親友とリゼロの世界に飛ばされたお話   作:ノラン

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夢世界の愛しいあなたへ

 

 

 

「は?」

 

 

何を言われたのか、よく分からなかった。

 

鼓膜を振動させる音が体の内側へと流れ込み、水面に落ちた一雫のように波紋する音は、まず始めに脳に伝わる。頭で告げられた言葉の意味を噛み砕き、飲み込もうと働きかけた。

 

が、全く噛み砕けない。言葉の意味よりも前に言葉自体が理解できず、頭の中で疑問符が次々と浮かび上がっては増え続ける。言葉を受け入れようとするも、どう受け止めるべきなのか無理解。

 

ならばと、脳はその波紋を心に響かせた。

 

頭で理解できないことは心におまかせ。理性的に物事を判断する頭ではなく、本能的に物事を判断する心に噛み砕くように声をかけた。

 

脳から波紋してきた言葉を心が受け取ると、その言葉を何度も反復。数秒前に紡がれたレムの声を何百回も聞き、感情面から意味を見つけ出そうと全力で動き出した。

 

レムが何を思ってそう言ったのか。何を感じてそう言ったのか。何を悟ってそう言ったのか。

 

「なんて、素敵な夢なんだろう」という一言の中に、ぎゅうぎゅう詰めになった両手では数え切れない想いの数々を一つ一つ解いていこうと。

 

解き、解き、解き。

 

 そして、

 

 

「ん?」

 

 

先と同じ反応に返ってきた。

 

真顔のまま表情が凍りついたテンは呆気にとられ、幸せそうに喉を鳴らしながら甘えてくるレムの存在が一時的に視野から薄れている。

 

それ程までに、幸福一色に染められたレムの口から紡がれた言葉の意味は理解し難いものだった。頭と心の両方が「ごめん。分かんない」と上げた白旗を申し訳なさそうに振っている。

 

 

「なんでーー」

「テンくん」

 

 

なんで夢だと思ったの? そう聞きたかった言葉に名前を重ねられたテン。途端、声が重なったことにその先の言葉を繋げようか迷いの生じるレムの声が吃った。

 

問いかけようか戸惑うテンの「あ……」と、紡ごうか迷うレムの「えっと……」の声が再び重なると、両者共に沈黙。お互いが譲り合う構図が世界に完成すると気まずい沈黙が二人を包んだ。

 

抱き合いながら沈黙するのは初めてだが、これは中々にクるものがあった。この場で気まずさに負けて体を離そうものならレムの甘えに磨きがかかるだろうから離そうに離せず、しかし気まずい。

 

さて、どうするか。否、考えるまでもない。

 

 

「レムが話していいよ」

 

 

瞬間で完成した沈黙が数秒も経たぬうちに壊される。普段ならば数十秒間と続くはずのそれは最も容易く壊される。

 

壊したのはテンだ。レムのことを何よりも優先する彼は浮かんだ疑問を一旦思考の手前に下げ、彼女の背中を穏やかにたたきながら発言権の一切を自分から彼女に差し出す。

 

だって、テンはそのためにいるのだから。レムの『今』と真摯に向き合うと心に決めた彼は、彼女の言葉を全部受け止めて、それから話し合う姿勢で抱きしめている。

 

どうして夢だなんて悲しいことを言うのか。本当はその言葉の意味を知りたい。知って、「そんなことないよ」と言ってあげたい。

 

けど、テンはその気持ちをグッと堪える。レムの望むことは、全て叶えてあげたい。

 

その姿勢に全幅の温もりを感じたレム。現実世界ではされるはずのないテンの行為に、やはりこの世界は夢の世界なんだなと心の片隅で悲しんだけれど、それに反して頬は緩んでいた。

 

それ以上に嬉しかったから。自分の望んだことが全て実現してくれることが、たまらなく幸せだったから。悲しみなんて、忘れさせてくれる。

 

こうして欲しい。こう言って欲しい。そんなレムの甘い欲望をこの世界の彼は快く叶えてくれて、絶望しか無かった自分に希望を与えてくれて、心が安らいでいく。

 

だからレムは、この世界の愛する人に「それでしたら、甘えちゃいますね」と甘く声を弾ませると、

 

 

「少しだけ、わがままになってもいいですか?」

 

「少しじゃなくて、普通にわがままになっていいんだよ。言ったでしょ。我慢しなくていい、無理しなくていいよ、って。俺の前でもそれやってたら、レムは誰にわがままを言えるの?」

 

「ーーーー」

 

「泣きたいなら泣いていいよ。甘えたいなら甘えていいよ。そのために俺がいる、ずっと傍にいる。今度こそ、どこにもいかないから」

 

 

言った直後、一瞬だけレムの「ぁぅ」という声が耳元に落ちた。嗚咽のような、喘ぎのような、優しさに包まれたことに対して心が勝手に発した声と表現するのが適したそれ。

 

その時、普段とはかけ離れすぎているテンという人間に心を溶かされていく彼女は、もう全てがどうでもよくなった。嫌な事を全部忘れさせてくれる彼に、どうしようもなく甘えたくなった。

 

この際、夢でもなんでもいい。この心が感じている温もりも、聞くだけで安らぐ声も、全身を包み込んでくれる感触も、全部全部まやかしだとしてもいい。

 

 今はただ、この人に溺れていたい。

 

 

「……たくさん、甘えたいです」

「ん、いいよ。甘えたいだけ甘えな」

 

 

即答された愛が、レムを解き放つ言葉となった。

 

胸の鼓動が過去一番に跳ね上がると、沢山の我慢を堰き止めていた堤防がそれを境に崩壊し、彼を好きになってから溜め込んできた『わがまま』が彼女の心に一挙になだれ込む。

 

我慢しなくていい。無理しなくていい。抱え込まなくていい。泣きたいなら泣いていい。甘えたいなら甘えていい。

 

レムにとって、それがどれだけ嬉しいことなのかテンは理解しているだろうか。ずっとひとりで頑張ってきた呪縛から解放された気持ちを、知っているだろうか。

 

多分、分かっていないなと両腕両脚で抱きしめる体勢(だいしゅきほーるど)を崩しながらレムは思う。だって、レムですら分からないのだから。嬉しすぎて、理解の許容を遥かに超えている。

 

 

「もう抱きしめなくていいの?」

「イヤです。もっと抱きしめてください」

 

 

食い気味に言葉を発したレム。当たり前だ、彼女は今ようやく解き放たれたのだから。この程度の抱擁で満足できるなんて思わないでほしい。もっと、もっとしてもらわないと満足できない。

 

「ならなんで?」と密着していたレムに問いかけると彼女の影は寝台を指差し、

 

 

「床に座ったままでは、テンくんが痛いと思いまして。どうせなら柔らかい寝台の上でしてください。レムのこと、たくさん甘やかしてください」

 

「ーーーー」

 

 

その発言によからぬ妄想を働かせたのは男の子として正常な反応だと、テンは誰かに言ってほしい。恥ずかしげな声色で寝台をちょんちょんと指差す人差し指に、視線が固定された。

 

誘っているのかと疑う仕草。しかしこれは、あくまでレムが自分に甘えたいだけの話。そんなことはありえない——と、全否定できないのが本当に恥ずかしい話だが。

 

なにより、恥ずかしがりながら言われると破壊力がありすぎる。甘えられたことなど一度も無かったテンからすれば声だけで悩殺ものだ。薄暗さに隠れた表情が見えなくて良かったと今だけは心底思える。

 

 煩悩、だめ、絶対。

 

 レムはただ甘えたいだけ。

 

 

「……いいよ。レムがそうしたいなら」

 

 

心の中から顔を出した(自分)の顔面に右ストレートを捩じ込みつつ、テンはそう言って生唾を飲み込む。この状況でも最低限の動揺だけで済ませられる自分を察すると、色々と覚悟と決意を固めてきておいて正解だった事に気付いた。

 

仮にラムと話さずレムと話しにきていた場合、彼女に『だいしゅき』をされた時点でおじゃんだ。そもそもの話として縛りが邪魔をしてまともに向き合うことすら困難だろう。

 

ともかく、顔が陥没して倒れ伏す獣は心の奥底にある檻の中に閉じ込めた後にシビレ生肉でも食べさせておくとして、彼はレムと一緒に立ち上がった。

 

その間も、レムはテンの体から離れようとはしない。彼の右腕に両腕を絡める彼女は、宝物を握りしめる子どものように絡めたテンの右手を握りしめている。

 

 

 ーーこれは、しばらく離れないな

 

 

恐らく、これから話し合いが終わるまでくっつき方が暴走状態のレムは片時も自分から離れてくれないとテンはその様を見ながら思う。

 

やはり、彼女の心を解き放ったことは無駄ではなかった。注がれ続ける愛がどこまで突っ走るかは分からないが、彼女の心が休まるならできる限りのことは尽くしてあげよう。

 

 

「んで。どうしたいの?」

 

 

言われた通り寝台に乗るテン。縦長の寝台に対して、正しく縦に座る彼は壁を背もたれにして寄りかかりながら足を伸ばしてリラックス。

 

心身共に緩く構えると、満足げに頷くレムの影が、開いたテンの足の間にするりと座り込んだ。

 

寝台の柔らかな素材が二人の体を受け止めると、そのままレムは自分の体をゆっくりとテンの体へと倒す。そうすることが当たり前であるかのような彼女はテンの背中に手を回しながら、その胸に顔を埋めた。

 

甘えたがりなレムのわがまま。テンはそれを無言で受け入れる。胸元で深呼吸を繰り返す彼女に優しく微笑みながら、それ以上の優しさで小柄な体を抱きしめて。

 

レムの想いに気付いてあげられなかった分を取り返すように。自分が無視し続けてきた分だけ、テンはレムのことを甘やかす。甘やかして甘やかして、恐怖に怯えていた少女を安心させられるように。

 

 

「テンくんにこうされると、レムは落ち着いてきます。こうして鼓動を聞いていると、とても安心してきます」

 

「癖になっちゃいそう?」

 

「はい。癖になりそうです」

 

 

うっとりとした様子で甘えてくるレムにテンは「そうなのね……。まぁ、いいけどさ」と半笑い。眼下のレムは「この場所がレムは大好きです」と愛する人への好意を隠すことなく声にした。

 

そのくらいは構わないだろう。だって夢なのだから。夢の世界でくらい、現実の世界で言っちゃいけない事を言わせてほしい。遠慮なく、満足するまで伝えさせてほしい。

 

ラムと軽口を叩く風に冗談で聞いたつもりなのだが割と本気の声で返されたテンは照れ隠しの苦笑い。加えて「大好きです」と言われれば、照れ隠しは加速した。

 

既に知っているが、聞いているが。改めて言われると心に響くものがある。好きな人からの「大好き」はこれ程までの衝撃を心に齎し、意識していないと気の抜けた声が漏れてしまう。

 

そのお陰で頬が熱い、とてつもなく熱い。内側からマグマが湧いてきたのではないかと思うほどに熱い。熱い以外にない。

 

果たして、自分は今からレムに何回悩殺されるのだろうか。少しずつ慣れていかなければ、色んな意味で危ないところ。

 

 

「テンくん……。テンくん、テンくん、テンくんテンくんテンくん」

 

 

回した細い両腕で彼の身体を引き寄せ、レムは上擦った声でテンの名を呼びながら擦り寄る。なにか、不意に沸騰して込み上げてきた感情に突き動かされた彼女は寂しげだ。

 

体勢を変えたいのか。テンの背中に回っていた両腕が首に回ると、彼女の顔が今度は肩に埋まる。僅かに身体が上に引き上がると、二人の距離感は再びゼロに縮まり、吐息が絡み合う距離にまで接近した。

 

顔のすぐ真横にレムの顔がある。首に回された両腕に力が込められた分だけその距離は近づいて、レムの切なそうな吐息がよく聞こえて、不本意にも庇護欲が煽られた。

 

 

 ーーまって。甘えたレムってこんなに可愛かったの!? 聞いてないよ! いや、聞いてる方がおかしいけども!

 

 

極限まで甘えるレムの姿に表では冷静を保つテンは、しかし裏では大荒れの様子。動揺の大波が引いては押し寄せ、引いては押し寄せを繰り返すせいで全く心穏やかではない。

 

自分の声に自分でツッコむ程だ。心の成長を遂げた結果として虚無になることが封じられた彼は処理落ちすることはなくなったものの、代わりとして動揺の色が心臓を騒ぎ立てる。

 

『ナツキ・レム』。その舞台裏で原作主人公(ナツキ・スバル)と彼女がどんな絡み方をしていたのか、一度でも想像しなかったわけではないが、実際には一部しか語られていなかったため、あくまで想像上の話となっていた。

 

まさか、これはその答え合わせなのでは。程度は向こうの方が大きいにしろ、今自分は、そのレムの一欠片を見ているのでは。

 

 

「強く……」

 

「ん?」

 

 

レムに甘えられた人間としての重みをひしひしと感じるテン。彼の鼓膜がその不満そうな声をすぐ真横で捉えたのはそんな時のことだった。

 

頭の中の考えを放棄。少しばかり己の内側に入りかけていた意識を外側に戻すと、レムの顔が瞳のすぐそばにあって、

 

 

「もっと強く、ぎゅーーって、してください」

 

 

 ーー顔、見えなくてよかったなぁ

 

 と。

 

今この瞬間、テンは高鳴りが爆発した心でそう思った。

 

文字そのままの意味でゼロ距離にいるレムの、むすっとしているであろう表情を見ずに済んでよかった。この薄暗さに感謝。あと、見れなかったことに対して矛盾ながらも少しばかりの舌打ち。

 

表情は、素直な人の心を映し出す鏡だ。心が抱いた感情を色として顔に浮かび上がらせ、それは顔色として表情となる。想いが強ければ強いほど、その色は濃さを増して、表情が豊かになる。

 

だからこそ、今のレムの表情はテンにとっては麻薬並みの危険性を孕んでいる。愛が溢れ続ける彼女のそれを見てしまえば、きっとテンはまともに彼女と目を合わせることができなくなるだろう。

 

 

 ーーだって今のレム、確実に上目遣いなってるだろうし。いや、普通にやばい

 

 

それがゼロ距離で見えれば尚更だ。絶対に倒れる。

 

 

「痛かったら言ってね」

「痛くしてもいいんですよ?」

「俺が辛いから言ってください」

 

 

一言一句、レムの発言が良くない方向に思考を走らせそうな予感を感じるが、どうにかして振り切るとテンは回した両腕でレムの背中を強く抱きしめる。柔らかい感触を指先に捉えながら、彼は彼女を自分の体に密着させた。

 

直後、顔の下半分をテンの肩に埋めるレムがその中で「んっ」と裏返った声で喉を高く鳴らし、強めの抱擁に身も心も溶かされると甘い吐息が口から深く溢れ、のぼせた彼女は頬を真っ赤に染めた。

 

なんだか、ふわふわしてくるレムだ。こうして彼の温かさを直で感じていると頭の中が真っ白になって、彼の事しか考えられなくなってしまう。

 

そのお返しに首に回した腕で彼のこと抱きしめ、レムは幸せに染め上げられる。

 

そうして愛しい人に甘えたい分だけ甘える彼女は、『テンとレムだけの世界』に溺れていく。自分の弱さが作り出した世界に泥酔して、現実から目を背けていく。

 

 

 ーーああ、これが夢じゃなかったらいいのに

 

 

世界で一番落ち着く場所に身を委ねながら、レムは考えたくないことをふと考えてしまう。心の端っこにその事を悲しむ自分がいるせいで、心の底から幸せなれない自分がいた。

 

だって自分は今、本当は眠りについているのだから。今、自分のいる世界は、心を守るために弱い自分が自分に与えたものなのだから。

 

知らないうちに精神でも崩壊したのだろう。テンの損失に耐えきれずに現実から目を逸らし、悪夢ですら拒んだ自分はもう、起きたらいつも通りの自分ではないのかもしれない。

 

明晰夢——世界はそのような現象のことをそうやって定義しているくらいだ。悪夢から逃れるために現実から目を逸らし、夢の世界に逃げたと思うことだってできる。

 

夢だ。夢なんだ。夢であってほしくない世界は、現実であってほしい彼の温もりは、夢なのだ。

 

彼はまだ寝ていて、自分の名前を呼んでくれるはずもなくて、今のように甘えさせてくれなくて、自分を置いて遠くに行ってしまう。

 

この世界が壊れたら(自分が目を覚ましたら)、彼は自分の傍からいなくなってしまう。

 

 

「そんなの……、ひどすぎます」

 

 

考えていると幸せだけの心の中に悲哀が生まれるレムが、テンことを掻き抱くように抱きしめる。こんなにも近くにいるのにとても遠く感じてしまって仕方ない存在が消えないよう、繋ぎ止める。

 

分かっている。こんなことが無駄なんてことくらい。でも、無駄だと分かっていても、彼のことを離したくない。大好きで大好きで仕方ない人の体を、自分の体から離したくないのだ。

 

一度でも悲哀が姿を見せれば、レムの心の半分がそれに支配されるのに時間はかからなかった。今が明晰夢であること自覚している彼女は、いつ自分自身が目を覚ますのかも分からない恐怖に途端に襲われる。

 

彼に夢中になって気にしないようにしていた事が、考えないようにしていた事が、現実に引き戻されるかの如く次々と溢れて。次第にそれは涙となって瞳から溢れ出して。

 

 溢れて、溢れ出して。耐えきれなくなって、

 

 ボンッ! と、

 

 

「ーー!」

 

 

 ——感情が、不意に爆発する。

 

 

「やぁ……! やだ。やだやだやだ……っ! やだぁ! テンくんと離れたくない、もっと一緒にいたい、たくさんたくさん甘えて、ずっとこうしていたい……!」

 

「急にどーー」

 

「どこにもいかないでください! レムの近くから消えないでください! 言ってくれたじゃないですか、二度とどこにもいかないと、レムの傍にいてくれると。なら、いてくださいよ! 夢の世界だけじゃなくて、現実の世界でも傍に……!」

 

「また夢って……。それは違う! 違うよ、レム! これは夢なんーー」

 

「やめてぇ……だめぇ……。もう、レムに寂しい思いをさせないでぇ。ひとりに……っ、ひとりに、しないでぇ……。レムを置いて、どこにもいかないでください……!」

 

 

世界そのものに訴えた縋りが、籠った音となって世界に鈍く響く。レムにとっては叶うはずのない哀願が、起こるはずのない奇跡が、テンに甘えたがるか弱い少女の一途な想いが。

 

声が籠っているのはレムがテンの肩に顔を埋めながら叫んでいるからだ。潤む瞳から溢れる落ちる大粒の涙を拭っているからだ。助けを求めて、その人に縋り付いているからだ。

 

夢だと、そう思い込むレムは「夢じゃない」と言い聞かせるテンの声も無視して世界に訴える。お願いだから覚めないでくれ、ずっとこのままでいてくれ、と。

 

ずっとこのままがいい。ずっとこの人とこうしていたい。ずっと幻想に溺れていたい。ずっと二人だけの世界で過ごしていたい。

 

ずっと、ずっと、ずっと————、

 

 

「ずっと、ずっと……。一緒にいたかーー」

 

「夢なんかじゃないーーッ!」

 

 

ずっと一緒にいたかった。そう、レムがこの世界を切り離そうとした瞬間、テンは声を潜めながら叫んだ。その先は言わせない絶対に言わせないという意志の下、彼は喉を震わせる。

 

今の言葉を聞いて、テンが何も思わなかったわけがない。自分の理想が叶う世界を夢の世界として認識するレムの憔悴度合いに、心を痛めなかったわけがない。

 

そんなになるまで無理していたのか、と。やっと出会えた自分を幻としてしまうなんて悲しすぎる。それを「そうだ」と受け入れてしまうのがもっと悲しい。

 

 だからテンは、

 

 

「夢なんかじゃないよ、レム。今レムが見ている景色は、感じている温もりは、夢でも幻想でもまして悪夢でもない。現実……この声は現実だよ」

 

 

凍えるように震え始めたレムの体——テンはそれを強く抱きしめる。強く、強く、レムが痛いと感じるくらいに強く。だってこれは現実だから、この痛みも、この温もりも、この愛も、全部本当だから。

 

だから、紡ぐ。

 

 

「夢だと思わないで。俺はここにいる。ちょっと前の俺とは人が違うと思うかもだけど、それだけの覚悟と決意を固めて来たんだ。レムのこと、全部受け止めるつもりで俺はレムの傍に来てる」

 

 

だから、紡ぐ。まだ、

 

 

「なんで夢と思うのかはなんとなく分かる。レムが現実から目を背けたくなって自分自身に見せた幻想、とでも思ってんだろ? でも…! だけど…! 分かるけど違う! 違うよ! それはレムの思い込みに決まってる!」

 

 

だから、紡ぐ。まだ、足りない。

 

 

「そんなわけねぇだろ! どうしてそんな悲しい考え方するのさ! 絶望のどん底に落ちるレムに俺がそんな仕打ちすると思うか!? もう二度とレムは悲しませない、って決めたから……!」

 

 

だから、紡ぐ。まだ、足りない。こんなものでは届くはずがない。

 

 

「いいレム、もっかい言うよ。これはレムが創り出した世界でもないし、幻想でもないし、まして悪夢でもねぇ。現実だよ! 全部、全部全部本当のーー」

 

「やめてくださいーー!」

 

 

必死に紡ぐテンの想い。しかしそれは伝わらない。

 

熱を帯びた想いを掻き消す怒号が世界の静寂を一度だけ破壊するとレムはテンの胸を突き飛ばし、身を捩って彼の胸元から離れた。離れないでと言い聞かせたレムが、テンのことを拒絶する。

 

想定していなかったわけではない行動に、しかしテンは胸を深々と抉られる。傷口から漏れ出す液体はレムに対する悲しみだけだった。

 

拒絶された事に対してではない、そうまでして世界を夢だと思い込む心に対してだ。想い人の声、それすらも今の彼女は受け止めようとはしていない。

 

絶叫を上げる心が不安定に揺れ始め、首を横に振るレムは「うそ、は、ダメですよ……」と声を詰まらせ、肩を抱き、啜り泣きながら現実の言葉を否定して、

 

 

「そんな酷いこと、言わないでください! 優しい言葉でレムの心を痛めつけないでください! これ……これ以上、レムは壊れたくありません……っ!」

 

「ーーーっ!」

 

 

 ——壊れたくない。

 

聞いたテンの喉が瞬間的に凍りつく。言葉も、息も、何もかもを止める氷結によって彼は声を失った。震える声で伝えられた好きな人の切なる願いが、その心に突き刺さる。

 

これでは、何を言っても彼女を苦しめることにしかならない。レムの望みを全て叶える姿勢が裏目に出てしまった。

 

世界を夢だと思い込むレムに「夢ではない」と言うこと。それはつまり、辛い現実を余計に突きつけることになる。溺れていた甘い世界から這いあがろうとする彼女を、引き摺り下ろすことになる。

 

溺れれば溺れた分、目覚めた時の反動が心の許容値を超える。当然の話だ。近くにあった愛しい温もりが目を覚ましたら消えている、その事実に今のレムが耐えられるだろうか。

 

無理だと分かっているから、レムはテンを拒絶する。夢の世界が夢であると、己に突きつける。

 

だって、夢だから。夢に違いないから。夢以外にありえないから。

 

 ——現実の彼が、自分にこんなことをしてくれるはずがないから。

 

 

「言った通りですよ。テンくんの言う通り、この世界はきっと、レムが現実から目を背けたくなって自分自身に見せた幻想ーー明晰夢です。夢だと自覚している夢。夢の世界でテンくんに愛されたい、損失したテンくん温もりを感じたいという、レムの欲望が創り出したもの」

 

「そん……な、わけ」

 

「夢の中でもテンくんは本当に、本当にお優しいですね。それとも、レムがレム自身にそう見せてるだけなんでしょうか……。この際、どちらだってかまいません。だってこれは、夢なんですから」

 

「そんなわけないーー!」

 

 

 瞬間、

 

つらつらと言い連ねるレムの言葉をテンの怒号が蹴散らす。約一週間ぶりに張り上げた声は裏返り、情けなく掠れていたが、それを凌駕する想いがその言霊には込められていた。

 

初めて聞いたテンの感情が爆発した叫び。鼓膜を殴りつけるそれにレムは肩を大きく跳ねさせた。跳ねたのは肩だけだろうか。否、否定する自分を否定する想いに心が悲鳴を上げて、身悶えている。

 

どうしてだろう。そうなった時から頬を滴る涙が止まってくれない。さっき枯れたはずなのに。夢の世界なのに現実と何ら変わりない程に現実味があるそれは、とても熱かった。

 

体を動かすテンはレムとの距離を人一人分にまで詰め寄り、

 

 

「どうして、俺の言葉を聞いてくれないの? 俺はさっきからずっと夢じゃないって言ってるのに、どうしてレムは否定すんだよ!」

 

「優しい嘘はダメですよ。起きたときに苦しんでしまいます。でも、嘘でも嬉しかった。夢の中に出てきて、レムのことを抱きしめてくれたことが、とても幸せでした」

 

「でした……って。勝手に終わらせるなよ! なにひとりで完結してんだ! 自分の中に逃げるなよ! 正面からぶつかってくる相手を前にして目ぇ逸らすなぁ!」

 

 

レムの全てを悟った声と、テンの感情的な声が混ざり合う。否、混ざり合うことはなかった。テンの声をレムの声は受け付けようとせず、全て横に流されている。

 

テンの声はレムには届かない。彼女の心に響くことはない。

 

彼女はもう彼のことを——夢の世界の彼のことを拒絶しているのだから。声を聞く度に心が砕かれてしまいそうな愛しい声を、聞き入れていない。

 

 

 ーーそれがなんだってんだ!

 

 

それでもテンは手を伸ばし続ける。嘘の仮面を顔に貼り付けるレムの心を曝け出させるために。「いかないで」も「そばにいて」も、彼女の本心だと理解しているから。

 

自分の心を守るためにテンの声の一切に耳を塞いでいたとしても彼は折れない、折れたりしない。それは前までの自分だ。今の自分の精神力を甘く見ないでほしい。

 

 レムに対する想いの強さを、みくびらないでほしい。たった一度の拒絶で引き下がる自分じゃない。

 

 

「何度だって言……っ!」

 

 

紡いでも紡いでも止まらなかった愛。膨らんだものが破裂したように爆発する清純な想いの羅列——止まったのは突然だった。

 

喉に手を添えるテンが息を詰まらせて咳き込み出す。本人が全く意図していないそれは勢い任せに病み上がりの喉を酷使した代償だ。

 

止まらない感情を叩きつける声が生命を維持する機能によって強制的に止められる。あまりの辛さに姿勢を倒し、ひゅうひゅうと高い音を薄く鳴らしながら呼吸を整える彼は、心に反して声を紡ぐことが体に厳しく咎められた。

 

 

 ーーふざけるな! 動けよ! 動けっつってんだよ! 今が正念場だろうがぁッ! レムを、助けるんだろッッ!!

 

 

生命の危機、それを許さんとする機能に抗う心が想いの丈を吐き散らす。それよりも優先するべきことが手の届く距離に居るだろうと、尖った声で己を守護する機能に吠えた。

 

ひとりでしか苦しむことのできない少女をひとりにしたくない。無理することが当然になった好きな人を苦しめたままにしなくない。悲しむ姿を、苦しむ姿を、蹲る姿を、もう見たくない。

 

レムに対する全ての想いが彼の心を突き動かす。我慢に我慢を重ね、殺して、時には目を逸らしてきた恋色の感情が無理やりにでも喉を震わせようと必死になって。

 

 そんなテンの背中を、レムは優しくさする。

 

 さすりながら、言った。

 

 

「……もう、いいですよ」

 

 

掠れた、今にも消えてしまいそうな声だった。

 

事実、その声はテンの耳にも辛うじて拾われる声量だった。漏れ続ける喘鳴に掻き消されて、音として成り立つことすら危うい声。

 

 

「この世界は、レムにとっては毒なんです」

 

 

死期を悟ったような穏やかな声がテンの上から零れ落ちると、彼は次に繋げる言葉を投げるために呼吸を整えながら体を起こした。

 

 

「どく? なんで、また、そんなこと……」

 

 

胸を小さく上下させるテンが途切れながらに文字を言葉として並べる。自分の考えが本当かどうか確かめの疑問符に、レムは「だって」と鼻を啜る音を一度だけ弱く立て、

 

 

「テンくんがレムを甘やかす度に、レムはテンくんを欲してしまう。テンくんのことを求めてしまう。そんな状態で目覚めてしまったら、レムは耐えられません。大好きな人の温かさが欲しくて欲しくて、きっと壊れてしまいます」

 

 

語るレムの声は低かった。感情の波が静まり、衝動の治った声はひどく落ち込んでいる。夢を見ることを諦めた声だった。

 

この世界が自分にとって毒なんてこと、レムはとっくに理解している。否、毒ではない猛毒だ。彼の優しさは、甘さは、一滴でも取り込んでしまえば病み付きになってしまう麻薬。

 

優しさとは、甘さとは、時に人を苦しめる材料に化ける。恋する女の子の心を容易く崩壊させてしまう何よりの暴力と成ってしまう。

 

テンとは、レムにとってそのような存在だ。

 

温もりを知ってしまった以上、もう離れることはできない。忘れることも、遠ざけることも、目を逸らすことも。

 

だからこそ、レムはそれを拒絶した。無駄だと分かっていてもこれより先に進ませないよう、彼女は彼のことを求める本心とは真反対に、自分の方から逃げる。

 

 

「だから、レムはここにいてはダメなんです。目を覚まして、現実と向き合わないと、ダメなんです。テンくんに背を向けて、その温もりから逃げ去らないと、ダメなんです。だから………」

 

 

 だから、その前に一つだけ。完全にサヨナラをする前に一つだけ、伝えさせてほしい。

 

 現実では決して言えない一言。言っちゃいけない一言。言う資格などない一言。

 

 それを言って、お別れだ。

 それを言って、満足しよう。

 

 

「テンくん」

 

 

 愛しげに名を呼び、レムは両手でテンの顔を掬い上げる。

 表情の見えぬ顔は、しかし今だけは動揺の顔が明確に見えて。やっと見えたと、微笑みながら。

 

 

 

「レムは、テンくんを愛しています」

 

 

 

 

 

 

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