今回のメインはベアトリス。
この文だけでお話の展開が予想できるはず。
人間が目覚める瞬間は、いつだって突然だ。
意図的に眠りから起こされるのだと仮定すれば突然ではないかもしれないが、そうでない場合は突然に覚醒する事がほとんどで。
その瞬間を完璧に理解できる人間などいない。大凡の時間は把握できたとしても、寸分の狂いもなく目覚めの瞬間を理解することは決して簡単ではない。
起床時間というものは、睡眠量や運動量、更には光を浴びた量等によって微々たる誤差を生じさせる。時に、それは数時間もの誤差を眠る者に齎すことだってありえる。
その『誤差』を完璧に把握し、起床時間を予測するなど困難な話。故に、目覚めを待つ人間は待つこと以外にできることはない。
そして、それは人間以外にも通じることだ。生きとし生けるものたち全てに当てはまる。
現に、今ここにも予兆もなく目を覚ました一人の大精霊——幼女がいるのだから。本に囲まれた世界で一人、眠っていた幼女の意識が覚醒しようとしている。
予兆もなく瞼がゆっくりと開き、裏側に隠れた瞳が顔を覗かせた。まどろもうと何度か閉じるも、その間に脳が全身の機能に電源をつけ、二度寝しかける危うさを断ち切る。
それでも睡魔は、眠りから起きたばかりの存在には襲いかかるもので。口を大きく開けてあくびをすると、払ったはずの眠気が体の中で湧いてくるような眠たさを感じた。
二度寝の危うさが返ってきたところで、重たい体を掛け布団と一緒に起こす。肩まで被っていた掛け布団が重力に従って体を伝うようにゆっくりと落ちて、纏っていた温もりが無くなった。
睡魔を強化していた心地よい温度が消失すると、意識は覚醒へと進路を決める。眠気を完全に振り払う方向に突き進み、「んーー!」と、喉を鳴らしながら体を伸ばすと、眠かった意識に人工的な光が差した。
それから頭と心の起動が済むまでの間、しばしの放心。頭の中が空っぽの幼女はどこを見つめているのかも分からない様子で、直線上に瞳をやっている。
愛らしい幼女だった。普段から着用している衣服は寝巻きとしても使用されるのか、普段着と同じフリル付きの華奢なドレスを身に纏い。つんと澄ました表情が眠気に緩む様子は、今限定の完全に油断した姿。
象徴たるツインドリルは彼女の寝返りにも耐えうる耐久度を持ち合わせ、健在だ。整えずとも見事な完成度を誇っている。
未だに眠いのか。頭が船を漕ぐのと連動してドリルの先端が小さく跳ね、その様が寝起き直後に立った寝癖を彷彿とさせているお陰で、愛らしさが過剰に引き立てられていた。
その幼女。
「ふぁ……」
名をベアトリス。
禁書庫の番人である彼女は、今日も今日とて本だらけの部屋で予兆もなく目を覚ました。幼い体が眠るにしては少し、というより、かなりの余裕がある寝台の上で彼女は朝を迎える。
目覚めを遂げたベアトリスを出迎えるのは、嫌になる程に沈んだ空気。体内に取り込むと自分までも沈みそうになってくる、うんざりする雰囲気。
沈むのは物理的にか。精神的にか。否、どちらとも言える。嫌がって空気の入れ替えをしても、替えたそばから部屋中に充満するのだから、過ごしているだけで勝手に沈んでいった。
それを感じた時には既に、頭と心の再起動は完了している。放心の余韻が抜けたことでふわふわする意識が完全に目を覚まし、空っぽだった頭の中に思考が生まれる。
それはつまり、彼女の考える力が稼働し始めたことを意味し。
「……今日で一週間かしら」
直後に過ぎったのは、悲劇から一週間経った今でも目を覚まさない男の姿だった。その太陽のような笑みが脳裏に焼き付いて、一生離れていかない。
あの温かさが、まだ体の隅々まで感覚としてほんのりと残っている。自分という存在を包んでくれた優しさが、頭のてっぺんにある。
彼の手の平が乗せられた場所だ。これまでにも何度となく添えられて、感じたことのない想いを抱かせてくる大きい手が伸ばされる場所。
ただ添えるだけではなく、その後に揺すられる。左右にゆっくりと撫でられる。普段から豪快な戦闘を展開する男とは思えない程に優しい手つきが、あやすように温もりをくれる。
「いつまで待たせるのよ。とっとと起きやがるかしら」
寝台の上でポツリと呟き、ベアトリスは無意識に視線を一箇所に集める。見つめる先にあるのは禁書庫の外と中を繋ぐ一つの扉。
ーーまた来るぜ、ベアトリス。
その男は毎回のように扉を開けては、少しの会話を済ませ、そう言って出て行く。待つことに恐怖する自分の心を見透かしたかのように同じ言葉を掛けては、扉を開く。
その一言があるだけで、ベアトリスは安心できた。もう来ないのではないかと不意にも思う自分は、それ以上に、あの男ならば次もやってくるだろうと思わされる。
言霊に込められた意志が自分に確かな安堵を齎している事をあの男は知ってるだろうか。真っ直ぐすぎる感情を受ける自分が、心を許しつつあることをあの男は知っているだろうか。
きっと分かっているはず。あの男は
気恥ずかしく思う。隠そうとする意思に反して態度が表に出てしまうから、接した分だけ胸の中が悟られてしまう。
腹立たしくも思う。隠したいとする意思も知らないあの男が、自分の心に軽々しく足を踏み入れるから。接した分だけ入り込まれる。
相反する思いが混ざり合うと、ドラゴンと戦った時に得た感情が記憶から顔を出した。彼が自分に贈ってくれた言葉の数々が脳裏で再生されると、意図せずに「ふっ」と、ニヤけてしまう。
初めこそはあの男のことを考えると無性にイライラしてきたが、今はそこまでイライラしない。寧ろ、少しだけだが心地良くなってきた。
少しだけ。そう、少しだけだ。断じて、とても心地良いなんてことはない。別に、数分間だけならずっと考えていられる、なんてことはない。
ずっと考えていられるわけがないだろう。ずっとだなんて飛躍、ありえない。ずっとだと自分の時間がなくなってしまう。
ずっと、ずっと、ずっと————。
「……ずっとなんて、無理かしら」
ずっとだと、苦しい。
あの男のことは、今はあまり考えたくない。
考えると色々と押し潰されそうになる。一日、また一日と無情に過ぎてゆく日々の中で、ふとした瞬間に感情が爆発しそうになる。
あの男が部屋の扉を開かない——ただそれだけのことなのに。否、『それだけ』のことが自分にとっては何よりも大きかった。
いつもなら聞こえる騒がしい声が一週間も鼓膜を叩かない事が、これほどまでに寂しいことだったとは。想像もしなかった。否、想像する必要がなかった。
それが自分にとっては当たり前だから。あの男が自分の傍にいることが、自分には当然のことで。ノックも無しに扉を開けて、自分が小言を適当にぶつけるという光景が普通だった。
少し前の自分に今の光景を見せたら、どんな顔をするだろうか。あの時の自分から見れば今の状況は普通じゃないから、きっと大いに驚いてくれる気がする。
だから、決して奪われることなどないのだと、そう決めつけていたのかもしれない。昔の普通だって簡単には変えられなかった、今の普通だって変わらないと。
そう、思っていたのかもしれない。
「ベティーをこれ以上、待たせないで……っ」
誰にも聞かれない世界で寂しげに声を上げ、感情を溜める小さな両手が布団を握りしめる。向けた視線の先にある扉を開くはずの『その人』を、必死に求める。
満たされたいから。求めるということは現状に不満を抱いていることに他ならず、乾き切った心の潤いを一心に求める。
あの悲劇以降、心にぽっかりと穴が空いてしまったような損失感をベアトリスは拭えずにいた。ハヤトという一人の存在にしか埋めれぬ大穴から、感情が滝のように流れ出てしまう。
心痛。とは、このことを指すのだと考える。物理的に痛みを感じているわけではない、にも関わらず物理的な衝撃によって与えられた傷が疼き出したような気分。
とても不快だ。胸が引き裂かれそうな苦痛は、照らしていた光が失われた損失感は、あの日からずっと続いている。可能ならば今すぐにでも改善したいところだった。
痛みの特効薬は知っている。知っていることが、現状の打破が不可能だと無感情にも自分に告げていた。
だってその特効薬は今、眠っているのだから。
「起きるのよ……。早く。今すぐにでも、起きるかしら」
芯の震えかける声を抑え、唇の手前まで込み上げてきた言葉を無理やり飲み込みながらベアトリスは願う。
早く、早く目を覚ませ、と。もう一週間も経つのだ。そろそろ目覚めてくれてもいい頃合いだろう。自分が我慢できるのにも限界がある。
限界は、もうすぐそこだ。
どれだけ自分は待っていればいいのか。もう待つのは嫌なんだ。待つのは怖いんだ。待つのは耐えられないんだ——手に届く範囲に『その人』であってほしい人がいるから。
四百年間。いつ現れるかも分からない人をずっと待ち続けられたのなら、僅かな間でも我慢できると少しでも思った自分を今この瞬間、恨めしく思う。
無理だった。できるわけがなかった。
だって、自分が待ち焦がれている人が近くにいると知ってしまったから。「また来るぜ」と、そんなことを言われたら、次はいつ来るのかと期待してしまうから。
待てない。ずっと傍にいてほしい。
悲劇の夜。自分は初めてお母様の言いつけを破って外へ出た。未来を、ハヤトと一緒にその手で描いてみたいと思ったから。なら、自分の隣には彼が必要なのだ。必要でしかないのだ。
彼と一緒がいい。一緒じゃないとイヤだ。
自分の隣にハヤトが居てくれたから、怖くて踏み出せない一歩も踏み出せた。縋ってきた本を無視してでも、己の意志で己の道を創ることができた。
過去から完全に抜け出せたわけじゃないけれど、そのための一歩を自分は既に踏み出した——後には引けないと分かっていながら。
それでも踏み出せたのは、ハヤトの存在があったからだ。彼と一緒ならば色々と頑張っていけそうだと心の底から思って、実際に頑張れた。それは、これからだって同じだ。
だから、
「ハヤト……」
彼を、ひたすらに求める。
呼んだところでどうにもならない。いつ目覚めるかも分からない人を求めるなど、所詮は無駄な行為に終わる。覚醒の瞬間など、莫大な力を保有したベアトリスですら分からない。
分かっている。けれど、呼んでしまうものは仕方ない。大穴の空いた心から溢れた感情が言葉となって口から飛び出てしまうのだから。消えかかった光を再び心に灯そうと、必死になる。
「ハヤト、ハヤト」
名前を呼ぶことがこんなにも辛いことだなんて知りたくなかった。『その人』を失う気持ちが死んでしまいたい程に苦しいなら、いっそ知らない方がよかった。
違う。知ることがどれほど愚かなことだと知っていたのに、戒めていたのに、自分は知ることを選んだ——選ばされた。
温もりに溺れることの愚かさを理解しているのに、気がついた時には手を掴んでいた。掴んだら二度と戻れないと、孤独になれないと理解していたはずなのに。
「ハヤト、ハヤト……ハヤトぉ」
前のような自分には成れず、寂しさを埋める存在を縋り付くように呼び続ける。以前までの自分になら辛うじて耐えれた痛みも、温もりを知った自分には耐え難く、故に名前は止まらない。
一週間と短い時間は何年間にも感じられ、引き伸ばされた時間の中で光を失ったベアトリスは虚無感に心を覆われる。手の中いっぱいに握りしめた布団で顔を隠すと、溢れる雫を拭った。
いつから自分はこんなにも弱々しくなったのか。否、元から弱い、強くなんてない。ずっと前から我慢して、ずっと耐えてきただけだ。
『その人』という
「来るかしら。いつもみたいに扉から入って、また、ベティーのことを……っ!」
けれど今、希望は幻想ではない。幻想は現実に、希望は形となって姿を現している。自分が待ち望んでいた人であってほしい人は今、すぐそこにいる。
ならもう、頑張る必要などないんじゃないか。孤独の時間は終わりでもいいんじゃないか。彼に全てを委ねても、悪くはないんじゃないか。
狂おしいほどに愚かでもいい。間違っててもいい。戒めを完全に無視してもいい。いずれ失われる温もりに縋ることになってもいい。
自分がそうしたいから。そうしたいと、彼と過ごしてきた時間の中で、他でもない彼自身に思わされた。これまでの価値観を軽く破壊された気がして、心が晴れていく爽快感を得た。
だってもう、自分は
永遠の人生が、たった三ヶ月と少しの時間でひっくり返された。簡単に返せるものでもないのに、ハヤトという男は当然のように、それも無意識に、自分の人生を変えるキッカケを作ってみせた。
なら、
「責任くらいは取るかしら……! ベティーを奪ったなら、奪った責任を取るのよ。ハヤトが、ハヤトがベティーを受け止めるかし、らぁ」
無意識の責任は大きい。ある意味鈍感とも言えるハヤトは、自分の心を奪ったなら、この心も受け止めるべきだ。自分に抱かせた感情の解放場所になるべきだ。
奪っておいて放置、なんとも随分な仕打ちじゃないか。待たせるなどと、焦らすのはやめてほしい。これ以上自分に「待っていろ」とでも言いたいのか。
ーーお前の陰は俺の陽が祓ってみせるよ。
彼は自分にそう言ってくれた。
なら祓って。今の状況が生んだ
「ハヤト……。はや、とぉ」
無駄は承知の上。しかし、呼んでしまう。枯れてしまいそうな声を上げて、彼の温もりを自分の下に呼び続ける。こうでもしていないと、きっと自分は耐え切れない。
声に出して発散することで、少しは感情の紛糾も治る——わけがなかった。治っていたら今頃自分は普段通りの生活を送れていた。発散しても尚、感情は溢れかえる。
無駄だと分かっていながら継続する事ほど辛いものはない。情けなく足掻くのにも限度というものがある。
無知でいられたなら、この心も今よりは楽でいられただろうに。無駄じゃないと思いながら名を求めることができたら、気も軽かった。
けれど、ベアトリスは止めない。虚しく、儚く、己の想いが散っていくのを感じながら、けれど彼女は彼の名前を呼ばずにはいられない。
「何日も待つのはイヤなのよ。早く来るかしら。ハヤト、ハヤト!」
「そんなに呼ばなくても聞こえてるっての」
「ーーーぇ」
いつまで経っても止まない感情の雫を拭い、布団に顔面を押し付けていたベアトリスは、その声に思わず顔を上げた。
涙でぼやけた視界、すぐ真横に誰かが立っている。自分だけの世界に、いつの間にか一人の存在が入ってきていた。
その人物は、寝台に座るベアトリスと視線を合わせるために膝をつくと、
「まさか、お前がそんな風に俺を呼ぶとは思わなかった。俺が寝てる間に何があったんだよ」
太陽のような笑みが、そこにはあった。自分の心を優しく照らす光が、すぐそこにあった。ついさっきまで自分が強く求めていたものの全てがあった。
けれど、今、自分の前にいる笑顔はいつもとは少し違う。どこか困惑しているような、それでいて安心させようとしているような、言葉に言い表しづらい感情が渦巻いている。
どうしてだろう。その瞬間、ベアトリスは今まで考えていたことの全てが吹き飛んでいった。視界に映る光景を、否、光景の中にいる存在を見た途端から嫌なことが晴れていく。
それはきっと、目の前の存在がいない事実が原因だったからで。
「ハヤト……?」
「おう。俺だぞ」
今、その原因が解消された。
名を呼んで、返ってこなかった返事が一週間ぶりに返ってきたことで、ベアトリスの心を苦しめていたものが再び灯された光にかき消されていく。
消えて、消えて、次第に無くなって。胸を締め付けられるような不快感が己の中から消失すると、今度は胸が軽くなるような幸福感が己の中で風船のように膨らみ出した。
「ハヤト……?」
「だから、俺だって言ってんだろ」
目の前の事実一つが自分に齎した衝撃は大きい。嬉々とした感情がふつふつと湧き上がるベアトリスは、しかしあまりにも突然すぎる事態に思考が上手く働かない。
脳からの電気信号の伝達が滞るせいで口から彼の名前しか発せず、「動け」という微小な指示が四肢を小刻みに震わせているだけだった。
処理が追いつかない。絶望の最中に飛び込んできた光に思考が置いてけぼりにされた。今、ベアトリスは本当に頭が真っ白になっている。
ただ、心は追いついたようで。
「な!? おま、なんで泣いて……」
頬に、一つの筋が走る。上から下へと落ちる感情が赤みを帯びた頬に伝うと、後続のが生まれた軌跡をなぞるように溢れ落ちる。
煌めく雫が一滴、二滴、三滴と。蝶の影が映る空色の双眼から想いが溢れ出た。制御を失った大粒の涙が、止まってくれない。
頭の処理が追いつかずとも心は状況を把握していたようだった。彼の無事を理解した途端からみっともなく泣き声を反響させている。思考を通さない心だからこそ、素直な反応が浮き出た。
それが口から出なかったのは良いのか悪いのか。良いに決まっている。そんなみっともない姿、ハヤトだけには見られたくない。
尤も、既に手遅れな気がしなくもない。代わりに涙として見られてしまっている。隠したくても隠せない。だって、頭が機能しないのだから。涙を拭う動作すらも満足に行えない。
単純な奴だと自分のことながらに思う。ハヤトが眠りから覚醒した——たったそれだけで一週間という苦痛の時間から簡単に解放され、絶望の倍以上の希望を宿している。
単純。単純すぎる。超単純だ。ハヤトの影響をもろに受けすぎたか。きっとそうに違いない。でも、彼に対しては単純なくらいがちょうど良いのかもしれない。
難しい事を考えず、真っ直ぐにぶつかってくる。それが自分の知るハヤトという男。邪な意思の一つもない彼は自分のことを一直線に見てくれる。なら、自分も真っ直ぐに受けるべきだろう。
真っ直ぐ投げられたら真っ直ぐ返す。変化球は要らない。真正面から感情をぶつけ合わせる。その方が楽になれるとは、ハヤトと接してきた自分なりの見解。
今まで、そんなことのできる人はいなかったけれど。今は違う。純粋に自分のことを見てくれる人が隣にいる、自分という一人の存在と真っ直ぐ向き合ってくれる人がずっといる。
なら、泣いたっていいじゃないか。
なら、好きにしたっていいじゃないか。
なら、自分を表に出したっていいじゃないか。
だって、ハヤトなのだから。
「おぉ?! おいおいおい待て待て待て、本当に俺が寝てる間に何があった!? 知らねぇ、こんなベアトリス、俺は聞いてねぇぞ!?」
「うる、さいのよ」
ようやく頭の処理が完了したベアトリス。覚醒の余韻から解放された四肢が動くと、布団の上を滑りながら幼い体がハヤトの胸に飛び込む。
特に考えがあって飛び込んだわけじゃない。心の赴くがままに体を動かした。ただ、それだけ。ハヤトならば構わないと思う本音が、身を委ねることを許した。
予想外すぎる行動に流石のハヤトも動揺を色濃く表情に出し、深い眠りから目覚めた後ということも重なって受け止めきれない。寝台からずり落ちるベアトリスの体重に尻餅をついた。
少しだけ体が軋み、衝撃部から波紋した痛みに表情を僅かながらに歪ませるハヤト。が、ベアトリスに気にする余裕はない。彼女はハヤトの胸に額を押し付けて泣きっ面を隠している。
「本当になにがーー」
目覚めた後にしては刺激的すぎる出来事に唖然とするハヤト。彼は、回された両腕に込められた幼い力を感じながら眼下のベアトリスを見る——直後、何が原因でこうなったかを理解した。
感情を堪えきれなかった瞳から涙が止めどなく溢れていた。涙と一緒に熱っぽい吐息が嗚咽として音となっていた。強張った身体が異常なまでに震えていた。
この情報だけで、ハヤトは彼女の心情を理解する。気付くことには気付く人間、否、気付けずとも今の彼女を見て察せない人間などこの世界にはいないと不意にも思う。
「……心配かけたな」
ベアトリスの背中にハヤトの腕が回り、啜り泣く彼女の抱擁を受け入れる彼は、優しく叩く。一定のリズムで背を叩くそれは、幼児をあやすような動作で。
後頭部をゆっくりと何度も撫で下ろし、ベアトリスを抱える身体が左右に弱く揺れ始める。そうなれば幼児どころか赤子をあやすような姿で。
撫でられるベアトリスと、撫でるハヤト。
二人を中心として、禁書庫内に温かな空間が押し進めるように広がっていく。どんよりとした暗がりのある雰囲気が徐々に明るく照らされて、次第にベアトリスの心すらも照らされる。
「遅い……、遅いのよ」
ベアトリスがハヤトにしか聞こえぬ声量が薄く溢すと、己を包み込む温もりが温度を上げた。違う、温度が上がったのではない、抱擁が強まったのだ。
言葉の代わりに両腕が。不安がる自分を安心させるような両腕が、人肌を通じて命の温もりを伝えてきている。だめだ、そんなことをされれば涙はより一層止まらなくなった。
だって、こんなにも嬉しい。彼が自分の下に来てくれたことが。またこうして、一番欲しかったもの——光をくれたことが。彼によって注がれる全てが嬉しくて仕方がない。
数分前まで感じていた絶望が嘘のようだ。今は、希望で満ち溢れている。心の闇は祓われ、隅から隅まで光で満たされた。
尚も、ハヤトはベアトリスに温もりを伝え続けた。こんなことで彼女が安らぐなら、何時間でも何十時間でも付き合おう。それが自分にできる唯一の償い方。
無言で続けていると、胸の中にいるベアトリスの体から強張りが抜けていった。徐々に震えも治まり、けれど回された両腕の力だけは依然として抜けず。
結果として自分の考えは間違っていなかったと思うハヤト。まさか、故郷で妹や弟をあやした経験が異世界で活きるとは思わなかったと、彼は小さく吐息。
それでどうにかなってしまうのが彼女の精神年齢を示しているのか、どうなのか。なんにしても安心させられたのなら良かった。
「ハヤト、が、遅いから。ベティーを、待たせすぎる、からかし、ら。一週間も待たせて、責任くらいとるのよ」
ハヤトが密かに安心しているとは知らないベアトリス。彼女は嗚咽混じりに言葉を発すると、弱く握った拳で彼の背中を弱々しく叩き始める。
一撃。一撃。一撃。攻撃にして弱々しすぎる二つの拳はベアトリスの心情を雄弁に語り、ハヤトに自分の心痛をひしひしと伝えていた。
感情の解放場所にしているのだ。一週間で溜まりに溜まった負の感情を目の前の男にぶつけ、発散している。元を辿れば彼のせいでこうなったのだから、責任は取らせる。
少々、強引に理由づけたような気がしなくもないが、この際なんだっていい。彼のせいで自分が今のようになったのは事実で、離れられなくなったのも事実だから。
「一週間も寝てたのか……。そりゃ、心配かけちまったな。ほんと、悪かったよ」
心配の後始末を背中に受けつつ、ハヤトは時の流れを知る。どうやら自分はあの悲劇から一週間も寝ていたようで、それならこの様子になってしまうのも仕方ないことだろうか。
彼女の中の自分がどれだけ大きなものになっているかは分からない。けれど、名前を呼んでくれるあたり、かなり大きな存在に捉えられていると察せれる。
先程から察してばかりで、どこまでが正しいかどうかは定かではないが。少なくとも、なんとも思ってない男に心配して泣きついてくる少女はいないはずだろう。
ベアトリスにとって、自分は
「二度と……」
彼女と自分の関係値について少しばかり考えていたハヤトの鼓膜にそんな言葉が届く。不意だったために反射的に「ん?」と声を返すも、続きが即座に続けられることはない。
言った彼女は深呼吸を何度も繰り返していた。止まらなかった涙が治ってきたのか、荒くなった呼吸を整える呼吸音が眼下、眼前、胸の中からはっきりと聞こえてくる。
己を整える時に深呼吸をするのは、やはり共通のことだったらしい。吸う息でハヤトの温かさをいっぱい取り込み、吐く息で胸の中に僅かに残った闇を捨てる。
それが完了した時には、ベアトリスは動いていた。顔を上げ、隠していた泣きっ面を露わにすると、
「二度と、ベティーにこんな思いをさせるんじゃないかしら。次は、許さないのよ。もう、どこにも行くんじゃないかしら」
その瞬間、ハヤトの前には笑みが弾けていた。
これまでに一度も見たことがない満面の笑み。言葉の意味に反する愛らしい笑顔が、瞳に溜まった最後の雫を飛ばしながら、一心にハヤトを見つめている。
もし、ハヤトの笑みを『太陽の光』と例えるならば、ベアトリスの笑みは『月の光』になるのだろう。
月は、太陽に照らされて煌びやかに光るなら。ベアトリスもまた、ハヤトに照らされて美しく光り輝く。太陽にも、否、太陽よりも煌めく。夜空という闇の中で、なによりも眩く。
言葉にせずとも、それ一つで全て伝わった。伝えきれない言葉がその美しい笑みには凝縮されて、ハヤトに様々な言葉を贈っている。
この場合、口にする方が無粋な気がする。声に出さない方がいいことも世の中にはあるのだ。態度で示す方が伝わることだってあるのだから。
だからハヤトは、「だから言ったろ」と向けられた笑顔に同じく笑顔で返すと、
「心配すんな。俺はどこにも行かねぇよ」
それ以上は語らず、言葉に込められた感情に肩を跳ねさせたベアトリスを温かく抱きしめる。小柄な背中にたくさん背負っていた不安を取り払うように、落ち着いたテンポで背を叩きながら。
心地よい振動が背中から全身に波紋すると、ベアトリスは不思議と安心する。理由は分からない、けど、こうされると色々と緩々になって、体から力が抜ける。
抜けると、ハヤトの胸元に完全に埋まる——その時点でベアトリスは彼に己を委ねた。委ねても構わないと思う心が、どうせなら甘えてしまえと本能をくすぐって。
それ以降、彼女の口が想いを刻むことはなかった。
与え続けられる温もりの心地よさに心を奪われ、いつしか自分という存在すらも奪われて。
ただ、彼女はハヤトの胸元で、幸せそうに微笑んでいた。
ただただ、微笑んでいた。
「心配すんなーー」のセリフは、『それは、一つの終幕』にてハヤトがベアトリスに掛けた言葉です。ドラゴンと最後の衝突をする寸前の言葉が、ここでも出てきました。
こうなると、この二人をどうやってあの関係にしようかと悩みますが。んーー、分かんねぇ(ポンコツ)。
あ、次回の更新は遅くなります。課題の山と大乱闘してきますね。