「——ハヤト。
昼間の騒がしさが息を潜め、日付が変わるまであと二時間という世界の中、ロズワール邸の廊下に首からバスタオルを下げたテンの声が小さく反響する。
直後に何かを叩くような音が二回ほど聞こえてきたのは、声の主が部屋の扉を叩いたからだろう。
「おう。入れよ」
扉を叩いて数秒と経たずして部屋の中から聞こえてきたのは部屋の主——テンが名を呼んだハヤトの声。昼間は元気溌剌な彼も流石にこの時間帯は疲れていたらしい、控えめで落ち着いた声が入室許可を告げてきた。
親友関係である以上、別に入室許可を取る必要も声をかける必要もないのだが。テンは入室許可を得られてから「ん。じゃ、入るね」と一声添えながら扉を開ける。
親しき仲にも礼儀あり、というやつだ。残念なことに扉を潜ったテンの視界に映った、寝台の上に胡座をかいて座るハヤトの辞書にはそのような言葉は無いけれども。
「風呂上がりか?」
丈の合ったゆったりとした長ズボンに半袖のTシャツの上から薄手の羽織りものを掛けるハヤトが扉を閉めるテンを見ながら彼の今を想像、声に出すとテンは「まぁね」とバスタオルで軽く髪を拭く。
髪の濡れ具合と若干の赤みを帯びた頬でなんとなくの予想はつくが、首からバスタオルを下げていれば確定だ。自分と同じくラフな寝巻きに身を包んでいることも踏まえるなら尚更。
因みに、テンもハヤトとほぼ同じ格好。風呂上がり直後のため、羽織を着ていないのが差異。二人揃って似たような格好が寝巻きとして定着したのは、ロズワールがまともな服を全く揃えていなかったからだ。
「
寝巻きが似たり寄ったりなのはともかく、テンは寝台近くに置かれている椅子に深く腰掛けながら聞いた。
彼の視線の先には、寝台に座るハヤトが胡座の上に乗せた自慢の大剣を丁寧に磨いている姿があって。時折、部屋を照らす陽の魔鉱石が発する光に反射させては「んーー」と喉を低く唸らせている。
己の相棒となる武器のメンテナンスは使用者としては当然——そんな風にハヤトは「おう」と作業の手を止めるとテンにサムズアップし、
「ったりめーよ。お前は?」
「普段から磨いてるし、安静期間中に研いだから問題ないよ。いつでも使える」
ーー使うかどうかは怪しいけど
心の中で言葉を終わらせたテン。原作一章における自分の出番が無いに等しい事実を既に理解している彼は、無表情の裏側で微妙な笑みを浮かべながら軽く頷く。
尤も、ハヤトはそんなテンの事情など知らない。大事な日に全く役に立つことができない彼の憂鬱さなど気にもかけない様子で「そりゃいい」と拳を合わせた。
いつも以上に気合十分なハヤト。胸の奥で闘志を炎炎と燃え盛らせる彼は、我慢した昂る高揚感が堪えきれず溢れたように歯を見せて楽しげに笑い、
「なんせ、明日はついに原作が開始するんだからな。武器の調整はちゃんとやっておかねぇと。刃こぼれした相棒を鞘から引き抜くわけにもいかねぇ」
遠足を前日に控えた子どものような。修学旅行を前日に控えた子どものような。どの道、子どものようである事実に変わりはないハヤトが合わせた拳をグッと握りしめる。
テンからその話を少しだけ聞かされたときは、それはそれは興奮したものだ。ジワルドを覚えた喜びを軽く凌駕する喜びに「まじかぁぁーー!」と飛び上がってしまうほどに。
原作開始の約五ヶ月前に召喚されたお陰で色々と準備することができて良かったし、ほのぼのな生活を過ごせて楽しかったけれど、やはり原作が始まらないと物足りない。
だって、
「ついに、スバルがこの世界に来るもんな!」
「主人公ぉぉーー!」と、ハヤトは静かに叫ぶ。我慢しようにも我慢し難い感情が沸騰し、待ちに待った人物の召喚に燃え上がる。
五ヶ月——五ヶ月も待ったのだ。この世界に召喚されてから色々とありすぎて割とあっという間だった気がしなくもないが、時間としてはその長い時間を超えたことに変わりはない。
それに、
「原作が始まるってことは、バケモンみてぇな強さした奴らとも戦える、ってことだよな!」
「やってやるぜぇーー!」と、凄まじい勢いで拳を荒ぶらせる。恐怖や焦燥などの心を弱くする負の感情は一切無く、そこにあるのはただ一つ、自分よりも強い相手と戦える喜びだけだ。
『俺より強い奴に会いに行く』の言葉が、いつの間にか板についてきたハヤト。以前にも増して戦闘好きに磨きがかかる彼にテンは「お前の、その精神は尊敬するよ」と苦笑いし、
「明日が待ち遠しくて堪らんッ!」
その苦笑いに、この昂りをどうにかして発散しようと考えたハヤトがぶん投げた枕が直撃。弾丸の如く投擲された柔らかい感触に「ぶへっ!」とテンが声を上げ、勢い収まったそれが膝下に落下。
直後、枕が直撃するまでは単なる苦笑いであったものが真顔に変化した。突然の行動に理解が追いつかず、適切な表情が思い浮かばなかった結果だろう。
とんだとばっちりを受けたテンである。前にも似たような事例で腕の骨を折られたような事があったような、なかったような。否、だからなんだ。
「くぅー! こりゃ、マジで気合い入れねぇとな。原作が始まったときのために鍛えてきたんだし。何が来ようが全員ブッ飛ばしてやんよ!」
枕が直撃したテンの事情など、ハヤトは知らぬ存ぜぬ。目の前で起こった事実、否、目の前で引き起こした事実であるというのに。どうやら彼の脳裏には今、自分よりも強い存在が描かれているようで。
そっちに気を取られるばかり。「やれやれ」といった具合で仕方なさそうなため息を一つ、それから首を横に振る親友など意識下に入っていない。やられた仕返しもせずに、投げられた枕をそっと寝台に乗せる優しさも。
ここまでくると、平常運転すぎて感心すら抱く。基本的に相手の強さに怯えることのない性格が故、悲劇の物語が幕を開けようとも平気らしい。恐怖と対になる感情しか宿っていない。
本当に、
ーー怖いな
今一度、テンは親友の頼もしさを実感し、同時に言葉にしようのない恐ろしさ感じる。己の内側で呟かれた声には、僅かな恐怖色が混じっていた。
その自信に満ち溢れた性格が彼自身に牙を剥かなければいいな、と。少しばかりの懸念が生じ、
「つーか、テン。伝えなくちゃいけないこと、ってなんだよ。変に改まってたが、大事なことなのか?」
そんな懸念は、ハヤトが今夜の話題を振ったことで一瞬にして掻き消されてしまった。掻き消されたのは、一抹の不安よりも投げかけられた話題の方が意識を引き寄せたから。
「あぁ……。うん」と、テンは思い出したような態度を見せると膝の上に手を置き、
「明日、原作が始まるかもしれないのはもう分かってもらったと思うんだけど。その上で一つ、問題があることに気がついたんですよ」
「問題?」
一時の昂りは投擲した枕と一緒に放り投げたハヤトが大剣を磨く作業を再開させながら聞き返す。
目は大剣に向けていようとも耳はテンに向けながら彼は「なんだそれ?」と小首を傾げ。作業片手間に話を進めてくるハヤトにテンは「あのね」と深刻そうな声色で、
「多分、俺は原作一章には参加できない」
言った直後、ハヤトの手が止まる。
最終的な結論から述べた、一緒に戦ってくれると信じて疑わない相棒からの衝撃的な発言に、数秒間の思考の停滞を許した。
その数秒を抜ければ、止まった時の針が小さく音を立てて動き出すように、彼もまた動き出す。一度は止まった思考が熱を帯びて回転し出すと、言葉の意味を理解しようと働き出す。
そして、
「——は?」
と。
思わずといった具合ですっとんきょうな声を漏らしながら顔を上げ、至極真面目な顔をしながらこちらを見てくるテンと視線を重ねた。
余程のことだったのか、「は?」のまま口を半開きにしてアホ面を晒している。正面の男を見る双眼には明らかな疑念が渦巻き、眉間に皺を寄せては困惑そうに顔を顰め、
「どういうことだよ? 参加できない、って……なんでだ?」
これまでに何度もテンの口から飛び出す発言には驚かされてきたハヤトも、こればかりは流石に動揺してしまうのが必然だった。
相変わらずこの男は、自分が思ってもみない方向から心を揺らしてくるものだと思う。深刻そうな声だとは薄々感じていたけど、強ち間違えでもなかったかもしれない。
珍しく本気の動揺を見せてくるハヤト。そんな彼にテンは「えっと、簡単に言うと」と前置き、
「俺さ、明日から最低でも二日間はクルシュ邸に滞在もとい入院することになってるんだよね。理由は分かるよね?」
「フェリスの治療を受けるため、だろ?」
テンが原作開始に携わることができない——それだけの事実でハヤトの意識は完全にテンに引き寄せられた。
鋼を磨く作業から一旦離れる彼にテンは「うん」と頷き、
「でね。そのために俺は明日、王都に行く予定のあるエミリアと一緒に王都に行って、そこから向こうの使者と合流する形になってる。これも分かるよね?」
「おう。昨日、晩飯食ってるときに説明されたからな」
明日の予定に関しては、昨日の夕飯の席でロズワールからあらかた説明を受けている二人だ。勿論、夕飯の席なのだから屋敷の住人全員が共通して明日のことを把握していることは言うまでもない。
だから、その辺に関しては何一つとして疑問は抱かない。エミリアが王都に行く予定があることにも、テンがそれにくっついていくことにも。最低でも二日間はクルシュ邸に滞在することにも。
めったに行くことのないエミリアが王都に行く——それ即ち、時期的に考えて原作の開始を意味することも。
「これが何を意味するか、分かる? 原作開始日と俺がクルシュ邸に滞在する日が重なることが何を意味するか、分かる?」
「ーーーー」
「王都に到着した時点で、俺はエミリアとは別行動になるから、自ずとあの子とは関われなくなる。それから、数日間は一緒に居てあげられない」
「つまりは、そーゆーことよ」と。
テンは結論に至るまでの理由を語ると、ため息。決まったことだから仕方ないと割り切ってはいるものの、どうしても割り切れない部分があるのも事実で。
若干、不満そうな雰囲気を醸し出し始めたテンだった。本人としては抑えているつもりでも、膝に添えた人差し指が貧乏ゆすりの如くリズムを刻み始めている。間違えなく、不満そうだ。
それを察しながらハヤトは「なるほどな」と一言。腕を組んで難しそうな顔をしては、頼りになる相棒が不在な事実と真正面から向き合う。
原作開始日とクルシュ邸に滞在する日が被る——その事実一つで難しく考えずともテンが原作一章に関わることが困難なのは明らかだろう。それ以前に、ゲートが損傷した病み上がりの状態で戦えるものか。
つまりは。クルシュ邸に滞在しようがしまいがどの道テンは原作一章には関われなかった、ということ。死と同等の怪我を負った時点で、彼はどうしようもなかったのだ。
「なら仕方ねぇな。正直、お前が隣に居てくれた方が心強ぇし頼もしいが、変に戦って余計に怪我されても困るし。明日は俺に任せて、お前は最低でも二日間はクルシュ邸でのんびりして…………」
のんびりしてろ。
そう言うはずだったハヤトの口は、しかし最後まで続くことはなかった。自分の声を自分の耳で聞き、それから無視できないことがあるのではと感覚的に思った。思って、即座に振り返る。
最低でも二日間、テンはクルシュ邸に滞在する。言い方を変えれば、最低でも二日間、テンはロズワール邸から居なくなるということ。
最低でも二日間。ということは、それよりも長く屋敷から居なくなるかもしれないということも一つの可能性として考えられるわけであり。
そうなると、
「あれ? ってことはお前、もしかしたら二章すらも出番あるか怪しくね?」
「そーなんですよ。はい」
思いがけずして見つけ出した可能性をハヤトが声に出すと、テンの同意の声が重なる。その事実にはっとする様子が見られないところから察するに、彼はとっくに理解していたらしい。
椅子の上で器用に胡座をかき、テンは面倒そうにため息。先程からずっとため息ばかりの彼はかいた胡座に頬杖をつきながら、
「二章は彼が屋敷に来てから始まる。んで、そこから一週間の出来事が二章の範囲なはず。二章のタイトルにも『一週間』って書いてあったような覚えがあるしさ。定かじゃないけどね」
所々がうろ覚えな原作知識をハヤトに託しつつ、テンは「正直ね」と言葉を繋げて、
「俺もね、そこまで覚えてないの。どの章で何が起こって、誰が出てくるかは覚えてるんだけど。正確な日時までは記憶してないの。いつ襲撃があるのかとか、どのタイミングで彼が死んじゃうのかとか、そんな記憶はないの。死に方は覚えてても、日時は曖昧なの」
「ごめんね、ポンコツで」と、少しばかり投げやり感のあるテンはn回目のため息。色々と重なりすぎてそろそろ自分の無力さに悲しくなってきた。
アニメやら原作やらを見てある程度の知識は記憶しているが、しかし詳細な部分までは記憶していない。各章の『あらすじ』は知っているが、その中に含まれた詳細までは定かではない。
とても、曖昧。
「二章だって。開始してから何日後に彼が呪い殺されるのか覚えてないし。一週間が範囲だってことも曖昧だし。……正しいとは思うんだけど」
徐々に、テンの声色が沈んでいくのをハヤトは感じている。話が進むにつれて気落ちしていくような風に、彼の表情が陰る。心なしか、声量も衰えていく気がしなくもない。
ともかく、
「まぁ、二章が一週間と仮定して。最低でも二日間はクルシュ邸に滞在する、ってことは、最短でも二章が開始してから三日後に屋敷に帰ってくることになるよね」
「二章が開始した日と同時に、お前の滞在期間が始まるわけだからな。そうなるわけだ」
「二日間で滞在が終わるなら、ね」
不穏な発言をハヤトの言葉に付け足し、テンは俯く。自分で言っててその重大性を改めて理解し、「はぁ」と心に注がれた幸せが一気に逃げてしまいそうなため息を無意識に大きくつく。
それは、二日間で無事に帰って来れたらの話だ。事がスムーズに進み、フェリスが「もう大丈夫」と言ってくれたらの話だ。
最低でも二日——そう言ってきたのは他でもないフェリス本人。テンを短い時間ながらに触診した彼の意見が故に、滞在期間が長引いてしまう可能性が捨てきれず、その期間が一日伸びる度に帰宅の日が遅くなり。
最悪の場合、
「お前の言った通り、二章にも参加できないかも」
流石にそれはないだろうが、かなり怪しいことに変わりはない。参加できたとしても、きっと後半から。
実際に治療を受けてみないと、なんとも言えないのがこの問題の厄介なところだ。できれば、最短で屋敷に帰れることを願うばかりである。
それだから「ごめん。ほんっとごめん」と、両手で顔を覆いながらテンは俯く。大した知識をハヤトに託すこともできず、完全に関わることのできない場所に行く己の無力さに虚しくなってきた。
一章に関われないのは恐らく確定。加えて、二章すらも危うい今。さて、自分の存在価値とはなんなのだろうかとテンは思う。
そんな彼にハヤトは「まぁ、あれだ」と、明るい声を出しながら己の胸に握りしめた拳を強く当て、
「お前がいなくたって、俺がなんとかしてみせるよ。お前が戻ってくるまでに全部解決しておくから、向こうでゆっくり休んでろや」
「それで解決されたらされたで、俺の存在価値が本気で無くなりそうな気がするよ………。俺ってなんなんだろう」
「おいおい。卑屈になるな」
安心させるために言ったつもりが逆効果。変なところで捻くれた心を露わにされると、ハヤトも対応に困る。力無く首をゆらゆら揺らしながら落ち込まれると、尚のこと困る。
尤も、テンは勝手に沈んでは勝手に立ち直る男。自分が必要以上に励ます必要もないだろうとハヤトは思いながら「それによ」と彼の肩をポンと叩き、
「俺だってリゼロファンだ。これでもアニメは三周してんだぜ。お前よりかは覚えてなくても、誰が何をして何が起こるのか……ある程度の流れは覚えてるよ。日時はともかくな。大丈夫だ」
「そぉ? ……なら、いいけどさ」
軽く励まされたテンは言いながら顔を上げ、知らないうちに前屈みになっていた背筋を一直線に伸ばす。自分一人でなんとかすると言い切ってくれたハヤトを見ると、いつもと変わらない太陽のような輝きを宿す笑みが見えた。
不思議と、安心感を抱かされる。この男に「大丈夫だ」と言われると大丈夫なんだなと不覚にも思ってしまう。理由は分からないけど、それだけの強さが彼の笑みにはあった。
流石、ラムに「英雄気質」と言われるだけはある。笑顔一つで人を安心させるとか、どの物語にもいそうな頼り甲斐のある主人公だ。
テン自身もハヤトのことを「王道系主人公まっしぐら野郎」と思ったことがあったりなかったり。これでは、自分の存在が霞んでしまいそうな予感がしてならない。
「じゃあ、明日のことは………明日から俺が帰るまでのことは完全に任せちゃっても?」
「いいぜ。任せとけ」
己の存在が空気になるか否かは頭の片隅に置いておくとして、テンは力強く頷いてきたハヤトに「ん。なら任せたよ」と頷き返す。彼がそう言うのなら信じることに。
ひょっとしたら、自分が帰るまでに全てが片付けられているかもしれない。なんて冗談じみた、けれど馬鹿げたことだと一概に言い切れないことを考えながら。
「……まぁ、正直な話。俺とお前が居る時点で原作とは大きく変わっちゃってるから、原作の知識がこの世界で通用するのか微妙なところではあるけど」
テンが一章に参加できない話が完結。別の話題に話を切り替えるテンが数分前から止まっていた作業の手を再開するハヤトを横目にポツリと呟く。
勿論、拾い損ねるハヤトではない。以前にも話した話題を再び持ち出してきたテンに彼が「ん?」と喉を低く唸らせると、テンは「前にも話したことだけどさ」と憂鬱そうに吐息し、
「俺はもう原作には拘らないことにしたから、原作の通りに事を進める気はないのよ。コッチからわざわざ物語と同じ道を辿ろうなんて一ミリたりとも考えてないのよ」
「可能なら、一章の前提条件から覆したい」と、テンはやけにかっこよく言い切る。彼の話す前提条件がなんなのかハヤトには分からないが、彼の原作には拘らないという意志が固いのは分かった。
しかし、それはハヤトも同じ気持ちだ。あのような悲劇が起こると知っていて同じ道を辿ろうとする気など全く無い。防げる事態は未然に防ぎ、避けれる悲劇は避けたい。
その辺に関しては、随分と前にテンと話し合った。テンが、この世界をアニメの世界じゃなく自分が生きていく一つの世界として捉える、と言ってくれた日に。
原作を改変した結果、その先に新たな問題が発生しようとも、臨機応変に対応して乗り越えよう、と。自分とテンの二人で最悪をひっくり返してやろう、と。みんなを助ける、と。
未来は、捻じ曲げるもの。結末は、覆すもの。運命は、変えるもの。これがテンとハヤトのモットー。
だってこの物語は、この世界で歩む自分達が、自分達の手で、描き続ける物語なのだから。
つまり、
「ハヤト。明日、絶対にエミリアから目ぇ離すなよ。なにがなんでも徽章を奪われんな。奪われた瞬間、全てが始まっちゃうから。それさえなければ、一章は空振りに終わる……………はず」
「と、信じたい」と、半ば願望じみた風に言いながらテンは全てを託した男に強く言い聞かせる。作業片手間に話を聞き出した意識を根こそぎ自分の方に引き寄せながら。
徽章さえ奪われなければ——それだけが一章で起きる悲劇を防ぐことに繋がるかは曖昧だけど、それを奪われた事がエミリアとスバルを結びつけた一つの要因にもなる事をテンは知っている。
それが、今後の展開を大きく左右することに繋がるとも十分理解している。
「それを潰せば全てが解決……するとは限らないけど、少なくとも変わるものはあると思う。奪われなければ、エミリアが危険な場所に行くこともないしさ」
「だから、絶対に徽章を守って」と、テンは念押しするように捲し立てる。例え、そのせいで原作を改変する結果になろうとも気にしない。その覚悟などとうの昔に固めた。迷いはない。
当然、ハヤトも同じなのだから「おう!」と元気な返事が返ってくるとテンは期待していたが、
「だが……、それだとスバルはどうなる?」
再び作業の手を止めるハヤト。テンとの話を作業片手間にすることは不可能だと判断した彼は胡座の上に置いていた大剣を一旦、鞘に収めて寝台に立てかけるとテンと向き合い、
「エミリアが徽章を奪われたからスバルはエミリアと関わることができたし、最終的にエミリアをエルザから庇ってこの屋敷に来れた。なら、徽章が奪われなけりゃスバルはどうなる?」
「どうなる、って言われても………」
悲劇を回避することばかりに思考を巡らせていたテンは別方向からの懸念に言い淀む。エミリアの身を案じていた彼からすれば考えもしなかったことだ。
ハヤトの活躍によって徽章を奪われることなく、エミリアが無事に一日を終える。果たして、そうなったら彼女と関わりを持つはずだったスバルはどうなってしまうのか。
「どうなるんだろうね」
「孤立すんじゃねぇのか。知り合いも味方もいない世界でたった一人。俺には
「そうだろ?」と、共感を求めてくるハヤトにテンは言葉を生まず、「んーー」と喉を低く唸らせて口元を固く閉じては眉間に皺を寄せる。適当に返答した代償は、鋭く尖ったハヤトの目。
言われてみればそんな気はする。確かに、自分達は二人で一緒にこの世界に召喚されたからお互いに励まし合いながらここまでやって来れたけど、彼の場合は孤独。
親も、友人も、知り合いもいない。天涯孤独というやつだろうか。少なくともここに二人の同郷が在るからそう言えないかもしれないけど、存在を知らなければ居ないことに変わりない。それに違いないだろう。
そんな人間を、ハヤトが何もせずに放っておけるだろうか。困っている人がいたら赤の他人であろうとも助けるハヤトが、孤独な少年を見て見ぬふりすることができるだろうか。
否、
「そうなりゃ、俺はスバルを助けるぞ。アイツを屋敷に連れてくるぜ。故郷の知り合いとして」
「マジで言ってんの?」
「俺がそんなつまんねぇ冗談を言う人間に見えるか?」
断言されたテンが疑心をハヤトに向けるが、ハヤトは本気の目をしている。テンの目を一直線に視線で射抜く彼は、冗談抜きでスバルを屋敷に招くつもりだ。声の力強さが、意志の強さだろう。
そのまま、お互いの目を覗き込むように黙り込む二人が睨み合う。覗き見るものは、瞳の奥に宿る意志。言葉ではなく目で会話する彼らが、正面の相手の心を読み取る。
彼のことを世界で一番理解してるテンは、それだけで全てを察した。声色から目の色、顔つきまで真剣になられてしまえば、言葉の本気度合いは自然と理解できる。
だからテンは「はぁ」と、またハヤトが厄介事を持ち帰って来そうな予感にため息を一つ。それから首をがくりと折り、呆れたような笑みを薄く浮かべ、
「そっか……。お前は、そーゆー男だったね」
「おう! よく分かってんじゃねぇか。俺が孤独な人間を放っておけるわけがねぇ、ってな。必ず手を差し伸べるぜ。なにがあっても」
期待していた返答の「おう!」が聞こえてきたが、生憎と今じゃない。清々しいまでの満面の笑みを浮かべながら赤の他人を助けると言い張る男には、やはり自分の言葉は通用しなかった。
周囲の人間になにかあったとき、損得勘定をせずに真っ直ぐ助けに走るのがテンの知る『カンザキ・ハヤト』という名を持つ男。頭よりも先に心が体を突き動かす彼の辞書に無視という単語は無い。
助ける。助けるったら助ける。助けると一度でも決めた相手は絶対に助ける。それが赤の他人であろうが、意地でも意志は曲げない。諦めるなんて絶対にしてたまるものか。
「……俺は、彼はこの屋敷に来るべきじゃないと思う」
「なに?」
ハヤトの意志を聞いた上で、テンは真っ向から親友の意見と対立しにかかる。二人の性格は対極に位置している——その事実がこの場で発揮されると、ハヤトの双眼はより尖った。
ハヤトがスバルを助ける派ならば、テンはその反対を行く。死を前提とした難易度の世界でやり直せる人間が身近に居ない重大性に気づいておきながら、テンは意見を否定する。
「だって、考えてみろよ。今、彼が屋敷に来たとして溶け込めると思う? 俺とお前の存在がエミリア陣営にとって大きすぎる今、今この瞬間、彼の居場所がこの陣営にあると思う?」
「その言い方は
「でも事実だよ。自惚れてるわけでも、過大評価してるわけでもない。俺とお前がこの屋敷に馴染みすぎたせいで彼の居場所を奪っちゃってるの。分かんないわけないよな?」
威圧気味なハヤトに対し、テンは一切の怯みを見せない。普段はのほほーんとした態度を一貫する彼も今はハヤトと同等か、それ以上の真剣さを身に纏っていた。
今、論議していることはそれだけ大切なことなのだ。ハヤトの私情だけで決めていいことではない。誰も見捨てれない彼の優しさは尊敬するし、自分じゃとても真似できない器の広さだと思うけど。
けれど、その意のままスバルを屋敷に連れてきた場合。明らかに彼が良くない雰囲気を屋敷に齎すような気がしてならない。
色々と考えて、テンはその結論に至った。
「俺は————彼のヒロインを奪ったんだよ。彼が屋敷に溶け込むのに必要な人達の心を、俺が惹きつけちゃってんの。彼に向くはずだった心を」
完全に無意識ではあったけど、自分がレムとエミリアの心を奪っている事は変えられないことであり、それがスバルにどのような弊害を齎すのかは曖昧だ。曖昧で、分からないことだらけ。
けど、二章でスバルに救われるレムが現段階で救われている事が二人の関係を築くことを困難にさせているのは事実であり。完全に心を開かせる事が不可能に近くなってしまっていることは分かる。
自分で考えていてとても恥ずかしい話ではあるが本当のこと。今更、自分が二人に好きになられていないだなんて思ったりはしない。心酔されていると断言できる。流石にそこまで鈍感じゃない。
それは、ハヤトとて同じ。
「お前だってそうだよ。彼に引き寄せられるはずだったベアトリスの心を、お前が引き寄せてんの。惹きつけてんの。俺たち二人が、彼の立場を知らぬ間に悉く奪ってんの」
ベアトリスがハヤトに特別な感情を抱いていることくらいなら、今のテンにも分かる。鈍感から卒業した今の『ソラノ・テン』ならば、ハヤトとベアトリスのやりとりから察せるものはある。
だからこそ、だからこそだ。『ナツキ・スバル』がいるはずの場所に別次元から
「二章は彼がエミリア陣営の人たちから信頼を得る章なのに、それでどうやって信頼を得るのさ。方法はあるのかもしれないけど……あまり現実的じゃないと俺は思うし、彼にとっても息苦しいことなんじゃないかなと、勝手に想像してる」
考えすぎかもしれない。深読みかもしれない。いつもの悪い癖が再発しているだけかもしれない。
それでも、どうしてもそう思ってしまう。彼がエミリア陣営に加わったところで、それが彼にとって良いことなのだろうかと。
悲劇的に現状を捉えているだけかもしれない。深刻に思い詰めすぎているだけかもしれない。止められない思考が良くない方向で加速しているだけかもしれない。
それでも、どうしてもそう思ってしまう。彼が来たところで、彼の居場所はここにあるのだろうかと。
そんなテンの思いを、
「でも、俺は見捨てねぇ」
ハヤトは容赦なく捩じ伏せた。
テンの意見を聞いて「なるほどな」と納得した自分いないと言えば嘘になるが、そうであったとしてもハヤトは己の意見を変えるつもりなどない。腕を組む彼は堂々たる態度だ。
テンが彼の対応に驚く様子はなかった。寧ろ、そう言われるのを分かっていたように苦笑。「ですよね」と小さく呟いている。
自分と真反対な性格をした彼のことだ、意見が食い違うのは当たり前で、対立が生まれるのはいつものこと。だから、相手の意志を尊重することを両者は絶対に忘れない。
でなければ、喧嘩に発展する。
「そんな簡単に人間関係が築けるかな」
「築けるさ」
「俺らがここの人たちと仲良くなるのに、約五ヶ月近く時間を費やしたのに?」
「そうだとしてもだ。なんとかなるって」
目に映る全てを助けようと考えるハヤトと、大切な人さえ助かれば良いと考えるテン。
英雄気質であるか否か——そんな大きな違いが二人の間に決して超えることのできない壁を作ると、両者の目が途端に冷めていく。
それは、理解されることを拒絶したように。真反対なのだから理解できなくて当然だと断定するように。
「彼の居場所、ここにあるの?」
「作る」
「お前、ほんと、スゴイこと軽々しく言うね」
テンが否定的な言葉を言えば、ハヤトが肯定的な言葉を言う。そこで「作る」と言ってしまうあたり、ハヤトにスバルの居場所が怪しいと分かってもらえたようだ。
尤も。分かったとしても、彼の意志が折れることはないから大した意味などない。頭では理解していても、理解した事を心が許容するかどうかは話が別なのだから。
要するに、「そんなの分かってるよ!」というやつ。分かっていてもハヤトは、孤独なスバルを見過ごすことができない心優しき男で、友人思いな良いやつだ。
故に、
「平行線か………。これ以上やっても何も変わらない気がする。やめようか」
「テメェがなんと言おうが、俺は自分の意志を曲げるつもりはねぇぞ?」
「分かってる。分かってるよ。もう好きにして」
テンとハヤトが意見の食い違いで対立した場合、その話を折るのはテン。ある程度の意志を衝突させたところで無理だと判断し、彼は無理に意地を張らずに引き下がる。
ハヤトと対立すると毎度のように疲れてしまう。何を言っても己の意志を刹那たりとも曲げない頑固さに、意図せずにため息が口から溢れてしまいそうだ。
それは逆もまた然りなのだが、話し合いを強制的に断ち切ったテンは気付かない。息が詰まる緊張感を部屋に充満させた男二人が緊張を解くと、尖っていた目が和らいだ。
「お前の意見を全否定するわけじゃないから強くは言わないけど、彼をここに連れてくるのはみんなにとって修羅の道だよ。きっと」
「連れてくれば見えてくるものだってあるはずだ。やる前から怖気付いてどうすんだよ。情けねぇな」
「慎重と言ってほしいね。お前は全部が全部、楽観的すぎるんだ。いつか死ぬぞ」
「お前は悲観的すぎるんだ。ちったぁマシになったかと思ったが、その悪い癖はまだ完全には抜けてないようだな。残念だぜ」
「あっそ」
珍しく嫌味を言い合う二人。
話し合いの中で、静かに熱が入っていたのかもしれない。ハヤトの嫌味に返された返答も素っ気ないもので、世界で唯一の親友に向ける言葉にしては無愛想だった。
あまりこの場にいるのもよろしくない。なんとなくそんなことを悟ったテンは、胡座を崩して重い腰をゆっくりと上げながら立ち上がり、
「臨機応変、ってやつかな。実際に始まってみないと分からないことだらけだし。今から言い合っても仕方ない。今日は寝て、お互いに頭ぁ冷そう」
「そうだな」
まだなにも始まってない、全てが曖昧な中で対立してどうする。そんな風にテンは眠たげにあくびし、ハヤトは少しばかり声に熱が込められていたと反省。
そうして、二人は頭を冷やす。二人が今回のような熱の入った対立をするのはごく稀なために、やり過ぎていたと話し合いが口喧嘩に発展する前に自制した。
果たして、この二人が本気で喧嘩をする瞬間はくるのだろうか。
「とにかく。まずは明日、エミリアのことはよろしくね。絶対に目ぇ離しちゃダメだからな。離すなよ、絶対に離すなよ」
「フリか?」
「殴るよ?」
「冗談だよ」
軽快に軽口を叩き、二人して軽く笑い合った直後、立ち上がるテンが部屋から出る気配。大体の話し合いを終えてハヤトに背を向けると扉へと歩き出し、
「じゃ、おやすみ」
「うい。おやすみー」
そのやりとりを最後に、二人の原作対策会議は終わったのだった。テンの一抹の不安と、ハヤトの昂る感情を残して、一日は終わりを迎える。
——運命の日は、目前だ。
だいぶ前のお話の後書きでお知らせしたことなので忘れてる方もいると思いますし、改めてお知らせします。
この物語はあくまで原作が開始するまでのものですので、原作が開始したと同時にこの物語は完結します。要は、この小説そのものが終わりを迎えるということです。
そうしたら、また新たに枠を設けて原作開始後の物語を書いていきますので。よろしくです。
なので、この小説が完結するまであと少し。最後まで突っ走ってやりますよ。もしかしたら、次回で最終回かも。まぁ、終わる終わると言って長引くのが私ですので、無視してください。