今回も難しかったです。次回も難しいです。次次回も難しいです。もう、全部が難しいです。心理描写、ほんと、難しい。
あ、しつこいですか。すみませんでした。
自分の今までが全て否定された気がして。
無性に腹が立った。
何が正しいとか。何が間違ってるとか。
そんなのは関係なくて。
単純に腹が立った。
だから八つ当たった。
ただ、それだけ。
それだけ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
彼の身勝手な言葉を聞いていると、心の奥底に閉じ込めた様々な感情が噴き上がってきた。
彼の配慮のない言葉を聞いていると、自分一人ではとても抱え切れない負の感情達が一挙に反応を示した。
彼の優しさのある言葉を聞いていると、積もり積もった想いが自分の心を掻き乱した。
どうして叫んだのか。堪え切れずに吐き出してしまったのだ。自分のことを全く考えないハヤトの言葉に、万感の想いの乗った羅列に、無性に腹が立ってきたのだ。
ぐちゃぐちゃした感情が、ごちゃごちゃした想いが、それ一つで爆発して。発散できないものを、意図せずに目の前の男に叩きつけた。
ダメだと思うのに。自分一人の問題だから、そんなことしてはいけないと心に言い聞かせたはずなのに。
感情を煽られて、制御が利かなくなった。必死に引き留めていた何かが解放されて、自分の力ではとても抑え切れなくなって、
「ハヤト君に、レムの何が分かるんですかーーッッ!!」
喉を張り裂かんばかりの
ずっと背を向けていた男と、真正面から向き合った。顔を向けると全てを悟られそうで嫌だったのに、体が勝手に
同時に、レムは自分のことを真摯に見つめるハヤトと目が合った。真面目さに満ちた表情が、決意に溢れた双眼が、ハヤトという人格者が、自分の心と真剣に向き合っている。
ふざけた様子は一切感じられない。普段から見せている、気さくで明るい笑みを浮かべるハヤトは消え。今、レムの眼前にはレムが初めて見るハヤトが姿を見せていた。
自分の叫びに眉毛ひとつ動かさなかった彼は、動じる気配が全く見られない。まるで、こうなることが分かっていたかのように冷静で、
「やっと、その
恐ろしく堂々としていた。
戦闘時に見せる堂々たる態度と類似するそれは、しかし相手を威圧するようなものでも、まして猛々しさに溢れたものでもない。
これは、相手のことを真っ直ぐ見る、邪な感情のないもの。真摯に向き合う。その言葉が最も適している。
反対に、レムの顔は崩れていた。どうにかして振り向かせようと言葉を掛け続けた結果として、やっとハヤトが見た感情の宿るレムの表情は、ひどく泣いていた。
きっと、その涙は溜め込んできたものが溢れたのと一緒に出てきたのだろうとハヤトは思う。自分にもその感覚は分かるから。否、誰しもが一度は経験したことのある感覚だ。
我慢してきた心の傷が、雫となって言葉の代わりに雨のように流れ落ちる。心を廻り続ける発散しようのない激烈な情が、口から思いっきり吐き出される。
目端から一滴。強張る頬を伝っては、震える拳を通過して床に弾け。一滴でも落ちれば、二滴三滴と続いて止まらない。
口から一言。食いしばった歯を突き破り、喜怒哀楽が混濁した鋭い青色の視線を伴って吐かれれば、涙と同様に止まらない。
「……それだけか?」
故に、ハヤトは全てを吐き出させる。叫んだ自分をレム自身が咎める前に、咎める余地を与えぬ言葉を畳み掛けて、
「それだけでいいのか?」
激情したレムを煽る。今よりももっと、捨て場のない感情の捨て場になるために。たった一言だけでも呼吸を乱すレムを、
「全部、吐き出しちまえ」
煽って、煽って、煽る。
不安、焦燥、恐怖——レムを追い詰める全てをハヤトは必要以上に煽る。
こんな事、したところで大した意味を成さないかもしれない。レムが呪縛から解放される事に繋がらないかもしれない。
でも、レムの気持ちが一ミリでも晴れるなら、それで十分。
「責める人間は誰もいねぇ。曝け出せよ」
爆発するといい。誰にもぶつけられないなら、自分にぶつけるといい。
テンがいない間、自分がその受け皿になる。テンに繋ぐための、中継になってやろう。
だって、レムは友達だから。
「だ……、黙って聞いていれば知ったような口を……!」
煽られた激情が口内で暴れ回るレム。どれからぶつければいいのか順番に困る彼女は、ハヤトの言葉に焚き付けられた結果として順番などとくだらないことは捨てた。
そこまで言うなら全部言ってやろう。大きく息を吸い、肺の中の酸素を感情の着火剤にして、既に爆発した感情を己の中で膨れ上がらせて、
叩きつける。
「あの夜、レムがどんな気持ちで森に向かったか知ってるくせに、レムの意志を否定される理由はありません! 否定しないでください!」
「理由ならある。知ってることが理由だ。知っている以上は見過ごせねぇし、見過さねぇ。自分一人が傷付けばいいなんて考え、誰が許してくれると思うか?」
「レムだけが傷付いて、それだけで問題が解決したら、それでいいじゃないですか! 何が問題なんですか! 傷付くのはレムだけで十分……姉様やテンくん、ハヤト君が傷付いたらレムはーー」
「だから言ったろうが。
レムの吐き散らすような怒号と、ハヤトの落ち着いた声が衝突する。それはまるで、闇雲に暴力を振るう幼子を、大人が優しく受け止めているかのような様子で。
先のような激情を手前に引っ込めたハヤトは人が変わったように冷静だ。相手の感情を揺さぶり終えた彼は何事にも動じず、どっしりと構えている。
叩きつけられる言葉の一つ一つを重く受け止め、丁寧に返していく。自分の伝えたいことを、彼女の心に贈り届ける。
「勿論、何もなくして今の考え方になるわけがねぇ。お前なりに考えがあって、今みたいになったのかもしれねぇ。何か、お前を縛る何かが、お前にそう考えさせてるのかもしれねぇ。それはなんとなく分かってるつもりだ」
分かっているとも。それは
だから、彼女の行為を否定することなんてハヤトにはできないし、それが間違ってるだなんて一概には言えない。
何が正しくて、何が間違ってるかなんて、人によって簡単にすり替わる。綺麗事なんて、捉え方次第で良くも悪くも意味を変える。
「だから、お前の考えを否定するつもりはない。それもまたお前が出した答えだってんなら、受け止めるさ。受け止めるが、認めはしねぇ。それに、俺たちにまでその姿勢で来る必要はねぇだろうが」
「どうしてそこまでして、レムのことを……」
意味が分からないと言いたげにレムが口篭る。確かに、自分が傷付くことで周りの人が傷付くなんて考えもしなかったし、言われるまで考えようともしなかった。
自分も、その恐怖を知っているはずなのに。テンが傷付くところを見ると、自分も傷付くことを痛いほど知っているはずなのに。誰かが傷付くことで誰かが傷付く事があると、知っているはずなのに。
その感覚を自分が、姉やハヤト、更にはテンに齎しているかもしれない——そう思うと、大事なことを見落としているのかもしれないと思った。
けど、それでも分からない。どうしてそこまで自分を助けようとするのか。自分のことなど放っておけばいい、自分のために周りの人が傷付く必要などあるはずがない。
そんな意味合いを込めた言葉にハヤトは「どうしてか? んなの決まってんだろ」と己の胸に拳を宛てがい、
「俺はレムの友達で。ラムはレムのお姉ちゃんで。テンはレムが好きだからだ」
「ーーーー」
迷いなく言い切り、ハヤトは胸を張る。一見して理由としては成立しないと思われるそれを、しかし彼は堂々たる立ち振る舞いでレムの目の前に大々的に置いた。
一体、それのどこが理由になるのか。僅かに音を立てて稼働する思考回路を全力で運転させてレムは考えるも、どれだけ経っても理解することはできない。
友達だから。
お姉ちゃんだから。
好きだから。
この三つが頭の中を巡り続ける。相変わらずハヤトの言うことは滅茶苦茶で、それでも、その態度が自分に滅茶苦茶だと思わせないから、正しいのではないかと思わせて、尚のこと巡り続ける。
「友達だから助ける。お姉ちゃんだから心配する。好きだから死んでも守る。……これが理由で、お前を助けに行っちゃダメなのか? お前が傷付くのを見たくないと、言っちゃダメなのか?」
ーー俺にとって、レムは大切な人だよ。
瞬間。
ふと、テンの声が鼓膜の内側から聞こえてきた。それは、今の内容と全く同じことを彼に話した時、彼が自分に贈ってくれた、自分にとって嬉しかった言葉の中の一つ。
自分だけが傷付けばいい。そう終わるはずだった言葉を遮って彼は自分にそう言った。自分の中で当然だと思っていたことを、柔らかに否定して。
自分がどう思っていようとも知らない。自分が危険ならどこにだって駆け付ける。自分が来るなと言っても彼は自分を助けて、無理矢理にでも連れて帰る、と。
一人で抱え込むなとは言わない。けど、それを一緒に抱えてくれる人が隣にいることを覚えておいて、と。
自分を背負う彼は、そう言った。
「自分を心配してくれる人を残して、一人で何もかも抱え込んで戦いに向かうってのは、違ぇと思う。誰とも関わらず全部独りで抱え込む事は、確かに一度は憧れるーーけど、それじゃダメだ」
戦いというのは、誰かと一緒にやるもの。レムが孤独で戦うことなど、周りの人間は許さない。孤独になったつもりになるなど、家族や友人は認めない。
レムはひとりじゃないから。彼女の周りには頼りにしてもいい味方が沢山いるから。「助けて」の一声だけで全身全霊を尽くしてくれる姉と、友人と、想い人がいるから。
「もっと周りを頼れ。俺達のことを必要としてくれ。自分一人だけで苦しもうとするな。迷惑だなんて一切、思ってねぇから。そんな悲しい考え方……しないでくれ」
力強い眼でレムを見据え、ハヤトは哀願する。前の世界では決して味わうことの無かった感覚——親友が傷付く感覚をこれ以上、広げないために。
精神がヤスリで削られるような痛みは、二度と経験したくない感覚。本当に寝ているだけなのかと刹那でも考えさせる彼の姿は、冗談抜きで寿命が縮まった。
だからハヤトはレムに哀願する。もう二度と、同じ事にならないように。悲劇が生んだ悲劇を、ここから先に進めたくない一心で。
「お前は、自分が傷付くことで傷付く人間がいることを知らなさすぎてる。自分のことしか見えてない。だから周りの言葉に気付けない。頼むから……それを知ってくれ。友達が傷付く姿は……もぅ、見たくねぇんだ」
「アイツだけで十分なんだよ」と。悲痛に訴えるハヤトは初めてレムから視線を逸らし、頭を下げて、目を瞑る。そうして、瞼の内側に隠れた瞳から溢れる気配がした弱さの欠片を閉じ込めた。
アイツ、と形容した存在が誰のことを差すのかなど考えるまでもない。いつ目覚めるかも分からない親友のこと、この世界で唯一の背中を預けられる存在のこと。
もし、レムが彼と同じ風になっていたら——考えたくもない。
それに、
「それは、ラムだって同じだ。いや、気持ちの強さで考えたらラムの方が上かもな。妹の傷付く姿を誰よりも見たくねぇと思ってるだろうよ」
静寂を貫いていたラムにハヤトは話を投げかける。彼女一人ではレムと向き合うことができないから、さっきと同じように自分が姉と妹を繋ぐ架け橋となる。
あの夜、レムの命が危険になったと共感覚で理解した彼女の取り乱し様を、ハヤトは真横で見ていたから。
あんな風に我を忘れるラムを見たのは初めてだった。普段から傲岸不遜で毒舌キャラを男二人に炸裂させている彼女が己を崩す瞬間など、滅多に訪れるものではないだろう。
どれだけレムが心配だったか、それ一つで理解できる。その心配も、テンやハヤトの度合いを軽く超越する勢い。
当然だ。世界でたった一人の、替えの効かない、大事な大事な妹なのだから。
「な? ラム」
だから、ハヤトはラムに言葉を発する機会を作った。今のレムの本音を聞いて何も思わないわけがなく、言いたいこともできてしまったはずで。
でも、ラムは自分からレムの心に触れる言葉を掛けることが困難だから。どうにかしなければならないと思う心とは反対に、現状維持に徹してしまうから。
故に、下げた頭を上げたハヤトは表情に若干の乱れの混じるラムのことを見た。きっかけ一つで動ける彼女の背中を、彼は優しく押し出した。
「えぇ。……そうね。ラム以上にレムを愛している人間なんて、この世界に一人としていないもの」
背中を押される感覚にラムは初めて口を開く。ハヤトとレムが会話を始めて以降、一度も言葉を音として発していなかったラムが今、ハヤトの横を通り過ぎ、ハヤトよりも先にレムの心底へと足を踏み入れた。
踏み入れたのは精神的に限った話ではない。己の中で何かしら整ったのか、赤色の瞳が覚悟に光ると椅子に座っていた彼女の体が立ち上がる。
椅子の足が床と擦れる音に反応したレムが肩を跳ねさせながらラムを見るも、ラムに迷いはない。落ち着いた足取りで、ゆっくりと、確実に、レムの正面まで体を進めた。
ハヤトの反対側——彼と自分でレムを挟むように位置取ったラム。彼女は振り返ったレムを見て、
「ねぇ、さま……」
「ーーーー」
言葉が、詰まった。
久しく見た、感情の宿る妹を見て。
意図して詰まらせたわけではない。呼びかけに応じて最愛の名を呼ぶつもりだった。迷いも、乱れも、それら全てを振り切って妹の前に立ち、自分は向き合うと決めていた——決めていたのに。
涙で崩れた化粧。その内側から露わになったレムの顔を見た途端、喉の奥が悲痛に小さく震えてしまい、声が音にならない。心の中で完成している想いを、紡ぐことができない。
ひどい、ひどすぎる。悪夢に魘され続けるレムの顔色は誰がどう見ても悪いと判断できる。いつもなら清潔感に溢れている白い頬は、涙が生んだ軌跡のお陰でくすんでいることが嫌でも分かった。
目に溜まった涙を拭ったことが原因だろうか。目元にある、隠していた黒ずんだクマが今はよく見える。
しかし、これはクマと形容していいのか。睡眠不足が理由で浮かび上がったそれは、斑点模様と言っても過言ではない。目の下、右と左のどちらにもある黒色は尋常でない程に濃かった。
ーーこんなになってまで、自分達に迷惑をかけないように隠してたのか
ーーどうしてもっと早く動かなかったのか
ーー自分は何のためにレムの傍にいてあげようとしたのか
ーーお前は何をやっている
露わになった妹の凄惨な現状に、様々な想いが言葉となって心で反響する。一度に複数生まれては、自問自答を繰り返させた。
自責、後悔、悔恨、積怒。一週間、レムの不調に気付いておきながら何もしてこなかった己を強く咎めるそれらは、間違えなくラムが犯した罪。何かしてあげられたはずなのに、何もしてこなかった自分に対する罰。
どうして何もしてこなかった。どうして何かしてあげなかった。どうして何もしてあげられなかった。
積もり続ける『どうして』は、ラムの心を闇で覆っていく。積もる度に、自分の愚かさに打ちのめされる。世界でたった一人の妹に、姉として救いの手を差し伸べられなかった自分が嫌になっていく。
そんな時だった。
「ーーーー」
ボヤけていたピントが合ったかのように、レムの後ろに立つハヤトの表情がラムの目に飛び込んできた。
不安一色に染まるレムの表情を通り越した先にある表情は、相変わらず真面目で。目を合わせると、まるで「頑張れよ。姉ちゃんだろ」とでも語るかのように深く頷かれる。
ーーお前はレムに、何をしてあげたいんだ?
唐突に、その言葉が脳裏に過る。
数時間前、ハヤトが自分に投げかけた疑問。たった一言ながらに、自分の心を見透かしたような響きがあったそれ。
ハヤトが言うからこそ、響くのだと思う。誰に何を言われても自分の意志を貫く彼だから、言うことに価値を持たすことができる。
自分のしたいことする。やりたいことをやる。
基本的にハヤトはそんな人間だ。くだらないものに縛られず、自分の信じたことは絶対に曲げない、それがカンザキ・ハヤトという男の生き様。
何を成すべきか。何をするべきか。何をやるべきか——そんな、正解を辿るような考え方にハヤトは囚われていない。
何を成したいか。何をしたいか。何をやりたいか——これがハヤトの原動力だ。自分に素直な彼は、周りの目を気にせずに自分という人間を真っ直ぐに突き通している。
そんな彼が、何をしてあげたいか、と。妹との距離感に戸惑いを見せた自分にハヤトは、レムに何をしてあげたいかと聞いてきた。
正解か不正解か、そんなものは関係ない。正しいか間違ってるか、そんなくだらない事は考えない。
自分は今、レムに何をしてあげたいか。憔悴した、最愛の名を持つ、世界でたった一人の家族に、何をしてあげたいか。
ーーお前はレムに、何をしてあげたいんだ?
そんなの決まっている。
「ーーーー」
ずっと前から決まっている。
「……レム」
いい加減、動け。
「ぁーーー」
予兆もない温もりにレムは小さく開いた口から空気を溢す。予想もしなかった行為に言葉を紡ぐ機能が瞬間的に失われ、代わりに声にならない音が出た。
途端、レムの世界が真っ暗になった。誰かに頭を押さえつけられて、どこかに額を押し付けられている。温かくて、柔らかくて、安心してしまう場所に、沈められている。
鼓動が聞こえた。とくん、とくん、と。自分の眼前で命の音が一定の間隔で聞こえてくる。
日常的に生活している中で、まず聞こえてこない音が聞こえてくるのは、聞こえる状況にある他にないということで。
「ーー本当に馬鹿ね。初めからこうすればよかった」
混乱する中で、頭の上から姉の声が落ちてきた。穏やかで、温かくて、それでいて泣いてしまいそうな声色。
その言葉は誰に向けてのものなのか。少なくとも自分に対して向けられたものではないと直感で判断できるそれは、きっとラムがラム自身に矛先を向けたものだろうか。
声に続くように、背中と後頭部に一つずつ、小さな手が添えられた。包み込むような優しさのそれは、けれど自分のことを絶対に離してくれなさそうな雰囲気があって。
背中に腕が回されると強く引き寄せられて、姉の体に自分の体が沈む。
後頭部に手が回されると優しく撫で下ろされて、何度も繰り返される。
沈んで、撫でられて——レムは自分が姉に抱きしめられていると理解した。
胸に顔を埋められて、そこから離さない。
どうしてラムがレムを抱きしめたのか。傷ついたレムを自分の温かさで包み込んであげたかったから。泣いている妹を見て、姉として、してあげたいことがそれだったから。
ただ、それだけ。
特別な理由はない。
自分がそうしたいから、しただけの話。
「レム。よく聞きなさい」
抱きしめの余韻が心に馴染んできた頃合い。レムの呼吸が安定してきたことを察したラムは口を開いた。
彼女は反射的に上を向こうとするレムの頭を弱く制しながら、
「ラムの思っていることは、脳筋が言った事と同じよ。傷付くレムを見て、ラムが傷付かないわけがない。あの夜、傷付きながら戦うレムを見て、何も思わなかったわけがない」
一つ一つ、想いを声にしていく。ずっと溜め込んできた感情を今、全て解き放つ。胸の中にいる妹の心に届かせられるように、届かせて、忘れさせないために。
「とても怖かったし、不安だった。共感覚を通じてレムの感情が伝わってくる度に、レムの命にもしもことがあったら、って。そう考えさせられたわ。……もう、二度と感じたくない思いよ」
あの時に得た感覚は、絶対に忘れられないとラムは言いながら思う。目を瞑って、その時のことを脳裏に呼び起こせば、刻まれた戦慄は今でも鮮明に過る。
殺意、焦燥、憎悪、恐怖。それら全てが一度に伝わってきた感覚。いつレムが死んでしまうかも分からない中で刻まれた言葉にできない不安は、ラムにとってはトラウマもの。
隣に男二人がいなければ自分は普段通りを保っていられなかったかもしれない。
「だって、レムを失いたくない。たった一人……世界で一人しかいない
レムのいない世界に価値など無い。レムがいるから今の自分がある。レムがいてくれるから自分も色々と頑張ってこれた。
もし、いなくなってしまったら——想像するだけでも震えが止まらない。実際に、あの夜はそうなっていたとしてもおかしくなかったから。レムの命が奪われても、なんらおかしくなかった。
「そんな存在が傷付いて、ラムが傷付かないとレムは思うの? 妹の命が危険に晒されて不安にならないお姉ちゃんが一体、どこにいるの? そんな人がいるなら、ラムは本気で人間性を疑うわ」
「それは……」
「レムはテンテンが傷付くと怖くなるでしょう? 愛している人が危険になったら、怖くなって、飛び出したくなるでしょう?」
言葉を作りかけた口を塞ぐようにラムは言葉を贈り続ける。レムの心に住み着いた『自分だけが』という意識を引き剥がし、今後一切、あのような悲劇が起きないように。
その人の立場になって考えることも大切なのだ。ある意味で主観的にしか物事を考えられないレムに客観的な視点を与え、ラム達の気持ちを理解させる。
そのような意味合いでは、テンの名前を出したのは効果的だと言える。鍛錬とはいえ、主人に半殺しにされるテンを見て、レムが苦しそうに胸を押さえていたのをラムは知っているから。
愛する人が傷付く感覚——レムもそれを十二分に理解して、できれば感じたくないと密かに思っているはずだ。
「ラムもそれと一緒。傷付けば心配もするし、危険に晒されれば命を投げ打ってでも助けに行く。これは……テンテンがレムに言った事と同じね」
「ふっ」と。テンと同じことを無意識に告げたラムが笑みを薄く浮かべる。
偶然か、必然か。多分、必然。動機は違えど、レムを想う気持ちは全く同じだ。異性として、姉として、テンとラムはレムのことを好きで、愛しているから。
だからラムは言った。
強張った身体を解くように。小刻みに震える肩を安心させるように。レムがひとりではないことを、ひとりにはなれないことを教えるために。
言った。
「ーー愛してるわ、レム」
そこには、溢れんばかりの愛が詰まっていた。どれほど時間を費やしても伝え切れない、数多の想いが込められていた。
言えなかった言葉。レムとの距離感に悩み続け、本音を伝えることができなかったラムが言った世界で一番、感情の乗った言葉。
後頭部を撫でていた手が抱きしめる方向に役割を変えると、二つの腕がレムの体をラムの体に密着させる。空間の余地を許さぬラムが、レムの体を抱きしめて離さない。
言葉でも。行動でも。ラムのできる全てを駆使してレムに想いを伝える。そうやって、心底に根付く意識を変えさせ、レムを救い出す。
「愛しているから、ラムはレムが傷付くと傷付く。だから、自分だけが傷付けばいいなんて考え方、もうやめてほしい」
「お姉ちゃん……っ」
「だって、レムはひとりじゃないもの。レムの周りにはレムを世界一愛するお姉ちゃんと、レムに恋をする男と、その親友がいる」
「レムのことを大事に思う人達がここにいる」と。そう続けたラムは腕の力を弱め、レムと自分の間に間隔を作る。作ると、レムが顔を上げて自分のことを見てきた。
レムが見たのは、愛に満ち溢れた微笑みだった。唇が綻び、口元がふわりと緩み、綻びと緩みの波紋が顔全体に行き渡っている。意図して作った表情ではないと一瞬で分かる姉の笑み。
己を見つめる瞳の中に、レムは涙でいっぱいの自分を見た。化粧が崩れに崩れた見窄らしい自分の顔を見た。とてつもない醜態、でも不思議と隠す気持ちにはならない。
涙の理由は、自分でもよく分からない。堪え切れないものが溢れたとしか言えず、それ以上は上手く説明できなかった。
なんでか、友人と姉の言葉を聞いて泣きたくなったのだ。我慢してきたものが次々と流れ落ちて、ぶつけたくなったのだ。
そんな胸の中で、レムは己の愚かさを完全に理解する。
自分が傷付く事で傷付く人間がこんなにも近くにいたのか、と。単純で、簡単なことに気付けていなかった、と。
自分のことしか見えていなかったことで、分からなかった。気付けなかった。
「ラム達の痛みが解らないレムじゃないわよね。それでもまだ同じことを言うなら……、ラムも許さないわ」
そう言い、ラムは己の中に溜め込んだ言葉の全てを伝え終える。伝えたいことを全部伝え、最後にレムの意識が変わったかどうか、彼女に疑問を投げかけて。
言葉が詰まることは一度も無かった。あれほど伝えることに抵抗を抱いていたのにも関わらず、解き放ってみればなんの引っかかりもなく、すんなりと言い終えた。
悩んでいた事が嘘のよう。自分の言葉がレムに不利益を齎してしまうのではと懸念していた事が恥ずかしい。
だって今、胸の中にいるレムはそんな風には見えないから。溜め込んだものを吐き出すように涙を流すレムが、苦しんでいるようには見えないから。
「ごめん……なさい」
泣いて、
「ごめんなさい……!」
泣いて、
「ごめんなさい……! ごめんなさい……!」
泣き続けているから。
ラムの胸に顔を押し付けるレムの啜泣が弱く響く度に、その言葉がハヤトとラムの胸を締め付ける。謝罪が口から発せられた事実が、レムの意識が変えられたことを語り、二人に理解させたのだ。
その『ごめんなさい』には、この瞬間だけではないあらゆる『ごめんなさい』が込められているとラムは思う。
今の今まで自分が犯してきた罪の数々と、その重さを理解し。自分を心配する声に耳を傾けることができなかった事を理解し。
なにもかもを理解したことで、数年越しの『ごめんなさい』が止まらない。
「いい。謝ることなんてない。ラムは、レムに無理をしてほしくない……ただ、それだけだから」
そんなレムを、ラムは優しく抱きしめる。自分自身を咎めるような謝罪を温かく否定し、尚も溢れ続ける涙と謝罪を受け止めて。
あの炎の夜を越えてから、ずっと心に届かせたかった言葉を、今ようやく、届かせながら。
初めは、今回のお話の中にレムが自分を許せない事も含めようと思ってたんですが、それはやめました。
なんとなく、それを話すのはテンじゃないとダメかなぁと。
ので、そろそろ彼には目を覚ましてほしいですね。レムが真に救われるためにも。