った。口を開きかけたが、言葉が出てこない。静はゆっくりと立ち上がった。そして、窓際に歩み寄り、カーテンを少し開けた。外はもう夜の匂いを漂わせている。かすかに街灯のオレンジ色が反射して、窓ガラスの中に二人の姿が映っていた。
「……そろそろ帰りたまえ。陽乃が心配するだろう」
静の声は優しかった。だがその優しさは、恋人に向けたものではなく、生徒を送り出す教師のそれだった。陽人は黙って頷き、椅子から立ち上がった。何も言わず、彼女のそばを通り、玄関へ向かう。そして扉の前で一度だけ、振り返った。
「……また来ると思う」
その問いに、静はまっすぐに彼を見た。目をそらすことなく、少しだけ時間をかけて答えた。
「知ってる」
ドアノブに手をかけたまま、何かをこらえるように肩を震わせ、背を向けたまま声を漏らす。
「静ちゃん……」
その呼び方がもう何度目なのか、静には数えられない。けれど、声の温度だけで、陽人の顔を見ずともわかった。都合の良い大人でいたいときの呼び方だった。
次の瞬間、彼は振り返って静に歩み寄ったためらいなく、言葉もなく、そのまま彼女の胸元に顔を押しつけた。背の高さでは陽人の方が上なのに、抱きしめた姿はまるで庇護を求める子どもそのものだった。
静は驚いたように一瞬、身をこわばらせた。けれど、逃げなかった。陽人の背中に腕を回し、ゆっくりと受け止める。そこには、教師としてでも、かつての恋人としてでもない、どこか不器用な大人の優しさが滲んでいた。
「……どうして静ちゃんはそんなに強いんだよ」
陽人の声は小さく、震えていた。
「平気なふりしてさ。それが一番、いやなんだ」
静は何も言わず、ただ腕の中の熱を感じていた。この少年が何を求めてここに来て、何を失ってきたのか。わかってしまうからこそ、言葉が出ない。このハグは、愛情でも希望でもない。安心を装った逃避。けれど、それでも、抱きしめ返してしまう自分がいる。そういう自分が一番情けないと知っているのに。
しばらくして、陽人がそっと顔を上げた。湿った目で静を見つめたが、その視線はもう何かを求めるものではなかった。ただ、壊れないように、忘れないようにと願っているだけだった。
静はゆっくりと陽人の背中から手を離し、彼の肩に手を置く。少しだけ距離を取ったところで、陽人の目を見つめたまま、静はポケットに手を差し入れた。そこから取り出したのは、小さな銀色の鍵。
「約束の期限を少し破ってしまうが、このくらいは構わんだろう」
静はそう言って陽人の手のひらにそっと鍵を乗せた。努めて平静を装ったその声には、どこか遠くを見るような響きが混じっていた。
陽人は鍵を見つめた。手の中の小さな金属が、ただの物以上の意味を持っていることを彼はすぐに理解した。言葉に出せない感情が胸の内にじわりと広がっていく。しばし黙ったまま、彼は静の顔をまっすぐに見た。
「……これってどういう意味?」
その問いは、少しだけ躊躇いを含んでいた。試すような、あるいは確かめるような声だった。静は目を逸らさず、けれど微笑むこともなく首を振った。
「意味なんて決めなくていい。私はただ、困ったときに使えと言っているだけだ」
陽人はうなずき、合鍵を握り締めた。問い返すことはしなかった。ただその表情には、陽人なりに察した気配があった。自分が触れてはいけない場所に一歩踏み込んでしまったことを。
「……もう行きなさい」
静が言った。優しく、けれどどこか突き放すように。
陽人は小さく頷き、今度こそドアを開けた。
夜の空気が冷たく肌に触れる。陽人が一歩外に出たとき、静はそっと口の中でつぶやいた。
「感情への答えを1番知りたがらないのは君なんだよ、陽人」
その声はすでに陽人に届いていなかった。