フラグは前々から建ててきたので、やっとその時が来たかって感じです。一部、「ん?」ってなるかもですが、スルーしていただけるとありがたいです。
あと、このお話を読む前に『焦らし、焦らされ。』と『人生初の贈り物記念日』をざっと見返すと、「あぁ、あれのことね」と思える場面があるかも。
まぁ、読まなくても分かるように書いたので、ご自由にどうぞ。
ーーああ、やっと気づいてくれた
瞬間、ラムはそう思った。
思って、その覚悟を受け取った。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
その言葉は、聞く人によってはとてつもなく気色悪いものに聞こえるかもしれない。自分に対する評価が高すぎる男の台詞に聞こえて、何を言っているんだと思えるかもしれない。
否、殆どの人間がそう思うだろう。テンとレムの今までを何も知らない人間ならば、そう思うのが必然的だ。自意識過剰も大概にしてほしい。
しかし、ごく僅かな人間——その二人の今までを知っている人間が聞けばどうなるか。
答えは既に出ている。
「……やっと、気付いた」
その声は、心の底から湧き上がる想いが音となって溢れ出たものだった。
堪えようにも堪え切れず、制御の利かなくなった嬉々とした感情が破裂したような。もどかしかった痒さが解消されて、爽快感を得たような。妹の想いがやっと伝わって自分まで嬉しくなったような。
表現の仕方などいくらでもあるその声。何通りもありすぎてどれが適切か分からない。否、全部が正解だろう。どれを取っても結局は『嬉しい』という一つの思いと結びつくのだから。
途端、その感情を押し退けて一つの思いが不意に凄まじい勢いで迫り上がってくるのをラムは察した。
レムの想いに気付いてくれた感傷を置き去りにする一つの言葉が今、ラムの心を一瞬だけ支配して目の前の男に叩きつけられる。
「この……」
いつ気付いた?
どうやって気付いた?
レムの想いを知ってどうするの?
あなたはレムのことが好きなの?
色々と掛ける言葉はあるかもしれない。一挙に声を上げた胸の内に秘める疑問の羅列、聞きたいことは山ほどある。
気付いてくれてありがとう。
あの子の想いを無駄にしないで。
然るべき対応をしなさい。
情けない自分から変わるのでしょう。
掛けなければならない言葉はあるかもしれない。その関係が起点となって渦巻き続けてきた、掛けたい言葉は星の数ほどあるから。
でも、それでも、
「この鈍感男ーー!」
その言葉が、なにを語るよりも先に口から吐き捨てられていた。
レムの姉としての自分が、妹を変えてくれた感謝を語る前に心を埋め尽くしていた。
積み重なった怒号が、渦巻き続けてきた憤慨が。姉として生まれ続けてきた感情の数々が、全て伝えられる。
「どれだけあの子があなたに想いを伝えてきたか分かっているの? いいえ、分かっていないでしょうね。分かっていたらこんなに遅くなることはなかったはずよ!」
言葉そのままの勢いでラムは立ち上がる。衝撃で椅子が音を立てながら倒れるもラムの鼓膜には届かない、届いていようがいまいが関係ない。
背後に鬼を幻視させる彼女の表情は恐ろしく鬼のようだった。鬼化したレムを彷彿とさせるそれは、明らかに激怒している。
当たり前だ。彼女の視野にはテンしか入っていないのだから。声を上げた瞬間から急激に狭まった世界の中、妹の想いを素通りしてきた罪深き男しか彼女は見ていないのだから。
世界の事情など知ったことか。今は、自分の事情のみを優先する。
「一体あの子が、何回、何十回、何百回、あなたに想いを伝えてきたか知っているの? 直接的な言葉ではないにしろ、それに近しい態度は日々の中で沢山あった。今、思い返せば分かるわよね? 分からないなら本当に殺すから」
王都に行った時、四人で厨房にいる時、二人だけで買い物に行った時、鍛錬で傷付いたテンを治癒していた時、相合い傘をした時——なんでもない日常生活。
その中でレムは、テンに『好き』という感情をこれでもかと表現してきたことを、ラムは誰よりも知っている。胸に抱き続けている言葉の意味を態度で示してきたことを、ラムは誰よりも理解している。
初々しすぎて、見ている方が恥ずかしくなってくることもあった。しかしそれは、恋する乙女であるレムが想いを成就させるための絶え間ない努力を重ねてきたことの証明。
触れてほしい。気付いてほしい。そして、反応してほしい。そんなレムのささやかな想いの数々。恋をしてから——ひょっとしたら恋をする前から重ねられてきたそれ。
それを、テンは悉く無視してきた。姉として許せないし、許していいとは思わない。
「どうしてもっと早く気付いてあげなかった……とは、言わない。言いたいけど、言わない。それは、テンテンが一番分かってるとラムは信じてるから。言わないでおいてあげる」
僅かな慈悲が言霊に宿ると、ラムは前髪を人差し指で整える仕草。熱っぽい感情を帯びた息を弱く吐き、頭に上った血を冷やそうと働きかけた。
それでどうにかなったのならラムが言葉を続けることもないが。残念ながら、レムの姉として言いたいことが心の中に残っている彼女の口はまだ閉じない。
膝をそろえて背筋を直角に伸ばすテンをギロリと睨む彼女は「それでも」と腕を組み、
「非があるのはあなたよ。これに関してはあなたが全部悪い。なら、ラムの積もりに積もった苛々くらい全て聞きなさい。あの子の想いを無視してきた男に掛ける言葉はまだ残っているの」
「はい」
一言。
言ったテンの声色は異常なまでに沈んでいた。ラムの怒号を真正面から全て受け止める彼は己を貫く瞳から刹那たりとも目を逸らしていないものの、その代わりとして苦鳴を上げてしまいそうな程に表情が歪んでいる。
頬の一部に力が入っているように見えるのは恐らく、震えを我慢するために固く閉じた口の中で奥歯を噛み締めているから。
無表情を保とうとしているのだろうとラムは考えるが。この場合、無表情の方がより怒る。自分の痛いところしか付かない言葉の羅列に、顔色一つ変えない男がいてたまるか。
「ずっともどかしかった。レムとテンテンのことを外から見守ってて、あの子の想いに気付かないあなたを見るのが腹立たしかった。当然でしょう、だってラムはレムのお姉ちゃんだもの」
同時に嬉しくもあった。とは、絶対に言ってやらない。レムの可愛らしい反応が見れたことが、不本意にも姉として嬉しかったなどと思ってなどいない。断じてそんなことはない。
ただ、女の子らしい一面を見せてくれたことが嬉しかっただけ。その状態がずっと続いたことが、幸せに感じただけ。
だが、それとこれは話が別。気付いてあげられなかったテンにラムは怒っているのだ。
「何度実力行使に出ようとしたか、数えるのも面倒だわ。特に、エミリア様と仲良くしている時のテンテンを見ているレムを見ているとき。自分と対応が違すぎて控えめに言わなくてもかなりヘコんでいたのを見ていると、あなたに腹が立って仕方なかった」
「そんな風に見てたんだ」
「嫉妬。とまではいかなくとも、好きな男が他の女と親しげに接していたら自然と妬いてしまうが女よ。エミリア様がテンテンに気があるか否かは別として」
言いながら、その時のことをラムは回想する。
今となっては懐かしい思い出。使用人四人で王都に仕事という名の遊びに行った日のこと。帰ってきた時に、腕の骨が折れたテンをエミリアが連行するとなった場面。
確かに、外から見ればテンとエミリアは親しげに見えていた。実際に二人は親しい関係だと明確に言えるし、お互いに心を許せる関係になりつつある事は否定しきれない。
そんな二人を見ていたレム。連行されるテンと連行するエミリアを見つめる彼女の目はしょんぼりしていた。妬いてもいた。切なそうにもしていた。
それらをまとめて、悲しそうだった。自分との差がありすぎて、自分とハヤトの言葉が無ければ危うく誤解を招くところ。
そんな妹の背中に手を添えるラムの気持ちなど考えるまでもない。今、彼女が語った通り。ぶん殴ってやりたい気分だった。ぶん殴って「気付け」と言いたかった。
「他にもあるわ。四人で昼食の支度をしている時。エミリア様がテンテンの鍛錬にお邪魔していると知ったレムが自分もお邪魔していいか、って詰め寄った話。……テンテンは覚えてる?」
「うん、覚えてる。ーーよく、覚えてる」
何ヶ月前の話だろうか。エミリアに対する明らかな対抗心を炎炎と燃え激らせるレムがテンに詰め寄ったお話。
自分がエミリアよりも劣っていると感じたのだろう、別に抱く必要もないそれを宿す彼女の食いつき方は凄まじかった。「ね? ね? ね?」と、疑問符を殴りつける様は可愛らしいものがある。
言われたテンも覚えていた。今思えば、あれが自分のことを気にかけている事の裏返しでもあったのかもしれない。否、裏返しでしかなかった。
あのとき、どうして気付いてあげられなかった。
全くもって自分自身に嫌気がさす——嫌気がさせるようになれたことに安堵している自分がいた。
「他にもある。ありすぎて語りきれない。日々の積み重ねだったから、テンテンとレムが一緒に過ごした回数が語りたい事の個数のようなものね。丸一日あっても語れるかどうか」
「ーーーー」
幾分かは落ち着きを取り戻してきたラムが倒した椅子を立て直しながらため息。呆れ半分、怒り半分のそれを耳にしたテンは何も言えない。
彼女が激怒してから初めて視線を落とす彼は今、己の鈍感さに心を八つ裂きにされているところだ。
その発言が冗談ではないことなど知れたこと。故に、レムの想いに気付けなかった回数が底知れぬと理解した心が深く抉られて、刻まれて、一生の傷痕が深々と残る。
本当に自分は最低だ。あの瞬間——精神が黄泉路にいた時、その時にレムの愛を聞いてやっと気付いたのだから。
遅すぎるにも程がある。言われないと分からなかった。好きになられた人として落第点すぎて弁明する気にもならない。嫌われてしまえとすら思えてしまう。
思えたならば、言うことは一つだけ。
「俺は、ほんとうにダメなやつだな」
「そうね。ダメすぎる」
ただの事実をポツリと落としたテン。心の中の声が無意識的に漏れたそれにラムが反応したのは刹那。レムの笑顔が過ぎる度に己の弱さを自覚し、打ちひしがれるテンの声にラムの芯のある声が重なった。
ラムの声に冗談の二文字はない。一秒たりとも視線を外そうとしない彼女は本気で、ソラノ・テンという一人の男のことを本気でダメなやつだと言い切っている。
思考を介せず脊髄反射で反応したと思わせるそれに、しかしテンは笑った。「ふっ」と、あまりにも感情が無さすぎる笑みだった。
それが過去の己を嘲笑ったものであることなど、ラムには容易く分かる。テンと深く接してきたラムには、彼の心境がよく分かる。
だからこそ、ラムはその先の言葉を繋げた。
「でも、そこで終わらせないのが
テンの正面に座り直すラムが俯く顎に手を伸ばし、指を揃えた右手が彼の顎を優しく掬い上げる。
上がった視線、その先にいるのは赤色の瞳に確かな温かさが浮かび上がったラム。
「ダメな男から変わると言ったのは誰? 自分の弱さを否定したのは誰? ラムの知っているあなたを過去のものにすると語ったのは、誰?」
力強い眼差しで、テンの語った決意と覚悟をラムは再び問う。
いつの間にか鬼の表情は気配を消失させて、代わりに森の中で覚悟を問いかけてきた彼女と同じ気配が漂っていた。
「それなら、あなたはどうなるの? どんな自分になって、どうしたいの? それを今一度、教えなさい。ーーラムに期待させておいて、情けない回答をしたら許さないから」
そこに、今回は新しく『期待』の二文字が加わったことにテンは心を震わせる。
厳しめの言葉をかけながら。しかし今の言葉には常日頃から言霊に込める皮肉も、投げやりな感情もなにもなく、純粋な好意のみによって作られた温かみがあった。
一体、自分はいつから彼女にここまで言わせる人間になったのか。今更感しかないが、改めて考えると異常だ。こんなの、自分の知っているラムではない。
けれど、目の前にいる人は正真正銘のラムだ。ラムという名前を持った一人の命を宿した存在。原作と比べたら随分と柔らかくなった、心優しき少女。
変えたのは誰か。自分だろう。否、自分達だろう。
なら、自分はそれに応える必要がある。彼女を変えた一人が自分ならば、変わったことで生じた思いには応えなければならない。あのラムにここまで言わせたのならば、その思いを無駄にするわけにはいかない。
「ふぅ」と、深く息を吐く。
それで胸の中にあった決意と覚悟を妨げる感情を諸々全て吐き出す。
「すぅ」と、深く息を吸う。
それで肺を大きく膨らませて曲がっていた背筋をピンと伸ばし。ラムと目を合わせ。
そして、
「自信なさげで弱々しかった自分を振り切って、ラム達を支えられるような自分になる。向き合うこととちゃんと向き合えるような自分になって、レムの想いに応えたい、応えてあげたい」
「それで?」
「だから、俺はレムのことをたくさん好きになる。今よりももっと……、気づけてあげられなかった分を取り返せるくらいに好きになって。好きになられた人としてやれることを尽くすよ。前からの『空野・天』じゃなく、今からの『ソラノ・テン』として」
今この瞬間、故郷の自分を完全に振り切るとテンはラムに固く誓う。決意という決意を、覚悟という覚悟を重ねてようやく、彼は本当の意味で殻を破った。
今まで——十八年という人生の中で築き上げられてきた『空野・天』から。この世界に来て、様々な経験を越えて、初めて自分という人間を見つめ直して、変わろうと思えた『ソラノ・テン』へと。
故郷の自分をずっと引きずってきてしまったから、今この瞬間にカンマを打つ。それから、この世界に生きる自分としてまた一歩ずつ歩みを進めていこう。
これは決別ではない。あくまで境界線を引くだけだ。振り切ることはできても、完全にその自分を捨て去ることなんてできない。
だって、その自分がいたからこそ今の自分がある。『空野・天』があったからこそ『ソラノ・テン』にならなければと思えた。
だから、『ソラノ・テン』は『空野・天』に感謝を渡して背を向ける。今までの自分を否定して、今からの自分を肯定して。どっちも一緒だと、また揺らいでしまいそうな気がするから。ハッキリと区別をつける。
「本当にへーきなのかぁ?」と胡座をかき、体を横に小さく揺らしながら呑気に心配してくる『空野・天』に「平気だよ」と自信あり気に笑って返し、それを最後にして。
「……そう」
言い表しようのないテンの変化を見届け、それを肌で感じたラムの声はいつになく弾んでいた。一言、たった一言でも伝わる弾み度合いは、彼女の心境をなによりも語っていた。
どうしてだろうか。目の前の男がいつも自分が見てきた男と少し違って見える。別段、これといって変わったことはないが、なんとなくそう捉えてしまう自分がラムの中にはいた。
姿形——ソラノ・テンという男は至っていつも通り。が、覚悟と決意を告げてから心持ちが以前とひっくり返った彼は、明らかに何かが違う。
テンのことをずっと見てきたラムからすれば嬉しい変化。そうなってくれたらいいなと思い、切なる願いだったことが叶えられた気分だ。
「言質、取ったわ。その言葉はラムの心に刻み込んだから。もし、引っ込めたら」
「引っ込めたら?」
「殴る」
「ひぇっ」
お決まりの軽口を叩き合った直後、ラムが顎を持ち上げるために使った指でそれよりも軽いデコピン。爪と肌が当たる乾いた音が僅かに反響すると、「いてっ」とテンが反射的に目を一瞬だけ瞑る。
なんのためのデコピンなのか全く分からないテン。ラムのことだから意味などないのだろうと勝手に思う彼は瞑った目を開ける——その瞳には、一輪の可憐な桃色の花が映し出されていた。
突然。本当に突然。全く予期していないラムの微笑み。不意なそれに意表をつかれるテンは思わず固まり、彼女から目が離せなくなる。
そうやってテンの目を奪ったところで、ラムは想いを紡ぎ出す。
だって、まだ話の途中なのだから。
言いたいことはまだある。
「鈍感で、レムの想いに気付けなかったことに関しては許さない。悪いけど、姉として許していいとは思わない」
初めて見たラムの笑み。ただ純粋に、嬉しいから笑ったと見る者が勝手に思うような美しい笑みから作り出される言葉は割と辛辣だ。姉として決して譲らない気持ちだけは曲げはしない。
けれど、表情が辛辣を相殺しているお陰で全く辛辣に聞こえない。ラムが向けてくる柔らかな笑みがその言葉を完璧に破壊している。
そうして作り出された言葉は、
「けど、それ以上に感謝してる」
膝上に手を添えて背筋を伸ばすラムが放った言葉は、テンにとっては予想外に予想外を重ねられたようなもの。まさか、このような場で感謝を贈られるとは思わなかった。
否、このような場だからかもしれない。雰囲気の整った場でないとラムは性格上、自分の胸の内を出したりはしない女の子。そういう意味では必然的と言えなくもない。
一つ一つ。その中で彼女は言えずにいた言葉を紡いでいくのだ。
「あなたの存在が、あの子を変えるキッカケになったことは確かで。そこから色々と悪い方向に進むだけだった事が変わりつつあるのも確かだから」
ずっと伝えたかったこと——ラムがテンに言いたかった想い。レムの姉として密かに抱き続けてきた感情。血の夜に言えなかった言葉。
それらが行き着く一つの気持ちを今。今しか伝えることのできない気持ちを今。ラムはテンに伝える。
一度だけしか言ってやらないからよく聞けよ、と思いながら————、
「ーーありがとう、テン。レムを助けてくれて」
——今、ラムがテンに対して、出会ってから初めて満面の笑みを咲かせる。
一輪の桃色の花が満開になったと錯覚させられるそれは、意識していないと呼吸を忘れてしまう程に綺麗だった。
咲き誇るそれは、周囲に同じくして狂い咲く花の一切を寄せつけぬ孤高の存在。「美しい」という言葉を独占していても何ら不思議でない、正しくその言葉を扱うのに最も適している。
それに、ラムはテンの名前をなんと言った。
「おまえは……、ほんとにずるいよ。それやめろって。王都のやつを遥かに越えてくんじゃねぇよ」
直球すぎる感謝の言葉を受け取り、テンはむず痒そうに後頭部を掻きながら視線を横に逸らす。自分の覚悟とラムの笑み。全く釣り合っていないそれを一身に浴び、やりづらそうに喉を低く唸らせた。
女の子は基本的にずるいと、ラム自身も語っていたが本当にそうだと思う。ずるい、本当に女の子というものは卑怯だ。意図せずに口調が崩れたではないか。
勿論、ラムがそれに反応しないわけがなく。満面の笑みを一瞬にして引っ込める彼女は、代わりに勝ち誇ったような澄まし顔をキリっと光らせ、
「口調が崩れたわね。はい、悩殺確定」
「くたばれこの小悪魔」
苦し紛れの抵抗を見せながらテンは盛大に椅子から転げ落ちる。今の発言によって美しいだけの笑みのはずのそれがちゃぶ台返しの要領で反転し、意図して作られたものだったと知った。
相変わらず瞬間風速が高すぎるラムには敵いそうにない。あんな笑みを、それも初めて、それもそれも「テン」と、あだ名ではない呼び名で。
破壊力がありすぎて冗談抜きで悩殺されかけた。悩殺の境界線に両足を突っ込む寸前。既に片足は踏み込んでいた。軽口を吐けたのは自分の成長を感じてしまう。
尤も。それでもラムの満面の笑みが見れたから良しとするテンは「肘、打ったぁ……いったぁ」と床に強打した肘をさすりながら椅子を立て直す。
その軽口が、ラムの照れ隠しだとは決して知らぬまま。
「ラムってさ、俺が覚悟とか決意とか固めてると必ず茶化してくるけど。なに、そうしないと死ぬ呪いにでもかかってんの?」
「茶化してるつもりはないわ。ただ、らしくないことを言ってくるテンテンが気色悪いから誤魔化してるだけ」
「俺がカッコつけるのって、そんなに違和感ありますか?」
「ある。例えるなら、脳筋が戦いに負けて落ち込むのと同等の違和感よ」
「違和感しかないね」
説得力のある解説にはテンも納得。反論したい身としては納得しちゃいけない気がするが、変に突っかかると追撃が乱れ打ちの如く撃ち込まれそうな気配がしたから口は閉じた。
椅子に座り直し、深く息を吐きながら正面、身を乗り出して手を伸ばせば余裕で手の届く距離にいるラムを見ながら「でもさ」と言葉を繋げて、
「俺はまだ、レムを助けてないよ。彼女はまだ悲劇から解放されてない」
「でも助けてくれる。そうでしょう? 前もって言わせてもらっただけよ」
「ーーーー」
「それに、今に限った話ではないわ。テンテンがあの子と出逢ってくれたこと、あの子の好きな人になってくれたこと、あの子が変わるキッカケになってくれたこと。全部まとめてよ」
いつもよりも表情に色彩が宿る彼女は小さく頷き。「ラムのことも、ね」と、最後に口元を柔く緩ませて長く続いた語りを締める。姉として言いたことは全部伝えた。満足だ。
途端、そのツンとした澄まし顔に全幅の信頼を寄せられたような錯覚を起こし、テンは心臓が大きく跳ねる。何度もなく跳ねてきた鼓動が今、過去一で高鳴った。
助けてくれる、と。無責任で無邪気な絶対の信頼を即答するラムには何も言えず、一時的に言葉を作る機能が停止させられる。果たして、目の前の存在が自分の知るラムなのかと、刹那だけ本気で疑った。
今日は少し、いつもと違うラムの顔を見ることが多い。毒舌で、横暴で、自分勝手な——誰よりも心優しき少女ラム。設定された性格を存分に振るう彼女は、しかし今だけは違っている。
そんな彼女を見ていると、もう自分の
目の前にいるラムは、自分が知識として知っているラムではないラムなのかもしれない。否、そうでしかないのだろう。
だって、こんな彼女、見たことも観たこともない。人の手によって創り出された存在とはまるで違う。設定という言葉を簡単に覆してくるラムは、自分しか知らないラム。
だとしてもラムらしくないとは思わない。どんなラムだってラムなのだから。例え、初期設定からかけ離れていたとしても、ラムはいつだってラムなのだから。
ーーなら、もう原作なんて言葉に縛られる必要などないのではないか?
ーー自分の気持ちに、正直になってもいいのではないか?
ーー自分達はこの世界で生きているのだから。自分達の物語を、歩んでいるのだから。
ーーいつまでくだらないものに縛られているつもりだよ?
ーー
鼓膜の内側から己の声が反響する。
運命、原作、それに近しい何かに縛られ続けて苦心する自分を叱咤する己の声が。今まで以上に大きく、強くなって自分の想いを膨らませていく。
膨張の材料はレムに対する想いのみ。彼女を好きだという想い一つが、つまらないものに縛られ続ける心を解放していく。
「原作の通りに進ませなくてはならない」
「原作の通りに進ませればみんな幸せになれる」
「原作の通りに進ませればレムは救われる」
「原作の通りに、原作の通りに、原作の通りにーー」
一体、いつまでそんな言葉を気にしているのだろうか。ハヤトならばきっと一欠片も気にしていないはずだ。
原作を知っているからこそ、その通りに進めることだけに意識を回しすぎて、結果として自分の心を殺して。
それに何の意味がある、価値がある。
だって自分が、自分達が
自分達というイレギュラーが迷い込み、めちゃくちゃしたお陰で、原作と比較して大きく変わった人物が、少なくとも目の前にいるのだから。それを証明する人物が、笑っているのだから。
そもそもの話。レムが、
自分の知っている原作は、運命は、道筋は、結末は——とっくに空白に染められていたのだと。
なら、自分は————。
「テンテン。一つだけ聞かせなさい。レムの想いに気付いた経緯とか聞きたいことはあるけど、この際いいわ。けど、一つだけ確かめさせて」
「ーーーー。……うん、なに?」
考えを遮るラムの声が鼓膜を通じて心の中に侵入し、引き込まれていたテンの意識は現実世界に帰還する。レムへの恋心を自覚しそうになる度に邪魔してきた事と向き合う最中に、彼は強制的にそれを中断させられた。
己の内側ではなく外側に意識を向けると、一番初めに視界に捉えたのは人差し指をピンと立てたラム。美の頂点である笑みを崩した彼女はいつものような澄まし顔で、
「あなたは、レムのことが好き?」
ーーレムのことが好き?
その言葉は、テンにとっては人生で最も悩まされた言葉かもしれない。悩んで、葛藤して、諦めて、でも諦め切れなくて、様々な感情という感情がぐちゃぐちゃにされた、大きな疑問。
聞いたのは初めてじゃない。その問いかけ自体はこれまでに何度も自問自答してきた。否、自問しかできなかった。自答などできた覚えはない。
部屋を真っ暗にして寝ている時、風呂に一人で入っている時。一人でアーラム村に買い物に行っている時。一人でいると、ふとした瞬間から湧いては終わらない自問が始まる。
答えは、まだ出ていない。心に縛りがあるせいで曖昧な答えすら導き出せずにここまで来てしまった。この想いを叶えるには、答えを出さないといけないのに。
でも。それでも。そうだとしても。
答えなんてなくても、言えることはある。レムのことを想うと、勝手に描かれる言葉がある。伝えようとしても、縛りが口を麻痺させてくるものがある。
ごちゃごちゃで、ぐちゃぐちゃしたもの。それら全てをガン無視して言えること。
それだけは、
「好きだよ」
それだけは絶対だから。
「俺は、レムのことが好きだ」
それだけは曲げたくないから。
「色々と考えてもさ、やっぱりダメだった」
矛盾してると言われてもいい。
「俺は、レムのことが好きになっちゃったんだよ」
支離滅裂だと言われてもいい。
「なら、仕方ないだろ。……好きなんだから」
その気持ちに嘘はつきたくない。
「そう。ならいいわ」
初めて聞いたテンの想い。
何かと自分の気持ちを抑えて相手の気持ちを優先しがちの男が告げた告白は、ラムが思っていたよりも純粋な理由だった。
好きだから好き。なんとも真っ直ぐで分かりやすいことか。否、それくらいがちょうどいいのかもしれないとラムは思う。
好きになってしまったものは仕方ない——単純かつ明快。自分だって同じだ。
なら、この想いは結ばれる————、
「ーーー?」
不意にラムはテンの表情に陰りが差したことに気付き、目を細めた。胸の内に秘めた想いを解き放った割には、晴れない顔をしている。
どうしてだ。どうして好きな人と両想いである事実を他所にそんな顔ができる。
好きな人と両想い——良いことではないか。自分としても相手としても飛び上がってしまいたいほどに嬉しいはずだ。勿論、ラムとしても嬉しい。やっと、まともな男になったテンと自分の妹が結ばれる事は素直に嬉しい。
なのに、どうして目の前の男はこんなにも浮かない顔をしている。
迷って、悩んで、どうしたらいいか分からないような。心の中で大きな葛藤が終わりなく続き、苦悩しているような。それはまるで、まるで、
——まるで、昨日の自分を見ているよう。
「なにか、自分に素直になれない理由でも?」
「ーーーー。なんで分かった?」
的を的確に射抜いたラムの問いに、姿勢が前屈みになるテンの声色は驚きに染まった。何も語っていないにも関わらず心を読んだかのような疑問符には、不思議しかない。
その反応を得て、ラムは自分の予感が外れていなかったと悟る。それどころか、悩みのド真ん中を貫いた感触を得た。そこまで分かりやすく驚かれれば当たりだろう。
何で分かったか。色々と表現の仕方はあるが、敢えて言葉にするならば、
「その顔は、ラムもよく知ってる」
昨日の自分を見せられているような感覚。自分の想いは明らかなのに、けれど良くないことを考えてしまうせいで先に進めない。無限に続く迷宮を永遠と彷徨うような焦燥感に襲われるそれ。
ハヤトの目に、自分はこう映っていたのか。なるほど、これなら考えていることが読まれやすいわけだ。表情が全てを物語っている。
実際にテンは悩んでいた。拭い切れそうで拭い切れないしつこい縛りが一つ、彼の体にツタのように絡みついている。ちぎってもちぎっても、無限に伸び続ける厄介なものが。
机に肘をつく彼は首を小さく横に振りながら「分かってる……分かってるよそんなの」と、
「決意もした、覚悟も整えた、受け止めると決めた。でも、どうしても拭いきれねぇもんがあんだよ。無理やり拭おうとしたら、きっと良くないことになる」
曖昧な形で拭うことは簡単だ。それを適当に受け流してしまえばいい。そして、なるべく思い出さないようにすればいずれは忘れられる。
けど、それではダメな気がテンにはしてならない。レムとの関係を進める前に、ちゃんとした形で自分なりに答えを出さなければきっと、良くないことになる。
良くないことは、正直なところ分からない。未来のことなんて分かりやしない。けど、そうしないと納得いかないことは確かだ。彼女とそういう関係になる前に、この縛りを拭わなければ。
「だから、ちゃんと拭いたい。中途半端に振り切りたくない」
「それは、ラムに話せること?」
「ううん。話しても分かってもらえないと思うから、ちょっと話せない」
「ラムのことを信用してないわけじゃないんだけどさ。どうしてもね」と、テンは頭を深く下げる。
本当はラムに相談したいけれど、その方が楽になるのだろうけれど、これだけは分からないと思うから。
この世界が人によって創り出された世界で。生きとし生けるもの達の全てが設定された世界で。自分はそれを画面の外から見ている人間でした。
なんてこと言ったら混乱するに決まっている。今更気にすることでもないが、説明するのは少しばかりややこしくなってしまう。
もし、ここでラムが説明してほしいと言ってきたらどうしようかとテンは思うが、
「なら、ラムにできることは
「それでいいの?」
「話したくないことを無理に聞くラムじゃないわ。それが、テンテンがラムを信用してない理由には繋がらないし。……話したくなったら、話せばいい。それまで待っててあげる」
「ーーーー」
温かさしかない言葉の羅列に、テンは口元まで噴き上がってきた弱音を思いっきり飲み込む。全身を優しく包み込んでくるラムの優しい声に、溢れかけた涙を抑え込んだ。
話したくなったら話せばいい。かつて、これほどまでに安心させられる発言があったか。あったかもしれないが、これはそれの横に並んでいる。
無理に聞かず、問いたださず——ただ待ってる。
自分とラムの間で築かれた絆の深さが色濃く浮かび上がった、絶対的な信頼関係が前提条件の発言を軽く放ってくる彼女には本当に敵わない。
不意にもカッコいいと思ったのは内緒の話。人間としての格の違いをひしひしと感じさせられた。
そんなことなど知らずに「いい。よく聞きなさい」と前置くラム。自然、背筋を整えて聞く姿勢をとるテンに彼女は同じく姿勢を整えて軽く微笑む。
そこから伝えられたのは、ただの信頼だった。
そしてそれは、ソラノ・テンの原点となる。
▲▽▲▽▲▽▲
「テンテンが何に縛られているのか、ラムには分からない。きっとラムには想像もつかないことがテンテンを苦しめてる……とだけしか分からない、分かってあげられない」
「うん」
「けど、それのせいで想いに迷いが生じてテンテンがレムに対する恋心を抑え込んでいるのは分かる。自分に素直になることが難しくて、ずっと悩んでいることは分かる。……ラムも、同じ
「……うん」
「だから、先輩として言わせてもらうけど。その縛りを拭いたかったら、テンテンが何を思い、誰を想っているのか、その胸に訊いてみなさい。自分の心に素直になるには、それが一番よ」
「何を思い、誰を想っているのか……」
「好きの感情に余計な考えは不要。そんなくだらない縛りなんて今すぐ蹴散らしてやりなさい。もしそれが、過去にあった出来事が原因なら、そんなもの今すぐ捨てることね。捨てて、自分の気持ちを一番に優先する。その人のことが本気で好きなら、愛しているなら」
「ーーーー」
「それが、素直になるということよ。テンテン自身がレムとどうなりたいか。それをよく考えて、自分の想いをよく聞きなさい。聞いたら、それを一番に考えることが大切よ。逆に、それ以外は考えなくていい。例え、胸が痛んだとしても」
「ーーーー」
「それができたら、今のテンテンなら大丈夫。大丈夫だと、ラムはそう信じてる。信じてるから、裏切るなんて馬鹿な真似、絶対にやめてちょうだい。信じさせた男として、ラム達にかっこいいところを見せて。前の自分とは違うことを証明して」
「返事は?」
「——分かった。期待には必ず応える」
ちょっと新しい物語の閉め方に挑戦してみました。
地の文を全て取っ払って会話分だけで終わらせるという。まぁ、先輩方は当然のようにやってることですが……。
よし、これで準備は整った。あとはハッピーエンドまで突っ走るだけ。