キリが悪い終わり方をしますが、個人的に課したノルマの一万文字を超えてしまったので更新です。あまり長すぎると私が大変なんですよね。
「まさか、君たちがこの部屋に帰ってくるとは。すこぉーしばかり予想外。私の認識では今頃、自室に戻っているはずだったんだけぇど」
声の方向に首だけ向けたロズワール。彼は外の世界と分断された世界に三人が許可無く入ってくるのを視界の中心に捉え、少々困ったような表情を面の表に浮かべていた。
横にいるベアトリスは小さく舌打ち。自分の気遣いが棒に振られた音を幻聴として鼓膜に捉えた彼女は、ムッとして唇を固く閉じ、眉間に皺を寄せている。
それらの原因は二人の視線が向いた方向。頭の片隅にもなかったレムとラムとエミリアの三人の姿だ。ラムを先頭に他二人が後ろから続き、落ち着いた足取りで躊躇なく部屋への突入を成した。
予想外——まさにその通り。ラムに無理やり連れて行かれたレムとエミリア。そして、連れて行ったラム。この三人はロズワールとベアトリスの認識の中では既に部屋に戻っているのだから。
が、どうやら認識を誤ったらしい。二人揃って決めつけたことで気配を察さなかった。少しでも三人が帰ってくる事を視野に入れていれば対策はできたものを。後悔しても遅い。
起こってしまったものは仕方ない。背筋を伸ばすロズワールは己の中で割り切り、
「盗み聞きとは、らしくないことをするじゃぁないか。エミリア様ならともかくレムとラムまでも。私は二人を、主人の話を無断で盗み聞く無礼なメイドにした覚えはないんだけどねぇ」
「申し訳ございません、ロズワール様。このようなご無礼をお許しください。処罰はいかようにもお受けします。ですが、罰するのはせめてラムだけに。レムはラムが連れてきたようなもの。どうか、この子の罰はご容赦ください」
メイドの心得を教えた教育者としては見過ごせない行為にロズワールの瞳が鋭く光るが、ラムの態度は崩れない。そんなことなど重々承知の上で扉を開いたのだ、罰を受ける覚悟はできている。
故に。腰を折り、頭を下げ、ロズワールという主人にラムというメイドは潔い。それでもレムの罰は見過ごせないのか、姉として妹を庇う庇護発言が口から出てきた。
元を辿れば自分が喝を入れなければ彼女は部屋に戻っていた。悲劇が呼んだ悲劇から目を背けたままだった。止めたのは自分だ。レムに罪はない。
罰を受けるのは自分だけでいい。
「待ってください姉様。それは、レムが姉様に無理やり連れてこられていたらの話です。そんなのは違います。姉様の背を追いかけたのはレムが自分でそうしたいと思ったから」
そんな姉の思いを妹は容易く砕く。
ラムの背中にいたレムが一歩前に踏み出ると、彼女は驚いたラムの肩が僅かに跳ねるのを横目にしながら力強く頷いた。
握りしめた片方の拳を胸に添え、一直線に見つめてくるロズワールに「確かに」と言葉を紡ぎ、
「姉様の言葉が無ければレムは部屋に戻っていたかもしれませんが、あの言葉のお陰でレムは事実と向き合う覚悟ができたんです。背けたかった事を受け入れる決意ができたんです」
「自分の意志で部屋に戻ってきたと」
「はい。レムは、レムの意志でこの場に戻ってきました。ですので、罰するならばレムも一緒にしてください。姉様だけに責任を背負わさせないでください」
「どうか、お願いします」とラムと同じようにレムは腰を折る。鏡合わせしたかのように姉妹の揃った体勢が誠心誠意、謝罪の意と覚悟の意を主人に表明する。
罰は承知の上。それでも話を盗み聞きしてまで部屋に戻ってきた。たったこれだけのことがロズワールには割と衝撃的で、彼は「ふぅーむ」と感慨深そうに喉を鳴らした。
基本、自分に反抗することのない二人がその行動を選択した事実。またしても娘に反抗された親のような気分になった。選択したことは勿論だが、従順な二人にその行動を選択
絆が深いのは理解していたが、二人の行動が理解を軽く飛び越えてきた。時間をかけて積み重なった絆はロズワールの認識を改めさせ、結ばれた絆は並のものではないと悟らせる。
しかし、それだけではなかった。
「レムとラムを怒るのは違うと思うわ。ロズワール」
不意にこれまで黙っていた最後の一人が声を上げると、声の主が腰を折る二人を庇うような態度で前に立つ。メイドに刺さっていた主人の鋭い視線を遮断し、代わりに盾となって自らが迎え撃つ。
エミリアだ。両手を軽く広げる彼女はロズワールと姉妹の間に割り込み、眼力で押さえつけようとしてくる男をキッと睨んだ。
「内緒で話を聞いていたことは謝る、ごめんなさい。でも、怒るのは違う。私達だってテンがすごーく、すごーーく心配で、そんな人の容体を知りたいって思うのは悪いことなの?」
「論点がズレてはいませんかぁーね。私が話しているのは、二人が話を盗み聞きした事について、ですよ」
「ズレてない、少しも外れてない。そもそも、盗み聞きの原因は二人が隠し事してたからでしょう。素直に話してくれれば遠回りする必要もなかったはずよ」
いつの間にか口調に道化が戻ったロズワールにエミリアは一歩も引かない。言葉の上から言葉を重ねて背中の二人を庇い続ける。
先程までの現実逃避ぶりが嘘のように彼女の意志は固く、通り抜ける声には確かな芯があった。ラムに喝を入れられて気合が入ったか、ロズワールの目から視線を一切逸らさない。
「隠し事、ねぇ。ベアトリスの気遣いをそのように言い表すのはどうかと思いますけぇど。それにぃ? 彼女の気遣いはエミリア様の為でもあるんですよ」
「知ってる。私がテンの容体を受け入れられないからって、そういうことでしょ」
「もぉちろん。大切な人が見るも無惨な姿に変わり果てた。彼に甘えてばかりのエミリア様からすれば、さぞかし受け入れ難い事実でしょう。だぁからベアトリスは貴方の心を気遣ってーー」
「私を甘く見ないで」
一言。
そう言った瞬間のエミリアの声色はロズワールが聞いたこともないものだった。信を置く存在に寄りかかりつつある少女とは思いずらい、堂々とした態度だった。
実際、ロズワールの瞳が映し出しているのは彼が心の中で認識していたエミリアの人物像を軽く破壊するもので。
睥睨するように細められた紫紺が語るのは『覚悟』の二文字。堂々とした立ち姿が主張するのは『対立』の二文字。覚悟を決めてロズワールと対立する彼女に迷いはない。
「ロズワールが言ってることも間違ってない。少し前……ラムに言われるまではそうだったから。テンの容体は酷いって知ってて、目を逸らした。受け入れたくなかった。嫌だったから」
「でも」と。言葉を切り、エミリアはつかつかとロズワールに歩み寄る。眼前、体一つ分まで間隔を縮めた彼女は見下ろす長身に一瞬だけ眼光を光らせると、
「ラムに言われて気付いたの。私はテンと約束したからその結果を受け入れる責任がある、って。テンが必死に果たしてくれた、約束の結末を知る義務がある、って」
「ーーーー」
「レムとラムも私と一緒。辛くても、苦しくても、怖くても、でも、受け入れるって覚悟してここに戻ってきた。もちろん、盗み聞きしたのは悪いことだけど。テンが心配だから」
口早に話すエミリアは饒舌で、心のままに言葉を続けた。自らの想いを。覚悟を。決意を。テンに向けた感情の全てを、目の前の男に余すことなくぶつける。
心配だから。黙っていられないから。逃げることなんてやっぱりダメだと思ったから。約束を取り付けた人として果たすべき責任がある——ラムの言葉が正しいと感じたから。
「もう一度言うわ。ロズワール、二人を怒るのは違う。絶対に間違ってる。心配な人を心配して何がいけないの? 大切な人の悲劇を内緒にされて、気になったから盗み聞きしたーーなら、盗み聞きさせる原因を作り出した二人はどうなの?」
言葉を終わらせ、エミリアは縮めた距離間を元に戻す。未だに頭を下げる二人の前に盾となるように立ち、軽く息を吐いた。
言いたいことは言い切った。正しいか否かは知らないし、良し悪しも知らないが、全部吐き出した。我慢しないでモヤモヤは出し切った。
その方が楽になれる。とは、テンと数十分間に渡る口論の末に学んだこと。想いを相手にぶちまける事で伝わることだってあるのだから。感情が関与する問題を前に発言の是非を問うことは不要。
エミリアの問いが静寂しか存在しない空間で反響する中、ロズワールは叩きつけられた問いを咀嚼。頭の中でゆっくりと彼女の発言を整理していく。
正直なところ、驚いた。まさか彼女の口からそのような発言が飛び出すとは思わず、甘えてばかりのか弱い女の子というレッテルが半分ほど剥がれる音が脳裏で小さく鳴った。
か弱い女の子——それだけでは終わらなかった。これでは、気遣ったベアトリスの優しさが裏目に出てしまったことになる。
「言われちゃったねぇ、ベアトリス」
「ベティーの気遣いもこれじゃ無意味だったかしら。思った以上に意志が固まってやがったのよ」
発言を飲み込んだロズワールが微笑を浮かべながら静寂を割り、額に手を当てて首を横に振るベアトリスの頬は呆れ気味に垂れ下がる。
二人ともテンの容体は隠しておくと決めたはずだが、それも崩れた。エミリアの覚悟とレムとラムの反抗を目の前にして、隠し通すことは不可能だと理解した。
ロズワールとベアトリスですら目を背けたくなる容体を三人の心が許容するか不安——要らぬ不安だ。目の前の少女達はその不安を押し殺してこの場に立っている。
ならば、自分達が何を言っても聞かないか。ベアトリスにテンの容体を教えろと言ったロズワールと同様に、話を聞くまでは絶対に帰らない気概だろう。
「なら仕方ないねぇ。本来ならば咎められる行為だが今回は不問にしてあげよう。私もすこぉし前までは同じ気持ちだぁったから。ーーレム、ラム、頭を上げなさい」
「「寛大なご処置、感謝いたします」」
揃う姉妹の声と共に下がっていた頭が静かに上げられた瞬間、どことなくほっとした雰囲気が二人の表情に僅かに漂った。
主に逆らう——頭では理解していても行動に移すとなると抵抗がないわけではない。それでも行動を貫き通したのは、忠誠心よりも感情が勝ったからだろうか。
なんにしても、金輪際一切このような事は起こらないようにとメイドとして肝に銘じる。姉妹の間でエミリアが「何が寛大よ。許されて当然じゃない」と、腰に手を当てているのを見ながら。
「なら、早速だけど。詳しい話を聞かせてちょうだい」
話し合いは終わった。場の空気を切り替えるエミリアが手を叩くと、彼女はテンが眠る寝台へと足を進める。ロズワールを説得するために少し時間を使ったが、ようやく本題に入れる。
が、
「最後にもう一度だけ聞きます」
歩み寄るエミリアの足を止めたのは不意に立ち上がったロズワールだ。エミリアの前に立ち塞がる彼はテンのことを彼女の視界から遮り、
「エミリア様。レム。ラム。テン君の容体は君達が思っている以上に悲惨なものだ。それでも本当に、本当に受け入れる覚悟はできてるんだね?」
「はい」
「勿論です」
「できてる」
名前を呼んだ順に視線を送り、三人に道化さの抜けた声で語ったロズワール。彼は最後の最後に忠告を一つしたが、コンマ数秒で同時に返ってきた反応は覚悟に満ちたものだった。
なら、これ以上は何を言っても揺らぐことはないだろう。少女達の力強い眼差しに「分かった」とだけ返すと、彼は道を開けて椅子に深く腰掛ける。
道は開けた。関門を突破した三人が寝台へと近づいていく。ロズワールとベアトリスが居る反対側へと足を進めて。
そして、
「ひどい……っ」
「魔女教徒……!」
「ーーーー」
三者三様の反応が、一度に混ざり合う。一眼見ただけでも悲惨さの程度が理解できるテンの姿に心が悲痛に震える。
思わず口元に手を添えたのはエミリア。覚悟をしていても自分の知りうる『悲惨』を余裕で飛び越えるテンの酷い姿に悲劇的に喉が震え、小刻みに紫紺の瞳が揺れている。
その名を忌々しげに吐き捨てたのはレム。閉じた唇の中で歯を噛み締める彼女は、愛する人の悲劇を受け入れる覚悟が整っていたために思考は真っ白に塗られず、そのせいで憎悪が静かに激った。
声を出さなかったのはラムだ。隣で二人が声を溢す中で彼女だけが音を発せず。無表情を保っている——スカートの裾を握る両手から力が抜ける気配はしないが。
見ただけでもこの有様。この調子でいられると詳細を聞かされた時の反応に懸念が出るが。
「……その心配はないようだねぇ」
注視していても気付けぬ程度で唇が動いたロズワールは呟く。誰にも拾われる事のない声を漏らした彼の前には、依然として悲劇の光景を目に焼き付けている三人がいて。
誰一人として視線を逸らすことはない。受け入れ難く、苦しいことだとしても。覚悟を砕かれそうな予感に思わず目を背けたくなったとしても。三人は眼下の結末から逃げない。
決して、逃げない。
これが結果だと。脳裏に刻み込ませる。
これが結末だと。心に言い聞かせる。
「ベアトリス。では、話の続きを頼もう」
「重苦しい空間で嫌な役目を押し付けるかしら。こうなるんなら付き合うんじゃなかったのよ」
今度こそ悲劇の導入が済み、ロズワールはラムに遮られた話の続きを真横に腰掛けるベアトリスに要求した。彼女の言う通り、寝台を挟んで三人を前にしながら説明するのもそれなりに酷だ。
それでも説明するために椅子から立ち上がる彼女を見ると、厄介そうに言いながらも関わったからには最後までやり通す姿勢が窺える。
立ち上がり、ロズワールを見た。意思を汲み取った彼が促すように頷く。
浅く息を吐き、三人を見た。詳細を聞くために部屋に戻ってきた彼女たちも促すように頷く。
この場にいる全員からの許可は得た。話を聞く体勢をとる四人にベアトリスは変わらずの澄まし顔のまま「まずは外側から」と前置きして、
「全体的に目立つ打撲の痣と火傷の痕は、ベティーがなんとかするから心配はいらないかしら。今日は無理でも、日を置いて治癒魔法を掛ける。なるべく傷痕は残らないようにするのよ」
「それはつまり。残ってしまうものも出てきてしまう、ということですか」
「努力するかしら」
つまり出てくる。全て元通りにすると断言しない以上はそういうことなのだろう。
そもそもの話、酷い状態から回復して今の状態があるため、これより先の回復が望めずとも文句は言えない。
が、回復したと言っても目も当てられない状態に変わりはない。打撲の痣は誰が見ても色濃く浮かび上がり、軽度ではあれど火傷の赤みは全身に赤みを掛けている。
できれば、ベアトリスが今よりも回復させてくれることを願うばかりだが。
「レムの治癒魔法でどうにかすることはできますか。少しでも和らげることができるなら、微弱ですが、なんだってします」
「私もやる。ベアトリスよりは劣ってるかもしれないけど、テンの傷が落ち着くならどんなに時間が掛かってもやるわ」
胸に手を当てて自らの存在を主張する二人がベアトリスを見た。願うばかりで終わらせない彼女達は己も力になる。否、力にならせろと目が強く語っている。
治癒魔法を扱えるのは何もベアトリスだけの話ではなく、一人よりも三人の方が早く治せることができるはず。彼が心身共に傷付いたら自分が癒すと決めている二人がその判断に至るのは早い。
「ベティーもマナを使いすぎて数日間は満足に魔法は使えないかしら。時間がある時でいい、代わりに診てくれると助かるのよ。けど、今夜は安静にしておくかしら」
「分かった」
「分かりました」
提案に乗っかるベアトリスにレムとエミリアの同意の声が重なる。この時、淡々と話しながらも割とベアトリスは助かったと思っていたりする。
ベアトリスという精霊は他とは少し毛色が違うことが理由で、他人からマナを分けてもらう事でしかマナを貯蓄できず。また、とある事情でマナを生み出すオドが身体の中には備わっていない。
要するに、彼女は使った分のマナが直ぐに戻ってくるわけではないということ。他から少しずつ取らないと貯蓄することもできず、魔法を満足に扱うことも困難になる。
そして今。
今夜の戦いでかなりマナを消費した上に、テンやハヤトに掛けた応急処置が重なり、更には大規模転移に莫大なマナを消費し、死にかけたテンの身体を癒したのがトドメとなった。
今、ベアトリス、魔法、使えない。
テンの命を安全圏にぶち込んだところで燃え尽き、これ以上使うと自分という精霊を維持する分のマナが消える。それは勘弁してほしい。
だから、屋敷の玄関でテンとハヤトにマナを徴収すると言ったのだが。二人がこの調子ではそれも期待はできそうにない。全くもって面倒だ。
尤も、レムとエミリアが力を貸してくれると聞いたから大きく焦る必要はなくなった。二人がいるなら少しばかり自分の魔法が遅れても大丈夫——だと思いたい。
ともかく。打撲と火傷は二人に任せる方向で行くことにしたベアトリス。彼女は「次に」と次の言葉に繋げる前に言葉を挟み、
「治癒魔法じゃ、もうどうにもならない傷痕があるかしら。魔法の力が及ばない、深く刻まれた痕がこの男には残ったのよ」
聞いた瞬間、四人の視線がテンの顔に注がれる。正確には顔のパーツの中の一つである右目の下、そこに横に走った一筋の斬撃痕。辛うじて眼球を回避したと見る者に思わせる一閃があった。
反応を察したのだろう。特に躊躇することもなくベアトリスは「そうかしら」と視線が収束した部分を指差し、
「右目の下。ここが確定で残る傷痕。あと、腹部が今のところ怪しいかしら。残るか、残らないか、治ってみないとハッキリしないのよ」
言い、ベアトリスは指摘した二箇所を順番に指差す。一箇所目はレム達も知っている右目の下。二箇所目は傷跡の有無が怪しい腹部。
前者が確定で傷痕として残ると聞いたレムの瞳が痛ましげに細められ、更には腹部を大きく切るように刻まれた切傷が怪しいと知って、震え出す下唇を噛み締める。
なんとなく、分かってはいた。けれどレムは、ベアトリスならなんとかしてくれるのではないかと淡い希望を抱いていたようで。どこか楽観視していたのかもしれない。
それもたった今、淡い希望に終わった。他でもない、テンのことを治療したベアトリスの口からハッキリと告げられる。
希望はあくまで希望にしかならず、現実は甘えを許すことはない。無慈悲に、残酷に、非情に、現実を突きつける。
「目の傷は……二度と消えないの?」
「消えない」
縋るように聞いてきたエミリアをベアトリスは断ち切る。覚悟を決めてきた以上は、事実のみを伝える彼女の声は冷酷だ。気遣いの一切を消し去る彼女は容赦なく事実を言い放つ。
伝えられたエミリアの心は穏やかではない。消えてしまいそうな程に薄く、弱々しい声で喉を振動させる彼女は数秒間だけ身体を強張らせている。
訪れた衝動を必至に押さえ込み、閉じそうになる瞼を懸命に開く。心が叫んでいると自覚し、それでも目は背けない。
レムとエミリアの反応を正面にしたベアトリス。彼女は「でも」と首を横に振ると、
「この程度の傷痕は、軽い傷なのよ」
途端、四人の表情が凍りつく。
どうしてか、その声があまりにも重いものだったからだ。重い雰囲気の中で更に重くなった声、深刻の中の深刻とでも言いたげな声が四人の鼓膜に確かな衝撃を齎す。
全身の打撲と火傷。傷痕が残る箇所が多数。この二つだけでも十分悲惨な目に遭っていると言える。重傷だと言える。のに、彼女は今なんと言ったか。
ーー軽い方なのよ。
『軽い傷』の概念が塗り替えられそうな予感に、四人の喉は声に震わされることはない。数秒後に告げられるであろう言葉を一言一句聞き逃さぬように黙っている。
場の雰囲気を最低まで沈めると、ベアトリスは先程とは別の部位——打撲と表現するには生ぬるい、紫色の痣が滲み出た右の脇腹を指差した。
「一番ひどいのはこの脇腹ーー肋骨。打撃部分から衝撃が波紋したように、肋骨の全体に罅が入ってるかしら。程度は軽くもなく重くもない、ちょうど中間なのよ。けど、重いことに変わりはない」
「加えて、この部分」とベアトリスは、恐らく打撃が直撃したであろう部分を人差し指で指し、
「衝撃が直撃した部分の骨が砕ける寸前だったのよ。色が明らかにおかしいかしら。治療の過程で、できる限り治癒したから今は心配もない……とは断言できない。安静にした方が身のためかしら」
寝台を囲む全員の視線が紫色の痣が生まれている脇腹に集まり、誰もが思いやりの欠片もない発言に息を呑む。
一番ひどいと言うだけあって、悲惨度合いも高かった。これで骨がどこも折れてないのは奇跡と喜ぶべきなのか、否、この中で喜びの感情が一ミリでも心に宿る人はそういないだろう。
「まさか、この状態でずっと戦っていたというの……?」
幕を閉じた悲劇の中で、テンのことを一番近くで見ていたラムならば尚更だ。彼の激闘を誰よりも知る彼女は喜ぶ代わりに戦慄し、意図せずに声が溢れる。
肋骨に罅割れ——どの程度の炎症を引き起こすか定かではないが、肺を覆う骨ならば呼吸をする度に疼いていたはず。一箇所ならまだしも全体に被害が及んでいるならば、まともに息も吸えないだろう。
そんな中で、彼はずっと戦っていたとベアトリスは言いたいのか。仮にそうだとしたら、テンの精神力の強さに場違いに驚嘆してしまう。
戦時中では呼吸が激しく乱れる事も多々、剣を振るために身を捩る事もあっただろう。動作の一つ一つに肋骨の痛みが絡んでくるとすれば、並の激痛では済まされない。
だとしても、テンは戦い抜いた。最後の最後まで戦いに戦い抜いた。魔女教徒の猛攻を生き延びたのだから、その善戦ぶりもさぞ素晴らしかった事だろう。
——その裏に、もがき苦しむテンがいると分かってあげられたら。彼の苦労も無かっただろうに。
「……レムの、せいです」
ふと、そんな声がラムの鼓膜を叩く。心の声がそのまま声となった言葉が、ラムの意識を己の内側から外側へと引っ張り出した。
声に釣られて横を見ると、どうやら彼女の声を耳にしていたのは自分だけではなかったと知る。他の人たちもレムの方に顔を向けて、彼女の発言を不審がっていた。
「レムが……レムのせいで」
呟くレムは自分に視線が集まっている事など知らない。怯えたように両手で身体を抱き、紫の痣だけを見つめる瞳を動揺に震わせる彼女は、空間を満たす静寂にすら呑まれる声量で己を責め立てる。
自分の世界に取り込まれるレムが見ているのは脳裏に過った一つの映像だった。『脇腹の傷』と聞いた瞬間に、なんの予兆もなくフラッシュバックした記憶が張り付いて離れない。
何度も、何度も、繰り返し再生される。十秒にも満たない記憶が頭の中で永遠と廻り、廻る度に無意識に呼吸が乱れていく。
それは、罪だった。自分が犯した、取り返しのつかない過ちだった。
流れる光景が己の心に罪を呼び起こさせ、一生忘れぬよう刻み込んだとレムは自覚した——自覚したことがレムにとっては最悪だったかもしれない。
「あの時、レムが……テンくんを」
心が罪を自覚すれば、レムは耐えることができない。正しく認識しなければまだ自分を保てていた可能性はあったが、もう遅い。レムの崩壊は既に始まっている。
覚悟した。決意した。それでもその事実を前にしたレムの心は崩壊を防ぐ事ができなかった。受け入れると決めたのに、許容範囲を情け容赦なく飛び越える悲劇に我慢は効果を発揮しない。
ダメだ。ダメなのだ。
呼吸が荒い。鼓動が恐ろしく速い。視界が赤と白に点滅している。世界が上手く見えない。体を支える二本脚から力が抜ける。何かの衝撃が脳を揺さぶる。掻き抱く両手が体を引っ掻き回す。その手の震えが止まらない。
今、自分は正しく息をしているだろうか。今、自分の体は震えが止まっているだろうか。今、自分は名を呼んでくれたラムに返事ができているだろうか。今、自分の心は崩壊してないだろうか。今、自分はテンの姿を見れているだろうか。
今、今、今、今————、
「ーーレム!」
「ーーーっ!」
負の連鎖に閉じ込められる寸前、レムの意識は前後に揺れる衝撃によって無理やり引き上げられる。肩を大きく揺さぶられた彼女は視界に映る光景を正しく認識したとき、眼前にラムを見た。
同時に自分の状況を把握する。いつの間にかへたり込んでいたらしい、足の力が抜けた直後に衝撃がきた理由に納得がいった。揺れる感覚は自分の前に座り込んだラムが肩を揺さぶっていたからだろう。
「レム……?」
眼前、すぐ目の前でラムが不安そうに自分の顔色を覗いていた。困惑と不安、そして焦燥がごちゃごちゃになった表情で自分の事を見ていた。
どうしてだろう。姉の姿を見た瞬間、訳も分からないまま感情が心の奥底から噴水の如く噴き上がってきた。やり場のない想いが喉の手前まで到達し、瞳の裏側がじわじわと熱せられた。どうして。どうして。
「レムのせい、レムが、レムがダメだったから……。レムが自我を保てなかったから……」
どうして。どうして。どうして——否。理由など分かっているだろう、今もずっと脳裏に光景が流れているのだから。受け入れろと、戒めのように永遠と繰り返されている。
廻り続ける映像にレムは自己嫌悪を止めることができない。だって、その傷痕は魔女教徒によって刻まれたものではないから。愛する人の身に刻まれた重傷の原因を知っているから。
「ぁ……ああ」
情けない声が弱々しく溢れる。自分を掻き抱く両手は震えは勢いを増していく一方で、震えの伝播した身体が自分でも分かる程に震え出した。
整えた心が恐怖一色に染め上げられ、途切れ途切れだが、声は尚も溢れる。
記憶が廻り。後悔の連鎖が止まらず。心の崩壊は無限に続く。受けた傷が魔女教徒のものだったら憎悪を向けて気持ちも落ち着かせられたのに、それもできない。
だって、その傷は——、
「姉様ぁ……お姉ちゃん……! レムは、レムは取り返しのつかない事を……っ!」
他でもない、自分がつけたものなのだから。
レムの脳裏に過ぎった映像は『想い人の声』のお話を読み直していただければ分かると思います。実は、お話に登場する過去関連の描写は全部過去のお話から持ってきていたり。
余談ですが。肉体的な損傷を描写する上で予備知識ゼロで挑むわけにはいかず、色々と検索していたら検索履歴が、
脇腹 骨 粉砕
肋骨 罅割れ どうなる
火傷 軽傷 完治期間
傷跡 残り方
痣 紫色 打撲
と、恐ろしいことになりました。それでも幼稚な描写であることに変わりはありませんが……。ご容赦ください。