────6月17日ららぽーと
由比ヶ浜さんの誕生日プレゼントを買いに、私はららぽーとに来ていた。休日の少し騒がしいモール内を連れて来た比企谷くんと途中途中のお店に入りながら散策する。本当なら比企谷くんの妹である小町さんを頼りにしていたのだけれど、いつの間にか姿を消してしまっている。休日に付き合わせてしまったのは悪いと思うから仕方がない。彼女は一般的な中学生だから私の目的に付き合っているよりも色々と目移りしてしまっているのかもしれない。文句を言える立場ではないので気持ちを切り替えて比企谷くんの力を借り…、いや、自力で何とかするしかないわね。
ある雑貨屋を物色していると一角のエプロンに目が付いた。そう言えば、由比ヶ浜さんの依頼はクッキー作りだったし、物は言い様なのだけれども最近料理にハマっているらしいから丁度良いかもしれない。私はカチャカチャとハンガーに掛かっている数種類のエプロンを手に取った。そして、すぐに良さそうな一品を見つけることに成功する。紺色の生地に猫の顔が刺繍されているエプロン。色合いも派手ではなくて、形もシュッとしており、非常に私好みだった。それになにより猫の刺繍が可愛い。後者の理由だけで買う価値がある。由比ヶ浜さんに気に入ってもらえるかしら?
私はうずうずとそのエプロンを着てみたい衝動に駆られて試着した。…ふむふむ、良さそうだ。私は鏡に写るエプロン、特に猫のデザインに愛着を持った。
「比企谷くん、どうかしら?」
一応他人の意見も参考にと思って比企谷くんに意見を言ってもらうことにした。
「どおって…すげー似合ってるが…?」
私の脈絡の無い問いも悪かったと思うのだけれど、聞きたいことはそうじゃない。それに、この男はナチュラルに何を言っているのかしら…。恥ずかしいから人の目があるところでそうゆうことを言わないでほしいのだけれど。
「それはどうも。でも聞きたいのは由ヶ浜さんにどうかということよ」
「いや由ヶ浜はもっとフワフワぽわぽわした頭の悪そうなのが好きだろ」
比企谷くんは私がさっき持っていた種類の中から黄色い派手目なエプロンを指差した。
「………ひどい言い様だけれど、的確だから反応に困るわね」
私は試着したエプロンを後ろ髪が引かれる思いで脱いで畳み直した。そして比企谷くんのアドバイスにあった黄色のエプロンを吟味する。………比企谷くんにしては悪くないチョイスね。あまり期待はしていなかったのだけれど、思いの外いい働きをしてくれた。
「これにするわ」
私は購入を決めた。二枚のエプロンを携えてレジへと向かう。
「それも買うのか………?」
比企谷くんが私の持っているエプロンを見てそう言った。私は少し彼を睨み、無視をすることにした。………仕方がないじゃないの。この猫が連れて帰って欲しいと訴えてくるのだから………。
「あれー?雪乃ちゃん?」
悪魔の如き声が聞こえたのは会計が終わって丁度お店の外に出た時だった。肩上のショートヘア、少しダボッとした白いセーターに水色のデニムを履いた女性。彼女の容姿は周囲の目を惹き付けてやまない程、美しい女性という理想像を体現させていた。雪ノ下陽乃、私の姉だ。
「あー!やっぱり雪乃ちゃんだー!」
ニンマリとした笑顔でコチラに近付いて来る姉さん。どうして姉さんがここに?休日とはいえど、姉さんたちの大学は近くないはずなのだけれど………。
「姉さん………」
「は?姉さん?は?」
私の憂鬱気な呟きに、隣の比企谷くんは目を見張った。
「久し振り~。──およっ?隣の子はだあれ?もしかしてデート?デートか!?デートだな!このこの~!」
「うりうり~」とわざとらしく私を肘でつついて来る姉さん。ハッキリ言って鬱陶しいことこの上ない。
「やめてちょうだい。それに彼はそんなのではないわ」
物理的に姉さんの体を押して引き剥がす。それに口調も強めた。すると、姉さんは申し訳なさそうな顔を作ってうろたえて見せた。
「あっ、ごめんね雪乃ちゃん………。私、久し振りに雪乃ちゃんに会えたのが嬉しくてつい………。お姉ちゃん余計なことしちゃった、かな?」
女優顔負けの演出に、思わず私の方が悪い空気が出来上がる。全くもって厄介だ。この姉の外面にいつも周囲は騙されている。精巧過ぎるからそれも仕方がないのかもしれないけれど………。
私が眉をひそめて姉さんを睨むと、姉さんはどこ吹く風で比企谷くんにズイッと身を寄せて話しかけていた。
「雪乃ちゃんの姉、陽乃です。よろしくね!」
「ど、ども。比企谷っす」
キョドって答える比企谷くん。貴方、本当に初対面の会話慣れした方が良いわよ。将来困る未来しか見えないのだけれど…。
「ヒキガヤ………比企谷………ふ~ん」
姉さんは比企谷くんの自己紹介に一瞬目を開き、意味深に呟いた。しかし次の瞬間にはあっさりと明るさを取り戻してニッコリと頷いている。
「うん!比企谷くんね!」
比企谷くんはそんな姉の態度を訝し気に観察していた。
「姉さん、もういいでしょう。それより──」
「──えー、雪乃ちゃんがつめたーい。比企谷くーん!」
私の言葉を遮って、姉さんは比企谷くんの腕に抱き着いた。私とは大きく異なった脂肪の塊が比企谷くんに当たる。一瞬ヘニャッと下卑た顔付きになる彼にイラっとした。どうしてこう男どもは………。
「ちょっと姉さん!」
イラついた私はさらに語勢を強めて怒る。それでも姉さんの笑顔を崩すことはできず、それどころか益々笑みを深めさせてしまった。
「あ~!雪乃ちゃん、嫉妬だなあ?彼氏の気が引かれて悔しい?」
ニマニマと人の悪い顔は楽し気で、私にとって屈辱的だった。
「だからそういうのではないわ」
「そっすよ。何言ってんすか…」
比企谷くんも呆れたように姉さんに苦言を呈した。すると姉さんは彼の耳元に顔を近付けて何事かをささやいた。その時、ささやかれた比企谷くんがバッと姉さんから身を仰け反らせた。突然の行動に私も姉さんもキョトンとなる。
「………私、何か気に障るようなことしちゃった?」
姉さんは右の人差し指を顎に添えながら比企谷くんに問うた。
「いや、アレっすよ。………俺、耳弱いんで………」
少し違和感を覚える比企谷くんの言い分。
「比企谷くん、初対面の女性に自分の性癖をさらすのは止めなさい。訴えられても文句言えないわよ」
取り敢えずではあるが、私は彼に釘を差すことにした。姉さんはそれを聞いて盛大に噴き出す。
「プッ………!アハハッハハハハハ!比企谷くんおもしろーい!」
バシバシと比企ヶ谷くんの肩を叩きながら目尻に涙を溜める姉さん。私の頭上が少し暗くなったのはその時だった。
「ねーねー、やっぱりお姉さんとお茶しない?ほら!将来のお義姉ちゃップギュッ!」
比企谷くんをからかっていた姉さんがカエルが潰されたような声を出した。姉さんの頭に背後から手刀が落とされたからだ。手刀を落とした犯人は比企谷くんより10センチは背の高い男性だった。比企谷くんは突然の新たな登場人物に目をしばたたかせている。
「何やってんだよ陽乃」
私が生まれた時からよく知るその人は、頭をおさえてうずくまる姉さんを見下ろしていた。
「いったーい!陽人のイジワルー!」
「そんなに強く叩いてないだろ…」
「ふーんっ!私の乙女心が傷付きましたー」
「いや、頭おさえてたの関係ないじゃねえか」
姉さんは頬を膨らませて抗議する。しかしその表情は怒ってなどおらず、その男性の手を取って自身の頭に置かせた。「撫でて撫でてー」と幼児が甘えるようにグリグリと自らの頭を押し付けており、男性もまんざらでもないように応えていた。姉さんがそんな風にする相手は世界中で一人しかいない。そんな風に相手をできる人もただ一人だ。
「………兄さん」
「は?兄さん?は?」
雪ノ下陽人。雪ノ下家の長男で、姉さんの双子の兄だ。もちろん私の兄さんでもある。
「雪乃、久し振り。元気そうでなによりだ」
兄さんは人好きする笑顔で私に話しかける。黒色の半袖に黒のデニム、首から下げた小さめのアクセサリー。単純な格好ではあるのだけれど、非常によく似合っている。体格の良さに加えて整った顔立ちで周囲の女性の目を一点に集めているのは今に始まったことではない。
「ええ、兄さんも」
「ああ。元気だよ」
私も兄さんの姿が見れて思わず口元が綻ぶ。隣の比企谷くんが意外そうに私を見ていることが分かった。姉さんの時とは全く異なった対応をしているからだろう。
「それで、………彼氏?」
………はあ、兄さんまで。
「違うわ。彼は比企谷八幡。私の………、ねえ比企谷くん。貴方と私ってどういう関係かしら?」
友人、では絶対ないし、顔見知りと言うにはいささか語弊がある気がする。
「は?………まあ、部活仲間とかでいいんじゃねえの?」
「それがしっくりくるわね。兄さん、彼は部活仲間の比企谷くんよ」
「またまたぁ~。はっきり彼氏彼女って言っちゃいなよ~。ほらほら、いつから付き合ってるんですか~?」
「姉さん、黙って」
兄さんの腕に抱き着いて頬を肩口に当てている姉さんを一喝して黙らせる。
「うわーん!陽人ぉー!雪乃ちゃんが冷たいぃー!」
ぐしぐしと泣き真似してさらに兄さんと密着する姉さん。貴女、最初からそれが狙いよね?
「ヒキガヤ………比企谷………ふ~ん」
しかし、兄さんは姉さんに取り合わず、意味ありげに比企ヶ谷くんを観察していた。
「………何すか?」
「いや、何でも。雪乃が世話になってるみたいだな。兄の陽人だ。よろしく」
兄さんが比企谷くんに握手を求めた。その表情は私が好きな優しい笑顔だった。
「うっす」
比企谷くんが兄さんの握手に応えた。
「イテッ!」
兄さんとの握手は周囲の男性曰く痛いと評判。その例に漏れず、顔を顰めた比企谷くんもその洗礼を受けたようだ。
「そう言えば兄さん、どうしてここに?明日は大学ではないの?」
「「雪乃(ちゃん)に会いに来た(んだよ~)」」
兄さんと姉さんが見事にハモッって即答でウソを宣う。こういうところは本当に双子の兄妹だ。
「はいはい。すぐにバレるウソを吐かなくていいから本当のことを言ってちょうだい」
全く………。東京の大学に通っているのに長期休みでもない通常の休みに帰ってくるなんて母が知ったらなんていうかしら。ため息混じりに私はこめかみを押さえて呆れた。しかし、この時の私はあることを失念していた。二人としばらくの間会っていなかったから、兄さんの対応の傾向をうっかり忘れてしまっていたのだ。ニマァっと姉さんと兄さんは同じような表情をした。子どもが悪戯を思いついた時のような無邪気な表情だった。私は本能的に危機を悟る。思い出したとも言う。
少し兄さんと姉さんについて話そう。この双子の兄妹は、二人そろって呆れるほどハイスペックだ。容姿端麗、成績最高、スポーツ万能、温厚篤実、多芸多才、etc…。彼らの良い所を上げればキリがない。誰もが二人を褒めそやす。学校では学年の壁を越えて皇帝女帝として君臨し続け、学校の支配者となり、教師生徒を問わず二人の顔色を窺わなければならないほどの立場に至った。まさに人間関係の頂を極めていたこの双子のおかげで、中学では私も先生方や他の生徒に様々な意味でマークされてしまっていた。私は一時期留学をしていたから噂しか耳にしていないのだけれど、ありとあらゆる噂が都市伝説並みに伝えられてきた。曰く、二人に目をつけられてしまえばまともな学校生活を送れない。曰く、二人の内どちらか一方にでも喧嘩を売れば学校に居場所がなくなる。曰く、二人が二人っきりになりたい時に邪魔してはいけない。曰く、兄さんに告白する女子は全て姉さんを通す必要がある。曰く、曰く、曰く、………。他にも兄さんが裏でヤクザとつながっているだとか尾ひれのつきすぎたものもあるが、とにかく数えきれないほどの噂が蔓延していた。外での二人の話はこんな感じであるが、今度は私にとっての二人を話そうと思う。兄さんと姉さんは外から見れば完璧な超人に見える。しかし、妹の私はそれが二人の仮初めの姿であることを知っている。私がまだ幼児だった頃のある日、突然兄さんと姉さんが変わったのを覚えている。まるで偽物と本物が一人の中で存在しているような、有り体に言えば二重人格みたいになってしまっていた。家で私といる時の笑顔と家の外にいる時の笑顔。同じ笑顔が同じ表情をしているはずなのに、私にはまったくの別物にしか見えなかった。その時期の私は二人が怖かった。家の中では幾分平気だった。なぜなら以前から知っていた兄さんと姉さんだったから。問題は外での二人だった。外での彼らは私の知る人となりではなく、本当に私が二人と兄妹姉妹なのかを確信できないくらいの別人格が兄さん姉さんに乗り移って憑依していた。この頃、以前あれほど懐いていた兄さんにでさえビクビクと怯えながら接していた。このことを解決したのは時間と私の精神的な成長で、二人の内と外の変化に順応していったのだ。
そして、ここからが本題になるのだが、兄さん姉さんが外面を作り始めた時期、姉さんの私に対するトラウマ製造が加速した。兄さん姉さんの変貌に戸惑う私を兄さんが気を遣ってそっとしていたことも拍車をかけてしまう。それまで兄さんは、姉さんがやり過ぎてしまう時にストッパーとして私を守ってくれていたのだけれど、このことは姉さんを止める枷がなくなったことを意味していていた。姉さんもあの時期には精神的ストレスが溜まりに溜まっていたのだろう。兄さんが姉さんの暴走に気付いた時には、時すでに遅く、私のトラウマの8割はここで形成されてしまった。この時期のことはまだまだ語り足りないのだけれども、今重要なのは8割の方ではなく残り2割の方だ。
兄さんは私にとって理想的な兄だ。いや、全ての女性にとってそうだと思う。容姿はさることながら、学力や運動能力等の隙の無さ、極めつけは何より優しい。女性の扱いはお手の物で、一度兄さんを知ってしまえば他の男子など目に入らなくなるのは自明の理。しかし、そんな兄さんにも私に対しては少し欠点がある。まあ、その欠点ですら素の兄さんを見せてくれていると思えて嬉しく感じてしまうのだけれど………。ほんと、罪作りな兄さん。
コホンッ。兄さんは姉さんのやり過ぎた行為を止めてくれる。そう。やり過ぎた行為
そのことをはっきりと思い出した私は、兄さんと姉さんが双子の証のような非常に瓜二つの嗜虐的な笑顔に恐怖を感じて思わず後ずさった。頬も引き攣っているだろう。
「ねえねえ陽人、雪乃ちゃんに私たちの愛情は伝わってないみたいだねー」
カラカラと笑う姉さんが兄さんの頬をチョンチョンとつつく。
「………雪乃………」
先程の嗜虐的な笑顔とは一転、何かに絶望したかのように悲し気な表情で私の名前を呼ぶ兄さん。さっきの兄さんを見ていなければ、私は罪悪感に苛まれていたに違いない。くっ!演技力が高過ぎるわ。
「じゃあ、例のアレは私がもらっちゃおうかなあ」
さらにさらに口角を上げる姉さん。アレとは何?
「そのために来たけど仕方ないか………」
「そうと決まれば私たちはもう行こっか?これ以上雪乃ちゃんの邪魔しても悪いし」
姉さんが他人の迷惑を考えるなんて、明日は槍でも降るのかしら?何とも言い難い違和感が私の中でうごめいている。だけれども、今のこんな好機を逃すべきではない。
「ええ、じゃあ、兄さん姉さん、また」
挨拶すると兄さんがまたニヤニヤした顔に戻っていた。嫌な予感が増した。
「比企谷くん、行きましょう」
「え?お、おう」
完全に置いてけぼりをくらっていた比企谷くんを促して、私たちは姉さんと兄さんに背を向けた。
「ここのららぽーとのクレーンゲーム限定パンさんぬいぐるみ楽しみだなー!」
背後から聞こえたパンさんという単語に私は足を止めた。止めざるを得なかった。嫌な予感が的中してしまった。姉さんがらしくない言動をした時点で気付くべきだった。パンさんに精通している私は、今日からこのららぽーとで限定パンさんが入手できることはもちろん知っていた。ただ、兄さんと姉さんに会った衝撃で今の今まで忘れてしまっていたのだ。
私が今日ここに来た理由の一つにパンさんのぬいぐるみ入手を試みるというものがあった。由比ヶ浜さんの誕生日プレゼントを買う次に大事なことだ。しかし、入手を試みるとあるように挑戦というニュアンスを出したのはいくつか問題があるからなのだ。直接には言わないのだけれど、比企谷くんを誘ったのは単に小町さんの協力を仰ぐことだけが目的ではなく、彼の協力も不可欠という理由がある。じゃないとわざわざ偶然を装って彼を隣に連れたままランジェリーショップの前を歩くことはしないし、今日だけとは言え恋人の様に振る舞うことを許可したりしない。そして何より、私がクレーンゲームなるものをほとんどやったことがないということが最大の要因だった。比企谷くんが上手ければ御の字なのだけれども、それを求めるのは勝手過ぎる。過去の私は限定パンさんが出ると兄さんを頼りにしていたからそのツケが回って来たのだろうか。兄さんと姉さんの空間把握能力は天才的で、クレーンゲーム等は児戯に等しかった。私はほんのちょっぴり、そう、ほんの少しだけ苦手、いや得意ではない。姉さんは自力でさっさと手に入れてしまい、私にどや顔を向けて来る。姉さんのからかいに耐えかねると、兄さんに泣きついて取ってもらうのが過去の流れだった。ちなみに余談なのだけれど、兄さんに目的物を取ってもらった後に私は姉さんにどや顔することにしていた。もちろん兄さんにお礼を言ってから。すると姉さんは終末時計のような表情を浮かべ、私の存在を忘れてしまったかの如く兄さんに詰め寄る。そうなると私は自由の身だ。姉さんが兄さんを引っ張ってどこかへ連行していく。私は取ったばかりのパンさんをモフモフしながら悠々と二人の帰りを待つ。やがて、ほくほく顔の姉さんと財布を抱えておいおいとなく兄さんが帰って来る。姉さんは兄さんに買ってもらった物を自慢してくるが、パンさんを手にした私には効果が薄い。ほんの少しだけ羨ましくはあるのだけれど、これ以上兄さんを困らせる訳にはいかないと我慢していた。
話が少し逸れたが、ここで二人の力を借りれば限定パンさんは確実に手に入る。それを分かって兄さんと姉さんは演技をしていたのだ。去ることを促した私がすぐに立ち止まったことで、比企谷くんが不思議そうに私を見ていた。私は意を決する。
「比企谷くん、貴方クレーンゲームは得意かしら?」
「は?」
比企谷くんは意味を計りかねると言ったような単音を発した。視界の端に写るニヤニヤといたずらな顔の兄さん姉さんは一旦無視だ。だが彼の答え如何では二人の力を請わねばならなくなる。
「いいから答えて」
「ま、まあ、可もなく不可もないって感じだ………と思う」
「そう。なら可能性は無きにしも非ずね。行きましょう」
よかった。比企谷くんの返答は良くはないが悪くもない。軍資金は沢山ある。姉さん兄さんの力を借りずともなんとかなりそうな光が見えた。
「あれ?雪乃ちゃん?」
後ろで姉さんが意外そうな声を出したが私は気に留めなかった。
──────
私が先頭を歩き、その半歩後ろに比企谷くんが着いてくる。
「なあ、お前の姉ちゃんと兄ちゃん、なんか着いて来てんだけど…」
比企谷くんが小声で私に話しかける。兄さんと姉さんは腕を組んだ状態で私たちの後ろ二メートルほどにいる。
「気にしないで。目的地が一緒なだけでしょう」
「いや、さっき別れようとしたんじゃねえの?」
「あれは姉さんと兄さんのイタズラの前振りよ。もっとも、貴方がいてくれたおかげで被害を被ることはなかったのだけれど」
「なに兄妹間のイタズラに被害って生々しい単語が出てくんの?お前んち怖すぎない?」
「このくらい序の口よ」
「うへぇ」とげんなりした様子の比企谷くん。
「着いたわ」
「………ゲーセン?クレーンゲームでもすんの?」
「ええ。あるモノを入手するの。貴方の協力も必要不可欠な案件よ」
「は?」
「最初は私の隣にいてくれるだけでいいわ。あまり余計なことは口にしないように」
私は比企谷くんに釘を差した。
「はあ………?」
分かったような分かってないような気の抜けた返事をする比企谷くん。私はお構いなしに先月もあったように彼の肘に手を添えた。
「ゆ、ゆきのしたさん?」
そして、比企谷くんは前回と同じように少し裏返った声を発する。恥ずかしいのは私も同じなのだから我慢なさい。
「きゃー!雪乃ちゃん、だーいたーん!」
「陽乃うるさい。余計な声が入ってるだろうが」
大げさに騒ぐ姉さん。気にしたら負けよ、雪乃。心を強く持……って兄さん!?
私はバッ!と比企谷くんから手を放した。振り返ってキッ!っと兄さんを睨みながら詰め寄る。
「ん?どうした雪乃?」
兄さんはスマホを片手にコチラを不思議そうに問いかけてきた。
「消しなさい」
私は語尾を強くして言った。イメージは母だ。冷たく、有無を言わせない雰囲気を纏う。
「なんで?」
しかし、兄さんに効果は無いようだ。兄さんの空気は、何も知らない幼児が純粋に問いかけて来るそれに等しい。
「逆に聞くけれど、どうして撮る必要があるのかしら?」
「いや妹の彼氏と初の手繋ぎが目の前で行われようとしてるんだぞ?撮る理由には十分すぎると思わないか?」
「だから彼は彼氏じゃ──」
「──彼氏じゃなくていいの?ほんとに?」
私に言葉を被せてくる兄さん。くっ………、反論したいのだけれど事情が事情だけに本当のことをここで言うのは………。
「は?いやだから俺たちは──」
「──比企谷くんは黙って」
比企谷くんがしゃべろうとするのを今度は私が遮った。このままここに居ても前に進めない。そう判断した私は、比企谷くんの腕を取ってクレーンゲームエリアに引っ張って行く。向かった先は大分賑わっている。周りに様々な種類がある中で受け付け必須と書かれた対象機種を見つけ、指示通り受け付けに直進した。
「いらっしゃいませ!当ららぽーと限定パンさんクレーンゲームを挑戦致しますか?」
女性店員が元気のある声で対応してくれた。
「ハイ」
「では挑戦に当たり何かお二人がカップルである証をご提示願えますか?」
そう。第一関門はここだ。この限定パンさんは恋人関係の二人組しか挑戦できない。二匹が寄り添うようにポーズをとるパンさん故に趣旨は理解できる。だから私は比企谷くんを連れて来たし、先程は兄さん姉さんの前で彼と恋人ではないと言えなかった。言ってしまえば姉さんは邪魔をしてくるのが明らかだった。隣の比企谷くんは何が何やらと混乱している。
「これではだめかしら?」
私は手に握る比企谷くんの肘を差し出した。すると店員さんは苦笑いを浮かべた。
「あー、えーっとですね、もっとこうイチャイチャっとした感じをお願いできたらと思いましてですね」
どうやらこれでは証拠として弱いらしい。しかし、これが駄目になるとどうするか………。ダメね、何も浮かばない。
「何でしたら彼氏さんか彼女さんがこの場でお相手の頬にキスしていただけたら分かりやすくてありがたいのですが………」
「「なっ!?」」
私と比企谷くんの両名が素っ頓狂な声を挙げた。この店員さんもしかして自分の欲望を吐き出していないかしら?公衆の面前でそれはセクハラ案件にならないの?非常にやっかいな店員さんと出会ってしまったわ………。
どうしようかと途方に暮れると間をおいて意外な所から助け舟が出された。
「店員さん店員さん」
「はい?」
第三者からの声。それは兄さんと恋人繋ぎしている姉さんだった。
「あのね、この娘私の妹でね、今日が初デートなの」
「ほう?」
キラリと店員さんの目が光った。姉さんもニヤニヤとし、二人は気が合いそうに思える。
「だ・か・ら、人前でイチャつくのってハードルが高いと思うし、ここは私たちを先に受け付けしてもらってこの子たちにはちょっとある場所に行ってもらおうと思うの」
「あれ、ですね!」
「そう!あれ!」
彼女たちはお互いに人差し指をピンッと立てる。あるとかあれとか指示語ばかりなのにちゃんと意思疎通ができているのが凄い。ところで、私たちはどこかへ連れて行かれる感じよね?いったいどこかしら?
「比企谷くん、私たちはどこに連行されるのかしら?」
「知らん。てか協力ってこういうことだったのか。前もっていっておいてくれよ………」
「仕方ないじゃない。貴方、知ってたら来なかったでしょう?」
ぼそぼそと会話する私と比企谷くん。彼は周囲をキョロキョロと挙動不審に見渡していた。私は眉間に皺をよせて彼を肘でつついた。
「落ち着きなさい。目も腐っているし通報されるわよ、不審者谷くん」
「一文字も合ってないからな。それに目はもともとだ」
「貴方は今、仮にも私の彼氏という設定なのだから兄さんみたいに堂々としてなさい」
「………同意のない恋人関係はイジメと大差無いように思えるのは俺だけか?」
「何事にも上下関係は必要よ」
「これだらか社会ってやつは嫌いだよ………」
比企ヶ谷くんは大きめのため息を吐いた。
「──ではでは~、先にお姉さんカップルの受け付けをしちゃいましょう!」
「はーい!」
目の前では姉さんと店員さんの話し合いがひと段落して展開が進むようだった。
「カップルとしての証をご提示願います!」
店員さんの指示を受けて姉さんと兄さんは恋人繋ぎの手を見せた。姉さんはこれでもかと兄さんの腕に体を密着させ、満面の笑みで幸せアピールをしていた。いつの間にか二人はお揃いの簡素な指輪まで着けている。どう見ても恋人関係にしか見えないだろう。しかし、店員さんはワザとらしく首をひねり、悩ましげな声を出した。
「う~ん。それではまだ認めることはできませんよー?本当に恋人ですか~?実は兄妹とかじゃないんですか~?」
ニマニマと楽しそうに宣う店員さん。そんなつもりはないのでしょうけれど真実を言い当てている。
「もう!仕方ないですねぇ」
姉さんは仕方ないと口では言いながらも、その顔には喜色に染まっていた。
「陽人、かがんで」
姉さんの要求に兄さんが素直に従う。すると、姉さんは兄さんの頬に口付けを行った。周囲から黄色い歓声が沸いた。まったく………、この双子は………。私の隣の比企谷くんは呆気に取られた表情で二人の寸劇を見ている。兄さんの頬に姉さんの愛用している淡いピンクの口紅が付着して、それを姉さんはくりくりと嬉しそうにハンカチで拭う。
「いや~、どうもごちそうさまですお姉さん。本当にキスをこの場で見られるとは思いませんでしたよ。だいたいのみなさんが写真を提示したり手を繋ぐので終わってしまいますから」
「ふふーん!サービスサービス!」
姿勢を戻した兄さんと姉さんが横に並ぶ。店員さんはこれ以上ないくらいほくほく顔だ。姉さんと兄さんのスキンシップは昔からこの程度のことなら平然と行っていたし、私にとっては驚くに値しない。世間一般的に見れば異常な行為なのかもしれないが、不思議と兄さんと姉さんにはそう感じさせない何かがあった。やはり演技力なのだろうか………。
誰もがこれで終わりと思いかけたその時、予想外にヒートアップしていた店員さんが兄さんに目を向けた。
「でも彼氏さん、彼女さんからばっかりでいいんですか?本当に彼女さんのことを愛してます?」
まだ足りないのか!?と周囲の誰もがそう思った。既に砂糖は大量に投入されているというのに店員さんにはまだ必要だったらしい。一つ確信したことがある。この人絶対にMAXコーヒーを常飲しているわ。これ以上むつごくしてどうする気なのかしら?それに後々の人が困っている。この双子にあてられて顔を赤くしている人もちらほらいるし。
「言うねぇ。でも気持ちは俺の方が強いよ」
店員さんの挑発と取れる言葉を軽い調子で躱す兄さん。これ以上動くつもりはない様だ。だけれど、次の一言が兄さんを豹変させてしまう。
「いいえ、外から見たら彼女さんに負けてると思いますよ」
ピシッと兄さんが石像のように固まった。目を見開き、隣の姉さんを一瞥して店員さんに視線を戻した。
「………負ける?………俺が?」
言葉を反芻する兄さん。店員さんは、好機とばかりに捲し立てる。
「彼氏さんって受動的なことばっかりですし、ちゃんと彼女さんに対して能動的に愛情表現してますか?与えられるのが当然っておもってません?」
初対面であるはずなのに兄さんたちをずっと見て来たかのような言い方だ。すべては兄さんを行動させたいという魂胆が見え見えだったが、兄さんはそれを真実であるかの如く受け入れていた。瞬間、兄さんの纏う空気が一変する。兄さんは腕を姉さんの肩に回し、自分の正面に姉さんを引き寄せた。兄さんの突然の行動に周りもさらに注目する。兄さんの腕の中にいる姉さんは動揺して驚き、両の手を自分の胸の前に折り畳まれて身動きが取れない体勢に顔を赤くさせていた。姉さんを片手で抱え込む兄さんはもう片方の手で姉さんのアゴをクイッと上げた。
「は、陽人?」
普段なら絶対に見ることができないであろう姉さんの狼狽。それが姉さんをまるで純粋な生娘のように引き立てた。周りで見ている男性陣は姉さんの無垢な姿に見惚れ、周囲の女性は姉さんの位置に自分を投射して兄さんに抱かれていた。かく言う私も無意識にその仲間になっていた。兄さんの筋肉質な腕に身動きを制限された私の体。私を逃さないとばかりに体同士が隙間無く密着している。兄さんなのに男性として意識してしまいそうになってしまう。固く弾力がある兄さんの胸板に私の手が当たり、身を離そうとするも頭の中と体が連動することはなく、なされるがままに私のアゴが兄さんにクイッと持ち上げられた。強制的に兄さんの顔が視界に入り、兄さんと目が合う。荒々しく強引な行動なのに、私を抱き締める力の加減や私が苦しくない体勢に落ち着ける優しい気遣いが私の心臓を高鳴らせた。誰もが羨む兄さんの顔が目の前に、その瞳に吸い込まれそうな錯覚に陥っていく。目を逸らしたいのに本能がそうすることを否定していた。段々と近付いて来る兄さんの顔。柔らかそうな唇についつい見入ってしまう。ダメよ、兄さん。私たちは兄妹………きょうだい………きょうだい?あれ?きょうだいって何だったかしら?息苦しい中、兄さんの唇との距離がついになくなっ………って私は何を!?
意識を取り戻した私が目にした光景は、唇が触れ合いそうになる兄さんと姉さんだった。姉さんが固く目を瞑り、一文字に口を閉じていた。周りの人たちが息を飲んだ。遅れて今日一番の黄色い歓声。傍から見れば重なっているような体勢にその場に人々は釘付けだった。
今、私は兄さんと目が合っている。訝し気な視線を送る私に、兄さんはウインクを一つ落とした。………はぁ、人を心配させないでよ。さしずめ、兄さんがやっているのは目の錯覚を利用したフリだ。自分たちを見ている人に位置と距離を把握して、あたかも唇が触れているように見せかけている。店員さんには姉さんの背中で見えていないだろうし、周囲の人たちには距離があって細部までは認識できない。そういうことを兄さんはやっていた。
「…これでどう?」
兄さんが姉さんを抱きかかえたまま店員さんに向けて微笑んだ。不敵な笑みの兄さんを見た店員さんは慌て始める。
「は、はい!オッケーです!文句なしです!」
「あはは~」と頬をかく店員さんは素早く手続きを再開させた。
「ではこのカードをゲーム台の近くにいる係の人に渡してください」
パンさんの描かれたカードを兄さんが受け取る。
「じゃあ、後ろの二人を頼んでもいい?」
「任せてください!私が責任を持ってご案内させていただきますのでこれ以上貴方方のお時間は取らせません」
元気いっぱいに答える店員さん。兄さんはお礼と共に姉さんを連れて行った。
「では、妹さんカップルのお二人、付いてきてくださいね」
私と比企谷くんは目にした気まずい光景に、無言で店員さんの背中を見つめた。
──────
「何、これ?」
「こっちが聞きたいんだが?」
私と比企谷くんが入られたのは四角の箱のようなところだった。白を基調とした背景に、目の前にはレンズと思わしきものとタッチパネルが一面あった。周囲の情報を整理するとどうやら写真を撮るもののようだ。
確か、一度だけ来たことがある気がする。あれは、姉さんと兄さんがいた時だ。何って言ってたかしら、…あっ、プリクラ!プリクラだわ。一度っきりだったから思い出すのに時間がかかってしまった。…トラウマも思い出したけれど…。
「比企谷くん、どうやらこれはプリクラと言うものらしいわ」
私は知らないであろう比企谷くんに説明してあげた。
「いや、それは知ってるけど…」
「あらそうなの?てっきり貴方のことだからこうゆうのを知らないと思っていたのだけれど」
「ばっ、おまっ、俺だってプリクラを撮ったとくらいある」
「…比企谷くん、嘘は関心しないわ。だって貴方友達が……いえ、違うのよ。一人で行動するのを別にとがめている訳ではないの。何をしようと自由だものね」
「その憐れんだ目で見てくるのやめてくんない?どうして若干距離を置いたの、今」
「これ以上は貴方を傷つけるのも酷だと思って離れたのよ。それと、単純に貴方と距離をおいておきたかったのよ」
「直球で言いすぎだからな。それにもう傷付いてるから。というか、プリクラを一人で撮る訳ないだろ」
「あら、では誰と?」
「戸塚だ、戸塚。あれはまさに天使だった。穢れの無い乙女だった。おっとそうか、戸塚は男だったな。でもな、戸塚は戸塚なんだ。世の中には二種類の性別しかないとされているが、俺は新たに戸塚を加えるべきだと思う。と、それはまあまた今度三日くらいかけて説明しよう。今は戸塚とプリクラを撮った話だったな。そう、あれは俺が初めて戸塚にデート…じゃなった遊びに誘われた時のことだ。部活終わりだった戸塚からは制汗──」
「──はいはい、もう分かったから」
何か戸塚くんについてものすごく語りだした比企谷くんを軽くあしらう。
「いいから聞けって。聞いて欲しい。聞いてください」
「戸塚くんと来たのでしょう?それで十分分かったから」
「いや大事なのはプリクラを撮った事実じゃないんだよ。雪ノ下、お前は勘違いしている。そりゃあ、戸塚とプリクラを撮ったことは重要だが、より重要なのは戸塚がどんな仕草をしてどんなポーズを取ったかだ。分かるか?まず一枚目はだな──」
横でつらつらと戸塚くんのことを述べている比企谷くんを放っておいて、私はタッチパネルを操作し始めた。姉さんと兄さんに連れられて来たことはあるのだけれど、その時は姉さんにまかせっきりだったし、そもそもの勝手が分からないから適当に選んでいく。撮るか撮らないかという前提は既に放棄した。この試練を乗り越えなければパンさんへの道が開かれないのであれば、私は甘んじて受け入れる。パンさんが私を待っているのだから。
「──お絵描きをする戸塚を隣で眺めるのもまた一興でな。可愛らしくデコレーションしていく姿はまさに──」
「さあ、すぐに済ませましょう」
「──俺の彼女…は?」
『はーい!それじゃあ最初は二人でピースからしてみよう!』
撮影スタートのボタンをタッチすると機械から誘導の音声が流れてくる。事態が飲み込めていない比企ヶ谷くんを抑え込み、彼の関節をロックする。合気道を習得していたことが功を奏した。カウントダウンを経てカメラのシャッター音が空間に響く。
「は?え?なに、撮られたの?」
「もう始まってしまったのだから覚悟を決めなさい。今回っきりとはいえ必ず店員さんには提示しなくてはならないのだから」
『じゃあ次は彼女さんが彼氏さんの前にしゃがんでね』
私は指示通りに比企谷くんの正面にかがんだ。背後でおどおどしている気配が感じ取れて私の方が冷静でいられる。
『彼氏さんは目の前にいる彼女さんを包み込むように腕を回してね!』
「「なっ!?」」
続く指示に流石の私も動揺した。前後で撮るだけではないのね………。
『ほらほら~、恥ずかしがってないで早く包み込んじゃいなよ!』
機械が私たちを急かす。くっ………、仕方がないわ。
「比企谷くん、私の肩に手を乗せなさい」
「は?いやいやいや、何言ってんの?」
「言ったでしょう?今日一日限り貴方は私の恋人のように振舞うことを許可すると。たかだか肩を触れられることくらい我慢できるわよ。貴方とは知らない仲ではないし、貴方のリスク管理能力は平塚先生のお墨付きだもの」
「いやだからってな──」
『いくよー!3──』
流れて来たカウントダウン。私は焦って語尾を強める。
「早くなさい!」
「お、おう」
比企谷くんの手が私の肩に添えられる。体温が上昇していくのを感じた。彼に触れられた部分が自分の体ではないみたいに思えて不思議な気持ちになる。
『──2・1』
カウントダウンが終わり、また特有のシャッター音が聞こえた。沈黙が訪れる中で私たちはそのままの体勢から動けなかった。非常に気まずい雰囲気だ。
『じゃあ次に行ってみよー!』
無邪気な機械音が今ではありがたかった。私たちはまるで啓示を受けた預言者の如く動くきっかけを得た。体勢が元に戻ると比企谷くんと目が合う。気恥ずかしくなってどちらからともなく目を逸らした。
『最後はほっぺにチューしてみようか!』
「「できるかっ!?」」
──────
ゲッソリとなりながら私たちはプリクラを撮り終えた。お絵描きなどはする気もない。隣の比企谷くんの目が腐っている………のは元々なのだけれど、今の彼の目はいつも部活で目にしているそれよりもさらに腐っていた。例えるならリーマンショックで心が病んだトレーダーの表情にそっくりだった。
「………行きましょう」
プリクラ機械の横にある窪みから今しがた撮影した写真を手に取り、比企谷くんを促した。
「………もう帰っていいか?」
「何を言っているのかしら?むしろ本番はここからなのよ?」
パンさんを手に入れなければ今回の犠牲は意味をなさなくなる。パンさん………。
「休憩させてくれ」
「私が何のために貴方がクレーンゲームを得意かどうか聞いたか分かる?ほら、グチグチ言ってないでさっさと済ませてしまいましょう」
私はそそくさと歩き出した。比企谷くんもしぶしぶながらついて来る。
「そんなにパンさんが好きなのか?」
「ええ。………いけない、かしら?」
「いや、そんなことはないが」
「昔、誕生日にもらったことがあってそれ以来ずっと好きなのよ」
「ぬいぐるみを?」
「原本の方よ。当時は英語なんて読めなかったのだけれど、家の中にあった辞書を首っ引きにして何とか読んだわ。パズルみたいで楽しかった」
思えばその頃から熱心に英語を勉強するようになった。9歳くらいだった兄さんがすらすらと呼んでいる姿が格好良くて私もそうなりたいと思ったからだ。それに姉さんもすらすら読んでいたことが仲間はずれにされたようで悔しかった。姉さんの悪魔の笑顔が兄さんの隣は私だけのものだと暗に言われているように感じてイラっとした。読んで聞かせようとする姉さんに固辞し、どうしてもわからない箇所だけを姉さんに見つからないように細心の注意を払いながら兄さんに聞いた。そして、二週間の期間を掛けて自力で読み切った。兄さんの隣を取り合う戦いが激化したのもこの時期だった。
「あっ、雪乃ちゃーん!」
受け付けに戻ってくると、姉さんと兄さんが限定パンさんを二組抱えて待っていた。………二組?
「はいこれ!偶然二つ取れちゃったからあげるね!」
姉さんが一組のパンさんたちを渡してくる。訳の分からないことになっていて私はどうするべきか慌てた。
「びっくりしてる?ほんとはね、一組のカップルにつき一セットって決められているんだけど陽人が狙ったものが偶然もう一組も吊っちゃっててね。あの店員さんに事情を説明したら雪乃ちゃんが欲しいならあげてもいいんだって」
事情を説明され事の概要が見えてきた。犯人である兄さんに視線を向けると肩をすくませていた。どうやら狙ったわけではなく本当に偶然らしい。兄さんなら意図的にもできるでしょうし今回は信じていいだろう。
「あっ、でも雪乃ちゃんは彼氏に取ってもらうやつの方が良かったかな?ごめんごめん、お姉ちゃん気が回らなかったよ」
パンさんを引っ込めようとする姉さん。私は素早く姉さんの手首を掴み、彼女の手にあったパンさんを引き渡すように求めた。
「いえ、それには及ばないわ。そんなことを気にしないし、貰えるものは貰っておくわよ」
今までの苦労が徒労に終わりかけているがこの波に乗らない手はない。偶然兄さんが取ったということならば姉さんの手は借りていない。つまり安心して受け取れる。
「えー?比企谷くん?」
姉さんはまだパンさんを離さない。比企谷くんに首を傾げて問いかける。
「いや、もう俺のことはどうでもいいんで雪ノ下にやったらどうですか?」
比企谷くんのめんどくさそうな返事に、姉さんはついにパンさんから手を放した。不満げに頬を膨らませて彼に詰め寄る。
「ぶー!煮え切らないなぁ!ここはビシッと俺が取ってやるんでとか言えないの?」
「近い近い………」
後退していく比企谷くんに、その分距離を詰める姉さん。
「兄さん」
「ん?」
姉さんの気が逸れている内に、私は兄さんに近寄った。
「その、………取ってくれてありがとう」
少々の気恥ずかしさを感じながらお礼を言った。貰った一組のパンさんを抱えて口元を隠した。すると私の頭に兄さんの大きな手が置かれた。ゴツゴツとした男性らしい手は固いのに決して痛くも嫌でもなかった。
「どういたしまして」
優しく兄さんに撫でられる。その気持ちよさに目を細めた。姉さんと共に病みつきになってしまった兄さんの手の悪さ。抗うことなどできそうにない。
「──ねえ、陽人もそう思っ……あっー!雪乃ちゃん抜け駆けだー!」
姉さんが私たちを見て目の色を変えた。焦る姉さん。優越感が心地良かった。私はダメ押しに姉さんに向けて勝ち誇った笑みを向ける。
「なっ!何その顔ー!?」
「いえ、別になんでもないわよ」
「むーっ!浮気だ浮気!訴訟案件だよ、陽人!」
「妹の頭を撫でるだけで訴訟されたんじゃたまったもんじゃないな」
「比企谷くん!雪乃ちゃんが浮気してるよ!いいの!?」
「いやなんで俺に振るんですか………?」
姉さんの無茶振りに心底呆れた様子の比企谷くん。同時に兄さんの手が私から離れた。名残惜しく思いながらも兄さんを一瞥して我慢した。
「陽乃、そろそろ帰るぞ」
「え?うーん、そっか、もうそんな時間か…」
兄さんが腕時計を指し示して姉さんを宥める。姉さんはそれに素直に応じて兄さんの腕を取った。
「雪乃ちゃん、私たちはもう帰るけどちゃんと遅くならないように帰るんだよ?」
「分かってるわ」
「お母さんはまだ一人暮らしを認めてないんだからね」
ビクッと私の肩が跳ねる。母という単語は私にとってそれだけの威力があった。
「………姉さんには関係ないでしょう」
私の言い草は少々邪険な返事になった。
「うん、関係ないかもね。でも陽人だって今も心配してる。雪乃ちゃんに直接言わないだけで」
「………」
私は押し黙った。私が一人暮らしができているのは父の協力あってこそだ。それも他の家族には黙って協力してくれた。丁度兄さんと姉さんが家を出たのと同時期で、母も兄さんも姉さんも私と父の動きに気付いていなかった。知られた時には猛反対されたのだけれど、私の気持ちが固く、様々なことに忙しかった時期だったことが拍車をかけて有耶無耶に家を出た。「家を出た最大の要因は貴方たちだ」と叫ぶことができたならどれだけ楽なのだろうか。しかし、私にはその言葉が出ない。どうすることもできなくて結局逃げる。この世の誰にも知られてはいけない。私が一人で抱え込まなければならない。
「雪乃」
兄さんの声が今だけは忌々しかった。
「週末だけでも実家に顔を見せてあげな。俺たち以上に気に病んでいるのは母さんと父さんなんだ」
「………ええ」
私は冷静を努めた。兄さんは私の雰囲気を感じ取って苦笑いをしていた。
「またな、雪乃」
「ええ、さようなら兄さん」
「比企谷くん、雪乃ちゃんのことお願いね」
姉さんの言葉に比企谷くんは無言で首肯した。それを見届けた兄さんと姉さんは安心した表情を浮かべて去って行った。私たちは敢えて反対側へと歩き、少ししてフードコートの一席に腰を下ろした。
「ごめんなさい、比企谷くん。予定の無いことにまで付き合わせてしまって」
まず開口一番に彼に謝罪をした。
「いや、まあ、その、なんだ、気にすることねえよ」
「そう言ってもらえるのはありがたいのだけれど、迷惑を多分に掛けてしまったから」
「あー、そりゃ色々あったけどな。あれだ、ボッチには貴重な体験だと思えばいいだろ。ほら、将来社会に出たら上司とか仕事に文句なんて通じないんだ。今からそれを耐える訓練しとくのも悪くない」
最後に「やっぱり働いたら負けだな」とこぼす比企谷くん。どこでも性根の変わらない彼に私の毒気が抜かれクスリと笑った。
「ありがとう」
だから自然とこの言葉が出た。比企谷くんがそっぽを向く。それがまたおかしくて笑った。
「そういや、お前の兄ちゃんと姉ちゃん、すげえのな」
「ええ。容姿端麗、成績最高、スポーツ万能、温厚篤実、多芸多才、おおよそあれほど人間として完璧な存在はいないでしょう。誰もがあの人たちを褒めそやす」
このセリフは私があの二人を他人に紹介する時はいつも決まった口上だった。
「は?そんなのお前も似たようなもんだろ。嫌味か」
「え?」
え?
「俺がすげぇって言ってるのは、あの何、強化外骨格みたいな外面のことだよ」
私は目を見張った。
「お前の姉ちゃん、モテない男の求める女性の理想像みたいな感じだろ?初対面で気さくに話して、常に笑顔を絶やさない。だが理想は理想。現実じゃない。だからどこか嘘くさい」
「………腐った目なのに、いえ、腐った目だからこそ見抜けることもあるのね」
「それは褒めてるの?貶してるの?」
「褒めているのよ。絶賛したわ」
「全然そうとは聞こえないんだが………」
「フフッ。そうね、あれは姉さんの外面よ。昔から家の用事で連れ回された内に身に付いた対人スキル。今まで見破った人なんてほとんどいないのによく分かったわね」
「昔から親父に美人の姉ちゃんには気を付けろって言われてるからな。親父がそれで過去に痛い目に遭って母ちゃんに激怒されたらしいし」
比企谷くんの捻くれた性格の根源ってその教育が原因ではないの?
「姉さんもそんなバカげた理由で見破られるとは思っても見ないでしょうね」
「それにお前と笑った顔が全然違うだろ」
「………馬鹿げた理由ね」
びっくりした。全くの不意打ちだった。
「とっ、ところで、どうして兄さんの外面に気が付いたの?」
「あー、あれは、そうだな。姉ちゃんの方ほど確信は持っていないんだが、単純に姉ちゃんにあるなら兄ちゃんの方にもあると思った」
どれだけ比企谷くんが兄さんに捻くれた目を向けたかと思っていたが、意外に単純な連想だった。
「お前の兄ちゃんと姉ちゃんが恋人を装って、………なんだ、その、キ、キスまでしてただろ?」
「ええ、フリだったけれどね」
「え?あれってキスしたフリだったの?」
「比企ヶ谷くん貴方、あれだけ近くで見ていながら気が付いていなかったの?」
「いやだって俺からじゃ完全に重なっているようにしか見えなかったんだが?」
「一応身内の名誉のために弁明をしておくのだけれど、兄妹なのにキスをするはずがないでしょう。貴方だって小町さんとキスしないでしょう?」
たとえそうであっても私は認めない。認めてはならない。
「何それうらやま………じゃなくて、それはまあ当然だが」
「ならそういうことよ。いいわね?」
「??まあ、そこら辺は俺の関わることではないし深くは掘り下げないが、っとそうだ、お前の兄ちゃんな、その一瞬前に雰囲気が一変しただろ?どうにもあの姿がそれ以前の人物像に嚙み合わないんだよな」
本当に人のことをよく見ているわね。
「これも姉ちゃんに仮面があるって先に気付いていたから気付けた些細な変化だけどな」
「それでも兄さんにまで疑問を持つのは貴方くらいよ」
「男だって自分を偽る奴はゴマンといる。学校でヒエラルキーの上位にいる奴だって、俺みたいに下層に属する奴でも何かしらは偽って生きている。結局完璧な人間なんていねぇんだよ。お前の兄ちゃんも例外じゃなかった。ただそれだけのことだろ」
「………そうね」
比企谷くんは世界の全てを独自の穿った見方で観察している。プラトンを批判したアリストテレスのように、理想になびくことなく、常に疑い、切り捨てる。
「………帰りましょうか」
私はそう言って立ち上がった。比企谷くんは無言で腰を上げる。彼が私の前を歩き、私が彼の背中を追った。電車に乗り、お互いに見知らぬ関係であるかの如く無関心で隣り合って座った。会話などは私たちの間に存在せず、電車の窓から移ろい行く景色が右から左に流れた。定型文化された無機質な女性のアナウンスが聞こえてくる。そろそろ私が降りる駅だった。
「………さようなら」
「おう………」
私たちは言葉少なに別れを告げた。振り返ることなく列車から下車して駅のホームを歩く。やがて比企谷くんを乗せた電車は定時で動き出した。ホームの階段に差し掛かろうとしたその時、一瞬だけ彼の姿が目に入った。離れて見ても、彼の目は相変わらず腐ったままだった。私は人が行きかう中で足を止めていた。視線は小さくなる電車を捉えている。
彼の瞳に映る世界は、きっと諦念にまみれているのだろう。まごうことなき現実主義者だと私は彼をそう評した。電車が見えなくなってから再び歩き出した。私はまだ、彼が誰よりも理想主義者であることを知らない。