逃げ水   作:ピト

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茨道

 春の風はまだ肌寒く、吐く息の白さが辛うじて残る昼下がり。校門を背にした坂道には、受験の結果を手にした生徒たちの歓声が絶え間なく響いていた。合格を伝える掲示板の前には歓喜と落胆の交錯があり、それぞれの歩みが新たな季節へと向かっていた。

 城廻めぐりの両手には、合格通知の書面。厚みと重みがはっきりとしたその封筒を胸に抱いたまま、彼女はゆっくりと振り返った。

 

「──やったあああああ!」

 

 めぐりの声は、広場の喧騒を切り裂くような無邪気な歓喜だった。笑顔の花が一気に咲き乱れ、めぐりの瞳は涙を浮かべながらも、ひたすらに眩しかった。

 

「はるさーん! はるとさーん! 合格しましたぁっ!」

 

 叫びながら駆け寄ってきためぐりは、そのまま陽乃の腕に飛びついた。勢い余って陽乃の身体が少し仰け反る。そしてすぐに陽人にも抱きつくと、両腕をぐいと絡め、まるで子どもが両親に甘えるように笑った。

 陽人は驚いたように目を細め、しかしすぐに穏やかな笑みを浮かべた。少しだけ頬が緩む。それは陽人にとって最上級の祝福の表情だった。腕の中の少女の小さい頭を撫でる。

 

「よくやったな、めぐり。ほんとによく頑張った」

「うえぇぇん……はるとさんに褒められるの、こんなに嬉しいとは思いませんでしたあっ……!」

 

 めぐりは鼻をすすりながら、陽人の肩に頬を押し当て、涙をぬぐおうともしない。ただ、子どものように嬉しさを全面に出し、陽人の胸元に額をこすりつけていた。

 陽乃は、ふふっと喉の奥で笑いを漏らした。彼女の掌も自然とめぐりの後頭部を撫でる。力の加減は優しく、それでいてしっかりと、母が子に触れるような包容がそこにはあった。

 

「泣かないの。化粧が落ちるわよ」

「今日はノーメイクですもん……!」

「ますます子どもじゃない」

 

 陽乃の声には、少しばかりの揶揄と圧倒的な慈しみが混じっていた。

 めぐりはなおも陽人と陽乃の両方に抱きつき続けたまま、言葉にならない声を洩らしていた。通りがかる生徒たちが不思議そうに三人を見やるが、彼らの輪の中には誰も踏み込めない柔らかな光があった。

 

 春の木漏れ日が、三人の上に静かに降り注いでいた。

 

 陽人はそっと視線を落とし、今しがた封筒から取り出された合格通知を見つめる。その文字列に、嘘も誇張もなかった。すべてはめぐり自身の力で勝ち取ったものであり、それを彼女が欲していたという事実が、今この歓喜に何よりの真実味を与えていた。

 

「おめでとう、めぐり」

 

 陽乃の声は、風の音に溶けていくように低く、しかし確かだった。

 めぐりは陽人からようやく少しだけ身体を離すと、涙で濡れた頬を両手で拭い、再び二人の顔を交互に見つめた。その眼差しはまだ潤んでいたが、すでに喜びの輝きがそこに灯っていた。

 

「私、ここまで来られたの、ほんっとうに……おふたりのおかげです」

「私たちはなにもしてないわよ」

 

 陽乃はそう言いながらも、どこか満足げだった。己の指先から離れて、他者が何かを成し遂げたときにだけ浮かぶ、あの特有の安堵が確かにそこにはあった。

 陽人もまた、めぐりに向けて、ふっと微笑を返した。

 

「結果が出たのは、めぐり自身の努力があってこそ。俺たちは少し遠くから見守ってただけだよ」

 

 彼らの言葉にめぐりは唇を噛み、再び涙ぐみながら深く頷いた。

 坂道を吹き抜ける春風が、三人の髪をそよがせる。掲示板を後にする者たちの影が長く伸び、日差しは祝福を祝うように暖かかった。

 陽乃はめぐりの肩を包むように寄せ、陽人と目を合わせる。

 その刹那、ふたりの間には言葉のない共鳴があった。

 

 ──めぐりは頑張った。弱音を一切吐かず。

 

 だがそれは寂しさではなく、誇らしさ。まるで手の中で育った花が、ようやく風に乗って咲き誇る瞬間を見るような、そんな誠実な幸福だった。

 

 そして三人はゆっくりと歩き始めた。

 もうすぐ、新しい春がやってくる。

 

 夜は深まり、窓の外には街灯の灯りがにじんでいた。三人は静かな洋食店の奥まった席に陣取り、ささやかな祝宴のひとときを過ごしていた。

 白を基調としたテーブルクロスの上には、陽乃の選んだ赤ワインが香り高く注がれ、皿には仔牛のソテーと季節野菜のグリル。火入れの加減も申し分なく、めぐりは口に運ぶたびに「美味しい……!」と何度も頷いていた。

 

「めぐりが合格したら、ここに連れてこようと思ってたの」

 

 陽乃がそう言って微笑むと、めぐりは素直に目を丸くした。

 

「ほんとですか? そんなの、嬉しすぎます……!」

 

 声は高く、喜びを隠さない様子だったが、その指先のフォークを握る手がほんの一瞬白く強張った。双子にバレないほど些細なものだ。

 

「料理よりも、その顔を見てる方がよっぽど報われるな」

 

 陽人の言葉にめぐりは一瞬動きを止め、ぱちりと瞬いた。陽人の笑顔は、ほんの少しだけ過剰だった。

 

「そんなこと言って……ほんとに、ほんとに、ずるいです」

 

 ナイフで仔牛の肉を切る動作が、どこかぎこちなくなる。切り口が整わず、皿の縁を擦る不協和音がわずかに耳に残る。

 

「ずるいって、俺が?」

「だって、そんなふうに言われたら……また好きになっちゃうじゃないですか」

 

 冗談めかした声音だったが、その語尾には妙な湿り気があった。陽人が僅かに眉を寄せるのを、陽乃は横目で冷ややかに捉えながら、軽やかに話題を逸らす。

 

「そろそろスープの追加で頼んでおきましょうか。陽人、またコンソメでいい? めぐりは、ポタージュが好きだったわよね」

「はい……でも、今日はなんでもいいです。おふたりと一緒にいるだけで、十分ですから」

 

 そう答えためぐりの声はやや熱を帯び、陶酔に近い響きがあった。陽乃の視線が、その奥の何かにじっと焦点を結ぶ。それは、愛であり。欲望であった。そして、もっと鈍く、もっと粘着質で、もっと執着に満ちた何かだった。

 

「めぐり」

「はい、はるとさん」

「今までのめぐりじゃないみたいだね」

 

 一瞬、空気が凍るような沈黙が落ちた。めぐりの笑顔がほんの刹那、ひきつれた。しかし彼女はすぐに取り繕うように、無邪気な頬をつくって陽人の方へ身を乗り出した。

 

「はるとさん、わたし、これからもっと頑張ります。大学生になったら、おふたりの役に立てるように。ずっとそばにいてもいいでしょうか?」

 

 その瞳の奥にはかすかな歪みがあった。微笑みはあまりにも整いすぎており、言葉はあまりにも穏やかだった。だが、陽乃には見えた。めぐりの言葉の背後に潜む、熱に浮かされたような執念。

 

 “ずっとそばに”

 

 それは祝福ではなく、宣誓だった。

 

「……もちろんよ。私たちも、めぐりのことをずっと見ているもの」

 

 陽乃の返答は、まるで鋼で覆ったように柔らかかった。めぐりの狂気の芽を包み込むように。しかし、反対に静かに監視の網で覆うような声音でもあった。陽人はただ、今日という日を素直に喜ぶ者として、ふたりの少女の笑顔に微笑を返していた。後々のシナリオを考えながら。

 祝福のテーブル。その上には穏やかな声と笑みが踊っていた。だが、その布の下には決して陽人の目に映ることのない緊張と予兆が静かに芽吹いていた。

 食事の余韻がまだ残る頃、めぐりはナフキンを丁寧に畳みながら、少しだけ上目遣いに陽人を見上げた。

 

「……今日は、このまま泊まってもいいですか?」

 

 それは突然の申し出だったが、あまりにも自然な声音で、まるで前々から決めていたようだった。

 

「泊まるって……うちに?」

 

 陽人が訊き返すと、めぐりは小さく頷いた。その頬には朱が差し、視線はテーブルの端に落ちていた。

 

「家には電話入れます。お母さん、きっと許してくれると思うので……」

 

 陽乃は微かに目を細めたが、特に反対はしなかった。陽人も一拍置いてから肩をすくめて笑った。

 

「……めぐりがそうしたいなら、いいけど」

 

 店を出る前、めぐりはスマートフォンを手に取り、母親に電話をかけた。短いやりとりの末、明るく笑う声が漏れた。

 

「うん、大丈夫。お母さん、『陽人さんと陽乃さんなら安心ね』って。ふたりによろしくって伝えてって」

 

 スマホ越しの声がどこか穏やかすぎて、陽乃は無意識に息を潜めた。彼女の母親は、娘の中に潜むものに果たしてどれほど気づいているのだろうか。いや、気づいていないのだ。あれほど純朴な笑顔を崩さない母親が、娘の歪みを知っていたなら、こんなに無邪気に送り出すはずがない。

 帰途につき、三人で雪ノ下家の門をくぐった頃には、外の風も夜の香りをまとっていた。食事の余韻は温かく、めぐりはまるで夢を見ているような表情で双子の家を見上げた。

 

「ほんとに……来てしまいましたね。お泊まりなんて久しぶりです」

「泊まりたいって言ったの、めぐりでしょ?」

 

 陽乃が笑うと、めぐりも頷いた。その横顔はあくまで柔らかく、しかしその微笑みは鏡のように整いすぎていた。

 客間に通され、着替えを貸され、ホットミルクを手にした頃には、時間はもう日付を越えていた。暖かな灯りの下、三人は並んでソファに腰を下ろしていたが、陽人はめぐりの視線が自分に、そして陽乃にと交互に注がれるのを感じていた。

 その目は、どこか深く沈んでいた。

 

「はるとさん、ねえ、わたし……はるとさんの一番じゃなくてもいいんです」

 

 唐突な言葉だった。

 陽人は表情を変えず、ただ穏やかに聞いているように見せて、手の中のカップを少し傾けた。

 

「めぐりは成長したね。そんなに覚悟のこもった眼差しで見られたらあやうく揺らいじゃいそうだ」

「でも、本当は陽乃さんなんですよね」

 

 めぐりの声音は静かで、どこか詠うような響きすら帯びていた。陽乃が何も言わず、そっと湯気を見つめているのを見て、陽人はふと目を伏せる。

 

「それでもいいんです。陽乃さんが一番でも。わたしが捨てられなければ」

 

 笑っていた。その笑顔はもう、あの昼間の無垢なめぐりのそれではなかった。捨てられなければ、というその言葉に執着と諦念とそれでも繋ぎとめたいという一種の哀願が混ざっていた。

 

「……めぐり」

「はるとさん。わたしね、はるさんのことも、好きなんです」

 

 その言葉に、静観していた陽乃がゆっくりと顔を上げた。めぐりの目は潤み、揺れていた。陶酔と熱に濡れたような光が宿っている。その表情を見たとき、陽乃の唇の端がごく微かに持ち上がる。

 

「……それは、どういう“好き”なのかしら?」

「全部、です。愛してる。はるとさんも、はるさんも。わたし……ふたりのものになってもいい。でも、それだけじゃ、足りないんです」

「めぐり、それは──」

「わたしは、ふたりとも自分のものにしたい。はるとさんも、はるさんも、わたしだけの人になって。……三人で、幸せになりましょう?」

 

 狂気を微笑に包んで差し出すように。めぐりの声はあまりに優しく、甘く、そして冷たかった。

 陽人はその瞳をまっすぐに見返していた。その内奥に潜む歪みを誰よりも正確に理解しながら。あえて、それに触れぬように、目を逸らすこともせず、ただ受け止めるように。

 

「三人で、か」

 

 その言葉に、陽乃は僅かに目を伏せた。

 その頬に流れた影は灯りに溶けて、誰にも拾われることはなかった。

 

 

 夜は深く、時計の針は午前一時を指していた。陽乃は立ち上がり、空になったカップを持って台所へと向かう。その背に、めぐりの目線が絡みつく。けれど、陽乃は何も言わなかった。めぐりの想いが危ういものであることは、とうに理解していた。あの手を振り払うことも、受け入れることも、今はまだできない。

 リビングには、めぐりと陽人の二人が残された。沈黙が数秒、いや、数分にも思えるほど伸びていく。

 

「はるとさん……さっきのこと、本気ですよ」

 

 静かに、けれど強く。めぐりは陽人の顔を見つめた。

 

「わたし、ふたりを失うくらいなら、壊れてもいいって思ってるんです」

 

 その言葉の奥に潜んでいたのは、18歳の少女が抱くにはあまりにも重たすぎる感情だった。依存、執着、愛情、嫉妬、そして孤独。すべてが混ざり合い、今にも崩れ落ちそうな均衡の中にめぐりは立っていた。

 

「……俺がいなくなったら、めぐりはどうする?」

「いなくならないで。そうならないように、わたし、なんでもするから。陽人さんの負担にならないように、ちゃんとします。陽乃さんとも、うまくやります。だから……」

 

 言葉が震える。

 その時、陽人はふと思い出した。合格発表の日の朝、校門の前で待っていためぐりの顔。一歩離れた位置から、自分を見つめていた眼差し。その視線の意味をようやく理解した気がした。

 

 めぐりはずっと、この結末を求めていた。

 

 陽人はふと、自分の胸の奥にある微かな痛みに気づく。誰かに必要とされることの嬉しさと、それが極端に傾いたときの重さ。

 

 ──私たち三人で。

 

 その言葉の不自然さに、ようやく陽人も気づき始めていた。

 その時、ふと扉が開き、陽乃が戻ってくる。彼女の目はどこか冷めていた。けれどそ、の冷たさの奥には長年誰かを守ろうとしてきた意志が宿っていた。

 

「寝ましょう。……今日はもう、遅いから」

 

 それだけを告げ、陽乃は自室へと戻っていく。彼女の背中は何もかもを知っている大人のそれだった。めぐりは一瞬何かを言いかけたが、唇を噛んで言葉を飲み込む。

 

 その夜、三人は同じ家の中で、それぞれ別の夢を見た。

 

 ⸻

 

 翌朝、陽乃が起きてリビングに向かうと、テーブルには朝食の準備がされていた。トースト、スクランブルエッグ、サラダ。どれも家庭的で、けれど丁寧に作られていた。

 

「……めぐり?」

「おはようございます、はるさん」

 

 キッチンの奥からめぐりが顔を出す。まるで、何もなかったかのような表情で。

 

「勝手にキッチン使っちゃってごめんなさい。でも、せっかく泊まらせてもらったので、何かお礼をしたくて」

 

 その微笑は完璧なまでに整えられていた。まるで、前夜のすべてを覆い隠すように。陽人もやってきて、「おお、朝から豪華だな」と笑った。まるで、彼もまた何もなかったかのように振る舞う。

 

 だが、陽乃だけは違った。

 

 テーブルにつきながら、陽乃はゆっくりとフォークを手に取った。そして、一口サラダを口に運ぶ。

 

「……ねえ、めぐり」

「はい?」

「あなたが本当に望んでるのは、三人で幸せになることなの?」

 

 めぐりは笑ったまま、少しだけ首を傾げた。

 

「もちろんです。……違うように見えますか?」

 

 その言葉に陽乃は答えなかった。けれど、そのまなざしは静かにめぐりの内側を見つめていた。めぐりはそれを受け止めるように、穏やかに視線を返す。

 まるで、ふたりは無言で試し合っているようだった。朝食が終わり、めぐりは支度を整えて帰ることになった。玄関で靴を履きながら、ふと陽人に振り返る。

 

「また、遊びに来てもいいですか?」

「もちろん。いつでも」

 

 陽人は自然に笑った。それを見て、めぐりも笑う。

 

「ありがとうございます。はるとさん」

 

 その言葉の響きに、陽乃はわずかに眉を動かした。扉が閉まり、めぐりの姿が見えなくなっても、家の中にはどこか形を持たない重たい余韻だけが残っていた。

 

「……どうするの?」

 

 陽乃がぽつりと呟いた。問いは陽人に向けられたものだったが、彼は何も答えなかった。ただ、玄関のほうをじっと見つめたまま、動かなかった。めぐりが残した言葉も、視線も、笑顔も、すべてが心に刺さったままだった。

 陽乃はその背を見つめた。何かを待っているようにも見えたし、何も感じていないようにも見えた。けれど彼女には、それが一番こわかった。陽人の無自覚な沈黙が、なにより自分を不安にさせるのだ。

 

「……ねぇ、陽人」

 

 意図的に名前を呼ぶ。いつもより、声が少しだけ震えていた。陽人は振り返らなかった。

 

「さっきの……めぐりのこと、どう思ってるの?」

「どうって?」

 

 ようやく口を開いた陽人の声には、重さはなかった。淡々としていた。ただ事実を並べるように。

 

「あれがめぐりの本気なんだろ」

 

 そう言って陽人はようやく玄関から視線を離し、ゆっくりとリビングへ戻った。陽乃もその後を追うように歩を進める。リビングの空気は朝食の余熱がまだわずかに残っていたが、それもどこか薄らいで感じられた。

 ソファに腰を落とした陽人は、何かを思案するように手元で指を組んでいた。その表情に陽乃は不安を覚えた。

 

「……ねぇ、陽人。あの子、あなたに全部を懸けるって言ってた」

「うん」

「本気だったよ。あんなの、冗談じゃない」

「分かってるよ」

 

 陽人は視線を伏せたまま応じた。その瞬間、陽乃の胸に小さな苛立ちが灯る。なぜこの双子の兄はいつもそうなのだ。すべてを受け止めるふりをして、本当はなにも抱えようとしていない。ただ流されるまま、感情を処理しているような。そんな気がした。

 

「……怖くないの?」

 

 陽乃が小さな声で言った。

 

「なにが?」

「めぐりに対して。……それから、私に対しても」

 

 陽人がようやく顔を上げた。だがその瞳には、変わらぬ静けさがあった。

 

「陽乃。お前が怖がってるのは自分自身だろ?」

「え……?」

 

 陽乃の顔が一瞬でこわばった。陽人は眉を顰め、そのまま彼女の顔をじっと見据えた。

 

「数ヶ月前からお前は何も変わってない。周囲の変化には敏感なくせに、自分の手の届く場所が変わるのをやけに恐れてる」

「……やめてよ、そういう言い方」

 

 陽乃は声を震わせ、咄嗟に顔を手で隠した。

 

「今のは無し。今のは──」

 

 声が掠れる。まるで何かに怯える子供のようだった。

 

「今のは無しとか、顔隠して怯えるとか。お前が一番嫌うタイプの女の仕草だな。現実を見ず、動かなくなる」

「……っ」

 

 陽乃は顔から手を泣けることができなかった。

 

「……ちがう。違うの。わたし……そんなつもりじゃ……!」

 

 だが、陽人はその手をとり、そっと引き剥がした。陽乃の顔が露わになる。大きく開いた瞳が潤んでいて、逃げるように瞬きを繰り返した。

 その瞳を、陽人は決して逸らさせなかった。

 

「陽乃。お前は俺に依存しすぎだよ」

「……違う」

「いや、違わない。依存すること自体が悪いとは言わない。でもな、限度がある」

 

 陽乃の唇が小刻みに震えた。反論しようとして、けれど言葉を失ったまま、ただ視線を揺らすばかりだった。陽人はほんの少し声を落とした。

 

「お前がここから一歩でも進まなきゃ、誰も前に進めない。俺も、めぐりも、静ちゃんだって」

 

 その名を出された瞬間、陽乃の目が見開かれた。

 

「……静、ちゃん?」

「……もうすぐなんだろ。約束の期限が」

 

 その言葉に、陽乃は息を詰めた。胸の内を的確に言い当てられたような、苦い痛みが喉元にせり上がる。陽人は変わらぬ静かな口調で続けた。

 

「俺と静ちゃんが別れて、もうすぐ二年経つ。お前と静ちゃんの間で交わされた約束。たぶん静ちゃんから能動的に動かないとかそんなことだろう?」

「どうして……知ってるの……?」

「なんとなく察しただけだ。陽乃も静ちゃんも教えてくれなかったがな」

 

 陽乃は完全に言葉を失った。静との約束を陽人が勘付いているという事実。それだけで、胸の奥が焼けるように痛んだ。

 

「……変わるって何? 私たちは本物じゃないとでも言うの?」

 

 陽乃は泣きそうな顔で陽人を見つめた。

 

「ああ」

 

 陽人が猫が獲物を捉えた時のように目を細めた。

 

「隠れ蓑を用意しようとしている時点で、お前は本物からほど遠い場所にいる」

「それの何がいけないの? 私たちは兄妹なんだよ? こんな関係、世間に公表出来る訳がない。だから、私は擬似的に陽人に婚姻してもらうことを選んだ。嫌よ。嫌に決まってるじゃない。でも、これしか方法が無いのだから」

 

 しばらくの沈黙のなかで、陽人がほんの一歩だけ距離を詰めた。

 

「もし俺が──」

 

 陽人の声は少し低く、静かだった。

 

「……お前と離れると言ったら? 普通の兄妹として過ごしていくって決めたら」

 

 陽乃の世界から音が消えた。

 

 一瞬、空気が固まったようだった。部屋の隅で揺れていたカーテンも止まり、時計の秒針すら聞こえない。視界の色が、白く、淡く、遠くなっていく。けれどその中心にだけ、陽人の顔が、浮き上がるように鮮明に見えていた。

 

「……やだ」

 

 吐息のような声。けれど、その声が出た瞬間、陽乃の中で何かが切り替わった。それは泣き崩れるでも、怯えるでもなかった。むしろ、異常なほど静かだった。陽乃の肩がすとんと力を抜いたように落ちた。目元の揺れも止まり、涙の気配も消えていた。ただ、ゆっくりと首をかしげる。

 

「……何を言ってるの?」

 

 その微笑みには、血の通わない温度があった。優しく、愛しく、けれど明らかに異常だった。

 

「離れるって。ねえ、陽人、それ、冗談だよね?」

「……」

 

 陽人は無言で陽乃を見つめるだけだった。陽乃はため息を吐いた。

 

「はぁーあ。もう、兄妹だからなんて理由に逃げるのはやーめた」

 

 その言葉に、陽人がわずかに眉をひそめた。

 

「それだけじゃないけどな」

「違うよ。そうじゃないよ」

 

 陽乃は強く否定した。声が震えていたが、その中には確かな怒りと決意が混ざっていた。

 

「どういうことだ?」

「意味合いが違うの。私はもう逃げない。だから、“兄妹”という足枷を使ってでも、陽人を手放さないって決めたの」

「それは、歪んでる」

「うん。知ってる。でも、歪んでても、壊れててもいい。陽人が他の誰かのものになるくらいなら、私はその先にある地獄でも抱きしめる」

 

 陽人はまるで理解できないものを見ているような目で、自身の妹を見つめていた。

 

「他の誰かに譲るくらいなら、陽人の人生ごと飲み込んでしまいたい」

「……穏やかじゃないな」

「静ちゃんは陽人に希望を与えようとしたんでしょ? でも、私は違う。私はね、陽人のすべてを抱きしめて、閉じ込めて、腐らせてでも隣に置きたいの。明るい未来なんかいらない。陽人が隣で生きていてくれれば、それだけでいい」

 

 その告白に、陽人の喉が小さく鳴った。驚きでも怯えでもない。何かを飲み下すような、抑えた動きだった。

 

「それが本物だと、本気で思ってるのか?」

「思ってるよ」

 

 陽乃は微笑んだ。涙で濡れた頬に浮かぶその笑みは、狂気すれすれの均衡の上にあった。

 

「私、陽人を誰にも渡さない。もう、めぐりにも静ちゃんにも、これから出会う誰かにも。全部終わらせる。陽人の過去も、未来も、今も、私のものにする」

「終わらせるって、なにをする気だよ」

「全部よ」

 

 陽乃の声は甘く、優しかった。それが余計に恐ろしさを帯びていた。

 

「静ちゃんがまだ陽人の中に残ってるなら、全部削ぎ落としてあげる。思い出も、記憶も。めぐりにまだ未練があるなら、それも燃やしてあげる。陽人が何も持たないようにしてから、私が与えるの」

 

 女優のように左手を胸の前で握り締め、右手で地面を照らした。

 

「私だけを一人目にする」

 

 陽人が絶句した。

 

「無理矢理じゃないよ。自然にそうなるように仕向けてあげる。優しく、少しずつ壊していく。気づかないように、笑っていられるように、あなたを奪う」

 

 それは宣言だった。陽乃は戦うのではない。征服するつもりだった。

 

「陽人が拒んでも、きっとそのうち気づくよ。これで良かったって。ここにしか帰る場所はないんだって。そうしたら、私は全部受け止めてあげる。過去も後悔も罪悪感も、ぜーんぶ、私が抱えてあげる」

 

 陽人はその場に立ち尽くし、何も言えなかった。言葉にできないほどの何かが、胸を押しつぶしていた。

 

「陽乃」

 

 ようやく絞り出したその声に、陽乃はほっとしたように目を細めた。

 

「名前を呼んでくれるだけで私は嬉しいの。……でも、もっと欲しくなっちゃうね」

「うまくいってもいつかは反感が出そうだけどな」

「それでも私は、陽人の本物になりたい。拒まれても、傷つけられても、捨てられても。私は戻ってくる。何度でも。陽人が壊れるまで、そして、壊れたあとも、ずっと一緒にいるから」

 

 陽人は意識的に一歩だけ後ろに下がった。けれど、その一歩すら陽乃は許さなかった。彼の腕を掴み、もう一度引き寄せた。

 

「逃げても無駄だよ。陽人の痛みも、弱さも、全部知ってる。だから、あなたが知らない抜け出せない地獄を、私が案内してあげる」

 

 その手は冷たく、それでいて恐ろしく優しい。あまりにも甘やかで、底知れぬ闇を含んでいた。

 

「離れるって? 何それ。他人になるってこと? 普通の兄妹に戻るって? そんなの、陽人が望んでも私は許さない」

 

 吐き出されたその言葉には明確な境界の越境があった。それは理性と執着、現実と幻想の境を踏み越える音だった。

 

「だって、それが現実になるくらいなら、全部壊れたほうがマシだから」

 

 瞳の奥に、狂気が灯る。それは涙ではなく、喜悦に近い光。ようやく、自分のすべてを陽人にぶつけてもいいのだと確信した者だけが持つ、妹の確信。その瞬間、陽乃は求める側から奪う側へ変わった。自分がどう見られるかより、どう手に入れるかに意識が切り替わったのだ。

 

「陽人。もう一度、言って」

「何を?」

「離れるって。ちゃんと言って。ちゃんと言ってみなよ。私はその時、どうするか決めるから」

 

 陽乃はあくまで柔らかく、まるで微笑むように言った。けれど、その言葉の底には棘があった。硝子のように透明で鋭く、陽人の胸に突きつけられる。

 陽人は言葉を失った。言うべきか、言わざるべきか、その判断ができなかった。その沈黙を、陽乃は見逃さなかった。

 

「ねえ、陽人。……言えないの?」

 

 その声は妙に甘く、耳の奥で反響した。

 

「じゃあ、試してみようか。陽人が離れようって言って、私がどこまで壊れるか。……見たい?」

 

 陽乃の手が、陽人のシャツの裾を掴む。強くはない。ただ、静かに、じわじわと引き寄せるように。

 

「それとも、陽人が本当に離れていけると思ってる? 私のことを置いて、どこかへ行けるって?」

「……陽乃、それは脅しだよ」

「ううん、違うよ。愛だよ」

 

 その言葉の温度に陽人の背筋が凍る。

 

「だって、そうじゃないとやってられないじゃん。こんな、誰にも認められない関係で。家族にも言えない、未来も描けない、ただただ二人だけで全部耐えなきゃいけない。そんなの、ただの地獄じゃない。だから、私はせめて、この地獄で陽人を独り占めしたいの」

 

 陽乃の言葉はどこか壊れた詩のように響いた。

 陽人の心の中で感情がぶつかり合う。哀しみ、怒り、戸惑い、そしてかすかな罪悪感。

 陽乃が喉の奥で小さく笑った。

 

「陽人、思い出して。昔、私たちが小さい頃、離れたら必ずまた見つけるって言ってくれたよね」

 

 陽乃の瞳が潤む。だが、涙はこぼれない。

 

「陽乃がいなくなっても、俺が絶対に見つけてやるって、そう言ってくれたの。ねえ、私、それにずっと縋って生きてきたの。笑っちゃうでしょ?」

「……笑わねぇよ」

「でしょ。だって、私たち、本当に双子だったんだもの。陽人が笑えば私も笑うし、陽人が傷つけば私の中も血だらけになる」

 

 そこまで言って、陽乃はふっと陽人から目を逸らした。少しだけ迷いの色を滲ませて。

 

「でも……陽人が離れるって言ったら、その瞬間、私は陽人のことを、きっともう信じられなくなると思う」

 

 その言葉は告白ではなく、宣言だった。

 

「だったらさ。私、先に信じられなくなる前に、陽人を囲っちゃえばいいんだ」

 

 陽乃がふわりと笑った。それは無垢に見えるほど純粋で、だからこそ、底知れないものを感じさせる笑顔だった。また、そこには冷たく燃える執念が潜んでいた。理屈や倫理で止められる段階じゃない。今目の前にいるのは妹の陽乃とも、恋人の陽乃ともかけ離れた存在。陽人だけを知り、陽人だけを信じ、陽人しか愛さない生き物だった。

 

「ねえ、陽人。私が陽人の世界のすべてになるのは、そんなにいけないこと?」

 

 陽乃は一歩、また一歩と陽人ににじり寄る。指先が陽人の頬に触れた。その感触は、柔らかく、冷たい。そして、何より脳裏に感触がこびりついた。

 

「もう、誰のものにもさせないわ」

 

 耳元で囁かれたその言葉に、陽人の意識が明瞭になった。彼の口は三日月の形をしていた。

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