このお話は、色々と矛盾の多いテンという人間が変わるきっかけとなるお話となるので内容としてはちょっと微妙かもです。
いつも通り、頭の中を空っぽにして読んでください。
ケトルを持ったラムを無事に着席させたところで、テンは「ほっ」と一安心。どことなく雰囲気が柔らかくなった彼女だが、残念なことにいつも通りの態度は引っ込んでないらしい。
お陰様で、全力で謝らなければ危うく紅茶の入ったケトルで物理的に口を塞がれるところだった。普通、そのような行動は冗談半分でやるのが鉄板なのだが、ラムの場合は本気も本気。
アレは本気でやる時の目だ。そうでなくとも彼女ならばやりかねないと思わさせてくるのが恐ろしい。
なんにしても、話が脇道に逸れまくる問題に関してはもう二度起こさぬようテンは心に強く刻む。ここから先はおふざけ一切無し、話すべきことだけを話す。
「じゃ。話、進めよっか」
自身のティーカップに二杯目の紅茶を淹れたテンが真面目に聞く態度。椅子の上で胡座を描く姿勢は変わらぬまま、しかし背筋を直角に伸ばす彼はふざける様子を途端に消失させる。
その様子が話し終えるまで続くことを祈るラム。彼女もまた二杯目の紅茶を淹れ、真面目に話す態度。両手を膝の上に軽く置いて背筋を伸ばすと「それじゃあ、二つ目は」と、
「その傷痕についてだけど……話す必要ある?」
「んーー。大体把握してるから無いと言えなくもないけど。一応、お願い」
言いながら右目の下に刻まれた一筋を人差し指でなぞるテンの顔は、少しばかり暗い。死戦を生き抜いた彼でも身に刻まれた一生の傷には思うところがあるのか、生じた影には後悔の念がラムには窺える。
その表情が表に出ていたと理解した瞬間、テンは無理やり笑みを作るが既に遅い。寧ろ、ラムに対しては逆効果だ。その作り笑いは己の内側にある感情を裏付けるものに他ならない。
それでも平常心を保とうとするテンにラムはため息。なんのため息か。少なくとも目の前の虚勢を貶すものではないそれを溢し、
「分かった。なら、脱ぎなさい」
「ーーーー」
途端、テンの時間が止まる。作った笑みのまま表情が固定されると、言葉の意図を理解するのに三秒は使った。
思考が高速で回転し、放たれたラムの言葉を何度も何度も反復。発してから一秒で言葉そのものの意味を把握し、二秒で指示の意味を把握し、それらを把握した三秒後、彼は「ぁ」と納得の声を小さく漏らした。
恐らく、実際に見ながら説明した方が楽だと判断してのこと。それ以外に他意はないはず。
発言の処理を終えると、テンは指示通りに上半身の患者衣をゆっくりと脱ぎ始める。もはや、ラムという女性に上半身を見られる事に関して抵抗が無くなった件については置いとくとして。
「それで? どれから説明すんの?」
「まず、その火傷と打撲の痕」
晒された肉体に不意に「体つき、いつの間に逞しくなったものだ」などと考えたラムだが、瞬きの間にその考えを捨てる。余計な考えは今は必要ない。
傷痕の中でも最も浅いものから語る彼女は背もたれに軽く背中を預け、
「その二つは、完全には消えなくともそれに近い状態にまで治すことはできるそうよ。レムとエミリア様に感謝するといいわ」
「あの二人が?」
「ベアトリス様が疲労している間ーーあの夜から昨日までの七日間、日替わりで治癒魔法をかけていたもの。ベアトリス様の治癒が大きいと思うけど、あの子達の尽力も無駄にはなってないはずよ」
さらっとあの夜から昨日で七日間、今日を含めたら八日間もの時間が経っていたことを告げたラムにテンは「そっか」と一言。それはつまり、自分が八日間も意識を失っていたことを意味するが一旦頭の片隅に追いやった。
心配をかけてしまっただろうか。自分がレムとエミリアにとってどれだけ大きな存在になれているかは分からないけど、少なくとも寄りかかって眠ってもいい相手として捉えられていることは確かで。
それを思うと、心配をかけてしまった事がなんとなく分かった。
「じゃあ、後で会いに行かないとだよね。心配かけてごめんね、って言いに行かないと」
「そうするといい。かなり精神的に追い詰められている様子……、喜怒哀楽が抜け落ちてしまっていたわ。レムもエミリア様も、あの日から笑顔を一度も見せてないもの」
「マジかよ……」
少女二人の今までを聞き、喉を悲痛に震わせたテンが出した声はひどく強張っていた。否、強張っている。紅茶を飲もうと伸ばした手が静止し、表情に疑心暗鬼が浮かび始める。
が、伝えたラムの表情は真面目そのもの。この場で嘘を語るなどの非礼な行為の一切をする気配のない彼女は、何度も見た本気も本気の顔をしていた。
それが嘘を語っていない証拠だ。本当の、本当にあの子達は精神的に滅入っている。けど、どうしてもテンは信じられない。
「あの二人が……? そんなの……だって」
あの二人が。
常日頃から輝かしい笑みを浮かべ続けている二人が。時折、甘えたような態度で接してくる二人が。守られるほど弱くないが、庇護欲を煽ってくる微笑みを宿す二人が。
ーー信じられない
そんな顔、見たくないと今さっき決意したばかりなのに。決意した時には既に遅く、自分がこうなった時点でダメだった。
なら、
「分かった。なら、俺がなんとかするよ」
言葉の余韻から抜け出したテンが拳を強く握りしめながら、それ以上の力強さで語る。自分なんかでどうにかできるのか——そう考えるよりも先に自分のやれることをやる方向に心を動かす。
今さっき決意したばかりだから。今度は自分の番だと、弱々しい己に言い聞かせたから。大事な人たちを支えられるようにと、心に深く刻み込んだから。
自分の力でどうにかなるのかではないどうにかする。あの子達の悲しむ理由が自分なら、自分が凍りついた心を溶かしてみせる。他でもない自分が。
それが、
「俺にできるあの子達の支え方。震える手を……か、か、身体を、優しく包み込んであげることくらいは、頑張ればできるはず……できるはず。いやできる、できるようになれ。できるようにならなくちゃいけない。これからのためにも」
「暴走したレムを助け出す時に、その男気を見せてほしかった」
「
先程の決意が数分と経たずに態度に現れたテンを前にラムは苦笑。
現れたはいいものの、頑張って宣言した言葉に心が追いついてこない彼は女の子を受け止めるために努力中。その発言を乱れなくまだ言えないようで。
心を通じて伝播する苦笑がテンの表情にも浮かび上がると、二人して苦笑し合う。
共通して思い浮かぶのは森の中——暴走したレムを前にしたラムがテンに自分の妹を助けてと放った時のこと。
あの時のテンは「自分なんかにそんなことができるのか」と心底不安そうにしていた。自信が無さすぎることが大きな原因で、寸前になってもまだ覚悟が揺らぎ。
それを一生懸命に焚きつけたラムからすれば迷惑な話。どこまでもどこまでも脆弱な男は、あの瞬間ですら弱々しかった。本人もラムも、どうにかしてほしいと本気で思っていたところ。
尤も。そんな彼も今回の出来事を受けて自分の在り方を見つめ直し、今の発言に至ったと。もっと早く見つめ直してほしかったとは、決して贅沢な考えではないだろう。
できれば、そのまま妹の想いに気付けるようになってほしいとラムは思う。気付いてあげてほしいと願う。人として一つ上への成長過程にある今ならば、感じ方も変わってくるはず。
そうすればきっとテンとレムは————。
「……つぎ。次の説明に移るわ」
「よろしく」
自然、描いた未来絵図に姉としての心が反応してしまうラムが話を戻す。レムとエミリアの精神面においては彼に任せるとして——彼に任せられる事に感動を覚えるが、とにかく話を戻す。
いつまでも上裸でいさせるわけにもいかない。紅茶を飲む女が一人、その前には上裸な男が一人とは、どんな絵面だ。
「もう知ってる思うけど。その右目の下にある傷痕は二度と消えない。受けた傷が深すぎたわね、ベアトリス様の治癒魔法を以ってしても痕は消しきれなかった」
「仕方ないことではあるよ。奴らと戦う時点で無傷で帰って来れるなんて思ってないし。受け止める」
仕方ない。その言葉で片付けた割には引きずっていそうな目をテンはしていた。人差し指を傷跡に添える彼は不意にも傷跡が刻まれた瞬間の記憶が脳裏に過り、鋼が皮膚を抉る感覚を幻覚として得てしまう。
意図しなかったそれを感じた途端、あの地獄が脳裏にフラッシュバック。感覚が研ぎ澄まされた結果として幻視した死の未来——思い出したくもないそれらにテンは肩を小刻みに振るわせた。
固く閉じた口の中で奥歯を食いしばり、しかしそれ以上の動揺は決して表には出さず。声にも、顔にも、そして態度にも。ラムにそれ以外を悟られぬようにして。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない。けど、心配しないで。これくらいは一人で鎮められる」
記憶を振り払うように頭を軽く振る彼は、珍しく心配の言葉を明確に声にしたラムに端的に返した。胸に詰まった重たい空気をゆっくりと外に吐き出し、深呼吸を何度も繰り返す。
そうして、精神を、安定させていく。
本当はここで「大丈夫」と言うべきなのだろうと胸に手を添えて鼓動の静まりを感じるテンは思うが。ハヤトなら迷いなくそう答えると思うが。
ーーちゃんと、正直に、全部話して。
心配そうに見つめてくるラムを見ると、虚勢を張った方が怒られる気がしてならない。正直に話せと言われた数分前、仮に強がった場合「もう忘れたの?」とでも即座に返される予感がする。
弱った姿も、強がる姿も認めてくれない。許してくれども、見逃してはくれない。この女の子は本当に手厳しい。否、女の子達。
それなら、素直な反応を見せるしか選択肢は残されていない。相手もそうしてくれているのだから、こちらも包み隠さず応えなければならないのだ。
「……うん。おっけー。大丈夫。平気。次に行こう」
「過度な無理はしないように」
「それってつまり、ある程度は無理しろってこと?」
「死なない程度に無理しなさい。ラムのために」
「死ぬこと以外かすり傷みたいに言うなよ」
そんな会話を重ねているうちに、テンの鼓動は正常なリズムを取り戻していた。もう胸に手を添える必要も、深呼吸を繰り返す必要もない。
ついでに、ラムに死ぬ一歩手前まで無理しろと言われることもない。
精神状態は凪と、完全に元通り。仄かに甘い紅茶で気を紛らわせれば、数秒前に溺れていた感傷からは抜け出せたと言える。
荒ぶる心を鎮めるのは毎度の如く疲れる。喉の奥に甘味が流れるのを横目にテンは「ほぅ」と疲労感を含ませて吐息し、
「最後はこの脇腹だっけ。明らかに紫の痣が残ってるけど。つーか、この箇所だけ異常に痛いんだよね。体を起こしたときだって悲鳴上げそうになるくらいには痛かったし」
視線を更に落としたテンは問題の箇所を見つめる。悩みの元は言った通り、右の脇腹。
異常だと感じたのは寝台から身体を起こした瞬間。なんの予兆もなく骨が軋むような音が響いた途端、打撃が直撃した直後のような痛みがした事。
同時に、胸の内側で同等の表現方法が適応される痛みが程度を下げて走った事。走った、というよりも響いたの方が正しいだろうか。
表現方法は兎にも角にも、痛い事に変わりはない。痛くて、苦しかった事に変わりはない。
「ここは治癒できなかったんかな。まぁ、治してくれただけでも感謝するべきだよね。あんまり贅沢を言うわけにもいかないか。もっとひどい状態だっただろうし、ここまで治ってるのが奇跡だと思って感謝した方がいい」
恐らく、自分に最も治癒魔法を施してくれたであろうベアトリスの頑張りに感謝しつつ、テンはこれ以上の治療を刹那でも望んだ自分を咎める。
死亡同然の体をここまで治してくれた彼女に今よりも先を望むのは絶対におかしい。そんな無礼な真似をするなら、一時は死ぬ覚悟すら決めた自分が生きている今を噛み締めるべきだ。
本当は死ぬはずだった自分。一度は行き着いた黄泉路の終わり——黄泉の国に流れ着くはずの運命を変えてくれたのだから。
冗談抜きでベアトリスは命の恩人。せめて恩返しとして、ちゃんと回復したらマナを分けてあげなければ。できれば干からびるまで吸われないことを願いたい。
と、
「………ラム?」
脳裏に描かれた、ベアトリスのマナドレインによって踠く自分の姿に戦慄——テンがラムの異変に気付いたのはその時だった。
脇腹に固定していた視線を解きつつ脱いだ患者衣を再び着用した彼が見たのは、机の上に置いた、組んだ手を握りしめて俯いたラムの姿。こちらに顔色を窺わせることを嫌がるような俯き方の彼女は沈黙している。
脇腹の話題を出したあたりからか。大凡の見当しかつかないテンは「ラム。どうしたの?」と、もう一度呼びかける。しかし、返答はない。反応はしてくれているが、声には結びついていない。
ふと、
ーーそういえば。さっきも脇腹の話が出たときに言葉に詰まってたような
俯いていること以外に分からないラムを視界に入れながら、テンは軽く流していた事実に立ち返る。遡るのは今から数分前、体について三つの事を話すと言っていた時。
あの時のラムも脇腹の話題に触れた時だけは妙に言葉に詰まっていた。言い辛いそうな、言いたくなさそうな、声にするのが辛そうな。言い表し方など何通りとある様子。
何が彼女を苦しめる。何が彼女を俯かせる。
その原因は間違えなく脇腹だが、肝心の理由が分からない。ならば、分かってあげられたらとテンは思考を加速させる。考える力に熱を加え、記憶の引き出しを手当たり次第に開けまくる。
理由として考えうるものとしては、傷痕が生まれた理由。傷痕そのものではなく、それが刻まれるに至った過程。その過程の中にラムの息を詰まらせる理由があるはず。
思い出せ。これ以上ラムに辛い顔をさせるな。
思い出せ。見たくないとついさっき決意しただろ。
思い出せ。彼女の口から『それ』を語らさせるな。
あの夜の記憶を駆け抜けるように遡る。意識が落ちる瞬間からずっとずっと前まで。この記憶も違う、この記憶も違うと、殺戮の舞台を越えて様々な記憶を横目にしながら通り過ぎ。
人生で初めての体験ばかりで、心が大きく動いた血の夜。レムを救うために暴走した彼女と戦ってまで救い出した————、
彼女と、戦ってまで。
「ーーーぁ」
瞬間、
分かった。
刻まれた理由。
途端、
分かった。
ラムが苦しむ理由。
だってこの傷は————。
「……無理に言わなくていいよ、ラム」
「分かってるから」と。
一つの記憶を見た途端から全てを理解した気がしたテンは俯くラムに優しく話しかける。記憶を詮索しすぎた結果として頭の中がオーバーヒートしそうになりながらも、彼はラムの心に寄り添った。
この場合、物語の主人公ならば頭に手を添えるくらいはしてやるのだろうかと不謹慎にも過ぎったが。多分、それは違う。今は、そんな雰囲気じゃない気がする。
というよりも、『自分から』動けるテンではない。
求められたら頑張って応える。そこから先にはまだ辿り着いていないのが今のテン。決意したもののいざ『自分から』動くとなると、女性耐性はあれども女性経験の無さが浮き彫りになった。そもそもの話、
「ーーありがとう」
そもそもの話、ラムがそんな事を望むのか——そんなこと考えていた時、その声はテンの鼓膜をテン以上の優しさで撫でた。
吐息と一緒に薄く溢れた弱音は、けれど確かな音として厨房という狭い世界に弱く反響し。その世界の住民として存在するテンの鼓膜を強く刺激する。優しい中に隠れた芯のある感情が一つ、彼の心を一直線に貫く。
だって、沈黙していたはずの少女が発した沈黙を貫く言葉はあまりにも卑怯すぎていた。その声は今までにも聞いてきたはずなのに、それらを軽く凌駕してくるものがあって。
震えているわけじゃない。泣いているわけじゃない。
怖がってるわけでも。まして寂しがっているわけでもない。
なのに、なのに、
「もう、その事は口にしたくない」
——どうして、哀しそうに見えてしまう。
「ーー!」
その瞬間、テンは動いた。
何かを思った彼の吸息音が感情を言語化する前に——頭の中で言語化した言葉に意味を持たせる前に——心が反応したままに。
その両手が伸び、机に置かれて強く握りしめられたラムの両手に重なる。
これまでほとんど
自分から動けないと思った矢先。相変わらず矛盾点しかないテンがラムの手を包むと、ひんやりとした手に触れた温かい感覚にラムは弾かれるように顔を上げる。
ありえない——とも言い切れない対応に目を見開く彼女が見たのは俯くテンだ。絶対に顔を見せないという意志がひしひしと伝わる体勢の男だ。
先程とは真逆の構図が完成したところで「あ、あのさ」と声がしどろもどろなテンがラムから目を背けたまま、
「嫌だったら振り払っていい。いつもみたいに蹴散らしていい。寧ろ、蹴散らしてほしい」
「ーーーー」
「
口早に話すテンの声は焦っていた。
自分でも何を言っているのか分からなくなる言葉の羅列は、きっとしてしまった行動に対しての理由付け。「心配だから」とはっきり言えない男の、分かりやすい取り繕い方。
珍しいテンを前にしたラムは受けた行動が齎した衝撃を一瞬で処理。動揺するよりも先に考える力を働かせる。
そして、
ーーこれがこの男がやれる『自分から』の精一杯か
考えた結果として、ラムは目の前のテンを見ながらそんなことを思った。
雰囲気に任せないと女の子一人まともに抱きしめられない、まだ男として未完成すぎる人間が表現できる精一杯で最大限の包み方。
事実として、王座ゲームの時にレムを抱いた時は固まっていたくせに。レムに「いかないで」と泣きつかれた時は素直に抱きしめられていた。体勢は同じなのに、状況次第でこんなにも態度に差がある。
雰囲気に任せないと、まだ彼は無理なのだ。
レムとエミリアに不本意ながらにも鍛えられて女性に対する耐性はあるのに、そのような経験がない。耐性が経験と結びつくはずなのだが、そこもまたテンが『普通』という言葉から外れていると思うと変に納得する部分があって。
それでも今、テンがこうして自分のことを心配して手を包んでくれている。
これはつまり、
「決意の形、と思っていいんでしょうね。その第一歩がラムになるとは思わなかったけど。ここまでくると単純すぎて感心してくるわ」
「支えると言った。それは物理的な話だけじゃない。これからは、頑張ろうと思います。頑張ることしかできないから。たくさん経験を積んで、女の人とちゃんと接せられるような人になります」
向けられるラムの瞳をテンは見ることが出来ない。見ればきっと、色々と恥ずかしくて伸ばした手を離してしまいそうになる。
それはダメだ。今ここで彼女の手を離したら、変わるきっかけすら手放してしまいそうな気がする。固めた決意を頑固としたものにするために、今だけは揺らぐわけにはいかない。
これは、自分が弱々しい自分から変わるために必要なことだから。
周りからすれば小さな一歩かもしれない。否、一歩にすら満たないのかもしれない。
その程度のことなど周りの男は簡単にやってのけて、女の子を安心させられるのかもしれない。器の大きな人だと抱きしめたりなんかして。
自分はそんな人とは違う。女の子の気持ち一つ気付いてあげられなかった最低な男、それが自分という人間。
そんな自分にとっては、これが『自分から』してあげられる精一杯なんだ。
今まで頭撫でたり、お姫様抱っこしたり、腹の上に乗っかられたり、寄りかかられたり、色々とされてきたけど。結局は全部、相手が優しく接してきてくれたから許容できたことで。
『自分から』動いたことなんて一度もない。
『自分から』動けたことなんて一度もない。
でも、それじゃダメだと思った。あの時、レムのことを抱きしめて。エミリアの頭を撫でて。不安がる女の子を安心させてあげる手段がそれしかないと悟った。
だから頑張ることにした。頑張り続けることにした。
「その一歩目が
「分かった! 分かりました! もう勘弁してください! ……オーバーキルです。はい、死体蹴りしないでください。饒舌な毒舌が一番キツいです」
声に自分らしさが戻ったラムのマシンガントークにテンはたじたじ。嘲笑を引っ張り出すはずが彼女の滑舌に火をつけてしまったようで、何一つとして突っかかりのない呂律の良い乱れ撃ちにはどうしようもない。
どこからそんな発言が息を吐くように出てくるのか。パッと思いつくのも凄いと思うが、噛まずに言えるのも凄い。お陰様でテンのライフはゼロを下回ってマイナスに突入している。
尤も。その言葉の羅列が瞬間で思いつくことがラムという人が、ソラノ・テンという人のことを見守ってくれていることの裏付けにもなるが。色々と必死な様子のテンがそれに気付くことはない。
それと、手を包み込まれたラムの表情が毒舌を吐き散らした割には緩んでいることにも、気付くことはない。
体勢も相まって項垂れているようにも捉えられるテン。その彼の名前をラムは一度だけ呼ぶと、
「顔を上げなさい。支えるなら、支える人の顔を見て、その人の心と向き合うべきよ。中途半端にするなら今すぐその手を離すことね」
勝手に緩んだ頬を引き締め直すラムがテンの心を叱りつける。気遣いの一つもない彼女は決意を固めた彼に対して容赦のない言葉をかけ、それからの反応を待った。
もし、自分の言った通りこれが彼にとっての始まりになるのならば、自分は彼の背中を押してあげる必要がある。後ろに下がらせるようなバカな真似はさせてあげない。
だから敢えて厳しくいく。
その一歩を踏み出せれば彼は変われるとラムは信じているから。大切な女の子のためならば命すら懸けれる単純すぎる男なら、応えてくれると知っているから。
数秒してテンはゆっくりと顔を上げる。見えた表情は無表情——無表情を保とうとして頑張っている無表情。無表情であることが感情を押し殺している事を雄弁に語っていた。
できれば面白い反応を期待していたラムとしては一抹の不満が残る結果。彼らしいといえばそうだが、どうせなら初心な反応を見せてくれても良かった。
なら少しだけ痛いところを突いてやろう。
「身体を 優しく 包み込むのではなくて?」
「うぐ……」
首を傾げ、ラムは問う。一、二分前に彼が言ったことを反復する彼女は手に伝わる優しい温度を感じつつ、普通の態度で普通に問いかける。
その問いかけはラムの予想通り、テンにとっては痛かった。当たり前だ。それはついさっき自分の口から出した言葉なのだから。
震える身体を優しく包み込んであげられるように頑張ると言った数分後の今。しかし、有言実行に至るまでには早すぎる時間経過で。
「レムとエミリア様は手を包むだけじゃ満足してくれないと思うけど」
「うぐぐ……」
傾げた首を反対に傾げながら問うてくるラムにテンは眉間に皺が寄る。全くその通りだと心の中で思うテンは苦鳴しか溢すことができず、動揺が顔の表面に漂い始め。
「レムは抱きしめるだけじゃ止まってくれないわよ。絶対に」
「ぐはぁ……」
向けられた愛の深さに撃沈。レムの想いを明確に理解したことが理由となって彼女と再開した時にどうなるのか、なんとなくの見当がついたテンが精神的に打撃を受けて沈んだ。
撃沈に乗じてせっかく上げた頭が垂れると額が机と衝突。やや強めの振動が机に波紋すると乗せられた食器が音を立てて僅かに動く。
痛がる様子はない。痛みよりも脳裏が描いた絵面に意識が持っていかれた彼は「抱きしめるよりもすごいこと……うぅ」と、情けなさしかない態度。
レムの想いを受け止めると決意した事と、慣れないことをすることに対して抵抗が生まれない事はイコールではなかった。
勿論、決めたからには受け止める気概。しかし、それでも恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。だから、こうしてラムの手を包み込むことをはじめの一歩としたのだが。
そう考えると、自分の女性経験が中学生並みだという事実に気づいてしまい、ラムの手を包み込んだ両手がプルプル震えてきたテン。大学生にもなってコレがはじめの一歩とか、情けなさすぎる。
いや、冗談抜きで情けない。今までは受け入れてきた自分を否定した瞬間からそう思えて仕方がない。
途端、震えを捕らえたラムが鼻で笑う気配。色々と頑張ろうとする自分を見下しながら嘲笑する姿が目に浮かぶ。
ーーマズイ。このままじゃ前と一緒だ
なにか、なんでもいいから言葉を返さなければと気合で顔を上げるテンは背筋をできる限り伸ばし、
「で……でも。でも、今ここで俺がお前を抱きしめにいったらブッ飛ばす……でしょ?」
「好きでもない男に抱きしめられたくはないわね。存在を抹消する……のは可哀想だから、跡形もなく消し飛ばすだけで我慢してあげる。慈悲深く寛大なラムに感謝なさい」
「慈悲深く寛大とは?」
適当に思いついた言葉を弱く放った結果として消し飛ばす宣言を突きつけられる。ちょんちょんと人差し指で突いた反撃として、拳をフルスイングで振るわれたと錯覚する辛辣さ。
多分、冗談なのだろうが、本気の殺意が赤の瞳に宿ったせいで全く冗談に聞こえない。そこに弱風が頬を撫でれば、テンは血の気が引いた。
跡形もなく消し飛ばす——その言葉を表現するかのような風の放出。その源は間違えなくラムだ。風魔法を得意とする彼女が展開したそれは、しばらくテンの周囲を旋回すると四散する。
今のに瞳の奥でギロリと光る殺意が宿ると切れ味が持たされるのだろう。仮に、そんなことがあれば間違えなく消し飛ぶはずだ。
尤も、ラムが本気で自分を殺すわけがないと知っているテンは「すいませんでした」と頭を下げるだけで済ます。
テンが本気で自分を抱きしめてくるわけがないと知っているラムも「分かればよろしい」とだけ返して済ましてあげた。
「ーーーー」
一つの会話が終わると、ラムの視線が向くのは手元。例の傷痕のことを話すとなった瞬間から感じていた負の感情が消えるまで、ずっと包み込まれていた一つ合わさる細い両手。
話している間にも離れなかったところから察するに、彼の決意はやはり本物だった。今までの自分を否定する彼は弱々しい自分から変わろうと足掻き、自分なりに頑張っている。
やっとか。やっとなのか。
もっと早く今の状態になってほしかった。そうだったらレムが想い伝わらずに四苦八苦することも、自分が励ますために四苦八苦することもなかったろうに。姉妹揃っていい迷惑だ。
それも悩みも、添えられた手を見ていると、少しずつではあれど解決されていくのだろうか。それはそれで少し寂しさを感じなくもない。
初心なテンは、見るのも煽るのも楽しかった。
王様ゲームが最たる例。レムに抱きしめられた時の虚無顔はいつ思い出しても滑稽で、一人でいる時に過るとつい思い出し笑いが生じてしまう。
そんな彼も、いずれはいなくなってしまうのか。
「それで……。いつまで手を包むつもり?」
不意に訪れた、よく分からない寂しさを押し退けるラムが重なる手を視線で差す。かれこれ一分はこの体勢、そろそろ違和感を感じてきた。
「んーー」と喉を低く鳴らしながら考えるテン。この体勢に慣れてきたのか、彼は「うん」とわざとらしく、そして景気良く頷き、
「握っていいですか?」
「死になさい」
「ーー!? いだだだだだだ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 冗談! じょうだんです! 強い! 握る力が強い! 骨が砕けるぅぅぅ!」
ーー前言撤回。やっぱりテンはテンだった
初心であろうとなかろうとソラノ・テンという男は変わりない。変わることはあっても、いなくなることはない。
そんなことを思わせてくれたテンに対し、目の温度を絶対零度に下げながらラムは軽く笑った。
「待って! 本当に痛い! ラムおまっ、こちとら病み上がりでフラッフラなのにいだだだだだ!」
この終わり方、なんとなく好きになってきました。まぁ、多用するのは飽きられそうなのでしませんけども。
耐性はあるのに経験がない。
つまり。レムやエミリアによって女性耐性が高められた結果、女子に触れること自体には慣れてるが、経験がないから触れるまでに至れない。
という解釈かなぁ。んーー、自分で創り出した人物のことなのにちょっと難しい。
次回あたりでこの二人の会話も終わらせたいところ。