親友とリゼロの世界に飛ばされたお話   作:ノラン

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瞳に宿った色

 

 

 

その空間は、死体の大地が築かれていた。森と乖離した光の舞台は、中で行われた圧倒的な虐殺によって真っ赤に塗り替えられていた。

 

広々とした空間に所狭しと倒れるのは魔獣の死体。否、もはや肉塊と化したものもある。血液をこんこんと流し続け、血の海を広げつつあるそれらはピクリとも動かない。

 

凄惨な光景だ。下を見れば死体、横を見れば死体、上を見ても崖に叩きつけた魔獣の内蔵が飛び散り、見渡せば手足等の魔獣の部位が転がり。どこを見ても生き絶えた魔獣の残骸がゴミのように転がっている。

 

それだけではない。死体の上に積もるのは灰、炎によって焼かれ死んだ魔獣の遺灰だった。ふっと息を吹きかけて荒っぽく舞い散るそれは、もはや魔獣としての影も形もない。

 

まさに死闘が行われたと言っても過言ではない光の空間。戦いの後に決まってやってくる不気味な静寂は、生きるもの全てが蹂躙されたとも見るものには思わせるだろう。

 

しかし、その中に二本足で仁王立ちする男がいた。肩を激しく上下させ、身体の至る所に裂傷を負った大剣を携えた男が、その場には一人いた。

 

白の衣の影はもはや皆無。ドス黒い返り血で染色された彼の衣服は腰に巻いた黒色の帯と同等の黒さを持ち、それが爪痕の刻まれた服の間から顔を覗かせる赤い傷跡を悪目立ちさせている。

 

男の肉体から淡く纏われていた黄金色の覇気がゆらゆらと揺らめきながら、消える。力を消失させたかのように微風に攫われていく。途端に歩き出す男は崖側へと足を進めていった。

 

ふらふらと、足取りはおぼつかない。大剣を握る腕が力無く垂れ下がり、引きずられる剣先がたった今、転がる眼球を押し潰した。体格にそぐわない様子の男は、ただ前へと。

 

踏み荒らす死体の上は歩き難い。血を浴びたそれの上を歩くと滑って転びそうになる。脆い骨ごと踏み潰してしまい体勢が崩れかけた。

 

そして、たどり着く。

 

たった数歩歩くだけで息が上がるとは、中々に自分もやらかしたものだと男は笑う。体を反転させる男が崖に背を預け、両脚の膝を折り曲げる。ずるずると音を立てて男が岩肌に座り込んだ。

 

その男——ハヤト。彼は握力の無い拳で握っていた大剣の柄を手放すと、自分の横に優しく置く。それから彼は、何となくお月様を見上げた。

 

相変わらずお月様は呑気なものだ。真下で何が行われていようとも、自分だけは知らぬ存ぜぬで眩しいくらいに光り輝いているのだから。月が居座る夜空もまた、星々が点々としていて嫌味なくらい美しい。

 

思えば、こうして空を見上げるのはこの世界に来てから何百としてきた。戦闘のとき、休憩のとき、散歩のとき、瀕死のとき、鍛錬のとき、燃え上がっているとき。

 

同じ空なのにその時々で見え方、捉え方、感じ方が変わってくるのが空の面白いところ。不思議な感覚だった。一つの空を見ているのに、異なる空を見ているようで。

 

 

「……そこから顔を移すと、俺の前には死体の大地が広がると。こりゃ、ずっと夜空見ててぇな」

 

 

現実逃避か。それかアクラの反動と肉体の疲労、重ねるような戦いの傷の三連コンボから意識を逸らすためか。

 

何にしても綺麗な夜空空想から視線を大地現実へと戻すハヤトの頬が疲労に垂れた。ダラリと垂れる四肢からは完全に力が抜かれ、背を預けた崖がなければきっと彼の肉体は簡単に倒れてしまう。

 

猪突猛進.天真爛漫の二つ名がテンを発信源としてごく一部の間で流行り出したハヤトには少し似合わない格好。しかし彼をそうさせるだけの原因が目の前に光景として物語っている。

 

軽く五十は超えるだろうか。悍ましい量のウルガルムの死体が乱雑に転がっている。流石のハヤトもここまでになるとは思わず、予想を遥かに越してきた魔獣の執念に感心してくる。

 

 

「にしても……。よく生きてたもんだ」

 

 

落ち着いて考えてみると自分がどれだけ危ない橋を渡っていたのかが理解できたハヤト。彼は足のすぐそばに転がる頭部を理由もなく蹴っ飛ばす、これが本当の死体蹴りである。

 

鈍い音を立てて頭部が転がっていく。行き着くのは魔獣の死体、その体が倒れる場所だ。前足が切断されていたり、首から上がなかったりと動物愛護団体からわんかさと苦情がきそうな勢い。

 

 

「いやマジで。よく生き残れたな」

 

 

自分の呟きを強調するハヤトが二言目。一言目とほぼ同じ内容の言葉を自身にかけた。落ち着く彼は深く息を吐き、上がる心拍数と呼吸を整えていく。

 

実際、ヤバいと感じた場面は何度かあった。そもそもの話、大群にたった一人で挑む事自体が大分イカれてる。倒しても倒してもゲームの演習場の如く沸くのだから、この世界がレベル制なら今頃自分のレベルは十は上がってる気がする。

 

体術と剣術と魔法。この三種の神器を最大に活かして戦わなければ絶対に勝てなかった戦闘。結果として普段より本能が研ぎ澄まされたことでそれらをひっくり返したわけだが。

 

できることならもう二度と戦いたくない、というのがハヤトの本音だ。

 

 

「冗談抜きで。よく生きてたな、俺。……って、何回同じこと言ってんだっつーの!」

 

 

先程から同じ言葉しか発さないハヤトがそのことに気づいて思わず失笑。体と頭は落ち着けども、どうやら心は落ち着いてないらしい。生き残った事に感動する心が己に同じことばかり語りかけてくる。

 

そのせいで死体の広がる大地に腑抜けたノリツッコミが薄く響いた。響き、響き、そして誰にも拾われずに空気に溶け込んでいく。いつもならテンが適当に返してくれるのだが、今はそれもない。

 

 

「……アイツら。無事だよな」

 

 

そう思うと、先に向かわせた二人のことが気になるハヤトだ。レムのことを見つけられただろうか、助けられただろうか、無事だろうか。と様々な心配が沢山浮かんでくる。

 

大丈夫だと信じているが。それでも心配してしまうものは心配してしまうのだ。今自分達がしていることは生き残りをかけた戦い、全員が無事に終わる保証などどこにもない。

 

ラムが、レムが、テンが、もしかしたら自分自身が、命を落とすことだってあり得ない話ではない。だってこの世界は理不尽で残酷なのだから。

 

しかし、今の自分はこの場から動けそうにない。生憎と大群を相手にして直ぐの体は、心とは反対に休みたい意志を疲労感として表している。動けないこともないが、その状態で援軍に向かっても足手まといになるだけだ。

 

 

「……信じてるぜ。相棒」

 

 

掴みかけた大剣の柄から手を離すハヤトがそう言うと、彼は背を預けた崖に全体重を乗せて寄りかかる。行きたい気持ちを抑えた彼は今は体力を回復させることに専念した。

 

 

 ーー大丈夫、テンは絶対に応えてくれる。アイツはやるときはやる男だ

 

 

心配事は思い浮かべようとした時間の分だけ出てきては心を揺さぶってくるが、それら全てをテンに託すことで彼は己の心を正常に保つ。彼なら、彼ならば絶対にやってくれると。

 

理由はない。そんなもの必要ない。敢えて理由付けるとすれば、培われた絆が「大丈夫」だと言っているとでも語ろうか。

 

確かに、テンはどこまでも、そしていつまでも揺らぐ面倒な人間。事実として叱咤したハヤトにも苛立ちを生じさせた、呆れ果てるほどに揺らぎ人間だ。この騒動が終わったらその件について、小一時間ほど説教をしてやりたい。その他諸々についても。

 

けれど、彼はやるときはやる人間だとハヤトは知っている。重なりに重なった覚悟が『決定的』な何かを起点に、歯車が噛み合うように整った瞬間、彼は瞳の色を覚悟で染める。決して揺らがない、自分のような男になる。

 

その部分だけは自分と唯一、共通しているのだから。ただちょっと根底に根付いた性格が歪んでいるせいで、そのタイミングはとてつもなく遅くなるが。

 

 

「信じてる事が理由、か」

 

 

なんとも馬鹿げた理由だが、ハヤトからすればそれ一つで十分。

 

そうと決まればハヤトの切り替えは早い。心に残る懸念を感じつつ彼は体を休めるために瞑目、深呼吸を繰り返す。新鮮でちょっと血生臭い空気を肺に取り込み、吐き出す。吸って、吐く。

 

意識を研ぎ澄ませつつ視界に映る情報を断ち切ることで心身ともに癒した。ついでに消費したマナも次なる戦闘に備えて貯蔵し直さなければ。アクラに回す分と、他の魔法に回す分と。

 

襲われる心配はない。仮に足音一つ聞こえたら疲労を放り投げるハヤトの心が火を吹いて肉体を動かさせるだろう。尤も、仲間の死体——その大地に足を踏み入れてハヤトを殺そうとする蛮勇の持ち主がいればの話だが。

 

それ以前に、魔獣が放つ独特の殺気を肌で感じれるようになった彼に奇襲など大した意味を成さない。

 

感覚で何となく分かるのだ。相手のことを動く肉としか見てないような、あの濃厚な殺意——。

 

 

「そういや。ベアトリスの言葉……」

 

 

ふと、頭の隅に追いやってしまっていた言葉を思い出した。屋敷を出る前、正確にはベアトリスの禁書庫から出る寸前に珍しく真面目な顔をした彼女に呼び止められたときのこと。

 

 

 ーー不埒な連中が彷徨いているのと厄介な魔獣が紛れ込んでるのよ。

 

 

彼女はそう言っていた。何を根拠にそれを伝えたのかは不明だが、非常事態に直面したハヤトに嘘を伝える彼女ではないだろう。

 

となると、不埒な輩と厄介な魔獣の正体が気になるところ。さしずめ、前者はレムを襲っている輩になると思う。しかし後者が全く不明だ。厄介な魔獣とは、そもそも魔獣の種類すら知らないハヤトには見当のつけようがない。

 

 

「まいっか。戦う事になれば正体も分かるもんだろ」

 

 

あまり深く追求しないハヤトがベアトリスの言葉を頭の端っこに追いやる。今は心身共に体力を回復させることが最優先だと、頭の中を空にする彼は考えることを一旦止めた。

 

そこから先は一切の思考を遮断。何も考えず、肉体の回復に努める。

 

それはハヤトの長所であり短所だった。物事を真正面から受け入れ、あまり深く考えすぎずに行動できる彼は、テンのように余計な事に頭を回すことがない。

 

お陰で、変な事を心配せずに立ち回れるが。反対に見逃してはならないことを知らず知らずのうちに見逃していることが多々ある。普段ならテンが拾う部分も、今は彼はいない。

 

だから彼は知らない。

 

 

 ーーもし、お前達が森に入るというのなら、今のベティーの言葉を心に留めておくがいいかしら。

 

 

だから彼は気づかない。

 

 

 ーーじゃないと死ぬのよ。

 

 

その部分が長所ではなく短所として、自分自身に牙を剥いたことに。

 

 

 

 

 

 

 ——遠く、遠く、響き渡る。森中を震撼させる咆哮が、ハヤトの本能を震わせた。

 

 

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

 

 

女の子を抱きしめたのは、これで二回目だった。

 

 

けど、あの時は心が虚無になっていたから、事実これが生まれて初めてだ。

 

人生で一度もまともに触れたことのなかった感触に、心の奥底に閉じ込めた感情がひどく暴れ回っているのが分かる。胸の高鳴りが治まってくれず、きっと表面からでも心臓が脈打っているのが見られると思う。

 

胸の中で穏やかな寝息を立てる少女に、心を奪われていく。回された細い両腕が自分の身体から離れようとしてくれない、彼女自身から胸に埋まるように引き寄せている。身も心も預けて、彼女は自分の腕の中で落ち着いている。

 

そんな彼女を見ていると、目が離せなくなっていることに気がついた。眼下の少女に反応した本能が、長い時を得て今この瞬間、何度も何度も挑んでは返り討ちにされていた理性に打ち勝ったことが分かった。

 

 気づき、分かり。そして、

 

 

お前()はいつまで、自分の心から目を背け続けるつもりだよ? いい加減、受け入れろよ。お前はレムがーー」

 

 

言うつもりだった。もう誤魔化しきれない二文字を、理性に叩きつけるつもりだった。のに、その二文字は音にはならない。

 

寸前で理性が息を吹き返し、なけなしの力を振り絞った結果、その先が紡がれることはなかった。口から発せられた本心を抑え込んだそれが、唾と一緒に音を飲み込ませる。意味のない抵抗を、続けた。

 

レムを支える両手が離れると、回された腕の中でクルリと身を回すテンがレムのことを静かに背負う。

 

完全に力の抜けたレムは少しの衝撃を与えられても起きなかった。それどころか、寝心地の悪そうにみじろぎすると、腰に回った腕が離れて今度は首から回される。落ちる頭が肩に乗った。

 

実に良くない体制だとテンは確信した。

 

レムの寝息が耳元で聞こえる。レムの鼓動が背中越しに内側に響いてくる。レムの女性的な感触がダイレクトに触れてくる。完全に無警戒で、無防備なレムが背中にいる。

 

何もかもがまずい。

 

状況が状況でなければ軽く呼吸が止まってしまう。全身の倦怠感やら激痛やら雰囲気やらで誤魔化せているからいいものの、仮に日常的な場面でこうなったら気絶する自信があった。

 

訪れた感情、ちゃんと自覚しかけた思い。それら全てを根こそぎ遮断するテンは弱々しく頭を左右に振ると、

 

「随分と呑気なことを考えるなぁ」

 

 

呟くように一言。ラムの下に帰るテンが嘲笑するように息をこぼす。あれだけの戦闘があった直後だというのに、もうそんなことを考える余裕が頭に生まれてるとは。

 

まだ油断はできない。ハヤトを連れて四人で森から出るまでが自分達の戦い、決して余裕な気持ちを見せていいわけがない。が、レムを助け出せた実感にどうしても張り詰めた糸が綻んでしまう。

 

彼女を助け出すためにどれほどの苦難と短期間で戦い、乗り越えてきたのかを忘れたわけではない。それを凌駕する安堵感が背中に伝わってくるのだ。

 

レムがいる。レムが生きている。

 

ただそれだけの事実一つがこんなにも嬉しくて、色々と頑張って良かったと心から思える。彼女のために超えてはならない線を飛び越えたことも、無駄ではなかったと。

 

 

「ただいま、ラム」

 

 

落ち着いた足取りで歩き出したテンがラムの下にたどり着くのに時間はかからない。託された期待に応えたと満足げな様子で彼は彼女に、ほんのりと笑みを浮かべる。

 

そんな彼の姿を上から下まで、レムのことも含めてラムは一瞥すると、

 

 

「よくもまぁ、大胆にやったものね。誰も「抱きしめてこい」なんて言ってないけど」

 

「ーーーー。忘れてください」

 

「どさくさに紛れてラムのかわいいレムの身体を舐め回すなんて。見損なったわ、死になさい」

 

「捉え方に語弊がおありのようで!」

 

 

ラムの腰掛ける倒木した木にたどり着いたとき、彼女の毒舌も普段通りの切れ味に戻っていた。妹を助けてと託してきた神妙な彼女は何処へやら、助けてきたと思えば第一声はそれ。

 

助けたことよりも抱きしめた事に対して不満がある彼女はレムを背負うテンに辛辣な声色だ。腕を組む彼女は見上げているにも関わらず見下すような態度で、平常運行である。

 

そして今。鞘を腰のベルトに差すテンはラムから薄く伝わってきていた負の感情が断たれたことを知った。態度、声色、目つき、毒舌、普段から自分をめった斬りにするそれらが戻ってきた。

 

「ハッ! どうだか」と対抗するテンの声に嘲笑を飛ばす彼女を見るところ、本当に平気らしい。容赦なくテンの心がめった斬りにされている。

 

 なんにしても、

 

 

「これでやることは終わったね。レムを襲う輩を始末して、レムの自我を取り戻す。正直死ぬかと思ったけど、どうにかなってよかったよ」

 

「この後に死を凌駕する苦痛が待ってることを忘れていて? 顔の腫れは自然治癒で我慢することね」

 

「え、それ本気でやるつもりなの?」

 

 

レムがずり落ちそうになるのを背負い直すテンが思い出された受難に疑心気味に顔色を変える。しかしラムは至極当然だとでも語るように真面目な表情だった。

 

——顔面十発の刑。

 

少し前に話したラムを背負う事に対しての対価として彼女から言い渡された実刑。二回ほどそれを言われたが、テンとしてはラム自身が平常心を保つための軽口程度にしか捉えていないそれ。

 

まともに受け取られてなかったことを知ったラム。彼女は、負の感情から解き放たれるように「ハッ」と息を吐くと、

 

 

「当たり前でしょう。この世の極楽を何十分と堪能したんだもの。十発で済ませてるだけありがたいと思うべき……。いいえ、やっぱりレムの分も加算して五十発にしてやろうかしら」

 

「レムので四十発も加算されるの!?」

「違う。ラムので四十発、レムので十発よ。ラムの場合は背負う時間が伸びたから、その分ね」

 

「それ、屋敷に帰る頃には百発に増えてたりしないよね!?」

 

 

たった数十分程度背負っただけで元の数から三十発追加、レムの分も含めたら冗談抜きで自分の頬がパンパンに腫れ上がる未来がテンの脳裏に過る。

 

全身ボロボロの挙句、ただでさえ脇腹の痛みを外に悟らせないように必死だというのに、相変わらず容赦ないラムクオリティー。割と本気でやる気らしい。ガラリと変わった彼女の印象が音を立てて戻っていく気がした。

 

これじゃ生きて帰っても意味ないかな。なんてことを楽しげな様子でこちらを見てくるラムを見ながらテンは呑気に考える。不意に出るため息が彼の徒労感を思わせた。

 

レムを助けたことで事の収束がつき始め、スイッチが切れそうになる二人。和気藹々とした空気がわずかに漂い始める中、二人は軽口に軽口を重ね続ける。

 

そうして、心を落ち着かせていた時。

 

 それは、聞こえてきた。

 

 

 

「ーーん?」

「ーーー?」

 

 

テンが目を細めて小さくうなるのと、ラムがかすかな音を聞きつけて警戒したのはほとんど同時のことだった。

 

テンの鼓膜が捉えた違和感は深い闇の底。そしてラムが聞きつけた異音もまたそちらの方向から届いた。そして、それは同時に一つの結果をもたらす。

 

森に響き渡る大咆哮。嫌というほど聞こえてきたウルガルムの咆哮とは別格のそれが、二人の生存本能を激しく刺激している。遠くから空気を伝って耳に届くそれが、数回聞こえてきた。

 

 

「……なに今の」

「少なくともウルガルムの声ではないことは確かね。ラムも聞いたことない」

 

 

明らかにこの森に生息してはいけない魔獣による、己の存在を森で息をする者達に知らしめる大咆哮。聞いただけで身も心も身構えてしまうそれは今でのとは格が違う。

 

和気藹々とした雰囲気をぶち壊された二人が警戒に気を引き締める。心に訪れた油断を刹那で切り捨てた両者は今自分達のいる場所が地獄であると再認識し、すぐさま行動に移した。

 

 

「立てるか?」

「ラムを甘く見ないでちょうだい」

 

 

辺りを警戒するテンの緊張感のある声にラムが疲労した肉体に鞭を打って立ち上がる。殆どの木が倒木して支えのない中、彼女は足の力でゆっくりと立ち上がり——よろける。

 

前によろけたのは上半身を前に傾けたまま立ちあがろうとしたからだろう。結果としてテンの胸板に頭突きし、レムの一撃を受けた脇腹に振動が伝わって彼の悲鳴が喉の奥で聞こえた。

 

大声を出せば咆哮の主に場所を悟られかねない。どうにか我慢したテンは空に向かって息を吐き散らすと、

 

 

「立てるか?」

「……前は譲りなさい」

「マジかこいつーーっ!」

 

 

頭突きした胸板で見上げるラムがそう言った直後。力を込めたラムが地を蹴り上げると、レムの両足が乗る両腕にラムの両足が通る。流れるように両手が首から後ろに回り、レムの顎が乗る肩とは反対の肩にラムの顎が乗った。

 

約百五十センチの少女二人。総重力八十キロ以上がテンの下半身、更には腰を支える脇腹の骨にのしかかる。後ろではレムを背負い、前ではラムにしがみつかれ。完全にタクシー扱いのテンである。

 

二人の体型が小柄でよかったなぁ、なんてことも今は考えられない。不意にも小学生の時、荷物持ちでランドセルと前と後ろに持ったことを思い出した。バカか、比較になるわけがない。

 

美少女二人に挟まれたこの場面。もしこの場が血に濡れた殺伐とした空間ではなく屋敷内の一室、深く言えば寝台の上だったならば心躍る展開を期待してもいいはずだ。

 

が、生憎と肉体がこれでもかと悲鳴をあげているせいでテンはそんな想像などカケラもできない。その証拠として、裂傷から治まってたはずの流血が再び始まっている。重量と葛藤する彼は静かに歯を食いしばった。

 

そうして肉体の悲鳴が鳴り止み、身体にのしかかる体重の感覚に慣れると彼は中断していた流法を使用。途端に身体が軽くなる歪な感覚に彼は背筋を伸ばすと、

 

 

「流石に無理があるのでは。精神的にも肉体的にも、付け加えるなら物理的にも」

 

「男なら女の一人や二人、支られるだけの力量はつけるべきよ。精神的にも肉体的にも、付け加えるなら物理的にも」

 

「今の俺にはちょっと難しいかなぁ。二人どころか一人支えることもできないかも。精神的にも肉体的にも、付け加えるなら物理的にも」

 

「ふざけてる場合?」

「お前が真似してきたんだろ」

 

 

言い、テンは二人の体が落ちないように彼女らの両足を支える両腕に力を込める。言葉とは裏腹にラムの現状を理解している彼は、その理不尽な対応には文句一つも言わずに従った。

 

流法で強化した体なら二人を抱えた状態でも走れる。流石に余裕というわけではないが、追っ手から逃げるわけでもあるまいし、森から早く出るという意味では十分な速度を出せるはずだ。

 

チラと右肩を横目で見る。未だに穏やかな呼吸音を立てているレムがいた。首に後ろから回された腕はきっと離れてくれない。

 

今度は逆の肩を見る。「早く行け」とでも促すような目つきのラムがいた。首に前から回した腕でレムの頭を優しく撫でている。

 

レムを後ろに、ラムを前に。先程とは真反対の構図が完成したのを確認したテンが一度だけ深く息を吐くと、彼はその場から駆け出した。

 

 

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

 

 

言い表しようのない脅威を感じた。いくら警戒を積み重ねても足りぬと本能が判断する相手がこの森にはいると、ハヤトはその大咆哮を聞いて理解していた。

 

身体が勝手に動く。背中に重くのしかかる疲労感を無理やり振り払う彼は勢いよく立ち上がると大剣の鞘を背負い直し、本体を両手で携える。睨みを効かせる彼は闇を睥睨。

 

まだそこにいないというのに、警戒を解かせてくれない緊張感がハヤトの心を駆り立てる。今までに感じたこともない強者の気配、ロズワールとはまた違った格上の覇気が森を震わせている。

 

 

 ーーまさか、ベアトリスの言ってやがった厄介な魔獣の正体か?

 

 

突然のことに、しかしハヤトは己の心を冷静に保つ。今からアツくなっていては対応できるものもできない。それは魔獣と対峙してアクラを纏った瞬間からでいい。

 

その間、ハヤトは不気味な静けさに包まれた空間に一人。息をする存在が自分しかいないのではと錯覚する静寂に飲まれた光の空間で、彼は息を呑む。

 

 そして——分かった。

 

 

「……来てる」

 

 

大剣を構える体から余計な力を抜くハヤトが自然体の姿勢をとると、彼はそう呟く。柄にもなく正面に突っ込まない彼は、その音を聞いた。思わず身震いしてしまうようなそれを。

 

遠くから響いてくる地鳴りのような足音が、ハヤトの方へと徐々に近づいてきている。一定の間隔で地面が振動するのはゆっくりと向かってきているからだろうか。

 

地に伏せる死体が振動に揺れている。そしてそれは音を聞く回数が増えていくのと比例して、どんどん激しく揺れていく。確実にこちらへと近づいてきている証拠だろうか。

 

耳を澄ませば木々が倒れるような音も聞こえてくる。相当デカいのだろうか。

 

ダメだ。何を考えても予測にしかならず、そこから先が続かない。「だろうか」に「だろうか」が重なるばかりでどれも確証が持てない。

 

 なんにしても、

 

 

「どうする」

 

 

己に問いかける。

 

傷の手当てもろくにしていない満身創痍に近い肉体に戦えるかと。マナを多く蓄えたゲートに戦えるかと。血を浴びた大剣にまだ戦えるかと。友に託された心にまだ戦えるかと。

 

 

 ーー決まっているとも

 

 

肉体の筋肉が声を上げて膨れ上がり、ゲートが火を吹いて今か今かと主の呼び声を待ち、血振りされた大剣が月光を反射させて光り輝き、燃え上がる心が炎を猛らせた。

 

己に問いかければ、自分に宿る全てが共鳴するように応えてくれる。逃げの選択肢は無しだと満場一致で戦闘の意志を爆発させている。

 

ならばハヤトのやることは一つだ。

 

 

「戦える……。違う! 戦うしかねぇ!」

 

 

瞳に宿った覚悟が燃えるハヤトは迷いを断ち、近づく足音に宣戦布告。背水の陣が本格的に実現したところで彼は剣先を闇へと突き向けた。

 

 

見えぬ脅威と対峙する時が、刻一刻と迫る。

 

 

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

 

戦いの傷跡として倒木した木々を飛び越えながらテンは走る。抱える二人に衝撃が行かぬよう気を遣いながら走ることは膝に応えたが、あと少しでそれも終わると我慢。

 

疲弊するレムを起こすわけにはいかない。疲労するラムの休憩を妨げるわけにはいかない。自分のことよりも彼女らの体を最優先する彼は極力平坦な道を選びながら走り続けた。

 

息が上がりそうになる。変に話すと酸素が回らなくなるから声は出せない。一度でも膝をつけば、痛みにタコ殴りにされてそれ以降は立ち上がれない気がする。

 

 

 ーーとりあえずハヤトと合流しよう

 

 

心の中で彼との合流を促すテンが彼のことを思う。彼ならばきっと大丈夫だろうけど、それでも少しでも早く彼の生きている姿を心に見せたいと、はやる心を抑えつつ体を前へと押し進めた。

 

 と、

 

 

「ーーーッ!」

 

 

舐め回すような歪な気配を肌で感じ取ったテンの肩が戦慄に跳ねる。顎を乗せる二人には申し訳ないことをしたと思うよりも先に、彼の心はそれによる停滞を避けるために受信した感情を全て切り捨てていた。

 

それはつい先ほどまで対峙していたこの世界の最悪によるものだった。意志のない殺意、人ならざる者が無意識的に放つ無理解の歪な感覚。

 

 それ即ち——、

 

 

「くそがッ!」

 

 

雑に悪態をつくテンの肉体が前方へと飛び跳ねる。状況が理解できずに困惑の声を溢すラムを差し置いて斜め上に上がる体、枝に足裏を合わせる彼は痛いほどに両腕に力を入れると、

 

 

「ちょっと荒っぽくなる。回した腕は絶対に離すなよ」

 

 

何があったの。そう言うはずだったラムの声は蹴り上げた枝が折れる音でかき消され、直後に背後に顔を向ける形でテンにしがみつくラムは彼の行動の意味を捉えた。

 

こちらを追いかける複数の影、通り過ぎた後には死体しか残らないと言われる殺戮集団——魔女教徒。それらが速度を上げてこちらへと理不尽にも迫ってきている。

 

まともに戦えないレムとラム。それを抱えながら走るテンも決して無事とは言えない状況。そんな中で最悪の集団に追いかけられる状況が完成してしまった。

 

ラムは今、世界の理不尽さと残酷さを思い知っている。

 

意図せずに回した四肢でレムの体を掻き抱き、追随する影にありったけの殺意を突き刺す。自分の妹には手出しはさせない、お前達など早く消えろと。

 

そんな抵抗も効果はない。感情の持たぬ魔女教徒 はどんどん迫ってくる。自分達が生き残れる確率はどれだけ低いだろうか。低すぎて分からないが、かなり絶望的な状況なことだけは明らかだ。

 

とんとん拍子で生存確率が低いことを理解したラム。下唇を噛み締める彼女は何もできない自分に心底腹が立つ。このまま自分達を守っていてはテンも死んでしまうかもしれない。なら、なら、それなら。

 

 テンと妹だけでもーー、

 

 

「ラム。俺が言ったこと、覚えてるよね」

 

 

不意にテンの言葉がラムの耳に届く。話してる余裕などあるはずないのに、それでも声を絞り出す彼は言葉を繋げて、

 

 

「大丈夫。お前を離す時は俺が死ぬ時だから」

 

「ーーーー」

 

「違う。今は()()()()だよ」

 

 

一度は受け流した言葉が心を包み込んだことに思わずラムはテンの横顔を見ると、彼の瞳は覚悟を決めた色に染まっていた。何の迷いもない、定まった覚悟に対して真っ直ぐな目をしていた。

 

いつも、これまでも揺れてばかりだった彼が、自信なんて一欠片もない彼が。そう言って、前を向いたまま小さく頷いて、

 

 

「ずっと、迷惑ばかりかけてごめんね。もう、揺らがないから」

 

 

その声が心の中で反響した途端、考えていた苦渋の決断が頭の中から除外されるラムが軽く頭を振る。訪れた感情を振り払う彼女は言葉の代わりに、回した四肢でレムの体と一緒に彼の身体にくっついた。

 

どうしてだろうか。そう言われると場違いな安心感が心の中で存在を主張し始め、存在を自覚した頬が不覚にも緩む。無意識に唇が綻び、感情の宿る吐息が溢れた。

 

 

 ーー本当に生意気ね

 

 

心の中でそう呟き、ラムは横顔から目を離す。揺れる世界で迫る魔女教徒に殺意を向ける。その行動自体が、彼女が自分達の命を彼に委ねたと同じことを意味した。

 

ラムは知っている。

 

体が触れている男は妹の恋心に気付けない超絶鈍感男だと。でも、隣にいる人が弱っている時は察しが良すぎるという矛盾を抱えた男でもあるということを。

 

そして、その男は次に放つ言葉で自分に生きる希望を与えてくれることも知っている。だって彼は女の子を背負うと、女の子に身を委ねられると、同一人物かどうか疑わしくなる程に人が変わるのだから。

 

それは良い意味でも悪い意味でもあるが、今だけは絶対に前者で。

 

 

「お前たち姉妹は俺が生きて帰らせる。だから、自分を犠牲にするなんてこと考えんな。それは俺の役目」

 

 

男として『超』が何個あっても足りないくらいに単純で。いざというときだけは心強くて。今日だけで何度となく助けられてきた声が。

 

たくさんたくさん覚悟を決めて、励まされて。今ようやく、()()()声が。

 

 

「ここが俺の、命を張る場所だ」

 

 

 

自分達のことを、守ってくれるのだから。

 

 

 

 

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