特に書くことはないので。どうぞ。
ふかふかベッドの上に飛び込む。そうすると心地よい感触に全身が沈み込み、温かく包まれているような優しさを感じてくる。自分が整えたベッドはいつになく体に温もりを与えていた。
そうしていると、勝手にため息が口から出てくるもので。大きく深呼吸する彼ーーハヤトは全身の力を一気に抜いた。
「今日は流石に疲れたな。中々にハードな一日だった」
何度も深呼吸。吐息と一緒に蓄積されたものを外へと追い出すように。そのせいで気が緩み、余計に体の内側からそれらが存在を主張し始めた。体は動かそうにも動かす気にはなれない。
疲労感と倦怠感が、身体の上からのしかかりベッドに押さえつけているようにハヤトは錯覚した。重い、痛い、眠い。疲労感と倦怠感がその三つの存在を彼に意識させれば、体は横になる事を要求している。
ここまで疲れたのは久しぶりか。鍛錬始めたて、いやそれ以上の重怠さを今感じている。
「ほんと、良く生き残ったよな。自分が強くなれてるって実感できたから良かったけどよ」
拳を握りしめるハヤト、その力がいつになく弱々しいことに苦笑した。どうやらそれすらできないほどに自分は弱っているらしい。でも、そこまで必死にならないとあの森からは抜け出せなかったと彼は思う。
魔獣との初戦闘で数の有利を取られた挙句、全方位を囲まれる。初めてにしては中々に鬼畜難易度。生き残れたのは奇跡だ。尤も、その奇跡が起きたのは自分とテンの実力があったからこそ。
ちゃんと戦えていたから奇跡は起きた。大前提をクリアしていたから二人は生き残れた。詰まるところ、奇跡が起きた事は二人が成長している事を裏付けているに他ならない。
その事実に、ハヤトはこれ以上ないくらいに嬉しくなった。
「へへ。やってやったぜ、ロズワール。これでお前の見当違いじゃなかったってな」
顔の見えないロズワールに挑戦的な笑みを浮かべるハヤトがそれと一緒に口から笑い声を吐いた。おそらく自室に篭っているであろうロズワールに自分の力は証明できたと。
正直な話、ハヤトはあの時の発言にはイラッときていた。中間試験の実施が決まる直前に彼が発した言葉。
ーー私の見当違いが皮肉にも証明されることになっちゃいますねぇ。二人は、魔獣如きに遅れをとる半端者だったと。
思い出すだけでも胸の奥底が燃え滾る。自分達に力があると思ったのは思い過ごし、帰って来なければ自分達は半端者。自分達に対する明らかな挑発だと分かっていても見逃すことはできない。
一ヶ月半。それも、毎日のように心身共に限界まで擦り削って鍛錬してきた努力を、その歩みを半端者の一言で片付けられるなど許せるわけがないだろう。
「まっ、それも今回ので明らかになった。俺とテンはお前の期待以上の力をつけてることが証明されたぜ」
意地でも帰ってくる。そう決意してやり遂げた自分達はロズワールに力を証明したと言ってもいいと思う。あの地獄を生き抜いたのだ、これを力がついていると言わずして何という。
魔獣とも戦えた、冷静な判断ができた、大群に囲まれても突破できた、限界の限界の時でも諦めずに前に進めた。総合的に評価しても百点満点だとハヤトは自分の中で自負している。
試験的な評価で言えば合格ギリギリ、ラム的な評価で言えば零点。ハヤト的には百点満点。
「いや、今回ばかりは百万点満点とでも言ってやろう。良くやったな、俺」
自分でも何言ってるのか分からないが、とりあえず頑張ったことに対する労いの言葉を自分自身にかけるハヤト、彼は右の二の腕を揉み解す。
だいぶ無理をさせてしまった。大剣を振って、拳を振ってと重労働もいいところ。仮に明日の朝に筋肉痛という形でストライキを起こしても文句は言えない。もちろん、それは腕だけに限った話ではない。
明日は全身がストライキを起こさないか不安が残るハヤト。今ですら筋肉痛のような感覚に苛まれてるのに、これでぐっすり眠りでもした暁には想像したくもない苦痛に苛まれることか。
「…まぁ。甘んじて受けるとする。無理したんだから当然のこと」
今日は魔獣と格闘し、明日は筋肉痛と格闘することを覚悟。それが決まれば彼は潔く目を瞑った。もう日は沈み、部屋が暗くなりつつある空間で色々と考えていれば自然と眠たくなるもの。
布団の温もりに体を沈ませているならば、睡魔はより一層強化される。疲労した肉体はそれに打ち勝てるわけもなく、抗うことすらできない。
故に、心地よい感覚に身を委ね始めたハヤトの意識はどんどん沈んでいく。
「エミリア、ここまで来たら後は一人でも歩けるから。お前は部屋に戻っていいよ」
「ほら、そうやって無理して。私が言ったことまた忘れてる」
ふと、そんなやりとりが扉の前を通り過ぎていった。声的にテンとエミリアだろう。扉の先で何が行われているのか気になるところだが、テンが彼女に介護されてるのはなんとなく察した。
「あいつ……、マジで情けねぇ野郎だなぁ」
絵面を瞼の裏で思い浮かべ、彼はテンに届くはずもない声を小さくこぼす。戦っている最中に出てきた彼は形を潜め、いつもの彼が帰ってきていたことに内心ガッカリしなくもない。
尤も、
「たまにそうなるから、いいもんだ」
ここぞって場面で勇ましくなるのがハヤトの好きなところ。自分のように戦う姿は隣に立つ存在としては心強すぎる。
普段は真反対のくせに。そういう時だけは同じ方向を向いてくることに、どれだけ魂を震わせられることか。
相棒、親友、戦友、宿敵。言い表し方はいくらでもある存在。時に自分の背中を追い越すために努力する姿に驚異すら感じる存在。対極に位置するのに誰よりも心強い存在。
「ったく、頼もしいねぇ」
その存在に一言。いろんな意味をぎゅっと凝縮させた言葉を贈るハヤトは、その言葉を途切れに意識を完全に沈ませた。
▲▽▲▽▲▽▲
「それじゃあ、私も部屋に戻るけど。ちゃんと休むのよ? また無理してたら今度こそ怒るから」
「へいへい。分かりましたよーだ」
「そんなこと言ってたら刀は返してあーげない」
「すみませんでした。寝ます、休みます」
そんなやりとりが交わされた後、エミリアは微笑みながら部屋の扉を閉めた。
パタンと閉められる扉をベッドに腰掛けながら眺めるテンは、彼女が去って行く足音を確認してため息一つ溢す。
心臓に悪い。というべきか、今日に限って無理していたことを許してくれなかったエミリアに、テンは体が倒れないようにと支えられながら風呂場からここまで連れてこられたわけで。
色々とまずかった。距離が近い、近すぎた。完全に距離感が迷子になっている状態だ。彼女としては親切心と純粋な心配の二つからくる行動だろうが、それをされた側は気が気でない。
「ようやったぞ、俺。よく耐えた」
鋼のメンタルが自分の中で作られ始めている中、その強度が日に日に鍛えられている感覚にテンは胸を叩く。場違いな誇らしげな様子は、しかし本人としては褒めてほしいところ。
あの距離感を耐え切ったのだから、何がきても動揺することはないだろう。ここから先に彼女に何をされても平常心を保てるはずだ。
「……ん?」
謎の達成感に浸るテンの鼓膜を扉が開く音が叩き、視線を向ければ扉が開いている。そこから顔を覗かせるのは、
「ーーーー」
「どした、エミリア。忘れ物でもした?」
ついさっき部屋から出て行ったエミリアだった。彼女が部屋を出て行ってからまだ一分も経ってない。何がどうして帰ってきたのか不思議に思うテンだが。
エミリアはといえば、彼女はテンのことを見ると小さく頷き、
「良かった。ちゃんと休んでる」
「おいまさか、そのためだけに戻ってーー」
パタン。そう音を立てて扉は閉められる。テンの言葉を無視した彼女は勝手に入ってきて勝手に出て行ってしまった。
時間にして数秒間の出来事にテンは呆気に取られる。言いたいことだけ言って帰った彼女に振り回されてる感が、なんとも言えない感情を心の中に生み出していた。
そこまで気にかけられると申し訳なくなってくるテンだが。これも、彼女の意思でしていることなのだろう。余計なお世話だと突っぱねるより感謝することに。
「…また来るんじゃないだろうな」
ありえなくもないとその後の数分間は扉の前に意識を集中させていたテン。しかし、彼女が顔を覗かせることはなかった。
今度こそ終わったと息を吐き、テンは倒れるように寝転んだ。フワッとした羽毛に受け止められて風呂とはまた違った安らぎを全身に感じる。
こうして横になっていると、本当に落ち着いてくる。ここはロズワール邸、魔獣の森のような危険な場所ではなく安全な場所。今は、自分の帰ってくる場所にいると思えるから。
ゆっくりすることのできる環境に身を置くだけで心は休まる。
夕食まで少し時間があったはずだ。なら、このまま目を瞑るのもいい。というか、面白いことに布団に横になった瞬間から瞼が重くなってきていた。
疲れたんだろう。休みたい意思表示を心が自分の体に呼びかけ、エミリアの言ったことを素直に受け止めろと言っていた。
ーーちゃんと休むのよ?
「はいはい。休みますよ」
何度も言われた言葉に対して一人でに返答するテンはそう言ってから瞼を閉じる。
視界が闇に閉ざされ、張り詰めていた意識が緩み、全身から力が抜けて、しかし睡魔だけは強く存在を主張し始めた。
そんな感覚に心を預ければ、意識は簡単に落ちていた。
▲▽▲▽▲▽▲
さい。
声が聞こえる。聞き慣れた声が。
下さい。
目を覚ますと必ず隣にいる、その人の声が。
起きて下さい。
優しく、聞いてるだけで安心してくる声が。
聞こえてーー、
「テン君。そろそろお目覚めの時間ですよ」
「……ん。れ、むぅ?」
「はい、レムです」
『目を開けるとそこには美少女がいました』なんてサブタイトルが付きそうなレベルの光景が視界に広がっていた。
透き通ったソプラノ声と、緩やかな揺さぶり、更に頬に添えられるひんやりとした感覚に意識を引き上げられ目を開けてみればそこにはレムがいて。
寝台の横に添えられた椅子に座る彼女は、寝ぼけているのかウトウトしているテンに微笑んでいる。
「もう起きるじかん、か」
眠気を払うように頭を軽く左右に振るテンが体を重そうに起こす。その後、少しの間ぼーっとしている状態が数秒が続くが彼は大きく背伸びすると、
「えっと……、ごはん?」
レムが起しに来たということは、夕食の時間がきたということ。今のように起こされたのは初めてではないし、その時は夕食の知らせがほとんど。
今回もそうだろうと自分の中で結論づけたテンの言葉にレムは「はい」と頷き、
「夕食の準備が整いましたので。テン君を起しにきました」
「そっか。ありがとうね」
「あーー」と辛そうな声を吐きながら寝台から体を起こす。当然のごとく、疲れや痛みが取れているわけでもないから動かす度に痛むのだ。明日になればもっと痛み出すと思うと今から気が重くなってくる。
「お身体の方は大丈夫ですか?」
「大丈夫ではない。けど、そこまででもないよ」
そんな彼のことを察したのか、左手の袖をツンと引っ張るレムは心配そうに目を細める。愚問だと分かっていても気にかけずにはいられなかった。
だからテンも包み隠さず伝える。今ここで彼女に強がって「大丈夫だよー」なんて言っても簡単に嘘だとバレるし、隠し通せる気もない。
「まぁ」と言葉を繋げるテンは肩を回してレムに摘まれた袖を軽く払うと扉へと足を進め始めた。
「しばらくは痛みと格闘することになる。心配しなくてもすぐに良くなるよ」
「なら、いいんですけど…」
扉を開いたテンの背中を追いかけるレムはすこし不満そうな表情。言葉と声色からでは伝わらない感情がそこには宿されていた。それを向ける相手にもそれは共通のことだが。
テンがそれに気づくことない、気づこうとすらしていないのだから。己に向けられる感情に察しがつくわけがない。
レムも、それを顔の裏側に隠してしまうから気づいてもらえなくなる。気づいてほしいけど、少し戸惑いが心の中に生じてしまうから。彼女はそれをしまうのだ。
テンが気づかなくて、レムは気づいてもらえなくて。
そうなれば、もう一歩。お互いの関係を踏み出すきっかけを掴む機会を二人はまたしても失うことになった。
▲▽▲▽▲▽▲
「さっさと起きるかしら!」
「うげぁあ!?」
突然訪れた腹部を発信地とした激痛。全身が軋むような痛みが駆け回ったことで、それまで穏やかな寝息で安眠をキメていたハヤトの体がくの字に折れ曲がり、目と口を大きく開き、間抜けな顔で目覚める。
まず初めに視界に映ったのは縦ロールを暴れさせていた一人の幼女、ベアトリス。その存在の両足が激痛の発信地に突き刺さっている。それも素足ではなくヒールを履いたまま、尖った部分でだ。
何が何だか分からないハヤトだが、取り敢えずラムの時と同じ光景がベアトリスによって広がっているのは見えた。そして、
「いっってぇな!? もっと優しい起し方をしようとは思わなかったのかよ!?」
「したかしら! ベティーもちょっと、ほんの一欠片程度の気遣いをかけたのよ! でもお前は起きなかったから、最終手段かしら」
飛び跳ねるようにハヤトの腹から降りるベアトリスがふわりと着地。途端に腹部を痛そうに抑えるハヤトは大声で叫び散らした。ベアトリスといえば、そんなことを言ってくる始末。
ラムよりは優しいと思うべきなのか。優しく起してくれようとすらしなかった彼女と比べてベアトリスはまだ優しいと言えるか。いやでも、もう少し平和的に起きれたはず。
どうやらこの屋敷の人間は人を起こす時、最終手段として腹へとダイブしてくるらしい。一度目は美少女(毒舌)に、二度目は美幼女(ツンデレ)と、これでは対応のしようがない。
「お前さぁ。今、身体中バキバキなんだから。せめて体を揺するとかで起こそうとしなかったのか。それかベッドから落とすとか」
「その発想は無かったかしら。次同じことがあれば窓から突き落とすとするのよ」
「起きるどころか永眠しちまうよ」
やれやれ、と言った具合でため息をつくハヤトにベアトリスは何の悪びれもない。寧ろ、優しくしようとしたのだからありがたく思えーーくらいのことを考えてそうな態度。
そもそも、どうして起こしてくれたのかが不思議に思われるハヤト。こんなこと初めてで、起こされ方に難ありだが起こそうとしてくれたことに変わりはない。
ハヤトのことを起こしたベアトリス。彼女はそれから興味を無くしたように扉の方へと体を進めていくと、
「早くベティーに夕食を持ってくるかしら」
「ーーは?」
何の脈絡もない発言にハヤトは首を傾げる。起こされたかと思えば食事を要求。まるで、飼い主に餌をせがむためにわざわざ起こしに来ている猫のように捉えられるベアトリスの発言。
なんのことやらと疑問符を頭の上に浮かべるハヤトに今度はベアトリスがため息を吐くと、
「もうとっくに夕食の時間かしら。早く、いつもみたいにやかましい声で夕食を届けにくるのよ」
「……お前、それを言うために起こしたのか」
「そうかしら」と頷くベアトリスを見た途端、ハヤトは数秒間の理解の時間を得て、心の中で温かい感情が温泉のように湧き上がった。
今の発言、つまりハヤトが自分の部屋に夕食を運んでくることが彼女の中での当たり前になってきているということ。初めは本気で嫌がっていた彼女自身が「早くしろ」と急かしてきたことがそれを証明している。
それはつまり、彼女の中でハヤトという一人の男の存在が邪険なものではなくなってきていることを表しているのではないか。ベアトリスに心を許されつつあるということではないか。
そう思うと、途端にベアトリスが可愛く思えてきたハヤト。彼の口は勝手に動いていた。
「お前、ほんと可愛いやつだな」
「うるさいかしら。とにかく伝えたのよ」
そう言葉を残してベアトリスは部屋から出ていく。扉から感じていた違和感が消失したあたり、自室に戻っていったことが分かった。
勝手に入ってきて勝手に消える。あんなことまでされたのだ、少しは怒らないと気が済まないハヤトだが。今回は彼女の可愛いところが見えたせいでその気持ちは鎮火。
勝手な奴だと思う反面。そのせいで彼女に対して甘くなってしまうのはなぜなのか。激怒しても普通な場面なのに許してしまうのはなぜなのか。
「それも、ベアトリスが俺に対して気を許しつつあると考えれば理由としては十分、か?」
よく分からない理由をつけてハヤトは部屋を出る。向かう先は食堂、彼女は夕食の時間を過ぎていると言った。ならそこに向かえば彼女の食事を用意されているはず。
早く届けに来い。そう言われて行かないわけにはいかない。待ってるのだから、迎えに行くのが待たせている者の勤めだ。
ただ、
「今日の夕食はピーマル増し増しのトッピングしてやるからな。あの野郎、可愛さだけで許されると思うなよ」
許すと言っても多少の仕返しはしてやろう。そんなことを考えるハヤトは早歩きで食堂へと向かうのだった。
▲▽▲▽▲▽▲
時間は進んで冥日の十時を過ぎた頃。
夕食の時間をとっくに終えた人達が各々のことをする中、中庭にて芝生に寝転がる男が一人。寝巻きに袖を通した彼は中庭への入り口から少し歩いた場所で何も考えずにただ空を眺めていた。
普段なら、鍛錬をするために刃を片手にいつもの場所に向かうが今日は違う。ヘトヘトになった体の状態でそれをすればきっとエミリアに怒られるから、今夜はこうして中庭のど真ん中に陣取る。
「ーーーほぅ」
そうして息を吐いた彼ーーテンは頭の中を空にして視界いっぱいに広がる満点の星空を眺めていた。この静かな空間にただ一人、そうしていると心が穏やかになってくるのが不思議だ。
星空の海を、輝く星が動いていく音が耳の奥に聞こえてきそうなくらいに世界はしんとしていて、建物の影は薄く、もう明るい陽が照らすことなどないかのようだった。
「…静かだな」
そんな光景を独り占めしながら、ふとテンが呟いた。偶に吹くそよ風や、それに撫でられて音を鳴らす木々に茂みなどの環境音すら今はなく、それはこの世界全体が寝静まっているかのようで。
そんな世界に一人いるものだから、世界に自分しか存在していないかのようなそんな気分になる。でも、このような雰囲気は嫌ではない。
呟き一つすら躊躇するような静寂に満たされた世界。そんな空間に一人で芝生に寝転がりながら夜空を眺める。なんて心休める空間だろうか。
何かを考えてもいいし、何も考えずに意識を夜空へと漂わせるのも悪くない。幻想的な空間を前にした時、どうするかはその人に委ねられる。
「ほんと、生き残れて良かったな」
心を空にしていたテンの頭の中に浮かんできたのは、中間試験のこと。このような空間だからこそ様々なことを考える彼は今日のことを振り返る。
生き残れた事に関しては本当に奇跡だとテンは思っている。普通に考えて、あの状況下で無事とは言い難いが帰ってこれたのはそれ以外に言い表しようが見つからない。
理由は簡単。戦闘経験が乏しく、未熟者だから。
魔獣の蔓延る森の中に放り込まれた挙句、歩いて五時間の道のりを道標だけを頼りに帰ってこいなんて、鬼畜もいいところ。
鍛錬をしているとは言えど実際に動く対象に対しての立ち回りを学んだわけでもない。初戦闘が数の暴力で戦ってくる相手ということも加えるとロズワールのスパルタ度合いが知れる。
しかし、それを養うための中間試験でもあるだろう。実際に魔獣と戦い。実践経験を積む事で一つ上の自分にステップアップ。現に最後の方は始めの時と比べて動きも良くなっていた気もする。
「にしても限度があるだろ、限度が」
ハヤトの言ったように。生き残ったのが奇跡ならば、奇跡を起こせるまでの実力は鍛錬のお陰でついてきていると考えてもいい。が、もしそうではなかった場合、どうなっていたことか。
ロズワールはそれを見抜いていて、あのような無理難題を課したとするなら、慧眼言えるが。もしもそこまでの実力を、見当だけで判断していたら。そしてその見当が悪い方で違っていたとしたら。
今頃二人はここにいない。
明らかに難易度がおかしかったことに気づくテンが今になって心を震わせる。実力があったからいいものの、そうでなければ全部終わっていた。
「それに、ハヤトがいたから。ってのもあるか」
彼の無双を断片的な画像として脳裏に思い浮かべるテンがその勇ましさに笑った。可笑しくて笑ったのではない、その戦いぶりがかっこよすぎて頼もしく思えてしまったのだ。
溢れる闘気をその身に纏わせ、自分なんか比べものにならない戦闘を展開していたハヤト。彼の戦い方はその姿に恥じないようなもので、拳と大剣振るう彼はこれでもかと猛り。
小細工など不要。そう語る構えは魔獣に対して正面特攻、彼の性格がよく表れていた。
それを隣にすれば感化されるのが自然な流れで、テンも彼の戦いぶりに精神的に助けられていた部分はある。限界を超えそうで、"もう無理だ"って感じそうになった時にハヤトの声が聞こえると自分も頑張らないとって思わされる。
彼が諦めてない、まだ戦っているのに自分が諦めてどうすると。隣に立って戦うと心に決めたのにそれを諦めてなるものかと。
ハヤトだ。ハヤトがいたから、自分は頑張れた。彼の存在一つがあったから、生き残れた。
なら、自分はどうだろうか。
「ハヤトみたいになれてたかな」
ハヤトのように刀を振るえていたかと聞かれれば自信を持って「はい」とは答えられない。肉体的な動きだってまだ詰めが甘いと言える。「発展途上だから」と、その言葉で言い訳できる程この世界は甘くないだろう。
ハヤトには自信を持てと言われた。魔法も自分より扱えて、刀を振るえてたから自分と同じように前に進めてるからと。確かにそう言えるかもしれない。
けど、まだ足りない。ハヤトのような戦い方ができなければ騎士として恥ずかしい。自分の魂を宿すと言っても過言でない第一の刃を扱いこなせなければ騎士として自分が認めない。
ハヤトのようになりたい、ならないといけない。彼のような戦い方を主体にできるようにならないと戦えない。なら、自分も身体的な強化を心がけていくことが優先されるが。
「あれは、なんだったのかなぁ」
戦っている時に不意に感じたあの感覚。身体が身軽になって、いつもの何十倍もの力が発揮できそうな高揚感。携えた刀の重みがなくなり、まるで小枝でも握っているのかとさえ思えた。
更に、森から脱出する直前。風呂場でも話した通り。アクラを詠唱したハヤトの動きについてこれていた事。それらを照らし合わせると自分も何かしらの身体的な強化をしていたと言えるが。
何が原因で、自分の身体から身体能力強化したハヤト並みの力が発揮されたのかは全くの不明だ。記憶を探ろうとしても、やはり断片的で曖昧な記憶しか思い出せず。行き詰まる。
魔獣の森を抜ける寸前。あの時に感じていた身軽さは今は気配を消して今は逆に重怠い。ハヤトも同じように戦っていたはずなのに、彼の方が元気そうに見えるのは鍛え方に差があるからか。
「俺も、強くなれてるのかな」
森から生き残った時点で強くなれてることを実感したのに。ハヤトと自分を比べた時に心が沈んでいったテンが息を吐いて呟いた言葉はそれを否定しにかかる。
ハヤトがいたから、生き残れたんじゃないのか。奇跡が起きたのはハヤトの力があったからじゃないのか。そんな意味合いを含めた言葉に、彼は心を沈めていく。
過小評価の度が過ぎるテンはどうしてもそう思ってしまう。自分の力などなくても、本当はハヤト一人でなんとかなったのではないかと心のどこかでは考えてしまう。
だってハヤトは自分なんかよりも凄い人だから。彼は自分がいたから生き残れたと言ったが。彼がそう思っていたとしても、本当は自分の力などなくてもどうにかなっていたのではないか。
「ハヤトならどうにかなってるって思わせてくるのがアイツの怖いところだよな」
それがハヤトの最大の強みで、弱点。彼は普段から自信満々な態度を一貫しているから、自然と周りから「ハヤトなら大丈夫」みたいな風に思われていることが多く。それは、今回もテンにそのように思わせている。
本当に恐ろしいと思う。もっと、恐ろしいのはその「大丈夫」を本当に大丈夫にしてしまうこと。無理難題なことを「ハヤトなら大丈夫」と言われたとしても彼はクリアしてしまう。
親友ながらに驚異的な存在だ。そのせいで、その隣を常に歩く自分がどんどん小さくなっていくような錯覚を度々起こしてしまう。彼が光れば光るほど、自分が影となっていく。いずれ、影すらもなくなって。
だから、
「強く……、なれてるのかな」
もし、この中間試験がハヤトの力だけでクリアできたとして。そうなったら自分が強くなったと思っているのはハヤトのおかげで。本当は強くなった気がしているだけじゃないのか。
ハヤトの力を自分の力だと思い込んでるのではないのか。そう、テンは思い込んでしまう。
久しぶりの感覚。ハヤトと自分の事を比べて、どうしようもない感情に心を締め付けられるような苦痛。
考える事全てが悪い方に悪い方に進んでしまう、良くない自分が知らず知らずのうちに顔を表に出した。
故に、彼は自分の中でとんでもない曲解をしている事に気づかない。徐々に話が別の方向に脱線していることに気づかない。
本来は自分の力だけで切り抜けた戦いも、ハヤトの力があったからだと意味の分からない方向に思考が加速していく。
過小評価が自分の力を最低とするせいで、それら全てが"ハヤトの力"に変わっていく。それ一つで彼の中の自分はどんどん弱々しい者になり下がる。
自信が持てない。そこにその言葉が追加されれば弱々しい者は自分になった。
「…はぁ。まだまだかよ」
外から見れば何を言っているんだと言われるかもしれない間違いをテンはどんどん積み重ねていく。
森の中から生きて帰れたのは二人の力が合わさったから。テンも、ハヤトも。ちゃんと強くなれてる、前に進めている言えるのに。自己評価が地の底にあるテンはそれら全ての事実を置き去りにして自分の中で作られた事実に悲観する。
また、悪い癖が出ている事にも気づかないまま。それを正す人がいなければ、その悪い癖はどんどん彼の心を悪い方向に進ませていく。
正す人が、彼の隣にいなければ。彼はこのまま何度も犯してきた罪をまたしても犯す事になる。自覚して、悲観して、立ち直って。何回繰り返しても学ばず、自覚していても治そうとせず、それは再び繰り返される。
だから、彼はまたしても負の悪循環に陥ってしまう。同じことを何度も悩むな、そう言われてしまうかもしれないことを何度も何度もーー、
「ーーやっぱり、ここにいたんですね」
しかし、彼の隣にはその人がいた。
「レムの予想は当たりました」
ずっと、隣に寄り添ってくれる人が。微笑んでいた。
次回 『その温もりの名前は』