その部屋には、部屋に存在する三つの要素が見事な調和を成立させたことによって作り出された世界があった。光と闇、それらを覆う静寂の混ざり合う世界があった。
光。
それは、世界を優しく照らしつつある太陽の光。
夜明け前の世界では月の姿は危うげで、時間と共に地平線に沈み、代わりに太陽が姿を見せ始める予兆を届けている。それでもまだ暗いのは、太陽が地平線から顔を出していない証拠だろう。
闇。
それは、世界を満たしていた夜の残存する気配。
濃かった霧が晴れるように、夜の支配下に置かれていた闇もまた晴れていく。朝の予感を受け取ったそれが、時間が経つにつれて消えていく。少しずつ、少しずつ、暗がりが薄れていく。
静寂。
それは、世界を覆う静けさそのもの。
まだ夜の気配が薄く残る世界はひどく寝静まっている。物音ひとつ立てることすら躊躇するしんとした静けさが、その世界に存在する者たちの息を殺す。
光、闇、静寂。それらの調和が取れた世界。どれか一つだけが大きすぎる力を持たずに均衡を保った世界。
人はそれを、簡単に「薄暗い」と表現する。物体の輪郭を辛うじて捉えることのできる世界のことを、大雑把にそう呼ぶ。そこに静寂が加われば「静かで薄暗い」と。
——そんな世界に一人の人間が足を踏み入れたのは、世界にとっては突然のことだった。
パタン、と。
不意に扉が閉まる音が僅かに反響した途端、静寂の均衡がさざ波程度に乱される。世界を作り出した要素の中にイレギュラーな要素が侵入したことで、それらの調和が崩れる気配が漂い始める。
その要素——テンだ。全てを終わらせるために今、彼はその部屋に訪れた。
「ーーーー」
扉を閉める時に発する音を最小限に抑えた彼は、直後から己に襲いかかる静寂に息を殺す。そうしなければならないわけではないのに、その閉鎖的な世界の摂理に法らねばならぬ気がして。
違う。これは呑まれているだけだ、静寂が自分の息を殺しにきているだけだ——そう錯覚しているだけだ。
呑まれるな。流されるな。
そんなことをするためにこの部屋に来たわけではない。くだらない感傷に浸るために来たのではない。
何のために、誰のために。来たのか、居るのか、目覚めたのか。それを忘れるな。
ーーやるべきことを、ちゃんとやれ
「……分かってる」
刹那だけ呑まれた心を強く殴りつけ、テンは前を向く。向いた先——視界の右端っこに会いたかった人はいた。壁沿いに配置された寝台の上に、部屋の主は眠っていた。
安眠、とはとても思えない。布団越しにでもひどく震えているのが確認できた。それだけなら、テンが早歩きで近寄ることもなかった。それだけではないから、テンは考えるよりも先に前に進んだ。
寝台の側面、眠るレムの真横に膝をついて分かった。震え以上に呼吸が荒い。仰向けで、布団から顔を出す彼女の息は恐怖に怯える幼子のように乱れている。
表情は分からない。物体の輪郭を捉えることがやっとの薄暗さでは顔色を見分けることは困難で、震えと呼吸の二つしか明確でない。
それでも、苦しそうな表情をしていることなど簡単に察せられるテンだ。たった二つの情報しかないが、二つにはそれを裏付けるだけの力がありすぎている。
ーー悪夢に魘されている
喘ぐレムを前にし、テンはその言葉が脳裏を過る。自分を傷つけた罪が背中に十字架としてのしかかり、一種のトラウマのようなものとなってレムに悪夢を見せていると。
決してラムの話を疑っていたわけではない。彼女が話すのだから事実だと信じていたが。いざ前にするとなると信じ難いものがあった。
自分はレムに悲しんでほしくて体を張ったわけではない。レムにこんな風になってほしくてレムと戦ったわけではない。全て、レムを助けたくてしたはずだ。
結果としてレムは助かり、自分の目的は達成された。命を懸けて守りたかった人の命は確かに守られた。
ならば、目の前の光景はなんだ。助けたくて選択した行動の先には何があった。最悪の選択肢しか選べなかった自分の弱さが何を招いた。
それが今のレムだ。眼前で、泣いてしまいそうな声を漏らしながら喘いでいるレムだ。時折「テンくん」と自分の名を切なそうに呼んでいるレムだ。
愛する人を求める声は、テンが聞いたこともない程に悲しげだった。必死に呼び止めるものとはまた違う、孤独という世界の中で果てしなく続く闇に蹲りながら、助けを求めるような。
「ーーーー」
改めて、打ちのめされる。
彼女をこんな風にしたのが自分だという事実がテンの心を深く抉る。終わりのない悪夢に閉じ込めて、一生苦しめ続ける未来を辿らせてしまいそうな自分の弱さが憎い。
ーーしっかりしろ。今は打ちのめされてる場合じゃないだろ
魘されるレムに心を痛めるテンが己を叱咤。色々と考えて好きな人を苦しめた罪に溺れる理性を、感情のままに動く本能が無理やり引き上げた。
自分の弱さを自覚したならば、やることがあるはずだろう。終わりのない悪夢に閉じ込めたのが自分ならば、救い出すのも自分だろう。それは、自分にしかできないことだ——と思う。
これは結果ではない、過程だ。レムがレムを苦しめる全てから救われて、彼女が笑顔を取り戻して、物語がハッピーエンドを迎えるまでの道筋に過ぎない。
やることはブレず、成さねばならぬことは決して変わらず。故に、この場にいる自分の意味も決まっている。
レムを助ける。それ一つ。好きな人のために全身全霊を尽くす。それだけ。
なら、始めよう。
「レム……。レム……!」
薄暗い部屋の中、闇に覆われた顔つきが真剣味を帯びたテンがレムの名を呼びながら動く。迷いのない両手が眠る彼女の両肩を掴むと、左右に優しく揺すりはじめた。
全てを終わらせるための一歩目。それは、魘されるレムを無理やりにでも起こすことだった。何をするにもまずは物理的に彼女を悪夢から呼び覚ます必要がある。
そうでないと話すことも聞くことも何できないし、何もしてあげられない。起こさない方がいいと思う心は一欠片もなく、寧ろ、起こした方がいいとテンは判断した。
だってこんなに苦しそうに喘ぐレムを寝かせてられるだろうか。否、無理だ。怒られてもいいから起こす。見ていられないから起こす。起こす以外の選択肢が無い。
「レム、テンだよ。俺はここにいるよ」
必死に肩を揺する。奥深くまで沈み込んだ意識に声を届かせられるよう、蹲るレムに光を届けられるよう。ひとりぼっちで苦しむことしかできない彼女に手を差し出してあげられるよう。
自分は傍にいる。すぐ近くにいる。名を呼んだ人は君の隣にいる。
何度でも声をかけ、何度でも肩を揺すり、レムを悪夢から引っ張り上げる。そうしないとレムがずっと苦しむことになる。それはダメだ。ダメに決まっている。
これ以上の苦しみを味わう必要などない、レムは十分すぎる程に苦しんだはずだ。傷付いて、恐怖して、寂しがって、憔悴して、それでも自分という自分を周りに悟らせぬように我慢した。
それが約一週間も続いたのだ。心が壊れていてもなんら不思議ではない。壊れて、自分の知るレムが消えてしまっていてもおかしくなかった。
そうならなかったのは、その瀬戸際でレムがずっと頑張っていたから。たったひとりで全てを我慢しながらも、必死に耐えてくれていたから。
考えるだけでもコッチが苦しくなってくる。死んでしまいたい苦しみを毎日のように受けながらも、しかし自分の目覚めを待ってくれていたレムのことを思うと、途端に胸が締め付けられる。
それを差し置いて自分は何をしていた。考えた分だけ自分のことが大嫌いになる。仕方のなかったことだとしても許し難い。
「もういい、もう十分だよ。今よりも傷付いてなんになるってんだ。起きて……起きてよぉ、レムぅ。それより先に進まないで、自分で自分を苦しめないで。何でか知らないけど、そうされると俺も痛いからぁ!」
揺らせど、声をかけど、しかし目覚めぬレムにテンは哀願する。
誰かが傷付くと自分も傷付くとは、よく言ったものだ。実際に体験してみると、その言葉の実用性がよく理解できる。
痛い、すごく痛い。理由の分からない痛みが苦しむレムを見てからずっと声を上げている。彼女の苦しみが治るまで決して治らないであろう声が、心の奥底から鼓膜の内側へと振動してくる。
それでもレムは起きてはくれない。依然として喘ぎながら魘され続けている。
これでダメなら、彼女には申し訳ないが少しばかり荒っぽいやり方を————、
「ーーーっ!」
レムに反応があったのは、テンが荒っぽい起こし方をしようかと迷っている最中のことだった。
魘され続けていたはずのレムが声にならない悲鳴を小さく上げながら、電撃に貫かれたように全身を大きく跳ねさせ、その直後に上体が弾かれるように起き上がる。
起こそうとしていたテンからすれば突然ではないものの、あまりにも予兆が無さすぎた。思わず肩を掴んでいた手を素早く引っ込めると、彼はその行為が間違っていたと刹那で気付き、再び手を伸ばす。
起きてくれた感傷を置いてけぼりにさせてくるレム。やっと悪夢から目覚めた彼女は今、しかし眠っていたとき以上に苦しんでいた。
荒かった呼吸は治るどころか更に悪化し、過呼吸ではないのかと思わせる程に荒い。彼女なりに落ち着かせようとしているのか、手を当てた胸が大きく膨らんでは萎み、膨らんでは萎んでいる。
目覚めさせたテンに罪の意識を抱かせる姿。苦痛という苦痛にレムという存在そのものが襲われている光景を前に、テンは頭よりも先に心を働かせた。頭を働かせると罪が芽生える。
「大丈夫。大丈夫だよ」
ゆっくりと、彼女の背中をさする。なるべく彼女の呼吸を安定させられるよう、子どもをあやすような力加減で撫でる。
だって、深呼吸を繰り返す姿が痛々しすぎる。悪夢による苦痛を味わっているところに容赦のない追撃を加えるそれ。苦痛の声を押し殺すレムに何かしてあげないと気が済まなかった。
何が大丈夫なのか自分でも分からないが。とりあえず「大丈夫」としか言ってあげられない自分の語彙力をぶん殴るとして、テンは彼女が落ち着くまでずっとさする。
幼い頃。喘息で苦しかった時、両親はこうしてくれた覚えがある。呼吸が荒くなった時、親は自分が眠れるようになるまで背中を撫で続けてくれた記憶がある。
咳が止まらなくて、横になれなくて、眠れなくて、呼吸すらできなくなって、死んでしまうのではないかと心配されていた自分をずっと看病してくれた。
だから、自分もレムに同じことを。苦しいときは誰かが近くにいてくれると安心できるから。その人が自分の背中を優しく撫でてくれると、理由の分からない安堵感が心を包み込むから。
「大丈夫……。ここにいるよ」
小刻みに震える身体。それを掻き抱くレムの片手にテンは背中を撫でていない方の手で自分の存在を確かめさせるように触れる。触れるだけで、それより先には進まない。
それでもレムが求めれば受け入れた。音もなく掻き抱くはずのレムの片手がテンの片手の中に収まる。握りしめられて感じた痛みはレムを苛む心の痛み、その痛みの数千分の一だ。
表情が見えないのが辛い。すぐ傍に、見える距離にいるのに、そこにいるのに、察した表情でしか彼女を見ることができないのがもどかしい。目を見て、その中に浮かぶ感情を見て、向き合いたいのに。
ーーいいや。違う
考えるだけ無駄か、と。テンは小さく首を横に振る。ないものねだりをしている場合ではないことくらい分かっている。今あるもので、最高の状態まで持っていくしかないのだ。
今あるもの——自分の持ちうる全て。経験、知識、想い、記憶、『ソラノ・テン』と『空野・天』の二つを形成した全てを今、ここで活かす。人生を過ごしてきた時間の中で得たものをレムにぶつける。
それでレムを助け出してみせる。必ず、必ずだ。
「テ、ン……くん……?」
自分という人間の集大成の訪れを感じるテンの鼓膜を、レムの掠れた声が不意にたたく。調子の悪く、歯切れの悪い声には確かな疑問符が込められていた。
疑う、と表現するよりも、信じられないものを前にしたようなニュアンス。手を握る温かさに覚えのあるレムは、真横で膝立ちしている影が名前の存在だとも知らずに名を溢した。
弱々しさと憔悴に支配された声色が世界に落とされる。普段ならば拾われることのない——そんな
「そうだよ」
テンの声がレムの鼓膜を撫でる。曖昧でもなく途切れ途切れでもないハッキリとした声が、彼女の鼓動を大きく高鳴らせた。一度でも高鳴れば、振動が波となって尚も高鳴らせる。
その声は確かに彼の声だ。自分が今、一番求めている人の声だ。声を聞くだけで我慢してきたものを堰き止める堤防が容易く崩壊してしまいそうな、自分にとって嬉しすぎる人の声だ。
もしかしたら聞き間違えかもしれない。精神が壊れた自分が聞かせた幻聴かもしれない。あり得ない話ではない。
そんな、悲しすぎる考えがなによりも先に思い浮かんだレム。彼女は再び「テンくん……?」と声を探し求めるように愛しい名を呼び、
「俺はここにいるよ」
瞬間、レムは声が本物である半信を得た。感情が込められた人間味のあるそれが、自分にとっての救いであると理解した。
左だ。声は左から聞こえてきた。いつの間にか握りしめて、握りしめられていた手を軽く引っ張られた方向。
導かれるがままに体を向け、視線を向ける。そこには一つの影があった。しかし顔が見えず、誰だか分からない。この薄暗い世界の中では膝立ちする人影があることしか分からない。
目の前の人が望む人であるか分からない。なのにどうして、自分はこんなにも鼓動が幸福で速まってしまうのか。声を聞けただけで、その人であると断定しようとしているのか。
身体が前に出かける。今にでも彼の胸に飛び込まんとする心を抑えることができない。片時も忘れたことのなかった感覚を、また身体に馴染ませたいと思う女の子としてのレムをレム自身は止められない。
もっと声を聞かせてくれ。彼が自分の寂しさを埋めてくれる人であるという確信が欲しい。でないと、自分は自分を解き放つことができないんだ。
だからレムは————、
「テンくん、なんですか?」
「そんなに疑われると困っちゃうかな。まぁでも、そりゃそうか。約一週間も寝てた人間が突如として目の前に現れたらそう思うーー」
だからレムは、その言葉を聞き終わる前に、眼前にある胸の中に飛び込んでいた。無言で、無音で、衝動に駆られたように、首に手を回して愛する人に抱きつく。
抱きついた衝撃で「ぅが」とテンが僅かに苦鳴を溢したが、気にしているレムは心のどこにもいない。テンへの配慮を考える余裕のない彼女は縋り付くような風に、回した両腕で彼の身体を引き寄せている。
心が「そうしたい」と叫んでいた。頭の中がそれだけに染められて、レムの行動は自動的にそれ一択に絞られて、だからレムは何があっても離れない。
「分かった。待とうか。流石に膝立ちは膝が辛い。なんなら腰も痛い。あと病み上がりの腹筋だと絶対に倒れる」
テンが何を言おうとも絶対の絶対に離れない。離れようとしない。レムは首を強く横に振るだけで、それより他の受け答えは受け付けていない。
「せめて上で、寝台の上で。俺も落ち着いた体勢で受け止めたい。長く受け止めることになるだろうから、ね? 少しでいいから、また受けとめるから。どこにもいかないから」
言った直後、言葉とは反対に回された両腕に今以上の力が込められる。服と服が擦れ合う音が徐々に程度を増すのと比例して、二人の距離感が限りなくゼロに近いものになった。
離れない、ということだろうか。抱きついた以降から声が消えたレムの感情を読み取ることは困難で、言葉のキャッチボールが成立する気配が一切しない。
レムの体重が容赦無しに掛かる体を支える腹筋が悲鳴を上げる中、気休め程度に背中をあやすように何度かたたくが、逆効果となった。
「テンくん……!」と。嗚咽混じりに名を呼んだレムの声が耳元で弾け、それを起点に身体が動くと彼女の身体が寝台からずり落ち。当然、支えられないテンが巻き込まれる形で背中から床に倒れた。
そうして、二つの影が一つに重なる。薄暗い世界で二人の距離間が数センチからゼロセンチに縮まり、その温もりもまた一つに合わさる。
勢いを止めきれなかったテンの上にレムが覆い被さったのは、死の淵から彼が目覚めた時と全く同じ構図だ。上に乗っかるという意味合いでは、日常の光景となんら変わりない。
何故か、このような構図ばかりが完成してしまう。偶には逆にしてやりたいと不意にも思うが、それはそれでどうなのか。
「とりあえず。体、起こすよ」
このままでは一生、床に寝そべる事になる予感にテンは、なけなしの力を振り絞って上体を起こす。
弱った腹筋が「キツい! もうやばいって!」と悲鳴を上げているのも無視し、抱きつく事に
「わっ、えっ、ちょっ!?」
「わっ」で、伸ばした両脚の上でレムが見計らったように体勢を変え。「えっ」と言う間にレムが両脚をテンの腰に回し。「ちょっ!?」と言い終わった時にはその両脚で自分の体をテンの体に固定した。
一連の流れにテンは固まる。レムを止める、という考えすら思いつかない僅かな時間でレムが自分の思うがままにテンを独占する体勢を作り出した事に、彼は硬直から解放されるまでの数秒間、呼吸を忘れた。
伸ばした脚の上に座るレムの両腕が首に回り、両脚が腰に回り。双方ともに体を引き寄せられる。
真正面から抱きしめられながらのそれに、女性が男性に仕掛ける『だいしゅき』の絵面を想像したのは間違ってないはずだ。これでは、レム専用の抱き枕になっている。
近い。レムがとてつもなく近い。彼女の熱っぽい吐息が耳元にかかる。不本意ながらに押し付けられた柔らかな感触が胸板で形を変えて、意識外に追いやっても刹那で帰ってくる。
この一連の流れ。たった数十秒で随分と荒れたレムにテンはどうしたものかと浅く息を吐いた。
約一週間という時間は、自分と再開した時に彼女を暴走させるには十分すぎる時間だったようで。このままでは何も進まない、どうにかして彼女を落ち着かせる必要がある。
でないと話すことすらできず、彼女の心を助けることができない。それができなくては自分がここにきた意味も価値もない。ならばどうにかしてこの状況を抜けないといけない。レムの暴走を沈めて彼女と落ち着いて話せるような空間を作り出すことが「ひとりにしないでください……!」大切であるからまずは自分のやれることを考えて————、
ーー。
ーーーー。
ーーーーーーーー。
「ーーーー」
レムの、声がした。
耳元で咽び泣くレムの、今にも消えてしまいそうな声がした。小さく、弱く、けれどもそれはテンの心に強烈な衝撃を齎す。考えること全てを消し去る一声に、文字通りテンは頭の中が真っ白になった。
レムに、己の意識を根こそぎ奪われる。たった一言で考える力を停止させられ、先のことばかりを考えて先走りかけていた足を強制的に止められ、麻痺した思考回路が再稼働するまでの間に、
「
その二言目に胸を一直線に貫かれ、テンは己の愚かさを刹那で思い知り、瞬間で理解した。
呼吸が苦しくなるまでレムに抱きしめられてやっと、強張るレムの震えを感じてやっと、恐ろしく速い鼓動を聞いてやっと、自分はレムのことを考えているようで何も考えていなかったと痛感した。
これでは、先のことばかりで今のことを全く考えていないじゃないか。先の彼女のことばかり見て、今の彼女のことを見ようとしていないじゃないか。
レムが今、どんな気持ちで自分に抱きついているのか深く考えもず。肩に顔を乗せる彼女の表情一つ察しようとせず。レムを助ける事だけに熱を注ぎすぎて、彼女の『今』を考えようとしなかった。
馬鹿だ。大馬鹿だ。
好きな人が泣いているのに、なに余計なことを考えている。好きになられた人として失格だ。
彼女の心すら守れない男が彼女を救うことなど、戯言も甚だしい。彼女の今を見ていない人間に、先の彼女を見ることなどできるわけがないだろう。
そんな簡単なことに、どうして気付かなかった。本当の本当に、自分という人間が大嫌いになる。
「ずっと、レムの傍にいてください」
肩に顎を乗せ、啜り泣くレムがテンの体を掻き抱くように強く抱きしめる。両腕両脚を使い、二度と離れぬよう自分と彼の体を密着させる。
互いの温度を直接感じることができるようになると、彼女はその体勢を崩すことを拒むようにテンの服を握りしめた。
やっと掴み取った温もりに縋るように。必死に捕まえた彼がどこにも行ってしまわないように。
「……そうだよね」
レムの抱擁を受けるテンが、ポツリと呟く。
ーーいかないで……、いか……ぃ、かないで。レム、の、ところに。ずっと……。
ーーレムの傍にいてください!
ーーやぁ……っ、いかないで、どこにも、い、いか、ないでぇ。
その彼の脳裏には今、血の夜に刻まれた光景が過っている最中だった。一生忘れられぬ記憶が今、彼の頭の中で映像化され、正面のレムと完全に重なっている。
その記憶——魔女教徒に一人で立ち向かおうとする自分をレムが必死に呼び止めてきた時のものだった。あれほど自分の無力さを呪ったことはない。
あの時のレムは普段通りの欠片もなかった。遠のく背中を必死に追いかけ、縋るように泣きついて、生存確率がゼロに等しい戦いに挑む自分を必死に止めるために涙を大雨のように流して。
泣いて、泣いて、泣き喚いて。人目の一切を無視した彼女の姿は痛々しさしかなかった。年齢を無視した慟哭が、自分の整った戦う覚悟をこれでもかも揺さぶってきた。
それを、自分は約束という形で振り切った。レムの「いかないで」も「そばにいて」も、彼女の想いの全てを捩じ伏せ、彼女に背を向けた。本当はそうするべきじゃないのに、そうするしか方法が無くて。
その結果がこれなら、責任の所在は自分にしかないとテンは思う。レムを寂しがらせているのも、不安がらせているのも、怯えさせているのも、全ての原因は自分にある。
なら、その責任はちゃんと取るべきだ。自分とレムの間に築かれた絆につけ込んだ罪は、彼女が望む形で、償う必要がある。
それが、最低な自分がレムにできる贖罪だから。
「ずっと無理してたんだよね。我慢してたんだよね。ひとりで……、抱え込んできたんだよね」
「あの時から」と、テンはレムの背中に両腕を回して抱きしめる。恐怖に震える彼女の心を温もりで包み込んで、震えを無理やり止めるつもりでその小柄な体を苦しくない程度に強く抱いた。
途端、ピクリとレムの体が跳ねるも、それは一度だけだった。抱きしめられた事を理解すると嬉しがるように抱き返し、身も心も預けられる場所に彼女は落ち着く。
そんなレムを、テンは優しく抱きしめる。己の鼓動が凄まじい勢いで騒いでいる音を聞きながら、けれどその行為をやめようとはしない。レムが満足するその時まで。
「どこにもいかないで……っ」
「いかない。レムの傍にいる」
心の声が溢れた悲哀の音にテンは即答する。あの時、言いたくても言えなかった言葉を彼はレムの心に畳み掛けた。
程なくして、レムの嗚咽が耳元で小さく漏れ始める。様々な感情の混ざった泣き声がテンの心に響き渡り、それが彼に罪の意識を加速させる。加速させると、抱きしめる腕に力が込められる。
レムの顎が自分の肩に乗る形で抱き合う都合上、彼女の言葉が全て耳元で囁かれる事にこそばゆさを感じるテン。レムに抱かれて緊張するはずの彼の表情は、しかし苦痛に歪んでいた。
一体、その小さな背中どれほどの苦しみを背負ってきたのか。ひとりではとても抱えきれないものを、何一つ溢さぬように生きてきたと思うだけで、ひとりぼっちにさせてしまった自分が憎かった。
抱え込みがちなレムのことだ。きっと、誰にもこの姿を見せないように今の今まで堪えてきたのだろう。否、化粧までして堪えていたとラムから聞いた。つまり、堪えてきたのは確実で。
苦しいこと、辛いこと、怖いこと——誰にも相談できないこと。
寂しいこと、悲しいこと、切ないこと——発散しようのないこと。
それらをたった一人で抱え込んできた。
悪夢に魘されていたことだって黙っていたはずだ。死んでしまいたい恐怖に襲われていても、けれど誰にも心配をかけぬように。自分の中に押し込めて押し込めて押し込めて。
レムは、ずっと、ひとりで、我慢してきた。
「もういいよ、レム。我慢しなくていい、無理しなくていい。レムは十分すぎるくらいに頑張ったから、全部吐き出していいんだ。吐き出してもいい人がすぐ傍にいるよ」
荒っぽく乱れた髪を整えるように頭を撫で下ろしながらテンは伝える。彼女が抱えるものをまとめて抱きしめる彼は、ひとりぼっちのレムを決して一人にはしてやらない。
好きな人として。好きになられた人として。テンはレムの心に全身全霊で寄り添う。いつもはレムがそうしてくれるから、今度は自分が彼女に同じことを、それ以上の力で。
「ごめんね、レム。あの時、レムの傍にいてあげられなくて。レムの言葉を聞いてあげられなくて」
「そんな、レムは気にしてなんかーー」
「気にしてる気にしてないじゃない。俺が許せないんだよ。泣きじゃくるレムの心を無理やり押さえ込んだ自分が、俺は許せねぇんだよ……っ!」
あの時、と聞いてレムも分かったのだろう。反論の声を咄嗟に上げるも、しかしその言葉を遮るテンは、怒りの感情を押し殺しながら言い終える。自然、歯を食いしばる様をレムは想像した。
普段は乱れない口調が荒いだのは、それが本心であることの証拠だった。基本的にそのような口調は自分には似合わないとする彼は常に意識して抑えるが、今回のような場面ではつい荒ぐ。
勿論、レムがそれを聞き逃さないわけがない。彼と深く接した彼女でも片手で数えられる回数しか聞いたことのないそれに強く胸を打たれる。
だから、その直後から瞳の内側が灼熱に燃やされていくのはきっと気のせいではない。心を支配していた数多の負の感情が甘く溶かされて、胸の高鳴りが抑えられないのはきっと間違いではない。
だって、自分なんかのためにここまでしてくれる。こんな小さな存在のために、彼は苦しんでくれる。そのことが何よりも嬉しく、幸せに感じられた。
「もう、どこにもいかない、絶対にいかない。……レムの気が済むまでこうしてる。レムが、もういい、って言うまで抱きしめててあげる」
「ーーーっ!」
「それが、今の俺にできるレムの癒し方。治癒魔法も何も使えない、震える体を包み込むことしかできない俺の精一杯」
「ごめんね、こんなことしかできなくて」と。
そう言葉を付け加えてテンは口を閉じる。以降、彼はしばらくの間だけ言葉を発することを止める。レムを抱きしめる事に熱を注ぎ、冷え切った彼女の心を温めた。
この時、レムの心はどうしようもなく泣き叫びたがっていた。彼の損失によって失われていた温もりが心の隅々にまで行き渡っていく感覚に、堪えようにも堪え難い涙が溢れそうになっていた。
我慢しなくていいと言われてしまった。
彼に抱きしめられると。感情を堰き止める堤防が簡単に破壊されて、我慢してきたものが一気に溢れ出てしまう。
無理しなくていいと言われてしまった。
彼に抱きしめられると。誰にも見せないようにしていた寂しさが爆発して、この人に全てを曝け出そうとしてしまう。
吐き出していいと言われてしまった。
彼に抱きしめられると。必死に飲み込んできた言葉の数々が暴れ出して、己の心を蕩けさせる温もりにぶつけようとしてしまう。
そんなの、彼に迷惑————、
「いい」
「え?」
「ぶつけていい」
黙っていた口を開いたテンが続けて放った言葉にレムの肩が動揺に跳ねる。まさか、心を読んだのかと彼女は考え、
「レムのことだから、俺に気ぃ遣って遠慮しようとか思ってんだろ。溜め込んできたもの、ぶつける事を躊躇してんだろ」
「ーーーー」
「いいよ、そーゆーの。要らない。遠慮とかしないで。つか、俺が遠慮しなくちゃいけない相手だとレムは思ってんの? ふざけんなよ」
雑に吐き捨てられ、レムは心を読まれていたのだと悟る。それも今この瞬間の心ではなく、レムという少女の心はずっと前から読まれていたのだと。
自分は本当にこの人に大切に思われているんだなと、レムは不謹慎ながらに幸せに思った。彼の言動一つ一つがその思いをこれでもかと伝えるお陰で、彼女が確信を得るのに時間はかからない。
「なぁ、思ってんの?」
幸福の余韻に浸るレムが恍惚とした表情を浮かべ、沈黙していることなどテンは知らない。こんなに近くで触れていても、闇に閉ざされた少女の心には気付かない。
故に彼は、少しばかり強めに言葉を叩きつけた。彼にしては低く厳しめの口調で、レムの躊躇を消し飛ばすために。
そうして返された返答は、
「思って、ません!」
おずおずとしながら、けれど確かな意志の宿った声色がテンに届けられる。自信を持ってハッキリと断言し、レムは自分の全てを委ねられる存在に全体重を乗せる。
レムの抱く力が増し、着々と脇腹に刻まれた傷痕が疼き出している中、テンは「そ。ならいいよ」とだけ。痛みを決して表に出さない彼は、それを悟らせぬために彼女の頭を撫で下ろしていた手を、抱く手に加えた。
二つの腕がレムの体をテンの体に沈み込ませると、気持ち良さげに目をつむるレムが「ぅん」と変に艶っぽい声で喉を鳴らし、その頬を恍惚に赤く染める。
「これ、すごく安心してきます」
「うん。そう言ってくれて嬉しいよ。こんなことしかできないし」
「こんなこと、ではないですよ。レムにとっては身に余る幸福です」
くすぐったそうにみじろぎするレムが甘えるように声を弾ませ、テンの体温を感じる。そうすると心の中にあった暗闇が晴れていく爽快感を得た。
だって、彼に抱きしめられるだけで全てが良い方向に傾いていく。いつの間にか無限に続くと思えた孤独感は自分の心から薄れて、消えて、無くなっている。
今までの一週間が嘘のようだ。生き地獄とすら思えてしまう時間を軽く超越する幸福感が心に浸透して、どんどん満たしていく。
欲しかった温かさが、自分の傷を癒していく。
髪に、頬に、ただ触れてくれるだけで闇に埋め尽くされた心が明るくなるのに。それ以上の事をされたら——抱きしめられてしまえばレムが嫌な事を全て忘れられるのは必然だった。
自分の犯した罪も、許されざる事実も、忘れられぬ傷痕も。それら全てを投げ出せる世界で愛する人の温もりをこれ以上ないまでに堪能することができて、レムは本当に幸せだ。
幸せで、幸せで、幸せで。
幸せだからこそ、
こんなこと、普通の世界ではあり得ないと、どこかでは気付いているから。
「なんて……」
自分の心に収まり切らない幸福を一身に浴びせられ続けるレムが口を開く。言い繋ぐはずの言葉を途切れさせる彼女に、テンは「どうしたの?」と彼女の顎が乗る肩に首を傾けながら問いかけ。
テンは耳を疑う言葉を心に叩きつけられることになる。思わず「は?」と、考える力を奪われる衝撃的な発言が、数秒後にレムの口から紡がれることになる。
考えられなくて、まずあり得ないだろうと決めつけていた言葉。けれど、落ち着いて考えてみればレムならば考えそうだと分かった言葉。
恍惚としたレムは、その言葉を言ったのだ。
「なんて、素敵な夢なんだろう」
と。