続きを所望してくれる方がいらっしゃったら、もしかしたら書くかもしれません。
ガイルのメインはもう一つの作品です。
もしよろしければそちらもご覧いただければ幸いです。
「はぁ……」
薄暗いバーのカウンターに座っている私は、マスターの用意したお酒を前にため息を溢した。店内に流れるジャズミュージックが、落ち着いた感じのこのバーの雰囲気にマッチしていて今の私をより感傷的にさせていた。
このバーには、今夜初めて立ち寄った。先程までは大学の友人の頼みで飲み会に、いわゆる合コンに参加させられていた。別段行きたくもなかったのだけれど、人付き合いは大切だから、みんなの私、みんなの思う雪ノ下陽乃は断ることを良しとはしなかった。合コンも私が行くのと行かないのとでは集まる確率(主に男子)が全然違うらしく、狙っている男の子がいる女の子たちからさりげなく助力を頼まれるのはよくあることだ。私が参加する合コンに来るような男子はほとんどが私目当てで来る。自慢じゃないけど、私は容姿が優れているから。あっ、容姿
バーの中には私の他にテーブル席に座っている二組の客がいた。カウンターには誰も腰掛けていなかったから、私はマスターの前に陣取った。このバーの勝手を知らない私は、マスターに一切を任せた。一人旅行が趣味な私は、初めて訪れるところでも動じたりしない。迷ったらそのお店の人に任せるのが一番だ。
このバーは、居心地が良かった。私は当たりを見つけたと思った。隠れ家的な雰囲気に、少ない客数、流れるジャズミュージックのセンス、マスターの寡黙さ、それら全てが今の私には安心できた。安心できたというのは、気持ちが和らぐということで、気持ちが和らぐということは、不覚に眠っていた、もしくは閉じ込められていたものが昇ってくるということだった。
私、雪ノ下陽乃は、仮面を被る完全無欠の人間だ。幼少の頃からそうやって演じてきた。求められる姿を、求められる通りに。成績優秀なんて当たり前、スポーツだって万能だ。そして何より、容姿端麗。常にトップカーストに位置し、男子女子問わず好意を向けられ、崇められた。告白された回数なんて、それこそ百から先なんてバカバカしくなって数えていない。今となればステータスでもなんでもなく、ただただ鬱陶しい記録に過ぎない。こんな
更に、私は家柄も申し分ない。ここらじゃ、雪ノ下の名前は、有名な名家だ。雪ノ下建設のトップで、県議会議員を務める両親。娘の私はいわゆるサラブレッド。私が演じるのは両親の影響が大きい。特に母親。母が求める通りに生活をこなして、求められる通りに結果を出す。私に自由なんてなかった。スケジュールは常に過密で、習い事をして、社交のパーティーに連れ出された。出席者たちの私を品定めするような下卑た視線を、昔から培ってきた仮面で受け流す。愛想を振り撒き、会話を弾ませる。大抵の人は、気分が良くなり、自分があたかも話し上手になったと錯覚して調子に乗る。私がそうなるように仕向けているだけなのだけれど。しかし、調子に乗り過ぎたジジイは厄介極まり無い。セクハラ発言は当たり前。何をトチ狂ったか、「倅にどうか?」とか言い出す始末。嘔吐感がピークに達するが、そこは私、なんやかんややわわりと断り、するりとその場から抜け出す。
本当の私を知っている人は、少ない。両親ですら、明確に知らないだろう。
まずは、妹の雪乃ちゃん。目に入れても痛くない私の可愛い可愛い妹。赤ちゃんの頃から私の背中をトテトテと追いかけてくる姿は可愛らしく、愛らしかった。でも、それが段々と憎くなっていった。私より自由を与えられて、私より好きに生きていけるのに、雪乃ちゃんは私の後を追っていた。私の後ろ姿しか見られてなかった。不器用に生きる雪乃ちゃんに危機感を覚えて、突き放し、成長を促そうとした。嫌われるのはツラいけれど、雪乃ちゃんが私とは違う境遇でいながら、私のようになるのはもっとツラかった。今はもう、雪乃ちゃんは私の背中は追っていない。あの子のおかげで、雪乃ちゃんは自分の意思で歩き始めた。結局、私では雪乃ちゃんを変えることはできなかったけれど、悔しいけれど、これでいい。目標が達成できているのだから、これ以上は望むまい。
次に、比企谷くん。雪乃ちゃんを変えた子。実際はガハマちゃんもその仲間ではあるのだけれど、根本的なのは比企谷くんだ。目が腐ってて、性格が物凄く捻くれてて、目が腐ってて、死んだ魚のような目をしている。その目に似合わず、根は優しい。それこそ誰にでも。見ず知らずの人にまで、自分を犠牲にして救おうとする。自分のことなんて、二の次三の次なんかじゃない。むしろ考慮にすら入れていない。だから、雪乃ちゃんたちとよく衝突していた。自分を犠牲することこそ最善策だと言い張る比企ヶ谷くん。自分が大事だと上辺で取り繕いながら、全くの真逆の行動をする、見ていて飽きない子。私と初対面の時から、私の仮面を見抜いた子。面白い子だった。何度か私の本性も見せた。いつも自分を犠牲にして、斜め上の解決策で、あらゆる問題に対処した比企ヶ谷くんは、雪乃ちゃんたちと過ごしていきながら、大切なものを失い、取り戻し、そして手に入れた。筆頭が雪乃ちゃん。そう。比企谷くんは雪乃ちゃんの彼氏。雪乃ちゃんが取られたのは寂しいけれど、比企谷くんになら、まぁ、いいかなっとも思う。……でも、ムカツク。今度また、ちょっかいをかけてやろう。私の雪乃ちゃんを奪った罪は重い。比企ヶ谷くんが私を裏で魔王とか呼んでいるのは知っている。なら魔王になってやろうじゃないか!比企谷くんのお望み通りにね♪
あと、ガハマちゃんや小町ちゃんなんかもいるけれど、ちょっと割愛。
そして最後は何と言っても、雪乃ちゃん以外で私を初めて見つけた人。静ちゃんだ。平塚静。私が総武高に通っていた時の一年から三年までずっと担任だった人。彼女には最初から化けの皮が剥がされた。それはもう、何から何まで、比企ヶ谷くんなんて目じゃないくらいにね。見破られるのは初めてだったし、何度か取り繕ったりしたけれども、すぐに、私は静ちゃんと二人っきりの時は、
正直に言う。私は比企谷くんたちが羨ましい。彼らは変わらない関係、変わることのない関係、崩れることのない関係、『本物』を求めていた。それは私の生きてきたこれまでを真っ向から否定する概念の関係だった。私は最初、そんな空言と鼻で笑った。…でも、見てみたかった。雪乃ちゃんたちがそんな空想まがいな関係を手に入れられるのなら、それを証明して欲しかった。淡い期待だった。私は幾度となく彼らの関係にヒビを入れ、壊し、修正をかけた。雪乃ちゃんが一層可愛く、綺麗になったのはいつだっただろうか。この私が思わず嫉妬してしまいそうだった。
そしてついに、彼らは
そして、彼らが本物を見つけると同時に当然私は崩れた。私は、自分で私を否定したんだ。表面的には何も変わらない。でも、私の中で何かが悲しい産声をあげた。大学の三回生になってもうすぐ一ヶ月が経つけれど、私の心にはポッカリと穴が空いていた。私が今見ている世界には色がない。物理的にではなく精神的に……。モノクロのように単調で、おもしろくもなく、ただただ退屈なものだ。
「お隣り、よろしいでしょうか?」
思考に耽る私を現実に引き戻したのは、綺麗で透き通った声だった。落ち着く声音で、不思議と聞き惚れるものだった。どこかで聞いたことのある気がする。
「はい。どうぞどうぞ〜」
私は条件反射のように了承した。声をかけてきた主は私に一言お礼を言って座ると、マスターに慣れている口調で注文した。常連さんなんだろうか。そんなことを思ったけれど、口に出すことはしなかった。私は盗み見るように隣りに目を向けた。
中肉中背の白いスーツを着た男性だった。髪は手入れが良く行き届いているのが分かる程きめ細やかで綺麗な黒色をしていた。室内なのにサングラスを掛けていて、なにより白いスーツには歪な青いヘッドホンをしていた。私は柄にもなく魅入ってしまっていた。
マスターが彼の前に飲み物をコトッと置くと、彼は「ん?」と私の方に向いた。私はずっと彼のことを見ていたのが恥ずかしくなった。サングラス越しに目が合っているのだろうか?薄暗い店内のせいで、私には彼の瞳は見えなかった。
「どうかしましたか?」
彼の声は、やはり、私の耳によく響いた。
「なっ、なんでもないです」
私は慌てて否定した。彼は「そうですか」とだけ言ってカウンターの前方に向き直り、飲み物を飲んで静かになった。彼はそれ以降、私に話しかけてくることはなかった。これまで、バーで一人でいる時に、横に腰掛けてきた人が話しかけてこないことなんてなかった。ナンパを受ける常連の私はそれを軽くあしらって来たが、今回はこの例は適応されなかった。
白いスーツにサングラス、ヘッドホンをした彼は、一杯だけ飲むと早々にバーを去った。私なんて隣に居なかったかのように。むしろ私の方が彼を意識していた。いつもと逆だ。こんなこと、今までで一度たりともなかった。
しばらくして、私も帰ろうとマスターに声をかけると、「お代は結構です」と言われた。
私は「は?」っとなって聞き返したら、彼が私の分まで払って出て行ったそうだ。訳が分からなかった。今日初めて会って、言葉を交わしたのも最低限、彼は私に一度しか目を向けていなかったのに、私の分まで支払って行った理由が理解できなかった。新たな手口だろうか?でも、そんな雰囲気はなかった。女性は視線に敏感だし、私は特に注意深いから分かる。私が察知できないほど巧妙に隠されていたのだろうか?……いや、それはない。だって私だ。雪ノ下陽乃だ。彼は私に恩を着せて近付こうなどと思っていないことは確かなんだ。
固まっている私に、マスターは朗らかに笑った。
「あの子は優しい子です。ここは男を立ててやってくれませんかな?」
「でも、……申し訳ないです」
「いいえ。あの子はいつもその席に座っているんですがね。同じ席に座る貴女に、自分と同じようにこのバーで良い時間を過ごしてもらいたいだけなんですよ」
「彼のいつもの席に座っちゃってたんですか…。なおさら申し訳ない気が…」
「それこそ先程も申しました通り、お気になさる必要はないかと思います」
マスターはガラスのコップを拭きながら、「あの子は優しい子ですから」と繰り返した。マスターは彼のことを“あの子”と言う。どう考えても“彼”と呼ぶ方が適切な風貌なのに。確かに彼は若かった。だけれども、“あの子”と呼ぶにはいささか違和感があった。でも、それを口に出すことはなく、私はマスターの言う通りに彼に甘えることにした。
帰り際にマスターから渡されたアメを舌の上でコロコロと転がしながら駅に向かって歩いた。もう終電間際だ。迎えを呼びのも気が引けたから、駅前でタクシーを捕まえた。結構な速度で通り過ぎる街並みをボーッと眺めながら、私は先程までの出来事に思いを馳せた。その対象はやはり彼だ。どう言う訳か彼の姿が声が脳裏にこびり付いて離れない。一目惚れだろうか?…いや、私はそんな乙女じゃない。私は雪ノ下陽乃。そんなにチョロい女なはずがない。クレオパトラや楊貴妃ほど、私は安くはない。
とりあえず、雪ノ下陽乃としてこのままでは終われない。私はこう見えて負けず嫌いなのだ。私だけがこんな一方的に考えてるなんて許せない。
だから私は、彼への唯一の手掛かりであるあのバーに足繁く通うことを決めた。