過去から現在、生まれた日のことから今に至るまで。その自分の全てを語るレムの物語が、いよいよ最後のページを飾る。
姉の劣化にすら成れず、周りからの期待の声から逃げ、姉に追いつこうとする自分からも逃げ、何もかもから逃げた少女の悲劇的な物語は、終わりを迎えようとしている。
一ページ一ページを震える手で繰る彼女が、その終点を紡ぎ始めた。
「決して、姉様が妬ましかったわけではないんです。両親が憎かったわけではないんです。同族が疎ましかったわけではないんです」
降り頻る小雨のように小さな声で、レムは数瞬前に告げた罪の補修。
今更、何を言っても言い訳にしかならない。大罪に匹敵する感情を抱いたことを綺麗に取り繕うようにしか聞こえない——そんなこと、レムが誰よりも理解している。
でも、抱いた思いは全て彼に伝えたかった。ここまで話したのなら、胸の内に秘めたドス黒い思いを
「姉様はレムの自慢の姉様です。両親は姉様と同等の愛を注いでくれました。同族は期待の声を向けてくれました。確かに、それを生き地獄のように感じていましたが……初めは嬉しかったんです」
レムが、努力すれば何か一つでも姉に勝れると心から信じていた頃の話。必死に足掻いて、足掻いて、足掻き続けていればきっと報われると信じるしかなかった自分の話。
その姿を見た村の人たちの期待と羨望の声は、悪いものではなかった。無論、それを背にしたレムも応えなければと奮起し、やれることは全て尽くした。もう無いのではと考えても、最後の一滴まで絞り出した。
その結果が、今の自分。
「姉様には追いつけない。それを悟らされてからは、その声が途端にうるさく感じ始めました。それまでは背中を押してくれていた声が、それからは背中を殴りつけくる声に変わった」
越えれぬ境界線、乗り越えれぬ壁、追いつけぬ背中——それら全てを否定してくる声にレムは嫌悪感しか抱かなかった。天変地異が起ころうとも姉に追いつけない自分に対して刺さる『姉のように』の声が、レムは大嫌いだった。
だからレムは逃げた、耳を塞いだ、目を背けた、自分という人間を諦めた。
そうすれば聞きたくない声を聞く必要もなく、聞いたとしても軽々しく受け流すことができた。聞きたくない聞きたくないと、ふとした瞬間から泣いてしまいたくなるそれを無視することができた。
だからこそ、そう思ったのかもしれない。
「姉様の角が折れた瞬間、それら全ての声が一斉に止んだんです。それまで頭の中で怒号のように反響していた嫌な声が嘘ように、静まり返ったんです」
生まれてからずっと、自分を蝕み続けてきた声が聞こえなくなって。
静寂した心の中で一人、レムは塞いでいた耳を開けて周りを見渡せば「姉のようになれ」と叩きつけてきた同族が跡形もなく消えていたことを知った。
嫌だった声が散り。うるさかった声が二度と鼓膜を叩かなくなり。自分を見てくれない声が一つ残らず心の中から消え失せ。どうにかしたいと思っていたことが、こんなにも簡単に解決されて。
ああ、こんなにも簡単なことだったのかと、声を消す方法は他にもあったのかと、努力してきた自分が馬鹿馬鹿しくなって、
「それで、レムは………」
「そう思った、と」
「………はい」
深く、ゆっくりと頷き、レムは己の罪を肯定する。
比較し続けてきた声が、され続けてきた自分が、その瞬間から消えたような気がして。疼いていた激痛が癒やされたような感覚に、心地よさを感じた気がして。そう思ってしまったことに変わりはないから。
頷きを受けたテンは「そっか」としか言葉を発さない。気休め、同情、肯定、或いは否定、人間が投げかけられた言葉に対して反応できる選択肢のどれにも属さない彼は、言葉を受け止めるだけ。
彼は基本、答えを求められない限りは受けに徹する人間だ。ただ、隣に座って寄り添いながら話を聞くだけ、それだけの人間だ。求められたら全力で応える、それしかできない。
だからレムも、無条件で受け止めてくれる彼に溜め込んできたものを叩きつけるように吐き出す。
吐き出し、続ける。
「その日から、レムはその感情の贖罪のためだけに生きてきました。完璧な姉様の代わりに成ること、それだけに自分を作ってきました」
「ーーーー」
「姉様は、レムを庇って角を失ってしまった。レムは、姉様のその姿を見てそう思ってしまった。だから、その罪滅ぼしのために、レムはレムで在ることを本当の意味でやめたんです」
「ーーーー」
「努力して、努力して、努力して、努力して。本当の姉様ならこの程度のことなんて軽々しく飛び越えると、そう思いながら、自分を犠牲にしてでもレムは本当の姉様を追い続けました」
「ーーーー」
「姉様ならもっとうまくやれた。姉様ならこんなところで躓かない。姉様ならきっと迷わない。姉様なら簡単にこなすに決まってる。姉様なら絶対に間違わないに違いない。姉様なら、姉様なら、姉様なら。………そう、自分を殺して」
「ーーーっ!」
聞き覚えのある発言に、テンの肩が初めて跳ねる。レムの過去を聞いたことで得た動揺を大っぴらに出してこなかった彼が今この瞬間、大きく反応を見せた。
止まることを知らないレムの独白。『レム』というタイトルの本の最後を飾るページにびっしりと綴られている自分の今を語るレムに、テンは心を大きく貫ぬかれたのだ。
だって、あまりにも悲しすぎる。
声色、仕草、態度、表情、手を握ってくる力の入れ度合い——レムという存在が向けてくる全てが彼女の心情を語り切れない程に語り、テンに余す事なく叩きつけてくる。
お陰で、文字で読むのと画面の外から観るのとでは比較にならない程の絶望が伝わってきてしまう。レムの我慢してきた見えない涙が、勝手に幻視させられてしまう。
「ぁ………」
何か言いかけたその吸息音は、しかし言葉にならず。結局、彼は痛ましげに下唇を噛み締めるだけとなった。
「以上が、レムの全てです」
パタン、と。
読み聞かせていた一冊の本を閉じるように、レムは己の過去を語り終えた。
生まれてからテンと出逢うその日までの自分。決して打ち明けることなんてないのだろうと諦めていた自分。誰も求めてくれなかった本当の自分。
惨めで、醜くて、救いようのない弱虫。それを丸裸にしたレムは、今一度テンの体の中から抜け出すと身を回して彼と向き合う。
背筋を正して正座する彼女は胸に手を添え、くしゃりと服を握りつぶすように拳を強く握りしめると、
「過去に犯した罪、その罪滅ぼしで作られた人間——それが、レムという未完成の鬼。姉様の代替品にすら成れないどうしようもない女です」
「余す事なくお伝えしました」と。その終わり方では確実にバッドエンドまっしぐらな状態だが、彼女は一心に見つめるテンの瞳に、短く感じた独白の時間、その終わりを明確に告げた。
そのとき、見つめる瞳の中にレムは自分の姿を見た。テンが見ている自分の顔を見た。
ひどい顔をしている。頬から力が抜け、瞳から光が落ち、表情から色が消えた無感情な真顔に明らかな陰が差したそれは、諦観している者の顔に他ならない。
実際にそうなのだろう。自分は何もかもを諦めている。自分が自分で在ることを、自分が自分を許すことを。あの日から自分は、姉の代替品として生きていくことしかできないのだと。
それが、レムという人間だ。
「レムは、姉様とは比べ物にもならない程に出来損ないです。その上、鬼族の落ちこぼれです。あの日から何年も努力して追いつこうとしても、結局は何も変わっていない、ただの無能なんです」
「そんなこと——」
「事実としてッ!! レムのために姉様が傷ついたように、テンくんも傷ついてしまった。理由は明白、レムが一歩も進んでいないから! そうやってまた、同じことをレムは……!」
そんなことないよ。
用意されていた否定を紡ぐはずのテンが割り込んできたレムの声に弾き飛ばされると、そのまま彼女は言葉を続けた。
跳ね除けたレム自身、彼が言わんとしていることは分かっていた。きっと、否、彼は本心でそう言うつもりなのだろう。そんなことないよ、とレムがレム自身を傷付ける手を止めてくれるはず。
けど、それじゃダメなんだ。そんなことないわけないから。同じこと繰り返し、同じ罪を心に刻み、同じ十字架を背負った——その事実があることがテンの否定を否定している。
諦観の表情が瞬間で慟哭するような表情に変わると声を荒げたレム。罪の意識に溺れる彼女にテンは「ああ」と、納得したような呟きを吐息混じりにこぼすと、
「あの時から何一つとして変わっていない、って言ってたのはそーゆーことね。だから、過去の罪と今の罪を重ねて、罪の意識を余計に感じちゃったのか」
「当たり前じゃないですか。レムは、一度はならず二度までも大切な人を殺しかけたんです。姉様はレムを庇って角を失い、テンくんは庇っただけでなくレム自身が傷付けてしまった」
これを罪と言わずしてなんと言いますか。そう語るレムの目は決して嘘を言っていない。背負う十字架の重さを痛感している彼女は心の底から、刻まれた罪を深刻に捉えている。
しかし、正直なところテンとしては全く気にしていない。
深い眠りにつく寸前に話した通り、レムが罪の意識を感じる必要など無いと彼は思っている。確かに、暴走したことや、先走ったことは叱られるべきことだが、そこまで深刻に捉えるものでもないだろう。
が、それはあくまでテンを基準とした場合の考え方であって。それがレムの罪の意識を抑制できるかと聞きかれれば、残念なことに首を縦に振ることができないのが現状。
例え他が許そうが、レム自身がレムを許せない。それが障害となって彼女は立ち止まってしまっている。故に、その障害を取り除く必要がある。
そして、その役割をテンは買って出た。つまりは、ここから先が自分がレムの過去を聞いた意味。
ーーさて、ここからどうしようか
心で呟き、テンは頭を軽く抱える。行き詰まる、というよりも話したいことがありすぎてどれから話すべきか迷っていた。
果たして、どれを、どの順番で話せばレムの心に届かせることができるか。悩んでいると、頭の中が様々な感情でごった返してきている予感。
もちろん、伝えたい事はまとめてきたつもりだが、まとめたそれらをごちゃごちゃにする勢いで伝えたいことが作られている。
「だから言いました。レムはレムを許すことができないんです、と。テンくんを傷付けたこと自体は当然ですが、過去の同じ罪を重ねてしまったことがもっと許せない。あの頃から、何も変わっていないレムが、レムは許せないんです」
散らばった言葉を丁寧に整える間に、レムの本心がテンの鼓膜を強く叩く。レムがレムを許せない本当の理由が今、彼の心に伝わる。
愛する人を傷付けた罪と、過去と同じ罪を犯した罪に板挟みにされて、それを許すことを心は許容しない彼女は『許す』という選択肢を自分から取り上げてしまった。
故に、その自分を肯定する事も否定する事もできないまま、今のようになってしまったと。
「姉様ならこんな失態、するはずがない」
独り言のように言い、レムは力無く首を横に振る。服を握りしめる拳に、震えるほどの力が入った。
何もできない、ただ感情に任せて暴れ回ることしかできなかった自分を糾弾するそれに対し、頭の中を整理するテンが僅かに反応するのを横目に、
「本当の姉様がいれば、あの騒動だって被害を出さずに終わらせていた。レムのような出来損ないに角が残っていなければ、こんなことにはならなかった」
どこまでも己の事を否定するレム。過去を語る上で散々卑下したとしても彼女のそれは止まらない。否定と嫌悪しか出てこなくて、口を開けばそれと類似する言葉ばかりが吐き出される。
姉ならばこうはならなかったと強く思わせる縛りが心を締め付けるせいで、それは時間と共に加速していく一方だ。
「あの日、レムが角を折られていればよかったんです。レムが、レムだけが傷付けばよかったんです。こんな未完成で、姉様に一生追いつけないレムなんかではなく、姉様が無事であるべきだったんです」
止まらない後悔が。終わらない自己否定が。自分という存在そのものを完全に拒絶してしまう言葉の羅列が次々と溢れ出て。
いつしか、溢れて止まらないものが一滴の涙となって頬に垂れる。
「どうして、レムの方に角が残ってしまったんですか? どうして、姉様の方の角が残らなかったんですか? どうして、姉様は生まれながらに角を一本しか持っていなかったんですか? どうして——姉様とレムは、双子だったんですか?」
「ーーーぁ」
レムにとっては答えの無い疑問。テンにとっては思考を停止させられる疑問。模範解答も配られない永遠の問題、その答えをレムが縋るようにテンに問いかけた——その瞬間だった。
頭の中でせっせと働き、言葉を整理していたテンの動きがそれを境にピタリと止まった。聞き覚えしかない発言に余裕を持っていた考える力が瞬間的に麻痺し、順調にまとめていた言葉が再び散らばる。
束になった紙がばら撒かれたように足元に散らばった
そうして、またしても同じことを繰り返していたと瞬時に理解した。絶望に涙を流すレムを見て、何度繰り返すつもりだと己を必要以上に叱咤した。
ーーごちゃごちゃ考えるな、クソ野郎
悪い癖だ。
一度に様々な情報が流れ込んでくると頭が混乱して、覚悟としていても、つい必死にまとめようとしてしまう。感情のままに話す場面で、頭を使おうとしてしまう。
それではダメだ。特に、今のように相手が感情のままにぶつかってくれている時は。
レムが心を曝け出してくれているのだから、自分もそうするべきだろう。
思ったことを、思ったままに、思ったように話す。問われた疑問には、感情に身を委ねて話す。
それを瞬時に把握し、軌道修正できるようになったのは進歩と捉えるべきか否か。少なくとも、前のような自分から一瞬で脱せられたと喜ぶべき。それでもまだクソ野郎である事になんら変わりないが。
「テンくんはどうしてだと思いますか? どうして、レムは生まれてきてしまったんだと思いますか?」
頭で声を発することから、心で声を発することに完全に切り替えたテンにレムは問いかける。詰め寄り、寄りかかり、涙の軌跡を彼の胸で拭うと、見上げた彼女は潤んだ瞳で解答を迫った。
自分一人じゃ正解の出ない疑問。全ての疑問の行き先にある疑問。何度となく己に問いかけては、悩み続けることを強要するそれにテンは「んーー」と、悩むように喉を低く唸らせると沈黙。
眼下にあるレムの顔をじっと見つめる彼は、レムが生まれてきた理由を心の問いかける。生きてきた中で一度も考えたことのない疑問を投げかけると、見つめられたレムが不思議そうに首を傾げるのを見ながら、
「幸せになるため。とか」
そうだ! とでも言いたげな人差し指がレムにピンと向けられると、レムは「え?」と呆気にとられた声色。迷いのない声で言い切られた彼女は顔色を困惑に染めた。
割と安直な答えを言ったつもりが予想外の反応。幸せになるために生まれてきたという、基本的に何にでも使えそうな定型文を放ったテンは「まぁ」と呑気そうに、
「正直なところ、生まれてきた理由なんて考えたことなかったなぁ。そんな壮大な話、俺とは無縁だったから。ありきたりなことしか言えねぇや」
これまで。というよりも、この世界に放り出されるまでは壮絶という言葉とは無縁だったテン。平和ボケした故郷でほのぼのと過ごしていた彼は自分が生まれた意味など考えたことなどない。
そもそも、考える機会がない。
高校入試、大学入試の時期に人生を見つめ直したことはあるものの。それが原因で軽く病んだことはあるものの。死にたくなったことはあるものの。夕方、公園のベンチに座って黄昏たことはあるものの。生まれた理由など、考えたことはなかった。
そう考えると、思うことがあった。
「じゃあ逆に、理由があって生まれる人間ってこの世界にいるのかな。生まれる前から、理由があって生まれてくる人っているのかな」
純粋な疑問。
問い返されたレムはその疑問に言葉を紡ぐことはできない。少し考えてみるが、やはり答えは出てこなくて。無理解の意味を込めて首を横に振ると、「ごめんなさい、分かりません」と申し訳なさそうに声を落とした。
謝られても困るテン。彼は、謝り癖のあるレムに苦笑しながら「謝らなくていいよ。別に悪くないし」と、落ち込むレムの頭を割れ物を扱うような優しい手つきで数回撫でながら「思うんだけどさ」と、
「理由とかさ、誰かに付けてもらうもんなのかな。自分が生まれてきた理由は自分が決める。これでいいじゃない。レムが生まれてきた理由は、レム自身が決めなよ」
「そんなこと……できません。だって、レムが生まれなければ悪いことは何も起こらなかったはずです。姉様も本来の力を発揮することができて、今のようになることもなかったはずです。生まれた理由なんて、あるわけないですよ」
「あのさ。その考え方、なるべくやめてほしいかも」
両肩を掴み、下がりつつあったレムの体勢を無理やり起こしたテン。彼女と自分の目線の高さを平行に保つ彼は疲労感を纏わせた吐息を一つこぼし、
「レムが俺のことを、夢だと思い込んでた時から薄々思ってたんだけどさ。レムって、なんでもかんでも『そうだ』と決めつけがちだよね。自分の中だけで物事を決定して、それに……それだけに縛られる癖があるよね」
悪いことは何も起こらなかったはず。今のようになることもなかったはず。生まれた理由なんて、あるわけがない——それは、あくまでレムが語る決定された想像上の話。
自分の世界に閉じこもりがちとは知っていたが、接していてよく理解できた、ついでにその筋金入り度合いも身に染みた。
自己完結の塊。そう言い表すのが適している気がする。周りの意見を聞こうともせず、自分の中で形作られた答えのみを正解とし、その結果として悪い方向に縛られる。
それはまるで、相合傘をした後、一週間程度レムに避けられ続けて彼女に嫌われたと思っていた自分のようではないか。
彼女の話を聞こうともせず、自分の想像だけで完結し、全てが終わったような気になる。しかし話を聞いてみれば向こうも同じ風に思っていたというオチ。
その経験を通して、テンは学んだ。
「その考え方は損しかしない。自分の考えだけで決めつけて、落ち込んで、ひとりで抱え込んで、完結して。それで何が変わった? それをして、良かったことが一度でもあった?」
「それは………」
「悲しかった。苦しかった。辛かった。寂しかった。どうしようもなかった——針が刺さったみたいに胸に違和感があった。そうでしょ? 俺だってそうだった」
胸に拳を当て、過去の自分を語るテンの声は感情的だ。自分と同じ考え方で良くない方向に突っ走り続ける彼女の手を掴み、全力で良い方向に連れて行こうと心を燃やしている。
着火剤はレムへの恋心。好きな人だから彼は全身全霊を尽くして彼女の心を解放するべく奮起、伝えたいことが溢れ返りながら、しかし紡ぐ口を閉じることはない。
「生まれた理由なんてあるわけないですよ、だ? ンなわけねぇだろ。生まれた理由は後付けされるもんなんだから。生まれた時点で、その人に、生まれた理由なんてないんだよ。最初からあるわけじゃない」
「さっきと言っていることが違うような……」
「………そうじゃん、言ってること変わってんじゃん。じゃあ、俺の答えは今のやつにするよ」
「つまりテンくんの答えは……」
「どうしてレムは生まれてきたか。それは、生まれた理由を見つけるため。これにしよう。うん、やっといい感じの答えが出た」
名案とでも言いたげなテンは指をパチンと鳴らしながら歯を見せて笑う。意見が二転三転する彼にレムの表情が曇るが、彼はその笑みを崩しはしない。
人間の考えなんてものは、変わり続けるものだと彼は知っている。現に、自分がそうなのだから。ラムにかけられた言葉のお陰で、世界に来てからずっと心を縛り付けていた考えは既に変わっている。
なら、些細なことで考えが変わることなんて日常茶判事だろう。
「やっぱり、哲学の問題って難しいね。俺みたいな適当な人間じゃ的外れな答えしか出せてない気がするよ。歴史上の偉人なら、もう少しマシなことも言えたのかなぁ」
哲学の問題というものは、回答者が培った人生の経験値が形として現れるもの。つまり、人生経験が深ければ深いほど『それっぽい答え』が出てくるわけだ。周りを「おぉ」と言わせてしまうような、そんな答え。
名言集などに載っている言葉が最たる例。決してそれに正解、不正解があるわけでもないのに、人間は共感してしまうと『そうだ』と思ってしまう。名言という言葉があるのは、それが理由だとテンは思っている。
要は、どれだけ多くの人間の心に響き、共感を得られるか。哲学的な問題に挑む人間にはそのスキルが求められる。
その点において、テンは不十分もいいところ。今年で十九歳となる彼だが、名言を言えるような言葉を作り出す頭など無い。
故に、レムは納得のいかなそうな様子。生まれた理由を見つけるために生まれてきたなどと、考えもしなかった答えを出された彼女は顔を顰めている。
「哲学的な問いかけの答えなんて十人十色。正解、不正解とか無いから。俺の考えは、あくまで『答え』ってだけなんだ。正しいかなんて判断できるもんじゃない。だって、哲学だし」
「では、レムはどうすれば……」
自分の期待を真っ向から裏切ってくるテンに、レムの表情が更に沈む。『答え』ではなく『正解』を求める彼女にとって、その言葉は一つの絶望にも捉えられていた。
自分一人じゃ正解は出ない。だから、彼に正解を聞いたというのに、返されたのは正解ではなく答え。加えて、正解も不正解と無いと前提から否定されたとなれば彼女は、完全に自分の進むべき道を見つけられなくなってしまった。
そうなればレムに光はない———、
「私はこのために生まれてきたんだ——って。そう思える時が来るまでその疑問は置いとけば? それか、自分なりに答えが出せるまで置いとけば?」
「レムの、こたえ?」
「そう。レムの、答え」
光を与え続けてくれる人の声に、レムは首を傾げる。テンが出した答えと自分が出すであろう答えの、二つの道を彼女の目の前に引いた彼は、どちらに進むかを委ねるように、
「自分で出した答えなら納得できるっしょ。正しかろうが間違っていようが、それが『答え』なんだから。尊重して、貫けばいいと思うよ。もっかい言うけど、正解も不正解もないんだから」
「ーーーー」
「俺の答えが自分の答えだと思うなら、そうすればいいし。そうじゃないなら、たくさん悩もう。答えを出すのがひとりじゃ難しいなら俺も一緒に悩んであげる。言ったでしょ、ひとりにしない。って」
「二人で悩んだら、答えも出るかもだし」と、呆然としたレムにテンは親指を立ててグーサイン。一人でしかいられなかった彼女は、もう一人ではないことを彼は伝えた。
辛いことも苦しいことも分け合おう。彼女の悩みは自分の悩み。一人で抱え込みがちな少女にずっと寄り添うことを決めている彼に戸惑いはない。レムの抱えているものは、一緒に抱え込もう。
そっと、テンはレムの手に指先で触れる。ひとりにしない——仕草で表すと、レムは条件反射のような速さで触れた手を指を絡ませながら握りしめた。
直後から伝わってくるのは温もり。同じ温もりだとしても、絶対に飽きることのない愛している人の愛情。それが、手を起点として体全体に波紋していくと、レムは自然と心が落ち着く。
ーーああ、やっぱり彼の手を握ると理由もなく安心してくる
「答えなんて……、レムに出せるでしょうか」
「出せるよ。今すぐには無理でも、生きてればそのうち出る。どんな形になったとしても、答えは出てくるもんだよ」
「楽観的すぎませんか?」
「レムが悲観的すぎるんだよ。今よりも後の事ばっかり気にしてさ。あと、今よりも前の事も。そうするなら、少しは今のことを考えようよ。今を生きれない人に『そのうち』なんて訪れねぇし」
不安げに瞳を揺らすレム。考えに考えて、頭がくらくらしてしまう程に考えても答えの出ない疑問の答えが出せるのか、考えていると胸が締め付けられるそれの答えが出せるのか。
そんな不安ばかりが過るが、テンは不安の気配を一切漂わせていない。
妙に自信のありそうな彼の瞳に曇りは存在しておらず、「出せるよ。絶対に」と指を絡め合わせた手をぎゅっと握りながら力強く言い放った。普段から自信の欠片もない彼にしては珍しい。
なにか。彼の中で心変わりでもあったのだろうかとレムは不意に思うが、
「姉様に角があったら。とか、本当の姉様ならこんな失態はしない。とか、レムは言うけどさ」
そんな思いなど察せないテン。抱いた思いを心の隅に追いやるレムに「はい」と頷かれれば彼は、「酷いことを言うようで申し訳ないけど」と前置きし、
「現実的な意見を言うと。それって、気にするだけ無駄なんじゃないの? 気にしたところで、どうにかなるものじゃないでしょ?」
「そんなこと——」
「だってッ!!」
予兆、予感、気配、それらを読み取らせぬテンが突然に叫び、否定を重ねようとしたレムの声を蹴散らす。心臓が飛び跳ねた彼女は、小動物を幻視させる驚き方で体をビクンと跳ねさせた。
自分自身もそうだが、今夜は感情の緩急がテンも激しいらしい。その上で「ごめん。びっくりしたよね」と、急に冷静になられたら心が全く追いつかない。
当の本人は、叫んだ己を軽く咎めているところだ。「悪ぃ。もうしない」と、頭を下げる。気持ちを切り替えるために浅く息を吐く彼は「だって」と先の言葉を口にし、
「それは全部、過去で、理想で、夢物語なんだろ? 叶うはずのない幻想なんだろ? ……違う?」
言った直後、喉を引き攣らせるレムの表情が固まる。反論を吐き散らすはずの口は凍りついてしまったように動かず、そもそもの話として反論すら浮かんでこない。
図星だ。角があったら、自分の姉が本来の力を出せていたら——そんな、たらればの話が過去の話で、理想で、夢物語だなんてこと、もうとっくに理解している。
それでもそれを否定し続けるのは、心のどこかで認めたくない自分がいるからかもしれない。或いは、本来の姉の姿を心に留めておくことで、自分という人間を否定したいのかもしれない。
それを目標としていないと、自分は、自分で在ることをしてしまいそうだから。
そして。そのレムを、テンは意地でも引っ張り出す。
「過ぎたことを気にしててもしょうがない。とは、レムの過去を聞いた身としては軽々しく言えないけども。でも、言う。言うよ。いい、言うからね。俺、レムを助けたいから言っちゃうからね!」
レムを助けたいから言っちゃうからね。
それは、レムを傷付けたくない心とレムを助け出したい心が衝突した事で生まれた、テンの優しさが垣間見えた瞬間。自分を助けたいから言う、と素直に言ってしまうのは実に彼らしい。
焦った様子で紡ぐ彼は、レムの反応を気にしつつも自分の言葉を貫かんとしている。傷付けたくない心と助けたい心に板挟みになりながらも、しかし懸命に自分の手を掴もうと手を伸ばしてくれている。
これが、自分の愛した男か。助けたいという想いにひたむきで、感情に突き動かされるように言葉を発して、過去に縛られた自分を救うべく必死になっている——自分が、世界で一番愛した男の姿か。
「はい。きてください。テンくんの言葉なら全て受け止めます。安心して助けられると……そう、言いましたから」
これで何度目だろうか。
ふにゃりと頬が緩むと、レムは目の前の胸に倒れ込む。ぽすん、と小さく音を立てると自分の小柄な体がその体に沈んだ。レムという女の子の全てが、テンという男の子の体に預けられている。
やっぱり、こうして彼の胸に顔を埋めると落ち着いてくる。初めと比べたら幾分かは落ち着いた鼓動を感じていると、それ以上に心が落ち着いていてくる。手を繋いだままだと尚更。
荒波だったのが凪になるような。水面に波紋ひとつ立たなくなるような。今なら、何を聞いても安心して受け止められる。
深呼吸を繰り返すレムに、テンは口元を綻ばせて薄く笑みを浮かべた。自分が彼女の精神安定剤になったことが確定したところで、「じゃあ、言わせてもらうけどね」と、
「レムはその時のことを気にしすぎなんだよ。それしか……過去しか見てない。過去の自分ばっか見て、今の自分を見る気配すらない」
「それに」と、テンは見上げてくるレムに言い聞かせるような声色で、
「レムが生きてるのは、今だろ。過去に縛られてるだけであって、レムは今を生きてるんだろ。過去のことばっか気にしてちゃ、いつまで経っても前に進めないよ?」
過去でもなく、未来でもない、今。過去に縛られ続けるレムは、しかし今を生きているのだから。昔のことばかりを引きずっていてはもったえないとテン思うのだ。
確かに、過去に心を置いてきてしまう程の出来事があったことは否定できない。ずっと引きずってしまいたくなる悲劇がレムの身に降り掛かって、過去に縛り付けていることは事実だ。
しかし、
「古きを訪ねてなんとなら、と言いますが。レムの場合は訪ねる通り越して滞在しちゃってんのよ。そこにずっと止まってんの。しかも、何の進歩もないままね。……レムは、後ろしか見えてない」
過去を振り返ることは大切なことだ。それはテンも思うことはある。しかし、レムの場合は振り返ったまま帰ってこない。それどころか、振り返った勢いで過去へと走り去ってしまった。
ずっと、そこにいるのだ。過去の出来事が作り出した現状と向き合わず。贖罪、罪滅ぼしという形で角が折れた事実から目を逸らし。ラムと真正面から向き合おうともしないで。
結局、自分の中だけで全てを完結させてしまうから、過去に囚われ続けることになった。
「過去は聞いたから、その痛みを分かった気にはなれる。でも、完全に分かることはできない。実際にレムの過去を経験して、痛みを受けて、苦しみに足掻いてみないと、完璧には分かってあげられない。だから、縛られるレムの気持ちは、理解してあげられない。ごめんね」
「
できることなら、全部分かるよ。痛みも、苦しみも、絶望も——レムが受けた全てのことを。と、そう言ってあげたかった。彼女が抱えるものを本当の意味で一緒に抱えてあげたかった。
しかし、テンはそこまで立派な人間ではない。何を聞こうが、レムが受けた痛みを実際に受けれるわけでもないから、分かったような気になることしかできないのだ。
ただ。ただ一つ、分かることがあるとすれば、
「でもね。そういうものに縛られてたら良くない、ってことは分かる。過去でも、記憶でも、運命でも、その種類は千差万別だけど。何かに縛られたままでいるのは絶対に良くない。これだけは分かる」
「どうしてですか?」
「俺も、今さっきまでそうだった」
直後。
レムの瞳が驚愕に見開き、「テンくんも、何かに縛られていたんですか?」と表情に光が差し、陰りが瞬間的に消失した。宿ったのは希望か、もしくは同族を見つけた安心感か。
彼とは共通点が多いとは薄々勘づいてはいたが、ここまで一致されると、いっそ運命的なものすら感じてくる。
彼も同じなのか。否、同じだったのか。自分の気持ちを理解してくれる人は、こんな身近にいたのか。近すぎて気付かなかった。
「そうだよ。俺もね、レムと同じ……レムほどではないにしても、ちょっと面倒な考え方に変に縛られててさ。そのせいで色々と大変だったんですよ。はい」
「今思うと、何で
「それ、レムに教えてください」
「お。教えてくれませんか? じゃなくなったね。うんうん。それでいいんだよ。自分の意志をもっと外に出していこーぜ」
「はい。たくさん甘えちゃいま………。テンくん、話を逸らさないでください」
「バレたか」
呟かれた逃走の証拠。聞いたレムがむっとしながら身を乗り出すと壁に寄りかかるテンの眼前に迫る。自分以外の全てを彼の視界から排除させる彼女は、比喩でも何でもなく、吐息が唇にかかる距離に詰め寄った。
唐突なそれにギョッとするテン。反射的に頭を後ろに下げるも、残念なことに壁。弾かれるように下げたことが原因で後頭部をかなり強めに強打、低い音と共に部屋が振動した。
流石に驚かせてしまったか。「あ、待って、これすごい痛い」と、ぶつけた部分に手を当てるテンにレムは「驚かせるつもりはなかったんですよ。でも、テンくんが悪いんです」と、天使と悪魔が言葉として交互に放たれた。
「それで。教えてください、テンくん。テンくんが何に縛られていたのか。それと、どうやって縛りから抜け出せたのか、レムはとても興味があります」
「俺の後頭部強打を『それで』の一言で片付けますか。姉妹揃って辛辣だな、おい」
詰め寄ったレムが定位置、テンの胸に顔を沈める体勢に戻るとテンは吐息。数分程前にもラムと似たようなやりとりをした記憶のある彼は、変なところで二人は姉妹なんだなあと感心してしまった。
ーー少し、レムに元気が戻った気がする
レムの纏う雰囲気が不意に和らいだことを察し、テンは心の中でそんな言葉を安心したように呟く。
話し始めた時は暗い雰囲気が多かったからどうしたものかと密かに思っていたが。今、少しずつではあるが、自分の知る彼女に戻りつつある。こんなやりとりができていることが証拠だ。
理由はなんだろうか。自分の言葉が心に届いて、過去の縛りから抜け出せつつあると事だと嬉しい。まだ入り口にしか立ててなくとも、そのキッカケが彼女の中で生まれてくれていると、とても嬉しい。
「テンくん」
「分かりました分かりました。教えます」
ペチン、と。
一度だけ頬にレムの弱平手打ち。体温で温められた手の平が優しく添えられると、テンはその手を下ろしながらどのように説明しようか悩み出した。
原作に決められた未来は変えられない。道筋は決まっている。だから、自分はレムを好きになることを諦めていた。
なんてことを直球に言えるわけでもないし、かといって他に伝わりやすい言い回しがあるかどうか。期待の眼差しを向けられてしまうと、必要以上に緊張するせいで何と言うべきか迷いが生じた。
その中で、テンが導き出した言い回しは———、
「強いて言うなら———運命」
「ふざけてますか?」
「至って大真面目です」