一章に入る前、最後のお話。
このお話を読む前に、38話『すーぱー思考たいむ』の最後の方をチラッと読み返すといいかも。場面としては、ロズワールがテンと話し終えて独り言を呟くシーンです。
読んだ方が、このお話についてこれます。読まなくてもついて来れるように書いたので判断は任せますが、三十秒程度で読めるので個人的には読むことを強く推奨します。
月下、夜も深まった世界。
生きる存在の半分以上が眠りにつく中で、その二人は起きていた。屋敷の人間のほとんどが夢の世界に意識を旅立たせた中で、その二人は起きていた。
場所はロズワール邸最上階、中央。屋敷の主の部屋。そこで夜の密談が行われるとき、部屋に存在する顔ぶれは決まって同じ男女だ。
「——星々の加護あれ」
扉の開く僅かな音ですら強く反響する静寂に男性の低い声帯が響く。柔らかく聞こえる反面、どこか執着心に塗れてねっとりとした気味の悪さを孕んだ耳につく声。
今の言葉は、声の主にとっては一つの詠唱のようなものだった。主の呼び声に呼応した四属性のマナが男のゲートから体外へと放出し、我先にと目的へと向かい出す。
赤、青、緑、黄。一つ一つが属性を宿す四色のマナがゲートから流れると、まるで主の腕を蛇のように伝いながら伸びた人差し指へと這い進み。淡い光を纏うそれらが一本の指先に集まった途端、四色の光は一色——純白の光へと変化を遂げた。
属性の複合。それが今、男が平然とやってのけた現象の名。単体で使用する属性を一つに混ぜ合わせることで方向性の違うそれらを一つにまとめ、質を別物に変化させる技術。
非常に緻密な制御が要求される技術が故に、熟練の魔導師ですら極めて困難とされる匠の領域だ。卓越した能力と
各属性のマナの配分が均一でない限り、混ぜ合わせられたマナは偏った属性に力を宿してしまう。全ての色が同じ量でなければ、綺麗な白色は生まれない。どれか一つでも量が違えば、マナは暴発する。
普通の人間には到底不可能なそれを、しかし男は軽々しくやってのけていた。周囲があっと驚く事を息をするように。
特別なことは何もしていない。己の技量のみで複合させた。ただ、それだけ。
そんな『まぜるな危険』を類稀な技量だけで乗り越えることができる化け物じみた天才魔導師など、もはやこの世界には一人しかいない。
四色のマナを束にし、一色の純白に変貌させ、指先に集中させているのはロズワールだった。この世界有数の魔法の使い手である、宮廷筆頭魔導師。男二人を毎日のように笑顔で半殺しにしていた変態鬼畜魔導師。
魔導師の頂点に君臨する男は今、膝上に座る少女に意識を注ぐ真っ最中であった。少女の額に残るかすかな白い傷跡に指差し指を当て、純白のマナを流し込んでいる。
——マナの移譲をしているのだ。
「あっ……、んっ」
ロズワールの膝に座り、与えられるマナに艶のある声を鳴らすのは頬の紅潮したラムだった。他人には決して分かり得ない快感に息が弾み、握った拳に力が入る。
己と、己の妹以外の全てが滅んだ日。あの炎の夜に角を失ったラムにとって、この時間は自分の生命を維持するための絶対条件だった。
角を失うことは種族的な堕落を意味するが、それよりも重大なことがある。
本来ならば鬼族の額にある角は大気中に漂うマナの吸収、放出をするための窓口として機能している。ゲートに近しいそれは、物理的に存在しているゲートと形容してもいい。
それを失うことが何を意味するか。生命を維持するために取り込まなければならないマナの量、外に発散しなければならないマナの量、どちらのマナの量も必要な水準をラムは満たせないことになる。
そのまま放置すれば、彼女は己の肉体が朽ちていくのを苦痛と共に見ていることしかできず、最後には命尽きるだろう。
故に、ロズワールにマナを移譲してもらうこの時間が生命を維持するための絶対条件。こうして夜の密会が行われるのも、そのため。
その度に、ラムは清楚な形を崩して矯声を上げる。
「んぁ……っ」
「やっぱり、いつ聞いても目にも耳にも毒な光景だぁね」
膝下で喘ぐラムにロズワールは小さく苦笑。男二人が今の彼女を見たらどんな反応をしてくれるか、なんて冗談な事を考える彼をラムは媚びるような上目遣いで見ると、
「常日頃からそう思ってくださるのでしたら、手を出していただいても」
「娘に手を出す父親がどこにいるんだい? 実の娘というわけじゃーぁないけぇど、娘同然の相手に欲情するなぁんてことがあればテン君に、変態鬼畜魔導師の真骨頂ですか? って言われそうだし」
ラムのねだるような誘惑を右から左へ受け流し、ロズワールはマナを注ぎ続ける。
外から体の内側へと流れ続ける温もりに全身に活気が漲り、日頃から背にのしかかる倦怠感が軽減される心地よさを感じながら、ラムはふと思ったことがあった。
「そういえば……。ロズワール様」
「なんだい?」
「テンテンのゲートの話は、あれからどうなったのですか」
テンの名前がロズワールの口から出て思った。どうして思ったのかは定かではないが、思った途端から変に気になってしまったラム。彼女は少しばかり食い気味に話の意向を握る主人に問いかける。
テンのゲートの話とは。平たく説明すると、少し前にあった惨劇で色々と頑張り過ぎたことでゲートが損傷。魔法も満足に扱えない状態になった彼はまともに戦うこともできず、ゲートの回復は何ヶ月も先になるから、対価を支払って大陸最高峰の治癒術師の力を借りることにした事。
もうすぐ、安静期間の一ヶ月が終わる。数週間前に「今月いっぱいは大人しくしてろ」と言った「今月」があと数日で終わる。
それだけの時間があったのなら、ロズワールは何かしらの行動を起こしているとラムは考え。そんな期待を向けられたロズワールは「うんっ」と自慢げに鼻を鳴らし、
「数日前に親書を出してねぇ。既に相手方からの返事は届いているよ。来月の頭にフェリックス・アーガイルを含めた使者が二人、こちらに来るそうだ。まぁ、話し合いの場を設けたと言ったところかなぁ」
「明日、他の人たちにも伝えるつもりだよ」と口を閉じるロズワールにラムは「そうですか。ありがとうございます」とだけ。それ以上の言葉は生まず、意図せず緩む唇をさっと引き締める。
自分達の知らないところで働いていた主人には感謝しかないし、向こうがこちらに応じてくれたことにも感謝。けど一番はテンのゲートが、健やかな日々が守られることに対する安心感。
大事な場面で彼に任せっぱなしになってしまった。自分と妹の命を守るために満身創痍で死地に飛び込ませてしまった。結果として、今のテンが在る。
あの夜のことは、ラムなりに責任を感じているのだ。励ますことしかできなくて、信じることしかできなくて、喉元にあった『いかないで』を言うことができなかったから。
あの時、引き留めていればこうはならなかったかもしれない。もっと良い方法はあったかもしれない。考えたところで無意味なたらればばかりが頭の中を暴れ回る。
だからかもしれない。今、唇が緩みかけたのは。心の中にずっとあった不安が取り除かれたから、なのかもしれない。
「……話し合いの場にはラム達も?」
主人の前だ、変な顔は見せれない。未だ継続して流れ続けるマナに頬を赤くしながらも澄まし顔を保とうと努めるラムは、そう言うと小首を傾げる。
この会談はただの会談じゃない。王選候補者という存在を持つ陣営と陣営の会談だ。気軽に聞いていい内容ではないことくらい誰だって分かること。一使用人が参加してどうにかなるものではない。
主人が不在ならば話は別だが。幸いなことに主人が招いた客。招いた人間が話し合いに参加しないなど御法度、礼儀知らずも甚だしいと思われてしまう。
だから
対して「そうねぇ……」と悩む素振りを声として表現するロズワールの意見は、
「一応、レムとラムにも同席してもらおうかなぁ。間接的にとはいえ君たちにも関係することだ。エミリア様と私を含めた四人で話し合いに臨もう」
「ロズワール様がそう仰るのでしたら。テンテンと脳筋は?」
「ハヤト君は通常通りの仕事を。テン君は……話し合いが終わるまでは玄関の外に締め出しておいて。彼、今回の件については心の奥底では絶対に納得してなーぁいはずだから」
「この言い方だと、テン君が犬のように感じるねぇ」と、ロズワールはくつくつ笑いながら楽しそうに語る。
ハヤトと違って場と立場は弁えられるテンだとしても、何かしらの行動は起こすはずだと踏んだ。彼はああ見えて、動く時は大胆に動く男だということをロズワールは知っている。
締め出しておいて、と。ロズワールの言ったように、犬のような雑な扱いを受けるテンに思うところはあったが、それはそれで面白そうだと思うラムは「承知しました」と一言だけ。
否定も肯定もしない。付き従うのみ。
「いや、彼の場合は犬ではなく狼……。それも、単体で大物を仕留める一匹狼。飼い主に従順な
小さく口を動かしたロズワールが不穏な発言をしたと同時に人差し指から純白の光が消える。途端、体の中に流れていた温かい感覚が止まり、急に肌寒さをラムは感じた。
本日のマナ移譲終了。乾いていた己の内側が潤った感覚を察すると、ラムは名残惜しい感情を表に露出させながらロズワールの膝の上から床に降りる。
身を回し、振り向く彼女の前でロズワールは組んだ足の上に手を置きながら、
「なぁんにせよ、これからは色々と忙しくなる。使用人四人共々に精進するよーぉにね」
「仰せのままに」
スカートの端を摘まみ、その場で軽く膝を折って小さくお辞儀。板についた忠義を受けるとロズワールは満足げに「うんっ」と喉を鳴らして「今日はもういいよ。おやすみ」と彼女を下がらせた。
ロズワールに命じられたら、それがどんなことであっても逆らうことなく従うのがラムという従順なメイド。「では、失礼致します」と頭を下げる彼女はロズワールに背を向けて歩き始める。
特に話すことはない。否、それ以前に「下がれ」と言われたら下がる。主の命はラムの中では絶対的なものなのだ。数秒と経たずに扉の前に到着し、取っ手に手をかけ、扉を————、
ーー空白の彼が。
寸前。
心の中で、つい先ほどロズワールが発した言葉が強く反響する。外側から聞こえたものではないそれは間違えなく記憶が再生させた不穏を意味する音声。
知らないから不穏だと思っているのではない。知っているから不穏だと思ったのだ。
空白の彼——その意味をラムは知っている。屋敷で唯一ロズワールの本性を知るラムだけが、ロズワールから異様な事実を聞かされている。実際に見たわけではないけれど、彼の言葉を信用しないラムではない。
それは、ラムにとって大きな悩みの種。
「………ロズワール様」
心に生じた一抹の不安にラムがその名を呼びながら振り返る。退出命令を断ち切ってまで彼女は取っ手から手を離し、椅子に座りながらこちらを眺める主人に歩み寄る。
名前を呼んだ声は、先のような矯声の余韻に浸る声とはまるで違う。平常心で覆い隠した動揺が含まれた深刻そうな声だった。
毅然という名の仮面を被りながらロズワールに一歩ずつ近づき、三歩手前で足を止めた彼女は明らかに態度を一変させている。一直線に彼を見つめる目の色が明らかに変わった。
「なんだい?」
気丈夫で、基本的に何事にも動揺しない彼女の珍しい姿にロズワールは目を細めながら問う。一変する予兆も気配も予感もなく、何が彼女の心を揺らしたのか全く見当もつかなかった。
踵を返したことを咎められなかったことに安堵。それからラムは生じた負感情の一切を断ち切りながら背筋を伸ばすと、
「少し、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「内容にもよるが……構わないよ」
訝しむロズワールが若干渋りながらも許可を出す。執務机に両肘を立てながら手を組む彼は、顔色と目の色を変えた順応なメイドの瞳を真意を覗き込むような風に見つめた。
何を問われる。分からない。そもそもどうして一変した経緯が不明だから分かることも分からない。結局は彼女が胸に秘めた問いを投げかけてこなければ話は何も進まないが、
「——あれから、記述に変化はありませんか」
瞬間。
ロズワールの目の色が変わった。普段から感情の読み取りが困難なオッドアイが疑心の範囲を抜けると、猛烈な執念を孕んだドス黒い本性が瞳の裏側から顔を出す。
まるで、問われた事に対して心の奥底に巣食う何百年とドス黒く輝き続けた『ロズワール』という人間の本性が押し出てきたような雰囲気だ。
この時、ラムは部屋の温度が低下したと錯覚していた。実際に低下したわけでもないのにそう錯覚したのは多分、部屋の主の温度が下がったから。
ラムが雰囲気を一変させたように、ロズワールもまたこの瞬間から雰囲気を一変させる。互いに踏み込んだことを話し出す気になると、その雰囲気は一層のこと尖るばかり。
「………ほぅ」
三日月のような笑みを不気味に浮かべるロズワールは、彼女の問いに意外だとでも言いたげに低く息を吐く。珍しいこともあるものだと思いながら「ふっ」と小さく笑い、
「君が自ら記述に触れてくるとはねぇ。
「浅い関係だと言えば嘘になります。それだけの関係性を築いてきたと、ラムは思っていますので」
首を傾げながら揶揄ってくるロズワールにラムは淡々としている。変に誤魔化す必要もない、というよりも誤魔化したところですぐに見破られるだろう。彼もまた、その関係を見てきた一人なのだから。
ロズワールが『彼』と形容しただけで話の中心に誰を置いているのか理解しているラムの様子から察するに、二人の間では既に情報の共有はされているらしい。その名を出さずとも理解が通っている。
だからロズワールは余計に笑う。自分以外の人間にラムが懐くことなんてあったのか、と。自分と違って彼女に
彼女が退出命令を無視してまで聞いてきたことだ。なら、その事実を教えた人間として答える義務はあるだろう。そんな風にロズワールは「いいや」と首を横に振り、
「現段階では、特に目立った変化はないねぇ。依然として名前だけが『空白』なまま。それ以外は何も変わりはない。記述が変わるような目立った状況にもなっていない。
「どうしてなんだろうねぇ」とロズワールは億劫そうに首を横に振る。生きてきた中で直面したことのない問題と向き合わされる男の顔は妙に疲れ切って、いつもの道化さが薄れた人間味のあるものだった。
この事実に触れるとき、この男は必ずと言っていいほどに疲れた顔をする。「彼は一体、
主人を前に目を細めるラム自身、どうしてなのだろうと心底思う。どうして彼なんだろうと心底思う。そんな事はあり得ない、あり得てはいけないと強く聞かされている。なのに、どうして。
どうして、
「どうして————テン君の名だけが、
椅子に深く腰掛け、腕を組みながらロズワールは今宵の月を仰ぐ。オッドアイが見つめる月に彼はどんな思いを抱いているのか、不気味なまでに真面目な彼の横顔を見るラムには分からない。
テンがお屋敷に来た頃から、この事実は主人によって発覚していた。彼が命よりも大切に扱う『黒い本』——過去、現在、未来、それらを含めた森羅万象を知る世界の記憶が書き記される本。
その本に、『ソラノ・テン』の五文字がどこにも記されていないことを。ロズワールが同じく運んできたカンザキ・ハヤトの名は記されているのにも関わらず。
記されていない、という表現は少し誤りがあるかもしれない。正確には、名前が記されてる場所だけが全て『空白』なのだ。ハヤトの隣に在るはずの名前が、真っ白になっている。
ソラノ・テンと記されて在るであろう部分。その一部分の名前だけが、まるで何者かによって消されたか、あるいは抜き取られたように空白に染まっている。
「名が記された形跡……いや、記されようとした形跡はある。実際に彼の名が当てはまる空間は設けられている。………のに、名だけが記されていない」
おかしなことだと思う。
名前が空白だなんて現象、その本と付き合いの長いロズワールですら見たことがない。もしかして、彼は存在していない存在として世界に認知されてるとか。それなら、ハヤトはどうなるのだろう。
実のところ、テンとハヤトを森から運んできたのには明確な理由がある。単に森で倒れていたから、という理由ではない。もちろん、武力の持たないドラゴンと戦う力があったからでも。
ロズワールが二人の下に向かう数分前、その本の記述に突如として新たな内容が書き出されたのだ。突発的なことに、さしものロズワールもあの時は驚嘆し、震え上がった。
書き出された内容——それが、カンザキ・ハヤトの名と
予想だにしていなかった事態に対し、ロズワールが選択したのは始末ではなく監視。名前が空白というだけで記述に障りはないと判断し、彼を危険人物として目の届く範囲に置いた。
これが、テンとハヤトがロズワール邸に運ばれた経緯。名前が『空白』という形で記されているソラノ・テンと、そんな彼と違って普通に名前が記されているカンザキ・ハヤトが、エミリア陣営に馴染んでしまったお話の始まり。
「まぁ……あれほどの力を宿していたのは偶然の産物だったと言うべきか。『空白』に怯えた私に対する福音と言うべきか」
いつの間にか顔から道化が抜けたロズワールが感慨深そうに呟く。心の声を続けたような文脈の欠片もない独り言を、ラムは黙って聞いているだけ。
「いい
屋敷に運んでからの処遇に騎士を選んだのは英断だったかもしれない。監視下に置く上でとりあえずの立場を与えようと検討したことが、男二人の秘められた力を輝かせることになったのだから。
お陰様でロズワールにとっての心強い手札となった。自分の鍛錬を生き抜いてきた今の彼らならば、外の世界に出しても何も恥ずかしくない実力者として扱われるだろう。
まさか、本気の自分を追い込むほどにまで成長されるとは思わなかったが。それもまた一興。
実力的な面だけではない。あの二人が屋敷に来てくれたおかげで、エミリア陣営の雰囲気が以前よりも遥かに良いものになっていることも忘れてはならない。
テンとハヤトの人間性に感化した自分達が、明らかに一つにまとまりつつあることをロズワールは薄々だが勘付いている。事実として、彼はテンに対しての意識が改められようとしていた。
警戒すべき対象から、そうではない対象へ。名前が空白というだけで、今のところ記述がブレるような目立った事件もない。捉え方を変えれば、空白という形で記されていると言えなくもないし。
なら、深く警戒する必要はないのではないか。
「警戒する必要はない……ね。どうやら、この私も二人に感化されてしまっているようだ。名前が空白などというあり得ない存在を許そうとしているだなんて。良くない風に当たりすぎている」
くはっ、と。
思わずといった具合でロズワールは失笑。得体の知れない化け物を相手にしているのに、どうして自分はこんなにも落ち着いていられるのか不思議だった。
多分、テンとハヤトの二人が巻き起こす風に影響されすぎているのだと思う。先生と教え子という関係が、自分の心に良くない方向で影響を与えてしまっているのだと思う。
全くもって、厄介なものだ。
「——ラム」
独り言が着地したロズワールが、不意に仰いでいた月から視線を逸らすとラムの名を呼ぶ。「はい」と姿勢を正した彼女に短く返されると、
「今一度、ソラノ・テンに対する捉え方を確認しよう。大事なことだからよく聞きなさい」
「はい」
優しげな声で、けれど態度はいつになく真剣なロズワール。いつもの雰囲気が抜け切った彼は組んだ足の上に手を乗せ、三歩先にいる真剣そのものなラムを一直線に見つめながら、
「彼については、現時点では様子見。記述と逸れるような事態にはなっていないからねぇ。空白の彼が在ったとしても、彼とハヤト君が来てからこれまでの記述と逸れたわけでもないし」
彼の存在が如何なる事態を引き起こすか定かではない事を考えると、その方がいいかもしれないというのがロズワールの見解。
下手に刺激すると何が起こるか分からないから、目立った変化があるまでは引き続き警戒を続ける。要するに、危険な橋は渡らない。
「勿論。今すぐに彼を始末して異分子を取り除く——その選択肢も一つとして有るが………それはあまりにも危険すぎる。安易に手を出すべきではない。それこそ、記述を変えかねない」
断言した瞬間、ラムの雰囲気がどこか柔らかくなったような気がロズワールにはした。表情や態度、主人に向けられる全てに乱れはないけれど、裏ではほっとしているのだろうか。
知らぬ間に警戒対象と親密な関係になっていたラムにロズワールは「ふっ」と皮肉な笑みを一つ。
彼女だけに向けられたものではないそれを浮かべたのは、ロズワールがテンを殺すことを渋った理由が目の前にあるからだ。
「我々は、彼と親しくなり過ぎてしまった。ソラノ・テンは、エミリア陣営にひどく馴染み過ぎてしまった。——その生死が、未来を変えてしまうほどに」
始末対象に成りうる存在と親しくなりすぎるとは、自分でも馬鹿な真似をしてしまったとロズワールはこの数ヶ月間を振り返る。不覚にも彼と話す時間が楽しいと感じてしまう、そんな自分が嫌になる。
危険な存在など手っ取り早く始末するのが最も簡単で単純な解決策。しかし、それをするにはソラノ・テンはエミリア陣営に馴染みすぎた。彼は、この陣営にとっては必要不可欠な存在に成ってしまった。
どうしてテンの生死が記述された未来を変える事につながるのか。
そんなもの、単純だ。
「彼が死ねば、彼にご執心なエミリア様の心はひどく傷つき、立ち直ることは困難だろう。あれだけの関係性を築いた親しい男が自分の下から永久に消えるとなれば、自暴自棄になっても何ら不思議じゃない」
語るロズワールと、語りを聞くラムの脳裏に過ぎるのはテンが深い眠りについていた時のエミリアの姿。今にも泣いてしまいそうで、魂から活力が抜けて、勉学にも全く身が入らなかった痛ましい姿。
約一週間、深い眠りについただけであの荒れ様。永久の眠りについたとなれば彼女の精神は崩れて壊れて、テンの温かさでしか治せないそれは二度と元の形に戻ることはなく。
「そのまま王選すらも投げ出しかねない。誰がどう説得しようがね。そうなれば必然的に記述と大きく逸れた未来に進路が変わり、本来の目的すらも達成することが不可能になるというわけだ」
エミリアが王選を投げ出したその瞬間、ロズワールの目的は頓挫し、彼とラムの間で交わされた契約は履行される。それはつまり、ロズワール・L・メイザースという人間の終止符を意味している。
故に、テンは
「エミリア様に限った話ではない。エミリア様のお傍に従く
果たして、テンが死んだら彼女は悲しんでくれるのだろうか。少しは暗い顔を見せてくれるといいな、なんてことを思いながら「ともかく」とロズワールは咳払い。
「彼の死に耐えられる人間がエミリア陣営に存在しないのは事実。絶望の度合いこそ違えど、深く気落ちするのは目に見えている。この私でさえも、ね」
自分で言ってて変だと思った。けれど、そんな予感がしてならなかった。
テンの死は、それ程までにエミリア陣営にとって痛手。立ち直るまでには相当の時間を使い、王選などどうでもよくなってしまうほどの絶望を受ける人がいる。
最悪、人生すら投げ出しそうな人をロズワールは二人も知っている。テンのことが好きで好きで仕方ない青髪の少女と、無意識に大好きだと想っている銀髪の少女。
その二人を、知っている。
「君もだ、ラム。君は、テン君の死に耐えられるかい? もう二度と彼の声が聞けなくなる……そんな事になったとして、君は普段通りの生活を送ることができるかい?」
問いかけ、ロズワールはラムに小首を傾げる。聞くまでもない事を聞かれたラムは言葉を紡ぐ挙動を何度か見せるものの、しかし心の想いが声となって形になることはない。
わざわざ言わせるのは無粋というもの。その沈黙を肯定と見做したロズワールは「それに」と頷き、
「並外れた精神力を宿すハヤト君も彼の死には容易く折れるだろう。付き合いの長く、絆が深い親友が死んだとなれば、流石の彼にも堪え難いものがあるはずだ」
カンザキ・ハヤトは仲間思いの優しい男。友人から助けを求められれば損得関係なしに手を差し伸べるほどに。そんな男が世界で唯一の親友を失ったとき、どうなるかなど想像に難くない。
化け物に対して単体で突撃する精神力はあれども、そっちの方向にはめっぽう弱い。芯の強さが強さの源なのが嘘のように簡単に折れる。
実に、ハヤトらしい。
「そのような意味では、彼は『空白』関係なしに記述を左右する存在であると言えるねぇ。ほんっと、恐ろしい存在を運んできちゃったもんだよ。森の中で殺しておくべきだった。まだ、何も知らなかったときに」
あの時の自分の判断が英断なのか、愚断なのか、今でもよく分からない。
空白の有無関係なしに、彼はロズワールにとっては驚異的な存在に成りうる。彼の生死がエミリアの人生を大きく揺るがし。陣営そのものの未来さえ左右しかねない事態に発展する可能性がある。
そんな男なんて、あの森の中でさっさと殺すべきだったのかもしれない。変に監視下に置かず、とっとと首を落とすべきだったのかもしれない。
なんせ、
「………私自身、彼を殺したくないという思いが私も知らない間に芽生えているしねぇ。これじゃぁ、殺そうにも殺せない。困ったものだよ」
組んだ足を崩し、執務机に腕を置くロズワールが前屈みになりながら顔を下に向ける。机の先にいるメイドに隠した顔に浮かぶのは後悔か、悲哀か、それと別の何かか。
愛着、というべきなのだろうか。ロズワール自身、ソラノ・テンを殺したくないという不思議な感情が僅かに芽生えていた。
殺すには実に惜しい存在である——そう思わされるだけのものをロズワールはテンの生きる姿勢から受け取っていたから。
実力云々ではなく、もっと他のもの。
「最近、彼を見ていると昔の自分を思い出すことが多くてね。何かを一心に追い求めているようなあの輝きが昔の自分を見ているようで、不思議な感覚に襲われる」
何かは分かないけれど、何かだけを必死に求めるような、その意志が。強欲の魔女を一心に追い続けていたあの頃の自分と重なって見える。
今の自分と重なるのではなく、過去の自分と重なるのがよく分からないが。重なって見えるものは重なって見えるのだ。
だから、殺したくないと思うのだろうか。
「それだけではない……のだろうね。鍛錬している時のハヤト君と切磋琢磨する姿に感化されちゃったのかなぁ。先生、先生、と。この私を先生と呼ぶ姿に」
なるほど、自分そっくりじゃないか。あの頃の自分と重なるのも納得だ。
そんな風にロズワールは苦笑。まさか、自分自身がそっちの立場になる日が来るとは思わなかった。鍛えてあげると言い出した自分がこんな事を言うのも筋違いかもしれないが。
「殺したくない——そんな感情を抱く可能性なんて頭の片隅にもなかった。本当に私も、君たちと同じであの男二人組に影響されているのかもしれないね」
それが悪いことなのか良いことなのか、よく分からないけれど。少なくとも悪い気はしないロズワールだ。
久しく忘れていた『情』というモノが、一雫程度に心を潤したのだから。
「ま、要するに」
顔をクイッと上げ、前屈みになった体勢を起こすロズワール。長引いた話をまとめる彼はこちらの話を黙って聞いててくれたラムを見ると、
「多方面からソラノ・テンを殺すのは合理的じゃーぁないと私は判断したかぁら。引き続き、彼の監視はよろしくねぇ、ラム」
「はい。仰せのままに」
声に道化さが戻ると、それまでの雰囲気から一変。張り詰めていた緊張が緩むように彼が纏う雰囲気が柔らかくなった。話が着地したのだろう、表情に心の奥底を読ませない道化が貼り付いた。
「それにぃ? テン君はハヤト君と同様に駒としても優秀だし、せっかく鍛えた人材を消すのは勿体ない。………全てを話して協力を持ちかけることを視野に入れてもいいかもねぇ。テン君が真の意味で手駒になれば、目的達成にぐんと近づく」
不敵に笑うロズワールが胸に抱く野望の実現に「くくく」と不気味な声を漏らし、そんな彼を見ながら取り敢えず一難は去ったと思えるラムは、心の中でほっとするばかり。
正直、不安だった。ロズワールにとってテンという存在は何よりも驚異たり得る存在で、全てを黒い本の通りに進めようとする彼ならばテンを殺すことだって十分にあり得た。
大丈夫。きっと、大丈夫。ロズワールもこう言ってくれているから、彼の命が脅かされることはない。ないと、信じたい。
「けどね、ラム。これだけは断言しておくが」
親しい存在が無事であることにほっとするラム。しかし、そんな彼女の心情を察したようにロズワールはふっと真剣な表情を作りながら言った。
それは、ラムにとって大きな悩みの種。
「未来は絶対。記述が変わることなんてあってはならない。その通りに物事が進むことが最善であり最良。もし、変わるようなことがあれば直ちに修正しなければならない。否、変わる予兆が生じた瞬間から動かなければならない」
ロズワールに命じられたら、それがどんなことであっても逆らうことなく従うのがラムという従順なメイド。
「今は特に何も起こらないし、起こっていない。下手に手を出すと予想外の結果を招きそうだから様子見の姿勢をとるが。これから先、『空白』であることが原因で記述と逸れるようなことがあるのならば」
ラムにとって、ひどく心酔するロズワールの言葉は絶対。
「もし、そんなことがあるようであれば。『空白』であることが未来を曲げるのならば。非常に心苦しいことではあるし、彼の先生として苦渋の決断ではあるが」
主人に命じられたことは、私情を度外視して遂行しなければならない。
「空白が齎すのは福音か、あるいは破滅か。もし、破滅ならば、私はラムに命じなくてはならないねぇ」
例えそれが、己の意に反したことであったとしても。
「——ソラノ・テンを殺せ。と」