難しいことなど考える必要はなかった。
こうしたら危険な未来が確定するとか、この道を辿ったら無事に生きて帰れるとか、そんな面倒なことは特に気にしなくてもいいと思った。
レムを助けて、ラムを守って、二人を連れて森の中から出る。
たったそれだけのために命を燃やせばいい。自分に体を預けている少女達は絶対に死なせやしない。誰一人として欠けずに生きて帰る。その過程のアレやコレなど正直どうでもいい。
だってエミリアと約束したのだから。「みんなと生きて帰って、また笑い合おう」と。必ず生きて帰って、左手首につけられた絆の形を彼女の下に返すと言ったのだから。
テンのやるべきことは何一つ変わらない。
やることはブレず、成さねばならぬことは決して変わらず。故に、この場にいる自分の意味も決まっている。
二人を守り、生きて帰る。それだけ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「ーーーー」
自身の動きに振り落とされないよう、彼女たちの身体を自分の体に繋ぎ止める両腕にテンはありったけの力を込める。
ラムもそれを察してくれたのか、回る四肢に肺が押し潰されてしまいそうな程の力が込められる。前後から伝わる柔らかな感触が強くなったのは、彼女が自身とレムの身体をテンの身体に強く結び付けたからだろう。
無言の意思疎通。自分が命を張るとテンが言った以降、口を閉じた彼の行動にラムは応えてくれた。何も言わずとも察してくれるとは、流石ラム。ならば自分も彼女の信頼に応えなければならない。
「ーーーー」
後ろから迫る魔女教徒の気配を背中で感じるテンは決して振り返らない。否、振り返るくらいなら意識を研ぎ澄ませて歪な感覚を感じ取ることに徹した方が立ち回りやすい。
結果としてただ前だけ見てつっ走る状態となったテン。彼は闇の中を一陣の風のように吹き抜ける。流法に回すマナの量を限界ギリギリまで引き上げた彼の動きは、もはや人間が発揮することのできる速度を超えていた。
地上を走ることで足元を掬われることを懸念した彼が枝を次々と飛び渡る。一つ一つが形の異なるそれらに足裏を合わせ、瞬時に蹴り上げ、次の枝へと足を届かせる。
レムとラムの二人分の体重とテン自身の体重がそれをするのがどれほど困難なことか。蹴り上げた枝が次々と根っこから折れる様がそれを雄弁に語っていた。
折れる枝が地面に落ちる。落ちた枝が音を立てて何かに踏み荒らされる——、
「ーーーー」
瞬間。
それまでは前にしか進まなかったテンの体が真横へと飛び跳ねる。前の慣性を殺すために強く踏みつけられた太い枝が音を立ててへし折れた。横に飛ぶ体、自分達の影が残る場所を横目にすると、短剣が真下から突き刺さっていた。
気にも止めずにテンは次なる木へと視線を巡らせる。見えた真正面——魔女教徒が跳躍して突っ込んで来ている先に蹴りやすそうな枝が。
「フーラ」
小さく開かれた口から声が呟かれる。それは、酸素を削りに削った風の暗殺者を呼び出す詠唱だ。
元来、詠唱とは魔法の成功を確実なものにするために口から発せられることであり、声の強弱などさして重要ではない。口から吐いたそれが『詠唱』だと自分自身の意識が認識すれば事足りる。
故にその呟きは、至近距離で声を聞くラムの耳にすら届かず、相手からすれば予兆もなく風の暗殺者に首を切り落とされる。ダラリと垂れた上半身が真横を通り過ぎて木に衝突した。
絶命したそれを見送るテンが目的の枝に足裏を合わせ、着地地点を狙った複数の斬撃に咄嗟に跳躍。「エル・ゴーア」に呼び出された火球が閃光を伴って爆発、置き土産として追随する影を焼き払う——。
「ーーちぃ!」
恨めしげに舌打ちしたテンが歯を食いしばった瞬間、足を思いっきり振り上げる勢いで宙に浮かぶ肉体が翻る。その途中、仰向けになるテンの背後を短剣が通過し、ラムは眼前を投擲された短剣が通り過ぎる音を耳に入れた。
どうやって気づいた? などとラムが疑問を抱いた時には天と地が完全にひっくり返る。感情と情報の処理が追いつかぬ世界で、テンは争い続けた。
地面が頭の下にあるという世界でテンの瞳が捉えたのは、二人の魔女教徒が木を蹴り上げて肉弾している光景。それだけではない、特攻隊の後方から夥しい量の火球がゆらめいている。
火球の数だけ魔女教徒がいるとすればパッと見た感じ十人はいるだろうか。質より量の攻撃展開とは、知りなくない事実だった。
それを理由に諦めるつもりなど毛頭ないが。
「アル・ヒューッ、マ」
詠唱と行動は同時。空間にひび割れる音が連鎖するのを聞きつつ、翻した肉体を再び翻すテンが同じ要領で身を回す。結果として空中で一回転した形だ。
振り落とした両足の爪先が特攻隊のうなじに叩きつけられ、物理的な衝撃に地へと落とされる。面倒なのは迎撃したとばかりに二人を見送ると、既に背後で火球と氷結の攻防は始まっていた。
背中に迫る火球、それを守る氷の大盾がテンの背を覆い隠している。翻す過程で生まれたものだ、最上級の力で生み出された高密度の氷壁が撃ち込まれる火球を弾けさせ、花火のように散る。
しかし量には勝てなかった。質を凌駕する火球が拳のように撃ち込まれ続けた最後。最後の一つを防いだと同時に砕け散り、淡い光となってマナへと還元される。
ーー防いでくれれば十分。ありがとな
自分達の命を守ってくれた勇姿が砕け散る音を聞いたテンが返ってくるマナに心で礼を言い、盾の死を無駄にしないと昂る。無機物に何を思うのかと自分自身で思うが、今はいつになく心が高ぶるせいで変なことで感化されてしまう。
心は情熱に、頭は冷静に。今の自分の状態が正にそれの真っ只中であるとテンは自覚した。心はいつになく昂っているが。頭は、これまでで最も冷え切って、冴えている。
降り掛かる脅威に対して、まるで答えが初めから用意されているかのような。取るべき行動が瞬時に浮かんでくる。いつも以上に周りの光景が視えるせいだろうか。
ーーなんだっていいか
何にしても好都合なことに変わりはない。今はやるべきことに集中するべきだ。
「ーーーー」
跳び、渡り、振り返る。火球を放った連中が追随してきているのが捉えられた。左右にも散開しているが、襲撃してきた大部分は恐らくあの場所に固まっているか。
もっと距離を取らなければならない。同時に脅威を始末することも視野に入れなければならない。左右のはひとまず置いとくとしてまずは、
「アル・フーラ」
ーーあの集団から蹴散らす
▲▽▲▽▲▽▲
「ーー大体片付けた、か?」
「えぇ、追っ手はないわ」
「そか。ちょっと……、休ませて」
どれぐらい走っただろうか。少なくともまだ地獄の境界線は踏み越えてないと思うが、かなりの距離を走った気はしているテン。彼は魔女教徒の追随を振り切った報告を受けて一旦立ち止まる。
二人を抱えながら枝を跳び渡るのは今の自分の体には相当応えた。ラムを降ろし、背負うレムを起こさぬようにそっと両手を地面につくテンは荒いだ呼吸を整えるために何度も深呼吸。
かなりヤバい状況ではあったものの、一難は去ったと緊張の糸を少しばかり緩める。流法を解き、少しでも消費したマナを回復することに努めた。
「あまりゆっくりしてる時間はないんだけど」
「そりゃキツいっすよ。五分だけでいいから休ませて」
浅い呼吸を整えたテンが立ち上がり、よろけそうになる上半身を下半身が支える中、ラムは相変わらずだ。
ここまで体力の回復に努めてきた彼女は疲労困憊のテンとは違って、二本足でも立てるまでに回復したらしい。戦うことは難しいかもしれないが、レム一人背負うことは出来そうな態度である。
「もう立てるの?」
「お陰さまで。走るくらいならできる」
「それは良かった。俺が必死に運んだ甲斐があったよ。なら後は自分の足で走ってね」
背負うレムのことを見てくるラムにテンは安堵の息を溢す。流石にアレをもう一度やれと言われたら今現在格闘している激痛が強化される上に、疲労感が更に増す。そうなれば、満身創痍の体は容易く崩れる。
正直な話、限界など少し前に踏み越えたテンだ。
魔獣と戦い、ラムを背負って森を走り、魔女教徒と戦い、鬼と戦い、二人を抱えて魔女教徒から逃げ。今立てていることが自分のことながらに不思議でしかない。
かなりボロボロな状態。姿勢を保っている両足は時々弱々しく震え出し、刀を握るための握力が徐々に失われてきている。体も至る所が痛い、一番は脇腹か。裂傷もある。血が流れすぎて倒れないか不安だ。
形相が血に塗れていることは言うまでもない。誰がどう見ても「お前、大丈夫かよ!?」と言ってしまいそうな程に傷だらけ。外も内もボロボロである。
「テンテン。帰り道だけど」
改めて自分の満身創痍さを自覚していたテン。屋敷に帰る前に死なないか本格的に怪しくなってきたところで彼にラムは言葉を繋げ、
「このまま真っ直ぐで間違いない?」
「間違えない。第一、ほぼ真っ直ぐにしか走ってないんだし。来た道を辿れば村に着く前にハヤトが戦ってる場所にたどり着くから、そこを目指す」
方向感覚の鈍りやすい夜の森だ。なるべく真っ直ぐに走ってきたから辿り着くと思いたい。もしそうでなければ朝方まで森の中で耐え凌ぐことになってしまうが。
というか、そんな心配は要らないと思う。戦いを終えたハヤトが何かしらの声を上げてくれるはずだから、どうしようもなくなったらこちらから呼びければいい。
尤も、彼は生きてればだがーー。などと要らない考えは捨てた。ハヤトが死ぬなんてあり得ない。考えるだけ無駄だ。
「さて。そろそろ行こうか」
レムを背負い直すテンが浅く息を吐くと、彼はふらつく足に力を入れる。休憩は十分、休みすぎると返って逆効果になってしまう。痛みも何も回復してないが、上がった息だけは整えた。
顎を引いて頷くラムも走る挙動を見せる。手足の震えは既に治まり、身体を軽くほぐす彼女は準備万端とばかりにテンを見た。
そのまま二人は駆け出し、
「ーーーぅ」
テンの背中から聞こえてきた声に反応して途端に急ブレーキ。ぬかるんだ土の上で止まったせいで危うく転びかけたテンは腹筋の力でなんとか姿勢を保つ。
同タイミングで止まる二人の視線が一箇所に集中すると、その先には薄くみじろぎしたレムがゆっくりと瞼を開いていた。
「……テン、くん。これは」
「起きたんだ。痛いところとか、ない?」
すぐそこにあるテンの横顔が安渡の声を上げてレムを見る。虚ろな瞳でそれを見て、レムはしばらくの間だけ思考回路が麻痺したように停止していた。何も考えられず、ただぼーっとしている状態が続く。
が、数秒後には彼の頬に刻まれた赤色の切傷に今がどんな状態なのか、そして自分が何をしてきたのかを鈍く動き始めた頭が思い出し始める。状況の把握をするべく彼女の頭が回り出した。
そうだ。自分は森に一人で入って、魔女教徒と戦って、それで自我が曖昧になって、テンのことを傷つけて、それで彼に抱きしめられてーー。
テンのことを傷つけて。
「ーー! テンくん、脇腹の傷は……っ!」
彼の温かさに後回しにされていたことがたった今やってきて、レムの唇が震える。自分は彼に武器を振るい、そして危うく取り返しのつかないことをしてしまうところだった事実を思い出し、途端に心が支配された。
何を言われるか分からない。どんなにひどい言葉を吐き散らされても文句は言えない。
彼の優しさに甘えて後回しにしていた分を一気に叩きつけられても、全てを受け止めなければならない。それが自分が犯した罪なのだから。
そんなレムの悲痛な思いは、
「傷? そんなもん平気。そのうち治るから気にしないで」
「ーーーぇ」
容易く壊される。
どんな酷い言葉を言われても仕方ないと覚悟していた心が真っ白になって、それから何も考えられなくなった。せっかく動き出した思考回路が、またしても止まる気配が薄く漂い始めた。
与えた傷に対して深く重く捉えていたレムに、与えられた傷に対して浅く軽く捉えているテンが、何事もなかったかのように流して。
否、様々な感情を含ませた吐息を耳元で溢す彼女にテンは本当に何事もなさそうな様子だ。普段通りの声で、態度で、表情で、レムの頭をポカンとさせている。
「……よかった、レム。本当に、世話のかかる子だわ」
言いながらかすかに微笑むのはラムだ。彼女はその唇をほんのわずかだけ、見知った相手にだけわかる程度に笑みの形に崩し、伸ばした手でレムの青い髪をそっと撫でる。
姉として、ずっと送られてくる感覚に苛まれ続けていたラムがやっと安心した表情を見せたことにテンも安心してしまう。が、彼はそんな感情を心の隅に追いやると、
「のんびりしてる時間はない。いくよ」
「えぇ。そうね」
「レムはそのままでいい。俺の背中で寝てな」
「いやらしい」
「なんでだよ」
そんなやりとりを始まりに二人は無理のない程度に走り出す。レムが目覚めてくれたのは嬉しいし、無事なようで安心した。けど、今はそんな悠長に喜んでいられる時間はない。
僅かに揺られる感覚を得てふと、レムはここにきて遅すぎる認識。自分はテンの背中におぶられていることに気付く。自分のことを気遣ってなのか走っているにも関わらず伝わってくる振動が皆無に等しい。
ーー彼だって疲れているはずなのに、大丈夫なのだろうか?
そう思って肩に乗せた顎を引いて下を見下ろすと、レムは彼の姿のその悲惨さに思わず呼吸を忘れた。
とても人を背負って走っていい状態ではない。無茶をした上に無理を重ね、その上から無理を何個も積み重ねたような悲惨さ。ここに至るまでにどれだけの無理をしたのかが一目で分かった。
どうしてそうなったかなんて嫌でも分かる。
ーーレムを、助けに来たせいで
「……どうして」
「ん?」
「どうして、助けに来たんですか?」
首から回した腕に理由もなく力が入り、そんな疑問が口から溢れ出た。不思議げな顔つきで自分を見るテンに、レムは立て続けに唇を震わせ、
「テンくんと姉様が来てしまったら何の意味が。いいんです。傷付くのは……レムだけで。レムが一人でやらなきゃ、ダメなんです……っ」
「ーーーー」
切なげな声で、レムの口から弱音が漏れる。
分かっていた。レムがそういう性格をした女の子だと。でも、いざそれと向き合うとなったとき、言葉が出てこないテンの口は開かない。ラムもなにか思うところがあるのか、沈黙している。
そんな二人の沈黙をどう受け取ったか。レムは意味の分からない孤独感を心に得て、誤魔化すように回す腕にもっと力を込める。温もりに縋るように言葉を紡ぐ。
「レムは、テンくんを傷つけてしまった……っ。レムの、レムのせいで……レムがダメだったから、取り返しのつかないことをレムは……」
それ以上は言葉が続かず、俯くレムが頭を乗せる肩に目を当てて表情を隠した。声色一つで表情を察することのできる今の彼女に大した意味は成さないが、それでも隠す。隠したのは表情だけだろうか。
違う。罪も隠した。自分の弱さと向き合う覚悟がないから、隠してしまった。それは彼に言わなければならないことなのに。
ーー嫌われてしまうかもしれない
この期に及んで乙女としてのレムがそれを拒むせいで、レムは自分の罪を話せない。話せば自分が彼に嫌われてしまうかもしれないーー否、嫌われる。絶対に嫌われてしまう。
己の中の『鬼』を解放して、魔女教徒を前に感情に飲まれた結果、自分は鬼の力に身を委ねてしまった。自分一人でなんとかしなきゃいけないのに、自分の弱さのせいで彼を巻き込んでしまい、挙げ句の果てには傷まで負わせた。
そんなことを言ったら、彼に嫌われてしまう。
ーーいやだ。そんなの、いやだ
嫌われたくない、大好きだから。離れてほしくない、近くにいたいから、ずっと触れていたいから。
自己中心的で、幼稚な考えだなんて分かっている。でも、だとしても、テンに嫌われたくない心が何よりも勝るせいで、レムの口が罪の告白を刻むことは一切なかった。
「あのさ、レム」
「はい」
自責の念に押し潰されそうになるレムの耳にテンの声が届く。何を言われるのか不安がる彼女の声はいつになく弱くて、震えていた。なのに、首から回る細い腕と腰に回る足には痛いくらいに力が入って。
そんな矛盾した彼女にテンは優しく語り出した。
「レムは、俺が危ない場所に一人で向かったって聞いたら。どうする?」
「……どういう」
「意味なんて考えなくていい。ただ、どうするのかって俺は聞いてるんだよ」
酷い言葉を言われる。そう思っていたレムには予想だにしない問いかけ。こちらに視線を向けぬまま声だけを向ける彼は、レムの返答を沈黙して待つ。
考える必要なんてない。そんなの決まっている。自分に黙って危険な場所に行くなんてこと自分は許さない。そうやって辛いことを我慢して、誰も知らないところで傷つくことなんて、
「許しません、助けに行きます。レムに黙って一人で危険な場所に向かって、レムに心配かけて。レムはテンくんを怒ります」
「怒るのか……。そっか、じゃあそれがレムの答えってことでいい?」
「はい」と小さく返したレムが頷く。考える以前に、答えの決まった質問を藪から棒にレムに投げかけてきたテンは「じゃあ」と次の言葉と今の言葉を縫い合わせると、
「なんで俺達はレムのことを助けに来たんだと思う?」
「ーーーー」
「危険な場所に一人で飛び込んだレムを、どうして俺達は助けに来たと思う?」
「ーーーっ」
レムの息が詰まる音がした。何かにハッとしたような吸息音が浅く鼓膜に響き、言葉にならずとも彼女の心をよく表している。
問いかけに対する無言の答えを受け取ったテン。彼は緊張に強張った頬がほどけるように柔らかくなると、
「同じだよ。俺たちもレムが心配だから、レムを助けに来たんだ」
「どうして……。レムなんか、放っておいてくれればいいのに……そのせいでテンくんが、姉様が傷付くのは、見たく……ないです」
「放っておけると思うか? お前がたった一人で苦しんでるのに、無視して屋敷に残ってろと? 悪いけど俺はそこまで人として堕ちてないつもりだよ。それにーー」
言葉を中途半端なところで止めるテン。不思議に思ったレムが顔を上げると彼の視線は並走するラムの方へと向いていた。ここまで一言も言葉を生まない彼女は、テンの瞳を見ているだけだ。
ーーそれに。ラムのあんな顔は、あんまり見たくない。
そう言い繋ごうとした口は動かない。向けられた赤色の瞳から「言うな」という意志がこれでもかと送られて来るのだ。別に隠す必要もないとテンは思うが、ラムとしてはだめらしい。
だからテンは「それにーー」に続く新しい言葉を咄嗟に思い浮かべ、
「どうして一人でやらなくちゃいけないのかは分からない。でも、それは良くないと俺は思うよ。俺が言えた口じゃないけどさ」
「自覚あったのね」
「うるさい」
口を挟んでくるラムにそう言い、テンは自嘲するように薄い笑声を口から漏らす。口を開いたかと思えば茶々入れしかない彼女を横に、テンはみんなの顔を脳裏に思い浮かべる。
純粋で真っ直ぐで心優しいエミリア。呑気で、たまに真剣になるパック。なんだかんだで話に付き合ってくれるベアトリス。日々鍛えてくれるロズワール。口は悪いが、自分のことを気にかけてくれるラム。誰よりも情に厚いハヤト。
この人たちみんなのことを思いながら、テンは口を開くと、
「レムなりに思うところがあるから、一人で危険な場所に飛び込んだんだろうけど。それは周りに頼れる人が誰もいなかったらの話でしょ? レムの周りには味方が沢山いるのに、全部一人で背負い込むなんて。レムは俺達が頼りにならないの?」
「そんなことはーー!」
食い気味に言葉を割り込ませるレムがテンの疑問を強く否定する。意図せずに声を荒げた彼女は、それを咎めるように深く吐息した。
彼女の中で言葉は続いだのだろう。口から出ない代わりに何かを堪えるような態度を表に出したレムは、「でも」と心の中で発した言葉、その続きを口に刻み、
「レムがやらなくちゃダメなんです。レムが、レムだけが傷つくのが一番なんです。レムが我慢すれば済む話だからーー」
「俺にとって、レムは大切な人だよ」
心の弱さが次々と口から溢れ落ちるレムの言葉が遮られる。自分が、自分だけが傷付けばいいと当然のように話し終えるはずだったそれは、テンが脈絡のない言葉を発したことによって止まった。
きっと、止まったのは言葉だけではない。唐突に出てきた「大切な人」発言にレムの頭の中から浮かべていた言葉が掻き消されて。何を言おうとしていたのか忘れた。
鈍く回っていた思考回路が静かに止まったのが分かった。優しく語られた横顔から、目が離せなくなった。
「いつだか、レムは俺に言ったよね。「大切な人だから心配する、傷付くところを見ると怖くなる」って」
思い出語り。自分のことを取り戻す時にも沢山してくれた続きを、アルバムのページをゆっくりとめくるようにテンが話し出す。
それをきっかけにレムの脳裏にその時の記憶が描かれる。流放を身につけるためにロズワールに殺されかけていた日のこと。
傷付く彼を知ってしまって、居ても立っても居られなくなって、気づけば彼の下に足を進めていたこと。
鍛錬が終わり。テンが自分のことを大切に思ってくれていると知った。
だから自分も、こう言ったのだ。
「俺も同じだよ。レムが大切な人だから、心配もするし、危険な場所に一人で行ったら、そこがどんなに危険な場所だとしても助けにも行く。傷付こうが死にかけようが関係ない」
——大切な人だから。
それはレムがテンにかけたある種の告白のような言葉だった。心配するのも、怖がるのも、気にかけるのも、テンが自分にとって大切な人だから。大好きな人だから。
相手がどう思おうが関係ない、助けを求めていようがいまいが知ったことか。大切な人が窮地、助けに行かなければならない。助けることにこれ以上の理由など必要あるのか。
それもこれも全部、
「レムが俺にとって大切な人だからだよ。レムがどう思ってようが知ったことか。お前が危険なら俺はどこにだって行ってやる。来るなと言われても、全部無視してお前の身体を引きずってでも連れて帰る」
「ラムのかわいい妹を引きずる?」
「意地でも連れて帰るの比喩だよ。バカ」
「そんなことくらい知ってるけど。バカ」
「じゃあなんで突っかかってきたこの人?」
心のままにレムに話すテンに時々入るラムの茶々入れ。イマイチ意図の読めない軽口にテンは反射的に軽口で返すが、そんな二人の会話を耳に入れるレムは軽口の気分でもないらしい。
一音一音。彼の言葉を心で受け止めるレムの意識は完全に自分の心の中に入っている。
そんな中で自分と彼のことを照らし合わせたとき、今の二人がいつもとは逆の立ち位置にあると知った。無理をするテンを自分が心配する、その関係が反転して。
分かってしまった。彼の言いたいことが、彼の思っていることが。だってそれは常日頃から自分自身が心の中に孕んでいることなのだから。
でも。それでもーー、
「レムが一人でやらないと……、だって、これはレムが始めたことだから、テンくんを巻き込みたくない……」
「だから言ったよ。レムがどう思ってようとも俺はお前を助けに行くって。俺がそうしたいから、そうするべきだと思うから」
「ありきたりな言葉だけどさ」と首を回すテンはレムの瞳と目を合わせる。とてつもなく近い距離、吐息が先程から頬に当たる距離間の彼女にテンは言葉を作る。
「一人で抱え込むなとは言わない。誰しもが何かしら一つは一人で抱え込んでるからね。でもその代わり、それを一緒に抱えてくれる人がレムの近くにいることを、すぐ隣にいることを覚えておいて」
ぱたん、と。
テンとレムの間で、開いたアルバムが空気を押し出しながら閉じる音が聞こえた。幻聴に決まっている。けどそれは、彼の思い出語りが終わることを静かに告げていた。
微笑み、テンはレムの身体を背負い直す。感情がなけなしの力でも振り絞った結果か、不意に体に回る両手両足から力が抜けた彼女がずり落ちぬように。
「あ、そうだ。あとーー」
何か言いかけたテン。しかしその先が続くことはなく、代わりとして感じ取ったものに背中が大きく振り返る。同時にレムもそれに気付くような反応を見せた。
遥か遠く。テンが感じ取ったものは背中に突き刺す人ならざる者の気配。幾度となく刺されてきた意志のない歪が心を戦慄させる。
レムが感じ取った——否、嗅ぎつけたのはその存在が察する刺激臭。騒動の初めに森から漂ってきた最悪の気配が、かなり遠くから空気を渡ってきた。
それは二人の動揺にラムもまた察する。一度は退けた連中が再び自分達の下へと向かってきているのだと。
三人がほぼ同時に気付いた存在、考えるまでもなく魔女教徒。何度となく襲いくる殺戮集団が自分達を追尾して森から決して逃さないことを理解した反応は迅速だった。
「気張れよ、ラム」
レムと話していた空気をぶち壊す魔女教徒の再来に、二人が無理のない程度に走ることをやめ、地を蹴り上げて駆け出す。追いつかれぬように、追いつかれても出来るだけ地獄の境界線に近い場所で。そうすればハヤトに辿り着く。
死体を蹴り飛ばし、血溜まりを踏み締め、木々を避け、ひたすら前に突き進む。後ろから追いかけてくる集団から少しでも離れられるように、ハヤトと合流して一緒に戦うために。
しかし既に満身創痍の身体だ。肉体的な損傷はなくともラムの内側は少し全力で走っただけでもふらついてしまう程に壊れている。
故に、不意に訪れる目眩の影響で彼女がよろけてテンの肩にぶつかるのにそう時間はかからない。心は前に前にと思うのに、ついさっき彼に「走れる」と言ったのに。体は休ませろと悲鳴を上げて。
「走れそう? また俺が担ごうか?」
「いい。自分の足で走れる」
無理だった。
走る足がどんどん遅くなって、次第に早足になって、失速するそれは歩きになって、最後には息絶えるように止まる。強がりを見せる言葉とは裏腹に体は正直だった。
流石に全力疾走は無理があったか。呼吸が途切れ途切れになる彼女は既にボロボロだ。走れると言ったのも嘘ではないだろうが、決して速く走れるわけではなかった。
止まり、ラムのことをテンは見る。振り返り、気配の漂う方向を睨む。手前に意識をやれば、不安そうに瞳を揺らすレムを見た。最後に、ラム以上にボロボロの自分を見た。
「ーーうん」
そこで、テンのやることは決まった。整った自分が覚悟するのに時間はかからず、すんなりと受け入れられた。
もしかしたら、魔女教徒から逃げた時点で、レムとラムを命懸けで守ると覚悟した時点で、それは決まっていたのかもしれない。
レムには怒られるかも、ラムにも怒られるかも。二人にとってあまりよろしくない選択かもしれない。ひょっとしたらハヤトにもエミリアにも怒られるかも。
でもそれが、
「ラム。レムを背負うことってできる? 欲を言えば背負った状態で遅くてもいいから走れる?」
今の自分が取れる、最後の選択肢だ。