ほのぼの「ただいm」
シリアス「帰れ」
「レム、ラム。二人はもう寝た方がいい。テン君やハヤト君ほどではないにしろ、負った傷は浅くはないはずだ」
「いえ……、レムは、テンくんの治療が完了するまで、眠るわけにはいきません……」
「心配で眠れない、というわけではありませんが。レムがこの調子なので、ラムも残ります」
「お気遣い、ありがとうございます」と言葉を繋げるラム。彼女はロズワールが用意した椅子に深く腰掛け、襲いくる睡魔を振り払うように背筋を伸ばした。
その隣に座るのはレムだ。頭が上に下にと不規則に揺れ、船を漕ぎ始める姿は完璧メイドとして努めるレムには珍しい。それでも抗っているのか、伸ばした背筋は決して折れない。
ロズワールの言うことは正しい。今夜の悲劇において二人も相当な負担が肉体に掛かり、ひどく疲労している。マナを使いすぎたラムと、鬼化の反動のレム、双方が限界を超えている。
その状態で緊迫した状況を生き延びたのだ。精神は自然と緊張し、肉体以上に負担が掛かったはずで。
そして今。全てが終わった今、その緊張が解かれれば疲労は色濃く浮き出る。
現に、壁に背を預けるロズワールの正面では時折、瞼が閉じかける二人が見える。姿勢が崩れないようにと互いに寄りかかりながら治療が完了するのを待っている。
眠いはずだ。疲れたはずだ。それでも「起きてる」と言って聞かない。心配するロズワールの気遣いに感謝しつつも、二人は「寝る」とは言わない。
「あまり無理はさせられないがねぇ。まぁ、二人がそう言うのなら止めはしなーぁいよ。でぇも、無理だと思ったら直ぐに寝なさい。重ねるけど、二人だって浅くないんだぁーから」
「「はい」」
ピンと立てた人差し指を向けるロズワールに言われた姉妹の返事が重なり、以降、彼女達は再び睡魔との格闘に意識を集中させた。時が経てば経つほど勢力を増す睡魔には絶対に負けない気概。
そんな二人を見るロズワールは小さく吐息。ここまで頑なな態度を見たのは割と初めてのことで、可愛がっていた娘に反抗された親のような気分を場違いにも味わっていた。
その理由が男二人を心配してのことだと思うと、その気分は更に増してきたり。
随分と仲良くなったものだと思う。屋敷に来てから既に三ヶ月が経過——三ヶ月間もの期間で築かれた絆は固く、深く、強いもので。
厨房を通り過ぎると毎回のように楽しげな声が聞こえ、一対一での会話も弾み、人間関係としては文句のつけようがない程に構築されている。誰がどう見ても、文句なしの仲良し四人組。
表面上の付き合いかもしれない、とロズワールは思ったことが一度だけあるが。レムとラムの表情を見ていればそれは無いと断言できた。
楽しそうなのだ。とても、楽しそうなのだ。
あんなに楽しそうに会話をする二人は男二人が来る前では見たことがない。話し相手がいない事もあるだろうが、それ以前に喜怒哀楽が素直に表現できていなかったと言うべきか。
人として大切なものがレムとラムから欠落しかけていた。素直に感情を表現することが、二人から抜け落ちかけていた。
それが今はどうだろうか。テンとハヤトが心の奥に閉じこもった二人を表に引っ張り出し、二度と引っ込まないようにしてくれた。本人達は無意識だと思うけれど、彼らに彼女達は彩られた。
無色だった姉妹が青色と赤色に彩られ、もう色褪せることはない。自然に浮かぶ笑顔を輝かせ、もう陰ることはない。
加えてレムは恋に落ち、乙女心をその身に灯した。テンに心を奪われ、その人以外は受け入れないと心に決めた。
素晴らしい変化だとロズワールは思う。そういった意味合いでも、二人が屋敷に来てくれて本当によかった。
彼らが来てからロズワール邸は騒がしい。毎日、どこかで、誰かと、誰かが、賑やかになる。
その事実が、二人によって素晴らしい変化があったあったのはレムとラムだけではないとロズワールに伝えていた。エミリア然り、ベアトリス然り、パック然り。勿論、ロズワール自身も。
全員があの男二人によって変わった。二人の存在がロズワール邸で、とても大きなものになった。そしてこれからも大きくなるはずだ。
だから。だからこそ、
ーー損失の影響は並のものではないだろうねぇ
内側でそう呟き、呟きが含んだ感情をロズワールは鬱屈気味に吐息。考えたくもない思考が脳裏に過ぎったことで要らない結末が浮かんできた。
もしかしたら二人のうちどちらかが死んでしまうのではないか、と。
ベアトリスとエミリアが診ている以上はその心配はないと思うが、あの形を見てしまうとそう思わずにはいられないのだ。どちらかと言えばテンの方が。
ハヤトはベアトリスと協力してドラゴンを倒した様だから余計な被弾は最小限に抑え、加えて早い段階で応急処置を施されたため、命は安全圏内にいる。
が、問題はテンの方。先ほどチラッと見させてもらったが、ごく僅かな時間の中でも彼は冗談抜きで危険な状態にあると判断できた。
体の至る箇所に致命傷を刻まれているために流れた血の量も多大、右肩を貫通した刃が骨もろとも貫き、一番ひどいのは脇腹。
ベアトリスが言うには、脇腹の骨が砕ける寸前だったそうな。打撃の上から打撃を重ねられたような、鬼の力でも直撃したような折れ具合。治癒魔法を以ってしても完治の時間を早めることしかできないか。
まさか、その状態で戦い抜いたとでも。だとすれば彼の痛覚は既に壊れているだろう。
ひどい、ひどすぎる。魔女教徒の残虐性をそのまま表している彼の命は、余裕で安全圏内から外れているため、全然安心できない。
今夜が峠か。或いは、目を覚ますまでが峠か。
なんにしても、
「娘も同然のように可愛がってる子の想い人だ。死なれたら困る話だぁーよね」
着々とまどろみつつある姉妹を視野に入れながらロズワールは呟き、真横の扉に視線をやる。扉の先ではベアトリスとエミリアが二人の体に治癒魔法を施すために集中していることだろう。
——悲劇の幕引きから既に一時間が経過した。
今、ロズワールと姉妹はテンとハヤトが眠っている部屋の前で待機中。ベアトリスとエミリアの治療が完了するのをじっと待っていた。
ただじっと待つ。日付をまたいだ夜中だとしても寝ることはなく、二人の最終的な容体を確認するために時が過ぎるのを無音の空間で感じながら。
無音の空間は、人間に等しく考えることを強要させる。することもなく、しなければならないこともない状態でその空間にいると、ふとした瞬間から余計なことを考えてしまう。
ーー俺は、エミリアの騎士になる。彼女を守れるような立派な騎士なってやるよ!!
ふと、懐かしい記憶がロズワールに過ぎる。
二人が屋敷に来て一日目の朝、テンがエミリアの騎士になると誓った瞬間の記憶。あの時が、彼の出発点と言えるだろう。
自分の手を握りしめた彼の表情は覚悟に満ちながらも、どこか不安そうだった。それも仕方のないことかとロズワールは提案者でありながら少しだけ思っていたり。
何も知らない状況で「騎士にならないか」と提案され、「分かりました」と簡単に受諾する人間はそういない。ハヤトは例外だ、あの男は自信に満ち溢れすぎている。
テンの反応が一般的だろう。己に自信がないとはいえ、あの場で王選候補者のお付きの騎士になると覚悟を決めることは難しく、足踏みする理由も十分に理解できる。
人間関係もまともに築けていない少女に命を捧げるなど誰ができようか。自分の命を顧みずに飛び出せると誰が言い切れようか。ロズワールですら彼の立場だったら流石に即断はできない。
しかし彼はそう言った。不安な気持ちを覚悟で押さえつけてあの場の全員に誓った。ハヤトとは真反対が故に、自信の欠片もない彼は人生を剣に捧げると決意した。
——果たして、あの青年がここまで成長すると誰が予想できただろうか。
外に出しても何も恥ずかしくない。ハヤトと立ち並ぶ姿はエミリアを守護する双璧と表現してもいい。宮廷筆頭魔導師を戦慄させる精神力を宿す彼は、騎士として目覚ましすぎる成長を成した。
いずれはハヤトと共に自分の領域に足を踏み入れる存在。エミリア陣営の精神的な負担を大幅に軽減させてくれる支柱。
「に、なると確定していたはずなんだがねぇ」
正直なところ、かなり絶望的な状態だとロズワールは思う。テンが回復する見込みは低く。仮に回復したとしても、なんらかの傷痕は残るのではないだろうか。
最悪、二度と目を開けないかもしれない。頭では二人が診ているから大丈夫だと理解はしている。が、やはり今のテンは見る者にそう思わせて。
次期エミリアの騎士、ソラノ・テン——死亡。
ありえない。ありえてほしくない。テンの損失はエミリア陣営にとってはあまりにも痛手すぎる。戦力的にも精神的にも。
ハヤトを信用していないわけではない。寧ろ、危機的状況に陥った時、彼の方が全員の心を強く鼓舞してくれるはずだ。追い込まれた時ほど彼は光り輝くのだから。
しかし、テンはハヤトとは異なる方向性でこの陣営を支えているため、ハヤトがその分を補うことは期待できない。どちらかがどちらかの穴埋めをすることなど不可能なのだ。
テンの穴埋めはテンにしかできない。彼の死亡によって齎される被害は、彼にしかどうにかできない。事実、レムの心は彼でしか満たすことは不可能だろう。
加えて。ここ最近は、エミリアにもその気配が僅かながらに見られつつある。エミリア自身は気づいてないと思うが。無意識に、彼のことを気にかけつつある兆候が瞳に宿りつつある。
さて。この二人をハヤトが癒せるかと。
「無理だろうねぇ……。彼が亡くなり、限界まで憔悴した彼女達を癒せるのは彼の他にはいない。家族にも友人にも癒せない傷……そう表現するのがしっくりくる」
『それ』でしか癒せぬ傷というのは必ずある。青の称号を持つ治癒術師の力を以ってしても癒すことのできぬ傷は、皮肉なことに失った『それ』でしか癒せない。
レム然り、エミリア然り。テンが二人と仲良しなのは前々から把握していたが、どうやら一線を超えたのはレムだけではなかったらしい。
レムは意識的に堂々と超え、エミリアは知らぬうちに超えてしまっていた、と。それが愛に結びつくかは定かではないが。
少なくともレムは確定している。お付き合いを通り越して結婚まで考えてそうな勢いのある彼女は、テン以外は受け付けない。
「テン君。君は大変な少女達に好かれてしまったようだね。気付いているかい。君は既に、後戻りできない線を彼女達に踏み越えさせているんだよ。男として、責任は取りなさい」
互いの肩に寄り掛かるようにして眠りに落ちたレムとラムに毛布を掛けながら、ロズワールは意識の落ちたテンに呟く。届いてなくとも、届いていることを願って。
例えテンが二人の好意を意図していなくとも、彼にはその責任を取る必要があるのだから。心の拠り所になってしまった以上は、受け止める役目があるのだから。
彼が女性二人を受け止められる器でないことなどなんとなく察せれる。が、この状態になった今、そんな事を言ってられるわけがない。
故に、騎士としての成長と並行して、人としての器の成長も今の彼には求められている。
いずれ、
それは、ソラノ・テンが情けない自分から本当に変わる時がやってきたことを表すが。果たして、彼にその覚悟があるかどうかは不明だ。
「恋に悩める少女と恋を知らない少女の二人と、少女一人すらまともに受け止められない青年一人。うーん、なんともまぁ、狭い世界で濃い青春してくれるものだ」
若いって素晴らしい。などと意味不明な事を考え、ロズワールは失笑。自分の知らないところで男女関係が勝手に構築されたことで不意にも親心が反応した。
まさか、自陣営でそんな光景が見れるとは思わなかった。それも、ハヤトのような男らしさの権化ではなくテンを中心として広がり。
そのせいでこの先の展開が想像し難く、これでは想像妄想が逞しくなってしまうではないか。ロズワールも心の内が読めない男が二人に迫られた時、果たしてどうなるのか。
反応が、とても、気になる。
「テン君の情けなさが改めて浮き彫りになりそうな予感に、親心がくすぐられるものだぁーよね。彼を煽る要素が増えて楽しみになっちゃう」
「下らないこと考えてる暇があったら神様にでも祈ってる方がマシかしら。気持ち悪い笑みはしまうのよ」
「テン!」「テンくん!」と詰め寄られるテンの表情が「ひぇっ」と引き攣る光景を少し遠くから見ている自分、という構図を脳内で展開したロズワールが一人で勝手に笑う。
彼の真横にある扉が開かれたのはちょうどその時だった。声を聞いていたのか、ベアトリスの呆れたような声色が中から廊下へと突き抜け、直後に彼女の姿が現れる。
頬が疲労に垂れる彼女の横顔を見ると、テンの治療は終わったのだろう。続くようにしてエミリアが疲労感を纏いながら現れた。
「治療は終わったんですか。エミリア様」
以前までの考えを一旦断ち、ロズワールは表情に緊張を宿らせる——それ一つで真面目な雰囲気を纏い出した彼にエミリアは「うん」とゆっくり頷き、
「ハヤトの方はもう大丈夫。全部は無理だったけど、できる限りの傷は私が治したから。最後に確認したベアトリスが、後は自然治癒に任せればいいって」
「ハヤトの方は……。では、テン君の方は?」
「それが、テンの方はベアトリスが一人でやるからって聞かなくて。ベアトリスが言うには、大丈夫らしいんだけど。ちょっと心配で……。でも、そう言うならきっと大丈夫よね」
自身よりもベアトリスの方が治癒魔法の精度が高いことは知っているエミリア。彼女はベアトリスの態度には不信感を抱いたようだが、告げられた言葉を信じたらしい。
自分よりも精度が高い人がそう言うのだから、大丈夫だろうと。集中状態から解かれた彼女は小さくあくびを浮かべた。
態度から察するに、テンとハヤトは大丈夫なのだろう。深刻な状況ならもっと沈んでいるはず。
「そうですか」と息を溢すロズワールは安渡したように肩を下ろす。が、ベアトリスの不可解な騒動に細められた瞳は開きそうにない。
と、
「ベアトリス様ーー! テンくんの、テンくんの容体はどうなったんですか!」
「生きてますか。いえ、死に損ないましたか」
「お、お前たち! そんなに詰め寄るんじゃないかしら!」
ベアトリスの不可解に不安が残るロズワールの耳にそんな会話が聞こえてきた。声の方向には寝ていたはずのレムとラム、二人に詰め寄られるベアトリス。
毛布が床に落ちたことも視野に入らないのか。飛び起き直後のような勢いがある二人は、ベアトリスが後退りした分だけ詰め寄る。
刹那で睡魔が消し飛んだ彼女たちはベアトリスへの配慮が一切ない。最後には壁に背がつくまで詰め寄り、「どうなんですか」を拳を握りしめて連呼している。
そんな様子を見ていると、二人はテンとハヤトが心配な事がよく分かった。睡魔を我慢してまで知らせを待つ時点で分かっていたが、目の前の光景を見ていると尚更そう思える。
同時に、テンとハヤトの存在が二人にとってどれほど大きなものなのかが嫌でも理解できる。どちらかが欠けるような事があれば、きっと悲しむだろう。
レムも。表には出さずとも、ラムも。
となると。ベアトリスが、エミリアにテンを診させなかった理由は————。
「いいから離れるかしら! これじゃ話せるものも話せやしないのよ」
壁際に追い詰められ、慌てていたベアトリスが反撃に出ると、彼女の短い両腕が目の前の姉妹を強く無理やり押し退ける。
それでどうにかなるなら落ち着いて話せたが、残念なことに姉妹の頭に昇った熱は冷めず。視野の狭まった二人は尚も迫る挙動を見せ、
「テンとハヤトなら大丈夫よ。安心して」
ひょこっ、と。ベアトリスと姉妹の間に割って入ったエミリアが笑みを浮かべながらその進軍を止めた。途端、静かに騒がしかった二人の動きがピタリと止まる。
穏やかな声色が鼓膜に流れ、同等の穏やかさのある笑みが二人の頭に昇った熱を冷ましていく。ベアトリスと同じく治癒魔法を施していた彼女の言葉が、鼓動を宥めていく。
「しばらくは起きないと思うってベアトリスが言ってたけど。傷の手当ても終わったし、治癒が行き届かなかった箇所も何箇所かあるけど、自然治癒でどうにかなるわ。だから安心して。テンもハヤトも、もう大丈夫」
「ね、ベアトリス」と首だけ振り返るエミリアは姉妹の圧迫感に気圧されているベアトリスを見た。口早に説明した彼女は背中の幼女に同調を求めるように片目を閉じる。
テンに関してはどうか分からないが、ハヤトに関しては言った通り。全身を打撲した痕がやら爪が突き刺さった痕やらで悲惨だったが、応急処置が完璧だった。命に関わる事はない。
が、言った通り。テンに関しては「大丈夫」としか伝えられていないため、若干の懸念が残っていたりもする。
そういった意味合い。テンの容体を明確にしてもらう意図も含まれたアイコンタクトに、ベアトリスは圧迫感に詰まっていた息を肩を下ろすように吐息。
「安心するがいいのよ。峠は越えた、お前達が懸念する必要は無くなったかしら。目覚めは遅くなるけど、死ぬ事はないのよ」
いつも通りの澄まし顔で語られた二人の容体に足の力が抜けたのか、彼女の言葉を飲み込んだレムが「良かった……」と言いながらへたり込み。
ラムの拳から静かに力が抜け、僅かに開いた唇の隙間から弱音が吐息として漏れる。
二人を正面に、エミリアも安堵の息を無意識的に溢していた。外側から見てもかなりひどい状態だったけれど、彼女が断言するならこれ以上は心配する事もない。
途端から、ほっとした雰囲気を三人が纏い始める。外から見ても、明らかに張っていた頬が緩み、肩の力が抜けたと分かった。胸を撫で下ろす動作が添えられれば更に分かった。
「ありがとうございます、ベアトリス様。エミリア様。本当に、本当にありがとうございます」
テン生存の事実が思考から過ぎ去ったレムはそう言うと、綺麗に腰を折る。常日頃から客人に向けられる礼儀正しさが、想い人を救ってくれた人に向けられた。
数秒してレムの頭は上がる。否、エミリアが上げさせる。感謝の言葉を伝えられた直後から黙り込んだベアトリスを他所に、頭を下げられるほどでもないと思う彼女は「いいの」とレムの目を見ると、
「私だって、してあげたくてしたことだから。二人が助かって良かったわ。死んじゃったらどうしようかと思っちゃったもん」
「ロズワール邸の側に墓地を作るのは遠慮したいですね。男二人を土に還させるのはまだ早いですし。……テンテンはそうなってもなんら不思議ではありませんが」
「こら。縁起でもないこと言わないの。私だって怒る時は怒るんだから」
ふわりと微笑んだエミリアがレムの頭に手を添える中、口を閉ざしていたラムが当人が眠る部屋の扉に目をやる。
エミリアの怒る発言など鼓膜に届かない彼女は奥にいるテンにどのような感情を抱いたのか、「ふっ」と微々たる笑みを浮かべながら目を逸らした。
少なくとも悪い感情ではない微笑を顔の裏側に引っ込めるラム。彼女は未だに何か言っているエミリアを横目に「では」と、一度だけ手を叩いて場の空気を切り替えさせると、
「ラム達はこれで失礼させていただきます。テンテンと脳筋が死に損なったことも確認できたことですし、明日も屋敷の仕事がある事に変わりはないので」
「そうするといい。今夜は本当にお疲れ様、ゆぅっくり体を休めるといい」
「レムはテンくんを見てからーー」
「レム。それと、エミリア様も。今夜は疲れたでしょうから、早く部屋に戻りましょう」
「ちょっと、ラムーー?」
整った動きで一礼。定型の動作を終えるとラムは有無も言わさず名を呼んだ二人の手を引っ張っていく。抵抗する声を無視して、彼女は長い廊下を真っ直ぐに進んで、三階へと登るために曲がり角に姿を消した。
明らかに不自然。普段のラムならばまずしないような行動だ。礼をしてから数秒と経たずに三人の姿が視界から消えた。それが意味するのは一体何なのか。
レムとエミリアの抵抗の声が廊下の奥から小さく反響してくるが、彼女らの意志を無視した意味は何なのか。その場に残ったロズワールとベアトリスは合点がいかなかった。
「……じゃ、ベティーも帰るかしら。今日は色々と疲れたのよ」
たった今起こった出来事から気持ちを切り替え、ベアトリスは歩き出す。大きく背伸びする彼女は、「んーー」と喉を鳴らしながら手近な扉に手を伸した。その先には禁書庫が広がっているだろう。
今日は疲れた、本当に疲れた。疲れたなんて言葉で表していいわけがないくらいに疲れた。だから全てが終わった今、やっと眠れる。
扉の取っ手を握り、扉を開き、中に入る——、
「ーーベアトリス。テン君の容体は、どうなんだい」
寸前。
横から流れてきた声に体の動きを停止させられ、中に入る事はできなかった。禁書庫と廊下の境界線を越える手前で、踏み出すはずの足がピタリと止まった。
どうしてか。いつもなら軽く無視できる道化の発言を無視できなかったのは、どうしてか。否、答えなど既にはっきりしている。それを見抜かれるとは思っていなかったのだ。
思わず向けそうになる顔をベアトリスは抑える。が、そんな事をする必要もなかった。開かれた扉が壁となって自分とロズワールの視線が合わさるのを断っている。
一枚の扉によって互いが互いの姿を確認できないのは都合が良いのか悪いのか。微妙な構図の中でベアトリスは口を開き、
「言った事が全てーー」
「君がエミリア様にテン君を触らせなかったのは、彼の容体をエミリア様に、そして、エミリア様の口から知るであろうレムとラムに知られたくなかったから。違うかい?」
「ーーッ」
この瞬間、ベアトリスは現在の構図が都合が良いものだと確信した。自分とロズワールの間に扉という壁が一枚あるお陰で、動揺に跳ねた肩と見開かれた瞳を悟られずに済む。
言った事が全てかしらーーそう、ベアトリスは会話を終わらせるはずだった。口にした嘘が暴かれぬうちに自身の領域に逃げ込むつもりだった。
しかし、既にロズワールには見抜かれていると彼女は察した。挟んだ扉の奥で道化さの抜けた面が自分のことを一直線に見ていると、静寂の中で感覚的に理解した。
所謂、図星だった。
エミリアの言葉だけでベアトリスの思惑を見抜いたロズワールは半ば確信めいた鎌をかけ、見事にボロが出た。黙り込んだのが何よりの証拠。
返す言葉など少し考えれば数多とあっただろうに。その賢明な頭を使えば適当に丸め込めたものを。しかし彼女は沈黙し、それが図星である事を何よりも語っている。
「否定してもいいんだよ」
「したところでお前には無駄なことくらい分かってるのよ。相変わらずムカつく奴かしら」
自白したベアトリスの声色には少しばかりの熱が込められている。思い通りにいかず、腹が立った彼女の面には今、何が浮かんでいるのか。扉があるから窺えない。
恐らく澄まし顔だろう、などと考えるロズワール。寄りかかった壁に体重を乗せる彼は扉の奥にいるベアトリスを見透かすように目を細め、
「その優しさは時として毒となる。聞かせるべき事実もあったはずじゃぁないのかい」
「知った口を聞くんじゃないかしら。知らない方がいい事だって時にはある。あの男の容体はあの娘たちには酷な話なのよ」
「いずれ伝わる悲劇を先延ばしにしたに過ぎない。ベアトリス。その優しさは毒だよ。それも、とっておきの猛毒だ。延ばせば延ばした分だけ力を増す厄介なものに違いない」
言った直後、扉の奥でベアトリスが息を呑んだのがロズワールには分かった。極小の吸息音が無音の空間に響き、彼女がそれを頭の中で理解した事を静かに告げている。
その優しさは猛毒なのだ。三人の心を思っての嘘など今は必要ない。受け止めるべき事実、テンが支払った命の代償、悲劇が生んだ悲劇を知る必要が彼女達にはあるのだから。
確かに、彼女の行動が間違ってるとは言えない。寧ろ、心身共に疲労した彼女達に追い討ちを掛ける真似はしない方がいい。今はゆっくり休んでもらうのが最善だろう。
だが。彼女の行為は、三人の心を安堵させると共に、事実を聞いた瞬間に齎される絶望に拍車をかけることにも繋がる。
一度は大丈夫だと安心させられて、数日後に絶望の事実を知らされるなど、そんな話があってたまるか。
どうして本当のことを話してくれなかったのかと、怒鳴られてもベアトリスに文句を言う選択肢は与えられない。
それはロズワールとて同じだ。大切な従者の現状を知らずして主人を名乗れるわけがない。教え子の今を知らずして、心配が静まるわけがない。
「君の優しさは否定しない。現に、その気遣いが今の彼女達を安らかにしているんだからね。だが、状況が状況だ。伝えるべきだと私は思うよ」
「ーーーー」
声が続くほどロズワールから道化の気配が消えていく。目の前の事実と真摯に向き合う男の影が、声には確かに存在しつつある。
普段からやたらと道化じみた態度をとるロズワールがその心から道化を消した時、彼はどんな人間になるのか。扉の奥の男は、どんな顔をするのか。
「それにね、ベアトリス。私もテン君のことが心配でね。丹精込めて鍛えてきた教え子の今を、師である私が無視するわけにはいかないんだよ。君が胸に閉じ込めた悲劇を、見て見ぬふりすることは許されない」
答え合わせは今。口調、態度、声色、それら全てから戯れが消失し、扉の先にいるロズワールは至極真面目な顔をしていた。黄色と青色の瞳に混ざった感情は、たった一つ。
扉を閉めるロズワールがようやくベアトリスと目を合わせる。表情を知ることができなかった彼女は、予想通りの澄まし顔で。しかしロズワールは彼女の予想とは大違いで。
「ベアトリス。もう一度、聞こう」
邪魔していた壁が取り払われ、見上げるベアトリスと見下ろすロズワールの視線が交差し、思いが交差する。
そんな丸い瞳の少女、その胸中を覗き込もうとするように、ロズワールは目を細めて、
「テン君の容体は、どうなんだい」
原作に入ることを想定してこの物語を書き進めていますが。正直なところ、これが終わったら、それで完結していいんじゃないかなと思い始めてきました。
沢山のUAとお気に入りと感想と評価をいただいて、評価に関しては上がったり下がったりしてますが、私としては大満足です。(上がった分だけ下がる、まるで私の人生みたいですね。あはは)
こんな作者の自己満に付き合ってくださってありがとうございます。
できれば、もう少しだけお付き合いしていただけたらなと、勝手に思ってます。はい。