逃げ水   作:ピト

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波乱の種蒔き

 文化祭実行委員会に大きな変化が現れたのは、9月も中旬に差し掛かろうとしている頃だった。実行委員長に立候補した相模さんからの依頼。彼女の補佐をするという依頼を単独で受け、奉仕部は一時休止状態にしている。

 その日はいつもの様に文化祭に向けた各種の仕事を進めていた。実行委員長たる相模さんの姿は未だ本部である会議室にはない。最近、というよりも元から彼女が本部に遅れてやってくることは多く、実行委員会の事務の空気も引き締まらない。彼女の承認が必要な書類の山を見て、私はため息を零した。

 

「やっほー。失礼しまーす」

 

 実行委員会に不穏な影が下りてきた。本部に響く、明るく透き通った女性の声。その声の主はこの場にいるすべての人の視線を集めていた。

 

「あっ、はるさん!」

 

 城廻先輩が真っ先に侵入者へと駆け寄る。ほんわかした笑顔を浮かべて、私の姉を出迎えていた。

 

「おっ?めぐりじゃん!久し振りー!元気だったー?」

 

 姉さんは城廻先輩に抱き着いた。急な対応に、城廻先輩は仰け反るような体勢になりながらも嬉しそうに破顔していた。

 

「もう!連絡はとってたじゃないですか」

「直接会うのは久し振りでしょ~?なんか懐かしくてさ~」

 

 姉さんに頬をもにゅもにゅとほぐされながら、城廻先輩はあうあうと頭を揺らす。

 

「あれ?………ところで、はるさん。陽人さんは?」

「ん?………私一人だけど?」

「ぶ~~。私、陽人さんも一緒に来てくださいっていったじゃないですか」

「陽人は忙しいの。私だけでも別にいいでしょ」

「………陽人さんがいれば別にはるさんはついでなのに」

「めぐりー?聞こえてるよー?」

「聞こえるように言ったんですぅ」

「生意気言うのはこの口かー?」

 

 姦しく話す二人に、周囲の視線はずっと釘付けだった。見れば他の実行委員の手が完全に止まってしまっている。私は自分の席を立って、宿敵たる悪魔を処理するために二人の許へと向かう。

 その時だった。姉さんが城廻先輩の耳元で何事かを囁いた。近付いていた私だけはかろうじて、姉さんの唇の動きから囁かれていた内容を予測することができた。その姉さんのセリフは、私の足が思わず止まってしまう程衝撃的なものだった。

 

 〝ステイもできない雌犬の前にわざわざ陽人を連れて来る訳ないじゃん”

 

 いつもの人好きされる完璧な笑顔のままの姉さん。いつものほんわかした空気を崩さない城廻先輩。平穏な空気とは全く不釣り合いな内容だった。

 

「あっ!雪乃ちゃ~ん!」

 

 城廻先輩から離れた姉さんが私に気付く。

 

「………姉さん、貴女………」

「ん?何?」

 

 キョトンと首を傾げる姉さん。私はかぶりを振った。そして、いつかの時のように目の前の惨事から目を逸らす選択を取ってしまう。

 

「………何しに来たの?」

「やだなー、有志団体募集のお知らせ受けたから来たんだって。管弦楽部のOGとしてね」

「………はぁ」

 

 私はこめかみを押さえてため息を零した。

 

「ご、ごめんね。私が呼んだんだ。有志団体が足りないってことだったからどうかなーと思ってさ………。雪ノ下さんはまだ入学してなかったから知らないかもしれないけど、はるさんね、三年生の時、有志で陽人さんと平塚先生でバンドを組んでてね。それが凄くてね!」

 

 城廻先輩が私を遠慮がちに見つめてきた。

 

「それは知っています。見てはいたので。けれど………」

 

 私は奥歯を強く嚙み締めて視線を床に落とした。歓迎しているとは受け取れない態度を取る私に、城廻先輩が気遣わしげな眼差しを向けてくる。すると、姉さんが恥ずかしそうに笑いながら割って入って来た。

 

「あはは、めぐり~。ダメだよ。あれは遊びだし。けど、今年はもうちょっとちゃんとやるつもりだよ。ちょくちょく学校で練習させてもらおうかな………。だからさ、いいでしょー?雪乃ちゃん。有志も足らないんだしさ~」

 

 姉さんは「それに」と私の肩を抱いて来た。

 

「可愛い妹のためにしてあげられることはしてあげたいんだよ~」

「ふざけないで」

 

 姉さんの手を払いのけ、一歩距離を取って目を細めた。

 

「だいたい姉さんが──」

「──私が?なに?」

 

 私の睨みを真正面から受け止める姉さん。お互いに全く逸らすことなく、幾何かの沈黙を生み出した。

 

「………また、そうやって」

 

 結局根負けしたのは私だった。唇を噛み、そっと目を背ける。逸らした視線は扉付近にいた比企谷くんとぶつかった。

 

「………っ」

 

 慌てて目を伏せた。

 

「あれ?比企谷くんだー。ひゃっはろー!」

 

 比企谷くんに気付いた姉さんが底抜けに明るい挨拶をした。

 

「陽乃さん」

 

 遅れて葉山くんが比企谷くんの隣に並ぶ。

 

「や、隼人」

 

 ひらひらと手を振る姉さんに、葉山くんは軽く頷いて応えた。

 

「どうしてここに?」

「有志で管弦楽でもやろうと思ってさ。OB,OG集めたら面白いかなって。楽しそうじゃない?」

「またそうやって思いつきで行動する………」

 

 呆れたように葉山くんが苦笑いした。

 

「ん?」

 

 姉さんと葉山くんを交互に見ていた比企谷くんに、姉さんは首を傾げた後、ニマァっと笑った。

 

「ふふふ。隼人とは結構昔から付き合いがあってさ。比企谷くんもタメ口でいいよ?あれかな?八幡って呼んだ方が良い?八幡?」

「あはは」

 

 姉さんのからかいに、比企谷くんは渇いた笑いで拒絶する。

 

「ね~雪乃ちゃん、出ていいでしょう?」

 

 私に視線を戻した姉さんが猫撫で声で媚びる。

 

「好きにすればいいじゃない………。それに、決定権は私にはないわ」

「あれ?そうなの?てっきり委員長やってるんだと思ったのに………。ん~、周りから勧められなかった?」

 

 物凄く意外そうに目を見開く姉さん。そして、う~んう~んと頭を悩ませていた。

 

「じゃあ、誰が委員長?めぐり………は三年だから違うね。比企谷くん?」

 

 妙な緊張感が漂う中、会議室の扉が無遠慮に開かれた。

 

「ごめんなさーい。クラスの方に顔を出してたら遅れちゃいましたー」

 

 どこも悪びれる様子の無い相模さんだ。定例ミーティングの予定はないから遅刻ということはないのだけれど。

 

「はるさん、この子が委員長ですよ」

 

 城廻先輩が相模さんを手招きしながら姉さんに紹介する。相模さんは見たことがない顔に少々戸惑いながら姉さんと相対した。

 

「あ、…実行委員長の相模南です」

 

 ペコっと会釈する相模さんを姉さんは目を細めて観察していた。さながら、姉さんにとっての価値を推し測ろうとするような底冷えする魔眼だ。

 

「ふぅん………」

 

 姉さんが小さく息を吐いて相模さんへ一歩近付く。

 

「文化祭実行委員長が遅刻?それも、クラスに顔を出していて?へぇ………」

 

 城廻先輩と姦しく話していた時より音階が一段低くなった姉さんの声音。その落差を総身に受ける相模さんの目がこわばる。

 

「いや、その………」

 

 必死に言い訳を探そうとしていると、姉さんは突然、ふっと微笑みを見せた。

 

「いや〜!やっぱり委員長はそうでなきゃねー!文化祭を自ら最大限に楽しめてこそ委員長にふさわしい!いいね!いいね!えーっと、何がみちゃんだっけ?甘噛み?ま、いいや。委員長ちゃんね」

「あ、ありがとうございます」

 

 ころっと態度を変えた姉さんの相模さんを肯定する言葉。その思っても見ない言葉に、相模さんはギャップからなのか嬉しそうに頬を染めていた。

 

「でさー、委員長ちゃんにお願いがあるんだけど、私さー、有志団体で出たいんだよね。で、雪乃ちゃんに相談したんだけど渋られちゃって。私あまり雪乃ちゃんに好かれてないからさ………」

「えっ、?」

 

 相模さんが私に視線を送る。その意味は一体何か分からないが、さも意外そうな感じを受けた。私は視線を逸らし、明後日の方へと向ける。

 

「………いいですよ。有志団体足らないし、OGの方が出たりすれば、その、地域との繋がり?とかアピールできるし」

「きゃー!ありがとー!」

 

 相模さんにわざとらしく抱きつき、喜びを露わにする姉さん。しかし、すぐに体を離すと遠い目をして呟く。

 

「うんうん。卒業しても帰れる母校って素敵だよね。友達にも教えてあげようかなー。みんな羨ましがるだろうし」

「そういうものですか?」

「たまに無性に帰ってきたくなっちゃうんだよね。でも、ほら、3年も経つと世代が変わっちゃうでしょう?」

「………そういうことなら、お友達も誘ってみたらどうですか?文化祭なら先輩方も来やすいと思いますし、えっと、地域のつながり?みたいなのもアピールできていいですし」

「ほんと!?じゃあ、早速友達に連絡してみていいかな?」

「はい、大丈夫ですよ」

 

 相模さんが追加で有志を承諾しようとする。

 

「ちょっと、相模さん」

 

 私は慌てて彼女を止めようとした。どれほどの規模になるかも分からないことを無闇に承諾すべきではないからだ。

 

「いいじゃん。有志団体は足りてないんだし。地域との繋がりもこれでクリアでしょ?それにさ、お姉さんと何があったかは知らないけど、それとこれとは別じゃない?」

「っ………」

 

 相模さんの指摘に私は言葉を詰まらせる。彼女は手柄顔で、私に対して勝ち誇った笑みを浮かべた。

 

「…はぁ。分かったわ。けれど、有志団体の申し込み締め切りは1日たりとて延ばせないことは理解してちょうだい。姉さんも、分かった?」

「おっけー」

 

 せめてこれ以上最悪な事態にならないように振る舞う。姉さんは携帯を片耳に当てたままヒラヒラと手を振り、頷いた。それを見届けると、私は自席に戻って作業を開始する。各部署から送られてくる報告書に目を通して不備を確認。不備や修正点を見つけては赤で書き込み、それから担当者へと返す。それを繰り返すことで、最終的に相模さんの認可を受けて正式に一つの事案が終わる。書類を処理していくことしばらく経った頃、喧騒な会議室に相模さんの声が一際大きく響いた。

 

「みなさーん、ちょっといいですかー?」

 

 会議室の注目が集中する。

 

「少し考えたんですけど、文実はちゃんと文化祭を楽しんでこそかなって。やっぱり自分自身が楽しめないと人を楽しませるのなんて無理っていうか…。だから、ウチたちが文化祭を最大限楽しむためにはクラスの方も大事だと思います。今のところ予定も順調にクリアしてるし、少し仕事のペースを落とすっていうのはどうですかー?」

 

 姉さんの戯言を自分なりにまとめ、正当性を持ったように提案する相模さん。私の背筋に悪寒が走る。

 

「相模さん、それは考え違いだわ。今のペースはバッファを持たせるための前倒し進行で──」

「──いやー、いいこと言うねー。私の時も、個人個人でみんな頑張ってたなぁ〜」

 

 私の異議を無遠慮な明るい声で遮った姉さん。純粋な面持ちで過去を懐かしんでいる様子だ。咎める視線を送っても姉さんは気付いていないふりをしていた。

 

「ほら、前例もあるし。それに…、その時って凄く盛り上がったんでしょ?」

 

 相模さんの確認の視線に私は押し黙ることしかできなかった。兄さん姉さんの時の文化祭は確かにもの凄い盛り上がりを見せた。むしろ盛り上がり過ぎて地域のお祭りよりも盛況だった。

 私の態度を肯定と取った相模さんは、またも勝ち誇ったように表情を緩めた。

 

「良いところはちゃんと受け継いでいかなきゃだしさー。先人の知恵に学ぶっていうの?私情を挟まないでみんなの事も考えようよ」

 

 会議室にパラパラと拍手が鳴り出した。雰囲気でこの案は可決されたらしいことが分かった。もう私が何を言っても覆ることはないだろう。私はため息を小さく吐いた。自分でも酷く冷めた表情をしているのが分かる。

 

「本当に良いことを言うね〜。ね、比企谷くん」

 

 陽気な姉さんの満足そうな声がやけに耳に残る。それをシャットアウトしようと、私は意識を仕事へと戻した。

 

 

 

 

 

 ────

 

 相模さんの提案が文化祭実行委員会内に受け入れられて三日程が経った。日に日に実行委員会へ出席する人の数は減少している。余裕をもって行ってきた仕事には遅れが見え始め、出席していない人たちの仕事は他は他へと追いやられ、関係のない人たちに飛び火していた。そして、出席者は更に減るという悪循環を引き起こす。

 私は何とか獅子奮迅し、莫大な量の仕事に着手する。今日も仕事を両手いっぱいに持ち帰り、夜も作業を続けるつもりだ。低い重低音を響かせながら走行するバスの中で、窓の外に見える変わり映えのない光景をボーッと眺めた。小さな仕草で体を震わせる。少し寒かった。

 家への最寄りの停留所にバスが止まった。バスから下車すると残暑の影響もあって、バス内外の気温差にクラッと一瞬眩暈がした。かき氷を一気に口内へ流し込んだ時のように頭が痛い。

 私は気合を入れ直すために生温かい空気を深く吸い込み、そして吐き出した。手提げバックを持ち直して歩き出す。しばらくすると、喉の奥が段々と気持ち悪くなってきた。暑さのせいだろう。もうマンションはすぐそこだ。部屋に入れば、この不快感も拭い去れるに違いない。

 

「雪乃」

 

 マンションの目の前で一人の男性と出会った。俯いて歩いていた私は、その存在に声を掛けられて初めて気付き、顔を上げた。

 

「………兄さん」

 

 それは私の兄、陽人兄さんだった。私の抱えていた荷物がスッと奪われる。肩にかかっていた重さがなくなり、気持ち楽になった。

 

「どうしてここに?」

「この近くで今晩用があるから泊まらせてくれって連絡してたのに返事が二日も無いから心配になって来た」

 

 私は懐から携帯を取り出して確認した。確かにその旨の内容のメールが届いている。

 

「ごめんなさい。見れていなかったわ」

「………」

「………?兄さん?どうかしたの?」

 

 兄さんの訝しげな視線。私は首を傾げた。兄さんの右手が私の頬に触れる。ひんやりとしていて気持ちよかった。

 

「………兄さん?」

「雪乃、お前、熱があるぞ」

「………?熱?兄さん何を言っているの?人間ならば誰しもが熱を持っていて当たり前なのよ?一般的には36度前後とされているわ。おかしな兄さんね」

 

 熱があるなどと当たり前なことを言う兄さんに、私はクスリと笑って指摘した。

 

「あー、うん、重症だわ」

 

 ガシガシと後頭部をかく兄さんが小さなため息を吐き、私の手を優しく引っ張ってマンションの中へ入った。

 

「雪乃、鍵は?」

「はい」

 

 兄さんの指示で鍵を開けて、私たちはエレベーターに乗った。その時、エレベーターの初動での慣性力がいつもより重く感じられ、思わず兄さんの方へ倒れかけてしまった。

 

「えっ?」

「おっと、………大丈夫か?」

「………ええ、おかげさまで。ありがとう、兄さん」

「そのまま掴まってな。離すんじゃないぞ」

「………?どうして?」

「また倒れそうになるかもしれないだろ」

「むっ。私はそんなにヤワじゃないわ」

「どの口が言う──って、分かったから離れようとすんな。今だけは掴まってろ」

 

 ガシッと兄さんが私の腕をホールドする。仕方ない。誠に遺憾ながらも幼い頃からの習性で兄さんに従った。玄関を開けて帰宅。

 

「いらっしゃい、兄さん。夕食は簡単なものでいいかしら?前もって気付いていたら色々準備ができたのだけれど」

「雪乃、まずお前はベットで安静にしてろ」

「どうして?私は全然普通よ?」

「はあ………」

 

 キョトンとなる私と深くため息を吐く兄さん。兄さんが私に一歩詰め寄る。

 

「きゃっ!」

 

 生娘のような声が私から発せられた。思わず口を塞ぐ。一瞬の内に兄さんに横抱きにされ、私は動揺のあまりジタバタする。

 

「こら!暴れるな!大人しくしてなさい!」

 

 クイッと体をくの字に抑えられ、抵抗できなくなった。兄さんは寝室のベッドに私を座らせて、おでこ同士をくっつける。兄さんの綺麗な顔がすぐ目の前に。私はさっきまでより浮遊感を覚えた。

 

「取り敢えず制服を脱いで着替えな。色々準備するから」

 

 兄さんが私から離れて部屋を出て行った。ポーっとその背中を見送ると、途端にフラフラ揺れる頭。もう立つのも億劫になって、パタッとその場で横になった。ひんやりしたベットが心地良い。ようやく自分の体調不良を自覚した。風邪だ。

 コンコン、とノックの音がする。どのくらい時間が経ったかは分からないのだけれど、兄さんが戻ってきたようだ。既に返事をする気力も湧かなかった。

 

「雪乃、入るぞ」

 

 ソ~っと兄さんが入室してくる。その姿を薄ら眼で捉えて、私の意識は完全に落ちた。

 

 

 

 

 ────

 

 目が醒めた時に感じたのはひどい倦怠感だった。電気は当然点いておらず、真っ暗な空間に一人取り残されたような寂しさがなんとなしに込みあがってくる。仰向けだった状態からうつ伏せになり、両手でプルプル震えながらもなんとか体を起こした。背中に掛かっていた掛け布団がズルリと落ちる。ペタンと女の子座りで一息吐こうとするが、クワンクワンと揺れる頭のせいで意識をしないとまた横に倒れそうだった。力を振り絞ってベット岸に足を出し、スリッパを求めて動かすが、スカスカと何度も空振りしてしまう。もう裸足でもいいかと気付いたのは幾何かの時間が流れた時だった。

 

「………んっ」

 

 立ち上がって壁を伝いながら部屋を後にする。丁度その時、リビングの扉が開く。

 

「………雪乃、起きたか?」

「ええ。ちょっとトイレに」

「だいぶ症状が出てるな。何かあったらすぐ呼べよ」

「分かったわ」

 

 兄さんが再びリビングに姿を消し、私はお手洗いへと向かう。用を足し、ふらつきながら自室のベットへ戻った。ちょっとすぐそこまで歩いただけなのにいつもの数倍は疲れを感じる。ノックが聞こえた。

 

「雪乃、入るぞ」

 

 兄さんはお盆に様々な物を乗せてやって来た。机にそれらを下ろして、枕元に近付いた。兄さんの右手が私の首筋に当てられた。

 

「結構高いな。まずは体温計。自分でできる?」

 

 私はこくりと頷き、受け取って脇に挟む。

 

「ポカリとおかゆを持ってきたけど、食べられそうか?」

 

 今度は首を横に振った。食欲は湧いてこなかった。

 

「一口二口でも口にして寝た方が良いよ。最低限、ポカリは飲もうな」

 

 兄さんは苦笑いしながら、ベッドの傍に椅子を用意して座った。やがて体温計の検温終了の音が鳴った。

 

「………8度7分か。苦しいだろうけど、一旦起こすぞ」

 

 兄さんの左手が私の肩から首元を支え、右手が私の右肘を掴んで起こされた。ふらつく私の肩を掴んで安定させ、コップを渡して来た。しかし、プルプルとおぼつかない手が幾度もコップを持つことに失敗してしまう。

 

「すまん、ストローでも持って来たらよかったな。気が利かずに悪い」

 

 私の様子から兄さんが申し訳なく謝罪してくる。

 

「ほら、口を開けて」

 

 結局、兄さんの補助を経てポカリを飲んだ。しばらくしてふらつきが安定してきた頃、兄さんが私から離れた。机の上のお盆を持って自身の膝の上に置き、おかゆの入った茶碗からスプーンで少量すくった。私の口元に差し出してくる。私は首を横に振って拒否した。

 

「ちょっとだけでも」

 

 食べた方が良いのは分かっている。分かってはいるのだけれど、今は全然食べたくない。固辞し続ける私を見て、兄さんがスプーンを下げた。

 

「はあ………、雪乃、後悔するなよ」

「???」

 

 兄さんの唐突な言葉に、私は回らない頭を捻った。どうにも食べないことを叱るような口調でもないし、変なニュアンスが含有されてそうだった。

 

「陽人ぉ~、ここにいる~?」

 

 突然ノックも無しに、おさえめな音量でモンスターが現れた。それもただのモンスターじゃない。猛毒を使い、相手が苦しむ姿を見て楽しむような質の悪い魔女だ。私は本能的に身の危険を察知して身を潜めた。

 

「あ、雪乃ちゃん起きてたんだ。大丈夫~?」

 

 心配そうに私を窺う、非道さをヴェールに包んだ人の姿をした姉さん。見た目に騙されてはいけない。何度それで痛い目に遭って来たことか。私の体調を慮るなら、一刻も早く部屋から出て行って欲しい。

 

「ええ。心配しないで。そろそろ峠だからもう一度寝れば治るわ」

 

 それはそうと、どうして姉さんがここに?私の混濁した記憶が正しければ、ここは私のマンションのはずなのだけれど。

 

「よかった。ん?あっ、雪乃ちゃん全然おかゆ食べてないじゃん!」

「………欲しくないのよ」

「ダメだよ、雪乃ちゃん。ただでさえ雪乃ちゃんは体力がないんだから、ちゃんと食べないと治るものも治らないよ」

 

 腰に左手を当てて、右人差し指をピンッと立てる格好で私を叱る姉さん。

 

「あっ、もしかしてお姉ちゃんに食べさせて欲しい?もう!雪乃ちゃんは甘えんぼさんだなあ!はい、お口開けて?」

 

 兄さんの持っていたスプーンをひったくり、私の口の前にグイグイと強引に持ってくる。顔をプイっと逸らすことで応戦した。

 

「およ?………ふーん、やっぱり雪乃ちゃんは可愛いなぁ。………陽人」

「御意」

「ふえ!?ちょっ、兄さん!?」

 

 私は兄さんの左手で両手首を背中側で拘束され、兄さんの右腕で腰を抱き押さえられる。一瞬の出来事だった。ハッと気づけば身動きが取れない状態。まさに早業だ。

 

「あはっ♪雪乃ちゃん照れてるー!大好きなお兄ちゃんに押さえ付けられて嬉しい?」

 

 ニタニタと悪代官みたいな下卑た顔付きの姉さんを私はキッと睨む。しかし、それは姉さんにとって高揚に拍車をかける行動でしかなかった。

 

「雪乃ちゃんのその表情、私、すっごい好き。お腹の底がゾクゾクしちゃう。もっと見せてもっと見せて」

 

 ペロッと姉さんが下唇を妖艶に舐める。私はその姿に、我が姉ながら貞操の危機を感じた。

 

「陽乃、趣旨がズレてる」

「おっと、いけないいけない」

 

 兄さんが慣れた口調で姉さんを窘めると。姉さんはてへっと自分の頭を小突いた。

 

「はいっ、雪乃ちゃん、あーん♪」

「………」

「あーん♪」

「………」

「あ──」

「分かったから。自分で食べるから」

 

 てこでも曲げそうにない姉さんに根負けした私は、しぶしぶ妥協案を出した。

 

「ふふん。何のために陽人にそうさせたと思ってるのかなぁ?ほらほら、雪乃ちゃん、お口あ~んしておまんま食べようね~」

 

 この姉はっ。私は病人なのだけれど?

 

「姉さん兄さん、私を開放しなさい。お願いだからこれ以上疲れさせないでちょうだい」

 

 本当に疲れ気味に言うと、姉さんは流石に一旦表情を落ち着けた。

 

「からかってごめんね、雪乃ちゃん。でも、そんなに震えてちゃ一人では食べれないと思うよ。ね、陽人?」

「はいよ」

 

 兄さんが拘束を解いた。すると、フッと体の力が抜けて、ポスッと兄さんの上半身に倒れ込んでしまう。

 

「………」

 

 手の平を目の前に持ってくると、プルプルと痙攣しているのが明らかに見て取れた。

 

「はい。雪乃ちゃん」

「………………はむっ」

 

 私は屈した。不本意ではあるのだけれど、いささか姉さんの指摘通りだった。それならば、無駄な抵抗は疲労を増大させるだけにしかならない。おかゆを食べ始めると、少し前までは皆無だった食欲が湧いてくる。エネルギーを体が求めており、あっさりと一杯を完食した。

 

「ふふっ。体は正直だね、雪乃ちゃん」

 

 姉さんからフイッと顔を背ける。

 

「雪乃、風邪薬」

 

 兄さんが後ろから薬と水を飲ませてくれた。私は素直に従った。ぼーっと頭が働かなくなってくる。温かい食べ物を食べたからだろうか。

 

「雪乃、もう寝る?」

 

 私がコクリと頷くと、兄さんは優しく私を扱いながらテキパキと素早く横に寝かせた。おぼろげな意識の中、チラッと姉さんの顔が視界に入る。勝ち誇ったようなイタズラな笑みだった。純粋にイラっとした。姉さんから目を背けるように、私を拘束していた都合上ベットの奥にいる兄さんの胸元にすり寄り、シャツを握る。姉さんに一泡吹かせてやるために幼い頃習得し、刻み込まれた本能的な行動だった。こうすれば、兄さんは私が完全に寝付くまで私のモノだ。

 ちょっと間があって、兄さんの手が私の頭を撫で始める。キャイキャイと姉さんが何か喚いているが、流石の姉さんも私を慮ってか声量は小さい。それに、私は姉さんが何を言っているのすら既に聞き取れない程眠りかけていた。私は愉快な気分で勝ちを確信した。

 

 

 

 

 

 ────

 

 雪乃が陽人のシャツを握りしめた。

 

「雪乃?」

 

 陽人は末の妹の甘えてくる仕草を不思議に思い、問いかけた。しかし、雪乃は答えることなく、陽人から離れず規則正しい寝息をたて始める。妹のいたいけな行動に、陽人の顔が思わず綻ぶ。雪乃が中学の頃にあった事件からめっきりなくなった、純粋で大義名分など無い無条件な甘えだった。陽人は雪乃にさっと掛け布団をかけて、そのまま雪乃の頭を撫でる。陽乃は雪乃の突然の行動に、陸の打ち上げられた魚の如く口をパクパクさせていた。次第に陽乃の表情に陰りが見え始める。

 

「雪乃ちゃん?いつまでそうしている気かな?かな?」

 

 声量のおさえられたそれは、静ではあるものの怒号よりえらく底冷えするものだった。瞳のハイライトは消え去り、眼前の男女二人を鏡のように映していた。

 

「陽乃、もう寝てる」

 

 陽人はスヤスヤ眠る雪乃の長い髪の毛を、彼女の顔にかからないようにスッとかき上げた。

 

「は?そんなの関係ないでしょ?私の目の前でわざわざやってくれたんだからさ」

「…………落ち着けって」

「陽人も陽人だよ。私が見てるのに雪乃ちゃんに簡単に抱き着かれてさ。私が姉として演じてるのを知りながらそういうことを平気でするんだもん。ていうか、いつまで引っ付いてんのよ!」

 

 陽乃が雪乃に手を伸ばした。陽人は陽乃の手首を寸前で掴む。二人の視線が交錯した。陽乃の目が猫のように細まった。

 

「ふーん………、雪乃ちゃんを取るんだ」

 

 陽人は雪乃を起こさないようにシャツを握られていた手を優しく解き、ベットから下りた。

 

「どうして雪乃にすら怯える?ちょっと前からおかしいぞ。今の陽乃は──」

「──二年前にそっくりだって言いたいんでしょ?」

「………ああ」

 

 陽乃がフンッと鼻を鳴らした。

 

「そんなにアイツとのセックスがよかった?」

「それはもうケジメをつけただろう。関係ない。話を戻せ」

「はあ?関係あり過ぎるから言ってんじゃん」

「なら、それが雪乃に怯えるのにどうつながる?」

 

 ガッ!っと陽乃が陽人の胸倉を掴んで自分の見上げる顔前に引っ張った。

 

「とぼけるのもいい加減にしてっ!陽人が分からない訳ないでしょっ!」

 

 お互いの額がゴチ!っと音を立てて合わさる。瞬きすら許されない程の緊迫感が漂う。

 

「陽乃と雪乃は違う。穿ち過ぎは疑心暗鬼に繋がるだけだ」

「姉妹だからこそ、私と雪乃ちゃんは一緒だよ。雪乃ちゃんが今はまだ自覚していないだけ。幸いにも陽人が近過ぎるから」

「もし仮にそうだとしても、雪乃が自覚することはあり得ねえよ」

「それは私と陽人が雪乃ちゃんの意識を外に向けさせようとしてきたから。でも、何が原因で内に意識が向けられるかは分からないでしょ?特に今日みたいに心身が疲弊しきってる状況はまさにそう。私が急いで駆けつけなかったら本当に手遅れになってた可能性が高いんだよ?」

「連絡した時に慌ててた原因がこれか。てっきり雪乃への親愛の情かと思ってた」

「………私がどうして雪乃ちゃんの心配なんかしなくちゃいけないのよ」

「陽乃は良い姉を演じていると言ったな。だが俺にはそう見えたことはない。お前は演じてなんかいないんだから」

「別に、雪乃ちゃんのことなんて好きじゃないし」

「おや?俺は姉としての役を演じているか否かの話をしてただけで、そこに好き嫌いは介在させてなかったけど?」

「………陽人、怒るよ?自然な感じで話を逸らそうとしても騙されないんだから無駄なことをしないでくれる?」

「なら続きはリビングでだ。これ以上ヒートアップすれば雪乃を起こしかねない」

 

 陽人が妥協案を出すと、陽乃は眉を顰めながらも素直に体を離した。

 

 

 

 ────

 

「何か飲むか?」

 

 リビングに入った二人。

 

「紅茶」

 

 短く陽乃が返事をした。陽乃はそのままソファへとかける。チラッと時計を見やると午前一時を過ぎていた。キッチンで作業する双子の兄に意図して目をくれず、声量の控えたテレビを点けた。韓流ドラマが流れている。しばらくして、陽人がカップをソーサーを二セット運んで陽乃の隣に腰を下ろす。

 

「………」

「………」

 

 両者無言でドラマを見る。陽人がより深くソファに身を預けた。やがて、陽人の肩にポスっと陽乃の頭が乗った。

 

「………取り乱してごめん」

 

 キュッと陽乃が陽人の手を握った。陽乃は自分よりもはるかに大きい陽人の手の感触に、包み込まれるような安心感が湧く。だが、それは水のようにすぐに流れた。

 

「心配しなくても、俺は陽乃を捨てたりしねぇよ」

「でも、それでも、不安なの。分かってるのに、陽人は絶対私を裏切らないって分かってるのに、アイツに奪われるんじゃないかって嫌な予感が止まらないの」

「あの日からか?」

「うん………」

 

 陽乃は陽人の肩に顔をグリグリと押し付けた。

 

「陽乃」

 

 陽人は愛しい妹に問いかける。

 

「嫌な話かもしれない。だけど、聞いておきたいことがある。あの日、静ちゃんが奇妙なことを言った。私と陽乃の戦争だって。その場は疑問に思いながらも話を合わせたが、どうにも分からない。どうしてまだ陽乃と静ちゃんが争ってる?」

 

 陽乃が陽人にくっついたまま硬直した。

 

「俺と静ちゃんの関係が終わる時期、俺の知らない所で何があった?」

「………」

 

 ドラマの中で、役者の声と背景音声が雑音となって二人に聞こえた。

 

「………やだ。言いたくない」

 

 幼い子供のように、陽乃は陽人の腕を固く抑えて拒否を示した。赤ん坊が唯一無条件の愛を獲得した親を見失った時に泣き叫ぶが如く、最愛の恋人が遠方の地へ旅立つのをか弱く引き留めるが如く、そして、双子の兄妹がお互いの自立を阻むが如く。陽人は紅茶を口に含んだ。香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。

 

「………そっか」

 

 ポツリと陽人がテレビに目を向けて呟いた。陽乃は顔を上げて、悲し気に陽人を見つめる。おそらく陽人には自分が拒絶を示した時点でどんなことがあったのかを察せられたと確信しながら、一番隠し事をしたくない相手に対して一年半もの間隠し事をしてきた罪悪感に陽乃は苛まれた。これすらも奴の思惑に思えて仕方がなかった。

 

「今回も雪乃相手に嫌な役目をさせてすまんな」

 

 陽人は進展の見込みのない話題を転換させる。陽乃はその意図を読み取って、首を振った。

 

「ううん。もう慣れっこだからさ。昔からそうでしょ?私が雪乃ちゃんを蹴落として、陽人がギリギリで手を差し伸べる。私たちが外の世界を知った時に決めたことなんだから」

「でもまあ、今思えば言い出しっぺが好かれる役目ってのもなんだか違和感が拭えないし」

「んー、それは仕方がないと思うよ。性別ばっかりはどうしようもないし。同性じゃなかったら、私たちの方法では雪乃ちゃんを成長させる敵じゃなくてただの異物。それに、仮に陽人が同性でも陽人の適性はそっちだよ。私はコッチ側の方が性に合ってるからね」

 

 陽乃は段々と普段の調子を取り戻してきた。この切り替えの早さは陽乃の長所だ。陽人が笑って陽乃の頭を撫でる。すると、陽乃はゴロゴロと猫のように喉を鳴らして気持ち良さそうに目を細めた。

 

「でも、雪乃ちゃんが知ったら驚くだろうなぁ。雪乃ちゃんが私を敵として認識させるために、私がトラウマを植え付けてる間もわざと見えていないフリをしていたなんてさ」

 

 陽乃がニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる。

 

「こ~んなに大好きなお兄ちゃんが、実はトラウマのほとんどを裏で手を引いていた主犯だって想像できるかなぁ?今度の文化祭だって、私の気まぐれなんかじゃなくて陽人の指示だって信じられるかなぁ?」

「悪党顔負けの悪い顔だな。ノリノリじゃねえか」

「だって私、雪乃ちゃんが勝負に負けて悔しがったり、何かに困って動揺してるのを見るのが大好きだもん。ああいう姿は可愛げがあるのにね」

「雪乃は好きじゃないって言ってなかったっけ?」

「好きじゃないよ。気に入らないところはたくさんあるもの。特に、陽人に対して無意識に色目を使う雪乃ちゃんは一番嫌い。でも、妹だから多めに見てあげてるの」

「歪んだ愛なことで」

「むっ?陽人に言われたくないんだけど?妹を自分の計画で貶めてから、あたかも王子様みたいに自ら救うなんて普通やらないよ?」

「いやいや、俺は雪乃の成長を一心に思ったまでで」

「しかも、それをさも正当なことみたいに主張する時点で私より質が悪いからね。それに、雪乃ちゃんを助ける時の陽人は凄く満たされたような顔をしてるし。言っとくけど、あの表情は誰が見ても妹の成長を素直に願う兄の顔じゃないから」

「心外だな。俺は海よりも深く雪乃に同情してたのに」

「だから、その発端が陽人の時点でダメでしょ」

「いや、だって、俺は直接手をくだしてないし」

「直接も間接も一緒。陽人がどんな思考なのかは取り繕っても無駄。双子なんだから」

 

 陽乃はヤレヤレといった感じで手の平を上にあげた。

 

「まっ、今回上手くいけば雪乃は変われる」

「比企谷くんでしょ?期待してるのは」

「ああ。もしかしたら、彼は俺たちの期待以上の働きをしてくれる気がする。陽乃が落とした火種をどう対処するのか。雪乃では解決できないであろう類いの問題に」

「実行委員長やってる子が操りやすくて種は撒きやすかったなぁ。だいぶオツムの弱い子だったから雪乃ちゃんの体調が予想外に崩れちゃったけどね。というか、改めて雪乃ちゃん体力なさすぎでしょ」

「それだけ雪乃にしわ寄せが来てるってことだろ。分かりやすい構図じゃないか」

「前は失敗しちゃったもんね。隼人には期待してたんだけどなぁ」

 

 ポツリと陽乃が過去を回想した。陽人も同じく過去を振り返った。そして、嘲るかのように鼻を鳴らした。

 

「中坊には荷が重すぎたんだよ。ましてやアイツの性格ならなおさらな」

「およ?隼人を庇うんだ?逆切れして殴りかかって来られた相手に随分優しいね」

「あ?ああ、そんなこともあったっけか。どうでもよすぎて忘れてた」

「いや、陽人唇切れて血が出てたし、青アザなんていくつもあったんだからね」

「そりゃあ、グーパンを避けずにモロにくらったらアザくらいできるし、血だって出るだろ」

「避ければよかったじゃん。そのくらい造作もないくせに」

「ああいうのは正面で受け止めてこそ意味があんだよ」

「………男ってホント馬鹿」

 

 陽乃は呆れを通り越してため息を吐いた。

 

「あれからの隼人はつまんない。前みたいに輝いた目で陽人を見ることも無ければ、憎悪に駆られた目で陽人を見ることも無い。あれじゃ周囲の有象無象と変わらない」

「なんだ、えらく掘り返すじゃねえの。どうした、隼人が心配か?」

「まさか」

 

 陽人の挑発気味な言葉に、陽乃は即答で否定する。そしてぬるくなった紅茶を一口で一気にあおった。テレビのリモコンを手に取り、まだ途中のドラマを消す。テレビから流れ出ていた雑音がなくなり、リビングには二人の声が明瞭に聞こえるようになった。陽乃が陽人の膝に倒れ込む。

 

「撫でて欲しいな」

 

 陽乃の要求に、陽人は微笑して従う。ショートながらに艶やかで、美しい陽乃の黒髪を優しく丁寧に梳いていく。よく手入れされている髪は滑らかに絡まりも無く梳くことができる。

 

「毎日毎日飽きねぇの?」

「初めてしてもらってからずっと病みつき。ふふ、麻薬みたい」

「おいおい、害があるみたいに言うんじゃねぇよ」

「アハハハ、むしろ害しかないかもね」

「………なら止めようか?」

 

 陽人が手を引っ込める。途端、陽乃は仰向けになって陽人の右手を掴み、目線を合わせた。

 

「だーめ。私にはこれが無いと狂乱しちゃう」

「表現が中毒めいてるな。治療が必要か?」

「残念でした。もう既にステージ4に達してるから無駄だよ。お母さんを見てたら分かるでしょ?雪ノ下の女は皆この病を潜在的に患ってるの。表に出たら完治はあり得ない」

 

 陽乃は陽人の右手を自分の胸に抱え込んだ。

 

「陽人」

「なんだ?」

「………依存って怖いね」

 

 陽乃の声は震えていた。

 

「陽乃には俺しかいない。俺には陽乃しかいなかった。こうなる意味を理解するのに、あの頃の俺たちは幼過ぎた。もう引き返せねぇよ」

 

 陽人は陽乃を安心させようと、左手を彼女の頬に優しく添える。しかし、その行為とは対照的に口調はぶっきらぼうだった。陽乃は陽人の右手を離し、両手で彼の頬を包み込んで顔前数センチまで引き寄せた。

 

「ごめんね、陽人」

 

 おでこが合わさる。

 

「お前はイイ女だよ」

 

 脈略無く、陽人は言う。

 

「外も内も、陽乃より俺の好みを体現した奴はいねぇ」

「それはお互い様だよ。陽人そのものが私の好みだし、陽人は私の全て」

「俺の居場所は陽乃の隣、陽乃の居場所は俺の隣。死ぬまで変わらない」

「嫌」

「は?」

「死ぬまでなんてやだ。死んだ後も、ずっとずっと、未来永劫陽人は私のモノ」

「死が二人を分かつまでってよく言うけど?」

「そんなの私たちには何の障害にもならないから。だって私と陽人だよ?」

「ハハッ。違ぇねぇ」

 

 二人は目線を合わせたままクツクツと笑った。

 

「陽人」

「ん?」

「愛してる」

「俺もだよ」

 

 双子は同時に目を閉じた。

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