——世界が、凍りついたような感覚だった。
決定的な一言を告げたことにより、時間の流れがピタリと止まったような。実際に止まったわけではないのに、世界の針は淡々と時を刻み続けているのに、それでも止まったような錯覚。
今までにも何度となく味わってきたそれは、確かにテンの鼓動を速めている。話し合い開始の合図を告げた一言を放った彼の心臓は、途端に締め付けられるような痛みを脳に報告していた。
恐らく、この静寂が原因だろうとテンは思う。深夜ということも相まって世界の静けさは尋常ではなく、そよ風一つ吹かない今では、窓が風に揺れることもない。
その静寂の原因はレム。告げられた意味不明な一言を頭の中で咀嚼、処理を繰り返す彼女は必死に理解するべく奮闘し、結果として時が止まった。彼女の反応を待つテンもまた、時の停止に囚われる。
なるべく、分かりやすいように言ったつもりだった。この世界のに存在する単語のみで、理解を得ようとしたつもりだった。
けど。だけど。それでも。
「————え?」
その反応は、仕方なかった。
「えっと。それは、どういう…………」
歯切れの悪い言葉で声を紡ぐレム。数秒間の停止を己の力で破った彼女は困惑することすらできていない。告げられた言葉の意味が理解できずに感情というものが成立せず、無理解に対する反応に含まれなかった。
人間、本気で理解不能な事態に陥るとこうも容易く思考が停止してしまう。考えても考えても意味は飲み込めず、言葉そのままの意味で受け取っても尚、飲み込めず。
飲み込もうとした。せっかく彼が話してくれた隠し事を理解して彼の一番の理解者になろうと、無理やりにでも理解しようと奮起した。
でも、やはり無理だった。何を言われても大丈夫なように心構えはしてきたはずなのに。あまりにも現実離れしすぎている事を心に突きつけられて、思考が麻痺してしまった。
情けない。それでも彼の妻となる女か。
「言葉そのままの意味。この世界は神様が作ったわけでもなく、元から存在していたわけでもない。レムや俺みたいな、普通の人の手によって創り出された世界だ。ってことだよ」
「ーーーー」
決して淡々と語っていい内容ではない事を神妙な顔つきで淡々と語るテンに、レムは麻痺した思考が完璧に処理落ちしたのを察する。今、完全に自分の頭は真っ白に染まった。
言ってる意味が全く分からない。本当に分からない。理解の範疇を軽々しく飛び越えている。否、飛び越えるなんて表現では生ぬるい。
言葉にしようがない無理解。そう表現するのが最も適していた。
「まぁ、その反応が当たり前か」
「あ……。ごめんなさい。受け止めると言ったのに」
「いいよ、大丈夫。レムにも分かるように、ちゃんと説明するから。謝らないで」
思考が停止したレムの姿に、テンはひどく優しい。自分の発言を簡単に理解してもらおうとは思っていない彼は、理解できない自分を咎めるようなレムの声を自分の声で打ち消した。
その反応が当たり前だろう。彼女は今、この世界の真理に足を踏み入れているのだから。説明しようのない真理を聞かされているのだから。
根拠のない事を真理と呼んでいいのかは曖昧だが、それでも本当のこと。だからテンは、全てを理解してもらおうとはせず、大まかな概要を理解してもらうために真理を紐解いていく。
「親が自分の子どもに読み聞かせてそうな
「小説ならいくつか。絵本は幼い頃に」
レムを置いて行かないように心がけるテンが、彼女の反応に「そうだよね」と頷く。全てを一気に話してしまうことも可能だが、それだと何も理解を得られないまま終わってしまうだろう。
一つ一つ、丁寧に、相槌を打つ。発する言葉を頭の中で整理する時間をレムに与えながら、テンは慎重に説明に説明を重ね続ける。途中途中で彼女が追いついているか確認しながら。
「それで、その絵本や小説の中には作者独特の世界が広がってるのは分かるよね? 例えば、絵本だったら……王子様がお姫様救い出す御伽話。剣や魔法、
「はい。分かります」
絵本や小説の数だけ物語は数多と存在し、その中に広がる世界もまた同じ数だけ存在している。そんな当たり前のことを確認するテンに、レムは頷くばかり。
熱心に聞く彼女は、聴覚を介して頭に流れ込んでくる情報を高速回転する思考で処理、整理し続けていた。彼の一番の理解者になってあげたい一心で、無理解を理解へと変えていく。
疑う心は、一欠片もなかった。
「その物語や世界は。こうしたら面白いかな、こんなものを創りたいな、とかの人間の思想や妄想、あるいは欲望が構想の種となって集約し、文字や絵に表現されることで完成するもの」
「人の考えが反映されるので、そう言えますね」
「うん。だから、そーゆーのは大凡の起承転結が書き始めた時から決まってるもの。多少のズレは生じても、筋書きはそこまで脱線はしないものと……そうであるべきだと、俺は
「その世界の設定もね」と、テンは繋げる。
思ってた——過去形なのがレムには少しばかり引っかかったが、それも含めて話してくれるだろうと簡単に片付けた。
今、それは頭の片隅に置いておく。そんなことよりも先に無理解を理解に至らせるのだ。最も優先すべき根拠なき事実を頭の中に叩き込み、無理矢理にでも自分の頭を納得させてみせる。
テンは自分の全てを受け止めて、その上で好きだと言ってくれた。醜いところも、情けないところも——自分が覆い隠してしまいたくなる
なら、自分だって。どんな事だって受け止めて、受け入れよう。他の誰もが戯言だと突っぱねることだって、真実であると信じよう。
今この瞬間、自分はソラノ・テンという存在に対する愛が試されているのだから。
「物語の舞台となる世界と、その世界観。その世界に生きる登場人物を含めた生きとし生けるもの。物語の主要人物一人一人の性別や性格、容姿、人間性、歩んできた人生。あるいはこれから歩む人生。そんで、物語そのものの道筋、運命、未来」
「ーーーー」
「それら全てが元から設定されている世界——それが、絵本や小説の世界。人間の手で……レムや俺みたいな、普通の人の手によって創り出された世界。神様が世界を作った、なんて神話すらも設定された世界」
話の内容が一番初めに戻ってきた気配に、レムが息を呑む。細かく説明されて咀嚼が可能になりつつある根拠なき事実に、言葉にできない恐怖がふつふつと湧き上がる。
彼の話を疑うつもりなど毛頭ない——毛頭ないからこそ、レムは不意に思ったのだ。なにもなかった空間にポンと音を立てて生じた疑問を、抱いてしまったのだ。
この世界が、絵本や小説のように全てが設定によって定められた世界と同じ世界ならば。その世界に生きる存在が、その事実を知るはずがなくて。自分のように、無理解なはずで。無理解が当然なはずで。
なら、どうしてテンはそれを知ってる。この世界に生きる全ての生物が知らないことを、自分の愛する人はどうして当然のように知っている。知らないのが普通なのに。普通で、あるべきなのに。
なら。それなら、
「そんな世界と、この世界は同じなんだよ」
彼は一体、
▲▽▲▽▲▽▲
割と、分かりやすい説明はできたと思う。
アニメの世界、テレビで放送していた世界。と表現するのではなく絵本や小説の世界と称したのは、悪くなかったとは思っている。自画自賛したいわけじゃないが、最もらしい言い方はできた。
ただ、信用してもらえるかどうかは別だろう。語った事は妄言にも程があると、自分で言ってて心底思うのだから。いくら、愛する人の言葉だからといっても限度というものがあるはず。
自分だったら絶対に信じない。というよりも相手にしない。「なに言ってんだ、コイツ」で済ませる。殆どの人間がそうするに決まってる。少数派の意見は多数派の意見に潰されるのが結末。
そんな小さな諦めは————。
「どうして、テンくんはそれを知っているんですか?」
「ーーーっ」
レムの目の前の存在に対する切なる疑問に、テンは言葉を失う。
この胸を一直線に突き抜けた衝撃を感じたのはきっと、その真面目な言葉が今の発言を端から端まで信じる事を大前提としていたから。
「どうか、されましたか?」
目を見開き、目の色を驚愕に染めるテンにレムは不安そうに尋ねる。なにか、自分は問いかけてはいけないことを問いかけてしまったのではと。聞いてはいけないことを、聞いてしまったのではと。
別々の理由で、緊張した空気に心を覆われる二人。不安に染まる瞳と驚愕に染まる瞳が小刻みに揺れる中、先に動いたのは驚愕色で彩られたテンだった。
「疑ったり、しないんだ」
「はい。しませんよ」
恐る恐るといったテンの声に、レムの声は刹那で合わさる。しつこい程に自分の信用を疑う彼に、彼女の対応は丁寧だった。否、彼も同じことを自分にしてくれたから、自分も彼にそうしているだけだ。
今の一言でレムの信用は十分すぎるほどに再確認できたテン。しかし彼は「そんなの……」と、胸に添えた手で服をくしゃりと握り潰しながら、
「だって、この世界が絵本とか小説の世界と同じだ……って、そんなの普通、信じれるわけないじゃん。証明する最もな証拠があるわけでもないし。第一、突拍子もないこと信じるなんて——」
「朝に話したことを、もうお忘れになられてしまったんですか?」
信じるなんて難しい。
そう言い終えるはずのテンの口は、レムの真剣な声によって止められる。正面、ゼロ距離、手の届く距離に座る彼女がテンの体に手を伸ばす。
伸びた両手は、胸ぐらを握り潰していたテンの手に触れると覆うように優しく包み込み、
「レムはテンくんを愛しているんですよ。そんな人の言葉を疑う余地なんてレムにはありません。なにを言われようとも信じます。明日、世界が滅ぶと語れば、それだって信じましょう」
「それは、突飛すぎる」
「テンくんのお話よりは突飛ではないと思いますよ? でも、それだけレムは本気ということを知ってほしくて。それとも、テンくんはレムの深愛を疑いますか?」
「そんなわけない……!」
煽るように問われた信頼の再確認への反応は情熱的で、刹那で反応したレムよりも早かった。条件反射と言っても過言でない速度の返答にレムは嬉しそうに、恥ずかしそうに笑う。
笑って。包んだ彼の手をその胸元から奪うとレム自身の胸元に当てながら、
「驚いたことは否定できません。突飛で、信じ難いと思ったことも事実です。けど、信じます。この世界がテンくんが語った絵本や小説の世界であると、レムは心の底から信じます。信じて、疑いません」
自分はすごい女性に愛されてしまったなと、テンはレムの覚悟に満ちた顔色を見ながら改めて思った。レムという女性の器の広さに、心が強く震える。
迷いの一切もなく言い切れる意志の強さには、いつものことながらに救われてしまう。最愛による微笑みに、一体どれだけ勇気づけられてきたことか。
レムの態度から嘘は感じられない。人を見る目に自信はないが、それくらいは感じ取れた。包み隠さず、正直に全てを話してくれているなら尚更。
自分は——この世界の真理を、あり得ない事実を信じるのだと。そうであると語ったテンの言葉を疑わないのだと。
だから、
「だから、テンくんのことも教えてください」
言い、包み込んだテンの右手と自身の右手を繋ぎ合わせるレムにテンは「俺のこと?」と小首を傾げ、「そうです」とレムは深く頷く。
恋人繋ぎで固く結ばれた二人の右手が、全てを聞くまで逃さないというレムの意志を静かに物語った。勿論、気付けないテンではない。
青色の双眼と視線を絡め続ける彼は、逃げない意思表示として左手を差し出す。直後、意志を汲み取ったレムの左手が動き、指と指が深く絡み合い、ぎゅっと繋がれる。
繋がれた左右の手と手。恐らく、話し合いが終わるまではずっと繋がれっぱなしだと両者が同じ考えを抱く中、レムは言葉を発するための酸素を軽く補給し、
「テンくんはどうして、この世界が絵本や小説の世界であると知っているんですか?」
湧いて当たり前の疑問を投げかける。
予想できたそれにテンが自分のことを全て話すための文章を頭の中で形成し続け、その間にもレムは言葉を畳み掛けた。
「変だと思ったんです。だって、その世界の住民は自分たちの住む世界がそんな、文字と絵で作られた世界だなんて、知るはずないじゃないですか。現に、レムも知りませんでした。いえ、知ってるわけがないんです」
言われなければ、誰一人として気付くことのない真理。否、真理であると言われても妄言、虚言、戯言の類であると一蹴りされてしまう根拠なき事実。
神話では、この世界は創世神が作ったとされている——それすらも文字通り『作り話』であるという驚愕の真実。
知りうる手段などありはしないそれを、どうして自分の恋人は知っているのだろうか。どれほどの叡智に溢れている人間ですら生涯を尽くしても辿り着けない真理を、どうして当然のように知っているのだろうか。
それはきっと、
「でも、テンくんは知っていた。この世界の誰もが知りえない真理を知っていた。それはつまり、テンくんがこの世界の人ではない……と、いうことになるのではないかと、レムは思ったんです」
鋭い考察に、テンの肩が一度だけ小さく跳ね上がる。この世界とは別の世界から連れてこられた自分の境遇、そのド真ん中を的確に射抜く正確性には舌を巻き、動揺が全身に色濃く浮かび上がった。
驚愕の事実を告げられて取り乱さない胆力も賞賛すべきだが、それ以上に冴え渡っている。
告げられてから、まだ五分と経っていない。にも関わらずレムはその言葉を信じ、更には語った人間の正体までもを予想したと。相変わらずテンの事となると途端に冴える女性だ。
尤も、本人的には正しいかどうかは正直なところ微妙だったが、その反応で答えは得たようなものだろう。「その上で、お聞きします」と、確信めいた風にレムは前置き、
「テンくん。貴方は一体———
ありえない真理を真実であると飲み込んだ彼女は、自分は既にその先まで辿り着いているとテンに言い放った。
繋いだ手を強く握りしめる彼女はより一層、全てを聞くまで逃さない意志を示している。合わせた視線を一秒たりとも外さず、彼と向き合う姿勢を高め続けた。
ここまで聞いたのだ。全てを聞かずしてこの話し合いを終えられるわけがないだろう。それに、これは彼の妻となる存在として絶対に知っておくべきこと。故に、隠し事は絶対の絶対に無し。
愛人の暗かった部分が明るみになりつつある状況に熱心になるレム。そんな彼女の視線にテンは「そうねぇ……」と斜め上を見上げ、言葉を作るための時間を稼ぐと、
「この世界とは別の世界の人。この世界を、小説や絵本の中にある一つの物語として外から観ていた人、読んでいた人。要は、この世界とはなんの関係もない人だよ」
特に飾ることもなく全てを打ち上けると、テンは斜め上に預けた視線をレムに戻す。見えたのは、自分で立てておきながらドンピシャであった仮説に驚愕しているレムの姿。
まさか、本当に正しいとはさぞ驚くことだろう。動揺する自分を表に出さんとしている様子は窺えるものの、少なからず漏れるものはあったようで。
寸分の狂いもなくともなれば、彼女が受けた衝撃は計り知れない。その動揺を抑えられないのも納得がいく。
それでも、テンは言葉を続けた。
「だから、この世界が『物語の世界』だと知れたんだ。前の世界からこの世界に飛ばされたあの日、この屋敷に連れて来られて、レムやエミリア……その物語の登場人物と出会って。そうなんだな、って」
今となっては懐かしい記憶。
太陽の光が眩しくて目を閉じ、次に目を開けたら何故か森の中にいたという意味不明な事態から色々とあってロズワールに拾われ、目を覚ましたら彼女達と出会った日のこと。
ビビり散らかしていた気がする。異世界召喚、それもアニメの世界に理由も分からず飛ばされて、心の底から震えてもいた。その上から重ねるような彼女達との邂逅があったお陰で、悪い夢か何かだと疑ったほどに。
「前の、世界……? それは、テンくんが仰った別の世界と同じ世界のことですか? というより、その世界とはなんですか?」
衝撃的な事実を告げられながらも、レムは冷静だった。動揺する心をひたすら制する彼女は、衝撃の余韻を抑え込みながら疑問の一端を投げかける。
今はただ、テンの語ったことを真正面から受け入れて疑問を声にすることが先決。分からないことだらけだから、話が進むのと比例して増え続ける疑問を一つ一つ解消していくしかない。
無理解を理解に至らせるために。レムの思考回路は熱を帯びて高速回転していく。全ては、テンの一番の理解者になるため。
「異世界。って言われて、分かる?」
そんな気概のレムに返されたのは、全く馴染みのない単語。言ったこと聞いたこともない、生まれて初めて鼓膜を震わせた音。
こればかりは本当の本当に無理解なレム。自分一人の力では理解に至らない彼女は「イセカイ?」と、あどけない表情で頭の上に困惑の疑問符を浮かび上がらせる。
「
「別の世界で、異世界………」
「そう。この世界とは、全く別の世界」
テンのざっくりとした説明を受け、口の中で音の感触を確かめるようにレムが反芻する。イセカイ、とイントネーションすら曖昧な単語を未知のモノであると受け入れて。
身元不明だとは初期の段階で周知ことだったが。なるほど、どうりでどれほどの時間を費やして素性を洗おうとも何一つとして進歩がなかったわけだ。
この世界とは別の人間だから、彼に関するものが浮かんでこなかったとなれば納得がいく。否、もしかすると『彼ら』かもしれない。
つまり、だ。
「ということは、テンくんは大瀑布の向こう側から来た人間。ということでよろしいですか?」
「だいばくふ?」
レムなりに解釈した結果として口から出た全く聞き覚えのない単語に、今度はテンが頭の上に疑問符を浮かべることになる。
聞き覚えない——これに関しては本当に聞き覚えのない言葉。原作知識が有るとはいえ、隅から隅まで暗記できるような立派な頭脳をテンは持っていない。初めて聞いた
瀑布というのだから、滝か何かなのだろうか。地球平面説的な感じで世界の端っこは滝で、そこから落ちたら死ぬみたいな風な考え方で固定されているのかもしれない。
否、
「違う、そうじゃない。そんなのとは別物だよ。えっと、なんて説明したらいいのかな……。次元が違うと言うべきか、この世界を一つの『個』とすると、俺がいた世界も『個』として存在してるわけで、全く別々の世界なんだよ。物語の外側にある世界なんだよ」
「それを大瀑布の彼方と、この世界では言うのですよ。テンくん達の世界……この世界を物語として読んでいた世界ではこちらの世界を異世界と呼ぶそうですけど、レム達の場合はそう呼びます」
「そちら側の世界で、この世界が絵本や小説の類として描かれていたとは思いませんでしたが」と、レムは納得したように語るが、テンは上手く説明できない自分に己の内側でむず痒さを感じていた。
あちら側とか、こちら側とかの話ではないのだ。テンが説明しようとしているのはそういう次元ではないのだ。三次元の世界から二次元の世界に飛ばされた、ということを説明したいのだ。
確かにそうだ。自分の出身はこの世界とは全く別の世界——異世界だ。が、次元の違う異世界ということがどうしても上手く言えない。
この説明ではつまり、テンは大瀑布の彼方からこの世界にやってきたという結論に着地するが。それはあくまで物語の設定上での表現方法であって、テンはその設定を超越する存在であることを忘れてはならない。
大瀑布の向こう側からやってきた異世界人、という設定にテンは収まっていないのだから。設定という言葉が彼には当てはまらない。設定の外側から、彼はやってきたのだから。
色々と矛盾が生じる。説明のつかない矛盾が。
これは、説明は困難を極めているのではないかとテンは思う。三次元と二次元の壁を貫通してこの世界に飛ばされた事実を完璧に説明することなど、理解してもらうことなどできないのでは。
詰まるところ、お手上げ状態。説明するテン自身も頭の中がこんがらがってきた。
「因みに、大瀑布とは?」
「世界の果てにある水際のことです。その彼方を、大瀑布の彼方と言います」
「なるほど」
「大瀑布は、龍以外は渡れないとされる此方と彼方の、その境。彼方に何があるのか知るものはおらず、テンくんが語る世界が存在していても不思議とは言えないんです」
「なる……ほど」
淡々と語ってくれた内容に納得の言葉をテンは呟く。決して真に納得したわけではない、説明が困難を極めると悟ったために、この世界の設定に則っている。
事を着地させる方法が、それしか思いつかない。
自分の立場を説明するのがこんなに難しいとは思わなかった。異世界は異世界でも、この世界を創造した異世界——それを説明するのに頭が破裂しそうな勢い。
この世界を作った存在の住む異世界が大瀑布の彼方に存在しているなど、もはや神の領域。創世神の住処が彼方には存在していると語るようなものだ。
それこそ、物語の世界ではないか。
「えっと……。つまり俺は、その大瀑布の彼方からやってきた人。ということになるの?」
「はい。……違うのですか?」
「……うん、そんな感じかな」
結論づけるレムが事を着地させにかかり、便乗するテンが微妙な顔をしながらも頷く。
正確には、というか大きくテンの意図した内容と食い違ってしまう理解だ。とはいえ、テンがここで滾々と『異世界』と大瀑布の違いを説いても、事態に改善は見られない可能性が高い。
レムが納得してくれているなら、それでいい。設定の外側の世界、この世界を作り出した世界、それすらも大瀑布の彼方に存在する世界と括ってしまえば、話は簡単に片がつく。
おかしな話で、矛盾しかしていないが。問題はそこではないのだから。
「ええと……」と頭の中を整理するレム。少量ながらに濃すぎる情報の一つ一つを綺麗に揃える彼女は軽く吐息し、
「今までのお話をまとめると。この世界は絵本や小説の世界……万事が設定によって定められた世界と同一であり、テンくんはそれを異世界で読んでいた人。だから、この世界の真理を知ることができた。ということでよろしいですか?」
重要な部分のみを抜粋した整理にテンは「まぁ、そーゆーことになるね」と一言。妄言の類であると言われても仕方ない羅列を口にしたレムは、簡単な反応を受け取ると「ふっ」と微笑み、
「分かりました。信じます」
躊躇も戸惑いもなく、受け止めたと言い切った。
その発言にテンがどれだけ驚いたか、レムは知っているだろうか。世界の誰もが相手にしない語りを受け入れてくれたレムに、テンの心がどれだけ軽くなったか、レムは知っているだろうか。
理由も、根拠も求めない。ただ信頼しているだけで全てを疑念なく丸ごと信じる。そんな真っ直ぐで純粋な深愛がどれほどの安心感を抱かせるのか、テンはひしひしと実感している。
「本当に? 大した説明もできてないのに?」
「構いませんよ。大事なところさえ明快にしてくだされば、細部までは問い詰めません。理由がなくても、根拠がなくても、レムは信じます。信じ続けます」
繋がれた手をにぎにぎしながら優しい声で、優しい表情で語る。不十分すぎる己の説明に不安そうな表情を顔に浮かべる声色を安心させるよう、彼女は動いた。
信じよう。世界中が笑い飛ばしたって、自分だけは信じよう。自分だけは、何があろうとも彼の味方で在ろう。彼も、そうやって自分を救ってくれたから。
だから疑ったりはしない。言葉をそのまま受け止めて、受け入れよう。
それが、テンに全幅の信頼を預けたレムの終わりのない信だ。添い遂げると誓った相手へ贈る、果てのない愛だ。
「それに、本当に話したいことがまだ残っているんですよね?」
想いを伝え、レムは話を始めへと立ち戻らせる。今までに話したことは、本題に入るための前段階であることを彼女は頭の片隅で意識していた。
この衝撃的なお話が前段階とは。果たして、彼が真に話したいことは何なのか。見当もつかない。レム自身に関わる事というのは分かるが、それ以上は不透明。
だから、
「今のお話が、テンくんが拘っていた事と、どう繋がるんですか」
続けざまにレムは言い、本題へと滑らかに入った。準備が整ったのならば、今すぐにでも本題に入ろう。若干、前屈みになったのはその意思表示。
不透明なことを透明に。無理解なことを理解に。彼のことを知れた今、自分にはそれを最後までやり遂げる責任があるのだ。聞いた者として、引き下がることはしない。
勿論、テンも同じだと言える。聞かせた者として、レムには最後まで聞かせる責任があるのだ。それに、中途半端に終わらせるつもりなど
ゆっくりと、テンは閉じた口を開き、
「なんで俺が、この世界が小説や絵本の世界だと話したかって。それは、俺がその物語の道筋を知ってるから……なんだよね。俺がいない本来の物語を、俺は知ってる」
「勿論、全部を知ってるわけじゃないんだけどさ」と、テンは言い難そうに語る。それはつまり、この世界の出来事——未来を知っていることになると不意にレムは気付き、はっとした。
ソラノ・テンという存在は、この世界で引き起こされる事態を物語として読んでいる。この世界ではない異世界で、自分や姉などの人物が登場する物語を文字として読んでいる。
実に馬鹿げた話だが、今になって嘘をつくような彼ではないだろう。
——ソラノ・テンは、未来を
物語を外から読んでいた人。その意味がたった今、真に理解できた。この世界とはなんの関係のない人と言った意味が、やっと飲み込めた。
彼、ソラノ・テンという存在は、本来の物語にはいるはずのない存在であると。
「その中には、レムの存在もあってさ。いや、レムだけじゃない。ラムもエミリアも、この屋敷にいるみんなの存在も、アーラム村に住む人達の存在もあってさ」
「物語の中に……レムが?」
想像もできない物語上の自分に、レムの声色に初めて困惑が混じる。彼が、
その自分は、一体どんな女の子だったのだろう。そんなことを思うレムの目が途端に興味そうに聞き入ると、テンはその顔に影を作りながら「うん」と頷き、
「それとは別に、物語の主人公となる人もいてね。あれだよ。物語の中心となって動く人。そんな人がロズワール邸の人達と一緒にいる機会が、物語の一部にあってさ」
いつの話を語っているのだろう、分からない。分からないけど、その主人公とやらは、自分が顔も名前も知らない人なのは分かる。
でも、だからなんなのだろうか。主人公が自分達と交流するから、何があると言いたいのかレムは分からない。
「初めは、レムはその主人公のことが大嫌いだったんだよ。それはもう、殺意を抱くほどに」
そうなのか。
何があったのかは知らないが、自分が殺意を抱くほどの人間ともなれば並の人間ではないのだろう。この世界の主人公に興味などないが、そういった意味では興味があるかもしれない。
でも、だからなんなのだろうか。自分が大嫌いなのに、どうしてその名を出したのか。まだ、レムにはテンの言いたいことが分からな————。
初めは、レムはその主人公のことが大嫌いだったんだよ。
初めは、レムはその主人公のことが大嫌い
初めは、レムはその主人公
初めは、レムは
初めは、
ーー初めは。
待て。
「でもね、一つの出来事をきっかけに、レムとその主人公の男の子はとても仲良くなるんだ」
違う。
「仲良くなって、レムはその主人公に救われて。そう、俺がレムを過去から救ったように、主人公はレムを過去から救って」
そんなわけない。
自分が愛するのはこの世界でただ一人。ソラノ・テン、その名を宿した存在だけだ。
けれど。もし、この世界に彼という異分子が紛れ込まなければ、彼の言う通りに未来が決まるのなら。
自分は、その人のことを————。
「ここまで言えば。物語のレムがどうなるか、レムなら分かるよね」
違う。違う。違う。
自分は違う。そんな未来など違う。物語の自分と、この自分は違う。
何が道筋だ。何が運命だ。何が未来だ。今の自分がそんな
違うから、
「本当なら、レムは——その主人公のことを好きになるんだよ。それが、本来の物語が辿るべき道筋なんだ。道筋、だったんだ」
疑うことのない声を、レムは初めて疑った。