——咆哮が夜空に高く響き渡る。
喉を震わせて発せられているであろう獣の咆哮、文字にすると「ガルル」や「アォーン」などとだいぶありきたりで間抜けな擬音の羅列になる肉食獣達の声。
それが木霊する度に闇深い森から乖離された光の空間で血が連鎖する。数の有利とばかりに一つの存在へと飛びかかり続ける個体が次々と返り討ちに合い、その悉くが血肉を撒き散らしながら命を堕とす。
それでも止まることはない。いずれ、いずれはその首元に誰かが牙を、爪を、狂気を届かせるだろうと。一つの存在が放ち続ける圧倒的な殺意に四肢を震わせながらも、魔獣という本能のままに突貫し続ける。
「ーーーッ!!」
魔獣の包囲網。木の一本も生えていない月明かりに照らされた開放的な空間で一人の男が猛々しく吠える。吠える魔獣の声よりも大きなそれが森中に轟き、高く遠く木霊した。
それは魔獣を圧倒的な力で蹂躙する存在による威圧の大咆哮。大剣を振るごとに赤色の華が狂い咲き、拳が突き抜け、脚が薙ぎ払われると弾丸の如く獣が打ち出され後方の数匹もろとも弾け飛ぶ。
戦うのには少々広すぎる空間でその存在——ハヤトが暴れ回る。雲一つない星空に浮かぶ満月が世界を見下ろす中で彼は戦い続け、命の灯火を轟々と燃え盛らせている。
森の漆黒から完全に分断された空間で血に塗れながら戦う姿は戦士と呼ぶに相応しく。死体が量産され、舞い散る赤色の液体の中で暴れ回る光景は、見るものに「圧巻の光景」だと思わせるだろう。
それだけの光景を作り出しておきながらもハヤトは満足いかないとばかりに、まるで挑発でもするように笑う。その敵意を向けられる魔獣たちの心中は穏やかではないらしい。
奴らの目に、はっきりとした交戦続行の構えと苛立ちの先走りが色濃く浮かび上がっている。割と狡猾な連中のはずだが、小細工はやめたのか、全軍突撃である。
それでいい。自分にだけ意識を向けてくれれば、レムを助けに向かった二人に被害が出ずに済む。お前たちの相手は自分なのだから。
「しゃッーー! らァ!」
咆哮するハヤトが向かう先は眼前に迫った三匹の魔獣。一体一体の個体値が高くない以上、相手は必ず数の暴力を押し付けてくるとは理解していたが、やはり相手にすると面倒なものがある。
一体を相手にしている間に、他の一体が意識外から一気に命を狩り取りにかかる。複数を相手にしている間に、他の複数が確実に致命傷を刻み込む。と、一人で戦うには少々不利すぎる戦闘。
しかし、そんな不利など今のハヤトにはさほど脅威でもない。彼は今、最高潮に昂っているのだから。
「邪魔だァーーッ!」
横に一閃——容赦のない大剣の刃が飛びかかった三匹の顔面を乱雑に切り飛ばす。接近戦しか可能としない獣ならば獲物に近づくことは必然的で、それはリーチで勝るハヤトに対して愚行と言えた。
身の丈ほどの大剣を小枝のように振るい、たった一撃で正面を無効化したハヤトの体が大剣の重みに流されるように横に回る。遠心力に身を委ねる彼が繰り出したのは回し蹴りだ。
顔面を斬られて力無く地に伏せる肉体を牽制程度に蹴り出し、血と内臓をぶちまけながら打ち出されたそれらに衝突したのがいれば、次なる標的は定まる。
頑健な岩肌が沈み込む程の力で地を蹴り上げた彼の肉体が、爆発的な初速を生み出しながら前方へと跳ね飛ぶ。肩に担ぐように構えられた刃が殺意を向けるのは牽制によって体制を崩した二匹。
迷いはない。瞬間の隙を自分の味方につける彼は本能の判断に従って動き続ける。
ーー止まったら死ぬ
多勢に無勢の状況下において、無勢側に休んでいる暇など与えられない。一瞬の停滞は致命傷か死を意味するのだから。瞬時に、次に襲いかかる攻撃に身を構えなければならない。
例え跳躍の過程で皮膚に鋭い熱が走り、爪痕が刻まれようとも彼は決して止まらない。痛みを振り切り、それを力に変えて戦い続ける。
「く、たばれェェ!!」
瞬間の隙を刹那で掴み取る彼が全身を鞭のようにしならせて溜めに溜めた力を全開放、岩肌に大剣が深々と斬り込むと同時に巻き込まれた二匹の肉体が血飛沫を上げながら一刀両断。
しかし、勢い余った。
標的は仕留められたが昂りが仇となった結果、大剣が岩肌に斬り込むというよりも埋まる。刃の重量に振り回された、肉体が宙に晒された状態で引き抜くことは不可能だ。
理解はない。ただ、抜けないと本能が察した以上はハヤトが選択する行動は一つ。
一瞬は曇った表情が晴れると彼は目をかっ開き、歯を食いしばり、全身の筋肉を膨れ上がらせ、埋まる大剣の柄から手を離し、握りしめる拳に全霊の力を込める。
きっと、ウルガルムの群れはそれを好機と判断したのだろう。暴れていた鋼が手元から離れたならば少しは動きに乱れが生じるはずだと。宙に晒された肉体へと一気に飛びかかった。
が、
「俺は、コッチが本業だーーッ!」
瞬間、黄金色の覇気が燃え上がる。
牙と爪がたどり着くよりもハヤトが地に足をつける方が速い。迎え撃つ拳に装備されたナックルが正面の鼻頭を砕き、直後に真横から聞こえた音に裏拳を薙ぎ払えば、直撃した首があり得ない角度に捻じ曲がって絶命。
不意に月の光が遮られ、それが示唆するのは自分の真後ろから攻撃を仕掛けてきた事実。反応する肉体が左脚を軸足として激しく回り、股の開閉領域の限界まで開かれた右脚——その踵が爪を伸ばした個体の腹部を蹴りつける。
まだ止まらない。
振り切る右脚が個体を打ち出すと強く地面を叩きつけ、反動を得た肉体が真上へと飛び上がる。軽めの跳躍に突撃してきた複数体が足裏スレスレを通過した。
呼吸すらまともに追いつかない大群戦。考える暇すら与えない戦闘展開。それは、ある程度戦闘の心得のある人間であったとしても苦痛の表情を浮かべてもなんら不思議でない死戦。
しかし、魔獣の嵐の中心にいるハヤトは心底楽しそうに口角を釣り上げている。頭よりも先に体が動く彼にとっては大群戦など望むところ。本能が研ぎ澄まされていっそ高揚感すら得る。
絶望的な状況だということを忘れさせるハヤトの笑みは恐ろしいことに戦闘が始まってから一秒たりとも絶えておらず、魔獣側からすれば狂気的にも見えていた。
「まだ……ッ、まだァ!」
浅い呼吸で酸素を脳に送る彼は酸欠気味になりかけた肉体に鞭を打つ。乾き切った肺が潤いを欲して必死に喘ぐも、送られてくるのは少量の酸素のみ。ならばと肺は少ない潤いで彼の肉体を動かそうと懸命に働いた。
一瞬、刹那でも酸素が途切れれば脳が麻痺し、肉体の麻痺に直結——最悪の未来だけはなんとしてでも防ぐために彼の肉体は稼働限界を越して命を繋ぐ。
「こんなもんかよォーーッ!!」
その後も四方八方からタイミングを合わせた連携が的確に襲いくるも、それら全てをねじ伏せる暴力が次々と魔獣の死体を量産させていく。一撃で致命傷を与えるそれを瞬間の間に何発も打ち込めるハヤトには、その程度のことなど容易い。
砕き、弾き、潰し、千切り。自分の体そのものが一つの武器となったように彼は培ってきた暴力という暴力を披露し。対抗する存在の命を消しとばす。
ハヤトがそれを見届けることはない。包囲網の穴を見つけた彼は浅く息を吐いて駆け出す。群がる獣を押し退ける彼が向かう先は先ほどからずっと自分のことを睨んでいる個体だ。
臆病なのか。飛び掛かる機会を窺うことすらしない奴は戦場にはお呼びでない、とっととご退場願いたいところ。
「死にたくなけりゃ出てくんな」
狙われた個体が血に濡れた瞳の奥に宿る殺意に睨まれたと察した時にはもう遅い、既に目と鼻の先。逃走本能が刺激される熊の威圧感に怯えたように縮み込むが、それは死を受け入れたも同然。
振り上げられた足裏が脳天から頭を踏み潰し、頭蓋骨と脳汁、更には脳を噴き出しながら命が奪われる。最後に見たのはきっとハヤトの表情だろう。
高揚感に染まった、その笑みを。
あの世に逝っても忘れられない笑みが振り返ると、大群に明らかな動揺が走る。怯えた仲間を容赦なく踏み潰す姿は化け物にしか見えず、自分達が戦っているのは人ではなく熊だと錯覚した。
武器を捨て、己の肉体のみで仲間たちをぐちゃぐちゃにする様子は熊以外に何がある。どれだけ傷付けても一切の疲労も怯みもない存在は化け物以外に何がある。
「ビビったか? 今更遅ぇンだよ!」
本能的に動く彼だからこそ、本能的に動く魔獣にその恐ろしさが伝播し、心を支配する。心が止まれば肉体も自ずと止まり、戦場での停滞は相手に無防備な土手っ腹を晒した事と同等の失態を意味した。
故に、岩肌が爆発する脚力で蹴り上げ、距離を詰めるハヤトに運の悪い三匹が襲われる。
ボールを蹴る感覚で蹴り上げた爪先が中央の顔面を打ち上げると釣られる肉体が空へとぶっ飛び。次へと伸びた右腕と左腕がそれぞれ残る二匹の首根っこを掴むと、骨が砕ける握力に悲痛な声が小さく上がる。
激痛に怯むことは攻撃の主導権を相手に引き渡したようなもの。声を荒げるハヤトが豪快に二匹をぶん回すと、強肩によって投擲された肉体が崖に衝突して弾け飛ぶ。直後、蹴り上げた中央のが天空より落下し、地面に叩きつけられて絶命した。
「エル・ドーナ!」
そろそろ手元が寂しくなってきたハヤト。彼は今日初めての攻撃魔法を解禁すると、三匹の絶命で硬直が解かれた魔獣を相手にしながらも詠唱、睨んだ先にあるのは数十秒前に埋まった大剣。
元々ドーナ系統の魔法は地面の隆起に干渉するもの。つまりは、大剣の埋まった岩肌を隆起させて、無理やり押し出すことも可能なのだ。
結果としてハヤトの目論見は成功した——成功はしたが。これまた勢い余って初期位置から真上に大きく押し上げただけに終わる。否、射出されたと表現してもいい。
予想では、押し出されてクルクルと回る柄が見事に手元に戻るカッコいいやつを実演するつもりだったのだが。そう上手くはいかないらしい。
仕方なし。飛びかかった一匹の背中を蹴り上げて跳躍。足場にされたそれが地面に叩きつけられて悶絶する中、ハヤトの手元に大剣が戻ると、彼は再び蹂躙を開始する。
血が弾け、頭蓋が潰え、腸と脳漿がおびただしい勢いで地表でばらまかれる。もはや人間の動きから一線を超えた黄金の闘気を纏うハヤトが超人的な破壊を生み出し、伝播する崩壊が手当たり次第魔獣の肉体を壊していく。
されども相手は大群。これほどまでの無双を成されたとは言え、それらが攻撃の手を止めることはなく。油断すれば許容しきれない一撃がハヤトの肉体に容易く刻まれる。
「ぎ、がッ!?」
背中だ。
死体の山に紛れていた姑息な一匹がハヤトの背後から飛びつき、思いっきり牙で噛み付いている。ついさっき踏み台にされて悶絶していた魔獣の執念の一撃。深々と突き刺さる牙の隙間から命の雫が噴出する。
ウルガルムに噛みつかれれば呪われると、いつか聞いたテンの声が命の警告音としてハヤトの脳内に鳴り響き。歯を食いしばる彼は激痛に表情を歪め、その一匹に一騎当千の動きが瞬間だけ鈍る。
刹那。
動物的にその停滞を好機とみなした魔獣達の赤の眼光が鋭く光り、詰め寄る速度を加速させる。ここぞとばかりに勢いを増して全方位から一気に攻めにかかった。
痛みに悶絶しながらも自分に一撃を与えるとは、魔獣の執念と根性に驚愕。しかし痛みを力に変えるハヤトはそれ以上の根性を発揮、噛み付いた魔獣を背負ったまま渾身の力を込めて大きく崖の側面へと跳び退いた。
背中から側面に張り付き、飛びついた魔獣を背中と崖の板挟みしたハヤトが怒号を張り上げながら裏拳を放つ。頭蓋骨が潰れる不快な音と共に自分の真後ろで血潮が噴き出し、頭から浴びた。
視界が真っ赤に染まり、開けた瞼の中から鋭い眼光が眼下の死体の台地——その上を踏み荒らしながら迫る群れを睨みつける。刻まれた傷跡など気にも止めない彼は魔獣以外のことなど知らない。
辛うじて目を避けたと思わせる切傷が目下に生まれ、大剣を携える腕は既に衣服が裂傷に破れて何本もの爪痕が走っている。健全なハヤトの気配は既に消え、代わりに傷だらけのハヤトがそこにはいた。
噛まれることだけを致命傷と認知する彼はそれ以外の攻撃は許容範囲とし、避けれぬものは気合で受けているのだ。それを力に変換して彼はどこまでも強く昂る。
魔獣の血を浴びに浴びたハヤトの衣服には、もはや白の影はない。上下真っ白の衣はドス黒い液体によって染色され、腰に巻きつけた黒帯が存在を薄れさせつつあった。
しかし、それが魔獣を見下ろすハヤトの存在感に拍車をかけた。上から物理的に押さえつけられるような威圧感、身に纏いし金色の覇気は過去最高にまで達し。しかしまだ最高は更新されている。
荒ぶる心がそのまま魔法として具現化された彼はきっと他の誰も——テンすらも見たことのない一人の戦士としての姿。
「ーーーッ!」
今この瞬間、ハヤトは言葉にしようのない高揚感に心を満たされていた。自分自身の体が、まるで体重と重力という枷から解放されたかのように軽い。頭で考えた動きがそのまま肉体に反映される。
ーーならば、
自分が追い求めていた展開、力をつけた自分の限界にどこまでも挑戦する。いずれは自身が思い描く『最強』になるために、手を伸ばすほど遠のく光を掴み取るために。
ーーならば、
自分は、自分自身に弱さを許さない。男として生まれたのならば上へ上へと己を高め続けるのが使命。
ーーならば、
ーー限界を越えろ!!
「あァァァァーーッ!!」
森が震え、大咆哮が轟く。
身構えていても思わず身を屈めてしまう叫び声が魔獣の真上から降り注ぎ、大群に戦慄が迸る。僅かながらの停滞の応酬はその後に続く蹂躙だ。
森を震わせた存在が張り付いた崖から弾丸の如く射出される。蹴り上げた崖が蜘蛛の巣状ひび割れを作り出すそれはハヤトの肉体を大群の中へと突撃させた。
着地と同時に情けない声を断末魔として薄くこぼした魔獣の一匹が踏み潰される。数の中に個で突撃するとは馬鹿な真似だと、飛びかかった複数に対する大剣はそれら全てを根こそぎ斬り払った。
崖を背にするハヤトに逃げ道はない。空間を広く使う彼は一秒たりとも足を止めずに大剣を縦横無尽に暴れさせる。どこへ行こうとも魔獣が迎え撃つのだから、映る光景が全く変わらない。
「ーーーッ!」
仲間が作り出した血のカーテンを利用した魔獣がハヤトの肉体に飛びついた勢いで太い前足を振りかぶる。当たれば致命傷は避けれない鋭い爪が彼の首筋へと一直線に走った。
瞬間、一匹の動きと連動する複数体がハヤトの四方八方から様々な挙動を見せる。
或いは後方から懐に忍び寄り、或いは左右から挟み討ちに、或いは崖を蹴り上げて頭上から。我先にと殺到する獣が熊の体に一斉攻撃を仕掛けた。
中にはそれらを囮とする一軍もある。あの存在にはその程度では及ばないと理解した頭の回る奴が他の奴らを短時間でまとめ上げ、機会を窺っている。前線の屍を踏み越えて獲物を仕留める気だ。
これら全てが同時に展開する戦場。かれこれ五分以上も継続したのだからさしものあの男もバテてくる頃合い、そう思った魔獣が数で押し切る挙動を強く見せ始めてきた。
が、それは愚行だ。
「お、らァァァ!!」
真正面から飛びかかった太い前足を紙一重で回避したハヤトの手が伸び、骨が砕けるほどの握力で振られた魔獣の腕が掴まれる。激痛にその魔獣が「キャン」と鳴いた瞬間、肉体がぶん回された。
片腕一本が大型犬の肉体を四方八方へ振り回す。後方から懐に忍び寄ろうとしたものを薙ぎ払い、左右から挟み討ちにしようとしたもの達を大剣で斬り、魔獣で叩きつけ、頭上からのしかかった最後のものに投げつける。
一匹の魔獣を利用した残虐な攻撃を展開したハヤトが投げた魔獣の後を追う。跳躍し、素早く身を回す肉体が唸りを上げて豪風を纏い、右脚が鞭のようにしなった。
直後、
どん! という大砲が放たれるような音と共に空に浮かぶ二匹が右脚に打ち出され、崖に叩きつけられた。あり得ない初速を生んだ打撃は魔獣の肉体を容易く弾けさせ、確実に命を絶った。
落下する体。やけに遅く感じる視界の中、ハヤトは目まぐるしく視線を走らせた。
地表を見る。落下地点には魔獣が待ち構えている。だいぶ数が減ってきたか。
森を見る。ここならば多少は派手にやっても影響はないか。
自分を見る。滝のように汗が垂れ、滴る血液が止む気配はないか。
ニヤリと。ハヤトが笑った。
「アル・ゴーア!!」
喉が枯れ始めてきたハヤトの詠唱が己の心の中にあるゲートに呼びかけ、感情に触れたそれが主の意に従ってマナを一気に放出した。戦っていた時から練っていた今の自分が出せる特大火力が今、呼び出される。
刹那の閃光が森の闇を晴らし、瞬間で熱風を発しながら生み出されたのは火球。直径五メートル、空を落ちるハヤトの肉体を覆い隠しているそれは正しく一つの太陽。
火の魔法の火力を積み重ねたものだと理解してなお、魔獣達は高熱によって即座に炙られる世界の壮絶さから目を離すことができない。そして、魔獣達は全員が等しく同じことを思った。
詠唱を聞いた時点で、その場から情けなく背を晒して逃げるべきだったと。
「くたばれーーッ!!」
叫び声が爆発し、直後に月光の空間に真紅の輝きが連鎖する。高熱が吹き荒れ、岩肌すらも飲み込み、一面が焦土と化す熱量に世界が断末魔を上げ、
一つの終焉に、魔獣の肉体が文字通り消失し、執念すらも刹那の後に消えた。
▲▽▲▽▲▽▲
心臓の鼓動が、悲鳴を上げたのが分かった。
どれだけ積み重ねても足りない焦燥感が背筋を駆け上がってくるのを感じた。意図せずに自分の頬が強張っているのが理解できた。
それら全ての要因が、自分の目の前にいる。胸の中に抱えた少女を狙った黒装束——魔女教徒と今この時、テンは初めて邂逅した。
今まで感じ取ったこともない雰囲気。ロズワールに向けられた殺意や覇気を纏っているわけでもないのに、自分とはまるで違う人外を相手にしているかのように錯覚する。
殺意、覇気、威圧——否。感情そのもの、意志すらも感じ取ることができない無理解の存在。歪な気配のみを揺らめかせる。
人ならざる者とはこのような連中を言い表すのだと本能的に理解した。
動揺ーー、している場合ではない。
「んんーー!」
刀に押さえつけられた十字架の剣を黒装束の肉体ごと斬り払い、刃の擦れる音が鼓膜を刺激した刹那で二人と一人の距離が開く。しかし黒装束の間合いから離れるには遠く及ばない。
故に這い寄る影が再びテンの肉体へと接近する。鋭い動きで懐に入り込み、闇を纏うそれは瞬きをした時には既に剣を振り翳していた。
短剣という軽量の、極めて殺傷能力の高い狂気がラムを超えてテンの腹に突き刺さる——、
「ーーーー」
寸前。
地を蹴り上げるテンがラムを抱えたまま刃の魔の手から逃れる。鋭い機動と剣速、しかし目で追えぬ速度ではないそれらを前にテンの動きは落ち着いていた。
動揺する精神を刹那で切り落とした彼は思考を戦闘に切り替え、即座に対応。浅く息を吐いて邂逅の感傷を吐き出した彼は腕の中からラムを解放し、彼女を置いて今度は自分が攻めに出た。
踏み込み一つで距離を詰めるテンは闇を切り裂く一閃、素直な動きで刀を振り下ろした。質量を感じさせない速度で振られる刀は単純な動作故に回避しにくい反面、決定打に欠ける一撃。
流法は使っている。何もない状態で戦うことは死に急ぐことと同じだ。寝てる時以外はずっと、毎日地道に鍛錬してきた自分にとって接近戦を可能とさせる唯一の手段。
できればこれで倒れてほしい。が、相手は魔女教徒。半身を逸らす動作で回避すると、即座に攻撃に転じる十字架の剣先がテンの額へと瞬間で照準を合わせる。
ーー鋭い刺突が、来る。
いつぞやの盗賊の何千倍にも洗練された滑らかな動きをテンの瞳が捉え、構えを察知した思考回路が高速で回った結果として導き出された刹那の攻撃予測。
これもロズワールに鍛えられた恩恵か。どうやら自分は、伊達に宮廷筆頭魔導師の鍛錬を受けてきたわけではないらしい。対人戦は慣れるまで時間はかかるが、動きが全く見えないわけではなかった。
刀を振り下ろした両腕に力が入る。肩を入れるような動きで半身を逸らし、懐に思いっきり入り込む左足が強く血溜まりを踏み締めた——右頬に十字架の剣先が通過する。
「はっーーー」
ガラ空きになった胴体が目の前に迫る。浅く息を吐き、柄を握る手首を返し殺意の方向を定める。あとはこの両腕を力一杯振り上げればこの魔女教徒は内臓と血飛沫を撒き散らしながら絶命する。
短剣を握ってない腕が迎撃の予備動作を始めたのが分かった。入り込まれた肉体に対して咄嗟に飛び退こうと、両足に力が込められつつあるのが土の踏み締められ具合で分かった。
命の一撃——それを掴み取るのは一瞬の判断と攻撃の速さ。どちらかがそれらを相手より上回ることによって勝負は決着を迎えることになる。迷いが生じ、剣速が鈍った方が辿るのは死の片道だ。
相手の懐に入り、ガラ空きになった胴体に刀を振り上げる自分の方が明らかに速いこの状況。自分はこのまま刀を振り上げれば相手に勝つことができる。
命を、断つことがーーーー。
「テンテンーー!」
思考が加速した世界。瞳に映る敵以外のもの全てが除外された閉鎖的な空間。色が消え、音が消え、時間経過が曖昧になった無の世界の中。しかしその声はテンの耳にはっきりと聞こえた。
叱咤するような、不安がるような、心配がるような。そんな感情を聞き手に思わせる声が彼の心を強く揺らし、一時的に呼吸が停止する。全身の筋肉が硬直するような感覚に陥った。
ーー振れない
頭の中に浮かんだ言葉だった。
決意したのに、『人を殺す覚悟』を決められぬ妥協としてそう決意したはずなのに。これでは迎撃の左腕に胸を打たれ、逃げられる。最悪反撃を受けるかもしれない。
ーー斬れ、斬れ! 斬れ!! 斬れ!!!
情けない自分に何度も怒号を吐き散らすも、心とは裏腹に肉体は構えの体制から動いてくれない。まずい、本当にまずい。
レムを助けなきゃいけないのに。こんな場所で躊躇してる場合なんてないのに。自分の情けなさが原因でレムの救出に遅れを出し、彼女が死んでしまったらエミリアに会わせる顔がない。
頼む動け。動いてくれ。頼むからーー、
ーーテン君。私から言えることは一つだぁーけ。
ふと、ロズワールの声がテンの鼓膜を強く振動させる。体の外側ではなく内側から響いた声は、心の奥底に留めておかれた音声。
それは、いつの日だったか。ロズワールが自分に対して掛けてきた言葉。心の奥底にある感情に直接触れるような一言。大切な人を守るために、理性という名の枷を破壊する一言。
考えていること全てを一瞬で取っ払ってくれる、解放の狼煙。
ーー本能の赴くがままに、だよ。
瞬間。本能が叫び声を上げた。
「ーー! ぁ、あああああ!!」
大口を開けたテンが咆哮し、刀を相手の方向へと斬り上げる。腰から侵入した刃が内臓もろとも人体から切断し、背筋を支える背骨、更には心臓までもを巻き込みながら突き進む。
不快な音だった。肉を無理やり引き裂いているような音が液体の噴出口から溢れ、浴びる血の量が増すのと比例してその音は相手の体から強く響き伝わって。
苦痛の声は聞こえない、否、聞こえていたとしても聞こうとしない。理性と本能がバトンタッチしたテンの耳には「斬れ!」という、心からの命令が激しく木霊しているのだから。
そして、
「ぐぅぅーー!」
食いしばった歯の隙間から堪えきれない感情が呻き声として溢れる。顔面から血を浴びた不快感、人肌を斬ったことで手に伝わる感覚、人ならざる者とは言えども人の形をしたものを殺めた感情。それら全てが一挙に襲い掛かった。
斬られた方よりも斬った方が苦鳴を上げ、見事なまでの切り口を作り出しながら襲撃した魔女教徒の胴体が下半身から切り離される。力の方向に流れる胴体が血と内臓をぶちまけながら軽く飛んでいく。
飛んで、木にぶつかって、ボトリと土の上に落ちた。人ならざる者とは言えど元は人間、流石に体を真っ二つに切り離されれば命は失われ、ピクリとも動かなくなった。
直後に訪れるのは静寂だった。襲撃者が沈黙し、騒めいていた空間が不気味な静けさを取り戻す。その中で一人、身を震わせるのはテン。
「ーーーー」
振り上げた体制のまま動きが固着。瞳から僅かに光の落ちた彼の表情は何を考えているのか、喜怒哀楽が一つも浮かんでいない。
返り血を顔面に浴び、刀からポタポタと滴り落ちる血液にテンは身を震わせる。たった今自分がしたことによって得られた感情が心に染み込んでいる。歪な感覚だった。
今の今まで知らなかった感覚、動物ではない人間に鋼を打ち込む感触は独特で、拳に残るそれは記憶と心に深く抉るように刻まれた。
命を奪う、その感触。
おそらく、いや絶対に。今この瞬間、自分が感じていることは一生忘れられないと思う。目を瞑り、脳裏に描けば心が今を甦らせると思う。それ程までに悲劇的で、印象的で。
「……はじめの一歩。慣れるまで大変だな」
ほぅ、と一息つき刀を血振りするテンが肩に入った力を抜く。一瞬でも斬ることを躊躇した自分を咎める彼は力無く項垂れ、首を横に振った。
実際にやってみないと分からないとは。数分前の自分の言葉がまさか、こんなにも早く実践されることになるなんて思わなかった。そのお陰で人を殺す感覚が心に刻まれたわけだが。
初めての人殺しになんとも言えない不快感を抱き、疲労の気配を顔に浮かべ始めたテン。そんな彼の肩に並ぶ存在が一つある、ラムだ。
「頑張って慣れてちょうだい。じゃないと足手まといになってしまうわよ」
労うようにか、或いは戸惑う背中を叱るようにか。どちらとも捉えられる力で彼女はテンの背中を叩いて情けなく曲がった背筋を伸ばすと、
「その調子でレムの事も助けてね。もちろんラムもだけど」
「スパルタかよこの人。はいはい、ご期待に添えられるように頑張りますよ」
心の傷など捨て置けとでも言いたげにこれからも精進しろ発言。いつもの真顔でそれを言われるものだから、助けられて当然とか思ってんのかなぁ、なんてことを内心テンは思っていたり。
しかし、せっかくラムに頼られているのだから。またと無い機会、どうせなら思う存分期待に応えてやる気概の彼は大きく深呼吸。魔女教徒との邂逅は衝撃的だったもののなんとかなったと、気持ちを切り替えた。
「行くか」
刀を握り直したテンの言葉に軽く顎を引くラム。彼女の動作を同意の意と捉えたテンも軽く頷き、二人は駆け出した。
駆け出す方向は決まっている。音の発信源、そして闇の中から突き抜けるように響いてくるレムの咆哮。喉が張り裂けてしまうのではと心配してしまうそれの方向へ。
そんな時だった。
「ーー!」
後方。自分達が走ってきた方向から空襲でも行われているのかと疑う爆音が地響きとして二人の足元を揺らし、刹那の閃光の直後に真紅の煌めきが木々の隙間からはみ出てきた。
空間に満たされていた漆黒が僅かではあれど晴らされたことに片腕で目に光を遮る傘をさす二人が眩しげに目を細める。途端、明らかに異常な熱波が背中を大きく押し出した。
何事か。否、答えなど考えなくても出る。
「相変わらず派手にやってくれるね。アイツ」
「それが脳筋の取り柄だもの。森火事にでもなったりしたらどう責任取るつもりかしら」
不意に生じた異常事態に、しかし足を止めるどころか二人は振り返る気配すら見せない。駆ける足をより一層速めた。
こんなことをやるのはハヤトだけ、とは二人共通の考えである。後ろから音が聞こえてきた時点で彼が何かしたことは明らか、魔法を行使した時点で彼であることは確定。
以前、「火事になるから火属性は使わないでね」とテンが指摘したはずなのだが。どうやら頭から完全に抜けているらしい、豪快に戦っているようで結構。
彼の生存報告を一方的に受け取った二人。テンは彼の豪快さに心強さを抱き、ラムは後始末を考えぬ行為に呆れ。同時に別々の意味で息をこぼした。
彼が頑張っているなら自分も頑張らなければならない。彼に託し、託されたのだから。全身全霊を尽くして生きて帰るとテンは柄を握りしめ、
予兆も無しに背中に刺さる、異様な気配ーー!
「ーーーッ!」
ここが地獄だと思い出される一撃が反転した刀によって甲高い音を立てながら弾かれる。当たったのは鋼の物体——十字架の剣、その刃。持ち主の肉体が音を立てて地表と足裏を合わせる。
振り返るテンが捉えたのは一人の黒装束。闇に溶け込む奴らは二度も同じ手口で、今度はテンの命を狩りにかかってきた。こちら側からすれば神経を常に尖らせ続ける必要がある厄介な手法だ。
こちらの様子を伺っているのか、黒装束は仁王立立ちのまま動く気配がない。先程は間髪入れずに二撃目を放ってきたはずだが。
奇襲を防いだテンに生まれた小さな疑問。それは、皮肉にも状況の悪化を知らせるラムの口によって解消されることになる。
「何人か分からないけど、囲まれてる」
「マジか」
背中を合わせてきたラムの現状報告。緊張感を持たせた声はとても嘘を言っているようにも思えない、本当の本当に自分達は魔女教徒に囲まれている。
信じがたいけれど、少し考えれば分かることか。基本的に魔女教徒は集団、一人しかいない事などまずあり得ない。必ず複数で襲撃してくる面倒な輩。
つまりは先の戦闘を終えた時点で、この場所に足を踏み入れた時点で、奴らの巣窟に足を踏み入れたことを意味し。いつでも襲われる状況になったことになる。囲まれても何もおかしくない。
「クソ……っ。こんなところで足止め喰らってる場合じゃねぇってのに」
苛立ち、舌打ちしたテンが刀を構える。どこから来られても迎え打てる体制で彼は肌に伝わる歪な感覚、殺意とも威圧とも言えぬ人ならざる者が発する異様なそれを探った。
闇の中を複数の影が所狭しと蠢いているのがぼんやりと見える。自分達を撹乱するつもりなのか、辺りに散開する影達は均衡を保つ様子を見せ、飛びかかってくる気配はない。
時間稼ぎか、足止めか、戦術か。いずれにしても先を急ぐ自分達にとっては不快でしかない立ち回りだ。
「……やってやるよ」
ならばこちらから崩してやろうと覚悟を決めたテンは息を吸う。背中のラムの事を見れば、目を合わせてきた彼女の瞳には戦闘の意志が宿っている。
強行突破。こんな奴ら早々に始末して先を急ぐ事を無言ながらに決定した両者の目つきが尖った。殺意の方向は依然として周囲を蠢いている殺戮集団へと。
拳を軽く握るラムと、剣先を気配の方向に向けるテンの二人。彼らが口に詠唱を刻ませようと唇を小さく動かし、戦闘の合図を告げる一撃を————、
「ーーん?」
放とうとした直前で、テンがその違和感を察して首をひねる。散開していた魔女教徒たちの様子がおかしいのだ。二人を錯乱し、ふとした瞬間に飛びかかってくる、そう思っていたのだが。
取り囲む二人を意識から除外したかのように、突如としてその場から去っていく。去るというより一つの方角に突撃していくの方が正しいかもしれない。短剣を構えたそれらが一直線に、その方向へと弾かれるように飛んでいく。
違う。おかしい。一体何があったのか。そんな疑問が頭の中を埋め尽くす。
直後、その答えは響いてくる声としてテンの鼓膜を振動させた。
「あは、はははーー」
笑い声。
それはまるで幼子のように無邪気なもので。剥き出しになった残虐性から発せられた音声だった。徐々に音量が増すそれは、間違えなくこちらに向かってきてる。
途端、これから起こる地獄を思い描いたテンの心が戦慄に震える。笑い声一つだけ。それだけでテンは奴らの不可解な行動の意図を察し、本能的に身構えた。
音、音がどんどん近づいてくる。鉄の擦れる音が、肉の弾け飛ぶ音が、木々を薙ぎ倒す音が、憎悪に満ちた音が。それを発する音源そのものが。
近づいて、近づいて、近づいて。やがて闇から抜けた声が肉体を呼び出して————。