「——テンです。入ってもよろしいでしょうか?」
「どうぞぉ」
ロズワールの気の抜けた応答があった数秒後、律儀に扉をノックしたテンが「失礼します」と一声添えながら応接室の扉を開く。
クルシュ陣営の使者が帰ってほっと一息。話し合いの中で張り詰めていた空気が緩んでゆったりとした雰囲気が漂う応接室にテンが入室すると、中にいたのはソファーに腰掛けるエミリアとロズワール。
今さっきまで会談をしていた二人だ。話し合いの直後ということもあって流石に疲れたのか、伸ばし続けた背筋を崩して腰掛けたソファーにだらんと背を預けている。
そんな二人を労るテン。彼は紅茶を乗せたお盆をテーブルに置き、作業を見ている二人の前に「お疲れ様です」と声をかけながらカップを差し出し、
「会談は無事に終わったんですか?」
「もちろんだよぉ。すこぉーし長引いちゃったけぇど、君が危惧するような問題は何一つとして起こっていない。治療の話は無事に落ち着いたよん」
「うん。だから、もう心配しないで」
テンの確認する声にロズワールが手を軽く振りながら会談の無事を告げ、その声にエミリアの微笑みが重なる。二人の反応を受け取ったテンは「そうですか」と小さく息を吐きながら呟いた。
直後、呟きを聞いた二人はテンの纏う空気が明らかに和らいだことを悟る。胸の中にあった不安が今ので取り除かれたのだろうか、心なしか自分らを見つめる彼の頬が緩んで見えた。
朝から妙にピリついていたとはエミリア陣営の全員が薄々勘付いてはいたが、強ち間違えでもなかったらしい。
「……安心したかい?」
可愛がっている従者の僅かな変化を見逃さないロズワール。珍しくピリついていたテンの心を宥める彼は普段よりも優しげな声で語りかける。
その一言で全てを悟られていたと察したテンは抱えたお盆で驚いた口元を隠しながら、
「まぁ、そうですね。ずっと気掛かりだったもので。……ピリついてたの、バレてました?」
「当たり前じゃない。私たちがどれだけテンのこと見てきたと思ってるの」
「そういうことだぁよ」
自分的には隠しているつもりでも、バレる人にはちゃんとバレていたテン。見抜くことが当然のような風に言われてしまえば彼も、それは気のせいだと、反論を挟むことはできなかった。
周囲の人間に迷惑をかけないようにとしていた事があっけなく散った気がして「そっすか」と、取り敢えず誤魔化し笑いでその瞬間を取り繕いながら頸を人差し指で掻く。
やりづらさを感じた時や、むず痒さを感じた時にテンが無意識に行う行為。それをした時点でピリついていたことは確定したようなものだ。
「それで? 色々と聞きたいことはありますけど、まずは事の顛末から聞かせてください」
一度だけ咳払い。無理やり気持ちを切り替えるテンが話を切り出す。元より、それを聞くために応接室の扉を叩いたのだから。やりづらさを感じるために来たのではない。
ロズワールもテンの目的は分かっていた。自分らの正面に置かれたソファーに手をやる彼は「座りたまえ」と長話の気配をテンに匂わせ、「はい」と小さく返事をしたテンは指示された場所へ。
エミリアが自分の真横を手で軽く叩いて「隣に来て」とねだる意思を示したが、完全に無視。結果としてエミリアはお気に召さず、ご不満にムッとした彼女が紅茶を片手に立ち上がると、
「じゃあいいもん。私がテンの隣に座るから」
「来る必要あんの?」
「あるの。テンの隣がいいの」
ソファーに浅く腰掛けるテンの真横にちょこんと座るエミリアは頑なだ。肩が擦れる距離にまで近づく彼女にはテンに対して距離感というものが存在しておらず、相変わらず容赦がない。
今、この場にいるのはテンとエミリアとロズワールの三人。他の使用人は今頃、各々の仕事に勤しんでいる頃——果たして、その事実が良い事なのか悪い事なのか、テンには微妙なところである。
「宴会の時もそうだったけぇど、君も大変な二人に慕われてしまったものだねぇ」
「同情ですか?」
「ぜぇんぜん。そんな気なんて一切無いとも。君の体が耐えれるかどうか気になるところではあるが」
これ以上機嫌を損ねないためにご満悦なわがままお嬢様には数回程度、頭ポンポンをしておくとして。機嫌を取りながらテンはニヤつくロズワールに目を細めて半笑い。
心地よさそうに唇を綻ばせて喉を鳴らす彼女の甘える仕草を横目にし、靴を脱いで胡座をかくと、
「で? 話はどういった形に落ち着いたんですか?」
「その状態で話すつもりかい?」
「どういった形に落ち着いたんですか?」
揶揄うロズワールとまともに取り合う気など一切無いテンが話を強引に進め出し、その表情が真面目な空気を帯びたことを察するとロズワールは「そうだねぇ……」と渡された紅茶で喉を潤した。
今のが空気の入れ替えだったのだろう。甘い香りが鼻を抜けるとロズワールは一息つき、テンと同様に真面目な空気を纏いながら、
「結果から言わせてもらうと、利害の一致は成された。こちら側が譲るものに対して、むこう側が差し出すもの。二つの天秤は釣り合い、無事に交渉は終わったと言える」
「ってことは、俺がフェリックス様の治療を受けることは確定したと。そーゆーことですか」
「そーゆーことになる。損傷した君のゲートの完全治癒は約束されたよ」
最終的な結果を告げられたテンは「なるほど」と低い声で頷く。無表情ながらに安堵が含まれたそれには、この一ヶ月の彼の四苦八苦ぶりが実によく現れていた。
あの悲劇から既に一ヶ月が経ち、肉体的な損傷や戦闘の後遺症には完治の光明が差していたものの、しかし肝心なゲートだけが一向に治らない彼の心情は察するまでもない。
自然治癒では数ヶ月と掛かるとは言われていたから覚悟はしていたが、少しでも強くなりたい彼にとっては相当のストレス。魔法の鍛錬が一秒と続かないのだから、焦りや不安は時間と共に膨れたはずだ。
そんな感情から今、テンは解放された。無事に会談が済んだ今日という日を境に、彼の不安の拠り所は破壊された。
いくら治療に関して否定的であったとしても、安心してしまうのは無理もない。既に安静期間を抜け、鍛錬を再開したハヤトに置いていかれる恐怖が解消されたのだから。
「そんで? 具体的にはどうなるんですか? フェリックス様から、数日後にまた会える、と言われましたが。今後の動きと何か関係が?」
安堵の情はさておき、テンは背筋を伸ばしながら話を続ける。治療の件が落ち着いたことで知らず知らずのうちに我慢してきた感情が一気に爆発し、色々と溢れるものが一挙に押し寄せているが。
あくまで毅然とした態度は崩さない。頭ポンポンに気を良くしたエミリアが半ば強引に要求してきた頭ナデナデを実行しつつ、彼は全てを知るロズワールに話を促した。
目の前の光景に、エミリアという少女はこんなにも甘える子だっただろうか、などとロズワールは不意にも考えながら「それなんだが」とテンを指差し、
「治療を受けるにあたり、テン君には王都にあるクルシュ邸に足を運び、そのまま数日間だけ滞在してもらいたい」
「なんでですか?」
「日帰りで済ませられるほど君のゲートの損傷は浅くない、ってこーぉと。それに、向こうの予定に無理やりテン君の治療を割り込ませたものだーぁから、一日だけじゃ十分な治療時間は確保できないってわけ」
「なるほどね」
簡潔な説明にテンが納得の声を一つ。隣から「もっと」と声をぶつけてきたエミリアに「はいはい」と適当に返事を返しつつ、彼は言葉の意味を頭の中で簡単に整理、理解する。
要するに、色々と忙しい世界有数の治癒術師の予定に無理やりテンの治療を割り込ませたものだから、それに注ぎ込める時間が一日のうちに少ししかない。だから日を分けて治癒する。といった具合。
付きっきりでテンのゲートを治せるのなら一日で済む。しかし、そうするだけの時間がフェリックスには無いから数日間かけて治療すると。
あとは、単純にゲートの損傷が思ったよりも酷い事だろうか。一日の治癒で治るようなものではないから数日間かけると。
「理由はなんであれ、数日間かけて治療を行うことに変わりはないか……。数日間とは、具体的に何日間ですか?」
「彼の話によれば、ゲートの治療は二日間程度で済むそうだ。だから、最低でも二日間は向こうに滞在してもらうことになる。入院……と言った方が表現としては分かりやすいかなぁ」
「ふーん。二日程度で終わるんだ」
そこは、流石の世界有数と称賛するべき点だろう。自然治癒ならば数ヶ月かかる傷も彼にかかれば、たったの二日程度で完治。
大精霊ですら治すのが困難なそれを、フェリックス・アーガイルは短い期間で治すことができるそうだ。
あんな適当な形した人間がそれ程の力を宿しているとは、
「人は見かけに寄らないとは、正にこのことですね。場慣れしてる感はありましたけど、あの猫耳さんがそんなにすごい人だなんて。普通は分かりません」
「君がそれを言うのも、中々におかしな話だと思うけどねーぇ。人は見かけに寄らないのは、君とて同じことだろう。普通にしていれば君は平々凡々な一般人に見える」
本人としては微妙な特大ブーメラン発言にロズワールが苦笑。普段はその辺にいそうな一般人な雰囲気を纏うテンだが、その気になった瞬間から雰囲気を一変させる事を彼は知っている。
その豹変ぶりは、ロズワールすらも別人なのではないかと疑うほど。今のテン——エミリアに甘えられるテンは至極ほのぼのとしているが、
故に、ロズワールは苦笑する以外にない。そうなった彼の恐ろしさを肌で感じ、その時の彼と今の彼の差が天と地すぎることを理解しているから。
「まぁ、それは別にいいですよ。んで? いつから俺はクルシュ邸に滞在もとい入院するんですか?」
「明後日」
「あしゃって!?」
意外にも近かった『数日後』にテンは瞬間的に滑舌を崩壊させながら驚いて声を荒げ、思わずエミリアの頭を撫でていた手を止める。ロズワールは真面目な表情で淡々と語ったが、初めて詳細を知ったテンからすれば急すぎた。
一週間後とか、四日後とか、そんな感じだと思っていた。テンの中の『数日後』は一日二日を表したものではないし、実際に世間一般的な『数日後』の範囲はその程度のはず。
「明後日……明後日なんだ。エミリアは知ってたの?」
「うん。話し合いの中で決まったことだから。急で悪いとは思ってるけど、なるべく早い方がいいと思って」
けれど、エミリアの様子からして今の話は本当らしい。話し合いの内容に今後の日程も含まれ、当事者の知らないところで勝手に色々と決められ、完全に蚊帳の外だったテンは従うしかない状況だった。
なら、仕方ないだろうか。五センチにも満たない距離に座るエミリアの妙に自慢げな視線を受けながらテンは「そっか」と己を無理やりにでも納得させ、
「俺のためを思ってくれたんだもんね。なら、仕方ない。素直に従うよ。明後日、俺はクルシュ邸に行ってきます。それから最低でも二日間の滞在中に治療を受け、完全復活して帰ってきます」
急なことではあったが、切り替えの早さに定評があるのがテン。持ち前のそれをこの場でも発揮すると彼は今後の予定を頭の中で簡単に整理、それから「ん?」と小首を傾げ、
「最低でも二日。っつーことは、長引くことも?」
「可能性の一つとしては考えられる。なにせ、テン君のゲートは損傷の程度がひどい。万全を期して、完治した後の診察もあるだろうかーぁらねぇ」
「ほんと、君も大変な目に遭ってるね」と変に同情してくるロズワールにテンは「ふーん」とだけ。長引くとしても過度に長引くことはないだろうと判断し、そこまでの重大性はないと考えた。
大変な目に遭ってるなんて今に始まったことじゃない。あの日からずっと大変だ。今は落ち着いた戦闘の後遺症と貧血に歩くことすら困難にさせられ、日常生活をまともに送れなかった日が冗談抜きで五日以上も続いたのだから。
そんな日々に比べれば滞在期間が長引く程度、なんてことはない。そう、テンは思う。
が、
「そっか……。二日で帰って来ないかもしれないんだ………。そっか……そうよね。最低でも二日、だもんね。私、勘違いしちゃってたかも」
そう思うテンの隣に座る、エミリアは違った。
最低でも二日——その事実を頭の中で何度も反復し、復唱。「最低でも……」と言い聞かせるような風に小さく呟き、言葉の意味を改めて正しく理解する彼女は事の重大性に気づくと、途端に哀愁が漂い始める。
まさか、自分と離れるのが寂しいとでも言ってくるのだろうか。そんな事を思うテンは徐々に顔の角度が下へ下へと下がり、最後には完全に俯いてしまったエミリアを横目にし、
「明後日から最低でも二日、クルシュ邸に滞在。話の内容はそんなところですか?」
「ざっくり言うと、そんなところだ。明後日は、エミリア様も王都に行く予定があるかーぁら、彼女と一緒に王都に向かい、着いたら別行動。衛兵の詰所前で向こうの使者と合流する手筈になっている」
「了解です。それで話の流れの大体は掴めました。色々とありがとうございます。ほんとに」
更に細かな詳細は追々説明するとして、今後の動きの大まかな流れを話したロズワールにテンは頭を下げる。座りながらでは気が済まないから靴を履いて立ち上がり、深々と腰を折りながら。
今回の話は自分の未熟さが招いたことだというのに、ロズワールとエミリアに任せっきりだ。対価に関しても、会談に関しても、面倒な事を全て背負ってくれたことには感謝しかない。
感謝を伝える時と謝罪する時は感情に対して真っ直ぐなテン。真面目な態度を見せる時はとことん真面目な彼にロズワールは「別に、構わないとも」と立ち上がり、
「可愛がっている教え子であり従者であり将来有望な騎士の危機だ。先生として、主人として、当然のことをしただけだーぁよ」
「それにね」とテンの横を通り過ぎるロズワールは綺麗に九十度折られた彼の体を起こしながら、
「命を懸けてレムとラムを守ったくれたことも含めて、君にはそれだけのことをされる理由がある。満身創痍の中、娘同然の二人のことを守ってくれた事、感謝しているよ」
「………うす」
不意にロズワールの口から道化さが抜けた感謝を告げられ、唐突な変化に対応できないテンは頭に浮かんだ適当な返事を口にすることしかできなかった。
頭を下げられることをした覚えはない、と。口ではなく行動で語るロズワールは「それじゃ」とテンの肩を軽く叩き、
「私も仕事に戻るとしようかーぁな。これ以上の詳しい話は夕食の時にでもしようと思うが、それでもいいかい?」
「構いませんよ。全員揃ってますし、その方が都合がいいでしょう」
振り返るテンにロズワールは「そうだね」と一言。基本的に主の意見には異論を申し立てることない従順な態度に満足げに頷き、応接室の扉を開く彼は部屋の外へと一歩踏み出す。
テンにはテンの仕事があるように、ロズワールにはロズワールのお仕事があるのだ。あんな形をしていても領地の主、王選候補者の後ろ盾ということもあって書類仕事の量はテンの想像を絶する。
今からその山と格闘するのだろう。扉を閉める寸前にテンが見たのは、鬱屈そうにため息を溢している主の姿であった。
「………ふぅ」
ロズワールとの話を終えたテンは緊張の糸を緩めると一息。従者と主人という関係性である以上、使用人の制服を着ている間は粗末な態度は取らないよう心がける彼は、そうやって己の空気を整えた。
聞きたいことは聞けたし、大体の話の流れを把握。応接室に訪れた目的が達成されたのなら、自分も今すぐにでも使用人としてのお仕事を開始する必要があるが、
「そんで、だ」
そんな本来の目的とは反し、テンは応接室の扉に手をかけようとはしなかった。寧ろ、扉に背を向けて自分が座っていたソファーに踵を返し、数十秒前から勝手に落ち込み始めた少女の下へ。
その少女とは、
「お前さんはいつまでショボくれてんの」
もちろん、エミリア。
言いながら彼女の隣に腰掛けるテンが見るのは、深く俯いた以降から一言も発さなかったエミリアだ。いつもは笑顔に彩られる表情が陰り、長髪に隠れた桜色の唇が溢れる悲哀を溢さないよう固く閉ざされている。
テンが最低でも二日間はクルシュ邸に滞在する話が持ち出されてからだ。話し合いの最中には気付けなかった事実の重大性に今になって気付き、彼女はひどく気が沈んでいるようで。
「どうしたの……ってのは愚問か。あれか。俺がいなくて寂しい、とか?」
最低でも二日間の滞在。それ即ちそれよりも長く滞在する可能性があるということ。三日か四日か、それよりも長くか。その判断は完全にフェリックスに委ねられているが故に、正確な見当はつかず。
当人が然程気にしていないそれは、しかしエミリアにとっては問題だった。優しい声で胸に投げかけられた疑問に無言で頷く彼女は、誰がどう見ても明らかに沈んでいる。
「別に、二度と帰って来ないわけじゃないんだよ。そこまで寂しがることないでしょ。それに、長引くって言っても三日四日で帰って来れるさ。そこまでショボくれなくても」
「関係ないわよ。ずっと……、一緒だったんだもん。寂しいものは寂しいの」
過度に落ち込むエミリアを元気づけようとテンは笑いかけるが、微々たる効果すら発揮しない。決まった時間に帰って来ないと頭と心が理解した彼女は、急に不安そうに瞳を揺らしている。
ずっと一緒だった——確かに、そうかもしれない。言われてみればこの世界に来てから自分はエミリアとずっと一緒だった。
同じ屋敷で過ごす都合上、外の世界に出る必要が無いから自ずとその時間は増えるものだが、彼女が言いたいのはそのような物理的な一緒ではないのだろうとテンは思う。
要するに、隣に居るのが当たり前な人が一時的にではあれど自分の前から姿を消すのがイヤ、ということ。帰ってくる時間が分からないから、その感情は余計に膨らみ、
「テンは、私から離れてほしくないな、って心の底から思えた初めての人。だから離れるのは寂しい。そんな理由一つで寂しがったらダメなの?」
「ダメとは言ってないけど」
その程度の一時的な別れは問題ないだろ。
そう言いたかったテンの声は続かない。自分の物差しで彼女の感情を決めつけようとした彼は、直後に自分が言おうとした言葉を強く呪う事になる。
ただ自分と離れたくない一心で落ち込む彼女が顔を上げると、僅かに泣きそうな表情がテンの瞳に映し出されたのだ。悲哀に歪む幼子の顔が、見えたのだ。
本気の本気で自分と離れたくない少女の想いが、そこにはあった。
「私も変だと思ってる。でもね、テンがいつ帰ってくるか分からないって思ったら、急に胸が痛くなってきて。苦しい。こんなの、今までになかったから私もよく分からないよ」
「テンの言う通り、三日四日で帰れるのかもしれないのに……でも、すごーーく寂しい」と、悲哀一色に染められたエミリアが胸に手を添えると服をくしゃっと握り潰す。
言っているエミリア自身、どうしてここまで寂しいのか、よく分からなかった。彼の言う通り二度と帰って来ないわけじゃないのに、三日四日で帰ってこれるかもしれないのに、それでもすごく寂しい。
どうしてこんな風に思えてしまうのだろう。隣にいることが当然な存在がたった数日間、隣にいないだけでもの寂しく感じ、無意識に自分の傍から離れてほしくないと考えてしまう。
これも、自分が彼に抱く無理解な感情と繋がるのだろうか。この心を温めてくれる感情が、寂しさの意味なのだろうか。
だとすれば答えなど一生、出てくれない。どれだけ考えても解らないのだから。
「ごめんね、テン。迷惑だってことも、我儘だってことも、自分勝手だってことも分かってる。でも……ダメなの。たった数日間だけでもダメだ、って思っちゃう」
自身でも意味が分からない程に気が沈んでいくエミリア。一体、自分はどれだけテンに甘えていたのだろうかと痛感する彼女に、テンは「そっか」と仕方なさそうに薄く微笑んだ。
微笑んで、そういえばこの子、外見年齢は十八歳なくせして精神年齢は十歳前後だったな。なんてことをふと思い出しながら、
「お前はほんとに、自分に正直な子だね。俺の前だと途端に態度が幼くなるのは分かってたけど、その様子だと親から離れたくない少女に見えて仕方ないよ」
「……うるさい」
幼いと言われたことに不満に抱いたエミリアが幼い抵抗を見せながら頭突き。額がコツンと当たったのは真横にあった肩。一度では気が済まなから二度、三度と、回数をどんどん重ねた。
どうしてだろう、幼いと言われて腹が立ったのは。
どうしてだろう、子ども扱いされて腹が立ったのは。
どうしてだろう、対等な存在に見られていないと感じて腹が立ったのは。
これではまるで、駄々をこねる子どもと親のような構図ではないか。そうじゃないのかもしれないけど、それに近い構図である事に変わりはない。
違う。自分が彼に求める関係性は、それではない。ではなんなのかと自問するけれど、やっぱり解らない。解らなすぎて、別の意味でも腹が立った。もう一度、頭突きしてやる。
「たった数日だよ。すぐ帰ってくる」
「そんなの分かってる。けど、寂しいものは寂しいの」
「それも分かってる。分かってるけど、今更どうにもならないのは分かるよね。エミリア」
言った直後、頭突きする額が肩に当てられたところでピタリと止まる。話がここまで進んでおきながら「行かないよ」なんて言えるわけがない彼の気休め無しな現実の突きつけ方に、彼女は再び無言で頷いた。
テンに対してはわがままで、遠慮知らずだけど、聞き分け自体は悪くない子だ。悪くないのに普段は甘えて自分の意思を強引に押し付けてくるが、今回はそういうわけにもいかない。
「エミリアにはまだ幼い部分があるから、子どもじゃないんだから、とは言わないし。俺もなるべく、お前の意志は尊重してあげたい。だけど、流石に今回はエミリアの声を聞いてあげることができないのは分かるよね?」
「………うん」
「寂しいのは分かった。居てほしいのも分かった。でも、申し訳ないけど今回は無理だ。その寂しさは解決してあげられない」
「うん」
「なにも永遠に別れるわけじゃないんだから。そんなにショボくれないでほしいな。それに、数日を越えたら俺は帰ってくるから。絶対に帰るから。その壁は頑張って乗り越えよう」
「ね?」と、テンはできるだけ明るい声でエミリアに語りかける。必要以上に落ち込むな——なんて風には言ったりはしない。正直、そう思わなくもないけれど、彼女は本当に寂しそうだから。
こちらを見ようとしない彼女の顎を掬い、半ば無理やり視線を上げさせるとテンは紫紺の瞳と視線を絡ませ、
「できそう?」
「………できる」
若干の沈黙はあったものの、エミリアは掛けられた言葉に宥められたらしい。寂しい気持ちは何一つとして落ち着いていないけれど、あまりテンに迷惑をかけるわけにもいかないと感情に見切りをつける。
そのやりとりは、世界には本当に家族のように映っていた。実際、我が子に言いつけるような態度のテンは頑張ることを決めたエミリアに「うん。いい子」と柔らかい声をかけ、
「偉いね。エミリアはいい子だよ」
「むぅ。またそうやって子ども扱いする」
「してないよ。妥当な扱い方をしてるだけ」
「それを、子ども扱いしてる、って言うの!」
「揶揄わないで!」と怒るエミリアにテンの表情は崩れない。「うんうん」と、その成長に感慨深そうに頷く彼は勢いよく詰め寄る彼女の頭に手を添えながら、指先一つ一つで愛でるように銀髪を撫で下ろした。
続けていると、エミリアのご乱心も三十秒と経たずに落ち着く。子ども扱いされて不満感全開に「むぅ」と頬を膨らませながらも、頭を撫でられる心地よさには抗えなかった。
こういうとき、テンはずるいと思う。同時に、撫でられるとどうしようもなく安心してもっと続けてほしいと思ってしまうから、そんな自分もまたずるいのだと思う。
「はい。頭ナデナデはお終い。今日はエミリアも会談を頑張ってくれたから、その感謝も含めて長くしたけど、あんましやってると俺もお前も時間がなくなるからね」
「まだダメ。もっと撫でて」
「どれくらい?」
「あと十分」
「長いよ」
だから、結局はその温かみを振り払えるわけもなく、抱いた不満な想いも与えられる心地よさに流されてしまうエミリアであった。
▲▽▲▽▲▽▲
クルシュ陣営からの使者が帰ると、慌ただしかった屋敷はいつも通りの落ち着きを自然と取り戻すもので。明後日に王都への出発を控えていようとも、屋敷で過ごす各々のやるべきことは変わりない。
寂しがるエミリアを元気づけたテンもまた、彼女と別れてからは紅茶を手早く片付け、使用人のお勤めを果たすべく廊下を歩いているところだ。
「……あそこまで寂しがられるとはね」
ポケットに手を突っ込み、窓の外に広がる光景を眺めながらテンは呟く。悩ましげに顔を顰めて「んーー」と喉を低く唸らせる理由は、もちろんの如く数分前に別れたエミリア。
まさか、たった数日間離れ離れになるだけであそこまで寂しがられるとは思わなかった。冗談半分で寂しかっているならまだしも、あの子は百パーセント本気。冗談抜きで悲哀一色。
予想していなかったテンだ。姿を見かけられれば「テン!」と名を呼びながら近づいてくる程に慕われているとは分かっていたし、無意識ながらに好意的な想いを寄せられているとも分かっていた。
けど、流石に寂しがりすぎではなかろうか。
「ちょっと、甘やかしすぎたか」
苦笑。
片方に偏らないようにしようと思い、彼女にはレムと同等の想いを頑張って注いできたけれど、どうやら逆効果だったかもしれない。甘やかしすぎた結果として彼女もくっついて離れなくなった。
少し、対応を改めた方がいいのかも。決して塩対応をするというわけではないが、甘やかすのをやめるわけではないが、このままでは彼女が自分に寄りかかりすぎてしまう気がする。
それが悪いとは言わない。寧ろ、自分の支え一つで辛いことを頑張れるのならいくらでも寄りかかってほしい。けれど、そのせいで彼女の中にある自立心が弱くなってしまうのではないか。
——テンという存在が、いつか訪れる成長の妨げになってしまうのではないか。
「そうじゃない、といいけどさ」
深読みかもしれない。考えすぎてしまうのは自分自身の悪い癖だとは十分理解している。やめた方がいいということも重々承知だ。分かっていても、やめられないということも。
今のエミリアは精神的に幼すぎる。それ故に、心の拠り所が傍にいるとどうしても頼ってしまう部分がある。その人が想いを寄せている人なら尚更、依存してしまう可能性が否めない。
だからといって、今になって突き放すなんてできるわけがない。寄りかからせたのは他でもないテン自身なのだから。
散々、甘い言葉をかけておいて。彼女が望む言葉を贈っておいて。寄りかからせておいて。心の中を陣取っておいて。
「寄りかかりすぎだと突き放す——。いやいやいや、そんな残虐なことできねぇ」
頭をガシガシと掻きむしり、テンはエミリアとの関係性に四苦八苦。甘やかしすぎてもダメ、突き放しすぎてもダメ、その均衡が上手く保てる気がしない彼は大きなため息を大袈裟に吐き散らした。
想いを寄せられている以上、突き放すなんて馬鹿な真似はしない。絶対にしない。自分は彼女がパック以外で唯一心を許せる存在だから、その信頼を裏切ることはしない。
でも、しかし、だけど。そのせいでエミリアが成長できなかったらどうする。彼女が自分一人の力で一歩前に進まなければならなくなったとき、テンという存在を頼るような精神だったらどうする。
全て、テンの責任だ。
「あー、もう、分かんねぇ。どうしたらいい。俺はどうしたらいい。飴と鞭、ってどう使い分けんだよ。お母さん、お父さん」
舌打ちし、己の甘さが招いてしまいそうな未来を想像したテンが苛つきながら両親を呼ぶ。時に厳しく、時に優しかった、否、父親に関しては獅子の子落としだったから厳しさしかなかったけども。
父親が厳しかった分、母親が優しかった家庭で育ったのがテンだ。飴と鞭が綺麗に分担された家庭で育ったために、その両方を自分一人でやるとなると難しいものがある。
難しく、考えすぎだろうか。
「………やめよう。今、考えたところでどうにかなる問題じゃない」
深く、深く、考えがどこまでも奥深くまで沈んでいきそうなテンがいつの間にか床と睨めっこしていた顔をぐいっと上げる。自覚済みな悪い癖が再発し始めたところで、無理やり思考を断ち切った。
深呼吸。吐く息で己の中を換気するのと一緒に深まりすぎた考えを外へと吐き出し、吸う息で肺をいっぱい含まらせながら外の新鮮な空気をたくさん取り込む。
それを何度か繰り返し、最後に気合を入れるために頬をパチンと叩く。
「その件については長期的な問題として捉えよう。今すぐに解決することじゃない。じっくり、ゆっくり、深く考えていこう」
「うん、そうしよう」と、テンは強く頷く。今から弱気になっていても仕方ない。それに、これは自分一人の問題ではないのだ。エミリア本人と一緒に考えていく必要がある。
それか、彼女の親代わりであるパック。彼にこのことを相談しても良いかもしれない。否、相談するべきだ。エミリアのこれからのためにも。
『ソラノ・テン』という存在がエミリアに齎す影響について、真面目に話し合う必要がある。でなければ良くないことが起こる気がしてならない。
ともかく、
「そうと決まれば仕事仕事。明後日にはエミリアと王都に行って、それからクルシュ邸に行くんだから、その分のお仕事も頑張って済ませ…………」
ないと。
そう言い終えようとした途端、頭の中が一時的に白く塗りつぶされる。今なにか、とんでもない事実を自分の口が刻んだのではないかと不意にも気付き、足を止めた。
ーー明後日にはエミリアと王都に行って。
「……ちょっと待て」
素通りしていた、エミリアが王都に行く予定があるという一つの事実にテンは立ち戻る。途端から白く塗りつぶされた頭の中心にその事実が居座り、それしか考えられなくなった。
ロズワールが平然と言ってくれたおかげで聞いていたテンは聞き流していたが、果たして簡単に聞き流してもいい内容だろうか。
絶対にそうではないと、テンの本能が告げている。身の危険を知らせる防衛本能が警報音を轟かせ、その事実の中には重大な可能性があると心に叩きつけている。
その可能性とは一体。
「エミリアが、めったに行く機会のない王都に行く。理由は知らないけど、行く機会がある」
事実を口にするテンが己の鼓膜に聞かせ、頭によく考えさせる。頭の中で言葉を作るよりも声に出した方が理解しやすく、一つ一つを丁寧に整理することができるのだ。
エミリアが滅多に行く機会のない王都に行く。それが何を意味するのか。どうして、自分の本能はその事実が危険だと知らせているのか。無意識的に引っかかる部分があるからだろうが、
「そういえば………」
思い出した。
一体、何がそこまで引っ掛かるのか考えている中で一つだけ、思い当たる節がある事を。色々と忙しくて忘れかけていた、数週間前に一度だけ導き出した仮説を。
「確か、俺の予想が正しければ今月中に原作が始まるはず」
先月の初め、深い眠りから目覚めた直後にラムと話す中で軽く立てた仮説だ。あの時は「来月に原作が始まる」と言っていたが、残念なことにその「来月」が今月というわけで。必然的に今月が原作開始の月ということになる。
原作の一章は、なんらかの理由で王都に訪れたエミリアとナツキ・スバルが出会う章。つまりは今月中のどこかにエミリアが王都に行く日があり、その日こそが運命の日ということだ。
つまり、
「明後日が、まさかの原作開始日だったりして」
割とあり得そうな仮説に、テンの表情が凍りつく。廊下のど真ん中で独り言を呟きながら固まる光景は誰が見ても異質なのだが、今の彼に外からの目を気にする余裕はない。
確証はないが、そんな気がする。先程から予感ばかりで曖昧な答えしか出せない自分を憎く思うも、愚痴を言っていられる状況ではないだろう。口よりも先に頭を働かせろ。
「………あれ?」
原作開始日が明後日である——そんな可能性に気付いたテンが続け様に気づく。連鎖反応のように驚愕の事実に気づき続ける彼はもう一つだけ、決して無視できない事実に気づいてしまった。
もし、明後日が原作開始日であるならば。それはつまりフェリックスの治療を受けるテンがクルシュ邸に訪れ、数日間その屋敷に滞在する日と完全に被ることになる。
これが何を意味するか。深く考える必要もない。テンが立てた仮説が正しいのであれば、明後日が原作開始日であるならば。
少なくとも一章は、
「俺———完全に出番なくね?」
そういう事になる。
テン、まさかの原作一章において出番ナシの危機。