前回、一体誰がテンの下に来たんでしょうね。
「ーーーー」
音もなく目を開けると、目の前に広がっていたのは木々ではなく白い天井だった。感じたのは茂みの冷たさではなく布団の温もりだった。夜空だった空は朝日の気配が漂うものとなっていた。
寝起きの鈍った思考回路でも自分が元の場所から移動していると理解したテン。ふと、自分の格好に意識を向ければ、いつの間にか着替えていたらしい。今は寝巻き姿に。
全部が全部事後という、自分が知らない間に色々と進んでいたことを理解したことに何があったか頭の中で整理しようとして、
「おはようございます。テンくん」
顔を覗き込むレムを見た途端、全てを理解したような気分になった。優しく微笑む彼女の手が頬に添えられ、冷たい感覚に意識が覚醒していく。
身体を起こせば、いつものようにレムが正面にいて。寝台の上に乗っている彼女はテンの足をまたぐようにして座っていた。頬に添えられた手が離れる気配はない。
「えっと……」
吐息混じりの声を小さく溢すテンがそう言って大きなあくびを一つ。瞳に溜まる涙を拭うと、睡魔を振り払うように頭を左右に振り、
「おれ、もしかして寝ちゃってた?」
両手を伸ばして背伸び、硬くなった身体を伸ばす彼は昨日の記憶を探った。昨日は鍛錬の時に眠たくなったから少し横になろうとして、温かい感覚に受け止められたーー覚えてるのはそこまでだ。
しかし、次起きたら自分の部屋で寝ていたという理解できない事が起こったと。尤も、レムを見た途端から大凡の検討はついてしまうのが不思議なところだった。
ーー無理は、禁物ですよ。
うろ覚えでしかないけど、その声は多分レムの声だろう。彼女も鍛錬に顔を出すと言っていたし、そうだとしても不自然な気はしない。
そのレム。彼女は「はい」と頷き、
「身体の力を抜いて突然レムの方に倒れてくるものだったので、少し驚いてしまいましたが」
「突然レムの方に倒れてくるって…。まるで、元からそこに居たみたいな言い方するね」
「元から居ましたよ?」
不思議そうに首を傾けるレムが可愛らしく疑問符を頭の上に浮かべた。テンの言った言葉の意味を飲み込めない彼女は疑問を抱き、テンはといえばたった今言われた事に対してピタリと動きを止めていた。
互いが互いの反応と発言に対して疑問感を抱き、見つめ合ったままの二人に静寂が訪れる。窓の外から聞こえてくる小鳥の鳴き声がやけに大きなものに感じた。
その間。さも当然かのようにして返された言葉を頭の中で回し続けるテンが、言葉の意味を理解しようと寝起きの思考回路をフル稼働。しかし、意味が分からなかった。
そんな彼の停滞を察したのか。なにか気づいたようにレムは目を細めて、
「レムが顔を出した時には既に集中していたので声をかけずに隣に座ったのですが、気付きませんでしたか?」
「気付…かなかった。集中、してたからかな」
表情の引き攣るテンが妙に言葉の歯切れが悪い。彼からすれば当然のことか、だって自分の知らない間に真横にレムが座っていたのだから。いつから来て、いつから見ていて、いつから気配を消していたのか。全く検討もつかない。
確かに、来ていいとは言ったけども。その日から来るとは思わなかった。流石、割と即断で動くレムといったところか。
「ってことは、俺をここまで運んだのってレム?」
「寝ているテンくんを起こすほど、レムはひどい女じゃありませんよ。もちろん、責任を持って運ばせていただきました」
これまでの情報と記憶を整理したテンがたどり着いた経路を、誇らしげに胸を張って証明したレム。誇らしげというか、どこか満足したような雰囲気がある。
これは、テンには内緒の事だが。
実のところ。テンが自分に寄りかかって来た後、レムは暫くの間その体制で過ごしていた。左肩に彼の頭が落っこちて、身体の向きを変えれば重力に従って彼の身体は自分の中へと倒れてきて。
幸せな時間だった。初めての経験で胸の鼓動がこれでもかと騒いで、眼下でスヤスヤと眠る彼を見ていると、ずっとこのままだったら良いのに。なんてことを思って。
鍛錬して疲弊していたのだろう、それから彼が起きる気配は訪れなかった。
隣りで見ていた感じ、相当精神をすり減らしていたような雰囲気をレムは感じていた。慣れないことを永遠と繰り返すのだから肉体的な疲労はなくとも精神的なそれは積み重なる一方で。
それがここ一週間ずっと。こうなってしまうのも仕方のないことなのだろうか。日に日に前へと進むハヤトに焦り、必死に鍛錬するけどまだ掴めなくて。側から見ても裏で彼が必死になっているのは分かること。
だからレムも気にかけているのだが、さすがに寄りかかられるのは予想外だった。役得である。
「そっかぁ…。ありがとね、レム。昨日は俺も疲れてたところはあったから。レムが居なかったらあのまま寝過ごしてたかも」
「だから言ってるじゃないですか。無理は禁物ですと。本当に風邪をひいてしまいますよ? というか、前にも言いましたよね。鍛錬の超過は体に良くないと、ーー言いましたよね」
そんな、自分の寝ている間の出来事など知らないテンが苦笑い。常々注意されていることが起こりそうな予感にレムは身体をスライドさせて詰め寄る。
ふわっとした感覚が迫り、やりづらさを感じたテンはお咎めモードのレムから顔を背ける。彼女の言う通り、鍛錬関連でお咎めをくらったのはこれで二度目だ。ちなみに一度目は約一ヶ月前で、
「テンくん」
下らないことを考えていた矢先、瞳を細めたレムに名前を呼ばれた。いつも呼ばれている名前だが、今に関しては威圧するような声色のそれ。呼び方一つでここまで変わるものかとテンは思った。
完全にお叱り状態のレム。なんだか、最近はレムに詰め寄られることが増えてきた気がするテンは「ふっ」と、思いついたように息を吐き、
「あのね、レム。世の中には一度あることは二度あるという偉い人の言葉がーー」
「テンくん」
「はいすいませんでした気をつけます」
僅かな抵抗。過度な鍛錬を正当化しようとするも結局は名前一つで鎮められたテンだった。
▲▽▲▽▲▽▲
視線が交差するのは一瞬、互いが互いの行動を視界に捉えた次には豪風を纏って拳が振り抜かれ、対する長い腕がそれを真正面から受け止めた。
拳を振り抜いたのは黄金色の闘気を纏うハヤト。受け止めたのはニヤけ面のロズワール。どちらも一呼吸のうちに連撃を入れることを可能とする格闘家同士の戦い。
「ーーしっ!」
受け止められた事実を処理したハヤトが残った腕を思いっきり振り抜く。顔面スレスレ、右腕の直後に突き抜けた左腕にロズワールは回避を選択。軽々しくバク転、同時につま先でハヤトの顎を狙うも寸前で顎をしゃくるように回避された。
追撃とばかりに地を蹴り上げるハヤト。猪突猛進の性格に恥じない突進を見せる彼は、正面を向いたばかりのロズワールとの間合いを詰めた。隙など与えない、素早く身を回して回し蹴り。
バク転直後のロズワールには回避という選択肢がない。彼からすれば距離を取ったはずの相手がいつの間にか目の前にいたのだから。
故に、ロズワールが選択したのは迎撃。相殺するようにハヤトとは逆回転で回し蹴り。単純な力比べではロズワールの方に分があるが、互いに弾かれる形になったのは手加減している証拠だろう。
「せいっ!!」
が、そこで止まるのは少し前のハヤト。力の方向に弾かれたまま、流れに身を委ねる彼は先程とは逆回転。踵で抉るような回し蹴りを繰り出した。相手の力を利用して攻撃に転じる、そこに両腕をぶん回す遠心力が加われば威力の高さは言うまでもない。
ほぼノータイムで襲いくる連撃に、自分は暴風域の中心にいるのではないかと刹那だけ錯覚したロズワール。自身に襲いかかる全てをプラスに変えて彼は攻撃に生かす、中々に洗練された動き。
原木を貫き、岩をも砕くハヤトから繰り出された単純な破壊。単純な力こそ最も強いと語る彼から繰り出されるそれは一つ一つが重く。
これはその中でも上位に相当し、当たれば並の被弾では済まされない分類に入るだろう。そこにアクラの力が加わるなら尚更。
「だぁーけど、私が本来の力を加えれば受け止められるのでした。ちゃんちゃん」
「こんの、ヤロォ!!」
ロズワールが長い文章でつらつらとハヤトについて分析していたのはなんだったのか。
避けれない迎撃できないーーなら受け止めればいい。淡々と語り、ロズワールはそれを腹部で抱えるように受け止める。
が、簡単にというわけでもないらしく。直後に喉の奥で苦痛の声を唸らせた。衝撃部から波紋するように振動が伝わり、これで何度目になるか、骨が軋む音が連鎖し次第に視界をグラつかせる。
地を踏みしめ、腰に力を入れ、両腕で押さえ込んで全身で受け止める。軽く話しながらも割と本気で受け止めたはずだが、ハヤトの攻撃はロズワールの想像を超えたのか。思った以上に重かった。
「惜しかったね、ハヤト君」
「出直しておいで」口角を釣り上げるロズワールがそう言ったと同時。ハヤトはとんでもない力が掴まれた脚に加わった感覚を得て、これから何が起こるのか本能的に理解した。
ーー投げられる。
何十、或いは何百と拳を合わせてきた経験値から理解した反撃。ハヤトの本能が自身に迫る脅威の知らせを教えている。なら、自分はどうするべきなのか。否、もう動いている。
「しゃらァーーッッ!!」
「ほぅ」
咆哮がロズワールの鼓膜をぶん殴る。瞬間的に、爆発的に、黄金色の闘気を限界以上まで引き上げたハヤト。彼を起点にして発する目を塞ぎたくなるような暴風が吹き荒れ、ロズワールが感心の息を小さくこぼした。
今から何を見せるのか。先生として教え子の成長を見届けることの方が大きかったロズワールは少しばかり停滞。手を抜いてるのではない、見届けた上で迎撃できる自信があるのだ。
心にゆとりを持たせるロズワール。彼に対する応酬は両手に身体が引き寄せられる感覚。次に、倒れるような感覚。次に、腹部に押しつけられたもう片方の足で思いっきり押し出される感覚。最後に天地がひっくり返り。
それら全てを見届けた時、ロズワールは宙を舞っていた。眼下には背から倒れるようにして体制を崩したハヤトがいて、歯を食いしばる彼は必死の様相だった。
所謂、柔道の技。その一種である巴投げを感覚だけのぶっつけ本番で成功させたハヤト。考えるよりも先に体が動く彼の本能が脅威的な体捌きと身体能力を発揮させた。
「晒したなァ、ロズワールゥ!!」
追撃を入れないわけがない、ここぞとばかり肉体を踊りかからせるハヤトが決定的な隙を晒したロズワールへと跳躍。めり込むほどの力で地面を蹴り上げた。
これまで幾度となく戦ってきた中でもトップに入る隙。一週間の雪辱を晴らすことができる可能性に心に宿る炎が燃え盛り、彼は雄叫びを上げながら特攻。小細工不要、敵の懐へと最短距離で突っ込む。
小刻みに震えるほど強く握りしめられた右拳の準備は万端。矢のように引き絞り、解き放たれるのを今か今かと待ち望んでいるかのように力が湧き上がってくる。
いける。勝てる、一発入るーー!
確信したハヤト。彼はアツくなった本能のままに気合いのノッた重たい一撃を顔面へと解き放ち、
「言ったはずだ」
ひどく、耳に残るような声が聞こえた。
気持ちに身を委ねるハヤトとは対照的に、冷え切った冷たい声色だった。それはまるでロズワールの冷静度合いを直接表したかのような。
ふと、ハヤトはやらかしたことに気づく。気付けたのは偶然か、必然か。いや必然だろう。
ーー感情に流され過ぎないこと。それは、君の美点であり弱点だぁーからね。
聞こえたのはロズワールの声。鼓膜ではなく心に直接届くようなそれが頭の中で鮮明に再生される。それが表すのはハヤトの成長。心は自分の犯した最大級のミスに気付き、しかし体は追いつかない。
「くっーー!」
顔面一直線に突き進んだ腕。狙いに狂いはなく、速さも相当なもの、威力は言うまでもない。当たれば脳震盪は必須の一撃。それを、
「感情に流されないようにね、と」
身体を思いっきり逸らす要領で振り抜かれた腕を回避。眼下、僅か数センチのところで凌いだロズワールはそのまま空中という身動きの取れない空間で身体を起こす。
ありえない機動力。さしものハヤトも自分のミスに気づき悔しそうに歯を食いしばった。気付けたが、もう遅い。既に真上を取られている。前へと進む推進力に流されるハヤトに凌ぐ手立ては残っていない。
「はぁーい。おつかれさま」
その数秒後、ハヤトの背中に踵落としが炸裂した。
▲▽▲▽▲▽▲
ドスン! と鈍い音を立てながらハヤトは地面に叩きつけられる。その瞬間、黄金色の覇気が薄れていき、次第に微風に流されて消失。衝撃の影響で張り詰めていた糸が切れたのだろう。
その時点で勝敗は決したようなもの。フワリと質量を感じさせない着地をしたロズワールは軽く息を吐いた。服についた土汚れを払い、軋む身体を軽く伸ばす。
「いぃやぁ。成長とは早いものだ。始めてから一週間とちょっとだというのに、本気でやらないと流石に危うい。教える側としては嬉しい限りだ」
「ちっ、まだ余裕かよ。ちくしょう、アツくなりすぎて視野が狭まってなけりゃどうにかなったかもしれねぇのに。俺の馬鹿野郎」
「それに気付けたなら及第点。付け足すなら、決定打を迫りすぎないように。焦らずとも好機は訪れる。それをじぃっと待つんだよぉ?」
左手で丸の形を作るロズワールに「はいよ」とだけ返すハヤト。結構競っていた自信はあったが、その様子から察するにあまり競れてなかったのだろう。まだ余裕そうなロズワールだ。
時間とは早いもので、ロズワールとの格闘鍛錬を始めて既に一週間が経過した今ならーーと思っていたが爪が甘かったか。本気を出したロズワールを前にハヤトは拳を届かせられず。
尤も、
「本気を出させた。って意味では確実に近づけてると喜ぶべきなのか。どうなのか」
芝生の感触に飽きたのか、身を回すハヤトはうつ伏せから仰向けに。見下ろすロズワールとその背後には広大な青空があった。この絵面を見るのは何度目になるだろうか、多分数え切れない。
体のあちこちが痛むし、呼吸も荒い。地面に叩きつけられる度に身体が頑丈になっていく感覚はあるが、この痛みだけは取れそうになかった。
しかし、その代わりとしてハヤトは確実に強くなっている。始めた手の頃と比べると動きが洗練されて迷いのないものになり、彼の体捌きに磨きがかかりつつある。
ロズワールからも本気を引き摺り出させている。これを成長と呼ばずして何という。
「喜ぶべきだと思うけどねぇ。手を抜いていたら一撃入れられかねない。あしらうだけでは手が追いつかなくなりそうな感じだぁーよ」
ハヤトの呟きに頷くロズワールが同調の意を示した。嘘を言っている様子は見られない。
スポンジのように教えたことを吸収する彼に驚愕するように「ひぇー」と言っていた。嘘を言っている様子しかない。
それらを頭の隅に置き、ハヤトは勢いよく跳ね起きる。
「そうかよ。なら、もっと頑張らないとだよな」
成長してるなら良い、形として現れたならそれを磨くまで。来る原作開始までにロズワールを負かすことを目標にする彼は痛みの和らいだ身体に軽く力を込める。
拳を握りしめて格闘の構え。小休憩は終わりにして次の戦いへと気持ちを切り替えた。
無言の戦闘合図を受け取ったロズワール。彼は楽しむように「ふっ」と息を吐くと、
「ーー来なさい」
「望むところ!」
▲▽▲▽▲▽▲
「……すごいなぁ」
一言。何となく呟いた言葉には複数の感情が渦巻いていた。
単純にロズワールと格闘するハヤトへの感心、自分と違って日に日に成長することへの焦燥、対して一歩も進まない自分を自傷するような嘲笑などなど。
一人でいると最近はこのようなことばかり考えている。それをしたところで意味なんてないと理解していながらも、気が済まないという理由で自分の心を傷付ける。
ハヤトはハヤト。自分は自分。そんなこと分かっているとも。分かってるけど、ふとした瞬間湧き上がる感情のせいで抑えられない。
もう一週間ーー。一週間も経っている。のに自分は流法の糸口すら掴めず停滞。前から何も変わらないずっとその場所に立ち止まったままだ。
同じことを毎晩して、できなくて。試行錯誤して、できなくて。努力して、できなくて。ぶっ倒れる。
ここまでやってもできない。魔法の時はやれたのに、流法はできない。何が違う、何が足りない、何が欠けている。欠けていることばかりで、もう分からなかった。
「努力が足りない」
ぶっ倒れる以上の努力なんてあるのか。教えてほしい。
「もっと頑張れ」
頑張ってるさ。一人で、たくさん考えて。今までずっと。
「お前ならできる」
やめてくれ。その言葉が一番苦しい。
置いていかれる感覚がした。着々と力を上げるハヤトに急かされるような気がした。お前ならできる、そう言われたことに応えなければならないと焦りを感じた。
それらを再確認した時、自分が病みそうになっていることに気が付いた。周期的にくるのが今回は早く来たらしい。周期の型を外れた厄介なのが心に生まれたのが分かる。
ーー面倒な性格だ、クソが。
「あ……、やばい」
中庭にて繰り広げられる戦闘を窓から見つめ、やるせない感情が渦巻いた彼ーーテンは震える声で呟いた。
助けを求めるような声は、中庭から響いてくる声にかき消されて誰の耳にも届かない。か細く、小刻みに震える唇は、言葉を刻まない。
この感覚はやばい、心が沈む。
以前と違い、感覚的に悪い癖が再発する気配を理解したテン。彼はなんとか心を立て直そうと別のことを考える。が、既に心はそれに覆われている。出口などどこにもない。
考えるな、考えるな、考えるな。
振り払う、纏わりつく。無駄に深く考える性格が仇となって良くないことばかり考えてしまう。
できる、やれる。自分なら大丈夫。
マイナスな言葉ではなく、プラスな言葉を手当たり次第に心にかける。そんな形だけの言葉なんて意味は成さなかった。
「考えるな考えるな。自分のやれることを精一杯やるだけ。怖がる必要なんてない、ない」
内側でダメなら外側。一歩、真横に移動したテンが壁に額を打ち付ける。今、ハヤトを見ると溢れ出る負の感情が爆発してしまう。その前に、外側からの衝撃で忘れさせる。
打ち付ける。
なるほど。アニメなどで壁に頭を打ち付ける場面を見たことがあるが、確かに有効な手段だ。内側でどうにもならないなら、外側から治してやるのがちょうどいい。
打ち付ける、打ち付ける。
痛みが心に浸透し、そうすると立っていた波が収まっていくような快感を得た。荒ぐ感情の絶叫が遠くなっていく安心感に包まれた。何も考えなくていい、痛みに心を支配されればいい。
打ち付ける、打ち付ける、打ち付ける。
考えるな、何も考えるな。考えた分だけ心は地の底まで沈んでいく。だから今は痛みに心を乗っ取られてしまえ。忘れろ、忘れさせてくれ。弱い自分を殺してくれ。
打ち付ける、打ち付ける、打ち付けーー、
「ーー何してるかしら」
打ち付けようとした時、不意に背中に耳につくような声色がかかる。
反射的に振り向いたテンの瞳に映るのは、こちらを眺めている退屈そうな大精霊。相手はツカツカと歩き、フワリと浮くとその肩を何度か叩き、
「そんなことやっても、気持ちなんて晴やしないかしら。やめておくのよ」
▲▽▲▽▲▽▲
ーー何でこうなったのか。
正面、三脚に腰掛ける本に囲まれた少女にテンはそんなことを思っていた。全くの予想外な出来事に思考が追いつかず、何の理由があってのことなのかと考えても分からない。
ただ、呼ばれたという事実だけが彼の中で理解できていて。理由がわからないため立ち尽くすしかできなかった。
そんな彼を見ては目を細めてため息。抱える本を開いて読書タイムのロングドリルツインテールの少女、
「あの男に言われたからちょっと見てやったらこの有様。全く、対極すぎて呆れるかしら」
ベアトリスは退屈そうに息をこぼした。声色からしても退屈感がひしひしと伝わってくる、普段通りの彼女だ。
こうして禁書庫に招かれたのは、実は初めてのことだった。屋敷に来てあと少しで二ヶ月が経過するがそれまでは一度も招かれたことがなく、多少話すことはあっても深くまで入ることを許された覚えはない。
ハヤトが異常なだけだ。彼はコミュニケーション力が数値を振り切ってるから打ち解けるのが早かっただけで、自分が普通なのだ。
自分に言い聞かせるテン。彼は今しがたベアトリスの口から出た言葉に首を傾げ、
「あの男…、ハヤトになんか言われたの?」
「お前の様子を偶に見てやってくれって頼まれたのよ。まったく、図々しいにも程があるかしら。尤も、あの男の予感は的中したかしら。的中するのも中々に皮肉なのよ」
言われたことに疑問を抱いたのか、自然と足が進むテンはベアトリスへと近寄っていく。彼女が嫌がるような素振りは見られない。
しかし、自分の様子を見るようにお願いしたハヤトには敵わないものだ。見事に精神不安定なことを見抜かれていた。多分、自分と正反対なことを根拠にしたのだろう。他人からすれば不十分、親友からすれば十分すぎる根拠だ。
彼女へと進む足が止まった時、彼は床に腰を下ろして体育座り。座高も相まって足を組む彼女を少し見上げる形になった。
本を読むベアトリス、見上げるテン。不思議な構図が完成されたことに取り敢えず話題をと、テンは口を開き、
「えっと……。ハヤトはどう?」
「そんなことを話すためにベティーはお前をここに呼んだんじゃないかしら」
初っ端から出鼻を挫かれたテンだった。淡々と話すベアトリスは抱えた本をパタンと閉じ、山積みになった本の上に置くと、
「ムカつくけど、あの男には借りある。頼まれたことはやってやるのよ。一度だけならお前の悩みを聞いてやらんこともないかしら」
「え……」
「勘違いするんじゃないかしら。別に、ベティーはお前なんかどうだっていいのよ。けどあの男がどうしてもって言うから、仕方なく乗ってやっただけかしら」
予期しない言葉に困惑気味に唇を震わせたテンに畳み掛けるように言葉を重ねたベアトリス。腕を組んで「ふんっ」と鼻を鳴らす姿は彼女のツンデレ性を大々的に表している。
ハヤトが彼女に何を言ったのか。少なくとも誰かのお願いを素直に聞き入れてくれる性格ではないと認知している彼からすればその疑問は深まるばかり。
しかし不思議なことに、ハヤトとベアトリスの関係値を考慮したとき。その疑問は一瞬で晴れていく。ハヤトとベアトリスは色々あって仲が良いことがどんな理由よりも力があった。
なら、ここはハヤトの気遣いに素直に甘えるべきだろう。自分一人では対応しきれない部分にまで来ているのだから。手を借りるしか突破口は無い。
「……一つだけ相談に乗ってほしいんだけど」
「一つだけかしら。話してみるといいのよ」
背筋を伸ばして正座。礼儀正しく姿勢を整える自分を見たベアトリスが少し驚くなどの動作を視野に入れるテンは「ふっ」と気持ちを切り替え、
「今、流法っていう魔法とは違ったマナの活用法を模索してるんだけど。全く感覚が掴めなくて。前の中間試験の時に偶然できたから、それを当てにしてんだけど。それもダメでさ」
「名前だけは聞いことあるのよ。けど、実際に使ってるニンゲンは見たことないかしら。それで、お前はそれを習得したいかしら?」
「そう。何か、知っていることはある?」
「無しかしら」
「無いのかよ」
終わった。
僅か五回のやり取りで彼女の手は借りられないと、彼女の口から告げられた。小さな姿が頼もしく見えていたのが一気に頼りなく見えていく感覚に、テンは苦笑するしかない。
相談に乗ると言いながらの放棄。考える素振りすら見せない彼女は本当に乗ってくれるのかと疑いたくなるテン。そんな彼にベアトリスは「当然かしら」と繋げて、
「ベティーは陰属性以外あんまり得意じゃないのよ。お前の悩みの種が魔法だったら、少しは助力できたかしら。けど、毛色の違う流法の場合はベティーも常識並みの知識しかないのよ」
つまり、ロズワールと同じようなことしか言えないということ。使う人間が少ないため、魔法以上に発展してるわけでもなく。幅広い知識を持ったベアトリスですらも常識並みの知識だけしかない。
首を横に振って語るベアトリスにテンは「そうか…」と分かりやすく落ち込み、深くため息をついた。ベアトリスならもしかしたらと希望を抱いていたが、見当違いだったらしい。
彼女でダメならきっとパックもダメ。ロズワールは一番初めに聞いてしまったから自然と選択肢は一つも残らず、誰にも相談できない状況下にあることが発覚した。
「どうしよう。ほんとに、どうしよう」
完全に行き詰まった。誰にも分からないなら自分一人で何とかする以外に方法はない。が、自分一人で何とかできないから相談した。自分も向こうも分からずじまい。もうダメだとしか思えない。
へたり込んだように正座が崩れ、両手で顔を覆うテンは頭を左右に揺らす。その様は現実に絶望した人間に他ならない。否、実際に絶望していた。
やれることは全部やった。自分の想像力を頭がパンクするまで爆発させ、なるべく鮮明にイメージ。感覚を掴み取るためにあの時のことを思い出しながら。毎日、毎日、毎日、同じことの繰り返し。
ーーけど、ダメだった。
ダメなのか。自分にこの力は、余るものなのか。ならなんで。なんで、
「なんで、あの時はできたんだよ。可能性出させておいてできないとか。性格悪ぃんだよ……!」
静かな激昂。感情を押し殺すテンは叫びかける喉を黙らせた。心が圧迫されるように痛い、できない自分が心底嫌いになって、それ以外に考えられなくなった。
中間試験の時はやれた。無意識にだが自分の中で流法は成立していた。ならできるはずなのに、これだけやってもできない。
何が良くて、何が悪い、もう全部がーー、
「なら、もう一度あの時の状況を作り出せばいいだけの話かしら」
「……は?」
不意に鼓膜を通じて心に届く声。無いと思っていた援護射撃に喉を震わせたテンは口から文字が溢れ出た。
手を退け、顔を上げれば三脚に腰掛けるベアトリスが人差し指をピンと立てている。言葉の意味を理解すべく思考を回すテンは数秒間の停滞。その間にベアトリスは少し笑うと、
「お前はあの男と反対に力を頭で理解するニンゲン。意識して感覚を掴もうとしても無駄かしら。感覚ってのは無意識についてくるもの、まずは感覚を掴める状況を作り出すことから始めるのよ」
「どういう…」
「ベティーに同じことを言わせるんじゃないのよ。だから、『あの時』にできたってんなら、その『あの時』と同じ状況を作り出せば、お前は無意識に流法を使うはずなのよ。危機的状況に追い込まれれば、お前はあの男と同じようになるかしら」
聞き返すテンに言い聞かせるベアトリス。その後、テンはしばらくの間、言葉の意味を咀嚼し、頭に理解させながら飲み込む。
今、ベアトリスが言ったこと。要約するなら無意識に流法を使ったなら、その状況を作り出せば無意識に流法を使うかもしれない、と。
無意識でならば尚更。危機的状況で発揮された力ならば、同じようになれば自ずと体が反応するはず、と。
言葉を全て飲み込んだ時、テンの喉が歓喜に震え「ぁあ」と声にならない声を溢した。崩れかけた心に光が灯り、瞳に消えかけていた輝きを取り戻させた。
圧迫されていた心が途端に解放されて痛みが和らぎ、手放しかけていた希望が返ってくる感覚に彼は勢いよく立ち上がる。
「そうだ……。そうだよ! 確かに、言われてみればそうかもしれない! 無意識に使ったなら、同じようにやれば無意識にできるかも…! 確証はないけど、うん。うんうん!」
哀愁漂っていた雰囲気から一転、ベアトリスのアドバイスを受けたテンは「うん!うん!」と嬉しそうに頷き、嬉しさ一杯の笑顔を浮かべた。瞳に光が戻ったのがベアトリスからでも見て取れる。
「借りは返したかしら」と彼の前でベアトリスは呟くが今のテンの耳には届いてないだろう。彼は勢いよく回り始めた思考回路でその事を考え、模索し続けている。
が、思い出したかのようにベアトリスへと頭を下げると、
「ありがとう、ベアトリス! お前のおかげで突破口が見つかりそうかも! いやほんと、マジでありがとうございます!」
「ふ、ふん。別に、これぐらいどうってことないかしら。ほら。ベティーは本を読むから、お前はさっさと出て行くのよ」
真正面からのお礼。答えを導き出すヒントをくれた彼女にテンは誠心誠意全力でそれをぶつける。割と満更でもなさそうなベアトリスである。ハヤトとはまた違った純粋な気持ちに心が軽く揺れた。
そんなことなど知らないテン。彼は深くゆっくりと頭を下げると禁書庫から走り去るように出て行く。
やれる事が見つかって嬉しすぎる彼はひたすらに走って、走って、その人物の下へと駆けて行った。
彼の向かう先。それは勿論、
「ロズワール! 俺をもう一度、魔獣の森に連れてってほしい!」
追い詰めに追い詰められたテン。果たして、彼は流放を習得することができるのか。どうなのか。