前からずっと思ってたことがある。
ハヤトのようになりたい。
自分はいつもそう思っている。常に前を向いて、自信に満ち溢れていて、周りの人間から頼りにされて、自分にとっての光で。憧れの存在だ。彼と自分を比べた時、自分の欠点ばかりが浮き出て自分が大嫌いになる。
ハヤトのようになりたい。
自分は、自分が大嫌いだ。彼のように一度決めたことを真っ直ぐに貫くことのできない自分が、本当に大嫌いだ。必ず助けると、屋敷を出る前に己に言い聞かせたはずなのに。きっかけ一つで簡単に揺らいで。
ハヤトのようになりたい。
俺を信じろ。エミリアの優しさに漬け込む形でしかその言葉を言えない自分には、魔獣に囲まれた状況で覚悟を決めたハヤトの自信に満ち溢れた言葉がとても遠い存在に思えた。
自信がないから、覚悟一つ決めるのにも時間がかかる。人を殺す覚悟も、始めは決意という形で押し切り、土壇場でようやく決めることができた。遅すぎると自分でも心底思う。
ハヤトのようになりたい。
なにか、決定的なことがない限り、自分は覚悟を決めることができない。それはエミリアの涙、それはハヤトの叱咤、それはラムの鼓舞、それはレムの姿。自分一人ではとても定め切れない。
今回のが良い例だ。レムを助けるために魔女教徒をすべて始末し、しかし本番手前でラムの戦線離脱に心が激しく動揺して。自分一人でどうにかなるわけがないと固めた覚悟が揺らいだ。
何度決意した? 何度覚悟した?
生きて帰ると覚悟し、レムを助けると決意し、ハヤトに託し託されると決意し、人を殺すと決意し、そして覚悟し。今度はレムの自我を取り戻す覚悟を決めるとは、一々面倒な男だと思う。
そのせいで、ハヤトなら突っ走る場面もいつもいつも一歩立ち止まって、足踏みして。本当に自分で自分が情けないと思う。いつも、いつも——そう、いつも。誰かに助けてもらわないと、自分は立てやしない。
分かってる。自分に自信が持てないから、いつもこうなってしまうだなんてことは自分が一番分かってる。
ハヤトのように自信が持てたら、一度の覚悟で全てを定められるのだろうか。
そして、今も。
「レムをーー。ラムの妹を助けて」
その一言が、自分の背中を強く押してくれた。揺れた心を、覚悟を、ちゃんと固めてくれる。自信のない自分に自信を持てと励ましてくれる。
本当に、情けないと思った。
ここまで言われて、やっと自分は足踏みから一歩踏み出すことができるのだから。ハヤトならこうはならなかったはずだ、ハヤトならもっと上手くやれたはずだ、ハヤトなら自分よりも何倍も。
だから自分は彼に憧れ。そして、
ハヤトのようになりたかった。
そうなることを、諦めた。
でもーーーー、
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「やっぱ。憧れちゃうよなぁ」
言い、テンはレムの領域の一歩手前で立ち止まる。ラムに背を向けた彼は彼女からの視線を受けながらも、振り返ることはしない。
今、自分の背中はどんな風に見えているのだろう。ハヤトのように男らしく映っているだろうか。
否、
「真逆か。直前の直前まで揺らいでいた背中なんて、カッコよく映るわけがないよな」
覚悟はラムのお陰で定められた。あんな言葉を言われてしまって定まらない人間など逆にいるのかと聞きたい。
普段のラムを知ってるなら尚更、一体今日で何度ラムらしからぬラムを見たことか。お陰で彼女の印象がガラリと変わってしまった。
それを短時間で何度も心に向けられたのだ。例え揺らぎまくるテンだとしても流石に頑固とした覚悟が定まる。エミリアに、ハヤトに、ラムに、レムに。自分は色んな人に助けられていると思った。
同時に自分一人で覚悟一つ決められないとは、なんとも情けないと心底思うが。今はそんなこと考えている場合ではない。後悔も反省も、後からいくらだって、気が済むまでできる。
今は、今だけに集中しろ。
「……俺の声、聞こえてるかな。レム」
一歩踏み出せば『鬼』の力が牙を剥く中、外から中へとテンの声が入る。不気味な静けさの漂う月光の空間に、低い声がゆっくりとレムの下へと流れていく。
声は届いただろうか。こちらに鋭い目つきを向けてきたから、一応聞こえてはいるらしい。果たしてそれが心に届いてるかは微妙なところだが。最終的には意地でも届かせなければならない。
果たして自分のような人間に本当に彼女を呼び戻させることができるのか。正直なところ、不安しかないテンである。しかしラムにあんなことを言われた以上はやってみる価値はある。
「聞こえてたら少しは反応見せてね。俺も長くは続かないと思うから、できれば五分以内には帰ってきてほしい」
戦いの予備動作として深呼吸するテンがふざけた風に軽口を叩く。なるべく普段通り接していつものような返しが来るのを期待するが、これも通用しなかった。
返ってきたのは咆哮。自分に近づこうとするテンを威嚇する鬼は猛獣のような狂気さに満たされた殺意を向けてくる。
しかし、その様がテンにはどこか泣き叫ぶようにも見えて。まずは理性のカケラを表に引っ張り出すことから始めた方が良さそうな雰囲気だった。
なら、すぐにでも始める。気持ちの整理はついたから後はこの一歩を踏み出すだけだ。
襲撃した魔女教徒を全て下し、血と殺戮の跡地に生き残ったのは三人。
呼吸が荒く、テンのことを睥睨しているレム。レムのことを心配そうに見つめるラム。そして、レムの前に無手で立つテン。立ち位置としては姉妹の間に異物がいる形だ。
鬼の力に取り込まれたか。レムはラムの声を聞いたとしても理性を僅かに溢しただけで、それ以上はなかった。理性の消失させた瞳は狂気に染まっているようにすら見え、このままでは一生帰ってこないのではとさえテンに思わせている。
しかし、そうでないから今こうしてテンは立っている。呼びかけに刹那でも応じ、抗っているレムの存在を確かに感じるから彼は自身を危険に晒している。
レムを助けるために。ラムに応えるために。
できることならラムの声を聞いた時点で、欲を言えば顔を見た時点で帰ってきてほしかったところはある。
大体、こういうのは世界で唯一の家族か恋人の声を帰ってくるのがテンプレなのだが、やはり世の中は上手くいかないらしい。画面の中の世界のようにはいかないものだ。
「ーーーー」
「ーーーー」
レムの瞳にはきっとテンは映っていない。ハッキリと交戦の色が浮かび上がり、真っ黒に燃える眼光がテンの瞳を一直線に貫いている。完全に彼のことを敵視している人間の目だ。
そんな化け物的な狂気を向けられながらも、テンの鼓動は静寂を保っていた。自分が殺されるかもしれない場面で、彼は落ち着いている。
事実、テンに恐怖はない。そんなものロズワールに叩き込まれた死の感覚に比べれば幾分かはマシに思えてくる。それよりも、敵視されたことの方が精神的には大きく、少しだけ傷つかなくもない。
まさか、彼女にそんな目つきをされるなんて考えたこともなかった。甘く、溶けてしまいそうな目を向けてくる彼女が自分のことをテンと捉えず、敵として睨みつけている。
「まぁ、仕方ないと言えばそうか」
度重なる魔女教徒との戦闘で自分の姉すら視界に入らなくなる程に彼女は憎悪に追い込まれ、最終的に鬼に飲まれた。
そうなると、今テンを敵視しているのはレムではなく鬼ということになるのだろうか。だから、目の前にいるのは正気を失ったレム。つまりは鬼だから、向けられた負の感情は全て鬼によって齎されたもの。
だから、だから、だからーー。
「……考えるだけ無駄だ。今いるのは鬼で、俺が取り戻したいのはレム。だから鬼に用はない。それだけ分かってればいい」
いちいち余計なことを考えがちな悪い癖がこんな時にも無駄に頭を働かせたことに、軽く頭を振るテンが失笑。
頭の中を空にし、場に似合わない表情を刹那で引っ込める彼はそう言ってレムを見据えながらゆっくりと一歩を踏み出す。
ーー気合入れろよ。お前次第なんだから
両手を握りしめるテンが来るべき時が来たとばかりに表情を固めた。魔女教徒と邂逅した時以上、ひょっとしたら今までで最も集中している彼がそこにはいた。
もう両者は止まらない。戦闘の意を交換し合い、衝突させたことでありえない対戦カードは成立し、頭の片隅で思い浮かべていた最悪が実現してしまったことをテンは悟る。
さぁ。いわゆる、正念場。
今までの戦いは全て前哨戦。説得も、魔獣も、奔走も、魔女教徒も、それら全てはこの時のために。
「今からお前をそっから引っ張り出すから。もし、ほんの少しでも俺の声が聞こえてるならーーちゃんと手ぇ伸ばせよ」
ここからが本番なのだから。
▲▽▲▽▲▽▲
「ーーー!」
均衡が破れるのは一瞬だった。
何も持たぬテンがレム——鬼の領域へと足を踏み入れた途端、咆哮に呼応する鉄球が一直線に飛んでくる。ここが月光の差す空間になって良かった、でなければ絶対に避けれない。
半身を逸らし体の真横を通過する鉄球、その後に続く鎖をテンは即座に掴みにかかった。まずは鬼の武器から奪い取る、でないとまともに近づいて話すこともできずに終わる。
その彼の腰にはあるはずの刀は無かった。否、鞘すらも姿を消していて完全に無手の状態で彼は鬼との戦いに挑んでいる。
当たり前だ。鬼とは言えど体はレムのもの、万が一傷つけばどうするのかとラムに怒られた結果、今に至る。
「んんーー!」
一手目は成功。
投げつけられた鉄球を避け、鎖を捕まえて絶対に離さない。後は力ずくでこれを引っ張り上げるのが理想的な形だが。皮肉なことに相手は自分よりも遥かに格上、簡単にはいかないだろう。
掴んだ鎖が引っ張られる感覚。ズリズリと土の上を足が滑りだしたことに踏ん張りを効かせるテンが全身の筋力を総動員する。これを離せば戻ってくる鉄球に頭を砕かれて死ぬ、その未来が死の予兆として脳裏に過った。
それだけは勘弁だ。鬼とはいえレムに殺される結末など許せるわけがなく、故に苦鳴を喉の奥で鳴らしながらテンは必死に彼女と綱引きを開始した。
「る、ぁぁぁーーッ!」
が、流法を最大限まで使用した肉体ですら鬼の力は容易く崩した。持ち手を自身の方へと引っ張る鬼が無理やり鉄球をテンごと引き戻す。着いてくるテンの体を見ると、振り払うように鎖を暴れさせた。
腕を薙ぎ払う動作に連動する鎖がしなり、歯を食いしばりながら手の握力のみで必死に喰らいつくテンが、それこそ鉄球のような動きで乱暴にぶん回される。
横に流れ、上に流れ、斜めに流れ。平行感覚が狂いそうになる世界でテンは争う。あまりの乱暴さに表情を歪める彼の瞼が閉じ、予想を遥かに超える馬鹿力に下半身が乱雑に暴れ始めた。
腕の力で支えられた上半身と違って、縋るもののない下半身。それが力の方向に従って投げ出されればきっとテンはあっさり吹っ飛ばされてしまう。
それが意味するのは死。鬼の力で振り回される鎖に掴まっているのだ、手を離せば遠心力に従って何十メートルも飛んでいき、最後には土の上で弾け飛ぶ。そうならないのは上半身が必死に引き留めているからだ。
開始早々にこのザマ。やはり正面切って鬼とやりあうのは愚策の一言に尽きる。掴んだのは失敗だったか。否、後悔している暇などない。
なんとかしなければならない。このじゃじゃ馬状態からどうにか脱し、地に足を受けなければならない。
なら、やることは一つだ。
「レムぅ! 俺は今までお前にたくさん助けられてきたから、今度は俺がお前を助けてみせるよ! でもその前に、お礼が言いたい! だからちゃんと聞いてね!」
叫ぶ。
閉じた瞼を無理やり開くテンが一音一音をレムの心に届かせるように。気怠さなどかなぐり捨てたテンがそれを語り始める。
それはラムがレムにしたように、自分の言葉を心に届けることだった。自分にできることなんてこれぐらいしかない、これ以外に彼女の理性を取り戻させる方法が思いつかない。
テンは叫ぶ。振り回されながらでは呼吸をするのもやっとだが、それでもレムを取り戻すために。彼女との思い出、一緒に歩んできた絆の軌跡、それを呼び起こすように。
「レムは覚えてるかな。すごく前のことだけど、俺とお前が相合い傘してお互いに嫌われてるんじゃないかって思い込んでた話ッ!」
話し出した途端、鬼の瞳にレムの理性が刹那だけ宿るのをテンの瞳は捉えた。それだけではない、振り回される肉体にかかる遠心力が弱まり、鎖から手を離すテンが転がりながらも肉体を着地させることに成功。
初めから声が届いたようで結構。ラムと同様に理性が浮かび、攻撃が緩くなってくれるのなら更に結構。やる価値はあったと上がる呼吸を整えるテンは浅く息を吸う。
地に足をつけたテンはすぐさま体勢を立て直し、鎖の擦れ合う音に身構える。視界が捉えたのは、離した鎖が鉄球を引き連れて縦横無尽に迫る恐ろしい攻撃展開だ。
「あの時の俺さ、お前に嫌われてると思い込んで実はめっちゃ落ち込んでたんだよね! お前に一週間くらい避けられて、それはもう人生で一番落ち込んだんじゃないかってくらいに!」
薙ぎ払われた鎖の上を飛び越えるテンが瞬間的に戻る鉄球に身を屈め、叩きつけられる鎖の真横を飛び跳ねる。
地面に埋まる鉄球が土の目眩しを盛大に飛び散らせ、それを嫌がったテンが離れるように後退。追尾する鉄球がその背中に迫った。
当たらない。絶対に当たってまるかの精神の下、荒れ狂う鎖と鉄球の隙間を掻い潜り、テンはそれらを全て回避していく。
その間も疼くまる少女に必死に手を伸ばし続けるように、彼女と歩んできた思い出を語るように叫ぶ。
叫んだ。
「でも、そうじゃないって分かったとき、あの時はちゃんと言えなかったけど本当はすごく安心したんだ! お前に嫌われてないって思えて、嬉しかった! 気持ち悪いかもしれないけどさっ!」
地面を力強く蹴り上げるテンの肉体が高く跳ね上がり、地をのたくる蛇のように連続して迫る鉄球の蓮撃を回避。直後、追随する鬼の腕が高く振り上げられた途端、波打つ鎖の先に付属する殺意が宙に晒した肉体へと一気に走った。
空中という身動きの取れない中、無防備なテンはそれを見据える。一瞬、刹那たりとも向けられた殺意から視線を外さない彼は自らを仕留める殺意を真下に意を決したように目を細めた。
そして、
「エル・フーラ!」
突き出した拳から詠唱に応える暴風が放出。体を押し出す勢いのそれが機動力の奪われた空間でテンに立体機動を可能とさせた。
空間から放出されるテンが左腕を振る動作で身を回し、掠めるように鎖を紙一重で避け、地面に着地、息つく暇もなく駆け出した。
やはり狙いは自分。しかし雑に放たれるそれは正確さに欠ける。速さ、火力共に侮れない攻撃にも関わらずテンが回避できているのは彼女の攻撃に乱れがあるからだろう。
ーーならば、もっと乱れさせてやろう
熾烈なまでの攻撃へと半分の意識を注ぐテンは鬼の瞳、その奥に存在しているレムの瞳へともう半分の意識を注ぎ、
「他にもね、中間試験の後の夜! 俺がまだまだだって落ち込んでた時。レムが隣にいて、こんな俺のことを励ましてくれて、寄り添ってくれて、嬉しかった! そんなことしてくれる人、今まで一人もいなかったから!」
「ーーーっ!」
言い、テンが満面の笑みを浮かべた直後。それまで泣き叫ぶように咆哮していたレムの声がピタリと止み、暴れ回る鉄球が静まる。暴走状態にあった鬼の瞳に動揺の気配が見られた。
見え隠れしていた理性が淡く浮かび、鬼の瞳に確かなレムの感情が宿る。しかし血にまみれた狂笑は崩れない。瞳にはレムが戻りつつあるが表情は鬼のものとチグハグな様子だった。
ーーまだだ、まだ足りない
彼女を鬼から引き剥がすのにはもっと揺さぶる必要がある。遠くからではだめだ、もっと近づいて。至近距離で、彼女の耳に——心の奥底に声を届けなければ伝わらない。
故に、テンは踏み込んだ。息を詰め、殺される危険のある領域へと己の身を投じる。鉄球の勢いが弱まった今ならばきっと奪える、そうすればもっと話しやすくなる。
全ては目の前のレムのために。彼女ともっと近くで話すために。
「まだあるよ! レムが俺にしてくれたこと! 紅茶を淹れてくれたり、鍛錬の時に俺んところに来てくれたり、疲弊した俺を怒ったこともあったよね! 些細なことだけど、俺にとっては全部が全部嬉しいことで、ありがたいことなんだ!」
喉が張り裂けそうだ。呼吸が間に合わない。頬から流れる血が口に入ってうまく話せない。否、関係ない、お前のやれることを全て尽くしてレムを助けろ。自分のことなど考えるな。
距離を詰めるテンへの応酬は迎え撃つ鬼の武器。先と同様に縦横無尽にそれが行手を阻む。刀が無い以上は体捌き一つで凌ぎ切らなければならないが、テンの動きはそれを上回った。
「まだある、たくさんある! お前に助けられたこと、数えきれないくらい俺は心を支えられたから! お前の優しさに、何度も何度も何度も、たくさん救われたから!!」
駆ける、滑り込む。駆ける、跳ね飛ぶ。駆ける、屈み込む。駆ける、回り込む。駆ける、下がる。駆ける、飛び込む。駆ける、飛び越える。
走る足が速度を緩めることはない。戦場で足を止めることは相手に対して自身の隙を晒した事と同等の意味を成し、それが招く未来は不都合だけだ。
だから絶対に止まらない。彼女に必死に手を伸ばすテンは何があろうとも走り続け、襲いくる殺意の全てを紙一重で凌いでいく。
精度の落ちた鉄球が背後から飛来し、身を大きく屈めるテンの頭上を鎖と鉄球が通過。駆ける勢いそのままに滑り込むことで、直後に引いて放つの動作で再度突撃してきたそれの真下を潜り抜けた。
手を叩きつけた反動で起き上がる彼が見たのは腕を横に振ろうとしているレム。
ーー薙ぎ払いが、くる
僅かな予備動作。鍛えられた反射神経と動体視力が彼女の身体の動きから見つけ出した死の予感。咄嗟に横に跳ね、素直な動きから繰り出される薙ぎ払いが体の真下を通り過ぎた。
やはり精度が落ちているとテンは思う。動きが単調で素直になものになり、速度も火力も弱まっている。それは『鬼』ではなくレムが表に出てきつつある証拠だと信じたい。
「中でも一番は、朝起きて「おはようございます」って言ってくれることかなッ! 一日の始まりはいつもレムの声から始まって。腹に乗ってるのはびっくりしてるけど、そう言って笑顔を見せてくれるレムを見ると、なんか安心できてーーーー」
鬼の暴力を掻い潜り、レムへと近づいていく中で不意にテンの叫びが止まる。沢山のありがとうを彼女に伝えるために、思い出を次々と呼び起こさせる口が、突然に止まる。
それまで順調だった口が言葉を刻まなくなったのは、それを凌駕するものがテンの瞳の先にあったからだ。
思わず息が止まり、考えていたこと全てが失われて、頭の中が真っ白になって、表情を悲痛に歪めるテンの前には————。
ーー泣いている
意図せずに思い出語りの止まった彼が見たのはレムの頬に垂れる一筋の雫だった。光を反射させたそれが額から伸びる角よりも煌めいて、それがテンの心を瞬間だけ硬直させる。
そして、停滞は被弾を呼んだ。
死の予感が、魂を削り取る。
「があああああ!」
鞭のようにしなった鎖がテンの脇腹に直撃、彼の肉体を軽々と跳ね飛ばした。戦いの中での停滞は死に直結するかそれと等しい致命傷を負い、それは今も変わらない。
威力を衝撃部から内側へと振動させるような鉄の一撃に絶叫を上げるテンは、しかし気合で足裏を合わせる地面を蹴り上げて力の方向に跳び、慣性に振り回されながら受け身を取った。
二度三度ほど地を転がり、倒木した木に肩を激しく打ちつけられながらも追撃に備えて身体を起こす。たった一撃にも関わらず、全身に激痛を引き起こさせる鬼の力には歯を食いしばるしかない。
消し飛ばなかったのは力が弱まっているからか、なんにしても決して緩くない一撃に脇腹に手を当てるテンがレムに視線を送ると、悲嘆に暮れる女の子の顔が薄く表れているのが分かった。瞳には前よりもずっとレムの理性が宿っている。
畳み掛けるなら今しかない。それならもっと声をかけようと立ち上がり、腰を上げた——、
「ーーーッ!」
瞬間、
脳天から足先へと電撃が走り、全身を刺すような激痛が産声を上げた。痛みの元は先ほど受けた脇腹だ。
脇腹近くの骨でも逝ったか。強化しても、防護の加護の恩恵を受けても所詮は生身。乱れていてもレムの打撃が当たれば骨の一本や二本は避けれなかった。ロズワールに打ち込まれてきた痛みと同等、否、それ以上の激痛が全身に響き渡っている。
体が思うように動かない。心は前に前にと進んでいるはずなのに、体はずっと硬直したまま停滞。蓄積した疲労と、乾き始めたマナと、刻まれた裂傷が脇腹の激痛に続くように一気に声を上げ、テンの体をこれでもかと痛めつけ、蝕んだ。
脇腹に続いて全身に迸る激痛。身体を支える二本の足から力が抜けていく違和感に視界に映る光景がグラグラと不規則に歪み、気を抜けば体が前に倒れて、一生起き上がれなくなる気がした。
ーーやばい、意識が
不意に襲いかかる目眩がテンの心に大打撃を与え、瞳が虚空を見つめる。一瞬でもそうなってしまえば満身創痍寸前のテンの頭が前に傾き、釣られる上半身が地面に倒れ伏す——、
ーーテンのこと。信じてる。
寸前。
傾くテンの瞳に左手首に付けられた腕輪が映し出され、ずっと頭の中にいた存在が彼の意識を繋ぎ止める。
脳裏に過ったのは自分達の帰還を心から願っている少女の姿。心に聞こえてきたのはその子の声。みんなで帰ると約束し、今も祈っているであろうエミリア。
その人の声が聞こえてきた瞬間。一歩、強く踏み出る右足が倒れるはずだったテンの体を支える。踏み締めた足裏から波紋するように激痛が頭のてっぺんまで伝わるも、拳を握りしめる彼は気合いで堪える。
そう、そうだ。自分は彼女と約束した。みんなと一緒に生きて帰ると。そうやって彼女の思いを押さえ込んだ。
なら、ならば。こんなところで倒れてる暇はない。自分が今ここにいる意味を果たし、レムを助け、エミリアとの約束を守るまでは目を瞑るわけにはいかない。
ーーお前はエミリアから。違う! みんなから託された!
エミリアに託された。ハヤトに託された。ラムに託された。
ーーなら立てよ!! レムを助けるんだろ!
自分は三人に託されたものを背負って今ここにいる。
ーー立て、立って……、絶対に折れるな!
今、自分が折れてしまえば彼らの意志も消えてしまう。レムも返ってこないままだ。
ーーいやだ。絶対に折れてたまるか!
三人の姿が脳裏に次々と過り、彼らがテンの心を励ました。一人では立ち上がれない弱さ持った彼の背中に手を添えて、前へと勢いよく押し出した。
それだけではない、目の前で涙を流しているレムの姿——それ一つだけでテンの魂は激しく燃え上がる。三人によって立ち上がった心と体が、彼女の泣き叫ぶ姿一つで歪みを振り切って押し出した後の行動へと繋げる。
「ぐぅ……! レ、ムぅ!」
脇腹の痛み、更には全身の歪みを振り切り、テンはその場から風のように飛び出した。痛みなどこの際どうでもいい。体のことなど捨て置け。最終的に生きていれば自分達の勝ちなのだから。
ーーレムを助けないと
泣き叫ぶ彼女の下に行って、安心させてあげたい。その想いが彼の体を動かす。度重なる戦闘で無理をした肉体に鞭を打ち、今この瞬間に全身全霊を注ぐ彼がレムの下へと一直線に駆けていく。
行手を阻む鉄球は既に勢い衰え、それでも消えかかる鬼の意志が宿り、遅く薙ぎ払われる。一振りするのもやっとなレムの腕が最後の一振り。子どもが抵抗するような幼稚さのそれが低く跳躍したテンの足裏を掠めた。
「聞いて、レム! だからね、俺はお前にありがとうって言いたい! 俺が屋敷に来てからずっとずっとずっと、本当にずっと、寄り添ってくれてありがとう! 前にも言ったけど、言葉にしきれないくらいに感謝してる!」
もう追撃は来ない、一気に距離を詰める。
自分の持てる全てを発揮し、彼女との思い出を語れる分だけ語り。ようやく崩せた鬼の表情をもっと崩して、その裏側に隠れたレムの表情を見るために彼は地を蹴り上げる。
近づく、レムが肩を荒く上下させている。近づく、レムの頬に涙が垂れた。近づく、レムの瞳と目が合った。
近づく、近づく、近づく。
そして————、
「レムーー!」
その距離——ゼロ距離。
ようやく辿り着いたレムの体に触れるテンの手が武器の柄を握りしめる拳に伸び、力の入ってない拳からそれを奪い取ると遠くに放り投げる。落下する音が遠くで鳴った。
やっと来れたレムの目の前。たった二十メートル程度の距離を詰めるのにどれだけかかったのか。涙を溢し続ける彼女を見ると、とても待たせてしまったと思う。
しかし安堵してる暇はない。それは全て終わってからだと自分に言い聞かせる彼は即座に行動に移し、彼は胸元から取り出した首飾りを彼女に見せた。
途端、理性が戻り感情の宿った瞳が何かを思い出したように大きく見開かれる。視界に映る見覚えのある物体に心が激しく反応し、間髪入れずに彼女の左手を握るテンの右手が持ち上げられ、
「これ、分かるよね? 俺とレムが渡し合った首飾りと腕輪。レムが一生の贈り物にするって聞かなかったやつ。ちょっと恥ずかしいけど…、でもそう言ってくれて嬉しかった」
崩れかかった鬼に畳み掛けるような言動をするテンがレムに優しく微笑む。少しの隙も与えない、鬼から彼女を助け出すためにテンはここぞとばかりに彼女の心に手を伸ばす。
身体を支える二本足は小刻みに震えて、至る所から血を流しながら。けれど全部我慢して、寄り添うように語りかける。
「もう、いいんだよ。一人で苦しむ必要なんてない。一人で抱え込むことなんてない。レムが怖がることは全部なくなったから、安心していいんだよ」
拒絶して、遠ざけて。姉ですら一度は拒絶した彼女を。それでも、必死に助けようと手を伸ばして。
エミリアに託され、ハヤトに託され、ラムに託され。託された思いの一つ一つが線となって繋がって。
「だから。ーー帰ろう?」
今、ようやく。彼女の心に辿り着いた。
「ーーーぁ」
掠れた喘ぎ声が、レムから溢れる。聞こえてきた声にレムは手を伸ばし、伸ばされた手を手繰り寄せたテンが彼女を鬼の鎖から引っ張り出した。
直後、薄く残っていた『鬼』の気配が目の前の少女から一つ残らず消失していくのがテンには分かった。纏っていた覇気が、風とともに流れていくのが見えた。
次第に額から伸びていた角がゆっくりと縮んで、最後には完全になくなって。
「ぁ……!」
瞼が落ち、力無くレムの身体が倒れてくるのをテンの胸が受け止める。
受け止めて、その身体を支える両腕が彼女の腰と背中に回った。
回って——彼は彼女の事を抱きしめた。
どうしてそんな事をしたのかなんて分からない。でも、何もせずにはいられなかった。
血に染まる彼女のことを労わるように。見えない傷を刻まれ続けた彼女のことを癒すように。彼女を追い込む全てから、守るために。意味なんてないのに、それでも何かしてあげたくて。
どうしてだろう、涙が溢れてきて止まらなかった。鬼化して傷は治癒されているはずなのに、「こんなになるまで傷ついて」なんて言葉が頭に浮かんで離れてくれない。
ーーなんでだ。この感情はなんなんだ
彼女の疲弊した姿に自身の心が激しく動揺しているのをテンは自覚した。名前の分からない感情が心の中で暴れ回っている。違う、名前なんてとっくに分かっている。心が受け入れてないだけだ。
「ごめん、ごめんね……っ! もう大丈夫だから。レムが傷つく必要なんてない。俺が、俺がレムを守るから。守れるようになるから……!」
自分の力の無さを呪ったのは今日で二回目だった。もっと自分が強ければ彼女がこんなにならずに済んだかもしれない。自分が、自分のせいで彼女がひどいことになってしまった。
心が受け入れぬ感情にテンは溺れる。意味も分からない涙が瞳から落ちてレムの髪を伝う。伝って、伝って、伝い続けて。次第に嗚咽までもが滴る。
そんな時。眼前、胸元のレムの閉じていたはずの瞼が重たげに開かれる。もう瞳に鬼はいない。顔を出した青色の瞳にはレムの優しげな雰囲気が帰ってきていた。
「……テンくん」
夢うつつのようなレムがその名を消えてしまいそうな声で呼ぶ。それは、瞼を開けて一番初めに鼓膜を撫でた、何度も聞こえてきた声の名。
暴れ回ることしかできなかった自分に、必死に手を伸ばし続けてくれた想い人の声。思考が鈍っている中でも、声を聞いただけで名前が浮かんできた人の声。
その人の、様々な感情が混ざり合った嗚咽を聞いた。どうして泣いているのか、よく分からなかった。分かろうとして、けれど開いた瞼がゆっくりと閉じそうになる。
落ちそうになる意識を保とうと、途切れる意識を必死に繋ぎ止める彼女の瞼がそれを耐え、映る光景を理解しようと瞳が僅かに左右に動く。右を見ても左を見ても映るのはテンの姿だった。
ふと見上げると彼の顔が映り、レムはテンのことをテンだと正しく認識した。鈍っていた思考が微かに音を立てながら動き始め、肌に触れる温かさに気付く。
そしてレムは自分が彼に抱きしめられていることに気がついた。何がどうしてこうなったのか、その理由を探ろうと曖昧な記憶を彼女は思い起こし始め、
「……ぁ」
途端、その時の記憶が脳内に回想のようにして断片的に甦った。それは自分が自分を正しく制御できなかったときの、自分ではない自分が刻んだものだった。
流れる記憶の中でレムは見た。激痛に表情を歪めるテンの事を。暴れた自分が彼に武器を振るい、最後には傷つけてしまった事を。
それを自覚した時、レムの心が罪の重さに震える。自分の想い人を傷つけてしまったと、彼に嫌われてしまったかもしれないと。
「レムは……っ。テンくんを、傷つけて……っ」
「レムは悪くない、何も悪くないよ。大丈夫。レムのせいだなんて誰も言わないから」
今にも泣いてしまいそうな声で、レムは自身の失態を呟く。危うく取り返しのつかないことをするところだったことに彼女は嘆き。その言葉を彼女を包み込むような温もりが柔らかに否定した。
抱き寄せられて、頭を撫でられる。割れ物を扱うような優しい両腕が自分の身体を彼の身体に沈み込ませ、乱れた髪を整える指先が見上げた額を胸板に押し付け、ゆっくりと後頭部を撫で続ける。
鼓膜を通る声は、彼の声だと思えないほどに優しげで。幼子をあやすような穏やかさがあって。
「レムのせいでーー」
「いい。言わなくていい。悪くない、レムは何も悪くないから。……罪の意識なんて要らないよ」
ーーテンくんを傷つけてしまった。
そう紡ぐはずだった口は続かなかった。だってレムの心は今、溜めていた感情が全て溢れてしまいそうな温かさに抱きしめられているのだから。
これ以上ないまでの温かさと満足感、そして幸福感をレムは感じている。大好きな人に、してほしかったことがされている。なんとも場違いな感情がレムの心を満たしていく。
瞼がゆっくりと落ちる。抗おうとも思えない温もりに包まれて。荒ぶっていた心がそれ一つで落ち着いて、安心できて。涙が勝手に溢れてしまう。
「今はゆっくり眠って、レムは俺の中で休んでていいんだよ。あとは俺達がなんとかするから。全部、任せて」
まずいと思った。
言わなきゃいけないこと、謝らなければいけないこと、やらなきゃいけないこと、沢山あるのに。なのに、その言葉と温かさがレムの考えている事を全て取り上げてしまう。
意識が落ちると確信した。
心がそれを望んでいた。こうしてほしい、このままでいてほしいと願う心が、自分の償うべき事を全部後回しにさせて。それを何よりも優先させて。
もう、ダメだった。
「……はぃ」
弱々しい声で返事したのを最後に、レムの身体がテンの胸の中へと完全に沈み込む。彼の背中に回る両腕に、離れまいと力が入って。
耐えていた瞼がすぐに落ち、疲弊しきった彼女から音もなく力が抜けて、次第にそれは穏やかな呼吸音を立てはじめた。
ずっと感じる温もりに、甘えるように。