原作開始前に100話を越えるリゼロの二次創作があると聞きました。はい、私のことですね。
テンの容体を話すだけで約五万文字以上、四話も使うって、どんだけゆっくり進むんでしょうね、この小説。それでいて原作開始前という……。
あ、今回は17000文字と長めです。一気に終わらせます。
ーーレムは、レムを許すことなんてできません。
あなたはきっと、レムの罪を許してくれると思います。自分の身に降りかかった不利益を全部無視して、レムのことを優しく包んでくれると思います。
だって、あなたは優しい人だから。自分のことなんてどうでもいいみたいに扱って、その代わりに周りの人たちを一番に扱って。「大丈夫だよ」と言って、レムの罪を喜んで許してくれる。
いいえ。許してくれました。あなたはレムに「許す」と言ってくれました。気を失う寸前でも、レムのことを気遣って、レムの犯した罪を「気にするな」と言ってくれました。
あなたの言葉にレムがどれほど救われたか、あなたは知っていますか。後悔と自責に苦しめられるはずだったレムが、あなたの全てにどれほど助けられたか、知っていますか。
実際に、あの時のレムはそれでいいのではないかと思っていました。テンくんの温かさに甘えて、自分の罪を流してしまいそうになっていました。
でも、やっぱりダメです。ダメなんです。
あなたの身に降りかかった悲劇を知って、レムは自分を許すことができなくなってしまいました。違います、許されることなんて、なかったんです。愚かな自分を許していいはずが、ないんです。
愛する人を傷つけた。一生を尽くして愛を捧げたいと本気で思える人を殺しかけた。添い遂げたいと、そう思っている人の体を壊しかけた、壊す寸前まで追いやった。
レムにとって、あなたという存在は光なんです。レムの心を温かく照らして、無色だった世界を彩ってくれた光——傷つけることは何があっても許されない。
だからもう、ダメなんです。行為をしてしまった以上は、ダメなんです。罪の過去は変わらず、己が犯した
レムはレム自身が大嫌いになってしまいました。
あなたを傷つけたレムが、あの時から何も変わっていないレムが、同じことを繰り返してしまったレムが、こんなにも弱々しいレムが。
レムは大嫌いです。
例え、あなたが許してくれたとしても、レムは自分の罪を許すことは絶対にできません。自分の愚かさが招いた罪を、一度はならず二度までも犯してしまったんですから。
ーーレムは、レムを許すことなんてできません。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
自分は一体、何度苦しめばいいのだろうか。
心が強く締め付けられる痛みが緩急をつけて襲いかかり、自分の精神が限界寸前に追いやられた事が感覚的に分かる。
今日一日だけで、人生で経験する絶望と苦痛の大半を感じていると錯覚してしまう程の悲劇に苛まれ、しかし終わりは見えない。
もうイヤだ。苦しい。悲しい。恐い——負の感情という感情が心の奥底から止めどなく湧いては、 溢れる。溢れるということは、心がそれで埋め尽くされているということ。溢れて、溢れて、心がそれ一色に塗りつぶされる。
今のレムの中にはそれ以外にない。温もりによって奪われていた罪を再自覚し、脳裏に廻り続ける光景に嫌というほど精神を削られていく。
自分はどれほど苦しめば、この悲劇から解放されるのだろうか。受け入れ難く、受け止め難く、まして直視することすら困難なそれから、いつ救われるのだろうか。
否、解放されることなんてないのだろう。自分という愚かな存在が許されることなんて、ありはしない。例え誰かが許しても、自分が決して許さないのだから。
犯してしまった罪から逃れることはできず、清算することすらできない過ちは、心を一生蝕み続ける。あの炎の夜に加えて、この血と殺戮の夜と、背負う十字架が重くのしかかった。
これはきっと、神様が自分に与えた罰なのだとレムは思う。一度でも水に流してしまえと思った自分への戒め、彼の優しさに甘えきっていた自分自身に対する糾弾。
罪の鎖がレムの体を雁字搦めに縛り付け、ただ無情に心を軋ませる。
「お姉ちゃん……! レムは本当に……本当に取り返しのつかないことを……っ!」
だから、レムは目の前の姉にそれらをぶつける。やり場のない感情の捨て場を、飛び込んだ胸の中で悲痛に叫び続ける。
それで楽になれるなら、この心も少しは軽くなったものを。負った十字架の重みは依然として消えず、故に泣哭はラムの胸元から強く漏れ出し、枯れぬ涙もまた漏れ出して止まらない。
言葉として発散する事で多少は軽くなるかもしれないが、所詮は小鳥の涙。発散する量を軽く凌駕する勢いで感情は溢れて、発散が追いつかない。
受け止めると覚悟した。受け入れると決意した。愛する人の身に降りかかった災厄の全てを許容すると意気込んだ——それでも耐えきれずに崩れてしまうものは、世の中にはあったようで。
今まさに、レムは痛感している。他でもない自分のせいで最愛の人に最も酷い怪我を負わせた事実。それ一つで固めた覚悟云々が最も容易く打ち砕かれたのだから。
「レムはどうしてこんなにも弱いんですか。あの時から何一つとして変われていない、変わる予兆すらない。変わった気でいただけで、あの時から一歩も前に進んでいない」
なら、自分が罪滅ぼしのために生きてきた時間は何だったのか。
今回だってそうだ。テンは自分を助けるために命を張り、自分のせいで深傷を負った。自分がもっと上手くやれていれば、こんな事にはならなかったはずだ。自分の、自分のせいだ。
なんでだ。どうしてだ。
同じ事を繰り返さないためにと努力してきたのに。姉の代わりになれるようにと生きてきたのに。これじゃ、罪滅ぼしどころか罪を重ねる一方じゃないか。
姉の方がもっと上手くやれた。事態の収束だって一人で片をつけていたはずだ。自分よりも姉は何倍も、否、比較する事すらできない程に凄いのだから。姉の背中は、いつだって遥か彼方に。
じゃあ、どうしてこうなった。どうしてこのような結果になった。答えは火を見るより明らか。自分に
自分のせいなのか。自分のせいだ。自分のせい以外にあるものか。
「やっぱりレムがダメだったから。レムの、レムのせいで、こんなことに」
「そんなわけない。レムのせいなんかじゃない。テンテンの傷は、誰のせいでもないわ。強いて言うなら魔女教徒のせいよ」
「でもッ! レムが自我を保てなかったせいでテンくんは傷ついたんですよ! その時の記憶は残ってるんです……! レムがレムであることを忘れていた時の映像が、今だって、ずっと頭の中に流れて……っ!」
凍え死んでしまいそうな程に身体を震わせるレムが後悔と絶望を声に出し、胸の中にそのレムを抱いたラムは妹の背中を優しく撫でながら、それ以上の優しさを持った声で語りかける。
しかし、姉の声は妹には届かない。頭を強く横に振るレムが嗚咽混じりに声を荒げ、事実を叩きつけるように叫ぶ。不規則に乱れた呼吸のせいで肺が忙しく上下し、嗚咽は時間が過ぎるほどに数を増した。
眼下で怯えるレム。この時、妹を痛ましげに見つめるラムは、妹を発信源として数多の感情が心に傾れ込んできていた。罪の再自覚が泣哭の着火剤となり、以降から次々と伝わってくる。
共感覚によるもの。否、共感覚など無くても解るに決まっている。
静かに、悲劇的に涙を流す瞳が。回った両腕に込められた力、骨が軋んでしまう程に込められた力が。嗚咽が大半を占める震え声が——妹の心を示す態度の全てがラムに教えている。
今日は感情の制御が上手くできない。自分も、レムも、姉妹揃って散々な日だ。いつもなら意図的に抑えれるはずの共感覚がこれ見よがしに姉妹の心を繋いで、想いを伝播させてきた。
想いだけでなく、思い描く光景すらも。
「レムの薙ぎ払った鎖が脇腹に直撃して、痛みに叫ぶテンくんの姿を、レムは覚えているんです。自分を忘れていた時の記憶が頭の中に焼き付いて、離れていかないんです」
共感覚を架け橋として記憶の欠片がラムの脳裏に伝わり、瞬間的に一つの光景が映し出される。見たものはレムが話した通りだ。
その時のことを、レムは一生忘れない。忘れたくても忘れられない。この先、夢の中に悪夢として何度も出てくるだろう。
ただ暴れ回ることしかできなかった自分に必死に手を伸ばし続けてくれた彼の姿が。心の中に入り込んできた名を呼ぶ声が。暗闇の中で膝を抱えて蹲ることしか叶わなかった自分に光をくれた彼の温もりが。
——自分の中の鬼が彼を傷付けた瞬間、手の中に得た、肉の感触が。
「許されることじゃない。許されていいことじゃない。テンくんーー愛する人を壊しかけてしまった事は、許されることなんかじゃ……!」
許されることなどではない。そう話すレムは己に言い聞かせるように、まるで「どうしてそんなことをしてしまったのか」と詰問しているようにラムには見えた。
後悔の念が積もる。背中に、心に、レムという少女に。そして、後悔の念は一つの記憶となって脳裏に鮮明に焼き付く。
何度でも言おう。その時のことを、レムは一生忘れない。と。
忘れられないから夢に出てきて、その度に恐怖で目覚めては、枕を濡らすのだ。一人、布団の中で涙を堪えながら夜を過ごすのだ。
救われることも。解放されることも。まして、許されることもないまま。
もし、救えるなら、解放できるなら、許してくれるなら、そうできる人がいるなら自分を助けてほしい。
本当の意味で、自分の心に深く根付いた歪みを破壊してくれる人がいるなら。自分が自分自身を許せるようにしてくれる人がいるなら。
そんな人がいるなら————、
「テンテンの言ったことをもう忘れてしまったの?」
「忘れるわけ、ないですよ」
そんな人は、いる。すぐ傍に、ずっといる。
自分の目の前で深い眠りについている想い人が、きっと自分にとっての『その人』なんだろうとレムは思う。その人であってほしいと強く願う。
だって、彼は自分のことを許すと言ってくれたのだから。どんなに酷い目に遭ったとしても「レムは悪くない」と言い続けてくれた。苦しいはずの痛みを我慢して、微笑んでくれた。
彼が自分のことを許してくれるなんてこと、もうとっくに分かっている。思い詰める必要などないなんてことくらい、言葉上では知っている。
けれど、
「分かっています……分かってはいます。けど、許せないんです。レムがレムを許すことができないんです」
けれど、その人を傷つけた自分をどうやって許すことができる。頭は理解しても心は理解しない。否、理解しようとしない。
無理だ。できるわけがない。例え、周りの人間が「レムは悪くない」と優しく寄り添ってくれたとしても、根底に刻まれた歪みが消えない限りレムだけはレムを許さない。
もし、それが消えたら。自分は自分を許すことができるのだろうか。彼が、自分の英雄になってくれたら——そんな日が訪れたら自分は救われるのだろうか。
この背中も、軽くなるのだろうか。
でも、彼を傷つけた自分を許せるわけがなくて。でも、彼が自分のことを真に救ってくれたらどうなるのか。考え方も変わるのだろうか。
分からない。もう、何もかもが分からない。
考えていると、やはり頭の中で感情の糸が複雑に絡み合うように想いがごちゃごちゃになる。彼を前にするといつも訪れる現象が、今のような状況にも影響を及ぼすとは、最悪だ。
「ーーーー」
その沈黙は誰のものか。勿論、泣き崩れるレムと、彼女を抱擁するラムを見守る他三人によるものだ。
痛ましげに目を細めるエミリアと、「どうすんだよこれ」とでも言いたげにロズワールを見るベアトリスと、視線から逃げるために瞑目したロズワール。その三人が保つ沈黙。
人一倍責任感を感じやすいレムが
「レムは悪くない」と、そう言うことは簡単だ。声帯を震わせて音を言葉にするだけなのだから。
が。果たして、その言葉が今のレムに安らぎを与えるかどうかと考えれば、否定的な言葉が浮かび上がる。レム自身がレムを許していない時点で、軽々しく口にしていい言葉ではない。
したとて、「そんなの分かってますよーーっ!」と一蹴りされて突っぱねられるに決まっている。姉の言葉ですらはね返したのだ、他の人間が何を言っても同じこと。
それに、そのことは本人が一番理解しているはずだ。許されると、悪くないと、分かっているだろう。他でもないテンに言われたのだから。
その上で今の状態。これはもはや、レムの心の問題としか思えない三人。テンを傷つけた自分という人間を許せるかどうかは、レムの心次第。
つまるところ、この問題は眠っているテンにしか解決することができない、ということ。傷付けられた人と話し合わないとレムの心はどうにもならない。
現時点での解決法は皆無。
「……やってらんないかしら」
一言。真横に座るロズワールですら聞き逃す声量でベアトリスが呟く。ため息の直後、憂鬱げに息をこぼした彼女は一度だけ手を軽く叩くと、
「話の続きをするかしら。いつまでも泣いてんじゃないのよ」
「ベアトリス……! そんな言い方することないじゃない! レムだって泣きたくて泣いてるわけじゃないのよ!」
乾いた音と共に淡々と告げる声が鼓膜に響いた直後、言葉の意味を理解する前にエミリアが噛み付いた。あまりにも配慮のなさすぎる対応に紫紺の瞳がギロリと光り、細められたままの双眼に赤色の感情が宿る。
眼光を尖らせるエミリアの刺さる視線に、しかしベアトリスの澄まし顔は崩れない。
話を始めた時から一瞬たりとも乱れない表情は、若干の敵意を孕んだ眼差しには動揺せず、面の裏に隠れた思考を全く読ませず、
「聞いてるの、ベアトリス? 私の言葉を無視しないでーーッ!」
エミリアの不満を煽ったのは確かだった。
余裕のある態度がエミリアの声を荒げさせ、静寂の空間を叩き割る怒号が部屋中を所狭しと乱反射。静かな空間だと彼女の声もいつも以上に鮮明に聞こえる。
当たり前だ。鮮明に聞こえるように力を込めているのだから。聞こえていない、などとふざけた事を言うなら今度は倍以上で叫んでやろう。
だって、今の発言は配慮に欠けすぎているから。自分の罪に苦しむレムにあのような言葉を無情にも掛けるなんて、彼女には慈悲という言葉が無いのかとエミリアは思う。
ロズワールも見ていられないと目を瞑って行動で語っているのに、ベアトリスは変わらずの澄まし顔。程度の差こそあれど、この場の全員が生じた悲しみを表に出しているのに、彼女はなんだ。
今だって。自分の反応を受けても態度に変化は見られなくて——よし分かった。もういい、そんな態度を取るならもう一度言ってやる。
そう思い。エミリアは小さく開いた口の中に声を発する分だけの酸素を取り込み、怒号の第三波目をぶつける————、
「ロズワールの言った事を忘れたかしら」
寸前。
ベアトリスの張りのある声が届く。沈黙を貫いていた彼女の不意な発言に、エミリアの口が第三波目を爆発させることはできなかった。
不発の言葉がゆっくりと喉を通って体の中に消えていくのを感じるエミリア。彼女の視線の先には依然として変わらぬ澄まし顔——苛立ちげに眉間に皺を寄せるベアトリスがいて。
「だから、ロズワールはお前達に忠告したのよ。受け入れる覚悟があるか、と。想像を超える悲劇と向き合う覚悟がお前達にはあるか、と。今更嘆いても遅いのよ」
「それは……そうかもしれないけど。でも! そんな言い方、ひどいわよ!」
「それで、お前たちはなんて言ったかしら」
左右の拳を握りしめながら怒鳴るエミリアにベアトリスは全く取り合おうとしない。ぶつけられる言葉を無視し、怒号を冷え切った声で真っ向から弾き返す。
尤も、それで弾き返せるほどエミリアは優しくない。レムとラムがこの状態になってしまったからには、自分が頑張らないと。二人のために自分が怒る。間違ってることだとしても関係ない。
エミリアの声に熱が込められる一方で、ベアトリスの声はひどく冷静だった。並の揺さぶりでは崩れない彼女は伸ばした右腕でエミリアを指差すと、
「覚悟はできてると言った。なら、何があっても受け入れるのが筋ってもんかしら」
「だからってーー」
「お前達は何のために部屋に戻ってきたかしら! 泣き喚くために戻ってきたんなら、今すぐ出て行くのよ!」
ーーだからってあんまりすぎる!
そう言い繋ぐはずだったエミリアの声は途中で途切れる。繋ぐ直前に声を大にしたベアトリスに遮られたのだ。
胸を殴りつけるような罵声。
「ーーーー」
言葉の上から無理やり言葉を乗せられ、驚いて肩を跳ねさせたエミリアの怒号はピタリと止んだ。出て行けと言い、自分を差していた指で扉を指差したベアトリスに彼女は言葉を発せない。
その通りだったから。ベアトリスの言っていることは正しいから。感情論に正論で返されれば、子どものように口ごたえする他に対抗手段はない。
事実として項垂れるレムを含めた自分達三人は、どんな悲劇があろうも受け入れると覚悟したのだから。それを大前提としてこの場に居る。
ベアトリスもそれを知っているから一切の容赦なく事実を告げていた。この場の全員がテンの容体を許容はできると思っていたから、本来なら隠すはずの事実をわざわざ話している。
「ベアトリス。それは少し言い過ぎじゃぁないのかい」
瞑目していたロズワールが目を開くと、彼は扉に向けた以降、下ろさないベアトリスの腕を強制的に下ろした。同時に吐かれた言葉には、僅かながらに感情が乗っている。
見下ろしてくる真横の長身にベアトリスは分かりやすく顔を顰める。澄まし顔が崩れると、表情豊かな彼女が内側から現れた。が、それは彼女の苛立ちをなによりも表している。
まさか、説明するだけでこんなにも手間取るとは思わなかった。気持ちは分からなくもないが、泣き崩れられるとは予想外。円滑に進むと思っていた自分がバカだった。
「お前もそっち側かしら。揃いも揃って感傷に浸りすぎーー」
「もし、ハヤト君が
そこから先が紡がれることはなかった。
大声で感情的に話すエミリアと違って低い声で淡々と話すロズワールの発言、それ一つでベアトリスの口は言葉を刻まなくなる。意図して止めたわけではない、勝手に止まった。
言い切るはずの声は断ち切られ、『ぎ』の口のままベアトリスは硬直。刹那も外されぬ黄色と青色の瞳に心の奥底を覗かれたような不快感を得た。
目を合わせた時間だけ見透かされる。咄嗟に顔を背けて視線を逸らし——逸らした方向が逆であったらよかったと不意にも後悔した。息が、無意識に詰まる。
だって、その方向には眠りにつくハヤトがいるのだから。何を思ってロズワールがハヤトの名を口にしたのかは
ーーもし。もしも、ハヤトが
薄く聞こえる心の声が鼓膜に問いかけ。投げかけられた途端、胸が苦しくなったことをベアトリスは感覚的に自覚した。根拠はない、確信もない。
ただ苦しい、それだけだ。
純粋な感情こそがなによりも心を揺さぶることはもう知っている。ハヤトに教えられたから。彼の真っ直ぐな感情を毎日のように向けられて、混濁のない笑みの、その美しさを知ってしまった。
知らなければこの胸も苦しくなかったのだろうか。
ーー感情に浸りすぎかしら。
先程、口にしかけた言葉の重みを理解することもなかったのだろうか。
「……悪かったのよ」
顔を背けたままベアトリスは口走りかけた事を素直に反省。
危うく撤回のできない発言をするところだった己を密かに咎め、彼女は詰まった息と一緒に言葉を飲み込む。流石に配慮に欠ける態度だった。エミリアが怒るのも無理はない。
珍しく謝ったベアトリスに、ロズワールは機嫌良さげに鼻を鳴らした。彼女もハヤトがテンのようになったと考えれば、レムの気持ちも少しは理解できたようだった。
そんなロズワールを真横に、ベアトリスは視線を元に戻した。ため息一つで心を整え、それからレムと、レムを心配するラムとエミリアを見る。
幾分かは気持ちも落ち着いてきたのか、嗚咽は既に治まっていた。先程の取り乱したような形は落ち着き、深呼吸を何度も繰り返す様子は己を静めているように感じられた。
「……どうしてもって言うなら、ここで話を切り上げてやってもいいのよ。まだ全てを話し終えたわけじゃないけど、残ってる分は明日にでも話すかしら」
「一旦、落ち着いてくるかしら」と。そう言ったベアトリスは再び扉を指差す。そこに先程のような尖りは感じられず、『休む』という選択肢をレムに与えていた。
厳しめな態度が緩和されたベアトリスの言葉がレムに聞き届けられる。今の彼女にとっては願ってもない提案だと発言者は思うが、
「聞きます。覚悟した以上は、最後まで聞きます。いま聞かないと、きっとレムは……」
レムは彼女の思いを弱々しく裏切る。ラムの胸から離れた彼女はゆらゆらと立ち上がり、
「話を続けてください。レムに、全てをお聞かせください」
「お前はそれで平気かしら」
「平気ではないです。ですが、聞かせてください」
「平気じゃないなら明日でもいいのよ」
「ダメです。今じゃないとダメなんです」
短く交わされるやりとりにベアトリスはもう一度だけため息。平気ではない精神状態の少女を前に話せと言われる自分の身にもなってほしい。
心苦しい、というわけではないが。今の状況をハヤトに置き換えたことで少なからず慈悲の感情が生じ、そのせいで抵抗は出てきた。この重苦しい雰囲気の中で説明しろと言われる方が、抵抗がないわけではないが。
そんな思いなど目の前の少女には到底伝わらない。「お願いします」と、今にも崩れてしまいそうな状態で頭を下げては、赤みがかかった目をぎゅっと瞑っている。
両サイドのラムとエミリアを見ても、続ける事を促すような眼差し。頷く動作が加わればベアトリスの苦悩は膨れ上がった。
今夜は色々と疲れることが多い。そんな思いから、ベアトリスは疲れた風に額に手をやり、
「辛くなったら言うかしら」
「お気遣いありがとうございます」
「取り乱されるのが勘弁してほしいだけなのよ」
それが、一時は空間を埋め尽くした悲劇にカンマを打った。
▲▽▲▽▲▽▲
「外側は脇腹で最後なのよ。次は内側かしら」
場の空気を整えたベアトリスの声が鼓膜に聞き届けられると、気を引き締め直したようにレムは息を吐く。感情の整理はまだつかないけれど、覚悟を決めたのなら最後まで聞く気概だ。
両隣のエミリアもラムも、真ん中にいるレムのことを気にかけつつ頬に緊張を持たせた。外側だけでもこの悲惨さなのだが、まだ終わっていなかったらしい。
内側の傷とは。果たしてどのようなものなのかと思う三人。が、ロズワールは大方予想がついているのか、「ふむ」と一人でに声をこぼすと、
「ゲートに何か問題でも?」
「当たりかしら」
宮廷魔術師という立場にあり、人より身近にマナを扱うロズワールだからこそ見当のついた傷痕にベアトリスは頷く。正直なところ、『内側』と聞いたら他に考えられない。
傷痕を見ても戦いの壮絶さは想像に難くなく、準じて魔法も大量に使用したはずで。それはつまり、ゲートを酷使したことを意味する。
燃費の良いゲートならばその負担は倍増したはずだ。流法という常時マナ使用状態を何時間と継続するならば尚更、酷使した事は明らかになり、
「どの程度の負荷が?」
「一日二日じゃ治らない負荷ーー少なくとも一ヶ月は魔法の使用は禁止かしら。歪み方が異常なのよ。酷使した上に酷使を重ねた歪み方、損傷していなかったことが不幸中の幸いかしら」
己の腕を組み、ロズワールは深く息を吐きながらその診断結果を噛み締める。損傷していなかった奇跡と、少なく見積もっても一ヶ月は魔法使用禁止の二つを天秤にかけ、どちらが重いか考えた。
ゲートの修復には個人差はあれど年単位で時間のかかることだ。マナとの生活を切り離すことができないこの世界を生きる上で、非常に厄介な障害を抱えたということに等しい。
そうならなかった事を良しと捉えるか、悪しと捉えるか。
「加えて、この男はオドを使った。どっちかと言えばコッチの方がゲートを歪ませた原因。命を削る行為をしてまで魔法を使った事が一番の傷痕かしら」
「それでも損傷しなかったことは、良しと捉えるべきなんだろうねぇ」
「質の良い事が裏目に出たかしら。普通のゲートだったら、ここまで酷使することも歪むこともなかった。マナを限界まで使い、それからオドを使ったのがトドメとなったのよ」
ゲートの質が良く、少ない量のマナで威力の高い魔法を放つ事ができ。更に、マナを貯蔵できる体積が大きい性質。それがテンとハヤトに与えられた、天才たちに牙を剥くための武器。
皮肉にも牙を剥くつもりが剥かれることになった結果として、今がある。枯渇寸前までマナを使用、その上でオドを使えばゲートが歪むのは当然の因果関係。
ゲートも身体的な機能と同じなのだ。使えば使った分だけ疲労し、許容を越えれば生命に影響を及ぼす前に歪みを危険信号として発する。今のテンは正にその、危険信号が鳴り響いている状態。
燃費が良く、貯蔵量の多いマナを使い果たす——どれほどの負荷がゲートに掛かったことか。重ねるようにオドの使用、損傷していても文句は言えない状況だ。
「少なくとも一ヶ月……。では、多くて何ヶ月になると?」
「二ヶ月か三ヶ月か。明確な時間は分からない。けど、最低でも一ヶ月間は様子見かしら。絶対の絶対に魔法は使わせない。ゲートに一切の負荷を与えない事が重要」
念押しするベアトリスに問いかけたラムは「そうですか」とだけ。他の言葉を生むことのない彼女は、注視しても呼吸による肺の運動が捉えられない程に小さな呼吸で眠るテンを見た。
そこまでして自分達との約束を守ってくれたと思うと、やるせない感情が音も無く込み上げてくる。命を削ってまで帰ってきてくれたと考えると、感情は熱せられた。
少なくとも一ヶ月。なら、本来の時間はもっと長いのだろう。ゲートの歪みがどのようなものなのか診たわけでもないラムには理解できないが、無視できる事ではないのは分かる。
「……なら」
ふと、ラムは思った。
大精霊であるベアトリスがここまで深刻になる傷痕は簡単には消えない。なら、外の力を頼るのも一つの手ではないか、と。
それは、治癒魔法を扱わせたら右に出る者はいないと言われる治癒術師。その魔法に限定すれば大陸でも有数の実力者として名を馳せている治癒術師。
その名は、
「フェリックス・アーガイル。『青』の称号を持つ治癒術師に頼るの事を選択肢の一つとして考えてもいいかと、レムは思います」
「ラムも同意見です。これほどの傷痕が簡単に消えるとも想像しづらいですし、王立治療院……外の力を借りるのも一つの手ではないでしょうか」
その場合だと当然のように対価を支払う必要があるが、テンと天秤にかければ双子姉妹の意見は一致していた。ラムと同じ事をレムも考えていたらしい。
フェリス・アーガイル——その名を知らない者はこの世界にはきっと存在しない。
類い稀な
その力を以てすれば、テンの容体も回復するのではと。安直な考えだが、間違っているわけでもないだろう。ただ、そこに至るまでの過程が少し面倒なだけで。
提案したメイド二人の視線が向くのは主人であるロズワールだ。己の意見を通すにはまず、彼の許しを得るところから一歩目を踏み出すのが普通。
普通、なのだが。
「んーー。それはやめた方がいいと思っていたりしちゃうんだよねーぇ」
今回は、一歩目から躓いた。
テンの身を案じるなら許諾してくれると思っていた二人からすれば、想像から外れた返し。顎に手を当てる彼は「ふぅーむ」と悩む素振りを見せながら喉を低く唸らしている。
どうしてなのか。理由が分からずレムは思わず「どうしてですか」と強めに返し、ラムは首を傾けて困惑の態度。
そろそろ、娘に反抗される親の気持ちにも慣れてきたところでロズワールは「考えてごらん」とテンを指差し、
「テン君がそれを望んでいると思うかい?」
「どういうこと?」
「王国……いえ、大陸最高峰の治癒術師に頼る事に反対はしませんが、その場合には必然的に『対価』が必要になる。これは分かりますよね、エミリア様」
「もちろん。でも、それとこれがどう繋がるの?」
「果たして、『対価』を支払ってまで自分の身体を治してほしいとテン君が思うかどうか、ということですよ。青の力を借りるのですから、並の対価では済まないでしょうねぇ」
レムとラムの言葉の続きを語ったエミリアにロズワールはすらすらと言葉を並べると、疑問を投げかけたエミリアを含めた三人が揃って表情を曇らせた。
自分の言いたい事は伝わったとロズワールは三人の表情から察し、
「彼の性格上、そんなの要らないよ、とでも言うでしょう。傷痕が重いことなど承知の上で戦い抜いたのですから。言い方が悪ければ、余計な真似をするな、とも言われちゃう可能性も捨てきれません」
「他人に迷惑をかけたくない、この男なら考えそうな戯言かしら。自分を犠牲にして他を救う、見上げた自己犠牲気取りな奴なのよ」
「それが彼の美点であり弱点だぁーからね。ですから、判断を早めるのは後にしても良いかと私は思いますけぇど。少なくとも命に関わる危険からは脱している、ベアトリスの言った通りに一ヶ月間の様子見を経てからでも遅くはないと考えますが」
言い立て、言葉を重ねるロズワールとベアトリスが顔を見合わせる三人の様子を窺う。言われて納得してしまったのか、反抗の言葉が返ってくる気配はしない。
確かに、テンなら言い出しそうな気が三人にはしている。彼だって己の傷痕が軽くないことなど覚悟としているはずで、目覚めた時に嘆くような事はしないだろう。
逆に、治癒を受けるために対価を支払った方が嘆く気がしてならない。「どうして俺なんかのために……」とか、「なんでそんなことしたのさ」とか、「別に要らなかったのに」とか。色々と小言が増えそうな予感。
彼の性格をよく知るからこそ、事後報告をした場合の反応がなんとなく分かる。彼はそのような人間なのだから。
けれど、できることなら治癒を受けさせてあげたい。
自分達のために頑張ってくれた人に恩返ししたいと思うのは、心配な人を気遣って助けになりたいと思うのは、悪い事ではないはずだ。
けれど、それは自分勝手な押し付けではないかと思うところもあって。
二つの感情に板挟みになる。身を案じるなら対価を差し出してでも治癒魔法を受けさせるべきだが、テンの意志がそこに反映されていないことを無視しするわけにもいかない。
では、どうするべきか。
「保留、ということにしませんか。この話の決着はテンテンが目を覚ましてからに。本人の意志が聞ける場が整い次第、話をつけましょう」
「……分かりました」
「テンがなんて言うか分からないもんね……」
妥協案として話を着地させたラムが口を開くと、同意する声が二つ上がる。表情の曇りは晴れないものの、無理やり話を飲み込んだレムとエミリアによるものだ。
納得はしていない。していないが、この場で答えを出すことは困難だと思ったのは共通の理解。ひとまず思考の片隅に置いておくことにした。彼が目覚めたら、またど真ん中に持ってこよう。
ラムが話を終わらせた事で、自然と四人の視線が再びベアトリスに集まる。ゲートの傷痕は理解した、なら次は何なのかと目が言葉を放っていた。
泣かれるよりはマシか、どうなのか。曖昧な考えはさておき、ベアトリスは「じゃあ、最後」と言葉を繋げて、
「これは、あくまでベティーの憶測だけど。この男の傷の多さから察するに、流れた血の量はベティー達の想像を絶するはず。目覚めてから暫くの間は重度の貧血に悩まされる……はずかしら」
「正確にはどの程度の症状なの?」
「立っているのもやっとか、或いは、立つことすらできないか。憶測だからなんとも言えない。実際にこの男が目覚めないと分からんかしら」
そもそも、貧血が起こらないことだってありうるが。テンの体を治療したベアトリスに言わせると、それはあり得ない。
切傷と裂傷箇所が全身に刻まれているのに加えて、右肩に刃物が貫通したのだ。出血の量は出血死を彷彿とさせる程に多く、口には出さないが、生きている事が未だに信じられない。
自分が応急処置を森で施した時点でこの有様だ。本当に、いつ死んでも、なんら不思議ではなかった。尤も、現在の状況は死んでいるのと遜色ないと言えなくもないが。
口が裂けてもこの場で言うことはない。
「流れた血の量が多すぎる、か。そう言われると、生きているのが不思議でしょうがないねぇ」
「精神力の賜物、とでも言うかしら。身体が朽ちる寸前でも心は朽ちなかった。仮に魂が折れようものなら、この男はとっくに死んでたのよ」
軽く口にするベアトリスだが、割と洒落にならない話であることを彼女は知っている。
森の中で応急処置を掛けていた時、あの時は流石にもう助からないかと思った。助かると口にしていながらも生きるか死ぬかの瀬戸際の彼を診ると、そう思わずにはいられない。
生きていることが奇跡。無事ではないが命のある形で帰ってきた事実に驚愕。自分自身にも絶大な効果を齎した『想いの力』が彼の命を繋いだようで、
「時として意志の力は理すらも超越するとでも?」
「んなわけないかしら。でも、少なからず影響するのは確かだったのよ。心が折れなければこの男
「そぉれはもちろん、ゾッとする思いですとも。この子達には驚かされるばかりだぁーよ」
不気味な笑みを浮かべながらロズワールは、二人を脳裏に思い浮かべる。思い浮かべると、その笑みはいっそう深まった。
何があっても気を失うまで立ち向かう気迫には底が知れず、圧倒的な強者に挑む心構えが整いすぎている彼らには怯むという文字が存在しない。故に、負けるはずがないのに相手に負けるのではないかと不安を抱かせる。
ロズワールにその感覚を抱かせるのだ。それも、毎回のように。二人の精神力が化け物じみていることは火を見るより明らかであり、それが今回の結末を掴み取った、と。
「ま。生きてることが素晴らしい、と評価しておこうかぁね。ベアトリスの治療があったとは言え、これ程の傷を負いながらも戦い抜いたんだぁーから、賞賛に値する」
「褒めるべきじゃないと思うかしら。……死んだら全部おしまいなのよ。死を前提とした戦いなんて、ベティーは御免かしら。死にかけの男を治療するのも御免なのよ」
「心中察するよ。損な役回りをさせてしまったことは申し訳ないと思っているが、君のお陰で助かった命もある。偽り無しに、君の存在が最悪の悲劇を避けたと言ってもいい。感謝するよ、ベアトリス」
不意にも道化さの抜けた声に反射的にベアトリスは立ち上がる。これ以上ロズワールらしからぬ態度をされると、
同一人物ではないのにも関わらず、まるで、古き友人に言葉を掛けられているようで。妙な既視感に、余計な感情を抱かぬうちにとっとと退出する事にした。
話すべきことは全部話した。この部屋にいる意味はもうない。なら、早く自室に帰ってゆっくり休みたい。今日は、本当の本当に疲れた。
自分の役目を終えた彼女は眠るハヤトをチラと見る——暗がりで確かな表情は分からないが安らかに眠る彼が見えて、不覚にも安堵する。彼が無事で良かった、と。
抱いた安堵を心の傍らに添えながら彼女は扉へと足を進める。扉を出た瞬間、自分の戦いは終わる。まだやることは残しているけれど、一旦の終幕となる。
「じゃ、ベティーはこれで帰るかしら。伝えることは伝えたのよ」
ロズワールの視線を背中に感じながら扉の取っ手に手をかけ、捻る。少女達のお礼の言葉に手を上げながら、音もなく扉を引き開く。
静寂の空間から外の世界へと足を踏み出すと、明らかな空気の変化を感じ取った。重苦しい空気の充満した空間と違って、
振り返らぬまま扉を閉じていく。それは、長すぎる幕がゆっくりと閉じるようで————、
「最後に一つ」
ただ、
「その男には触れない方がいいのよ」
最後の最後で、
「安静にする。お前達ができることはそれだけかしら。下手に触ろうもんなら、衝撃で繋いだ肩の骨が外れるのよ」
爆弾を投下して、
「微小な力でも簡単に崩れる。その男の容体を一言で表すとそれが妥当、ボロボロのぐちゃぐちゃになって、生きてる方がおかしいかしら。死んで当然の傷を負ってたのよ」
パタン、と。部屋の扉は閉じられた。
▲▽▲▽▲▽▲
「それじゃ、私も自室に戻るとしようかぁーな。レム、ラム、エミリア様も。今夜はゆっくり寝てくださいねぇ」
ベアトリスの次に部屋を退出したのはそう言ったロズワールだった。彼も己の中で割り切ったのか、必要以上に部屋に残ることもなく扉を開けて姿を消した。
「ラムも今日は寝ます。レムもエミリア様も、早くお休みになられてくださいね」
ロズワールが出て行ってから数分後。テンのことを無言で見つめていたラムがそう呟くと、彼女は残る二人の肩を優しく叩きながら背を向ける。
向き合う事と向き合い終わった彼女は、余計な言葉が溢れぬうちに一人になれる空間へと足速に消えていった。
「私も、部屋に戻るね。みんなも言ってたけど、レムも早く寝た方がいい。それに……」
ーーあんまりここにいると、泣いちゃうかもしれないから
そう、心の中で言葉を終わらせてエミリアはテンから視線を外した。ラムが出てから数十分後のこと、無言のまま立ち尽くしていたレムの頭を軽く撫で、彼女は顔を背けるように寝台に背を向ける。
今の状態が長く続くと、きっと良くないことになると直感的に察したエミリアは重い足を無理やり動かしながら歩く。歩いて、歩いて、扉の直前にたどり着いて、
「……おやすみなさい。テン」
最後に一度だけ振り返り、彼女は目をこすりながら扉の奥に消えた。
ベアトリスが消えて、ロズワールが消えて、ラムが消えて、エミリアが消えて、そして最後に残ったのは、
「ーーーー」
佇むレム一人。
寝台から一歩たりとも動こうとしない彼女の表情には感情が宿っておらず、光の落ちた双眼は死んだように眠るテンのことをずっと見つめて、刹那たりとも離れようとしない。
静寂の空間で一人、彼女は数十分前に告げられた衝撃的な事実が頭の中で駆け巡る。時間が経っても尚、数秒前に告げられた事のように鮮明な音声が鼓膜の中で流れていた。
ーーその男には触れない方がいいのよ。
たったその一言がレムの心にどれほどの衝撃を齎したか、レム自身ですら理解できない。理解の許容を遥かに超え、頭が考えることをやめた。もう、何も考えることができない。
だって、そんなのあんまりじゃないか。触れない方がいい——曖昧な言い方をされればどこまでが安全でどこからが危険なのかが不確定で、なら、手を握ることも頭を撫でてあげることもできず。
触れることすら叶わない。こんなにも近くにいるのに、手を伸ばせば届く距離にいるのに、愛する人に触ることは、レムには許されない。
今のテンの体は、例えるならば罅の入ったガラス。それも、一部分ではなく全体に渡って罅の入った。少しでも触れれば崩壊を呼び、ガラスは粉々になる——テンの体はそのような状態。
「ーーーー」
今、レムはテンの身に降りかかった悲劇を正しく理解した。全て、余す事なく、心に刻み込んだ。平気ではないけど、心は崩壊寸前だけれど、後悔の感情を我慢して全て聞き届けた。
泣き崩れから立ち直って以降、泣かなかった自分を誰か褒めてほしい。堪えて堪えて堪えて堪えて、限界の限界まで堪えた自分に一言でいいから声を掛けてほしい。
あの場で再び崩れてしまうと姉やエミリアに迷惑がかかってしまう。なにより、覚悟を決めた自分を裏切ることになるから。必死に我慢した。
だから、褒めてほしい。どうせなら、テンに。
「がんばったね、レム」と言って、頭を撫でてほしい。自分のことを抱きしめてくれた時みたいに、優しい手つきで、溶けてしまいそうになる温もりで、自分を包んでほしい。
「……ぅ」
考え出した途端、感情の欠落した表情が悲哀に歪み出す。意図していない嗚咽が唇を押し開きながら外へと溢れた。光の落ちた瞳が潤いで満たされ、目の奥が急激に熱せられる。
我慢して、堪えて、耐えて。限界の限界まで抑え込んだ後悔の感情がこの瞬間。誰もいなくなり、自分の行動が誰かに迷惑をかけることもなくなった今。
ぽた、
「……い」
ぽた、ぽた、
「……なさい」
ぽた、ぽた、ぽた、
「ごめん……なさい……!」
ぽた、ぽた、ぽた、ぽた————、
「ごめんなさい……!」
感情が解き放たれる。
我慢の限界点に達した。
力を失った両足が折れ、膝からレムは崩れ落ちる。へたり込む彼女は両手で顔を覆うと、絶え間なく溢れ落ちる涙を拭い続けた。
今のレムには仕方のないことだった。既に心は壊れているのだから。その彼女が感情を解き放ってもいい空間で一人になったら、こうなる事など簡単に想像がつく。
想い人に最も酷い外傷を与えた罪に押し潰され、自責の念に身を焦がされるレムの精神は粉々一歩手前だった。あと何かのきっかけがあれば、音を立てて崩れる。
粉々になっていないのは、テンが自分を許してくれている事実が自分の中に残っているからだ。自分のことを第一に考えてくれる、彼の優しさがまだ心にあるからだ。
けれど自分が自分を許さないから、自分自身の手によって後悔は膨れ上がり、感情の制御は全然と言ってもいいほどに利かない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
吐き出される言葉は謝罪。ただ、意味もなくレムはテンに謝る。気休めか、贖罪か、現実逃避か、分からない。けど、レムにはこれしかできないから、彼女の謝罪は止まらない。
触れることもできないのだから。なら、疲弊して魔法も満足に使えない今の自分にできる事は声をかけることしかできず、声は彼に向けられた謝罪一択。
涙の数だけ後悔は溢れて、溢れたものが啜り泣く声へと変換されながら謝罪となって、静寂の中で悲しげに木霊する。
ーーこんな自分に、彼を愛する資格があるのだろうか
ーーこんな自分が、彼の隣を歩いてもいいのだろうか
ーーこんな自分を、彼は愛してくれるのだろうか
ーー自分は、彼を愛してもいいのだろうか
様々な想いを胸に孕みながら、誰もいなくなった部屋で一人、レムはただ啜り泣くことしかできない。どうすることもできないから、泣くことしかできない。
意味などなくとも、涙は止まらないのだから。
爪痕は深く。傷痕は消えず。悲劇の連鎖もまた、消えないまま。
少女の胸に深い絶望を残し。啜り泣く声だけが、尾を引いて消えていった。
テンとレムは必ずくっつきます。
ですから、今しばらくお待ちください。書いててレムが可哀想すぎるのではと思いましたが、この先、彼女にはそれを凌駕する幸福が待っているで、許してください。
うちのテンに、頑張らせます。