眼下。胸元に寄りかかるレムの目の温度がひんやりとしたものに変わった気配に、しかしテンは真面目な表情。何も知らない人間からすればふざけているとしか言えない発言をした彼は深く頷いている。
が、瞳の温度が上昇することはないレム。依然として彼女は不満そうな表情で、物言いたげに口元が動いている。
反応、薄し。
「冗談を言っていい雰囲気ではないことくらい分かりますよね? いくらテンくんでも、言って良いことと悪いことはあるんですよ」
「冗談じゃないんですけどね。いや、マジで。本当に」
言いながら苦笑。
個人的には良い言い回しができたと思ったのだが、やはりダメだったらしい。何に縛られているかという疑問に対して舞台演技ばりの台詞を吐くのは、自分のキャラではなかった。
決められた道筋は変えられない。定めとなっている運命は変えられない。自分なんかに、それを変えるだけの力があるわけなんてない。
そんな風に思っていたことを、運命に縛られる、と言い表したが、レムには不評なようで。どうしたものかと難しそうな顔で悩んでいると、
「……冗談では、ないんですか?」
その顔に何かを感じ取ったレム。途端、下がった温度が僅かに上昇すると疑いの眼差しが半信半疑の眼差しに変わった。
真実を促しても尚、真面目な表情を崩そうとしない彼を見ると本当のことを話しているのではないかと思えて。
確かに。彼は真面目な話をする場面で、多少ふざけることがあっても嘘をつくことはない。本心のみを語る彼は、決して本気でぶつかってきている人に対して適当に流すことはしない。
なら、彼の言うことは本当なのか。彼は本当に、運命に縛られていたのか。そんな思いを含ませた問いかけに、テンは「うん」と顎を引くように頷き、
「表現が突飛すぎてたのは否定しないけど、本当だよ。分かりやすいようにもっと噛み砕くと。固定概念、ってやつかな。一つの考え方にね、ずっと拘ってたんだ」
なるほど。それなら馴染みがあって分かりやすい。先程よりも聞き慣れた言葉で言い回したテンにレムは「なるほど」と一言。下がった温度が元に戻ると疑いが晴れた。
初めからこの言い方で言うべきだった。別に、運命に縛られるなどと悲劇の主人公を語るつもりなどテンにはないし。ただちょっと、くだらない考え方に囚われていただけで、大袈裟にする必要もなかった。
難しく言わない、考えない、思わない。素直な考え方でいい。レムだってそうやって自分と向き合ってくれているのだから。何度目の再確認だ。いい加減にしてほしい。
「その固定概念とは、なんですか?」
的確なテンの例えに、レムは食い入るような目つきで先の言葉を迫った。期待に目を光らせ、希望に声を弾ませる様子——不意にその様が、お話の続きを早く早くとせがんでいる幼子のように見えて、彼は思わず頬を緩ませてしまう。
レムにとって、自分と似たような境遇にある存在を見るのは珍しいのだろう。自分のような痛みを知り、絶望を感じ、諦めを経え、けれども自分とは違う道を歩んでいることに、興味があるのだろう。
テンはその様子に、正しく本を読み聞かせるような風に、
「決められた道筋は変えられない。定められた運命は変わることなどない。未来は、その過程は、その通りに進んで。それは何があっても、どんな力が働いても、揺らぐことなんてない——。っていう考え方」
「まるで、未来を知っているような考え方ですね」
語り口調のテンに、楽しげに、おかしそうに、レムは笑う。相手を馬鹿にするものではない。ただ面白いから笑った、それだけの笑み。
ある意味正解とも言えるそれに、テンは「そうだね。馬鹿馬鹿しい話だよ」と共感するような笑みを薄く浮かべる。それから、感情の含ませた吐息を一度だけこぼすと、
「ほんと……、馬鹿馬鹿しい話だよ」
一段、テンの声色が下がる。
心の底から響いてきた本音が重く呟かれると、レムは見上げた瞳の中に深い後悔と激しい嘲笑を見た。物思いに耽っているのか、カーテンの開いた窓から夜が明けつつある空を見る彼は、どこか虚だった。
雰囲気が変わった。今のテンを言葉にするならそう言うべきだとレムは思う。一緒に笑っていた空気は途絶え、途端から哀愁が漂い始める。漂ったそれらを身に纏う彼は胸の中にあった重い空気を吐き出し、
「なんで、そんなくだらないものに縛られる必要があったんだ、って。今なら思える。別に気にしなくてもいいことをいつまでも引きずって、捨て切れなくて。結局、自分の心を永遠と抑え込んでた」
レムへの恋心を自覚しそうになる度に、それはダメだと怒鳴りつけて。自分にそれを捻じ曲げるだけの力があるはずがないと決めつけて。
浅く考えれば簡単なはずなのに、深く考えすぎて自分から余計に縛られる。深刻に考える必要もないことを、過度に突っかかって。
「簡単なはずのことを、難しく考えてた。心に絡みついた糸を、自分の手でぐちゃぐちゃにするみたいに、解くことを難しくさせてた。……要は、自分が自分を苦しめてたんだよ」
一番の問題は、自分自身。握った拳を胸に当てながらテンはそう言う。淡々と語りながらも、その声には確かな悲哀が込められていた。
その発言に至るまでにどれほどの苦悩と時間を費やしたのか。自分の知らないところで苦しむ背景を想像すると、共感する部分のあるレムは途端に胸を締め付けられる。波紋した悲哀が、気分を押し沈めていく。
きっと、たくさん苦しんだはずだ。テンが自分の苦心を全て知らないように、自分もテンの苦心を全て知らない。見えないところで二人とも縛りと戦って、戦って、戦い続けて、今まで生きてきた。
それでも、彼は抜け出した。縛られていた固定概念から抜け出すことができた。抜け出して、自分の気持ちを表に出すことができた。
果たして、それはどうしてだろうか。
「どうして、抜け出すことができたんですか?」
疑問が止まらない。聞けば聞くほど、自分と同じはずなのに、自分とは違う答えの形を見つけ出した彼のことが気になってしまう。
同じ道を歩んできたのに、いつの間にか分岐して枝分かれした道を別方向に進んでいるような。そんな意味の分からない感覚に寂しさを感じて、同時に羨ましくも思ってしまった。
レムの切なる疑問。それにテンは「んーー」と低く喉を鳴らし、答えを模索しながら、
「色々と理由はあるけど。一番は……」
言い淀み、テンはレムを見た。胸元で、注視してくる自分に小さな疑問符を浮かべながら、あどけない顔で「一番は?」と首を可愛らしく傾げている——自分の好きな人を見た。
きっと、一番はそれだ。
「レムのことを好きになったこと」
「あぅ」
「細かく言うと、レムのことを好きになった自分を受け入れたこと」
「ひぅ」
「レムのことを好きになったら、そんな縛りとかどぉでもよくなった。ずっと深刻に悩んでたことが、一瞬でくだらない話に変わった」
「えぅ……」
体を軽く抱きしめ、指を絡めた手を握り、三連撃に及んだ愛の告白。正面から受けたレムはおかしな擬音を発しながら沈む。頬を紅潮させた彼女はニヤけが止まらない口元を隠すために俯き、彼の胸元に顔を強く押し付けた。
縛りを抜け出せた一番の理由が自分で、自分を慕う想いがなによりも勝ったから、彼は本当の意味で彼自身を悩ませていたそれから抜け出すことができた。
それは反則だ。色々と反則すぎる。
レムが好き、という想いが彼の中にあった余計な考えの悉くを蹴散らした——そう知ってしまったレムは照れ隠しとして「ずるいです。テンくん、ずるい」と言い、そうすること以外にできない。
ーーまぁ。ラムの話があったのも、結構大きかったけどね
「ずるい」を連呼するレムの気が静まるまでの間、テンは彼女の言葉を思い浮かべる。強く、気高く、彼にとって心から尊敬できる桃色の少女が贈ってくれた、縛りから解き放つための羅列。
好きの感情に余計な考えは不要、そんなくだらない縛りなんて今すぐ蹴散らせ、と。自分の気持ちを一番に優先して、それを一番に考える、と。
他にも感動させられるものはあったが、個人的にはこの二文が心に強く残っている。レムを慕う自分を受け入れて、この世界をアニメの世界としてではなく一つの世界として見ることを受け入れるための決定的な二言だった。
全く、ラムには助けられっぱなしだ。屋敷に来てから今の今まで、彼女には色々な面で支えられてしまっている。流石、この屋敷の中で誰より優しいだけはある。その優しさを向けられた身としては、表現し難い安堵感があった。
とはいえ。あれだけ悩んでいたことが、女の子を好きになっただけで解決するとは。
つくづく思う、
「単純な男だよね。俺って」
「今更、お気づきになられたんですか?」
愛の告白、その余韻から回復したレムが苦笑したテンの呟きを拾いながら呆れたようなため息。下から突き出てきた肯定が心にぶっ刺さると、テンは「うぅ」と声にならない声で苦鳴を一つ。
決して、今更気づいたわけではないが。改めてレムに言われると容赦なくグサグサ刺さる。遠慮するなとは言ったものの、それがこのような形として自分に返されるとは想定外だった。
優しい顔して容赦がないのがレム。これは、大変な人を好きになってしまったなとテンは思いながら「まぁ、あれだよ」と、話を無理やり戻し、
「きっと、レムも俺と同じ。自分で自分を苦しめて、話をややこしくしてるだけ。難しく考えすぎちゃってるんだよ。だから、何かキッカケさえあれば縛りなんて簡単に抜け出せる。心配しないで」
「筋金入りだとしてもね」と。テンは再び、レムを何年間と苦しめてきた縛りと真っ向から向き合う宣言。過去を聞いても尚、その覚悟が揺らぐことはなく、
「そんで、そのキッカケは俺が掴ませてみせる」
寧ろ、強固としたものになるばかり。彼女が不安がらないように明るい表情をレムに見せる彼は、自分のできることを全て出し尽くして臨む気概。
当たり前だ。安心して助けられろと言ったのだから。もう後戻りはできないし、するつもりなど毛頭ない。レムの心に掛かった数年ものの闇、この時間の中で跡形もなく晴らしてみせる。
そうしたら、レムの満面の笑みが見れてハッピーエンド。血の夜から引きずってきたものを一つ残らず拭って、それで悲劇を終わらせよう。
「つーかさ。過去の話を聞いて思ったんだけど、そんなこと誰が言ったの?」
「え?」
「レムが落ちこぼれだ、って。誰が言ってきたの?」
唐突な話題転換。
自分の縛りを語り終えたテンが投げかけた疑問に、レムは自分でも笑ってしまう程に気の抜けた声が出た。全く予期していなかったために、思わず出てしまったのだ。
問いかけたテンは、真面目な態度。ふざけた雰囲気を声に孕ませていない彼は頭の中で巡り続けていた事の答えを求めている。
言葉の意味を咀嚼するレム。恐らく、テン以外には聞かれることのないそれに彼女は「それは……」と言い繋ぎ、
「誰かに言われたわけではありません。ですが、レムは姉様の劣等品にすら成れなくて、周りからの期待の声から逃げて、何もかも全てから逃げた。それに、角が一本しかない時点で、二本が普通の鬼族にとっては落ちこぼれなんです。だから、レムは——」
「その言い方だと。ラムも落ちこぼれ、ってことになるけど。よろしいですか?」
自分を否定する羅列を生み出すことに関してはどこまでも前向きなレムに、テンは平然と言葉を挟む。自分だけが誰よりも劣っているとでも言いたげな態度が気に食わない彼は僅かに噛み付いた。
言われてレムは気づく。確かに、その言い方では自分が尊敬する姉も自分と同類になってしまう。
が、
「姉様は違います。才能があって、人徳があって、人として何一つ欠落のない完璧な鬼族ですから。姉様がレムと一緒なわけがありません。姉様は落ちこぼれではありませんよ」
当たり前のように言い切り、レムはうっすらと笑みを浮かべる。それは、過去を語り出してから見るようになった、全てを諦めたような笑みだ。
儚く、弱々しく、理不尽な物事を『そうだ』と受け入れるような。完璧で天才な姉と出来損ないで無才の自分、その二つを対比して、何一つとして追いつけない自分を嫌うような。
「角が一本である事実を覆す程の能力があったから、ラムは落ちこぼれなんかじゃないと」
「はい。そうです」
「自分にはそれが無いと?」
「はい。当然です」
即答された二言にテンは短く唸って沈黙。これは、自分以上に重症だ。縛られるというよりも信じ込むに近い。
自分の中で生き続ける角のあるラムと、それに追いつけない自分。その二つが固定概念のように心底に取り憑いているせいで、レムは悪循環から抜け出せていない。
考え方が一つに縛られる彼女なら尚更。一度でも深く根を張った思考に囚われ続けてしまう。なら、その二つをどうにかして壊してやる必要がある。
「俺は、そうは思わないけど」
決まりきった答えで己を地の底まで否定するレムに返されたのは否定。否定を否定された彼女は、同じく決まりきった答えで返してきたテンに「え?」と、またしても腑抜けた声。
自分がレムの否定を否定すると彼女は思わなかったのだろうか。あっけらかんとする彼女にテンは首振り人形のように何度も頷き、
「確かに、レムの中のレムはレムが言った通りなのかもしれない。けど、俺の中のレムは違うよ。出来損ないでも落ちこぼれでもない」
「そんなこと……。だってレムは、姉様の代替品だってずっと、ずっと生きてきたんです。そんなレムが落ちこぼれてないとテンくんは言うんですか?」
「おん。言う」
日常会話の一環のような軽々しさで言われてしまったレム。特に深刻そうに語らないのは、それが本心であるという事のなによりの証拠だと彼女は感覚的に察した。
本気で、彼は、自分の中の自分を否定している。肯定するわけでもなく、糾弾するわけでけでもなく、卑下するわけでもない——否定。話し始めた時からその姿勢を刹那たりとも崩そうとしない。
その真っ直ぐで、純粋な瞳が贈る否定に、レムは、自分の心がさざ波程度に揺らいでいるのを感じた。
「じゃ、レムってさ。何を基準にして自分が落ちこぼれだ——って言ってるの?」
自分の意志を一歩も譲らない二人。その均衡が今、僅かに破られつつある中でテンは問う。
訪れた揺らぎに、レムは動揺を隠すように顔に無表情を貼り付けながら、
「鬼族であることです」
「角だったり、ラムだったり、鬼族だったり。レムは本当に過去のことを引きずるね。そこまで拘る必要なんてあるの? 縛られることなんてないでしょ」
レムの中のレムを否定する容赦のない言葉に、レムは反論できずに俯く。何度と掛けられてきた言葉だが、自身を縛っていたものから抜け出した人の発言として聞くと、また違って聞こえた。
過去に囚われているからこそ、なのかもしれない。自分の時間はあの時に止まってしまったから、自分の力でそれを動かしたテンの言葉は心に深く刺さる。
テンくんに、レムのなにが分かるんですか。
そう言えたなら良かった。同じ痛みを抱えてなければ、そうやって蹴散らすこともできただろうに。過去を聞かせていなかったら、そう叩きつけられたはずなのに。
きっと、自分は彼に助けてほしいんだとレムは思う。自分が愛して、自分のことを愛してくれる、同じ苦しみを味わった彼に、救い出してほしいんだ。
だからレムは、自分を否定して否定して否定して、それを全て壊されるつもりでいるのかもしれない。遠回しに助けを求めているのかもしれない。
否、全部真実だ。かもしれない、なんて言葉で誤魔化せるものではない。
「なら、レムに新しい基準を一つだけあげる。鬼族としての自分に拘るレムに、自分を評価する方法を示そう。嫌なら、別に聞き流してくれて構わないから」
自分のことを面倒な女だと思う反面、そんな自分を甘やかしてくれる彼に感謝するレム。彼女にその声がかかったのは、その時のことだった。
俯いていた顔を上げ、耳を澄ませるレムは息を殺す。紡がれる言葉の一音一音を大切に拾う彼女にテンは人差し指をピンと立て、
「鬼族じゃなく、普通の人としてレム自身を評価してみるとか。どぉ? 角の有無とか関係なしに、ラムの代替品だとか関係なしに。レムを普通の人として、レムをレムとして評価してみようよ。鬼族で在る前に人なんだし」
「レムを、レムとして?」
「そうそう。そうすれば評価も変わってくる」
鬼族で在ることが普通であるレムからすれば考えもしなかった評価基準。それしかないと決めつけていたから拘り、そのままの自分を評価するのを普通とするレムにとって、それは目を丸くしてしまう基準だった。
相変わらず目の前の男の考えることには驚かされる。
そして、
「嘘なしで正直に言うけど。冗談抜きで、レムは人として……というか、女性として完璧だと俺は思うよ。これ以上ない、ってくらいにレムは理想の女性だよ」
殻を破った彼は、いくらだって自分の頬を赤く染めてくる。彼の心情からして唐突とは言えないものの、状況からすれば唐突なそれに、レムはまたしても彼の胸に顔面を埋める羽目に。
告白をして吹っ切れたのか、或いは縛りから抜け出せて解放されたのか。どちらにせよ、自分に対する愛を素直に表現する彼には、しばらく勝てそうにない。
ーーあとで、絶対にやり返します
埋めた胸の中、聞こえぬように心の中で呟く。密かにレムの逆襲が決定したところでテンは「だって考えてみろよ」と明るい声で、
「レムはお料理が得意で、広いお屋敷のお掃除も完璧にできて、洗濯もやれて剪定もやれて、家事全般を一人で余裕で担当できる。あのね、俺からすればこの時点で出来損ないじゃないのよ。出来損なってないのよ」
「分かる?」と笑いかけてくるテンにレムは目を合わせることができない。更に、「その上」と言葉を紡ぎ続けられると、より一層のこと合わせられない。
「努力家で、礼儀正しくて、何事にも一生懸命で。でも、ちょっと抜けてて……そこが可愛くもあるんだけどさ。あとは、とっても強い子」
強い子。
そう言われたレムが疑問符を浮かべる気配。言葉にすることはないがレムは首を小さく傾げると、テンは彼女の頭に手を優しく乗せて、
「物理的にじゃないよ? 過去に縛られてても、懸命に生きる力がある、ってこと。苦しんで悲しんで怖がって、それでも毎日を頑張れる強さがレムにはある。そーゆー意味での強い子」
「ちがっ……、レムは、そんな女の子なんかじゃ」
「でも、努力してきたことに変わりはない。例え、それがラムへの贖罪で、罪滅ぼしだったとしても、思い込んだその重圧に耐えてきたことは事実だ。強い子だよ。レムは、とっても強い女の子」
テンの中のレム——レムがテンに見せてきた、本当の自分を語る彼に彼女は苦し紛れの反論を弱く紡ぐも、即座に否定される。
そんなの自分じゃないと、頑なに認めないレムを一生否定し続ける。
「そんでもって、優しい。レムの一番の長所だと俺は勝手に思ってる。ありがちだけど、その『ありがち』が最近は世の中から無くなってきちゃってる気がすんだよね。みんな、人の目ばっか気にして、他人に優しくなれない。……俺もね」
「レムのどこが……」
「おいおい。今までレムが、俺にどれほどの優しさを与えてくれたのか、まさか知らないとは言わせないよ? もしかして、無意識だったりします? それこそ優しさの極みじゃねーか。なんだお前、女神か」
半笑いするテンにレムは口を塞がれる。自分のどこが優しいのか思い当たらない彼女は口籠った。
当然だ。レムからすれば、テンにしてきたことは自分がしたくてしたことで。愛する人にする行為としては普通のことなのだから。
彼に献身的に尽くすことが、自分の存在の価値を実感できる——生まれながらに、メイド気質であるといってもいい。故に、それがレムにとっての当たり前なのだ。
その『当たり前』が、テンにとっては当たり前ではないことをレムは知らない。テンがその優しさにどれだけ支えられたか、励まされたか、救われたか、レムは知らない。
だからテンは、その当たり前が当たり前でないことを語る。それは、人として尊敬できることだと。それは、すごいことなんだと。
「そんなレムが出来損ないなわけねぇだろ。逆に、レムが出来損ないに当てはまるなら、他の人たちはどうなっちゃうのさ。頼むから、最低の基準を上げないでほしいんだけど。最低が最高に近いんだ」
「俺には、身の丈に合わない女性だよ」と。テンはレムを褒めちぎる羅列を言い連ねる。
彼女が自分を否定した分だけ肯定する彼はそう言うと、握っていた手を離し、腰に回した両腕でレムのことを強く抱きしめた。
不意のそれに、胸の中からレムの裏返った快楽の声が漏れる。少しだけ、涙っぽい声だった。少しだけ、鼻を啜る音がする。
「自分の中の当然なんて、基本的には間違ってることの方が多いと俺は思うんだよね。当たり前、って言葉で自分が『それ』をできないことを悲しむ必要はないよ」
レムの今を察したテンの手が、彼女の背中を優しくたたく。あやすように、眠りにつかせるように。話す口は動かしたまま、
「当たり前なんて一般的な認識に過ぎないでしょ。みんなが『そうだ』と思ってる事、ってだけで、当たり前が当たり前じゃない人だって世の中には沢山いるんだから。………だから、俺は『普通』って言葉が嫌い」
じんわりと。服の一部が濡れていく感覚には触れないまま、落ち着いた声色で、
「レムはさ、自分の中に閉じこもりすぎなんだよ。でもまぁ、それも仕方ないか。自分に向けられる言葉を嫌って、耳を塞いで、それが悪い癖になっちゃったんだよな。無意識に、殻に閉じこもるように……なっちゃったんだよな」
言うと、レムが浅く何度も頷いた。嗚咽を我慢する口元を固く閉じても、自分の心を理解してくれる彼に、彼女は心を曝け出す。
「そっかそっか」と。ただ無条件に受け止めてくれる人の胸に、背中を撫でてくれる人に、人生をかけて溜まった闇を一つ残らず叩きつけて。
そんな彼女にテンは手を差し出すように、
「ねぇ、少しだけ世界広げてみない? だって、今は昔とは違うんだから。レムを取り巻く人も、環境も、常識も、レムが縛られ続ける過去とは丸っ切り違うんだぜ」
レムでないレムを求める人は一人もいない。レムの話をしない人は一人もいない。ラムのようになれと言い聞かせる人は、ここには誰一人としていない。
みんな、レムであるレムを必要としている。彼女が自分の存在を否定したら、そんなことはないと言ってくれる人は、沢山いる。
「ほら、周りを見てみなよ。レムのことを大事に思って、レムの中の『ラムの代替品のレム』を否定してくれる人はいる。レム、っていう名前の女の子を求めて、肯定してくれる人はちゃんといる」
「そんな人いるわけが——」
「そう思う?」
レムの否定を真っ向から打ち消すテンの声がそれを貫くと、レムは顔を上げる。
涙でくしゃくしゃになった、彼だからこそ見せれるひどい顔。それにテンは至極真剣な顔つきで、
「ほんとうに、そう思う?」
瞬間。
レムの中で、形成していた『当たり前』が一つ、壊れる音がした。
当たり前だと思っていたことが、ただの思い込みだと。夢の世界と同様に、自分がそうだと思っていただけだったと。
そう、思えることができて。
「ここにいるよ」
大好きな人が、
胸が苦しい。でも、この苦しさは辛いわけではない。嬉しくて、死んでしまいそう。高鳴った鼓動が多分、肌と肌を通じて伝わっていると思うと、途端に恥ずかしくなった。
「レムがレムを否定するなら、俺はその分だけレムを肯定する。いや、違うかな。その分以上に肯……全肯定……、そう。全肯定するよ! 俺の全てを尽くして、レムがレムで在ることを全肯定する!」
「——俺は、レムが好きだから!」と感情の昂りが表に出たテンが声を殺して叫ぶ。
気がつけば、レムはテンに抱きついていた。
これから先、何度となく抱きつくであろう人の首に腕を思いっきり回すと、込み上げた感情を発散するようにがむしゃらに抱きしめる。
声はない。嗚咽もない。乾かない涙だけが流れているレムは、ただ抱きしめる。それは、思い焦がれていた人にやっと出逢えたような姿。
孤独だった。助けなんてこないと思っていた。自分だけ周りと違くて、永遠にひとりなんだと思っていた。
でも、彼は自分を求めてくれた。こんな未完成な自分を好きだと言ってくれた。弱虫で、面倒な女に何回もその言葉を贈ってくれた。嬉しすぎて、言葉にならない。
徐々に、暗闇から連れ出されるような感覚が強くなってきた。光の当たる場所に、手を引かれて引き上げられるような安心感が時間と共に増してきた。
救われる。今、自分は彼に救われている。救われる過程にある。
「泣いていいよ。たくさん泣いて、スッキリしちゃおうよ。その方がラクになる。大人になると、そうやって泣けなくなるんだし、泣ける時に泣いとけ。俺の胸でよければ、いくらでも貸すからさ」
「はい……。はい……!」
端的に返事をした後、レムは泣くことに熱を注いだ。我慢してきたものを、噴き上がってきたものを、恥ずかしさすら捨てて、彼女はテンを求めるように大粒の雫を雨のように流した。
彼女を見ながらふと、自分が最後に大泣きしたのはいつだろうかとテンは思う。
確か、ハヤトを含めた友達数人と映画を鑑賞した時。犬が主人公のワンダフルなライフを観て静かに号泣した覚えが——割と近い時期に大泣きしていた。
否、そういう涙ではないだろう。
感情の涙。溜め込んだものを全て吐き出すための涙。人に見せれるものではない涙。我慢して我慢して我慢して、吐き出すことすらままならない、心の中を覆う闇。
子どもの頃は素直に吐き出せたそれは、しかし大人になるにつれて吐き出すことが難しくなる。声を上げてわーわー泣くことも、誰かに泣きついて涙を曝け出すことも、できなくなる。
人は、成長すると我慢を覚えてしまうから。周りの目を気にしてしまうから。気を遣ってしまうから。自分を——ひどく抑え込むしか、堪える方法がなくなる。
でも、
「辛かったね。よく、今まで頑張ったね」
今は、自分とレムしかいないから。この世界には二人しかいないから。テンはレムを解き放つ。
簡単にそう言えないことは分かっている。彼女の気持ちは、分かったような気にしかなれず、真の理解者になることはできない。
でも、だから、だからって。そう言ってはいけないわけがないだろう。辛かったのだから、レムは頑張ったのだから。
それを労って何が悪い。死ぬほど頑張った人に頑張ったねと言って何が悪い。頑張った理由が薄っぺらい感情じゃないと分かっている人に寄り添って何が悪い。
泣きたい時は泣きたいだけ泣かせてあげる。それがテンのやり方。遠慮する関係でもないし、遠慮される筋合いもない。
「ほんと。よくがんばったね」
それ以外の言葉が思いつかない自分は心の中でぶん殴っておくとして、テンはレムを労った。安心の表情を浮かべながら、やっと本気で泣いてくれた彼女を抱きしめて、背中をさする。
今の自分には、これしかできないから。自分のできる全てを尽くして、彼女のことを労わった。
辛いとき、彼女がそうしてくれたように。