レムは救われましたが、あと一人、テンの帰りを心待ちにしてる少女がいることを忘れていませんか?
彼には、その責任を取る必要があるのです。
早朝。
まだ夜の静けさが僅かに漂う廊下を二人の男女が歩いていた。清々しい朝日を窓の外から受ける二人は、それ以上の清々しさを表情に含めながら会話を弾ませている。
楽しげに、親しげに。時折、口元に手を添えてクスクスと微笑みながら。いつまでもこうしていられると思える相手の幸せそうな態度を見て。
男女の名は細かく語るまでもない。テンとレム、その二人だ。テンの右腕に両腕を絡めるように抱きついた距離感のバグり始めたレムと、鼓動の穏やかさから慣れを感じてきたテン。
近い将来に恋人となり、遠い将来に夫婦となる二人だ。
テンが話し、レムが笑えば、テンも釣られる。
レムが話し、テンが笑えば、レムも釣られる。
ほのぼのとした雰囲気に溶け込む二人の間に沈黙は存在していない。絶えず幸せそうな笑声が、小鳥のさえずりが流れる廊下に小さく反響し、笑顔が連鎖していく。
「なんかごめんね。歩幅、合わせてもらっちゃって。歩くの遅いよな」
「いいえ。レムはテンくんのことが第一ですから。ご自身のお身体を優先してください。それに、こうした方がずっとずっとテンくんにくっついていられますので。好都合です」
ふとした瞬間に過ぎった弱体化の事実にテンが申し訳なさそうな顔を浮かべるが、レムが彼の身を案じる発言を放つ方がそれよりも早い。
気を遣っているわけでもない、ただ純粋な言葉にテンは「ありがと」とだけ。即答された愛情にむず痒そうにする彼は、なんの邪気もない彼女の笑みに本当に救われる。
そこで私情があると挟むあたり、包み隠さず思っていることを素直に伝えてくれているのだろうか。それはそれで恥ずかしい。
「あまり無理をなさらないでくださいね。辛かったら辛いと言ってください。苦しかったら苦しいと言ってください。今のテンくんは、貧血でいつ倒れてもおかしくないんですから」
適度な健康診断として顔色を覗き込むレムが不安そうな声で語る。彼の現状を完全に把握しているためにその不安は程度を増していくばかり。彼は無茶をする癖も無理をする癖もあるから、不安で仕方ない。
彼と出会って感情表現と表情が豊かになったことが一つの要因として、幼っぽさが残る面に心配の色が浮き沈みするレム。喜怒哀楽のバラエティーに富んだ彼女は絡めた腕をぎゅっと握りしめ、
「呼吸は荒れてませんか? 鼓動は落ち着いていますか? レムのことを襲いたくなりましたか? 目眩はしませんか? 倦怠感はしませんか? フラついたりしていませんか?」
的確な健康診断。テンの現状に深く理解のあるレムが頭の中にあるチェックシートにチェックを入れるように確認。完璧に彼の状態を把握したい彼女に抜かりはない。なにか、一つだけ変なのが混じっていた気がしなくもないが。
「なにかあったら、すぐに言ってください」と。テンの体を支えるレムは詰め寄る。実は、腕を絡めて彼の右腕に抱きついたのは自分が彼の添え木になるためでもあったり。
——命懸けの後遺症。血を多く流したテンの体は今、貧血に悩まされている。
鋼で斬られ、裂かれ、挙句の果てには貫通され、傷痕まで残った裂傷の数々。大量出血で死んでいても不思議じゃなかった彼は、生き残った代わりとしての代償を被ったのだ。
勿論、レムがそれを忘れるはずがない。火傷の痕を治癒する過程で悲惨な体を診たのだから。だからこうして割れ物を扱うように彼の身体を扱っている。
「レムにできることがあれば、なんでも言ってください。なんでも……はい。なんでも、言ってください。なんでもします」
なんでも、という単語を強調するレム。
献身的な心がけは結構なことだが、テンとしては色々とやりづらさを感じてしまう。会話の中に妖しさを含む言葉が自然に紛れると、毎度のように反応に困る。
故にテンは、いずれ、絶対にやり返してやると思いながらも「ありがと」とだけ。今は先程と同じ返し方をする彼は、その感謝が定型文になりつつあった。
そんな彼を真横にレムは密かに燃え上がる。
定型な感謝の言葉だが、決して四文字では表せられない感謝がそこには込められていると知っている彼女は「テンくんの妻として尽くさなくてはッ!」と、心の中で拳をグッと握りしめた。
それに、
「………どうしようもないと分かっていても、気になってしまうものですね」
「コレのこと言ってる?」
予兆もなく青色の双眼が痛ましげに細められると、声の調子が途端に下がる。目を細める動作には意思表示としての様々な用途があるが、今回はテンに傷痕のことだと察させた。
コレ、と。そう言うテンが暇を持て余している左手、その人差し指を右目の下に走った斬撃の痕に添えるとレムは顎を引くように頷き、
「残ってしまったものは仕方ない——そう割り切れたなら、この心も痛むことはありませんでした。衣服で隠れるならともかく、お顔は……」
歩みを重ねていたレムの足が止まる。その停滞が意味するものは言葉そのものの停滞、そこから先を紡ぐはずの口は拒絶反応を起こしたようにピタリと動きを止めた。
長さにして五センチ程度。辛うじて眼球だけは避けたと見る者に思わせるそれは、横に一筋の白い傷。顔以外ならば大して目立たないが、皮肉にも刻まれたのは顔。
被り物でも被らないと嫌でも目に入る。初対面の相手に、第一印象として「目の下に傷のある人」とでも思われそうな勢い。
激闘の証を静かに伝えているそれをレムが気にしないはずがない。彼に甘えたい欲が徐々に引いていくにつれて、意識に飛び込んでくるのだ。
自分と姉を逃す前は無かった傷痕——これが何を意味するかなんて考えずとも分かること。
自分達を庇って彼は、
「気にしないで。って言っても、性格上、レムは気にしちゃうよね」
「……はい」
責任感の強い彼女のことだから予感はしていた。さしずめ、自分達を庇って——とでも考えているに違いない。レムはそういう女の子だから。本人が気にしていなくとも、彼女は気にしてしまう。
レムとは、レムという女の子は、そういう人なのだ。心優しくて、心配性で、健気な女の子なのだ。そんな子に気休めなど大した意味を成さない、空振りに終わる。実際に空振った。
なんと言うべきか。このような場合、レム自身が自分でなんとかしないと解決できないから、自分の意志を素直に伝えた方がいいだろうか。
ーーうん。そうしよう
心の中で呟き、テンは歩みを止めたレムをリードするように歩き出す。釣られて歩き出す彼女に「ふっ」と笑いかけ、
「少しずつ、慣らしていこうよ。今は違和感があるかもだけど、一週間もすれば目が慣れるさ。あと、俺は気にしてないことを忘れないでね。レムが気負う必要なんてどこにもありゃしないんだから」
「この傷痕は、誰のせいでもないよ」と。そう付け足しながらテンは、手櫛で髪を梳かすようにレムの頭を撫で下ろした。
贈られた言葉に込み上げるものでもあったのだろう。直後から腕が強く抱きしめられると、感情を押し殺した彼女の「はい」が鼓膜を浅く叩いた。
素直に返事をできたのは、彼女が前の自分から変わろうとしている現れだろう。引きずらず、前を向く。過ぎたことを深く気にせず、今を生きる。
その意識が強まりつつある証拠。ただ、その自分に慣れるにはもう少し時間が掛かりそうだった。
「……あのさ」
一つの会話が途切れる感覚に、テンが神妙そうな声を挟む。
先程までのほのぼのとした雰囲気とは一変した彼に違和感を感じたレムが見上げれば、自分を見つめる瞳がどこか真剣みを帯びていることに気づく。
なんだろうか。相変わらず態度の切り替えが良くも悪くも早すぎる彼に、レムは不思議そうに小首を傾げて「なんですか?」と尋ねれば、
「今夜、レムと話がしたいんだけどさ。いいかな」
より一層、不思議に思うことに。
つい先ほど全てを話したというのにまだ何かあるのだろうか。思い当たる節がパッと思い浮かばず、傾げた小首の角度が更に傾く。
言っているテンに嘘の気配は無い。自分の中で何かしらの結論に至った彼の目は嘘を語ってはおらず、それもまたレムを不思議がらせる理由の一つでもある。
本当に分からない。なら、本人に聞く方が早い。考えていても答えは出ないのだ。レムは、分かりやすく頭の上に疑問符を浮かべて問いかける。
「構いませんけど……何を話すんですか?」
「ちゃんとした形でレムと恋人関係になりたい」
ずっきゅん!
そんな音が自分の中で強く轟いた気がした途端、肩が大きく跳ねたレムは歩く足が止まりかけた。先のように止まらなかったのは、内側の動揺を悟らせまいとした結果だ。
構えていないと、こうも簡単に動揺してしまう。胸をときめかせてくる発言に、唇を奪ってしまいたくなる衝動にまたしても駆られる。背伸びすれば届く領域に、手を伸ばしてしまいたい。
「で……、でも、……でもでも。テンくんはレムに好きだと伝えてくれましたよ? レムも、テンくんに愛していますと伝えましたよ? それって、間接的に恋人になれたと言えますよね」
意図せずに吃る声を必死に立て直しつつ、レムは昂った声で口早に言葉を紡ぐ。不本意にも、動揺を取り繕おうとしている姿に愛らしさを感じてしまい、テンは頬が緩んだ。
それは逆効果。動揺を隠したくて頑張っている行為は、テンに動揺を悟らせている行為でしかない。そこまで明らかに態度を変えられると、気付いてほしいのではとすら思える。
「ね? ね? そうですよね?」と、ぐいぐい詰め寄るレム。密着した状態で詰め寄られると彼女の柔らかさがダイレクトに伝わり、右腕に集中する『ふにゅん』とした感触にテンも動揺せざる負えない。露出の多いメイド服なら尚更。
これで無意識なのだから恐ろしい。目を覚まし始めた本能を理性でフルボッコにしつつ、テンは「それは、そうだけどさ」と前置き、
「でも、もっとちゃんとした風に言いたい。話の流れで言うなんて、なんか嫌なんだ。告白しようとして告白したい。何かのために告白っつー行為をして、それで恋人関係になるのは……俺が気に食わない」
ーーこれが正式な告白ならそれしかないんだけど。
ふと、そんな言葉をテンが話していたことをレムは不意に思い出した。自分を夢の世界から連れ出す時——好きだと、そう伝えた時に溢した言葉。
あの時は色々と感情が混濁していて『正式な告白』の意味が分からなかったけど、今ので分かった。
多分、彼は自分を助けるために告白したことを良しとしていない。あの時はそれしか助け出す方法が見つからなかったからそうしただけで、他に方法があったらそっちを選択していた、と。
要は、告白のやり直しを彼は所望しているのだ。
変なところで律儀だと思う。別にレムとしては気にならないのだが、彼は気にしてしまうようで。
流石、共通点の多い似たもの同士。目の傷痕を話していた時とは立場が完全に逆転している。やはり、彼と自分は運命の赤い糸で固く結ばれているに違いない。
「それに、レムに隠し事はしたくない。好きな人だから……言えることは全部知ってもらいたい。俺、言ったよね。縛られてた、って。それ、レムを好きになれた事とすごく関係してるから」
「レムに話してくれたことが全てではないんですか?」
「全て……と言えなくもないけど。話せることはまだある。正直、信じてもらう方が無理な話だと思うけどさ。……もしかしたら気色悪がられるかも」
見つめたテンの顔に影が差す。これは、何かを躊躇しているときの顔だ。レムには分かる。彼のことをたくさん見てきたレムには、抱えるものによって葛藤し、心が揺れる彼が分かる。
事実として今、テンは葛藤している。
恐怖がないわけがない。告げたら、何を言われるのか。予想がつかない。気色悪がられるか、嫌われるか、軽蔑されるか、良くない想像ばかりが脳裏を過る。
それはまさに、レムがテンに自分の過去を打ち明ける時に抱いていた恐怖心に寸分の狂いもなく当てはまることで。
「本当に、テンくんはレムと同じなんですね」
彼の心を察したレムは言いながら足を止めると、抱きついていた右腕から離れ、テンの行く手を阻むように回り込む。
正面、ゼロ距離。ふっと真剣に見つめ、
「レムはテンくんを愛しているんですよ。そんな人の言葉を疑う余地なんてレムにはありません。気色悪がるなんて論外。——貴方に全幅の信頼を寄せるレムの覚悟を、あまり甘く見ないでください」
断言された永遠の愛。真剣さしか含まれていない声色と、真摯に見つめる瞳に終わりのない信頼を告げられたテンは息が詰まる。
以降から刹那たりとも視線を外そうとしないレム。葛藤し、弱気なテンに「甘く見るな」と、そう言った声だけには少しばかりの怒気が込められていて。
唐突な態度の変化にテンはたじろぐ。レムはその態度を崩さぬまま、
「テンくん、レムに言ってくれましたよね。良いところも悪いところも含めて『レム』なんだから。そーゆーところを丸ごと好きになる、と。それはレムだって同じことです」
心を見透かしたような発言。否、ような、ではなく見透かしている。レムは既にテンの心を完全に理解している。今、彼が何を思い、何を怖がっているのか、手に取るように分かる。
だって自分もそうだった。心の奥底で抱えてきたものを打ち明けるのは恐ろしく、躊躇してしまう。嫌われたくない一心で、全てを話すことに戸惑ってしまう。
けど、その言葉で話そうと思えたから。彼が贈ってくれた一つ一つの想いが、抱えてきたものを預けてもいいと思わせてくれたから。
だから、レムも彼の言葉を贈り返すのだ。
「レムもテンくんの全てを知って、それから丸ごと好きになります。そうしないと不公平ですし。テンくんが隠していること、全部教えてください。教えて、レムにも抱えさせてほしいです」
「だって、レムとテンくんは運命共同体なんですから」と。
テンが言ったことを反復するレムが微笑む。冗談ではなく本心のみを詰め込んだ言葉は、間違えなくレムの愛情だ。
なにがあってもそれだけは揺らぐことはない。自分とテンはずっと一緒。それを心の中心に置くレムは、テンが抱えるものを一緒に抱えると、抱えさせてほしいと言い切ったのだ。
なにを抱えているのか大まかにしか知らないけど、それでも抱えると。なにを言っても、信用すると。
「……ありがとう。ラクになった」
胸が熱くなる激情に深く吐息。溢れかけた弱い声を唾と共にゴクリと飲み込むテンは、勝手に笑みが浮かび上がる。ほっとしたような、安心したような。そんな笑みを一度だけ見せると歩き出した。
当然、添え木になるレムも歩き出しながら再び彼の右腕に両腕を絡め、嬉しそうに「お互い様ですよ」と、そう微笑みながら身を寄せる。
その温もりを感じながら、テンは改めてレムの覚悟の程を思い知っていた。
愛している——ただ、それ一つでレムはテンの全てを信用する。話すことも、することも、それら全てを理由もなく信じて疑わない。
なら、テンはレムに信頼を預ければいいだけの話なのだ。彼女がそうしてくれているのだから、テン自身も同じように預け、包み隠さず打ち明けてしまえばいい。
レムを信じる。たったそれだけのことだった。
「レムのこと、ずっと信じてる」
「テンくんのこと、ずっと信じてます」
互いに信頼を預け合い、笑い合う。
隣り合って歩く二人。どちらかが一方的に寄りかかるのではなく、お互いがお互いを支え合いながら一歩ずつ歩みを進めていく。それはこれから先、ずっと変わることはない。
物理的にも、精神的にも。同じ痛みを抱える者同士、二人で一緒に頑張って前を向いていこうと、誓ったのだから。辛いことはあるけど、お互いに情けない自分から変わろうと誓い合ったのだから。
「じゃあ、今夜。全部を打ち明けて、それで告白させてほしい。もう一度、ちゃんと言わせて」
「分かりました。今夜、お部屋でお待ちしていますね」
「うん。そうして。必ず行くから」
テンが決意し、レムが受け入れ、テンが覚悟を決める。今までの関係から一つ上へ——二人が望む関係へと辿り着くための場が、今この瞬間に用意された。
それは、今までの二人にとっての終着点。
それは、これからの二人にとっての出発点。
それは、ずっと先の二人にとっての通過点。
待ち望んだ時間が、待ち焦がれた瞬間が、今夜ついに訪れるのだ。
全てを打ち明けて、後ろめたいものを吹っ切って、改めて想いを伝えて、ちゃんとした形で、
「なんか、途端に緊張してきた。ソワソワする」
「レムもです。どうしてでしょうね」
二人は、ようやく恋人となる。
▲▽▲▽▲▽ ▲
「はい。とーちゃく」
運命の夜が決定したところで、テンとレムの足が止まる。二人の目の前にあるのは何の変哲もない扉。この屋敷に何百とあるうちの一つの扉——他と違うところといえば、その扉の奥で部屋の住民が熟睡していることくらい。
場所はロズワール邸、三階。その西棟にある長い廊下のほぼ最奥。テンの部屋の大体真上に位置する部屋。その扉の目の前。
今、テンとレムはその扉の前に来ていた。理由は単純かつ明快、扉を開けた先にいる部屋の住人を起こすためである。
その住民とは、
「テンくん。レムは……、姉様と、どう向き合えばいいのでしょうか」
言い、レムは住民の名を口する。不安と困惑に顔を曇らせる彼女の声は低く、心なしか右腕に伝わってくる鼓動の音がハッキリと聞こえてくるような気がテンにはした。
隠すことなどない。部屋の住民とはラムだ。テンによって真夜中に起こされたことで寝坊ルートが確定しているラムだ。今現在、扉の取っ手を捻るレムにとって小さな悩みの種であるラムだ。
彼女が扉を開くことを躊躇している理由。それは、テンの損失によって態度が一変した自分を姉に見せ続けていたから。心配する姉の声を全て無視し、自分の中に塞ぎ込むような真似をしてしまっていたから。
噛み砕けば、気まずいということ。そうしている間は姉を起こすこともしていなかったし、突然に起こされたら姉も驚いてしまうのではないか。それ以前に、どのような表情で起こせばいいのか。
そんな困惑と不安をテンにぶつけたレム。彼女は答えを求めるようにテンを見上げた。自分に道を示し続けてくれた彼なら、なにか道導となるものを自分に提示してくれるかもしれないと。
そんな彼女にテンは「んーー」と低く喉を鳴らし、
「今まで通りに向き合えばいいんじゃないの?」
「今まで……通り?」
予想できなかったのだろうか。割と普通のことを言ったつもりなのだが、返されたのは疑問符。もしかしたら、色々とあって心の整理が終わっていないのかもしれない。
さっきまで彼女は自分の中で抱えていた様々な感情と向き合っていたから、ラムのことを考える余裕は無く。いざ向き合い、そうして考えるとどうしたら良いか迷ってしまう。
なんにしろ、大切な人に助けを求められたら真っ先に動くのがテンという単純な男。扉を人差し指で弱くつつく彼は「そうそう。今まで通り」と小さく頷きながら、
「気まずいのとか、そーゆーの無視してさ。いつも通りのレムで振る舞ってあげなよ。多分、それがラムにとって一番だと思う……いや一番だな。レムの笑顔がラムにとっては一番だよ。絶対」
訂正したまま自信満々に言い切り、テンは見ていて気持ちのいい笑顔をレムに浮かべる。迷いのない晴れ晴れとしたそれは、彼が普段はあまり見せないようなもの。
つまりは、全肯定の意思。当然だ。テンはラムの意思を何度も聞いているのだから。
テンが自分の妹を助けてくれると信じて疑わず、後のことは任せると言い、彼女はレムの笑顔を心待ちにして眠りについた——それをテンは知っている。
知っていなくとも分かる。救われた妹の快晴の笑みは姉にとって、世界で一番なはずだと。暗い妹をなんとかしてあげたいとずっと思っていた姉にとって、最高なはずだと。
「笑って起こしてあげな。暗い顔なんてする必要もなくなったんだしさ。いつも通りのレムで在ることが、ラムにとっては嬉しいことのはずだよ」
背中を優しく押すようにテンは言い終える。
腕から離れた彼女から二歩ほど距離をとると、引き止めようとしたレムの手が僅かに伸びるのを横目に「そう思わない?」と首を傾げ、
「俺は部屋には入らないからね。姉妹の問題は姉妹で解決しなさい。あれだよ、姉妹水入らず、ってやつ。俺がしてあげられるのは、その入り口まで導いてあげることくらいだから」
「テンくん………」
「大丈夫だよ。そんな不安そうな
不安そうに瞳を揺らすレムにテンは、明るい声色で励ましの言葉を何度もかける。ラムと話した内容をレムに語るのは無粋であると判断した彼は、それしか言えないことに若干の焦ったさを感じながらも、しかし堪える。
正直、とても言いたい。ラムがどれだけレムを心配していたか、助けてあげたい思っていたか。悩んで悩んで悩んで、震えてしまう程に苦しんでいたか。
でも言わない。レムの前では見せたくない姿のはずだから。テンだからこそ見せてくれた姿のはずだから。「絶対に大丈夫」としか言わない。
理由は説明できないけど、紛れもない事実だから。
「分かりました。その言葉をレムは信じます」
「信じて。嘘は言わない」
理由に説明を求めないレムの顔から不安と困惑の色が抜けると、彼女はラムの前にテンに笑顔を振りまいた。無理やり浮かべたものではなく、純粋にほっとしたような笑顔。
語った通り。彼に全幅の信頼を寄せるレムはその言葉を信じて疑わない。テンがそう言うのならばそうなのだろうと断定し、事実として受け入れる。
彼女は理由の説明を求めない。否、その必要などない。テンのことを信じる——たった、それだけでいい。信頼する彼のことをまっすぐ信じる。それ一つでレムにとっては十分すぎる。
故に。迷い、躊躇する必要など無くなった。彼を信じ、彼の信じる姉を信じ、いつも通りに振る舞えばいい。それが望みならば、いくらでも応えよう。
それがレムにできる、心配をかけてしまった姉へのせめてもの償いだ。
「それでは、姉様を起こしてきますね」
「うん。思いっきり笑ってこい」
心を決めたレムの行動は早かった。
テンの励ましに勇気づけられた手が取っ手を捻ると、静かに扉を開くレムが乱れのない動きで部屋へと入室。しばらくしないうちに扉が閉まり、彼女の姿は部屋の中へと消える。
その後にテンは続かない。ここから先は神聖なる姉妹の領域、自分のような部外者が立ち入ることなど許されない世界。
表現の仕方はいくらでもあるが、要は二人っきりにさせてあげようということ。
空気の読める男、ソラノ・テン。読みすぎて高校時代の友達に「存在感空気」とまで言われた経験のある彼はレムの姿が消えるのを最後まで見届けると、その場から静かに離れた。
「さて。俺はどーしよーか」
特にすることもなくなったテン。彼は右腕に残存するレムの温もりを感じながら目的もなく歩き出す。扉の前で待っていてもいいのだが、仮に先のように声が聞こえてしまったら不味い。
壁は厚いくせに、扉は薄い。普通に話す分には漏れないものの、声量が叫ぶに近い場合は簡単に漏れるとは、何のための壁だ。
そう思うと、自分とレムの話し声が外に漏れていたのではと思う。
「いや……夜中だったし。たぶん大丈夫」
「うんうん」と、自分の発言に自分で頷いたテンが呑気そうにあくび。レムの前では隠していた疲労感が表に浮き出ると彼は深く吐息する。そうすると、肩の力が抜けてラクになれた。
にしても疲れた。とてつもなく疲れた。
あんなに話したのは人生で初めてかもしれない。思考を回しすぎて脳が糖分を欲している。喉も乾いたし、レムの大胆すぎるアピールに色々と反応するのを我慢したお陰で心が痛い。
「よく頑張ったな、ソラノ・テン。お前はよくやった。お前にしてはよく出来た方だよ。そうだよな、そうだよ。レムを救えたんだもん、ラムの期待に応えたんだもん、よくやったよ。ありがとう」
自分は一体、誰と話しているのだろうか。
ボソボソと独り言を重ねるテンは胸に手を当てて再び吐息。ため息に近しいそれは、胸の中に溜まった余分な感情を吐き出すためのもので。気持ちの切り替えを済ませるときによく見る行為。
今になって振り返ると、よくレムのことを抱きしめられたなと深く思う。前半は勢いに任せてだったが、後半になるにつれて徐々に慣れ始めたことが理由だろうか。
あの自分が。ロズワールに拾われて屋敷に来たばかりの、エミリアに体を触られただけでテンパってた自分が。
ーー大好きだよ。レム。
「なんだよ、大好きだよ、って。戦闘の最中に主人公に想いを伝えて死にに行くヒロインか。ゲームだと序盤か終盤あたりでくるやつ。しかもボスイベントで」
記憶を回想する過程で聞こえてきた自分の声に意味不明な例えで苦笑。危機的状況、死期を悟ったヒロインの自爆覚悟な突撃に「やめろぉぉ!」と叫ぶ主人公はさておき。
改めてレムに放った言葉の羅列を聞き返すと、羞恥心で弾け飛びそうになる。抱きしめられたことも踏まえると尚のこと。
慣れというものは本当に恐ろしい。どんなことでも慣れてしまえば、それが『普通』になってしまうのだから。
できれば。初めてレムを抱きしめたときに感じた感情はこれからも大事にしていきたい。何事も、初心な自分というのは尊いものなのだ。
「………たぶん」
曖昧な言葉で考えを閉じ、テンはポケットに手を突っ込む。
既に自分の心からレムを抱きしめる行為に対しての抵抗が消えつつあることに杞憂し、本日三度目のため息をこぼした。
と、
「——ん?」
不意に鼓膜を叩いた音にテンは足を止める。壁を支えに立ち止まる彼は低く唸り、警戒するように眉間に皺を寄せた。
聞こえたのは足音。早朝ということもあって静かな廊下に誰かが走る音が、三階の踊り場あたりから鼓膜に流れ込んできている。
誰だろうか。否、十中八九ハヤトだろう。自分と同じで二階の西棟に自室を置いているのだ、下から聞こえるとすれば彼の足音で確定している。
エミリアではないはず。彼女の部屋は、今、テンがいる三階、その東棟の最奥にある。ラムの部屋とは真逆の場所に位置する部屋。
この時間帯は、基本的に部屋で身支度を整えているはず。なら、出てくるとすればテンが見つめる長い廊下のずっと向こうから姿を現すはずだ。
「……来てる」
別に把握しなくとも答えの出る状況把握を済ませるテン。彼がそうしている間にも足音の主は階段を登ってきているようで、足音がどんどん近づいてきていた。
なるほど。どうやら、彼は自分よりも先に目覚めていたらしい。自分以上ではないにしろ、彼も彼で死にかけたはずだが、回復は早かったようで。
流石ハヤト、すげーハヤト。なんて、適当なことを考えているうちに、
「レム! テンのやつが部屋から消え………」
ふっと、考えていた人間が踊り場に現れる。テンの予想した通りの男——カンザキ・ハヤトだ。
息を切らす彼は全力疾走直後を思わせる様子で肩を大きく上下させ、その理由を大きく叫ぼうとして、しかし視界に飛び込んだ人物に動きをピタリと止めている。
彼がそうなるとは珍しい。屋敷で唯一、彼を黙らせることのできるテンですら稀に見る光景。視界に映る情報のみで固まる彼を見るのは初めてだ。
そして、その硬直が解かれた瞬間を見るのもまた、テンにとっては初めてとなる。
初めに表情が明るく染まり、次に感動の呼吸音が響き、次に喜びを爆発させた口角が釣り上がり、最後に駆け出し。
そして、
「おぉーー! 我が親友ぅぅーー!」
靴のつま先で床を蹴る音が強く弾けると、嬉々とした声色を叫びながらハヤトはテンに駆け寄る。死にかけたこの世界で唯一の親友との再会、嬉しくないわけがない。
ドタドタと近寄り、「おはよー、ハヤト。何日ぶり?」などと、ほのぼのを纏いながら話しかけてくるテンの肩を掴むと。
ぐわんぐわん揺する。
「ついに起きやがったかこのやろぉ! 心配かけさせやがってーー! おっせぇよ、お前ぇ! レムとかエミリアがどんだけ心配してたと思ってんだよ! 俺も心配したけどな!」
「ちょ、痛い痛い。あとうるさい。もちっと病み上がりに優しくして」
「あ……、悪い。つい」
不覚にも感情が爆発したハヤト。屋敷の全員に聞こえているであろう声量で叫ぶ彼は、しかし、自分の制御係であるテンのウザがるような態度によって即座に鎮火させられる。
肩を掴んでくるハヤトの手を掴むテンは「まずはその手を退けろ」と、やんわりハヤトの両手を取り外して吐息。吐息の機会に恵まれる彼は、襲い掛かった目眩を振り払うように頭を軽く振った。
「今の俺、めちゃんこ弱ってんの。そんなにぐわんぐわんされたら、ぐるぐるして、くらくらしてくるからやめろ」
「『ぐわんぐわん』に『ぐるぐる』に『くらくら』って、語彙力どこ行った」
こんな時でも相変わらずのマイペースなテンに、頭に上った血を瞬間冷却させられたハヤトは薄く苦笑。
激戦をくぐり抜けた後の再会なのだから、もう少し感動的でもいいのだが。残念なことに自分と真反対のテンは特別感の一つもない。いつも通りすぎる。
尤も、いつも通りの彼が見れて嬉しくもある。こうしたやりとりが自然に交わせたことが、とてつもなく喜ばしいことに感じた。
「気をつけてよね」と半笑いのテン。「
そんなこんなで、悲劇を越えて再会を果たした二人は改めて向き合い———、
「お?」
「ん?」
不意に遠くから響き渡ってきた音に同時に喉を低く唸らせる。扉を強く開くような音が、二人のいる廊下とは反対の廊下——東棟の廊下の最奥から聞こえてきた。
唐突な違和感。同タイミングで音の発信源に二人は顔を向け——瞬間的に全てを察した。深く考えることもなく、これから起こる未来を理解した。
見ただけにも関わらず察し、理解できたのは、視界の情報が全てを物語っていたことの他にない。
「凄まじいな」と、腕を組むハヤト。彼が隣で半笑いするのを横目に、今日はみんな勢いがあるなぁ。なんてことテンは呑気に考えながら、
「わぁ、エミリアだぁ」
「めっちゃ棒読みだな」
どことなく遠くを見つめ、その名を呟く。声から覇気が失われた彼はこれから自分の身に起こる未来を察知し、色々と悟ったような顔つきをしている。
その原因は今現在、凄まじい勢いで長い廊下の一番端っこからこちらへと向かってきているエミリア。その姿はまだ小さく見えずらいものの、あの銀髪は間違えなくその少女。ついでに、後ろから
そんな二人を見ながら、テンはハヤトに困ったような声色で聞いた。
「ねぇ、ハヤト」
「なんだ、親友」
エミリアが迫る。最奥の部屋から駆け出し始めた彼女の姿はまだ小さい。
「あれ。絶対に飛びついてくるよね」
「そうだな。あの走り方は飛びつくやつの走り方だな」
エミリアが迫る。遠くからテンの名を呼ぶ声が強く反響してきた。
「俺さ、さっきレムと抱き合ってたんだけど。このままエミリアを受け止めてもいいのかな」
「そうなのか? ならダメだろうな。客観的に見てクソ野郎以外の何者でもねぇぞ。俺もそう思うし」
エミリアが迫る。走る勢いに体が追いつかず転びそうになっている。
「うん。俺もそう思う。死んだ方がいいよね。それやっていいのは器が完成してる人だけだ。一般量産型主人公だね」
「おん。俺ぁハーレムは反対だからな。ヤンデレムに殺されないことを祈ってるぞ」
エミリアが迫る。徐々に姿が大きくなってきた。
「もし、この世界が小説の世界で、今の絵面を文字上で読んでる人がいるなら。画面の前で俺に唾をかけてくる人がいるなら。俺は感想欄でフルボッコに叩かれるんだと思う。これは多分、そーゆー感じなんだと思う」
「叩かれろ。ボッコボコに叩かれてしまえ。好きな女ぁ抱いてから数分と経たずにもう別の女ぁ抱く男とか。クソ野郎の所業だからな。だが、お前はそんな人間じゃねぇだろ。絶対に」
エミリアが迫る。いよいよ明確な姿が見える距離にまで来た。
「抱きしめることを『抱く』と略すのはやめようか。別の意味に聞こえちゃう」
「それだったら、俺は本気でお前のことをブッ飛ばしてるよ」
エミリアが迫る。ものすごい勢いで銀髪が揺れているのが見えた。
「ねぇ、ハヤト」
「なんだ、クソ野郎」
エミリアが迫る。寝起きなのだろうか、寝癖をそのままにしていた。格好も寝巻きのままだ。
「俺、いつの間にかエミリアに飛びつかれるような男に、なってたみたい。あの子が飛びついてもいいと思えるような男に、なってました。別に、……意図したわけじゃないんだけどさ」
「初めて、自分のことを普通の女の子として扱ってくれたことが大きかったんだろうな。この世界に来て一番初めに出会ったのもエミリアなんだろ? お前はもう、彼女の心の寄り所になってんだよ。……その人が約一週間ぶりに目覚めたら、そりゃもう、飛びつきたくなるもんだ」
エミリアが迫る。テンしか見ていない紫紺の瞳とテンの目があった。
「…どうしたらいいかな」
「受け止めてやれよ。なんにせよ、そうでもしなきゃあれは止まってくれないだろうしな。あいつ、お前は必ず起きる、って、ずっと待っててくれたんだし。待たせた人間としての勤めは果たせ」
エミリアが迫る。荒々しく裏返った息づかいが聞こえてきた。
「怒られるよね。多方面から」
「だろうな。だが、今は許してやらんこともない。お前は知らないだろうが、エミリアのやつ、かなり憔悴してたからな。受け止めてやれ、寂しがらせたんだから。……今だけは見逃してやる。その代わり、あとでちゃんと俺と話してもらうからな」
「はい。分かりました」
エミリアが迫る。必死な表情が見えた。もう、すぐそこまで来ている。
「あと、感想欄で叩かれろ」
「甘んじて受けます」
エミリアが迫る。ついに、彼女がテンに飛びついた。
「でも。ハヤトって、故郷でトータルして七人以上の女の子と付き合って、別れてを繰り返してたよね。それって俺以上に…というか、次元が違うレベルで——」
「テンのばかぁ! 起きるのがおそーい!」
顎に手を当て、真面目な顔つきで考えていたテンがそのままの表情で、飛びかかったエミリアに抱きつかれる。ぶん! という音がハヤトの真横を通り過ぎると、二人の姿が視界から消えた。
当然、その力に抵抗できるはずもないテンが慣性に従って背中から床に押し倒されたのだ。否、押し倒されたという表現では生ぬるい勢いでエミリアと共に吹っ飛んだ。
諦めて受け止めた彼は想像を絶する勢いに一瞬だけ床と並行に空中移動したのち、重力に従って背中を強打。肺から酸素が抜ける感覚に「かはァ……ッ!?」と、戦闘中ばりの苦鳴をこぼし。
しかし、エミリアはそんなことなど知らぬ存ぜぬで。
「テンのバカ! もう、すごーくバカ! いっぱい、いっぱい心配したの!! それなのに、そんな風にのほほーんってして……バカ! バカバカ!」
「いた、いたたたた! 抓らないで! 爪立てて握りしめないで! 脇腹も割と痛いかな! とりあえず起きようか! うん!」
「リぃアぁ……そんなに早く動かにゃいでよぉ、まだボク、起きたばかりにゃんだからぁ」
「……なんだろう。すごく懐かしい騒音だな」
そして、混沌としたほのぼのが開始されることになるのだった。
その後。そこに屋敷の住民が勢揃いし、さらに混沌としていくのは言うまでもない。
テンとエミリアはね……こうするしか思いつかなかったんですよ。他にも色々と考えましたけど、今までのお話を振り返るとこうするのが妥当かなって、思ってしまったんですよ。
あ。あと、0章と1章(原作開始)の間に幕間としてほのぼのを入れることにしました。その上で、皆さんにアンケートを取ろうと思います。
答えてくれる方がいるのかは分かりませんが、答えてくれると嬉しいです。
どのタイトルが気になりますか?
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雷の鳴る夜に
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(ソラノ・)レムの幸せに溢れた日々
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お酒少女達には勝てない
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恋人っぽいこと
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ありふれて、ほのぼのとした一日