——薄暗い部屋に、一人の人間がいた。
椅子に座り、小学生の頃からずっと変わらぬ机と向き合いながら、モニターに向かって暴言をボソボソと呟き続けている。その者の手元には、素早い指捌きでタイプされ続けるキーボードが一つ。
カーテンを閉め切った部屋は机に置かれたデスクライトが照らす領域以外は暗く、物体の輪郭がひどく曖昧で。狭い部屋に数多と飾られたフィギアや、壁に貼られた三枚のポスターも今は見えない。
部屋の住民の趣味が全面的に押し出される世界——そんな自分だけの空間に、その人間はいた。
「ふぅ」と、吐息。
長時間も椅子に座り続けたせいで一直線だった背筋は猫背になり、モニターと睨めっこする鋭い目つきは死んだ魚のように活気がない。
後者はともかく、前者は本人も感覚的に感じたのだろう。「んーー!」と喉を鳴らしながら大きく背筋を伸ばした。それから、なんとなく机に置かれた時計に視線をやる。
どうやら、電子の世界に没頭しすぎていたらしい。時計の短針は『6』を僅かに過ぎ、没頭する前と比べて部屋も、部屋の外も随分と暗くなってしまっていたことに気づく。
「はわぁ」と、あくび。
画面の中から現実世界に意識を向けた途端、体の内側にある様々な機能が声を上げ始める。意識下から外れていたそれらが、違和感としてその者に変化を齎した。
初めに感じたのは眠気。自分と同年代の人間たちが学校で勉学に勤む時間帯からずっと現実から逃避行していたのだから、目も疲れるし頭も疲れてしまう。ついでに指も。解すと良い感じにゴキゴキ鳴った。
次に感じたのは空腹。昼食を済ませから五時間以上も経ったのなら当たり前の話だ。ぐぅ。と、空になった胃袋が獲物を寄越せと体内で暴動を起こしているのが音で分かる。
それ以外にも、虚無感や鬱屈感などといった負感情を湧き上がらせる違和感は生じたものの、特に目立ったのはその二つ。意識に飛び込むと、変に虫の居所が悪くなってきた。
ーー夜食でも買いに行こう
思い立ち、その者は椅子を引いて立ち上がる。家から出るのは数十日ぶりだが、この状況ではそうも言ってられない。
空腹を満たせば、解消するものもあるはずだ。なにか、ずっと心の中に居残り続ける歪みを刹那でも忘れさせてくれるような心地よさが、きっとあるはずだ。
そんな淡い期待を僅かに抱き、ジャージ姿の人間はケータイと財布をポケットに突っ込みながら机のライトを静かに消した。
ーーなんとなく、親に会いたくない
もうずっと前から胸に歪みとして在り続ける思いに息を潜め、その者は音を立てぬように扉を開けて、閉める。
階段を降りる足音を殺して、自分という気配すらも殺して、リビングにいる母親に気配を悟られないようにする。玄関に行くには、まずリビングの前を通る必要があるからだ。
会いたくないのは、親に対して後ろめたさがあるからだろうか。
知りたくない。考えたくない。考えると、どうしようもなく自分が惨めに思えて、情けなく見えて、死ぬ勇気もないくせに死にたくなってくる。
そんな毎日が無限に続いて、いっそ「お前なんか自分の子じゃない」——そう言われて親に投げ捨てられてしまえばいいのに、なんてことも不意に考えるようになって。
そんな自分に、生きる価値などあるのだろうか。
この家族に、愛を向けられる価値などあるのだろうか。
そもそも、自分に価値などあるのだろうか。
やめよう。考えるだけ無駄だ。考えないようにしてもどうせ考えることになる。それなら、今はとっととコンビニに行くことに意識を向けた方がずっといい。
幸いにも階段を降りることには成功した。今のところ気配を悟られている様子はない。早いところ靴を履いて外に出よう。
一階の床に足裏を合わせ、息を詰める。一歩一歩に静寂を宿しながら、気配を殺す。リビング前の扉を通り過ぎ、ほっと一安心。玄関に到着し、気が緩む。
使い古したスニーカーを履いて、
「——昴?」
瞬間、安心した気の緩みが一気に引き締まる感覚をその人間——『菜月・昴』は得た。声と同時にリビングの扉が開かれる音が冷え切った廊下に小さく木霊する。
背中に、母親の柔らかくて温かな視線を感じる。けれど、その温かさは昴にとっては心を抉られるようなものだから、声に反応して振り返ることはできなかった。
故に、名を呼ばれた昴は靴を履いて玄関扉の取っ手に手をかける。先程から虫の居所が妙に悪いことも重なって、振り返るどころか声を返すことすらできない。
そんな昴に対して母親は、嫌味を言ってくるわけでも、それ以外のなにかを言ってくるわけでもなく。
ただ、一言。
「——いってらっしゃい」
優しさに満ち溢れた声を無視し、昴は玄関扉を開けた。
変わらぬ愛を、変わらぬ声で、ずっと心に注ぎ続けてくれる存在から目を背け、耳を塞ぎ。
帰ってきたら「おかえり」を言われなければならないのかと憂鬱気味に考えて、家から足早に去っていく。
それが、一生の別れになるとも知らないまま。
☆☆☆☆☆☆☆
——王都ルグニカ。
それは世界の最も東に位置する大国であるルグニカ王国の主要都市ともいえる、人口が三十万人程度の大都市だ。
貴族や賢人会の議員、近衛騎士の名誉を与えられた騎士などの家名に恵まれた人間たちの住む貴族街などの地域の上層区。商い通りなどの商業区や庶民の暮らす平民街、貧民街などの地域の下層区。
その二つの境界線がはっきりしている都市の規模は凄まじく広大で、他都市からの行商人が行き交うことが日常茶飯事であるここは活気が衰えることがなく、正しく主要都市と言える都市である。
それほどの大都市ともなれば正門を出入りする竜車は数えきれないほどに多く、
「——門を潜ったみたい」
様々な竜車が行き交う中、ロズワール邸を出発した竜車も今しがた王都ルグニカの正門を通過したところであった。
屋敷を発ってから早四時間。途中で昼食休憩を取るために一時停止したものの、依代の中に居るパックを含めた五人は目的地に到着したのである。
門を潜ったことを知らせたのは窓から外を眺めていたエミリア。テンが客車の中から消えたことで暇になった彼女は無意識に彼のことを考えながらぼーっとしていたところ、不意にその事実に気づく。
「お? ……やっとか」
ここ最近、テンのことを無意識のうちに考えていることが多いエミリア。そんな恋する乙女の声に反応して目を開けたのは、口を半開きにしながら爆睡していたハヤトだった。
彼は昼食を挟んで再出発した以降から微睡み始め、前回のように賊の襲撃に遭うことのない平穏な旅路だったために意識を手放し、今こうして起こされたわけである。
ちょっとだけ、前みたく賊に襲われて軽めの運動程度に戦えることを期待していたところはある。とても不謹慎な考えで、口にすると怒られそうだから自分の中だけで完結しておくが。
正面に座っていた男がいなくなってスペースに余裕が生まれた客車の中、ハヤトは手足を前に突き出して固まった体を大きく伸ばし、
「テンのやつ、まだ御者台に居んのか?」
あくびが浮かぶ口で、数時間前は自分と同じように客車にいた男の名を呼んだ。昼食を挟むために竜車を止め、再出発するときに「俺はラムの隣にでも座ってよっかなー」と言って客車から御者台に消えた男の名を。
それで間違っていなかったらしい。斜め前の椅子に深く腰掛けるエミリアは「うん。そうみたい」と、若干口をつーんと尖らせながら軽く頷くと、
「私たちが客車の中で楽しそうに会話してるのにラムだけ御者台で一人なのは仲間外れ感があって嫌だ、って言ってたわ。ラムが寂しそうだから、って。ラムはすごーく否定してたけど」
どこか拗ねた様子なエミリア。
膝に手を置いて頬を小さく膨らませる彼女は言葉を紡いだ後にも「私だって……」と窓の外に向かって呟いたが、車輪が回る音に掻き消されてハヤトには聞こえなかった。
それでも、彼女が未だにご機嫌斜めなのは分かったハヤト。彼は「そうか」と適当に返すと作ったような苦笑を一つ。幼子を彷彿とさせる彼女を見ていると、故郷の妹が脳裏に過ぎる。
竜車が出発してからテンが機嫌を取り戻そうと四苦八苦しているのを目の前で見ていたのもあるが、態度から滲み出ていることを彼は察している。彼女としては隠しているつもりだろうが、バレバレだ。
「ま、そのうち帰ってくんだろ。気長に待ってようぜ」
だとしても、彼は口を挟まない。置き所のない視線を適当に窓の外へと放り、流れる街並みを流し見。
レムの破壊力が限界突破した状況であったとしてもテンの落ち度であったことに変わりはないし、女の子二人から好かれるテンの立ち位置がイマイチ気に入らないから。余計な言葉をかけることはない。
嫉妬しているわけじゃない。異世界系の物語で一般化しつつあるハーレムが嫌で、今現在のテンがそれに当てはまりつつあるのがとても嫌なだけ。
完全に私情で好みの問題だけど、私情だからこそ心情的に介入し難い。過去でラムに語ったように『男一人に対して女一人が当然』というのがハヤトの恋愛観なのだ。
というか、それが普通だとハヤトは思う。平凡な男が異世界に来た途端に好かれ始めてハーレムを築くとか、一体どんな原理なのか教えてほしい。
尤も、テンの場合は約四ヶ月という時間の全てを絆を育むのに費やしての今だから、なんとも言えない部分はあるが。ゆっくり、じっくり、少しずつ、二人との距離を無意識に縮めていったから全否定はできないが。
それでも、だ。
「ねぇ、ハヤト」
人間の価値観は簡単には変わらない。なにか、劇的な出来事がない限りは。皮肉にもテンにはその劇的な出来事が自分の知らない間に起こって、彼の中で大きな変化があったようだが。
生憎と、ハヤトにはその感覚が訪れた気配はない。依然として日本で養われた恋愛観は息をしているし、ちゃんとテンに対して嫌悪感を抱いてしまっている。
「ーー? ハヤトってば」
親友に対して嫌悪感を抱くのは久々だ。
真反対な性格をしているから意見の食い違いで対立することは多々あれど、三年以上もの付き合いで築かれた絆にヒビが入ったことはおろか、ヒビが入る予感すら一度もないのに。
どうやら、ヒビが入らない事と嫌悪感を抱かないことはイコールではないらしい。決してテンそのものを嫌っているわけではないけど、今のところその一部分を嫌ってしまっている自分がいた。
「ハヤトー? おーい。ハーヤートー」
いつか、この事について彼と話してみたい。
色々とあった彼の心情を直接聞いて、自分の心情を直接語って、面と向かって意見を交換してみたい。きっと衝突してしまうかもしれないけど、それでも。
彼はもう、自分の知る『空野・天』ではなくなってしまったから。自分の知らない『ソラノ・テン』に成ってしまったから、知らない部分を知る必要がある。
だって自分は彼の唯一の親友で、彼は自分の唯一の親友だから。
「ハヤト!」
「………なんだ?」
ふと、聞こえてきたエミリアの声にハヤトの意識が心の中から引っ張り上げられる。窓の外に放っていた視線を戻すと、視界に映ったのは伸ばした背筋が前のめりになる声の主。
依然として拗ねた雰囲気を色濃く纏う彼女は、しかしハヤトに八つ当たりないようにと己を自制。この不満感は別れる前にテンに思いっきり殴りつけるとして、
「なんだ? じゃないわよ。ずっと呼んでるのに」
「あぁ……そりゃ、悪かった」
この後、テンと一悶着あるであろうエミリアにハヤトは首を前に傾ける。その口ぶりから察するに、何度も名前を呼ばれていたらしい。強く呼ばれるまで全く気づけなかった。
少し、考えすぎていたかもしれない。意識の底に頭から深々と潜り込んで、別に今考えることでもないことをじっくり考えようとしていた。
「ぼーっとしちゃったりして、どうしたの?」
基本的に頭ではなく心で動くハヤトがぼーっとするところを見るのは割と稀で、偶然にも珍しい場面に居合わせたエミリアが不思議そうに小首を傾げる。
頭の上に小さな疑問符をひょこっと生やす彼女にハヤトは「いや」と、ぼーっとしていた元凶を振り払うような風に頭を小さく振ると、
「なんでもねぇよ。ちょっと眠気が残ってただけだ。気にすんな」
手をひらひら振りながら吐息。吐き出した息に頭を悩ませる考えを含ませ、吸う息で窓から吹き込む新鮮な空気を取り込む。そうして己の中を換気し、ハヤトは気持ちを切り替えた。
絶対になんでもなくないが、それを今ここでエミリアに言うのは無しだろう。咎めるべきは自分の親友であり、目の前にいる可愛らしい少女ではない。
「そ。ならいいんだけど」と、前のめる姿勢を元に戻して椅子に深く腰掛けるエミリアもそれで完結してくれた。必要以上に問い詰めず、ハヤトの誤魔化しを真に受ける。
「んで? 名前を呼んだっつーことは用があんだろ?」
一つの会話が終わると、ハヤトは会話を一番初めに戻した。自分のせいで脱線してしまったのだから、修正するのもまた自分。『テン二股問題』は頭の片隅に追いやり、彼はエミリアに本題を促す。
「なんだ?」と、投げかけるハヤト。本題から脱線した話に軌道修正を掛けるのは慣れっこな彼にエミリアは「それなんだけど」と、
「ハヤトは、テンは何日で屋敷に帰ってきてくれると思う?」
「……アイツがいなくて寂しいか?」
思い出したように口にされた一言——たったそれだけでエミリアの心をハヤトは見抜いた。窓の縁に肘を乗せながら頬杖をつく彼は、ふっと真剣な色を表情に混ぜ、静かな声で問いかける。
それだけで見抜けたのは、今のエミリアが分かりやすいからだ。否、テンの事となると毎度のように感情が態度に出やすくなるからだ。
そのような事に関してテンよりも敏感なハヤトならば見抜くことなど容易いし、事実として間違っていなかった。「うん……」と弱く頷くエミリアは膝に添えた手をきゅっと握り、
「テンとはちゃんとお話して。そのときは、我慢できる、って言えたんだけど……」
そこから先は、紡がれない。
口篭る彼女の顔には僅かな陰りが生じ、我慢しようとしてもできないものがあるのか、やはり不満そうな雰囲気が滲み出る。寂しい気持ちと拗ねる気持ちが混ざり合い、色々と複雑そうな顔だった。
態度から察するに、やっぱり寂しい気持ちは溢れる、ということだろう。どれだけ気持ちを固めても、いざその場に立ち会うと膨れ上がる感情はあるものだ。
素直で、正直で、まっすぐな少女だと本当に思う。想いに対して実直な様は見ていて微笑ましいものがあった。
尤も、事情が事情だけあって少々微妙な気持ちになってしまうのが否めない。
「少なくとも、五日以内には帰ってくんだろ。最低でも二日だからと言っても、そこまで伸びることもねぇだろうし。そも、二日で帰ってくるかもしれねぇしな。気長に待ってりゃ、すぐだよ」
エミリアの態度はさておき、ハヤトは率直な意見を述べる。最後に気休め程度の言葉を付け足したのは、テンが無意識的に惹きつけてしまった少女への小さな気遣い。
正直、そこまで寂しがることだろうかと思わなくもない。レム然り、エミリア然り、流石にテンに依存しすぎではなかろうか。違う、テンが二人を甘やかしすぎなだけだ。テンが悪い。二人は悪くない。
そうなると、もしもテンがこの先の戦いで命を落とすようなことがあれば二人はどうなる——なんて、本気で洒落にならないことを考えるハヤト。
そんな彼にエミリアは「やっぱり、ハヤトもそう思うわよね」と、恋のため息。
「私もそう思うの。そう思うんだけど……やっぱり、すごーく寂しいのが抑えられない。レムを見てると、もっともっと抑えられなくなっちゃった」
「私、本当にどうしちゃったんだろう」と、エミリアは無理解な想いに苦心。ずっと前からずっと考えているのにやっぱり解らない気持ち、それが心をひどく苦しめてくる。
本当に——本当にこの想いはなんだろう。腕輪を贈られた日に芽生えて、彼が危険な場所に飛び込んだ夜に気づいて、彼が深い眠りについてから爆発的に膨らんで、そこから膨らみ続けるこの想い。
生きてきた中で一度も抱いたことのない想いは、自分にとってとても温かいもので。それでいて、苦しい。想いを解ろうとすると胸が熱くなって、鼓動の高鳴りが止められない。
自分が自分じゃなくなった感覚がする。こんなの前の自分、テンと出会う前の自分じゃない。けど、そんな自分を許してくれる人がいるから、自分自身も受け入れてしまっている感じがして。
「……はぁ」
その度に、こうしてため息が勝手に溢れる。心の中にあるもやもやしたものを発散するために、甘い吐息はいくつも重なる。その吐息が恋のため息だなんてこと、エミリアは知らない。解らない。
恋する乙女、エミリア。テンと出会って初期状態からだいぶ変わってしまった女の子になんと声をかけるべきか、ハヤトは悩んでいた。
故郷において男女問わず恋愛相談を数多と受けてきたから対応には困らないと思っていたのだが、今回の相手は『好き』という感情を知らない子。
無自覚の状態で相手を好きになってしまった乙女に、自分はなんと言ってあげればいいのか。この状況に好印象を抱けないことも相まって言葉選びに困ってしまう。
となると、
「その辺、今は……俺は何も言わねぇ。言わねぇから、お前のやりたいようにやれ。お前がテンに接したいように接して、自分の満足のいく別れ方をしてこい」
「私の……満足のいく別れ方?」
「レムにあれだけやられたんだ。お前がわがまま言ってもアイツは受け入れんだろ。アイツ、お前とレムには甘い男だしよ」
あとのことを完全に丸投げする形でハヤトはエミリアにアドバイス。アドバイスと言えるかどうかは曖昧なものの、この状態の彼女を前にした彼には何も言わない選択肢など無いのだ。
他に言いたいことはある。色々と聞きたいこともある。けれど、ハヤトは喉元にまで迫り上がるそれを無理矢理飲み込み、「そうだろ?」と指を軽快に鳴らして笑いかける。
その笑顔を見ながら、エミリアは胸に手を当てて沈黙。自分の満足のいく別れ方——その言葉を頭の中で何度も繰り返し、心の声に耳を傾けた。
それがきっかけだったのだろう。沈黙を破るために口を開く彼女の表情から陰りが引いていくと、
「うん。そーする」
浮かべた笑みに、迷いはなかった。
自分の中で何かしらの結論が出たか、あるいは決心がついたか、なんにしても自分の目に映る笑顔が美しいものだとは分かったハヤトである。
今の言い方、どことなくテンに近いものがあると思わされたのは気のせいだろうか。
「つーかよ、エミリア。ちょっと聞いていいか?」
これ以上は、自分が口を挟むことはない。暗い話をする必要もないだろう。なら、さっさと次の話題に移ろう。そんな風に明るい声でハヤトは話題を切り替える。
暗い話を嫌うハヤト。なるべく女の子には笑顔でいてほしい、なんてありきたりなことを思う彼は、声に反応したエミリアに「ん?」と小首を傾げられると、
「お前って、今日はなんのために王都に来たんだ? 予定があるとは聞いちゃいたが、詳しいことは知らないぞ」
今になって思い出したというか、なんというか。
朝っぱらから忙しすぎて気にしていなかったが、よくよく考えてみればエミリアが王都に訪れた意味をハヤトは知らない。
王都の正門を潜った現時点だと今更感が否めない質問だけれど、気になってしまったものはしょうがないだろう。それに、知れば今後の動きの見通しが立つ。知っておいて損はないはずだ。
そんな彼への返答は、
「えっとね……。お屋敷でお勉強ばっかりしてたら外の世界に疎くなっちゃうから、息抜き適度に王都を歩いてきなさい。って、ロズワールに言われたわ」
「なるほど」
なにが「なるほど」なのかは言ってるハヤト自身よく分からないが、取り敢えずの返答をしてその言葉を口にしたハヤト。腕を組む彼はその言葉を咀嚼、彼女が王都に来た意味に見当をつける。
今の発言。要するに、屋敷で勉強漬けのエミリアには外からの刺激が足りないから自分が足を運んだこともないような場所に行って感性を養ってこい、ということだろうか。
世間知らずなエミリアにとっては大切なことだ。王様になるには頭が良いことはもちろん、人としての成長が求められるのだから、様々な経験はしておいた方がいい。
つまりは、
「ただの観光じゃねぇか」
「うん。そーだよ」
尤も。これがロズワールの策略だったのなら、事が済んだらあのピエロ顔をぶん殴ってやりたいところ。
「来たことがなかったから、すごーく楽しみ」
この後に面倒事が控えているとも知らないエミリア。視線を窓の外にやる彼女は、竜車が通り過ぎた噴水広場、果物を売っている厳ついおじさんなどを見流しながら脳裏にテンの姿が過る。
テンが一緒ならもっと楽しみ——とは、胸の中だけで言っておくことにした。本当なら彼と一緒が良かったのに、残念なことにテンはあんな感じだ。
今更、気にしてもしょうがない。そんなこと、頭は分かっている。分かっていても心は分かっていない。分からせようと頭が頑張っても、心は頑固。
そのせいか、初めて王都にくるのに素直にはしゃげない。ワクワクするのに、その気持ちを塗り潰す気持ちがあるせいで、もやもやする。
まったく、テンには心を悩まされることばかりだ。目的地に着いたら八つ当たりしてやる。別れる前にわがまま言ってやる。今のうちに覚悟しておけ。
「そうか。なら、今日は存分に楽しめ」
テンに対してエミリアが幼い思考を巡らせる中、ハヤトはポツリと一言。視線を逸らされたことを会話が途切れる合図と受け取った彼も、己の視線を窓の外へと放った。
今日という日を存分に楽しめるかどうかは、怪しいところではあるものの。
▲▽▲▽▲▽▲
「暇よ、テンテン。歌でも歌ってラムの暇を紛らわしなさい」
「無茶振りすぎない?」
場所は変わり、客車から御者台へ。
竜車の動力である地竜を操る者が座る場所には、手綱を軽い力で握りしめるラムと、彼女の隣に身置くテンの二人がいた。こちらも、客車の二人と同じように談笑中だ。
テンがラムの隣に座る理由はもちろん、エミリアが語ったものと一緒。自分たちが客車でわちゃわちゃする中で御者台に座るラムが一人だと、なんとなく仲間外れ感があって嫌だから。
ラムとしては別に気にならないのだが、テンとしては気になるらしい。お陰で昼食を挟むために一時停車するまで静かだった御者台は、動き出した以降から二人の声で満たされている。
「歌でも歌え、って……。お前が知ってそうな歌なんて歌えないし。つーか、俺は普段から歌を歌うような人じゃないよ」
「でもこの前、テンテンが一人で入浴してるとき浴場で熱唱してたの、ラムは知ってるけど」
「なんで知ってんだよ」
自分という人間を取り繕ったテンの嘘を軽々しく破壊したラムが嘲笑。全てを見透かしたような笑みを浮かべられたテンは、顔に手を添えて「聞かれてたのかよ……」と俯く。
ロズワール邸の浴場は声が反響しやすく、歌を歌うのに適した環境だから湯船に浸かっていると鼻歌から発展して歌詞が口に出てしまうことがあるとは自覚していたが、まさか聞かれていたとは。
聞かれるはずがないと警戒を怠った自分も自分だが、黙って聞いていたラムもラムだ。手で口を押さえて笑いを堪える姿が容易に想像できる。
「人前で歌える歌なんてないから、ラムに聞かせられるような歌なんてないよ。そも、そこまで上手くないし」
聞かれていたものはしょうがない。
変に隠すことはやめたテンは、顔に添えていた手を退けながら姿勢を正して背筋を一直線にぴーんと伸ばす。照れると必要以上に揶揄われると彼は知っているのだ。
ここは堂々と。別に聞かれたところでなんてことないのは本当だから、萎縮した態度をラムに見せる必要はないだろう。
実は歌を歌うのが好きだったソラノ・テン。大学時代、多いときでは週一で一人カラオケに訪れていた過去を持ち、店員に顔と名前を覚えられたことがある彼にラムは「でも」と否定を口にし、
「早朝の仕事でテンテンが花壇の花に水をやってるとき、ひーまわりのたねー、って聞いたこともない歌を一人で楽しそうに歌ってたのもラムは知ってるわよ」
「なんで知ってんだよ」
「偶然に居合わせた、と言ったところかしら。不思議なものね。またテンテンの新しい一面を知ってしまったわ。知りたくもなかったけど」
事実かどうか怪しい発言にテンはまたしても項垂れる。小道から大通りに出る竜車を操りながら言ってくるラムに「ほんとかよ?」と疑問をぶつけるも、「嘘をつく必要があって?」と刹那で返された。
声色からして本当らしい。基本的にラムはテンに嘘をつかない人間であるということも含めると、その信憑性は高まるばかりで。
つまりは。風呂場での熱唱も、早朝の水やりでの熱唱も、知らないところで聞かれていたということになる。
よりによってラムに。
「朝から騒々しかったわね。まぁ、テンテンの赤裸々話ができたからラムとしては満足だけど。ついでに、テンテンがニコニコしながら歌う面白い様も見れたし。あれは、レムにも見せてあげたかった」
「まじか。こいつ」
一番見られちゃいけない人にしっかり見られたテンの声色が「やっちまった」と言わんばかり落ちる。先程の堂々とした態度を貫く意志は今の一言で簡単に潰え、弱みを握られた気分に背筋が凍った。
尤も。別に言われたとしても構わないが、それを言うとラムの楽しそうな表情が崩れそうだから言わない。彼女が楽しそうなら、今は揶揄われてやることにした。
この会話は、彼女の暇つぶしのための会話だから。
「テンテンはひまわりの種が大好きなの?」
「歌詞だから。そーゆー歌詞なだけだから。真に受けないで」
「歌詞に自分の好みを重ねていたのね。……そう。ひまわりがなんなのかは知らないけど、似たような名前の種なら知ってるから、今度から朝食の皿に添えておくわ」
「だから真に受けんなって」
至極真面目な声で言われると冗談に聞こえないラムに、テンは項垂れて曲がった背筋を伸ばしながら断固拒否。周囲の流れに任せて直進する地竜を横目にしながらこちらを見てくる赤色の瞳と視線を絡め、苦笑いを浮かべた。
そんな苦笑いに返ってくるのはいつも「ハッ!」という嘲笑である。汎用性のあるそれは彼女にとって感情表現の一種であり、様々な意味合いが含まれた口癖。
今回の場合は、おそらく親しみを込めたそれ。親しい友人同士が話すときに見せる微笑——と、表現するのがきっと分かりやすい。
分かるようになったのは、ラムのことを少しでも理解できたからだろうか。色々とあって仲良くなった女の子のことを、分かってあげられるようになれたからだろうか。
なんだっていい。今は、このくだらない会話を続けることに意識を回そう。その方がずっと楽しい。
「冗談でも真に受けないでよね。俺はとっとこでもないし、ハムスターでもないし」
「誰よ、とっとこ」
「とっとこは人じゃないよ」
「じゃあ何よ」
「だからハム……なに、このバカみたいなやりとり。多分、危険が危ない、って言ってるやつと同類だぜ? 今の俺ら」
中身がすっからかんな偏差値の低いやりとりを軽快に刻むテンとラム。仲の良さが原因で話し出すと止まらなくなってしまう関係性な二人の会話は基本的にこんな感じだ。
会話自体に意味なんてない。ただ、こうして話すのが楽しいと感じてしまうから軽口に軽口が積み重なり、冗談と冗談が無限に混ざり合う。
言葉の意味を理解してなくとも、ラムにはそれが不思議と心地良い。何を言ってるのかまるで分からないけど、テンとこうして話すのは嫌いじゃない。
ラムは、薄く微笑んだ。
「仕方ないでしょう。人と人とが話すとき、知能の差が開きすぎていた場合だと片方が片方の知能に合わせる必要があるもの。テンテンは、合わせてあげてるラムに感謝なさい」
「それはつまり、俺がバカだって言いたいのかい」
「自覚できないほどに頭が残念だったのは計算外だった。……かわいそうに」
「おいやめろ。俺のことをそんな目で見るな。前、前を見てください。十字路ですよ、お嬢さん」
文脈が繋がってなさそうで繋がってるラムの毒舌にテンは半笑い。ふわりと微笑んでくれた彼女から視線を外して前方を指さすと、見えたのは横に広く縦に長い大通りの中心である交差点。
数多の竜車が行き交うそこは、仮に御者台から落下すればまず命は助からない程に地竜が走り。街中ということもあって緩やかな速度ではあるものの、見ていて中々に迫力があった。
尤も、地竜の手綱を引くラムにとっては見慣れたものらしい。巧みな地竜捌きで竜車の大群の中を縫うように走り抜けると左折、脇道に逸れて大通りから抜け出た。
「すげー。あの中を抜けれんのかよ。流石ラム」
「この程度で賞賛されてもあまり嬉しくないのだけれど……。まぁ、一応、受け取ってあげる。ラムにとっては普通のことだけど、テンテンにとっては百年早いものね。ラムにとっては普通のことだけど」
「二回、言うなし。普通に喜んでよ、普通に」
「二回、言うなし」
「真似すんな」
交通の基軸となる通り抜けると、景色はそれなりに落ち着く。車輪が回る音と土埃が連鎖し続ける通りとは違い、商店街らしき道を走る竜車の周りにあるのは、露店を開く人たちと通行人の姿。
街を見回っていると思われる鎧に身を包んだ王国兵士に、露店を眺める女性。追いかけっこをする子どもたちの姿もあったりして、光景自体はアーラム村でも頻繁に見かけるもの。
ただ、違うのはその種族。様々な者が訪れる王都ともなれば、イヌミミやネコミミをひょこひょこさせた存在がその辺を歩いているもの珍しくはないのだろう。
たった今、横を通過した男性もネコミミだ。時折、ピクッと反応するそれを見ると、不意に「にゃはっ」と笑いかけてくるフェリックスの姿がテンの頭の中に浮上し————、
「なぁ、ラム」
腰掛けた御者台で身じろぎ。長時間座りっぱなしの背筋を大きく伸ばしながらテンは真横に座る少女の名を呼ぶ。「なに?」と返されると、自分の肩を軽く揉みほぐしながら、
「衛兵の詰所まであと何分くらいかかる?」
「漏らしたら投げ落とす」
「どこをどーしたらその結論に至るのさ。十八にもなって漏らすやつがあるか。ボケたがりやめろ。拾うのも大変なんだよ」
想像の斜め上を飛び越えるラムの返答に、テンは思わず笑いが声になる。「くはっ」と見ていて気持ちのいい笑みが表情を明るく彩り、笑みの波紋がラムの心を揺らすと彼女もまた微笑。
この人と話していると会話の濃さが薄れることがなくて、相変わらず言葉を交わしていて飽きない相手——今この瞬間にそう感じたのは共通のことだ。
意外と仲良しなテンとラム。背にする客車から聞こえてくる楽しげな声と同等のほのぼのな雰囲気に包まれる二人は、しばらく続く笑いの余韻に浸った。
それから、その波が引いていく感覚にテンは「ふぅ」と笑い疲れた吐息を溢し、
「単に気になっただけ。深い意味は無い。で、あと何分?」
「大体、十分程度かしら」
端的に大凡の時間を告げたラムにテンは「そっか」とだけ。他の言葉が見当たらない彼はラムから視線を外して正面、遥か先にある王都ルグニカの頂に鎮座する王城を見つめた。
——現在、王都に到着した王都出発組一行は衛兵の詰所に向かっているところである。
エミリアの予定を済ませる前にまずはテンの予定を済ませる。二つを比べたときに優先度が高いので明らかに後者であるし、エミリア自身も自分の予定よりもテンの予定を優先しろと言った。
そんな流れがあって、クルシュ邸の従者と合流する予定地点である衛兵の詰所前に向かっているというわけであり。
「……あと十分か」
小さく、一言。
ラムに聞かせるために呟いた言葉ではないそれには、少しばかりの寂しさが含まれていて。無意識に口から零れ落ちた声は、どこか不安を感じさせるものだった。
そんなテンを見てなにを思ったのだろう。遠くを見つめ始めたテンの意識を根こそぎ自分に引き寄せるラムは彼に軽く体当たりし、
「なに。まさか、ラムと離れるのが寂しいとでも?」
「あーさみしいー。はなれたくないぃいぃい」
「いやらしい」
「ノッてやったのにそんな受け流し方するのね」
冗談か、軽口か。
せっかくラムが撒いた会話の種に花を咲かせようと便乗したのに、開花する前に強制的に終了。物理的に距離を取るラムが手綱を握ってない方の手で己の体を抱き、テンに絶対零度の視線がブッ刺さる。
尤も、全く知らない人間しかいない屋敷に一人で泊まることに不安を感じないわけではない。高校の修学旅行で沖縄に行った際、宿泊二日目で「お家に帰りたい……」とホームシックになったほどだ。
あの時は友人がいたのにも関わらずのそれ。なら、ひとりぼっちならばどうなってしまうのだろう。完全に『借りてきた猫』状態になる自信がある。
「……ちょっとだけ不安なところはある」
「やっぱり」
「よく分かったね」
「声だけで分かる」
声だけで心の内側を見抜いてくるラムにテンは「すごいね」と一言。
たった一言——「あと十分か」の五文字でその自分を悟られるとは思わなかった。元気づけるような態度を取らせたラムには、要らない気遣いをさせてしまったかもしれない。
このような場面でこそ数秒前のような軽口やら冗談やらを叩き込んできてほしいのに。そうやって、適当に茶化してほしいのに。
彼女は、ふっと優しく唇を綻ばせて、
「レムやエミリア様の前で表に一切出さなかった心意気は褒めてあげる。——親しい友人の前でなら、その必要もないけどね」
ラムという少女は、エミリア陣営において最も心優しき女の子だから。当たり前のように弱い部分を曝け出せと言い聞かせてくる。ちょっとでもその心があるのなら、自分には隠すなと。
普段から軽口を言い合う関係なラムは、テンにとっていざという時は本当に頼りになるとても尊敬できる人で。自分よりもずっとずっとすごい人で。
そんな人に、温かさしかない声をかけられたら。こんなときに限って優しくしてくる少女に、レムとエミリアには見せられない弱い部分を許されたら。
「うるせぇよ」
と。
そう、ぶっきらぼうに返すしかなかった。けど、今のやりとりで少しだけ肩の力が抜けたから感謝しておくテン。
彼は「あら、お荒い口調だこと」と茶化してくるラムに「そーですかよ」と、いつもの口調で感謝を乗せた微笑を柔らかく浮かべたのだった。
次回、【親友とリゼロの世界に飛ばされたお話】
最 終 回
もう、書くこともないのでこれ以上寄り道をする必要はない。これまでは「終わる終わる」と言って結局は長引きましたが、次が本当の最後です。