親友とリゼロの世界に飛ばされたお話   作:ノラン

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執筆の余裕が少しだけできたので、更新です。

これは0章の、一つのエンディングとも言えるお話。
この小説はW主人公ですから。エンディングも二つありますよ。




薔薇の髪飾り

 

 

 

 時間は少し巻き戻り、視点は変わってハヤトへ。

 

 

今から二人だけの時間を過ごすテンとエミリアに思うところはあったものの、とりあえず今は見逃すことにした彼は今、屋敷の中を歩いているところだった。

 

目的は勿論、寝る前にベアトリスの所に顔を出すため。今日は色々と忙しくて一度も遊びに行ってやれなかったからせめて寝る前にでもと、彼は禁書庫へと足を進めている。

 

一階、玄関前の大広間を抜けて二階に続く階段の一段一段を踏みしめ、屋敷の二階へ。

 

適当に歩いているのではない。なんの根拠もなくふらついて、彼女の存在を見つけようとしているのではない。

 

自分にしか分からない根拠を元に、歩いているのだ。

 

 

「二階……だな。うん」

 

 

二階、踊り場の真ん中で左右に分かれる長い廊下を確認。一方向から漂ってくる『いつもの感覚』に一人でに頷くと、ハヤトは西棟に続く廊下に体を向けて歩き始めた。

 

なんとなく、分かる。彼女が住まう領域が屋敷のどこにあるのか。五十以上もある扉の中の一つとランダムに繋がれる彼女の部屋の現在地が、自分には明確に分かる。

 

言葉で説明するには曖昧すぎる感覚——形容しようのない温かさ。自分しか察することのできないそれは、自分しか理解しようのない温もり。

 

感覚を研ぎ澄ませずとも、今は無意識的に感じ取れる。以前は集中してやっと明確に察せれたそれは、今となっては慣れたもの。特に注意してなくとも本能的に理解することが可能だ。

 

要するにこれは、自分だけが受信できるベアトリスに会うための道標。寂しがり屋な少女を独りにしないよう、遊びに行くことを許された自分の特権。

 

故に、屋敷の誰もが困難を極める禁書庫の発見を彼は息をするように熟す。総当たりした挙句に数時間かかる作業を、たった数分で片付ける。

 

 片付ける。のだが、

 

 

「いや。これは流石に露骨すぎるだろ」

 

 

足を止め、ハヤトは苦笑。漂う感覚を辿り、目的地に到達したまでは良かったものの、しかし到達した扉が扉だったために彼は、またしても形容し難い感情に苛まれる。

 

あからさま過ぎると思う。同時に、自分が部屋に入ってこの事を問いかけたらなんて言い訳するのか、実に興味が湧いてきた。言い逃れようのない事実を彼女はどう言い逃れるつもりなのか。

 

 その扉。つまりは、

 

 

「ここ、俺の部屋なんだが」

 

 

二階の西棟、その廊下の真ん中あたりに位置する部屋。禁書庫の位置に明確な目星をつけたハヤトの現在地であり、彼の部屋がある場所である。

 

可愛すぎる幼女だとハヤトは心底思う。普段は適当な部屋と繋いでるくせに、今日は何故かハヤトの部屋と繋いでいたらしい。

 

自分が長い眠りながら目覚めた時も部屋の目の前の扉と繋いでいたが、二度も似たような事例が並ぶと流石のハヤトもむず痒くなってしまう。

 

ベアトリスという少女の、無言の甘え方に。

 

 

「会いに来い、っつーことだよな。これは。昨日もそうだったが、やっぱ露骨すぎるぜ。ベアトリス」

 

 

今までになかったパターンに、ハヤトは口元に手を添えながらくつくつと笑う。言葉を聞かずとも伝わってくる感情に。扉を開けずとも見える、扉の前で犬のように待機する姿に。

 

これはこれで、少しだけ気恥ずかしさを感じてしまうハヤトだ。部屋の付近であったのなら「ツンデレなやつだなぁ」と茶化せたが、直球で来られるとは思わなかった。

 

意図的にだろうか。否、意図的であってほしい。でなければあの幼女が可愛すぎて仕方なくなる。無意識に繋いでいたとなれば、態度と心情が相反するツンデレの極みすぎるだろう。

 

 

「どれ。じゃあ、お望み通り」

 

 

 顔を出してやるか、と。

 

そんな風に扉を取っ手に手をかけ、躊躇することなくハヤトは扉を押し開く。普通ならば自室が広がるはずの視界は、今だけは膨大な本の森がいっぱいに広がっていた。

 

いつも通りの光景。目に優しい色合いのみで彩られた世界にいるのはいつも通りの幼女。ただ、腰を下ろす場所がいつも通りではなかった。

 

普段は木製の三脚に腰を下ろして分厚い本を読んでいるが、今回は寝台の上にいる。ハヤトが大の字になって寝ても余裕のある大きめの寝台で、彼女はシーツを整えているところだ。

 

そろそろ寝る準備に入っているのだろう。定位置から大きく外れた位置にいる彼女にハヤトは「よっ、ベアトリス」と軽く手を上げ、

 

 

「今日は一度も来れなかったから、せめて寝る前に顔を出しにきたぜ。お望み通りな」

 

「お前のことなんて誰も望んじゃいないかしら。ベティーはこれから寝るのよ。さっさと帰るかしら」

 

 

なるほど、白を切るつもりらしい。

 

眠そうなベアトリスへの配慮として扉をそっと閉じるハヤトは「ほぉ、そうくるか」と、彼女の心情を理解したような言い草で口角を釣り上げた。否、理解している。彼女の心を見抜くことなど容易い。

 

さっさと帰れ、と。そう言う割には帰ってほしそうに見えてこないベアトリス。寝台のシーツを小さな両手で一生懸命に整える彼女に、ハヤトは穏やかな足取りで歩み寄りながら、

 

 

「まぁ、そう言うなって。俺は分かるぜ、ベアトリス。いや、俺でなくても分かるぜ。あんな露骨にされりゃ誰だって分かるよ」

 

「なんの話をしてるのかさっぱりなのよ。相変わらずお前の言うことは理解に苦しむかしら。尤も、初めから理解する気なんてこれっぽっちもないのよ」

 

 

まだ、白を切るつもりらしい。

 

寝る準備を着々と進める彼女は、面積で言えば自身の倍以上もある寝台を整えるのに意識を注いでいた。恐らく、全く相手にしていない風を装って知らん顔をしているつもりだろう。

 

実際、声だけを向ける彼女は近づくハヤトを意識下に置いていない。寝台の上で小さな両手を一生懸命に動かす彼女は今、身の丈の比較して大きすぎるシーツと格闘中。シワを無くすのは、少々大変そうに見える。

 

そんな光景を見れば、手助けしたくなるのがカンザキ・ハヤトという男。

 

 

「やってやるよ。ちょっと降りろ」

 

「別にベティーは——」

 

「いいからいいから。好意には素直に甘えとけ。特に、お前は俺にしか甘えられないんだから」

 

「ベティーがいつどこでお前に甘えたのよ」

「今まさに甘えてる」

 

 

しれっと、遠回しに自分の部屋と禁書庫を繋いでいた事実を口にしたハヤトに、ベアトリスは「そんなわけないかしら」とだけ。つんとした澄まし顔の彼女は眠気に襲われているのか、過剰な反応は示さない。

 

そう言いつつも、なんだかんだで彼の好意に流されるのがいつもの流れだ。目の前の男の優しさを屋敷の中で一番理解している彼女は、仕方なさそうに寝台から降りると、

 

 

「じゃ、とっとと済ませるのよ」

 

「へいへい」

 

 

腕を組み、静観の構えをとったベアトリスの視線を受けながらハヤトは寝台の上へ。スプリングがギシと小さく音を立てたのを耳に挟むと、彼は慣れた手つきでベットメイキングなう。

 

使用人になってからは、毎日のように熟している作業だ。働き初めの頃は教育係であったラムにシワ一つでどやされていたが、今となってはいい思い出。外に見せても悪くない仕上がりにできるほどに上達した。

 

尤も、その技術が活かされる場面など限られているためにあまり役に立たないと言えばそうだが。なんにしろ、こうしてベアトリスの役に立てるなら幸いである。

 

ただ、ジッと見つめられたままの状況だとなんとなく気まずさを感じるハヤト。沈黙を嫌がる彼は「つかよ」と話を切り出し、

 

 

「あんな露骨にするくらいなら言ってくれよ。流石にビビったぞ。まぁ、お前らしいといえばお前らしいが。恥ずかしがらずに言ってくれてもいいんだぜ?」

 

「なんの話かしら」

 

 

勿論、自分の部屋と禁書庫が繋がっていた話に決まっているだろう。とはハヤトは口には出さない。本人の口から言わせることで認めさせる方向に彼は舵をとっているのだ。

 

しかし、ベアトリスの態度は変わらず。近場にある椅子に腰掛ける彼女はドレスの下で足を組む仕草をしては、眠そうに、退屈そうにあくびを一つ。

 

なるほど。白を切ることを突き通すとはいい度胸だ。そこまで自分のした事を頑なに認めないのならば、こちらから仕掛けさせてもらおう。

 

普通に、淡々と。あくまで毅然とした態度を変えぬまま、

 

 

「なんの話、って? んなもん、お前が俺の部屋と禁書庫を繋いでたことに決まってるだろ」

 

「———は?」

 

「は?」

 

 

決定的な一言に返されたのは腑抜けた一音。数秒間の沈黙を伴って溢れた間抜けな声は、放たれた予想外すぎる発言を彼女が理解をしようとした結果だろう。

 

それは予想していなかったハヤト。彼女の中の疑問符が言語化された声を受けた彼は、思わずベッドメイキングなうの手を止めて声の方向に顔を向けると、椅子の肘掛けに頬杖をついて怪訝そうに小首を傾げるベアトリスと目が合った。

 

口を半開きにした彼女はポカンとしている。あれは物事の理解ができなかった時の顔だ。唖然とし、なに言ってんだコイツとでも言いたそうな表情。長いこと付き合ってきた今ならば分かる。

 

分かるからこそ、ハヤトも同じ言葉を返した。「は?」と。困惑だけで形成された一文字を振り向きながら溢した。同じく腑抜けた面で。

 

 

「お前、本当になんのことを言ってるかしら?」

 

「おいおい。冗談………」

 

 

 冗談だろ? と。

 

そう言い紡ぐはずだったハヤトの口は止まる。視線の先にいるベアトリスの表情が、嘘を言っているようには見えなかったからだ。本気で分からない、といった具合で頭の上に疑問符を浮かべている。

 

何かを隠そうとしている顔にはとても見えない。だって、自分に何かを隠そうとすれば必ず態度に出る。彼女は嘘をつくのが下手くそな寂しがり屋なのだから。

 

つまり、彼女は本当に何も知らないのか。だとすれば、彼女は無意識に自分の部屋と禁書庫を繋いでいたということになるが。

 

 

「お前……知らないでやってたのか?」

 

 

意図的か。無意識か。

 

返答によっては彼女の心情が浮き出る問いをハヤトは投げかけると、ベアトリスは疑心暗鬼になりかけた彼の訝しげな視線を一直線に見つめながら硬直。

 

頬杖をついたまま停止した彼女は今、眠気の吹き飛んだ思考回路をフル回転させているところだった。確認することは二つ。現在の禁書庫の位置と、自分が意識してその扉と繋いだかどうか。

 

一つ目は刹那で分かった。彼の言った通り、彼の部屋と禁書庫が繋がれている。理由は曖昧だが、確かにそうなっている。

 

二つ目は——自分でもよく分からない。ただ、こうして彼が部屋の扉を開くまで、「今日は一度も来てくれなかったな」なんてことを頭の片隅で考えていただけで。

 

 

 ーーまさか、ベティーが無意識に?

 

 

誤魔化しようのない事実の発覚に、ベアトリスは口にしかけた呟きを心の中へと押し込む。無意識だ、完全に無意識のうちに彼の部屋と禁書庫を繋いでいた。

 

どうしてだ。それは勿論、彼の部屋と繋げば自室に帰るときに扉が開かれるからだ。

 

なら、どうして繋いだ。それは勿論、頭の片隅で彼のことをずっと考えて————。

 

 

「た、偶々……そう、偶々なのよ! 適当な部屋に繋いでおいたら、偶々、その部屋がお前の部屋だっただけかしら。変に勘違いすんじゃないのよ!」

 

「いや、そんな奇跡あるかよ」

 

 

理解したとんでもない事実に、はっとしながら両手両足をバタつかせて無駄な抵抗をベアトリスは見せるが、誤魔化しようのないそれにハヤトが付き合う気配はなかった。

 

そんな神がかり的な事があるわけないだろう。自分達よりも長いこと住んでいるレムやラムですら把握できていないほどに扉はあるのだ。一体、いくつあると思っている。

 

それに。彼女なりの配慮なのかは定かではないが、彼女は使用人が使う階の扉は使わない。間違って繋ぎ、禁書庫と誰かの部屋が繋がるようなアクシデントが起こらないようにするためだ。

 

要は、彼女が繋ごうと思わなければ繋がらないということなのだが、今回は例外だったらしい。無意識の領域で、自分の部屋はこの場所と繋がったようだった。

 

普段は無意識的に自分達の部屋と繋げないようにしている彼女が、今は無意識的に自分の部屋と繋げた、と。

 

 これが何を意味するか。考える必要などあるだろうか。

 

 

「なんだ、そんなに寂しかったのか? 悪かったな。今日は色々と忙しかったから行く暇が無かったんだよ。ま、だからこうして顔を出したんだが。特にそうする必要もなかったな」

 

 

「自室と繋がってんだし」と、あたふたするベアトリスを見ながらハヤトはにこやかに笑う。確定した無意識のそれに彼女のことが可愛く見えて仕方なかった。

 

その間にも顔を紅くしたベアトリスが「偶々以外にあり得ないかしら!」と誤魔化しを捲し立てるような勢いで羅列するが、対して効果は発揮していない。

 

妹を見る目でベアトリスを見るハヤトは「そうかそうか」と優しく笑みを浮かべると、

 

 

「寂しい思いをさせて悪かったな。飯の時間と今の時間は別だもんな。俺とお前、二人だけの時間だしよ。二人で話すのも悪くねぇしな」

 

「な、なな、何を言ってるのか分からないのよ。さ、寂しいとか思ってないかしら。別に、お前がいなくたって、平気なのよ。ベティーをその辺のガキ扱いすんじゃないかしら」

 

「はいはい。そうだな」

 

「真面目に聞くかしら……って、なんでまた撫でるかしら! お前、本当にいい加減にするのよ!」

 

 

事あるごとに頭を撫でてくるハヤトに、そろそろベアトリスは反撃しようかと考え始める。考えたところで行動に至らないのが彼女の心情を雄弁に語っているが、残念なことに彼女自身は気付かない。

 

ハヤトがぶっ飛ばされないのが最たる証拠だろう。二、三ヶ月前ならば頭を撫でた場合、即座に部屋の外までぶっ飛ばされて終わりだ。それが今は口先だけの抵抗で、それ以上はしない。

 

事実として「早く寝台を整えるかしら!」と、話題を無理やり逸らす彼女は頭に乗っかる手を振り払うも、それより先の行動には繋がっていなかった。

 

指示を飛ばす両手が彼の背中を寝台の方向へと強く押し出すと、

 

 

「ベティーはもう寝たいのよ。あまり騒がしくすんじゃないかしら。お前はとっととやること終わらせて帰るのよ」

 

 

言うと、疲れたような吐息をベアトリスは漏らす。いつの間に荒いでいた呼吸をそうやって整えると、腰を下ろす椅子に深く腰掛けて脱力。

 

「分かった分かった」と言いながら止まっていた作業を再開するハヤトを見ながら、彼に悟られないよう熱を帯びる頬を冷ますために密かに両手で扇いだ。

 

熱い。頬が、熱い。数分前までの眠気が嘘のように目が覚めて、何度経験しても慣れない頭なでなでに胸の奥がザワつき、自分の精神があの男に激しく乱されているのだと自覚した。

 

同時に、この状況を心地よく思う自分がいることも。

 

 

「………時間ってのは早いもんだな」

 

「急に何かしら」

 

 

一つの会話が終わる気配に沈黙を嫌がるハヤトが次なる話題をと話し始め、両手両足を伸ばしてぐでーんとするベアトリスが乗っかる。疲れた声色をしながらも無視しないのが、彼女の優しいところ。

 

藪から棒なそれを話題にしたハヤト。彼はシーツを整え終わると、今度はシーツを整えるのに邪魔だと判断されたであろう掛け布団を拾い上げながら、

 

 

「風呂場でテンとロズワールの二人と話してよ。そん時に、俺達が屋敷に来てもう四ヶ月が経つ、って話が上がってな。そう思うと、お前と出会ってからそんなに経つのか。と、不意に思ってよ」

 

 

寝台と同等の大きさの掛け布団を寝台に広げるハヤトの声は少し弾んでいた。自分と彼女が出会ってから今に至るまでの軌跡を振り返ると、様々な記憶が一挙に溢れて楽しいのだ。

 

言われてベアトリスも思う。もう、そんなに時間が経過したのかと。ロズワールがハヤトともう一人の男を連れてきてからというもの、毎日が忙しすぎたからあっという間に感じる。

 

尤も、時間という概念が凍結した空間で過ごす自分は外の月日や時間など対して興味など持たないが。そういう意味ではない。

 

彼と過ごす時間が、苦痛ではなかったということだ。寧ろ、とても楽しく思えていたということだ。心地よい時間は早く感じる、というやつだ。

 

 

「俺とお前が初めて出会った時に何があったか。お前、覚えてるか?」

 

「無礼な奴としか思ってなかったことは覚えてるかしら」

 

「それだけかよ」

 

 

分かりやすく声色が落ち込むハヤトに、心を落ち着かせたベアトリスの悠然とした態度は崩れない。忘れるわけがない出会いだったが、今になって掘り起こすと面倒な気がして、一言で片付けた。

 

懐かしい思い出——自分が、ハヤトのことを本気で嫌がっていた頃の記憶。自分の領域にズケズケと踏み込む態度が気に食わなくて。でも、そう接してくれると満たされる気がしていた。

 

それは出会ってから少し経ってからの話、だが。

 

出会った当初は本気で彼のことを嫌っていた覚えがある。無神経に禁書庫に足を踏み入れては今と変わらない態度で接して、追い出そうとすれば予想外の動きに惑わされた挙句、頭に手を添えられて、

 

 撫でられた。

 

 

「………そういえば。あのときもお前はベティーの頭を撫でやがったかしら。なんなのよお前。そんなにベティーの頭を撫でたいのかしら?」

 

 

思い出したような言い方をしながら、ベアトリスは今も昔もハヤトという人間が全く変わっていないことを不意に理解した。この男は、自分と出会った頃から自分の頭を撫でていたのだと。

 

そんなことから浮上した純粋な一つの疑問。その行為に邪な思いや悪意が一欠片もないことを知っている彼女は、足をぶらつかせながらなんとなく問いかけた。

 

深い意味は無い。ただ、気になっただけ。

 

「撫でたいのか? と聞かれてもよ」と、喉を低く唸らせるハヤト。ベットメイキングなうな状況もあと少しで終わる彼は「そうだな……」と悩むために少しばかり沈黙。

 

 そして、

 

 

「撫でたくない、と言えば嘘になる」

 

「どうして? 撫でたところでなんになるのよ」

 

 

疑問に疑問が重なるベアトリスが更に問いかける。誰かに頭を撫でられるという、久しく忘れていた温かい感覚をずっと与えてくるハヤトが、彼女にとっては不思議でしかなかった。

 

なんになる。その通りだ。撫でたところでなんの得があるというのか。

 

イカれ男(テン)姉妹の妹(レム)の頭を撫でる光景を朝に見たが、それを見てもよく分からなかった。気持ち良さそうだな。とは、思ったけれど。

 

そんな彼女の疑問に返されたのは、

 

 

「これといった理由は無いが。まぁ、強いて言えば愛情表現みたいなもんだな」

 

「あい、じょう?」

 

 

その単語を初めて聞いた人の反応をとるベアトリス。若干、前のめりになる彼女は彼の口から初めて出てきたそれに、心底不思議そうな表情を浮かべていた。

 

愛情とは。これもまた久しく忘れていた感情だと思う。ここ数百年、誰かに注ぐことも注がれることもなかったのだから当然と言えば当然だが、改めて言われると妙に耳に残る。

 

頭の上にある疑問符の増殖が止まらないベアトリスの視線を感じつつハヤトは「そうだ」と言い繋ぎ、

 

 

「俺はお前と親しく接してるんだぞーーって、口で言うんじゃなく態度で示してんだよ。まぁ、俺からすりゃお前の場合は年下の妹みてぇなもんだから、スキンシップの一環とも言えるかもな」

 

「すきんしっぷ?」

 

「家族間での肌と肌の触れ合いとでも言おうか。ほら、俺とお前って前よりもずっと仲良くなっただろ? だから、そうやって仲良くなった証としてやってんだよ」

 

 

自分がハヤトに、妹のような存在として捉えられていることにやや不満感を抱かないわけではないものの、ベアトリスは「ふーん」とだけしか言葉を生まない。

 

色々と口を挟みたいところではあるが、一つ一つを細かく指摘すると疲れる予感がする。家族だの妹だのずっと仲良くなっただの、自分からすれば小っ恥ずかしい発言をよくできるものだ。

 

というよりも。どうして彼に妹のような存在として捉えられていることに不満を感じているのか。彼女は分からなかった。嬉しいのか、嬉しくないのか、微妙な気持ちに表情が僅かに顰められる。

 

 が、

 

 

「っていうのは建前だ」

 

 

真面目に語っていた彼は、今の発言の全てを取り繕っていたことを暴露。予想外なそれに「え?」と反応する声が吐息と一緒に吐かれ、顰めっ面が引っ込む。

 

淡々と言うハヤトは、今しがたベットメイキングを終えたところだ。彼は整えられた寝台に「うし」と頷くと、一仕事終えた感を出しながら振り返り、

 

 

「お前は知らないだろうが。撫でられた時のお前、結構、気持ち良さそうな顔してんだぜ? そんな(つら)ぁ見せられたら心も震えるってもんだ」

 

「ぇ———」

 

「要するに、だ。単に、撫でられたお前が気持ち良さそうだから撫でてやりたい、って感じだな。さっきのやつのも真意だけどよ」

 

 

細かく説明するハヤトはそう言いながらベアトリスに笑いかけるが、彼女はそれどころではない。今しがた伝えられた新事実に凄まじい羞恥心と形容し難いものを感じ、思わず俯いていた。

 

構えていれば少しは受け止められたものを。心の準備も無しに伝えられてしまえば、動揺に跳ねたベアトリスが容易く撃沈するのは必然的。

 

膝に置いた両手をぎゅっと握り、固く閉じた口の中で歯を食いしばる。たった今、心の奥底から噴火した感情をそうやって必死に抑え込む。

 

知らない。そんなの知らない。そんな顔、した覚えはないし見せた覚えもない。けど、ハヤトは嘘をつくような人間じゃないから、きっと本当のことなのだろう。

 

とても恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。理由は分からないけれど、自分も知らない自分の顔を彼に見られている——考えるだけで恥ずかしい。

 

恥ずかしすぎて、弾け飛んでしまいそう。

 

 

「なんだ、照れてんのか? 今に始まった事じゃねぇし、別に構わんだろ」

 

「お、おおお、お前には気遣いってもんがないのかしら! ちょっとはベティーの乙女心(心情)を察するのよ!」

 

「心情? んなもん察してるつもりだが。だから、恥ずかしがる必要はない、って言ったんだよ。お前のその顔は何回も見てるしな。つか、ドラゴンと戦った時にそれ以上の姿を見てるしな」

 

「ーー! そのっ、その口を閉じるかしらーー!」

 

 

グイッと顔を上げるベアトリス。耳まで紅く染められた彼女の紅潮した様子がハヤトの瞳に映し出されたときには、彼女は手近にあった枕を笑顔にぶん投げていた。

 

とりあえず発散。この気持ちをどうにかして発散せねばと考えるベアトリスの行動に迷いはなく。椅子から降りる彼女は、受け止められた枕が寝台に放られるのを見ながらハヤトに突撃。

 

恥ずかしさを怒りの気持ちで誤魔化す——奇しくも同じ絵面がテンとエミリアの間で展開されている中、こちらでも同じ絵面が禁書庫で広がった。

 

ただ、同じでないのはこちら側の方が突撃した方の攻撃が強めということ。両手をぶん回すベアトリスは朝と同じような勢いでポカポカ叩き、ダメージゼロのそれにハヤトは適当に笑うばかり。

 

自分でもよく分からなかった。前までは適当にあしらえたハヤトの声が、いつの間にか心の中に居座るようになって。響くそれが自分を温めると、どうしようもなく発散したくなる。

 

その方法が子どもじみていることなど、もはや知ったことか。とっくに子ども扱いされているのだ。やけに不満に感じる扱われ方をされているのだ。

 

自分は子どもではないと、そう言いたくなるような扱いをされているのだ。なぜか、無性にムカつく。

 

 

「あんまり騒ぐなよ、ベアトリス。寝る前なんだから、騒ぐと目が覚めるぞ」

 

「それなら、お前が部屋に入ってきた時点で時すでに遅しかしら。大体、お前がベティーに変なことを言うからこんなことに………」

 

 

感情の紛糾が治り、暴れ散らかしていた両手が静まると、ベアトリスはハヤトの体から離れた。その後にブツブツと言い続けているが、声の声量からして自分の中だけのものらしい。

 

敢えて問い詰めるような真似はしないハヤト。彼女が発散し終えたならば、これより先には突っ込まない。だから、彼は両手ポカポカの刑を甘んじて受け止めていた。

 

発散しなければ溜め続ける性格な彼女のことだ。あの様子のまま事が済んでいたとなれば、せっかく整えた寝台が五秒と経たずに崩れるだろう。

 

それでも反応が可愛いから、つい揶揄いたくなってしまうのがハヤト自身も自覚しているハヤトの悪いところ。

 

勿論、揶揄われ続けて三ヶ月のベアトリスもそれはよく理解している。

 

 だから、先手を打った。

 

 

「ほら、お前はもう帰るかしら。寝台に関しては感謝してあげるのよ。あげるから、お前もとっとと部屋に帰るのよ」

 

「帰るもなにも……。俺の部屋にお前の部屋があるから、実質ここは俺の部屋ということにもなるんじゃねぇの?」

 

「意味不明な曲解すんじゃないかしら。お前が出て行ったら場所を移すのよ」

 

 

「それで解決かしら」と、言いながらベアトリスはハヤトの背中を扉へと押し進める。頭上の声が呑気にふざけた理解を促すが、聞く耳など持つわけがない。

 

これ以上に揶揄われると身が持たない。辛うじて平常心という名の膜で荒ぶる心を覆えたものの、耐久性の低いそれは微風が吹けば簡単に飛んでいってしまう弱々しいもの。

 

故に、早く自分一人の空間を作り出す必要があった。短時間で作られた防御の耐久性の低さを感覚的に理解したからこそ。

 

一刻も早くこの大柄な男を自分の領域から追い出さなければならない。「分かった。出るからそんなに強く押すなよ」と呟く男の声を、鼓膜から追い出さなければならない。

 

でないと、また同じ状況になる。

 

 

「なぁ、ベアトリス。また『ハヤト』って呼んでくれてもいいんだぜ? その方が俺としても嬉しいし」

 

「その話はもう片付いたはずなのよ。答えも変わらないかしら。あの時はベティーも状況に酔ってただけ、変な期待すんじゃないかしら」

 

「だよな。あーぁ、残念」

 

 

残念がる声を耳にしながら、ベアトリスは眼前にある背を体全体の力を総動員して押し続ける。背に額を当て、ムキになった表情を隠す彼女は、こちらを見ようとする体をなにがなんでも振り向かせないようにしながら。

 

あの時の自分は、少し状況に酔っていただけだ。自分の中で大きく揺れたものがあって、とても怖く感じたから、それを誤魔化すために感情に身を委ねた結果に過ぎない。

 

ずっと従ってきた黒い本が示す空白の未来ではなく、彼と歩む未来を己の手で選択し。その延長線上に含まれていたことに過ぎない。

 

でもそれが、ベアトリスという一人の少女がハヤトのことを心から信頼して、気を許している証に他ならないのも事実だと思う。

 

 思うから、

 

 

「…………気が向いたら、呼んでやらんこともないかしら」

 

「まじ!? そりゃよかった。楽しみにしてるぜ!」

 

 

自分にしか聞こえないような声量でボソッと溢すが、生憎とハヤトという男はお決まりのパターンなど知らない人間。奇跡と言っても過言でない言葉を即座に拾った彼は声を上げ、大きく喜ぶ。

 

あのベアトリスが、人の名前を頑なに呼ばないベアトリスが、また気が向いたら自分の名前を呼んでくれると言った——これを奇跡と言わずしてなんと言う。

 

尤も。その奇跡の大前提としてあるのが、ハヤトとベアトリスの間に築かれた決して揺らがない絶対的な信頼関係であり、彼女の縛られた心を救う唯一の方法になるが、彼が気にする様子はない。

 

「そこは普通、聞き流すところかしら!」と事後になってから後悔するベアトリスに、ハヤトは「悪いな」と体は扉の方向を向いたまま彼女にグーサイン。

 

 

「俺はテン(アイツ)と違って鈍感系じゃねぇんだ。聞こえることは聞こえるし、気づくことにも気づくんだぜ?」

 

「なっ……。と、と、とにかく、お前はとっとと部屋に戻るかしら! ベティーはもう寝るのよ!」

 

「だから、ここは俺の部屋———」

 

「その話はもういいかしら!」

 

 

 言わない方が良かっただろうか。

 

なんてことを考えながらハヤトの声を自分の声で掻き消すベアトリス。彼女の頭にあるのは、ついさっきの発言だ。否、意図せずに溢れた発言だ。

 

心の中だけでと思ったつもりが勝手に声になっていた。その感情を音にしたら拾われると分かっていたのに。拾われると、こうなると分かっていたのに。

 

 分かって、いたのに。

 

 

「そうだ。寂しがらせた詫びと言っちゃあれだが、一緒に寝てやろうか?」

 

「ーー! ち、調子に乗んじゃにゃいかしら!」

 

「清々しいまでの噛みっぷり。にゃい、ときたか」

 

 

 どうして、このやりとりがこんなにも心地良く感じてしまう。

 

以前は、揶揄われるとイラつくだけだったのに。最近は、イラつくよりも先に喜びが生まれる。

 

揶揄われること自体はムカつく、確かにムカつく。けれど、このやりとりを望んでいる自分が心の奥底にいるのも確かなこと。

 

あの日——自分の中でカンザキ・ハヤトという存在が大きく変わった日からだ。あの夜は、自分にとって一つの分岐点とも言えたかもしれない。

 

自分の本質が根底から変わったわけではないけど。劇的な変化があったわけではないけど。その、取っ掛かりであったことは分かるから。

 

いつか、いつの日か。自分が過去の自分を振り切って、今の自分として生きるための。生きて、彼と一緒になって未来を歩んでいくための。

 

その、取っ掛かりであったことに間違いはないから。

 

 

「もう押さなくていいぞ」

 

 

そんな事を考えていたとき、その声は聞こえてきた。気付けば、順調に前へと進んでいた歩みが止まっている。それが意味するのは、自分とハヤトの二人が扉の前に到着したということだろう。

 

背中を押す必要がなくなると、ベアトリスはくっついていた背から三歩ほど離れる。離れて見えたのは、ようやく振り返ることができたハヤトの表情にうっすらと浮かぶ笑み。

 

いつもより、魅力的に見えた。暗がりに覆われた自分の心を温かく照らしてくれる見慣れたそれは、今の自分にはとても輝いて見えた。

 

理由は曖昧だけど、その顔を見ると心が穏やかな気持ちになってくるのは明白で。彼が自分の下に来る度に見ることができると思うと、途端に胸が騒ぎ出す。そうなると、思ったことがある。

 

 また来てほしい、と。

 

 

「……どした? そんなポカーンとして」

 

「なんでもないかしら。早く帰るのよ」

 

「へいへい」

 

 

決して見惚れていたわけではない、と自分に強く言い聞かせるベアトリスが扉を指差し。彼女の指示に従ったハヤトは渋々といった具合で彼女に背を向ける。

 

正直、まだ話していたいけれど、無理に残るのは彼女が可哀想だ。今日は夜も深まってきた頃合い、あまり長居して彼女の睡眠時間を削るのもハヤト的にはよろしくない。

 

別に今しか会えないわけでもないし、お話の続きはまた明日にでもとっておこう。

 

扉の取っ手を握って、捻る。ガチャという音が鼓膜を弱く叩くと扉が開き、外に見えるのは廊下。一歩でも出て扉を閉めれば、次、部屋に入った時には自分の部屋が返ってきている。

 

今日、彼女と会うのはこれが最後だろう。なら、いつも通りの言葉——「また来るぜ」で終わらせようとハヤトは部屋から出る寸前に振り返り、

 

 

「じゃ、また「また来るかしら」

 

 

 瞬間、ハヤトの時が止まった。

 

 止まって、そのまま固まった。

 

 

見えたのは、微笑みだった。

 

頬を緩ませた彼女が口元を無邪気に綻ばせ、ただ一直線に蝶を宿す瞳で自分のことを一心に見つめている。余計な感情の混濁がない、好意的な感情のみで自然に作られた、期待の二文字を孕む微笑み。

 

聞こえたのは、穏やかな声だった。

 

一度、聞いただけで感じ取れた安心感。いつもの騒がしくがなる声とは比較にならない程の優しい声色は一切の抵抗なくハヤトの心にじんわりと浸透し、余韻が後を引いていく。

 

それは、喜怒哀楽が豊かなベアトリスが初めて見せた微笑み方。満面のそれとはまた違う魅力を纏った感情表現の一つ。

 

 それを彼女は、

 

 

「また、来るかしら」

 

 

彼女の前から去るときに必ず言い残す言葉に、同じ言葉が出会ってから初めて重なった瞬間だった。

 

いつもなら絶対に重なることのない声が、一方的な声が、確実に交わった日だった。

 

たった七文字にも関わらず、その中に込められた想いの濃さにハヤトは停滞せざるを得ない。誰かを待つことに恐怖する彼女が自分を待っていると、その発言が物語っていたからだ。

 

 

 ーー俺は、彼女にここまで心を許されてたのか

 

 

「おう。また来るぜ」

 

 

直球で素直な言葉に、心身ともに激震が走っている。目の前にいる幼女の明らかな心の変化に感動し、感極まって抱き上げてしまいたくなる衝動に駆られてしまう。

 

それをグッと抑え込み、ハヤトは歯を見せて笑いながら言った。

 

 

「楽しみにして待ってな」

 

 

ベアトリスの期待。向けられた想いに全身全霊で応えるように。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

 ——パタン、と。扉が閉まる。

 

 

扉が閉まったらまず、禁書庫の場所を移動。ずっと居座ってたままでは部屋から退室したハヤトが困ってしまうはず。否、彼だけではなく自分自身も困る。

 

場所は—————どこでもいい。でも、ハヤトの部屋からはずっと遠いところにしよう。入ってくるわけではないけれど、なんとなくそうした方が心が落ち着く気がする。

 

数秒と経たず、禁書庫は移動した。今頃、ハヤトの部屋はいつも通りの光景を取り戻していることだろう。

 

 そうして、

 

 

「………ほぅ」

 

 

 一息。

 

やるべき事を終えたベアトリスが茫然と立ち尽くし、胸に溜まっていた感情を酸素と一緒に吐き出す。

 

意図せずに表情筋の力まで吐いてしまったらしい。誰もいなくなった部屋で一人、彼女の頬がふにゃんと緩んだ。

 

深呼吸。騒ぐ心を落ち着かせようと働きかけ、何度も繰り返す。吸って、吐いて、吸って、吐いて。感情の手綱を強く握りしめ、この頬に引き締まれと命令した。

 

そうしたところで大して意味などなかったと、深呼吸を五回ほど繰り返したところでベアトリスは察する。整えようとしても、整えようとしても、どうしても整わない。

 

 あの男の声が、ずっと聞こえる。

 

 

 ーーおう。また来るぜ。

 

 

「………また、来てくれる」

 

 

頭の中に過り続ける言葉に、胸が熱くなるような感覚を得た。違う、得たのではない。この感覚はずっと前から得ていた。だからきっと、得た感覚が熱せられているのだ。

 

熱せられるとどうなるのだろう。答えは既に形として表れている。瞳の裏側がじわじわと焼かれて、物体の輪郭が曖昧になる不可思議な現象として成っている。

 

 

「あれ………なんで……」

 

 

瞳から垂れた一つの雫が頬に軌跡を生みながら、顔の輪郭をなぞった末に床に落ちた。一滴でも垂れれば、次から次へと滴り落ちていた。

 

おかしい。どうして自分は泣いている。ただ、自分のところに来てくれるだけじゃないか。それだけの話じゃないか。

 

来てほしい、と。そう思う人が自分の下に毎日のように来てくれるだけじゃないか。なら、なんで、どうして、拭っても拭っても雫は溢れ続けて止まらない。

 

 

 ーー楽しみにして待ってな。

 

 

 待ってろ、と。

 

自分にそう言ったのは彼で二人目だ。一人目は自分の母親。楽しみにして、とは言ってくれなかったが。

 

その時のことは今でも鮮明に覚えている。大切な友人を失い、自分も母親の役に立ちたいと願い、一緒に居たいと願い、ただただ願い。

 

それら全てを否定され、全てが崩壊したあの日。

 

自分に決定権など無かったのだ。元から、こうなることは決まっていたのだ。泣いて縋って哀願したところで、あの時は無意味だった。無意味であることが、とても悲しかった。

 

いつか自分を迎えに来る『その人』が来る日まで待ってろ、と。そう言って遠ざかっていく母親の後ろ姿を、黙って見ることしかできなかった。

 

それ以降は、虚無と喪失感を感じないように必死だった日々。小さな背中に背負った大きすぎる役目に溺れていなければ、耐え切れなかった無限の時間。

 

精霊に寿命という概念は存在しない。命というものはあれど、時間の流れによる自然死はあり得ない。故に、自分は四百年という果てしない時間を生き続けた。生き続けなければならなかった。

 

待つ、とは。ベアトリスにとってはトラウマ同然なのだ。いつ来るかも分からない『その人』を待ち続ける役目を四百年も全うし続けることは、彼女にとっては死よりも恐ろしい事なのだ。

 

 なのに———それなのに。

 

 

 ーー楽しみにして待ってな。

 

 

どうしてここまで違う。同じ言葉なのになんでこんなにも差がある。待つことなんて苦しいだけなのに、そうであるのが自分の中では当たり前なのに。

 

今、自分は待つことを楽しんでいる。待つという行為そのものを、まるで一つの遊び感覚で行っている。

 

悲しくもないし、苦しくもない、まして虚無感に追われるわけでもない。言葉そのままの意味で、出会ってから毎日のように自分の部屋に顔を出す男の言葉に、自分は期待している。

 

どんなに追い払っても彼は来た。どんなに死にかけたとしても彼は来た。どんなに辛辣な態度をしても彼は来た。くだらない話をしに、彼は来た。

 

そんな彼と接しているうちに、いつしか待つのが怖くなくなった。怖くなくなって、次はいつ来てくれるのかな、なんてことも考え出すようになって。

 

 そして、

 

 

 ーーお前の陰は俺の陽が祓ってみせるよ。俺の知らねぇお前が、心のどっかでなんかに苦しんでんなら、俺が晴らしてやる。太陽みてぇにな。

 

 

そう言った笑顔に、どこまでも信を置いてしまいたくなる。彼は預言書に描かれた人でもなんでもないのに、『その人』だと決めつけてしまいたくなる。

 

ドラゴンと戦った時に贈ってくれた言葉の数々が今も尚、自分の中で炎として灯っていた。絶対に忘れない、忘れたくない声は、一生の宝物であり。自分にとっての支えでもある。

 

彼が『その人』であってほしい。彼が『その人』じゃないのなら他に誰がいるのか。理想とは少し離れているけれど、だとしても彼ならば許せる。

 

そうでないのなら、自分はもう————。

 

 

「……いつまでだって、待っててやるのよ」

 

 

降り頻る雨のような涙を拭い切り、ベアトリスは唾をゴクリと飲み込んで拳を握りしめる。恐怖、不安、焦燥、自分の心を苦しめる要素を握力で押し殺し、その上からハヤトの存在を思い浮かべて安心した。

 

待つことは怖いけど。彼を待つのは怖くない。絶対に来てくれるから。来てくれると、信じているから。

 

彼を『その人』と望むこと。それはつまり空白に染まる預言書とは別の未来を進むことになるけど、それはとても恐ろしいけど、ハヤトが一緒ならば怖くないと思える。

 

枯れ果てた期待も、希望も、願望も、未来も。四百年で失った全てを最後の最後に——自分の心を温かくしてくれる人に託してもいいのではないか。

 

これまで、幾度となく扉を開けた誰かが、自分にとっての『その人』でないことに信じる心が裏切られ。期待しては裏切られ、期待しては裏切られ、失望と落胆を重ねるうちに期待すらしなくなって。

 

数年前から預言書が空白に染められ、それが自分の終わりを意味していると気付いて。それからは自分を終わらせてくれる人を心のどこかで望むようになって。

 

でも、最後の最後。ハヤトという男に、全てを委ねてしまってもいいのではないか。自分の信じる男に、運命を預けてしまってもいいのではないか。

 

 

「夢物語……に、ならないといいかしら」

 

 

洒落にならない呟きを一つ。

 

僅かに生じた期待を声に含めた彼女は、小さく微笑みながら踵を返す。涙の余韻が引いた彼女は、不意に訪れる睡魔に寝台へと向かった。

 

寝台に向かう足はいつもより軽やかだ。肩が弾んで、スキップしているようにも見える。ハヤトのことを考えていると、自然とそうなってしまう。歩く足が、どんどん軽やかになっていく。

 

歩きは早歩きに、早歩きは走りに。感情の昂りをそのまま体現するかのような彼女は目的地に一直線に駆け抜け、最後にはハヤトがせっかく整えた寝台に飛び込んだ。

 

ぼふっ、と。

 

音を立てて柔らかな感触に受け止められるとベアトリスは履いていたヒールを柄にもなく乱暴に脱ぎ捨て、部屋の明かりを消して布団に潜り込む。部屋の明かりを消すと、途端に視界が黒一色に染まった。

 

まだ少し、ハヤトの匂いがするシーツと掛け布団。そんな二つの中で目を瞑ると、感じたこともないような幸福感を得ることができた。これなら、よく眠れる気がする。

 

 

「せっかくなら………」

 

 

ふと、思い立った風に布団を剥いだベアトリス。彼女は闇の中で両腕を動かすと寝台近くにある小机を探り、その上に置いてある薔薇の髪飾りを探し当てた。

 

その髪飾り——ハヤトが自分に贈り物として渡してくれたもの。あるいは自分が誰から貰って一番嬉しかったもの。宝物。

 

探し当てたそれを大事そうに両手で包みながら、ベアトリスは再び布団の中へと潜り込む。そうすると、不思議と安心するような錯覚を起こした。

 

いつもは自分の母親に渡された本を抱いて寝ていたけど、今日はハヤトから渡された贈り物(髪飾り)を抱いて寝よう。包んだ両手を胸に添え、そうやって寝よう。

 

その方が、良い夢を見れる気がする。確証なんてものはないけれど、そんな気がする。

 

 

「絶対に、またベティーの下に来るのよ……………ハヤト」

 

 

彼のいないところで名を呼び、ベアトリスは目を瞑る。誰にも知られないところで、その名前を愛おしげに呼ぶ。

 

 

「ハヤト………ハヤト。ハヤト」

 

 

呼ぶと、なんだか変にむず痒くなった。これまでにも呼んだことはあったのに、なんでか恥ずかしいと感じている自分がいた。

 

理由は分からない。あぁもう、分からない分からない。先程から分からないことだらけだ。ハヤトに関する事は大凡が分からないことだ。

 

でも、嫌ではない。この分からない感覚は、自分にとって好ましいものであることは分かった。

 

 

「ハヤト……ふふ」

 

 

心がくすぐられる意味不明な感覚に布団の中でみじろぎし、ベアトリスは笑声を漏らす。

 

それは、胸の中で膨らみ続ける幸福感が一欠片だけ溢れたような小さな笑声だった。

 

 

 ——暗い禁書庫の中、幼女の無邪気な笑声が小さく木霊する。

 

 抑えようにも抑え切れないそれが木霊して、木霊して、木霊し続けて。

 

 いつしか、彼女の中に一つの感情を芽生えさせるためのキッカケとなり。

 

 

 彼女の運命を変える、唯一の光となる。

 

 

 

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